メッセージ - 201311のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
必ず勝利する主の戦い、主のビジネス(民数記31章):右クリックで保存
祈り会音声:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
地の塩、世の光(マタイ5:13-16):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
7つの鉢の災い(黙示録16:1-11):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:やらねば損な主の戦い、やらねば損な主のビジネス(民数記31:25-54):右クリックで保存

『主はモーセに言われた、「あなたと祭司エレアザルおよび会衆の氏族のかしらたちは、その生けどった人と家畜の獲物の総数を調べ、その獲物を戦いに出た勇士と、全会衆とに折半しなさい。』(民数記31:25)
主は、戦いで勝ち得たものを数えなさい、と言われた。
それは、イスラエルの民を勇気づけ、主に命じられた戦いに恐れずに出て行くなら、必ず大きな報いがある事を、知らしめるためである。

勝ち得たものの総数は、羊が六十七万五千、牛が七万二千、ろばが六万一千、男と寝た事の無い女が三万二千であった。(民数記31:32-35)
イスラエルの側は、一万二千で戦いに出たのに、これだけの分捕りをしたのだから、すさまじい戦果である。
偶像礼拝が盛んな国では、女の子が10代になる前に性行為を持つのは普通である。ミデヤンから連れてきた、男を知らない女の数が三万二千人、という事は、イスラエル人が戦った相手、戦闘できる成人男性の数は、その2,3倍、6〜9万はいたと推測できるだろう。
それだけを相手にして圧勝し、一人あたま羊だけで50頭以上を持ち帰る程の、膨大な分捕りを携えて来たわけである。

生けどった人と家畜の獲物は、まず、戦闘に出た戦士と、戦闘に出なかったイスラエルの会衆とで、折半された。
以下が、戦闘に出た兵士一万二千の受け取った分である。
『戦いに出た者の分は羊三十三万七千五百、主にみつぎとした羊は六百七十五。牛は三万六千、そのうちから主にみつぎとしたものは七十二。ろばは三万五百、そのうちから主にみつぎとしたものは六十一。人は一万六千、そのうちから主にみつぎとしたものは三十二人であった。』(民数記31:36)

これから主へのみつぎ分を差し引いて、それを一万二千で割ると、一人あたま受け取った数は、羊は約28頭、牛は約3頭、ろばは2〜3頭、人は1〜2人。
この他にも、彼らは金銀や木、革製品などの分捕りを自分のものと出来たのだから、戦闘に出た人は、一気に物持ちになった事が分かる。

いくさに出なかった人(59万ほど)の受け取った数も計算すると、一人頭が受け取る数は、羊は0.55頭、牛三万六千、牛は0.06頭、ろばは0.05頭、人は0.03人である。
いくさに出なかった人にも、確かに配分はあったのだが、それはほんのわずかで、羊は二人に一人もらえるかどうか、牛やろばや人に至っては、20人に一人がもらえるかどうかである。

以上の結果を聞くだけでも、戦いに出たほうが断然得だったと分かるが、さらに、次の事を聞くと「是非とも次は自分を戦いに参加下さい!」と言うようになるだろう。

『時に軍勢の将であったものども、すなわち千人の長たちと百人の長たちとがモーセのところにきて、モーセに言った、「しもべらは、指揮下のいくさびとを数えましたが、われわれのうち、ひとりも欠けた者はありませんでした。それで、われわれは、おのおの手に入れた金の飾り物、すなわち腕飾り、腕輪、指輪、耳輪、首飾りなどを主に携えてきて供え物とし、主の前にわれわれの命のあがないをしようと思います」。』(民数記31:48-50)

なんと、何倍も多い敵と戦ったのに、一人も戦死者がいなかったのだ!
これはもう、主の御技としか思えない。だから百人の長、千人の長は主をおそれ、兵士たちのいのちのあがない金として、金を捧げたのだ。
そして残りの金銀や木製品、革製品などは、彼ら兵士のものとなったのだ。

こうなる事が最初から分かっていたなら、我も我もと、出て行っていただろう。
いや、こうなる、のである!
主は、昔も今も、同じである。
皆さんも、主を信頼して戦い出るなら、彼らと同じ分捕りが出来るのだ。

主が「行け」と言われる戦いに、敗北は無い。
主が「これを用いて商売せよ」と言われる商売に、損失は無い。
実際、タラントのたとえ(マタイ25章)でも、ミナのたとえ(ルカ19章)でも、損失を出した人は、一人もいなかった。

