メッセージ - 201310のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:ひと度主の素晴らしさを味わっておきながら(民数記24:14-25):右クリックで保存

バラムは続いて、遠い将来の事を予言する。
『ベオルの子バラムの言葉、/目を閉じた人の言葉。神の言葉を聞く者、/いと高き者の知識をもつ者、/全能者の幻を見、/倒れ伏して、目の開かれた者の言葉。わたしは彼を見る、しかし今ではない。わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。ヤコブから一つの星が出、/イスラエルから一本のつえが起り、/モアブのこめかみと、/セツのすべての子らの脳天を撃つであろう。』(民数記24:15-17)

バラムが予言した、イスラエルから出る一本のつえ。それは、ユダから出る支配者の杖(創世記49:9-10)、すなわち、ダビデ王の事であり、イエス・キリストの事でもある。
バラムは神の霊感によって、イスラエルから出る全世界を治める王、イエス・キリストを見たのである。

『敵のエドムは領地となり、/セイルもまた領地となるであろう。そしてイスラエルは勝利を得るであろう。権を執る者がヤコブから出、/生き残った者を町から断ち滅ぼすであろう」。』(民数記24:18-19)
確かにエドムは、イスラエルが国内を通行する事を武力でもって邪魔したが、この時点、イスラエルはエドムに手出しする事が禁じられている。
しかしエドムはその後も、イスラエルに悪を図る事をずっと止めず、結局、主の怒りにあって滅びてしまう。(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1652 )

『バラムはまたアマレクを望み見て、この託宣を述べた。「アマレクは諸国民のうちの最初のもの、/しかし、ついに滅び去るであろう」。』(民数記24:20)
当時、アマレクは国々の中で栄えていたが、後に、イスラエルによって打ち負かされてしまう。その時、バラムもアマレクの中にいて、一緒に剣で殺されてしまうのだが、その事については後述する。

『彼はまたこの託宣を述べた。「ああ、神が定められた以上、/だれが生き延びることができよう。キッテムの海岸から舟がきて、/アシュルを攻めなやまし、/エベルを攻めなやますであろう。そして彼もまたついに滅び去るであろう」。』(民数記24:23-24)
キティムはキプロス島、つまり、地中海沿岸地域である。
そこから船団が来て、アシュル(アッシリア)と、エベル(ヘブル:イスラエル)を悩ます・・・この事は、ローマ帝国がアッシリアやイスラエルを席巻した史実と一致する。

『こうしてバラムは立ち上がって、自分のところへ帰っていった。バラクもまた立ち去った。』(民数記24:25)

バラムは御心の通りに、そして、主から戒められていた通りに、イスラエルを呪わず、祝福した。
この時点、バラムには何ら問題は見いだせず、むしろ、立派に役割を果たしたように見える。
では、彼はなぜ新約では「気違い預言者」として記されたのか。
それは、イスラエルの陣営の素晴らしさを見、神の霊に促されて、イスラエルの神の力強さ、麗しさを語り、主の偉大な御力を経験しておきながら、それでもなお不義な報酬を愛し、堕落へと走ったからだ。

次回、民数記25章は、イスラエルの民が異邦の女と不品行の罪を犯したために主の罰を受ける事が記されているのだが、イスラエルをつまづかせ、不品行へと導いたのが、この、バラムである。
『あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。』(黙示録2:14)

バラムは、バラクから報酬を受け取らずにそのまま去ったのではなかった。
イスラエルが主と良好な関係を結んでいる限りは、呪えないから、その代替として、イスラエルを不品行へと導き、神の怒りを引き起こさせて、イスラエルに災いをもたらすように仕向けて、そうして、バラクから報酬を受け取ったのだ。

バラムは神に言い訳しただろうか。
「私は確かに、あなたの言いつけどおり、イスラエルは呪いませんでした。でも、イスラエルを堕落させてはならないとは、お言いつけにはなりませんでしたよね?」と。
主には、そのような詭弁は、通用しない。

