メッセージ - 201309のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
王女としての整え(創世記18:1-15):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イスラエルを立ち直らせた、一人の一般人の提案(エズラ記10:1-5):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
蜜より甘い御言葉での腹ごしらえ(黙示録10章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:一度きりで終ってしまった預言の唇(民数記11:24-30):右クリックで保存

主は、モーセに与えられた霊を、長老たち七十人にも分与し、モーセ一人の重荷を、共に負わせる事にされた。
『この時モーセは出て、主の言葉を民に告げ、民の長老たち七十人を集めて、幕屋の周囲に立たせた。主は雲のうちにあって下り、モーセと語られ、モーセの上にある霊を、その七十人の長老たちにも分け与えられた。その霊が彼らの上にとどまった時、彼らは預言した。ただし、その後は重ねて預言しなかった。』(民数記11:24-25)

この時、長老として登録された人達のうち、エルダデとメダデという二人の人は召集に応じず、集うべき場に集っていなかったのに、その二人にも主の霊が注がれて預言した。
主の霊は至る所に満ちており、いかに人がどこに隠れようと、主は、その資格がある人には、霊を注がれるのである。

『若い時からモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った、「わが主、モーセよ、彼らをさし止めてください」。モーセは彼に言った、「あなたは、わたしのためを思って、ねたみを起しているのか。主の民がみな預言者となり、主がその霊を彼らに与えられることは、願わしいことだ」。』(民数記11:28-29)

モーセは、主の民全員に主の霊が与えられ、皆が預言する事を願った。
ヨシュアもモーセも「まさかそんな事は起きるはずは無いだろう」と思っていたであろうが、しかし、ご存知だろうか。現代まさに、そのような時代に突入している。
『終りの時には、/わたしの霊をすべての人に注ごう。そして、あなたがたのむすこ娘は預言をし、/若者たちは幻を見、/老人たちは夢を見るであろう。その時には、わたしの男女の僕たちにも/わたしの霊を注ごう。そして彼らも預言をするであろう。』(使徒2:18-19)
イエスを主とする人には、賜物として聖霊が与えられ、この聖霊の助けによって、諸々の御霊の良き実を結び、主のわざを為すのだ。

忘れてはならない。預言の霊が分与されたのは、長老たちも「重荷を負うため」であって、特殊能力が与えられて大いなる活躍をしたり、人の上に立って好き放題に指示したり、エキサイティングで面白い人生を送るためではない事を。
もし私達にも、預言などの何か特別な賜物が与えられるとしたら、それは、主の重荷を共に負うためである。
多くのタラントが与えられる人は、同時に、主からそれなりの成果も期待される事を、忘れてはならない。

ヨシュアが長老たちが預言するのを「止めさせて下さい」と願ったのは、もしかしたら、ある長老たちは集うべき時に集わず指示に従順しなかったのに、そんな長老達にさえ、預言の霊が与えられた事を不服だと思ったのかもしれない。
しかし、本当に幸いな人とは、預言する人よりもむしろ、主の御言葉を信頼し、従順して守り行う人、である。

事実、預言した長老たちの内、誰か一人でも、約束の地に入っただろうか?
むしろ、約束の地に入れたのは、いつもモーセに従い、主の幕屋から離れなかった、ヨシュアのほうだった。
ヨシュアとカレブは、主への信頼を貫き通し、大勢の人達がつぶやいてもそれに迎合せず、主への信頼を揺るがさなかったから、約束の地に導く指導者とされた。(民数記14章)
それに対し、長老たちは主への信頼を貫かず、大勢の人達と一緒につぶやく側に周り、結局誰一人として約束の地に入る事なく荒野で屍をさらして行った。

長老たちに預言が与えられたのは、モーセの重荷を分散し、共に重荷を負うためだった。それなのに彼らがやった事と言えばその逆で、民衆と一緒につぶやき、モーセの重荷を、増し加えただけだった。
そのような性質だから、「その後は重ねて預言しなかった。」(25節)とある通り、一度だけ預言して、ただそれで終わったのではないだろうか。

結局、主のために重荷を負って歩む気が、本人に無ければ、何の意味も無いのである。
サウル王も預言したが、御言葉を退けたが為に、王位は奪われ、それでも頑なになり続けたが故に、悲惨な最後を遂げた。