そのたとえの中で、持っているものを取り上げられ追い出された人は、主人を「預けなかったものをも取り立て、蒔かなかったものを刈り取る方だ」と邪推し、何の運用もしなかった者だ。
銀行に預けてさえいれば、利息はもらえたのだ。
イスラエルの民も、戦いに出ずとも、イスラエルの会衆の中にいれば、わずかながらの分配にあずかったのだ。

主の戦いに敗北は無く、主の商売に損失は無い。
最もよくないのは、主を邪推し、主から与えられたものを地に埋めて何もしない者である。
だから、大いに勇気を出し、神の戦いには強く雄々しく出て行って勝利し、神のビジネスには大いに出て行って利益を出し、主から「よくやった、忠実な良いしもべよ」と喜ばれ、さらに多くを任される皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神の会衆に入れる者とは(民数記31:13-24):右クリックで保存

『ときにモーセと祭司エレアザルと会衆のつかさたちはみな宿営の外に出て迎えたが、モーセは軍勢の将たち、すなわち戦場から帰ってきた千人の長たちと、百人の長たちに対して怒った。』(民数記31:13-14)
今回の圧倒的勝利の戦績からすれば、むしろ褒められて然るべきの所だが、モーセは、彼らの「ある事」を怒った。
それは、彼らが女たちを生かしておき、分捕りものとしてイスラエルの陣営に持ち込もうとした事である。

そもそも、この戦いでいともたやすく勝利できたのは、主がそのようにして下さったからである。
しかし、その主を怒らせる要因となるようなものを、彼らは持ち込もうとしたのだ。

『モーセは彼らに言った、「あなたがたは女たちをみな生かしておいたのか。彼らはバラムのはかりごとによって、イスラエルの人々に、ペオルのことで主に罪を犯させ、ついに主の会衆のうちに疫病を起すに至った。それで今、この子供たちのうちの男の子をみな殺し、また男と寝て、男を知った女をみな殺しなさい。ただし、まだ男と寝ず、男を知らない娘はすべてあなたがたのために生かしておきなさい。』(民数記31:15-17)

イスラエルを誘惑して堕落させ、疫病を起こらせたのは、この女達であった。(民数記25章)
モーセは、そのような誘惑の元になりそうなものは、持ち込んではならないと命じているが、私達も、誘惑の元になりそうなものを、家の中、持ち物の中、あるいはコンピューターの中に取り込まないよう、気をつけるべきであり、既に取り込んでしまっているものは、速やかに抹消すべきである。それは、私達が主との関係を正しく保つためである。

今回のこのモーセの指示は、どのようなものが神の会衆に入る事が出来るか、また、どのようなものは入れないかを表している。

まず、いかに神の民といえども、戦争などで人を殺した人や、殺された人に触れた人は、所定の清めを経なければ宿営に入れない。(民数記31:19)
私達キリスト者も同じように、世に出て戦い、汚れを受けてしまった場合は、主の血潮によって清めていただいてから交わりに加わったほうが良い。
それは、世の汚れを会衆の中に持ち込まないためである。

ミデヤン人の中で、神の会衆に入る事が出来たのは「男を知らない娘」だけであった。(17節)
この事は、次のような霊的示唆を示している。

すなわち、主の御前に「男の性質」を持つ者、つまり自律的に主を離れ、自分が主人となる「男の性質」を持つ者は、いかに幼くても、神の会衆には入れない。
また、男知った事のある女、すなわち、神の以外の者と、既に結合してしまっている女も、そうである。なぜなら、世と一体化している女は、神の会衆を世の価値観へと引きずり込んでしまうからだ。
実際、イスラエルの会衆は、そのような女たちに惑わされたために、あのコズビの事件へと発展してしまったのだ。

神の会衆に入れる者とは、神から離れて自立する「男の性質」を持つ者ではなく、また、女であっても既に世の価値観と一体化している者でもない。
何にも染まらず、純粋に主をのみを主人とできる人のみが、神の会衆に入れるのである。
「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」(マルコ10:14-15)

また、金銀や青銅、鉄など、火に耐える物は全て火の中を通さなければならず、また、衣服や毛皮、木の器など、火に耐えないものは水の中を通さなければならない。(民数記30:20-23)
私達キリスト者も、水のバプテスマ、あるいは、聖霊と火のバプテスマを通って、神の会衆に入って来た。(バプテスマは「浸し込み」という意味)
水のバプテスマは、罪に対して死ぬために、「死」に浸しこまれるものであり、聖霊(火)への「浸し込み」がなされると、力を受け、力強きイエスキリストの復活の証人となる。(使徒1:8)