彼はそのすぐ後、ミデヤン人の間にいる所を、剣で殺された。(民数記31:6-9)
モーセが生きている間に、であるから、彼が得た不正な報酬を楽しんだ期間は、一年も無かったようである。
これが、ひと度主の素晴らしさを味わっておきながら、なお不義の報酬を愛し、堕落してしまった者の末路である。

『もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。』(ヘブル10:26-29)

礼拝説教メッセージ音声:神の民を見た時の感動(民数記24:1-13):右クリックで保存

『バラムはイスラエルを祝福することが主の心にかなうのを見たので、今度はいつものように行って”魔術”を求めることをせず、顔を荒野にむけ、目を上げて、イスラエルがそれぞれ部族にしたがって宿営しているのを見た。その時、神の霊が臨んだので、彼はこの託宣を述べた。』(民数記24:1-3)
バラムが託宣を求めるために、今までしてきた事は、結局、”魔術”だったようである。
彼は、主の御心は「イスラエルを祝福する事」であると明確に示されていたのに、「もしかしたら別の示しがあるかもしれない」と思って、バラクに言われるままに、あちらへ行ったり、こちらへ行ったりした。しかし結局、そうした全ては、無駄だと悟ったので、もはや魔術は止めにして、目を上げ、イスラエル12部族の宿営している様に目を向けたのだ。

彼が見たイスラエル六十万の宿営は、神の幕屋、すなわち神を礼拝する所を中心とし、そしてそれぞれの部族は、好き勝手な所に無秩序に住むのではなく、それぞれが主から定められた定位置に宿り、導きに従って進み、導きに従ってとどまっている。
そして、この隊形は、上から見ると巨大な十字架の形を成している。(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1588
彼がその、壮大な十字の陣形を見た時、神の霊が臨んだ。

「ベオルの子バラムの言葉、/目を閉じた人の言葉、神の言葉を聞く者、/全能者の幻を見る者、/倒れ伏して、目の開かれた者の言葉。」(民数記24:3-4)

彼が語り出した言葉は、相変わらず「ベオルの子バラムとしての託宣」であるが、しかしそれは神の霊に促された言葉であり、その内容は、イスラエルへの祝福に満ちている。
『ヤコブよ、あなたの天幕は麗しい、/イスラエルよ、あなたのすまいは、麗しい。それは遠くひろがる谷々のよう、/川べの園のよう、/主が植えられた沈香樹のよう、/流れのほとりの香柏のようだ。』(民数記24:5-6)

私達は「これをせよ」という主の御心が明らかに示されているのに、それを中々為さなかったり、あるいは「これはするな」という主の御心が明らかに示されているのに、それを止められなかったり、という事がある。
主日の礼拝を守りなさい、とか、嘘をつく癖はもう止めなさい、とか、御心が既に示されているのに、「もう少しくらい良いだろう」と、だらだら先延ばしにしてしまったりいては、いつまで経っても、主の霊が臨む事は無い。
私達も、この時のバラムのように、御心に反する事は、もう止めにして、目を上げて十字架を仰ぎ見るならば、主の霊が臨み、次に為すべき事や歩むべき道が新たに示されるのだ。

バラムが見た、巨大な十字を描いているイスラエルの隊形は、何と壮麗壮大で美しかったことだろう。
彼は、イスラエルの民が、主の命令どおりの所に留まり、礼拝を中心として、導きに従って歩み、導きに従って留まる、その神の民としての歩みを見た時、神の霊感に動かされ、感動し、祝福せざるを得なかったのだろう。
バラムはその「はじめの感動」を、いつまでも保ち続けていればよかったのだが、残念ながら、そうではなかった。

私達キリスト者は、いつまでも礼拝を中心とした歩みを保ち続け、主の導きに従って歩み、主の導きに従って留まり、主イエスにあって神の民とされた「はじめの感動」を、バラムのように手放す事は決してせず、いつまでも保ち続けたい。

