メッセージ - 201310のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:モーセとアロンの致命的な失敗(民数記20:1-13):右クリックで保存
(音声データは後程アップします)

今回の箇所には、出エジプトの偉大な功労者である、あのモーセとアロンが、約束の地に入れなくなってしまうという、決定的な出来事が記されている。
この章の後半には、アロンの死が記されているが、民数記33:38によると、アロンが死んだ日は、イスラエル人がエジプトを出て四十年目の第五月の一日、とあるので、民数記の19章と20章の間には、三十八年もの隔たりが存在している事になる。

民はこの時も、水が無いと言って、モーセと争っている。(3-5節)
モーセとアロンは、またいつものように、主の御前に行ってひれ伏し、御心を伺った。
『主はモーセに言われた、「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。』(民数記20:7-9)

四十年ほど前、彼らがエジプトを出たばかりの時も、民は「水が無い」と言って争った事があった。(出エジプト記17章)
それから四十年、荒野の岩砂漠地帯を旅して来たというのに、「水がない」というクレームが上がった事が無く、むしろ、肉が無いとか、モーセが気に食わないとか、生存の危機からは遠いようなクレームばかりしか上がってこなかった、という事は、彼らは四十年、水には事欠かなかった、という事だろう。

今回の主の命令は、四十年前のあの時の命令とは、違う。
以前は「ナイル川を打った杖」で岩を「打った」が、今回は、主の前にある杖、すなわち、あの芽を出した「アロンの杖」を取って、岩に「命じなさい(語りなさい)」と言われている。それをするなら、岩から水が豊かに流れ出てくる、と言うのだ。

『モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。』(民数記20:10)
この言葉からは、モーセの、かなりの怒りが読み取れる。
あの謙遜なモーセが「そむく人たちよ、聞け」と、威圧的で支配的な言葉を使っており、われわれがあなたがたに何々してやらなければならないのか、という、投げやりな口調である。

『モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。
そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。』(民数記20:11-12)

モーセとアロンは、40年ほど前と同じように、岩を二度、打った。
しかし、それで、モーセとアロンは約束の地に入れない事が確定してしまったのだ。
なぜ? と、我々は思う。
この二人が今まで為してきた功績、耐え忍んで来た苦労を思い量るに、真っ先に約束の地に入れてあげたい気もするのだが。

しかし、いかに功績が大きくても、パラシュート無しに飛行機から飛び降りれば、地面に無残に叩きつけられてしまうのと同じように、いかに功績の大きいモーセとアロンと言えども、法則に即しないのであれば、約束の地に入れないのだ、という、主の法則の峻厳さを学ばなければならない。
一体、この事の何がいけなかったのだろうか。
聖書を読み解くには、聖書の他の箇所から、である。

『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。』(1コリント10:1)
なんと、荒野で四十年、イスラエルの民に豊かな水を提供する「岩」が、彼らについて来ていたのだ。そしてその岩は、キリストに他ならない。
モーセ自身も、荒野でひとりの御使いがついてきて、民を導いて来た事を意識している。(民数記20:16)

この度、主は、エジプトを打った懲らしめの杖を用いるのではなく、いのちを芽吹いた大祭司アロンの杖を手に取って、「岩に向かって命じなさい(原意:語りかけなさい)」と言われている。
語りかける、という行為は、人格を持った相手に為す事である。
モーセは今回、主に命じられた御言葉を信じ、岩なるキリストに、尊敬と信頼をもって「語りかけ」るべきだったのだ。
しかしモーセは御言葉を無視し、何十年前に行ったあのパフォーマンス、岩を打って水を出させたあの奇跡を起こすために、二度、岩を打ってしまった。
「打つ」というヘブル語「ナーカー」は、他にも「罰する」「殺す」という意味もある強い言葉である。
つまりモーセは、今回、キリストに信仰を持って告白するのではなく、怒りに身を任せ、キリストを二度「打って(罰して、殺して)」しまったのだ。

キリストは、ただ一度、十字架上で打たれ、その傷からは、水と血が流れ出てきた。
それによって私達は救われ、いのちを得た。
モーセは、かつて40年前、奴隷の国エジプトから脱出したばかりの時、主の命令により、岩を打って水を流し出したが、キリストが打たれるのはただ一度、人が罪の奴隷から開放する時だけで、十分である。