そういうわけで、神の会衆に入って主の御前に出られる人とは、何にも染まらぬ女の性質を持つ人であり、きよめの水を通り、あるいは聖霊の火への浸し込みが為された人である。

礼拝説教メッセージ音声:主が命じられた戦い(民数記31:1-12):右クリックで保存

『さて主はモーセに言われた、「ミデアンびとにイスラエルの人々のあだを報いなさい。その後、あなたはあなたの民に加えられるであろう」。モーセは民に言った、「あなたがたのうちから人を選んで戦いのために武装させ、ミデアンびとを攻めて、主のためミデアンびとに復讐しなさい。すなわちイスラエルのすべての部族から、部族ごとに千人ずつを戦いに送り出さなければならない」。』(民数記31:1-4)

主は、モーセの生涯最後の働きとして、ミデヤン人への復讐を命じられた。
ミデヤン人はイスラエルを誘惑し堕落させ、イスラエルはその主への背きのゆえに二万四千人が倒れたからだ。

『そこでイスラエルの部族のうちから部族ごとに千人ずつを選び、一万二千人を得て、戦いのために武装させた。モーセは各部族から千人ずつを戦いにつかわし、また祭司エレアザルの子ピネハスに、聖なる器と吹き鳴らすラッパとを執らせて、共に戦いにつかわした。彼らは主がモーセに命じられたようにミデアンびとと戦って、その男子をみな殺した。』(民数記31:5-7)

モーセは、戦いに出て陣頭指揮をしたのではなく、イスラエルが今後カナンと戦う際に気をつけるべき重要な事柄のアドバイスをするのみで、実働は全て、新しい世代に託している。
実際の戦闘には、12部族から各千人ずつが召集され、祭司ピネハスが、ラッパを吹き鳴らす祭司として、そして執り成し手として、参加している。
祭司が吹き鳴らすラッパは、戦闘の合図であり、神の救いを宣言する音でもある。(民数記10:9)
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1587 )

この戦いは、実にあっけなく勝利したかのように記されているが、その内訳を見ると、実に奇跡の連続であり、まさに神の救いが為されたものだった。
分捕った分量からすれば、敵軍は自軍の少なくとも三倍以上はいたはずなのに、なんと戦死者は一人もおらず、おびただしい量の戦利品を持ち帰るだけで、かなり大変だったのでは、と思えるほどである。

主は確かに戦いに勝利させて下さるが、勘違いしてはならない。
神の民は、何でもかんでも戦争して勝利して祝福される、というものではない。
歴史を見ると、「キリスト教徒」が欲深く身勝手な動機で戦いを仕掛けて、平和の神の御名を汚す事例が、実にたくさんある。

神の名を振りかざし、正規の戦いだ、とは言ってみても、実のところは相手が憎いからとか、相手国の資源を奪いたいからとか、聖なる御心からかけ離れた動機で戦争し、むしろ、サタンに用いられている事が多い。
主は、愛なる神であり、平和の神であり、悪人が滅びるのは望んでおられない。
そんな主が戦いを命じられる場合には、必ず御心があり、それを外した身勝手な戦いは、してはならないのだ。

神の命じられる戦いは、世の中で行われる戦争とは、全くタイプが違う。
世の戦争は、分捕りたいからとか、憎いからとか、スカッとしたいとか、必ず人間の汚れた欲望が絡んでいるが、主が戦いを命じられるのは、神の民をスカッとさせるためでも、他を殺して自分だけ富ませるためでもない。悪い国々を滅ぼすためである。(申命記9:3-6)

どのような者が滅ぼされるべきか。それは、人をつまづきへと導く者である。
主は、人を堕落へと誘うような者に対しては、厳しい。
この度、ミデヤン人に復讐するよう主が命じられたのは、彼らは巧妙にたくらんだたくらみで誘惑し、多くのイスラエルの民を堕落へと導いたからだ。(民数記25:17-18)

新約でも、主は言っている。
『わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。』(マルコ9:42)
もし手が、足が、目が、つまずきの元となるのなら、それを切って捨ててしまいなさい、体全部がゲヘナに投げ入れられるよりは、そのほう良い、と言っている。
それ程に、私達の内からつまづきの元を、気をつけて取り除かなくてはならないのだ。
サタンはなぜ決して赦されないのか。
それは、神の似姿である人間全体をつまづかせ、堕落へと導き、死をもたらしたからだ。