本当に幸いな人とは、預言したり目を見張る不思議を為して大活躍する人ではなく、主の御言葉を信頼して、守り行う人である。
自分の負うべき十字架を負い、モーセなど神の働き人と共に、神の働きの重荷を負って、神の民を導き、幸いを得て、約束の地・天の御国を受け継ぐ皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:想像を遥かに超えた分量の肉(民数記11:16-23):右クリックで保存

主は、モーセと民の願いの両方を聞き入れられ、実際に目に見える形で行動を起こして下さった。
しかし、後になって見ると、彼らが叫び願った事が叶えられた所で、結局、何も良くなってはおらず、民が主につぶやき主を怒らせる事も相変わらずだったし、そして、それを直さない人に待っているのは結局、滅びである。

主は、民が願った通り、肉を与えて下さるのだが、その与え方は半端ではない。
『あなたはまた民に言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすを待ちなさい。あなたがたは肉を食べることができるであろう。あなたがたが泣いて主の耳に、わたしたちは肉が食べたい。エジプトにいた時は良かったと言ったからである。それゆえ、主はあなたがたに肉を与えて食べさせられるであろう。
あなたがたがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、一か月に及び、ついにあなたがたの鼻から出るようになり、あなたがたは、それに飽き果てるであろう。それはあなたがたのうちにおられる主を軽んじて、その前に泣き、なぜ、わたしたちはエジプトから出てきたのだろうと言ったからである。』(民数記11:18-20)
なんと主は、二百万以上もの人々を、今後一ヶ月にも及んで満腹させる程の膨大な肉を与えられるという。
食料など何もない岩砂漠地帯に、主は、とてつもない分量の肉を、満たして下さる、というのだ。

『モーセは言った、「わたしと共におる民は徒歩の男子だけでも六十万です。ところがあなたは、『わたしは彼らに肉を与えて一か月のあいだ食べさせよう』と言われます。羊と牛の群れを彼らのためにほふって、彼らを飽きさせるというのですか。海のすべての魚を彼らのために集めて、彼らを飽きさせるというのですか」。』(民数記11:21-22)
きっとモーセは、目の前の六十万以上の文句を言う民に目を留め、海がどれ程広いか、どれ程生物がいるかも知らず、主にそのような事を告白したのだろう。

『主はモーセに言われた、「主の手は短かろうか。あなたは、いま、わたしの言葉の成るかどうかを見るであろう」。』(民数記11:23)
主の御業はなんと大きい事だろう。それに対して、人の頭はなんと小さいく、求めるものは何とつまらない事だろう。

人は思う。何故にそんなにも多くの肉を主は備えられるのか、と。
民の身勝手な要求に対して、そんなに多くの肉を与える必要ないのでは、やり過ぎでは、と。
しかし実は、その量の「膨大さ」に、主の怒りが込められているのだ。

主は、人が御言葉を軽んじて、欲望に飛び込んでいきたいのであれば、そうするがままにされるのだ。(ローマ1:24)
『不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。』(黙示録22:11-12)

いずれにせよ人は、主が提示された事を、計算する”くせ”があるが、主は、人の計算を遥かに超えた事を計画しておられる。
主に求める聖徒の必要は、人の思いをはるかに上回る形で主は叶えて下さり、また、身勝手な欲望を主にぶちまける人には、その人をその欲望のままに、滅びへと引き渡されるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:見ていると怒りがこみ上げてくる「泣き顔」(民数記11:10-15):右クリックで保存

タブエラでの主の懲らしめを無視するかのように、民は早速、つぶやきを再開した。
『モーセは、民が家ごとに、おのおのその天幕の入口で泣くのを聞いた。そこで主は激しく怒られ、またモーセは不快に思った。』(民数記11:10)

整然と十字の形の隊列を組んだ、主が住まわれる陣営、汚れた者の立ち入りを許さぬ聖なる陣営の、至る所で、肉欲が満たされぬ事を悲しむ人々が、泣いている。
それはなんと醜く、主の怒りを引き起こさせ、主に忠実に従おうとする人々を、なんと気落ちさせた事であろうか。

美しい涙と、醜い涙がある。
自分の中にある罪を悲しみ、主の元で悔いる涙は、美しい。
しかし、自分の欲望が満たされなかった事を悲しむ涙、思い通りに行かない事を嘆く涙は、醜い。その泣き顔は、神と人との怒りを引き起こす。
モーセはその醜い涙を見て、かつて無い程の「不快」な思いをした事が、彼の続く言葉から察せられる。