モーセはそのような間違いを犯したが、これは、牧師や教職者も陥りやすい過ちである。
民は時に、生きるために必要な水が無いが故に、語気荒くつぶやいてしまうような時も、あるだろう。
しかし、そのような時、牧師や教職者は「またか」と言って、怒りに身を任せて、御言葉に反する事をしてはならない。

民数記20:10-11を、現代風に言葉を置き換えると、次のようになる。
『牧師と教職者は、会衆をキリストの前に集めて、彼らに言った。「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのために、このキリストから水を出さなければならないのであろうか。」牧師は手をあげ、杖でキリストを二度「打つ(罰する、殺す)」と、水がたくさんわき出たので、会衆はともに飲んだ。』

こう読み替えると、とてもひどい事をしている事が分かり、そして同時に、教職者が陥りやすい罠でもある事が分かる。
教職者は、怒りにまかせて御言葉を無視してはならない。また、何年も前に成功したあのパフォーマンスを、何度も繰り返そうとしてはならない。

キリストはただ一度、罪を処罰するために打たれた。
私達は、キリストをもう一度罰するようなまねは、してはならない。
信仰をもって、岩なる主キリストに「語る」なら、キリストはその通りにて下さり、そして生ける水を、川々として流し出して下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:人間の死体の汚れ(民数記19:11-22):右クリックで保存

『すべて人の死体に触れる者は、七日のあいだ汚れる。』(民数記19:11)
レビ記11章によると、どんなに汚れた動物や忌むべき動物の死体に触れたとしても、身を洗い清めたなら、夕方には清くなるというのに、なんと、人間の死体に限っては、触れれば七日も汚れるというのだ。
もし、衛生概念的な理由だけから考えるなら、七日という日数は、ちょっとやりすぎの感がある。
しかし、主がそう定められた以上、それが真理である。
つまりそれだけ、人間という生き物は、汚れているという事だ。
コラは、イスラエルの会衆残らず聖なるものだと主張したが、とんでもないのだ。

死体はなぜ汚れるのか。
それは、死は、人の「罪」が結んだ実の、最終形態だからである。(ヤコブ1:15)
人間の腐乱死体の臭いは、どの動物の腐乱死体よりもひどい臭いだと、聞いた事がある。
それはきっと、人が生きている時に、罪を飲み食いしたためであろう。

元々、被造物は何の罪も犯してはいなかった。しかし、人間が「罪」を犯したが故に、全被造物が呪いを受けてしまった。
人の罪の故に、土地は呪われ、いばらとあざみを生えさせるようになり(創世記3章)、全被造物は深いうめきの内に入り、神の子達のあらわれを切実に待ち望んでいる。(ローマ8:19)
イスラエルの民が、動物の死体を運んだり、人の死体を運んだりした時、汚れからのきよめの期間を過ごす度に、人間の罪汚れの深さを、思い知った事だろう。

『その人は三日目と七日目とに、この灰の水をもって身を清めなければならない。そうすれば清くなるであろう。しかし、もし三日目と七日目とに、身を清めないならば、清くならないであろう。』(民数記19:12)
三日目と七日目とに、という所が興味深い。

三日は、復活までの期間である。
イエス様が復活されたのは三日目であるし、ホセア書にも「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。」と書かれてある。(ホセア6:1-2)
また、七は完成の数字、安息の数字である。
主は、六日の間に創造のみわざを完成し、七日目に休まれ安息された故に、主は第七の日を聖とされた。(創世記2:1-3)

私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、既に罪に対して死んでおり、全く新しいキリストの復活のいのちが息吹かれた。
つまり私達は、キリストにあって、三日目の復活を経たのだ。
しかし、罪のとげが刺さっている肉体をまとっている以上、罪を犯さざるをえないこの体にうめきつつ、完全に贖われる日、すなわち、第七の日を待ち望んでおり、私達は、この望みによって救われているのだ。(ローマ8:19-24)

『しかし、汚れて身を清めない人は主の聖所を汚す者で、その人は会衆のうちから断たれなければならない。汚れを清める水がその身に注ぎかけられないゆえ、その人は汚れているからである。これは彼らの永久に守るべき定めとしなければならない。すなわち汚れを清める水をふりかけた者は衣服を洗わなければならない。また汚れを清める水に触れた者も夕まで汚れるであろう。』(民数記19:20)
その身を汚しておいて、ことさら、清めに与ろうとしない人は、神の民から断たれなければならないと、主は命じている。
その人は、主の聖所を汚す者であるから、というのがその理由だ。