礼拝説教メッセージ音声:託宣を求めたがる人の罠(民数記23:13-30):右クリックで保存

『バラクは彼に言った、「わたしと一緒にほかのところへ行って、そこから彼らをごらんください。あなたはただ彼らの一端を見るだけで、全体を見ることはできないでしょうが、そこからわたしのために彼らをのろってください」。』(民数記23:13)
バラクは、預言者バラムの託宣が、期待外れだったので、それなら、今度は場所を変えてみたら、神はもしかして心を変えて、自分の思い通りの事を言ってくれるかもしれない、と思い、バラムを別の所へ連れて行った。

『そこでバラムはまたこの託宣を述べた。「バラクよ、立って聞け、/チッポルの子よ、わたしに耳を傾けよ。神は人のように偽ることはなく、/また人の子のように悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、/語ったことで、しとげないことがあろうか。』(民数記23:18)
前回の一回目の託宣の時もそうだったが、バラムが言っている事は一見、預言のように見えるが、実はそうではなく「託宣(ヘブル語「マーシャール」:格言、決まり文句、寓話)」である。

彼の言葉が、それっぽく聞こえるのは、彼がヘブル詩形式で語っているからだ。
ヘブル詩には、同じ内容の事を平行して繰り返す特徴がある。例えば、「バラクよ、立って聞け、/チッポルの子よ、わたしに耳を傾けよ。」は、同じ内容を平行して繰り返しているし、「言ったことで、行わないことがあろうか、/語ったことで、しとげないことがあろうか。」も、同様である。
聖書はこのような形式の言葉が多いため、バラムの言葉が、それっぽく聞こえるのである。

『祝福せよとの命をわたしはうけた、/すでに神が祝福されたものを、/わたしは変えることができない。』(民数記23:20)
このバラムの言葉を見ると、彼は「預言」を語っているのではなく、やはり「彼の格言」を語っているのだということが分かる。
なぜなら彼の言葉の源は、主ではなく、「わたし」(バラム)だからである。
預言の源は神であり、人はその届け人に過ぎない。
それ故、預言には神の権威に裏付けされた力があるが、それに対し、託宣の言葉の源は、その人であり、その人の権威程度の力しか無い。

バラムが「バラクよ、立って聞け、/チッポルの子よ、わたしに耳を傾けよ。」と語りかけている以上、この格言はバラクに対して語られたものであり、バラクは少なくとも、この格言に従うべきだった。
すなわち、神はイスラエルに祝福の約束をされており、それは決して変更する事なく必ず成し遂げ、そのイスラエルに手を出すなら、ただではおかない事を、バラクは悟り、神を恐れ敬うべきだった。

それなのにバラクは、この格言を聞いても、何も得る所が無かった。それは次の言葉で分かる。
『バラクはバラムに言った、「あなたは彼らをのろうことも祝福することも、やめてください」。』(民数記23:25)
この言葉には、悔い改めも、神への恐れ敬いも、一切無く、ただ、自分の思い通りに行かなかった事への苛立ちのみがある。
これが、託宣を求める者が陥る罠である。
いかに素晴らしい言葉を聞いても、気に入ったか、気に入っていないかの印象だけが残っていて、内容を全く得ていないのだ。

キリスト者の中にも、霊的指導者に、託宣や決まり文句、寓話の類を求めて来るような人がおり、そのような人は、「それっぽい」話を聞いたなら、それで良い気になって、しかし蓋を開けてみると、気に入ったか気に入っていないかの印象しかなく、内容がすっかり抜けてしまっていたりする。
しかし、忘れてはならない。
人が伝えられる最も良き言葉は、聖書の御言葉であり、御言葉を信じて実行する人のみが、主から祝福を得る事を。
そして、聖書の御言葉が示されたからには、たとい、ろばが語っていたとしても、それに聞き従わなくてはならない。

『御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。』(2テモテ4:2-4)

礼拝説教メッセージ音声:礼拝「もどき」の罠(民数記23:1-12):右クリックで保存

『バラムはバラクに言った、「わたしのために、ここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊とを整えなさい」。バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムとは、その祭壇ごとに雄牛一頭と雄羊一頭とをささげた。』(民数記23:1-2)