『わたしはどこから肉を獲て、このすべての民に与えることができましょうか。彼らは泣いて、『肉を食べさせよ』とわたしに言っているのです。』(民数記11:13)
人が霊的養いを受けてますます良くなり、健全になり、罪から離れ聖なるものとされて行く様が見れるのなら、どんな骨折りもいとわない、というのが、主の働き人である。
しかし、主の働き人であればあるほど、人の汚れた肉欲を満たしてさし上げるために奔走し、その人の罪や傲慢さが、つけ上がりの度合いが、日々育っていく様を見るのは、耐え難い苦しみである。

「人に仕える」事が、主の働き人のつとめだと、勘違いしている人がいる。
しかし、主の働き人は、人の肉欲に仕えるのではない。「主に」仕える人である。
だから、主への奉仕を阻害するタイプの人への奉仕は、人の罪を増し加えるだけであり、即刻、切り上げるべきである。

『わたしひとりでは、このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます。もしわたしがあなたの前に恵みを得ますならば、わたしにこのような仕打ちをされるよりは、むしろ、ひと思いに殺し、このうえ苦しみに会わせないでください」。』(民数記11:14)
モーセは当然、二百万もの人々を満たすような「肉」は、持っていない。
それなのに、人々はそれが必要だと要求する。
それでモーセは主に、こんな「重荷」はとても背負いきれない、こんな「仕打ち」をされるくらいなら、むしろ「殺して下さい」とまで言った。

私達も時に、似たようなジレンマに陥る事がある。
例えば、子供を養育するためにお金が必要である。でも、どう絞っても、無い。そんな事なら、むしろ、殺して下さい、と。
しかしキリスト者は、必要の満たしを「どこから」得ようかと奔走するのではなく、「どなたから」必要の満たしが得られるのかという信仰を、いつも持つべきだ。

主は、私達が思い煩うよりも前から、既に、私達の事を心配しておられ、必要なものを全て備えて下さるお方である。
『だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。』(マタイ6:31-34)
主は今、私達の主であるが、明日の主でもある。
その主に、呼び求めるべきである。

多くの民が至る所で、肉欲が満たされぬ事を悲しんで流したその涙は、主を怒らせ、モーセに死ぬほど嫌な重荷を負わせたような感覚を与えた。
民のその涙は、主の御心よりも自分の欲望を優先させたいという表明であり、エジプトが、世が、罪の飲み食いが、奴隷状態が、なつかしい、という告白であり、主の恵みへの否定であった。
モーセはいつまでも一方的に重荷を負わされ、民はいつまでも一方的に不平不満をぶちまける、という事が、延々と続くのだろうか?
主は、それを許されない。
その事を、次回以降に見て行きたい。

礼拝説教メッセージ音声:つぶやきと災い、そして再び、つぶやき。(民数記11:1-9):右クリックで保存

前章までの民数記は、壮大で驚くべき内容が多かった。
しかしこの章以降、読んでいてがっかりするような、怒りや悲しみが湧いてくるような、そして、恐ろしい内容が、多くなる。

前章までは、主が命じられた事を、民は反発もなく実行していた。
主に命じられた通りに守り行った結果は、必ず、良きものであり、美しく、壮麗壮大なものである。
しかし、人が主の命じられた通りに行わず、人の好き勝手に行った結果は、必ず、悪しきものであり、それは醜く、人を気落ちさせ、怒りや悲しみをあおるものである。
そして、そのような事を改めずに押し通そうとする者の最後は、恐ろしいものである。

『さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。そこで民はモーセにむかって叫んだ。モーセが主に祈ったので、その火はしずまった。主の火が彼らのうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。』(民数記11:1-3)

荒野の行進がいよいよ始まり、その様は壮麗なものだったが、それも、人々の「つぶやき」によって、台なしになってしまった。
主は人々のつぶやきを聞いて怒り、宿営の端を焼いた。
主が焼いたのは、宿営の中央ではなく、端、である。
そして、この災いで、誰かが殺されたという記録が無い事から、最小限の被害で、つぶやきを止めるようにという警告を、主は与えられたのだろう。