キリスト者の中にも、罪の汚れに身を投じておきながら、自らを清めようともせずに、平気でいる人がいるが、それは、主の会衆を汚し、教会を汚しても平気な人である。
主はそのような人を、忌み嫌われる。
私達は、罪の汚れを受けたなら、率先して清めに与ろうとしなくてはならない。

栄光の家系の女達 - ルツ5 買い戻して下さる方(ルツ記4章)
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ルツやナオミの家を買い取る人が、ボアズとなるかどうかは、第三者の判断次第となり、この問題は一旦、ルツやナオミの手を離れて、全能なる主の采配に委ねるしかなくなった。
ナオミはルツに、この事がどうなるか分かるまで、落ち着いて信頼するように言い、さらに、「あの人は、きょう、その事を決定しなければ落ち着かないでしょう」(ルツ3:18) とも言った。
あの人は、きょう、その事を決定する・・・。彼女達は確かにこの問題をどうする事も出来ない。しかし「あの人」が、この問題の解決のために、動いて手続きしてくれる。
私達も、ルツのように、信仰の先輩に言われた通りに主イエス様の元に行き、自分が主のはしためである事を告白し、主の救いの衣の内に入らせて下さいと願うなら、主はそれを喜んで下さり、私達が納まるべき所へと納まるまで、全ての算段を整えて働いて下さるのだ。

ボアズは早速、正式に手続きするために、その親類の人と、さらに町の長老10人を呼び寄せた。
かの親類は、畑の買い戻しは自分がする、とは言ったものの、ルツと結婚しなくてはならない事も聞くと、それは出来ないと拒んだ。そもそも、買戻しの話は、買戻す側にとって、デメリットしか無いような話である。
ヨベルの年までの年数に従ったレートでその畑を買い戻すのだが、その畑は、自分のものとはならない。
生まれてくる最初の男の子に、死んでしまった親類の名を継がせ、その畑は、その子のものとなるのだ。
『そこで親戚の人がボアズにむかい「あなたが自分であがないなさい」と言って、そのくつを脱いだ』(7節)
主は、アブラハムやヨシュアに「あなたの足の裏で踏む所は、ことごとく与えた」と言ったが、靴を脱いで相手に渡す事は、その土地を踏み歩く権利を、相手に渡した事を象徴するものであり、イスラエルにおいては、買戻しの権利を譲渡する事の、正式な証明方法である。
だから、妻とすべき女性をめとる事を嫌がって「くつを脱がされた者の家」(申命記25:10)と烙印を押される事は、イスラエルの土地を踏み歩く権利を脱がされた者として、かなりの恥辱となる。
実際ルツ記は、オルパという脇役女性の名さえ記されているのに、この親類の名は、一切記されていない。
栄光の家系を受け継ぐ人とは、物質的・肉的な相続を優先させる者ではなく、信仰によって身寄りのない人を養い、御言葉を実践する人である。
飢えた人にパンを分け与え、貧しい人々を家に入れ、裸の人に着せ、肉親の世話をするなら、暁のように光がさし出で、傷はすみやかに癒され、絶えず主に導かれ、焼けつく土地でも、思いは満たされ、骨は強くされ、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。(イザヤ58:6-12)

「わたしはマロンの妻であったモアブの女ルツをも買って、わたしの妻としました。」(ルツ記4:10)
ボアズがルツを買った事、それは、私達のボアズであるイエス様が、私達を買って下さる事を表している。
世の何者も、私達を買い取る事は無い。私達を買い取るメリットなど無く、ただ重荷にしかならないからだ。
しかしイエス様は、私達を買い取って下さった。何のメリットも無いのに。それどころか、自分のいのちを投げ出さねばならぬという「究極のデメリット」しか無いのに。それは、ただ、大きな愛の故である。

こうしてボアズは、神と人とに祝福されつつ、正式にルツをめとり、主は、ルツに男の子を授けて下さった。
律法によるなら、本来、この子の名はマフロンとなるはずだが(申命記25:6)、なぜか女たちはその子を「オベデ」と呼んだ。(ルツ記4:17)
ルツの亡夫「マフロン」の名には「大きな欠点」「病弱」という意味があるが(ちなみにオルパの夫キルヨンは「浪費する」「消え失せる」の意味)、「オベデ」という名には「仕える」「僕」という意味がある。
私達の家を絶やさない責任のある人に、大きな欠点があったり、病弱であってりするなら、困るだろう。
あいにく、世の人は、罪という病の故に欠点があったり弱かったりして、その責任は果たせないが、父なる神の忠実なるしもべであるイエス様は、その責任を、完全に果たす事がおできになる。
ルツの子オベデは、ナオミの老後を養う者となり、その子孫から、偉大な王ダビデが、そしてキリストが出た。
同じように私達も、信仰によってイエス様を内に宿し、信仰によって生んだ霊的な子孫たちは、後に私達を養い、キリストの花嫁として、神の教会(エクレシア:召し出された者達)として、共に完成されて行くのだ。

