メッセージ - 201309のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の時(哀歌3:19-39):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
異邦の女をめとった人達のリスト(エズラ記10:6-44):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主の御前の二人の証人(黙示録11:1-6):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:脳内ネフィリムに感染された十人(民数記13:25-33):右クリックで保存

『彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。』(民数記13:27-29)
斥候達が戻って来て報告した内容は、客観的事実であり、持ってきたくだものは、約束の地が祝福されている事の物的証拠である。

そこはまことに、乳と蜜が流れているかのように潤った、肥沃で良い地。二人がかりで担いだ一房のぶどうさえ産出する地。
そしてまた、強いカナン人が堅固な町々に住んでいる地。
この事実に対し、斥候達の評価は、真っ二つに分かれる。

『そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。』(民数記13:30-31)
カレブとヨシュアは「必ず勝つ」という判断をした。
しかし他の10人は、「そこに攻めのぼる事は出来ない」と判断し、その理由は「彼らはわたしたちよりも強い」からだとした。

ヨシュアとカレブも「彼らはわたしたちよりも強い」事は重々承知していたはずだが、なぜこの二人は、「必ず勝てる」と判断したのか?
それは、自分達の内におられるイスラエルの神は、彼らよりも遥かに強いと判断したからだ。
神はエジプトを十の災いで徹底的に打ち、追い迫るエジプト軍を海で滅ぼし、装備にも経験にも勝っていたアマレクに勝利させて下さった主は、この、強大なカナン人にも、必ず勝利させて下さる、と。

他の十人は、自分達に大いなる事をして来て下さった主を、きれいさっぱり忘れてしまったかのように、「自分たち」と「彼ら」とを比較した。
確かに、イスラエル民族だけで戦うなら、勝てない事は確実だろう。
相手は巨体で、弱肉強食の世界を勝ち抜いてきた共謀な者達である。
しかし、エジプトを滅ぼし荒野で養ったあの主が共におられるのだ。
ここに、普段から、主を主としている人と、そうでない人の違いが、あらわにされた。

『そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」。』(民数記13:32-33)

彼らは「勝てない」と不信仰告白しただけでなく、主が、何百年も前から彼らに継がせようとしておられた乳と蜜の流れる地を、悪く言いふらす事さえした。
彼らは「ネピリム人」がいる、と言ったが、御言葉によると、ネピリムはノアの洪水で全滅した筈である。
それでは彼らが見たという「ネピリム人」とは、一体何か?
それは、アナク人という背の高い現住民を誇張し、脳内で勝手に生成した太古の巨人、「脳内ネピリム」である。

神様は、彼らに目を留め、多くの奇跡によって救い出された。
それなのに彼らはなお、敵を過大に見積もり、神の民であるはずの自分達を「いなご」と卑しく見積もり、勝手に作り出した「脳内ネピリム」を声高に喧伝した。
人々を自分の思い通りに動かしたいがために、物事を良くも悪くも誇張し伝える人間にとって、何百も前から主が温めておられたご計画など、関係無いのだ。
このような性質こそ、安息の地に入れない人の特徴である。

しかし、主が定められていた約束を、信仰によって受け取る人は、その安息に入る事が出来る。
私達には、いつから、どんな祝福が約束されていたのだろうか。
『神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。』(エペソ1:3-5)

主は「あなたの信仰のとおりに、なれ」と言われた。
主は、天地を造られる前から私達を選び、きよく傷無き者にしようと、あらかじめ定めておられた。
その事を信じ、天にあるもろもろの霊的祝福を得て、主が愛をもってあらかじめ定めておられた祝福を、信仰をもって受け取る皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:良い地にはびこる、追い払うべき巨人(民数記13:17-24):右クリックで保存

モーセは、斥候部隊を遣わして主が約束された土地を探らせる時、その土地がどんなに良い所か、実際に目で見、よく調べ、くだものを運び来るように命じた。

『そこで、彼らはのぼっていって、その地をチンの荒野からハマテの入口に近いレホブまで探った。』(民数記13:21)
彼らはレホブまで、すなわち、ダマスコよりも北の、ユーフラテス川近くにまで、探りに行ったようであるが、その広大な土地の中で、特に重要な土地は、以下である。
『彼らはネゲブにのぼって、ヘブロンまで行った。そこにはアナクの子孫であるアヒマン、セシャイ、およびタルマイがいた。ヘブロンはエジプトのゾアンよりも七年前に建てられたものである。』(民数記13:22)