『その殺した者のほかにまたミデアンの王五人を殺した。その名はエビ、レケム、ツル、フル、レバである。またベオルの子バラムをも、つるぎにかけて殺した。』(民数記31:8)
バラムは、バラクから報酬を受け取らずにそのまま去ったのではなく、不義の報酬を愛し、イスラエルをつまづかせ、不品行へと導き、災いをもたらしたのだ。
それで彼は、ミデヤン人の中をうろうろしていている内に、戦いに巻き込まれ、死んでしまった。
(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1669 )

いかにイスラエルの遠い未来を予言したとしても、不義の報酬に目がくらんでしまうと、滅びに向かっている自分自身の将来すら、見えなくなってしまうのである。
『富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陷るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。』(1テモテ6:9)

礼拝説教メッセージ音声:女性が誓う場合(民数記30:3-16):右クリックで保存

男性が「誓う」場合の指示は、わずか2節で終わったが、女性が誓う場合は、3節から15節にかけて詳細に記している。

『またもし女がまだ若く、父の家にいて、主に誓願をかけ、またはその身に物断ちをしようとする時、父が彼女の誓願、または彼女の身に断った物断ちのことを聞いて、彼女に何も言わないならば、彼女はすべて誓願を行い、またその身に断った物断ちをすべて守らなければならない。しかし、彼女の父がそれを聞いた日に、それを承認しない時は、彼女はその誓願、またはその身に断った物断ちをすべてやめることができる。父が承認しないのであるから、主は彼女をゆるされるであろう。』(民数記30:3-5)
未婚の女性が誓う場合は、父親の承認が必要であり、結婚した女性の場合は、夫の承認が必要である。(6-15節)
『もし夫が彼女に何も言わずに日を送るならば、彼は妻がした誓願、または物断ちをすべて認めたのである。彼はそれを聞いた日に妻に何も言わなかったのだから、それを認めたのである。しかし、もし夫がそれを聞き、あとになって、それを認めないならば、彼は妻の罪を負わなければならない」。』(民数記30:14-15)
また、やもめとなった女性や、離縁された女性の誓願や物断ちは、彼女自身が責任をもたなければならない。(9節)

基本的に、女性は男性の保護下にあり、男性は保護している女性について責任を負っている。
それは、創世の当初より、女性は男性の助け手として創られており、男性の栄光をあらわす器として(1コリント11:7)、男性の保護下に囲われるよう創られているからである。
『妻(女)たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。』(エペソ5:22-24)

例えば、真珠は宝石箱の中に囲われ、守られ、時に取り出されては、その美しさを賞賛され、繊細さを愛でられるものだが、もし、真珠が自立して足が生え、箱から抜け出して何かしでかそうとするなら、たちまち傷を受けて不幸になってしまう。
そのように、女性は、男性の保護の囲いの内に守られ、愛でられる状態が、一番、創造の理に適った事である。

そして男性は、女性を愛し(アガペー:全てを尽くして愛し)、守り、自分のからだとして愛し、家の主として、家全体を神である主に忠実に仕える責任を負っている。
『夫(男)たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。それと同じく、夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。』(エペソ5:25-28)

エバは蛇にそそのかされ、自立的に神の命令を破り、しかも、夫アダムの助け手としての領分を超えて、夫を堕落へと引き込んだ。
アダムも、神の命令より妻の言う事を聞き入れ、その結果、全人類に死が入り、被造物全体は呪われてしまった。
エバが先に失敗したのに、聖書はいつも「アダムが失敗した」と言っているのは、男性は、保護下にある女性の責任をも負っているからである。
それで女性は、男性を頭として歩むべきなのである。

私達が神から創られた分に応じ、与えられた役割の範疇内に留まって物事を為すなら、全ての事は秩序正しく、創世のはじめのような調和と美しさが保たれるが、もし、主から創造された分を超えて何かを仕出かすなら、無秩序と破壊をもたらし、不幸を招く事となる。
与えられた分、与えられた責任に応じ、それぞれの場で、それぞれの役割をしっかりと果たし、主の栄光を表していく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

栄光の家系の女達 – ウリヤの妻 5 御心にかなった王朝の確立(1列王記1−2章)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