バラクは、イスラエルを呪ってほしい、という自分の願いを叶えるために、バラムを雇ったが、その動機は、占いや呪術を求めて霊能者の元に通う人そのもので、主の御心を求めて預言者に聞く人の持つべき心とは、正反対を向いている。
占いや呪術の類に行く人の動機の源は、自分の欲望にあるが、主に御心を求めて預言者に聞きに行く人の心は、本来、自分には無く、主にあるはずである。

『バラムはバラクに言った、「わたしのために、ここに七つの祭壇を築き、七頭の雄牛と七頭の雄羊とを整えなさい」。バラクはバラムの言ったとおりにした。そしてバラクとバラムとは、その祭壇ごとに雄牛一頭と雄羊一頭とをささげた。』(民数記23:1)
祭壇を築いて、いけにえを捧げる事は、私達には「良いこと」のように思えるが、聖書をよく調べると、彼のしている事は、御言葉に適っていない事が分かる。
いけにえを捧げるべき祭壇は、唯一であり、それ以外に祭壇を築いて捧げる事は、御言葉に沿っていないのだ。(申命記12章、ヨシュア記22章)

人は思う。
祭壇でいけにえを捧げる事は「良いこと」で、それなら、祭壇を七つも築いて捧げるなら、主はもっと喜んで下さるのではないか、と。
しかし、人が思う「良いこと」には、呪いの罠が潜んでいる。
私達は、自分の思い描く「良い」と思うことよりも、御言葉を優先させるべきである。
人がそれぞれ「良いこと」を思い浮かべ、それぞれが邁進するなら、あの、士師記の荒んだ時代に突入してしまうのだ。(士師記18:1,21:25)

私達が捧げるべき祭壇、それは、十字架以外に無い。
私達の肉由来の全ての思い、御言葉に逆らう全ての意志、嵐のように波打つ感情の全てを、十字架に釘付けにし、キリストに服従させるなら、新しいいのちの復活の領域に入り、復活のいのちのパワーが働き、キリストのものとされ、もはや、世の何者も手出しできなくなるのだ。
『神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』(2コリント10:5-6)

『神がバラムに会われたので、バラムは神に言った、「わたしは七つの祭壇を設け、祭壇ごとに雄牛一頭と雄羊一頭とをささげました」。』(民数記23:4)

人は主張する。
主よ、私はあなたのために、あなたの好きな祭壇を、七つ造りました、私はそこで何々を捧げました、と。
しかし、祈りの場面で「私はあれをしました、これをしました」と自己主張する事は、パリサイ人の道である。
『自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。』(ルカ18:9-14)

『バラムはこの託宣を述べた。「バラクはわたしをアラムから招き寄せ、/モアブの王はわたしを東の山から招き寄せて言う、/『きてわたしのためにヤコブをのろえ、きてイスラエルをのろえ』と。神ののろわない者を、わたしがどうしてのろえよう。主ののろわない者を、わたしがどうしてのろえよう。』(民数記23:7-8)

バラクの思いは、イスラエルを呪って欲しい、だった。
しかし、全能なる神の御心は、イスラエルを祝福せよ、である。
主の御心が「祝福せよ」であるなら、いかに世の有力な王が大金を積んでも、いかに有能な預言者が呪おうとしても、主が、そうはさせないのだ。

祭壇をたくさん築けば良い、というものではない。
いけにえをたくさん捧げれば良い、というものではない。
大金を積めば良い、というものではない。

主が喜ばれるいけにえは、砕かれたたましい、悔いた心である。(詩篇51:17)
「主はその御言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。」(1サムエル15:22-23)