ネゲブは、主がアブラハムに現れた所であり、またヘブロンといえば、アブラハムがロトと別れた後に、主からさらなる祝福の約束を頂いて、定住した地である。
アブラハムはそこから近いマクペラの洞穴を買い、そこに妻サラを葬った。
そしてそこは、アブラハム・サラだけでなく、イサク・リベカ、ヤコブ・レアも葬られている。
ヘブロンは、アブラハム・イサク・ヤコブゆかりの地、彼らの墓がある土地であるが、その、信仰者が住べき土地には、アナク人という身長2mを超える巨人たちが住んでいた。

『ついに彼らはエシコルの谷に行って、そこで一ふさのぶどうの枝を切り取り、これを棒をもって、ふたりでかつぎ、また、ざくろといちじくをも取った。イスラエルの人々が、そこで切り取ったぶどうの一ふさにちなんで、その所はエシコルの谷と呼ばれた。』(民数記13:23-24)
ここでは、一房のぶどうさえ、大人が二人がかりで担がなくてはならない程、大きかった。

ヨシュアとカレブは、この探り巡ってきた土地を見て、強烈なあこがれを抱いたようである。
主が与えようとしておられた土地は、こんなにすばらしく良い土地だったのだ!
ぜひとも自分達のものにしたい!と。

多くの人達はアナクの子孫の巨大さに怖気づいたが、しかしその巨人達は、85歳の老人の信仰によって、あっけなく倒された。
その老人とは、この斥候部隊の中に加わっていた、エフネの子カレブである。
彼は、斥候部隊としてこの土地を探っていた時は40歳だった。しかしその45年後、彼らは信仰によって進み出て、勝利し、その土地を勝ち取った。
実に、45年もの間この土地を望み見続け、そしてようやく手に入れたのである。

彼が45年も待ちぼうけをくらってしまったのは、斥候部隊の他のメンバーが、ヨシュアやカレブが見るようには見ず、不信仰に陥ってしまったからである。
不信仰に陥ってしまった彼らは、その土地の素晴らしさではなく、敵の巨大さや城壁の堅固さを見、それと自分達の力とを比較してしまったのである。
しかし、ヨシュアとカレブは、確かに敵の巨大さや城壁の堅固さも見たが、それらを主と比較したため、これは楽勝だ、と思ったのだ。

主が「この方面へ行け」と言っておられる時、そこを探る際は、誰と誰を比較すべきかが大事である。
自分と相手を比較すると、罠に陥る。
しかし、主と相手とを比較するなら、平安があり、勝利がある。

信仰者が定住すべき土地には、元々、巨人が住んでおり、まず、それを倒さなくてはならない。
私達も、心の内に邪悪な巨人が住んでいて、それが邪魔をして、安息して生活できなくしている場合がある。
その巨人とは、過去に受けたトラウマであったり、どうしても止められない不健康な習慣であったり、どうしようもない性格であったりする。
しかし、それらに対して怖気づいてはならない。
肉に頼るのではなく、御霊によって望むなら、御霊の圧倒的な破壊力でもって、その敵を打ち破る事が出来るのだ。
『わたしたちは、肉にあって歩いてはいるが、肉に従って戦っているのではない。わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』(2コリント10:3-6    )

礼拝説教メッセージ音声:霊的負け組のパターン:御心に自分の提案を混ぜる(民数記13:1-16):右クリックで保存

民数記の13から14章にかけては、イスラエル民族にとって最も忘れてはならぬ戒めの箇所であり、それは私達にとっても同じである。
なぜなら、イスラエルの民は、必ず占領できるという主からのゴーサインをいただき、その地からもう目と鼻の先の所に来て、あとはそこに入って占領するだけ、という場面まで来ていたのに、彼らは余計な事をし、余計な判断をしてしまい、結局、その世代の人は約束の地に入れず、子の世代にも38年もの放浪をさせてしまったからだ。
私達も、主が今にも幸いと祝福を与えようとしておられるのに、余計な事をしてしまったり、主の言葉に余計な判断を混ぜ込んでしまって、せっかくの祝福を自ら拒んでしまう、というような事が「ありがち」である。