元々ウリヤの妻だったバテ・シェバは、後に、ダビデ王家の後継者争いに巻き込まれる事になる。
主は、ダビデの次に王となるのはソロモンであると示され、ダビデはその事を公にしていた。(1歴代22章)
しかし、その御心を何とも思わず、王となろうと野心を起こした王子がいた。4男アドニヤである。
彼は自分が王になろうと言い出し、自分につく者達を招いて宴会を催し、王として既成事実を作ろうとした。
『彼の父は彼が生れてこのかた一度も「なぜ、そのような事をするのか」と言って彼をたしなめたことがなかった。アドニヤもまた非常に姿の良い人であって、アブサロムの次に生れた者である。』(1列王記1:6)
親に戒められずに育った子は、恐れを知らず勢いがあり、その上美しい人なら、人は追従するものだ。
私達も、主の御心が既に示されているのに、実際的な動きが全く無さそうな時に、美しく行動力のある者が現れ、御心に反してはいるけれども具体的な行動を取られると、それに迎合したくなる所がある。
王の家来の中に、彼に組する者はいたが、それでも組しない者もいた。王はソロモンであると主が定められた事を覚えていて、それを重んじていた人は彼にくみせず、それを軽んじた人は、彼にくみした。
サタンが私達から奪うやり口も全く一緒で、偽りの所有権を主張して既成事実を作り、人がその勢い飲まれたり無抵抗でいたりすると、さらに調子に乗って、もっと侵入して来る。
偽りの所有権に対しては、速やかに「真理」をつきつけて、必ず、対処しなくてはならない。
偽りの侵入をひと度許してしまうと、もっと調子に乗って来るので、追い出すのがより困難になるからだ。

預言者ナタンはその点、行動が早かった。バテ・シェバの所に行き、ダビデ王に真理を訴えるよう助言する。
王は、バテ・シェバと預言者ナタンの報告と勧めを聞き、動いた。王公認でソロモンを王として立てたのだ。
アドニヤはそれを聞いて震え上がり、祭壇の角をつかんだ。祭壇の角は、赦しのためのいけにえの血が塗られる所で(レビ4:7)、つまりアドニヤは赦しを重んじるやさしい聖徒たちの良心に訴えようとしたのである。
彼が本当に神を恐れる者であったら、自分が王になろうなどという御心に反した行動は起さなかっただろう。
アドニヤはこのように、主と、聖徒のやさしさとを良いように利用したが、主は侮られるようなお方ではない。
ソロモンはこの時、アドニヤを放免した。こうして血を流すこと無く、後継者問題は解決したかのように見えたが、アドニヤは諦めない。悪しき者とは、どうしても自分を滅びへ導くための行動をしたがるようである。

ダビデ王が死んだ後、アドニヤは、今度はソロモンの母、バテ・シェバにターゲットを絞って来た。
母バテ・シェバの願う事なら、断らないだろう、と、踏んだのである。
「ご存知のように、国はわたしのもので、イスラエルの人は皆わたしが王になるものと期待していました。しかし国は転じて、私の兄弟のものとなりました。彼のものとなったのは、主から出たことです。」(1列王2:15)
彼は、ソロモンが王になったのは主から出たと告白している。なのに、自分の野心の方を通そうとしたのだ。
「どうかソロモン王に請うて、シュナミびとアビシャグをわたしに与えて妻にさせてください。」(1列王2:17)
アビシャグを自分の妻としたい、という願いは、巧妙な罠である。父ダビデの妻(あるいは妾)であった彼女を自分の妻とするなら、自分こそダビデの王位を継ぐに相応しいと、いつ名乗りをあげないとも限らない。
バテ・シェバは、よく分からないで了解し、そのまま正直にソロモンに伝えに行った。彼女は王家で育った訳でないから、そういう事に疎いし、あるいは、アドニヤの勢いに押されたのかもしれない。彼は、ソロモンの実母バテ・シェバの頼みなら聞くだろう、そして彼女をだますのは、たやすい事だ、と思っていたのだろう。
悪しき者が、女を先に欺くのは、エデンの園から用いられてきた、人を堕落させる古典的な方法である。
しかし主は、その企みをソロモンに見抜かせて下さり、アドニヤはそれが元で殺される事になった。