御心を外した祭壇構築や、いけにえの数々、費やした金銀は、無駄以外の何者でもない。
大切なのは、砕かれた悔いた心をもって、御言葉に聞き従うことである。

栄光の家系の女達 – ウリヤの妻2 いのちの光を消す罪(2サムエル記11:14-27)
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ダビデは、ヘテ人ウリヤを妻の所に帰らせ、妻と寝るように仕向けて、自分が彼の妻を身ごもらせる行為をした罪を隠そうとしたが、ウリヤは実直で忠実な性格の故に、帰らず、ダビデの目論見は失敗に終わった。
そこでダビデは別の手段を講じて罪を隠そうとした。すなわち、ウリヤを謀殺し、妻を奪う事によって。
『朝になってダビデはヨアブにあてた手紙を書き、ウリヤの手に託してそれを送った。彼はその手紙に、「あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ」と書いた。』
新しく結実した、自分の子という新しいいのち。そのいのちの存在そのものが、自分の罪の証左となり、都合が悪いからという事で、そのいのちを、あるいは、相手のいのちを消す。
それは、昔から現代に至るまで、人の間ではよく行われて来た事である。現在、わが国の死亡原因の一位は「ガン」で、年間30万人ほどであるが、1950-2000年の死因のトップは、ずっと「中絶」で、1950年代はなんと、年間100万以上の生まれぬいのちがあった。事実、日本には、水子供養の偶像がいたる所にある。

『ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。』(2サムエル11:26-27)
ウリヤの妻は、夫の死を悲しんだ。彼女はきっと泣きながら、死んだ夫の名を幾度も呼んだ事だろう。
ウリヤよ、ウリヤよ、と。ウリヤの名は「主の光」という意味である。主の光よ、主の光よ・・・。
主は、一人の忠実なしもべの不当な死を、見過ごしにはされず、不当な死を痛み悲しむ嘆きと祈りを、聞き漏らす事は無い。人の犯した罪の全てを、人知れず流した罪なき者の涙を、主の光は晒しだす。
人は思うかもしれない。主はそこまで徹底して明らかにしなくても良いのでは、と。しかし、もし主がほうって置かれたなら、ダビデの家に、第二第三のウリヤが、第二第三のバテ・シェバが出たかもしれない。

聖書は、性的な罪については、旧約でも新約でも、禁止事項としての優先順位が高い。性は、いのちに関わる事である。いのちを完全無視し、快楽だけを全面に押し出し、いのちをその背後に抹殺してしまう者は呪われ、土地から吐き出されてしまう。実際カナンがそうだったし(レビ記18:24-28)、今の日本がそうである。
世界はかつて、道を踏み外した行為のはびこりにより、一度滅びた事がある。ノアの洪水の前、神の子達は人の娘の美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとり、ネフィリムが生まれ、そして暴虐が満ちて行った。
『主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。・・・時に世は神の前に乱れて、暴虐が地に満ちた。神が地を見られると、それは乱れていた。すべての人が地の上でその道を乱したからである。』(創世記6:5-11)
ノアの時代、道ならぬ性によっていのちが呪われ、虐待が虐待を生み、暴力が暴力を生み、憎しみが憎しみを生み、新しく世に生まれてくるいのち達は、無防備に、暴虐に満ちた世へと、ただ送り出されて行った。
神はどれほど心を痛められただろう。
その世界を一度、水によって全て洗い流した事は、神の憐れみではなかろうか。

だから神は、栄光の家系を築き上げていくダビデの、そのような罪を、決して見逃す事はしなかったのだ。
ひと度罪を犯し、それを絶対に隠し通そうとすると、坂道を転げ落ちるがごとく、罪に罪を重ねる事になる。
ダビデは、嘘に嘘を塗り固めるために、あの実直で忠実なウリヤを謀殺し、その妻を自分のものとするまでになり、罪に歯止めが効かなくなってしまった自分に、苦しんでいたかもしれない。(詩篇51:3 、32:3-4)
主は、そんなダビデをも、憐れまれる。歯止めが効かなくなってしまった、罪に走る足を、主の光に照らし出す事によって、止めて下さる。それは、痛みを伴う事ではあるが、主の懲らしめは、主の慰めである。
性的に「道」を踏み外す事、それは暴虐が満ち溢れる元であり、呪いと滅びを招く元、その地から吐き出される元である。私達キリスト者は、御言葉に従って正しく伴侶を愛し、正しく産み、神の御心に叶ったいのちを増やして行くべきであり、そのためにも、この国に福音を告げ知らせて行くべきである。