『主はモーセに言われた、「人をつかわして、わたしがイスラエルの人々に与えるカナンの地を探らせなさい。すなわち、その父祖の部族ごとに、すべて彼らのうちのつかさたる者ひとりずつをつかわしなさい」。』(民数記13:1)
ここを見ると、カナンの地に入る前に斥候を遣わすように命じられたのは、主だったかのように思えるが、そうではない。ここに至るまでの経緯は、申命記に記されている。

『われわれの神、主が命じられたように、われわれは、ホレブを出立して、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を通り、アモリびとの山地へ行く道によって、カデシ・バルネアにきた。その時わたしはあなたがたに言った、『あなたがたは、われわれの神、主がお与えになるアモリびとの山地に着いた。見よ、あなたの神、主はこの地をあなたの前に置かれた。あなたの先祖の神、主が告げられたように、上って行って、これを自分のものとしなさい。恐れてはならない。おののいてはならない』。』(申命記1:19)

イスラエルの民は、約束の地カナンからは、もうあと目と鼻の先のカデシュ・バルネアにまで来ていた。
そこで主は、カナンの地は既にあなた方の手に渡している、だから行って、自分のものとしなさいと言われており、モーセも、既に勝利宣言を出していた。
あとは実際に行って、勝利を受け取るだけ、という場面である。
そこに民は、余計な提案をした。

『あなたがたは皆わたしに近寄って言った、『われわれは人をさきにつかわして、その地を探らせ、どの道から上るべきか、どの町々に入るべきかを、復命させましょう』。』(申命記1:22)
自分達がそこに入る前に、事前にリサーチさせてほしいという提案は、極めて常識的で、まっとうである。

しかし、主の導きの下にある生活では、主が既に「これをせよ」と命じられている状況下で、自分でも判断がしたいがためにリサーチする事は、御心に不純物を混ぜ込む事であり、主の御業を阻害してしまう事なのだ。

『このことは良いと思ったので、わたしはあなたがたのうち、おのおのの部族から、ひとりずつ十二人の者を選んだ。』(申命記1:23-26)
モーセはこの時、それは良いとおもった。
なぜなら、その土地がいかに良い所かを、彼らが探り見れば、民はますますその土地に入るのが楽しみになり、士気がますます鼓舞されるだろう、と思ったからである。
実際、ヨシュアとカレブはそのような反応をしたし、モーセとしても、民がまさかそれ以外の反応をするとは、考えつかなかったのかもしれない。

『モーセは主の命にしたがって、パランの荒野から彼らをつかわした。その人々はみなイスラエルの人々のかしらたちであった。彼らの名は次のとおりである・・・。』(民数記13:3-4)
ここでイスラエルの人々のかしら達の名が上がっているが、その中に、ヌンの子ホセアがいる。
ホセアはこの時、モーセによって「ヨシュア」という新しい名を付けられた。
ホセアの名前は「救い」という意味、ヨシュアは「主は救い」という意味である。

ヨシュアの親はもしかしたら、彼が生まれた時、自分で自分を救えるような強い者となって欲しい、という願いを込めて、名づけたのかもしれない。
しかしモーセは、主こそ救いの拠り所であるとし、彼には、その名の通りになって欲しいと思って、新しい名をつけてから、斥候として遣わしたのかもしれない。
彼の名前は、重要である。救いは、自分の力には無い。主にのみ、救いがあるのだ。

自分の力や知恵を、救いの源とする所には、罠が潜んでいる。
会社の会議などでは、自分の提案を主張して人々を説得する事は当たり前のように行われ、それがうまく出来る人が出世するものだが、神の国では、逆である。
御言葉の真理に対し、自分の良かれと思った事や、自分の提案を混ぜ込む事は、霊的負け組のパターンである。
ヨシュアとカレブ以外は、その罠に陥ってしまい、ここぞという時に、約束の地に入る事を、自ら拒んでしまった。

見える所によってではなく、主の御言葉の約束に依り頼みつつ歩み、生きていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:非難するミリヤム、飲まれるアロン、執り成すモーセ(民数記12:10-16):右クリックで保存

『主は彼らにむかい怒りを発して去られた。雲が幕屋の上を離れ去った時、ミリアムは、らい病(ツァラアト)となり、その身は雪のように白くなった。アロンがふり返ってミリアムを見ると、彼女はらい病(ツァラアト)になっていた。 』(民数記12:9-10)
ミリヤムが主にツァラアトにされてしまったのは、権威に逆らう高慢さの故である。