アドニヤが野心を抱いて行動した事がきっかけとなって、ソロモンの即位が実体となっただけでなく、新王朝で反乱しそうな者達をも、早期に燻り出す結果となり、こうして、ソロモン王朝が確立した。
私達も、油断している時に、悪しき者が入り込んで来る時がある。その時、その者に飲まれたり、無抵抗でいたりしてはならず、早急に真理を突きつけ、御言葉の剣を突きつけて、対処しなくてはならない。
知恵と真理をもって、悪しき者に対するなら、かえってその事は益となり、滞っていた物事は進み、いのちの前進があるのである。

礼拝説教メッセージ音声:「誓い」について(民数記30:1-2):右クリックで保存

民数記30章で、主は「誓い」について指示を与えている。
『モーセはイスラエルの人々の部族のかしらたちに言った、「これは主が命じられた事である。もし人が主に誓願をかけ、またはその身に物断ちをしようと誓いをするならば、その言葉を破ってはならない。口で言ったとおりにすべて行わなければならない。』(民数記30:1-2)

聖書には、結構多く「誓い」をする場面がある。
信仰の偉人・アブラハムは、ソドムの王に「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。」(創世記14:22-23)と言って堕落と不品行の富を受ける事を拒否し、天と地を造られた主が自分を富ませて下さる事を大胆に告白した。
また、年を重ねた時、家の最年長のしもべに「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」(創世記24:2-4)
と言って、見事、立派な信仰の妻リベカをイサクの元にむかえさせた。
他にも、ヤコブやヨセフ、モーセ、遊女ラハブなど、それ以外にも多くの信仰の偉人達が立派に誓いを果たし、その信仰をひときわ輝かせた箇所が聖書にある。

しかしその逆に、軽率な誓いをして、誓いを破り、かえって恥ずかしい思いをした例も、多くある。
ペテロが「イエスという者なぞ知らない」と、呪いをかけて誓ったのは、その好例だろう。
エフタは軽率な誓いをして、娘と自分自身を苦しめ(士師11章)、サウル王は、彼自身の軽率な誓いの故に、多くの人を苦しめた。(1サムエル14章)
信仰のしっかりした人が立てた誓いは、豊かな実りと栄光をもたらすが、軽率に立てる誓いは、その人自身と周りの人々に災いと恥を招くものだ。

誓いは、そもそも、すべての反対を封じる保証とするために、自分より上のものをさして誓うものである。(ヘブル6:16)
だから、人が何かをさして誓い、そしてそれを破る時、その人は、「さした」ものを冒涜する事になる。
それでイエス様は、人は天をさしても、地をさしても、自分の頭をさしても、決して誓ってはならない、と、言われた。(マタイ5:33-37)
天は神の御座であり、地は神の足台であり、そして、自分自身の体でさえ、実は自分のものではなく、主のものであるからだ。
人は、自分の体は自分自身のものだから、好き放題にして良い、と思ってはいても、髪の毛さえ白くも黒くもできず、主が定められた寿命を、一日も先延ばしにする事さえできないのだ。

主は真実であるが、それに対し、人間は不真実である。
『義人はいない、ひとりもいない。悟りのある人はいない、/神を求める人はいない。すべての人は迷い出て、/ことごとく無益なものになっている。善を行う者はいない、/ひとりもいない。彼らののどは、開いた墓であり、/彼らは、その舌で人を欺き、/彼らのくちびるには、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。』(ローマ3:10-14)
人間誰しも欺きがあるゆえに、「誓い」という言葉がどの言語にも存在するわけだが、真実である主は、そもそも誓う必要は無い。
それなのに、「信じて受け止める」事さえままならない不真実な人間を、安心させるために、主は、わざわざ誓いを立てられた。

『神がアブラハムに対して約束されたとき、さして誓うのに、ご自分よりも上のものがないので、ご自分をさして誓って、「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」と言われた。このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのである。
いったい、人間は自分より上のものをさして誓うのであり、そして、その誓いはすべての反対論を封じる保証となるのである。そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。
それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。』(ヘブル6:13-19)

主こそ真実である。
いかに何億人もの人間が、不真実を犯したとしても、それによって主の真実が邪魔される事など、絶対にあり得ない。(ローマ3:3-5)
全ての人を偽り者としても、主こそ真実とすべきであり、主のさばきを正しいとするべきである。

そして今や、イエス・キリストを信じる信仰による神の義が、明らかにされた。
『それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。』(ローマ3:22-26)

私達はイエス・キリストを信じる信仰によって、不真実な私達であっても、神の前に真実とされるのである。

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誇るべきもの(2コリント11:16-30):右クリックで保存

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