礼拝説教メッセージ音声:御言葉の剣の前に(民数記22:31-41):右クリックで保存

『このとき主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使が手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。』(民数記22:31)
バラムは、目が塞がれていた。富と名声を得ようという貪欲さによって。

人は、内から湧いてくる肉的な要因によって、真理が見えなくなってしまう事がある。
ハガルの場合は、水が切れた事の心配と絶望感で目が塞がれ、近くに井戸があるのが見えなかった。(創世記21章)
エマオの途上の二人の弟子も、イエス様が十字架につけられた事へのショックと、これからの心配とのゆえに目が塞がれて、目の前にイエス様が現れたのに、しかも、イエス様がずっとお語りになっていたのに、イエス様だと気づかなかった。
そしてバラムの場合、欲に目が眩んでいたがために、ろばに見えていた御使いが、見えなかった。
私達は、真理を見えなくさせてしまう、肉的な思いや諸々の心配事を、主の御前に取り扱っていただく必要がある。

『主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。』(民数記22:32)
ここは欽定訳聖書では「because thy way is perverse before me(あなたの道は私から踏み外れていたから)」とあり、私達も、主の道から踏み外れてしまうと、今まで味方だった主は、今度は敵対して立つ事になってしまう。

『ろばはわたしを見て三度も身を巡らしてわたしを避けた。もし、ろばが身を巡らしてわたしを避けなかったなら、わたしはきっと今あなたを殺して、ろばを生かしておいたであろう」。』(民数記22:33)
バラムは剣でろばを殺そうとおもったが、実はバラムは、このろばのおかげで剣で殺されずに済んでいたのだ。

主の剣が立った時は、どうするのが良いか。
ヨシュアが模範的な対応をしている。

『ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。』(民数記5:13-14)
ヨシュアが目の前にそびえ立っているこの堅固な町を、どう攻略しようかと頭がいっぱいとなっていた時、彼は知らない間に、主の軍勢の将さえも「自分の味方につくかか、それとも敵につくか」という、自分にとって損か得の秤にかけてしまっていた。

しかし主は、そのような自分主体の質問には「いや」と応え、そしてご自分の聖なる立場をお示しになる。
ヨシュアにそれが示された時、彼は実に正しい対応を取った。
『ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。』(民数記5:14)
彼は地にひれ伏して拝し、「わが主は」「この僕に」と言って、主従関係を明らかにし、「何を告げようとされるのですか」と言って、主の言葉を待った。
すると主の軍の将は、「あなたの足から履物を脱げ。」と命じられた。

私達が世の中を渡り歩く時、様々なほこりや汚れを付けて来る。
世の人の、良からぬ思いや、世的な価値観など、そうした罪や汚れを付着させてしまう。
私達が主の御前に出る時は、そうした世的な汚れやしがらみという履物を脱ぎ捨てて、出る必要がある。

みことばの剣は、死と命の間を切り分け、肉と霊、たましいと霊を切り分ける。
主の軍の将から授けられた軍事作戦は、およそ世の将校が考え出すものとはかけ離れ、軍事作戦と言うには、あまりにナンセンスな内容だった。(ヨシュア6:1-5)
しかし、だからこそ御言葉に従順するかどうかが試され、そして従順する時、私達はあらゆる問題に対する解決が与えられるのである。
ヨシュアは、御言葉の通り忠実に実行し、そうして大勝利を収めた。

主の剣は御言葉であり、敵を切り裂くか、それとも自分を切り裂くかの「諸刃の剣」である。
「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」(ヘブル4:12)
この諸刃の剣を正しく用いる方法は、御言葉に従順し服従する事以外に、無い。
聞き従い服従する人にとっては、御言葉は勝利の剣であるが、主を軽んじ自分の肉欲によって歩む者には、自らを傷つける災いの剣となってしまうのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
見えなくしている「覆い」(民数記22:31-35):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:しゃべり出すろば(民数記22:21-30):右クリックで保存