礼拝説教メッセージ音声:赤い雌牛(民数記19:1-10):右クリックで保存

民数記19章は、汚れを清める水の作り方が、主から示されている。
『主の命じられた律法の定めは次のとおりである。すなわち、イスラエルの人々に告げて、完全で、傷がなく、まだくびきを負ったことのない赤い雌牛を、あなたのもとに引いてこさせ、これを祭司エレアザルにわたして、宿営の外にひき出させ、彼の前でこれをほふらせなければならない。そして祭司エレアザルは、指をもってその血を取り、会見の幕屋の表に向かって、その血を七たびふりかけなければならない。ついでその雌牛を自分の目の前で焼かせ、その皮と肉と血とは、その汚物と共に焼かなければならない。』(民数記19:2-5)

この規定は、レビ記でも示されていなかった規定で、この赤い雌牛は、レビ記でよく見られる捧げものとも、色々な点で異なる。
まず、これは主に捧げる”いけにえ”ではなく、汚れを清める水を造るためのものである。
他のいけにえのように、聖所でほふられるのではなく、宿営の外に引き出されてほふられ、そして、アロンではなくエルアザルに渡され、それも、彼の目の前でほふられ、焼かれる。

エルアザル、彼は実に、色々な人たちが焼かれるのを、見てきた。
彼の兄ナダブとアビフは、異なった火をささげた事によって主の御前から火が出て焼かれ、コラと共にモーセとアロンに逆らった250名も、主の前から火が出て焼きつくされ、エルアザルはその彼らの遺体から火皿を取って来た。そして、今回の赤い雌牛である。
それだからエルアザルは、子に、孫に、くれぐれも主に逆らわぬよう、くれぐれも、主の戒めに背かぬようにと、教育した事だろう。

この赤い雌牛は、今までの規定に比べると、色々と目新しく見えるが、これもまた、罪を洗い清めるイエスキリストを表している。
イエスキリストも、完全で、傷がなく、また、罪のくびきを負ったことのないお方であり、その赤い血潮によって、人の罪を清める。
ここで使われるのは雌牛、すなわち、いのちを産み出すものであり、イエスキリストも多くの永遠のいのちを生み出すお方である。

赤い雌牛は、宿営の外に引き出されてほふられ、焼かれるが、キリストも、エルサレムという宿営の外に追い出されて、そこでほふられ、「わたしは渇く」と言われた言葉の通り、焼き尽くされる思いをされた。
赤い雌牛の焼かれた灰を湧き水の中に入れて、それを汚れた人にふりかけて清めのわざを為すが、イエス様も十字架上で刺し貫かれ、脇腹から血と水が流れ出し、それによって、私達はきよめられる。
「これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。」(マタイ26:28)

『そして祭司は香柏の木と、ヒソプと、緋の糸とを取って雌牛の燃えているなかに投げ入れなければならない。』(民数記19:6)
木は十字架を、ヒソプは汚れからの清めを、緋の糸は、どす黒い赤の血潮を予表している。

この赤い雌牛は、きよめの役割を果たすものだが、完全ではない。
人が一度、きよめられても、彼が再び汚れに陥るなら、その都度、きよめのわざを行わなくてはならないからだ。
それに対し、キリストの血は、完全なきよめの働きをする。
『しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:11-14)

この赤い雌牛もまた、キリストへと導く養育係の一つである。(ガラテヤ3:24)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
最も雄弁なただずまい(エステル記5:1-5):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:レビ人が受ける分(民数記18:21-32):右クリックで保存

続いて主は、レビ人が受ける分についても定められた。
『わたしはレビの子孫にはイスラエルにおいて、すべて十分の一を嗣業として与え、その働き、すなわち、会見の幕屋の働きに報いる。』(民数記18:21)

レビ人も祭司同様、会見の幕屋の働きに報いとして、イスラエル人から受け取る分がある。
すなわち、一般のイスラエルの民が主に捧げる十分の一が、彼らの受け取る分である。