民はこの時、驚きあわてて、主にではなく、人間指導者モーセに願い、モーセの祈りによって、火は鎮まった。
このように、直接主に向かおうとせず、モーセや牧師のような人間霊的指導者におんぶにだっこ状態の人は、心から悔い改めるという事が難しい。
事実、この災いがあったというのに、なんとその直後、次の節で早速つぶやきを再開する。

『また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。』(民数記11:4)
エジプトを出てきたこの集団は、皆が皆、イスラエル人ではない。「多くの寄り集まりびと」が雑多に混じっていた。
彼らが真っ先に「ああ肉が食べたい」と叫び出し、それを見聞きしたイスラエル人も、情欲が掻き立てられ、連鎖反応的に、宿営の中に叫びが広がっていったのだ。

『われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。』(民数記11:5)
彼らは「ただで」と言っているが、果たしてそうだっただろうか。
彼らは奴隷として、息もつかせぬ重労働の内にエジプトに搾取され、将来も希望も一切無い状態だった所を、主が救い出して下さったというのに、その事がすっぽり抜けてしまっている。
また、彼らは具体的な野菜名を上げているが、それらはいずれも刺激があり、食欲をそそるものである。
「梅干し」と聞くと唾液が分泌するように、イスラエルの民は、この野菜名を聞いて、肉欲が刺激されたのだろう。

このような手段で聖徒をそそのかす人は、現代にも、いる。
私達はかつて、サタンの奴隷状態で、罪の結果の重労働と悪しき者の搾取の中、将来に何の望みも見いだせない所を、主によって救い出され、祝福の将来と永遠の希望が与えられた。それなのに、主が良くしてくださったそれら良き事を、すっぽり除外して、以前の肉欲の刺激そそる退廃的な生活を口に出して、なつかしむような人が。
私達はそのような者には要注意であり、彼らに耳を貸したり同意したりしてはならない。

『しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。』(民数記11:6)

しまいに彼らは、主が毎日欠かさず与えて下さっている恵みに、ケチをつけている。
サタンがエバを誘惑する時も、初めは、御言葉に疑いを持たせるような毒を小出しに混ぜ、次に肉欲をそそり、あたかも主は良いものを出し惜しみしているかのような疑いを起こさせ、そしてしまいには御言葉を全面否定し、そうしてエバを堕落へと引きずり込んだ。
サタンが人を堕落させるパターンは、そのようなものである。
私達はこのサタンの誘惑のパターンを知り、注意して回避すべきである。

『マナは、こえんどろの実のようで、色はブドラクの色のようであった。民は歩きまわって、これを集め、ひきうすでひき、または、うすでつき、かまで煮て、これをもちとした。その味は油菓子の味のようであった。』(民数記11:7)夜、宿営の露がおりるとき、マナはそれと共に降った。』(民数記11:7-9)

マナその性質は、主が日々与えて下さる恵みの性質であり、御言葉の性質であり、私達が日々必要とするものである。
それは朝の一定の時間に集めなければならなかったように、主の恵みにも拾うことの出来る時期があり、その時期が過ぎてしまうと、もう拾えなくなってしまう。
それは1週間ごとでも1ヶ月ごとでもなく、1日ごとに集めなければならない。
御言葉は朝ごとに新しく、1週間前に御言葉を得たから暫くは摂らなくて良いというものではないし、また、人の必要は日々変わるように、その人に必要な御言葉もまた、日毎に変わる。

マナには色々な料理方法があったように、御言葉も、人はそれぞれの生活、仕事、状況に応じて「料理」し、世界中の人が、それぞれの場面で、必要な霊的ないのちの養いを受けている。
きっと荒野では、あそこのお母さんが焼いたマナせんべいはとてもおいしい、という会話が、取り交わされたであろう。
同じように私達も、霊的に成長していない人には、御言葉を食べやすいように料理して養う働きも、ある程度は必要であるが、最も望ましいのは、個人個人が直接、主から御言葉をいただき、養いを得る事である。

私達はこの御言葉による養いを絶やしてはならない。
世の刺激にではなく御言葉の良さに目を留め、信仰の創始者であり完成者であるイエスキリストから目を離さぬ歩みをしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