『明くる朝起きてバラムは、ろばにくらをおき、モアブのつかさたちと一緒に行った。しかるに神は彼が行ったために怒りを発せられ、主の使は彼を妨げようとして、道に立ちふさがっていた。バラムは、ろばに乗り、そのしもべふたりも彼と共にいたが、ろばは主の使が、手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見、道をそれて畑にはいったので、バラムは、ろばを打って道に返そうとした。』(民数記22:21-23)

バラムは、主の使いが抜き身の剣を持って立ちふさがっているのが、見えなかった。
彼は、「呪うものは呪われ、祝福する者は祝福される」と言われている程の、著名で力ある預言者だと言うのに、ろばにさえ見えていた主の使いと抜き身の剣が、見えていなかった。
いかに有力で著名な預言者と言えども、欲に目が眩み、富と名声を手に入れようと奔走しだすなら、動物のろばが見えるものさえも、見えなくなってしまうのだ。

主の剣は御言葉であり(エペソ6:17、ヘブル4:12)、私達は常日頃、この御言葉に目を留め続ける必要がある。
そうでないと、私達が御心に反して、主が剣を立てて立ちふさがっている時、何も見えなくなってしまい、そのまま滅びへと邁進してしまうのだ。

バラムが行こうとした道は、不義の報酬を愛する道であり、主の御言葉を取り次ぐ「預言者」にとって、不義の富を追い求めて御言葉を脇に押しやる事は、「気違い沙汰」なのである。(2ペテロ2:15)
主は、どのようにして、彼の気違い沙汰を止めたか。
それは、物言わぬろばが口を開き、人間の言葉を語る事を通して、である。

『主が、ろばの口を開かれたので、ろばはバラムにむかって言った、「わたしがあなたに何をしたというのですか。あなたは三度もわたしを打ったのです」。バラムは、ろばに言った、「お前がわたしを侮ったからだ。わたしの手につるぎがあれば、いま、お前を殺してしまうのだが」。ろばはまたバラムに言った、「わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか」。バラムは言った、「いや、しなかった」。』(民数記22:28-30)
有り得ない事に、ろばは人間の言葉で物を言った。
しかしバラムは、何の不思議も無く、普通にろばと会話した。
それ程彼は欲に目が眩んでいて、富と栄誉を得るために奔走するのに必死だったのだろう。
彼は、自分の思い描いた通りに動かないろばに大きな怒りを燃やし、ろばから「わたしはあなたが、きょうまで長いあいだ乗られたろばではありませんか。わたしはいつでも、あなたにこのようにしたでしょうか」と問われるまで、主の道に反していた事も、主の使いが抜き身の剣を持って立ちふさがっていた事も、気づかなかったのだ。

主は、エルサレムに入られる時、ろばを召し入れるために言われた。
『向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう。』(マタイ21:2-3)

イエス様は、ろばがお入り用になった時、これこれのろばが、これこれの場所にいるから、縄をほどいて、連れて来なさい、と言われた。
主が私達を召しだされた時も、同じだったのではないだろうか。
ろばが主のもとに連れて行かれる時、誰かが何かを言っても、「主がお入り用なのです」と言わせて、誰も、主のもとに行かせるのに、邪魔しないようにして下さる。

私達は、イエス様をお乗せする「ろば」のようなものであるが、時に私達も、普段仕えている預言者が、欲に目が眩んで気違い沙汰に陥る事があるかもしれない。
彼を乗せて、主の剣が立っている所へと、鞭打たれながらも邁進して行かされてしまうような事があるかもしれない。
そのような時、主の剣が立っているのが見えたのなら、怒られようとも、呪われようとも、立ち止まるべきである。
その預言者の気違い沙汰を防いで、いのちを救うために。
いかに相手が、それまで支えてきた著名な預言者であろうとも、主は、ろばを弁護して下さったように、私達のほうを弁護して下さるのだ。

バラムのような気違い預言者を載せるろばではなく、イエス様をお乗せして運ぶろばとして、大いに用いられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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