これを、良く出来た祭儀制度だと言う人もいるが、ここに記されている事は、私達にとって、遠い異国の昔の風習ではなく、今も、生き生きとして、私達に関係している永遠の定めである。
私達・キリスト者が捧げる献金も、教会の維持経費のためだとか、誰か教職者への謝礼とかいう意味よりも、神様への個人的な「捧げもの」である事を忘れてはならない。

『イスラエルの人々は、かさねて会見の幕屋に近づいてはならない。罪を得て死なないためである。レビびとだけが会見の幕屋の働きをしなければならない。彼らがその罪を負うであろう。彼らがイスラエルの人々のうちに、嗣業の地を持たないことをもって、あなたがたの代々ながく守るべき定めとしなければならない。』(民数記18:22-23)
幕屋での働きは、ただ、レビ人に限られ、そして働き人への報酬として「十分の一」にあずかる特権があるが、だからと言って、レビ人は主に何かを捧げる事に対して「免除」されているかというと、そうではない。
一般の民が、作物の十分の一を捧げるのと同じように、レビ人も、民が捧げた十分の一の中から、その十分の一を捧げるべき事が定められており(民数記18:26-29)、そのレビ人が捧げた十分の一は、祭司アロンの一族のものとなる。
そして大祭司アロンの一族も、実は、主に十分の一を捧げている。
それは、彼らの祖先であり、私達の信仰の祖先でもあるアブラハムが、メルキゼデクに十分の一を捧げた事による。

メルキゼデクは、いと高き神の祭司としてアブラハムを祝福したが、アブラハムでさえ十分の一を捧げた彼は、一体何者なのだろうか。

彼は、サレムの王であり、いと高き神の祭司としてアブラハムをパンとぶどう酒を持って出迎え、アブラハムを祝福した。義の王であり、平和の君であり、父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりも無いお方。(ヘブル7:2-4)
そのお方とは、キリストでなくして、一体誰であろう。

いと高き神の祭司・メルギゼデクが与えたパンとぶどう酒は、単なる食料の差し入れではない。
パンは、イエス様の裂かれた体、ぶどう酒は、イエス様の流された血潮を意味する。
メルキゼデクはこれを持って「天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。」(19-20)と言って、アブラムを祝福された。

レビ人も、大祭司アロンの一族さえも、アブラハムの腰の中にいた時、メルキゼデクに、すなわち、キリストに、十分の一を捧げた。
結局、全ての人は、まことの大祭司・キリストに捧げるべきであり、そしてアブラハムがメルキゼデクからパンとぶどう酒を得たように、私達も、キリストの血潮と裂かれた肉をいただくのである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
滅ぼされる悪と守られる聖徒(マタイ2:13-23):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
海から上がってきた獣(黙示録13:1-10):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:永遠の塩の契約(民数記18:19-20):右クリックで保存

『イスラエルの人々が、主にささげる聖なる供え物はみな、あなたとあなたのむすこ娘とに与えて、永久に受ける分とする。これは主の前にあって、あなたとあなたの子孫とに対し、永遠に変らぬ塩の契約である。』(民数記18:19)
主は、人々が主に捧げる供え物を、祭司が受け取る分として永遠に定められ、祭司の養いは永遠に絶える事がない、というこの約束を、「塩の契約」と言われた。
では、塩は、聖書の他の箇所で、どのように用いられているだろうか。

『あなたの素祭の供え物は、すべて塩をもって味をつけなければならない。あなたの素祭に、あなたの神の契約の塩を欠いてはならない。すべて、あなたの供え物は、塩を添えてささげなければならない。』(レビ記2:13)
主に捧げる素祭の穀物は、一粒一粒がよく砕かれた粉末でなくてはならず、蜜などで人工的に甘くしたり、パン種などで人工的に膨らましたりする事もせず、シンプルに、塩で味付けなければならないと命じられている。

現代を生きる私達・キリスト者の交わりも、塩を添えて捧げられた素祭のようであるべきだ。
すなわち、私達一人ひとりが主の御前によく砕かれ、交わりの中には、人工的な甘ったるさを交えてはならず、教会を大きくしようとして不純物を混ぜ膨張させてもならない。
むしろシンプルに、塩気でもって、互いに和合すべきである。
『ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:8)