栄光の家系の女達 – ラハブ3 救いと滅びを永遠に分ける日(ヨシュア記6:15−25)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ラハブは元々「遊女」だったが、同時に王族の女として、イエスの母の一人として、聖書は記している。
救いはただ、イエス(ユダヤ名「イエシュア」=ヨシュア=「神は救い」という意味)を、救い主とする事による。
イエス様を救い主とするなら、以前がいかに罪深く汚れていても、例外なく救われ、王族に加えられるのだ。
そして実際に救われるには、神の側から示された条件を「聞き」、それを実際に「行う」必要がある。
ラハブは、聞かされた事をすぐに「行い」、いつ来るとも知れぬ「かの日」が来るのを待った。
「かの日」とは、赤い印のある人には救いの日、印の無い人には滅びの日で、その日がいつかは、神のみが知っている。聞いた御言葉を信仰によって自分自身に結び付けず、いつまでも救いの行動を先延ばしにしたままにして、「かの日」を迎えてしまうのであれば、その人の永遠は、「滅び」として確定してしまう。
私達も、救いの御言葉を聞いた時、ラハブのように、すぐに信仰によって結び付けるなら、幸いである。

イエシュアの軍団は六日間、エリコの周りを回った。彼らに先立って進むのは契約の箱であり、その中には主の約束の御言葉が入っている。民も、契約の箱も、ものを言わない。ただ角笛の音だけが響いていた。
対してエリコは、神の軍が間近に迫っても頑なに城門を閉ざし、五日、六日と過ぎても行いを改なかった。
そしていよいよ、エリコに「かの日」が来た。
イエシュアの軍団がエリコの城壁を回って第七の日、契約の箱は七度回り、その七度目に、祭司たちが角笛を吹いた時、イエシュアは民に言った。「鬨(とき)の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた。・・・ただし、遊女ラハブおよび彼女と一緒に家の中にいる者は皆、生かしておきなさい。我々が遣わした”使い”をかくまってくれたからである。」(6:16-17)
その時、窓に赤い印を結びつけて息を潜めていたラハブは、イエシュアの軍団の角笛と鬨の声を聞いた。
自分達のいる回りの城壁が、大音響を立てながら崩れ落ちたが、彼女達がいた一角だけは崩れなかった。
イエシュアの軍団が、剣を手に攻め寄せて来るのが、赤い印をつけたその窓から見えたが、しかし彼らは、自分達のいる家には手出しせず、その周りは全て攻め滅ぼした。
そして、彼女がかつてかくまった、あの二人の使いが来た。今度は、彼らが彼女たちをかくまう番となり、赤い印をつけた家の人全員を連れ出し、安全な所へと導いた。そしてエリコは滅ぼし尽くされ、赤い印の内でかくまわれていた人達は、滅びの向こう側へと渡り行き、遊女だったラハブは、栄光の家系に入った。

全世界にとっての「かの日」は来ようとしており、その日、エリコに起きた事と同じ事が起きる。
今、約束の御言葉の実現は、静かに近づき、その音づれを世界中は聞いている。
そして人々は、それでも心を頑なにして自分の行いを悔い改めようとしない人達と、悔い改めて主イエス(イエシュア)に立ち返り、その憐れみにすがって救いの印を受ける人とに、分かれている。
七人の御使いが、七つのラッパを吹き鳴らす度に、災いが降り、第七の御使いがラッパを吹き鳴らす時、人類が積み上げてきた全ての営みは崩壊し、全てが私達の主イエシュアのものとなる。(黙示11:15)
その日、人類が築きあげて来た全ての「城壁」は崩れ落ち、頑なに悔い改めなかった人達は、イエシュアの軍団に滅ぼされ、イエス様の赤い血にかくまわれていた人達、神の印を押されていた人達には、かつて彼らがもてなした御使いが迎えに来て、安全に天の御国へと導き、永遠の栄光の救いに入る。

イエス様が十字架上で流された赤い血潮、それが私達の救いのしるしである。
イエス様が十字架上で私達の身代わりとなって死に、私達を救って下さったという事を、信仰によって私達自身に結びつけ、そうして救いの印を私達につけるなら、私達も救われるのだ。
ラハブは、救いの条件は「赤い印を、自分の所に結びつける事」であると聞いて、それをすぐに行ったように、私達も今すぐにでも、イエス様を救い主として、救いを得るべきである。
救いの行動を先延ばしにしたりせず、聞いた御言葉をラハブのようにすぐに信仰によって結び付け、「かの日」には救いのしるしを掲げつつ迎え、滅びが決して届く事なく「救い」を永遠に確定する皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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