塩は、食物の味を引き立て、長持ちさせ、きよめの働きをする。この実にシンプルな味と性質は、永遠に変わらない。
祭司は、神の共同体という「パン生地」の中では、「塩」のような役割とも言える。
共同体全体の、味を引き立て、長持ちさせ、きよめの働きをするからである。

祭司には、永遠に受ける分として「塩の契約」が定められているが、実は、一般の民なら普通に受け継ぐ事は出来ても、祭司に限っては、受け継ぐ事が許されていないものがある。
『主はまたアロンに言われた、「あなたはイスラエルの人々の地のうちに、嗣業をもってはならない。また彼らのうちに、何の分をも持ってはならない。彼らのうちにあって、わたしがあなたの分であり、あなたの嗣業である。』(民数記18:20)

祭司がゆずり受けてはならないもの、それは、相続地である。祭司にとって、主御自身がゆずりの地であり、地上の相続地を得てはならない。
それ故、私達キリスト者も、この地上には、永遠のゆずりは無いと知るべきである。
私達のゆずり、それは、主ご自身であり、永遠に変わらぬ天の王国にこそ、私達のゆずりがあるのである。
だから、この地上に宝を蓄える努力は止め、天に宝を積み立てる努力をすべきである。

神の国を追い求めつつ、同時に、地上の宝も手放さないような人は、十分な予算審議もしないままに、邸宅を建設しようとして、結局土台しか建てられなかった、と、あざ笑われてしまう人のようである。
『あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、見ているみんなの人が、『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言ってあざ笑うようになろう。・・・それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。
「塩」は良いものだ。しかし、「塩」もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。聞く耳のあるものは聞くがよい」。』(ルカ14:28-35)

だから私達は、神の国とその義とを、まず第一に求めるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:祭司が与れる食物(民数記18:8-18):右クリックで保存

前回は、祭司の役割と責任が主から示されていたが、責任ある務めには報いがある。
この、祭司が受け取るべき報いは「永久に受くべき分」として、今も有効である。
『主はまたアロンに言われた、「わたしはイスラエルの人々の、すべての聖なる供え物で、わたしにささげる物の一部をあなたに与える。すなわち、わたしはこれをあなたと、あなたの子たちに、その分け前として与え、永久に受くべき分とする。』(民数記18:8)

この中で、「素祭」、「罪祭」、「愆祭」は、男子だけが与かる事ができ(民数記18:9-10)、新鮮な油や、新しいぶどう酒、初物の穀物など、民が主に捧げる「初物」は、祭司の家族も、それにあずかる事ができる。(民数記18:11-13)
しかし、11,13節にある通り、それには「きよい者」だけが与かる事が出来る、とあるため、いかに祭司の一族であっても、きよくない状態であれば、それにあずかる事は許されないのだ。
その事は、レビ記にも記されている。
『あなたがたの代々の子孫のうち、だれでも、イスラエルの人々が主にささげる聖なる物に、汚れた身をもって近づく者があれば、その人はわたしの前から断たれるであろう。わたしは主である。
アロンの子孫のうち、だれでも、らい病の者、また流出ある者は清くなるまで、聖なる物を食べてはならない。また、すべて死体によって汚れた物に触れた者、精を漏らした者、または、すべて人を汚す這うものに触れた者、または、どのような汚れにせよ、人を汚れさせる人に触れた者、このようなものに触れた人は夕まで汚れるであろう。彼はその身を水にすすがないならば、聖なる物を食べてはならない。』(レビ記22:3-6)

私達キリスト者は、キリストにあって祭司とされたが、キリスト者であれば誰でも「御言葉」という聖なる食物にあずかれるか、というと、そうではない。
キリスト者であっても、聖なる食物に共にあずかれない人がいる。それは、汚れた人である。
例えば、主の恵みと祝福はいただきたいけれど、同時に、世的な罪深い欲望を手放す事もしたくないような人や、教会には一応通ってはいても、御言葉よりも世の通念のほうを優先している人などは、そうである。

彼らが、恵みの食卓で共に食べられないのは、誰かが禁止するからではない。
むしろ彼ら自身に、恵みに預かる感性が無いというか、聖なる食物を食べる「専用の口」が、無いのだ。

教会の皆が「イエス様は素晴らしいね」「御言葉はこんなに凄いのか」「恵まれるね」と楽しそうに盛り上がっているのに、その人だけは退屈そうで、何を机上の空論で盛り上がっているのだろう、などと思えて、キリストのいのちが、さっぱり理解できないのである。
だから私達は、霊的感性が開かれるよう、祈るべきである。

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