ウジヤ王も同じように、高慢さの故に主に打たれ、ツァラアトにされた。(2歴代誌26章)
彼は最初は、主の御心に叶う事を守り行う、良い王だった。
それで主は彼を助け、ペリシテ人に勝利させ、内政も軍備も充実させる事で、その名声は鳴り響き、大いに強くなった。
『ところが彼は強くなるに及んで、その心に高ぶり、ついに自分を滅ぼすに至った。すなわち彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。』(2歴代誌26:16)
律法によると、主の宮に入って香を炊く事が出来るのは、王ではなく、祭司のみであり、その事を祭司アザルヤによって戒められたが、ウジヤ王はそれを聞くと激しく怒り、頑として、思っていた事を為そうとした、まさにその時、彼の額に、ツァラアトが現れた。
彼は死ぬまでツァラアトに冒され、隔離されたまま生涯を終えた。

ウジヤ王がツァラアトになったのも、ミリヤムと同じ「高慢」故であり、戒めを聞かず、怒り、頑なになったからである。
彼は、生涯の前半、輝かしい実績の数々を残した。それなのに、その成功が高ぶりを呼び起こし、それがツァラアトという実体となってしまい、人生の後半は、ツァラアト患者として隔離され、死んだ後も、王たちの墓に葬られるのではなく、連なる墓地に葬られた。

このように主は、その人の内に秘められた高慢が、ある点に達した時、明らかな形で打たれる。
成功した時こそ、注意が必要である。
罪や高ぶりを悔い改める事は、一生続けるべきものであり、「悔い改め」なる「苦行」を10回したら、もう悔い改めはしなくても良い、といった類のものでは、決してない。
従順と謙遜、そして悔い改めを、私達は一生続けるものであり、終わりは無い。

「ツァラアト」は、私達の肉の奥底に住んでいる「内住の罪」をよく表している。
この病は、皮膚の奥底に潜伏し、表面化しない事も多い。
またこの病は、伝染するものであり、それに犯されている事が発覚した場合は、人々から離れる事が定まっている。
実際アロンは、ミリヤムの「権威への不従順というツァラアト」が、伝染されてしまった。

『そこで、アロンはモーセに言った、「ああ、わが主よ、わたしたちは愚かなことをして罪を犯しました。どうぞ、その罰をわたしたちに受けさせないでください。どうぞ彼女を母の胎から肉が半ば滅びうせて出る死人のようにしないでください」。その時モーセは主に呼ばわって言った、「ああ、神よ、どうぞ彼女をいやしてください」。』(民数記12:11-13)
ミリヤムがツァラアトに冒されたが、悔い改めの口火を切ったのは、アロンだった。
それもアロンは、主(エホバ)にではなく、モーセに「主よ」と言って願い、それでモーセは、主(エホバ)に直接執り成し祈った。

十二章の登場人物がそれぞれした事と、語った言葉を見てみると、とても興味深い。
まずミリヤムは、モーセを非難する言葉を語ったが、主に打たれ、ツァラアトに冒されたのに、悔い改めも謝罪の言葉も無かった。
アロンは、ミリヤムの高慢や嫉妬に「感染」し、一緒にモーセを非難するために入って来たが、彼女が主に打たれた時、主にではなくモーセに執り成しを願い求めた。
そしてモーセは、彼女達に非難された事に対しては何の口も開かず、主が直接弁護して下さり、そして、主に打たれたミリヤムのために、直接執り成した。
ミリヤムとアロンの訴えは「主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのではないのか」だったが、もはや、勝負ありである。

『主はモーセに言われた、「彼女の父が彼女の顔につばきしてさえ、彼女は七日のあいだ、恥じて身を隠すではないか。彼女を七日のあいだ、宿営の外で閉じこめておかなければならない。その後、連れもどしてもよい」。そこでミリアムは七日のあいだ、宿営の外で閉じこめられた。民はミリアムが連れもどされるまでは、道に進まなかった。』(民数記12:14)
彼女は七日間ツァラアト患者として隔離され、その後、癒されたようである。
そして民は、ミリヤムが連れ戻されるまでは旅立たなかった。
この事は、宿営全体が知り、見ていた事なのだ。
それ程、彼女がした罪、すなわち、権威に逆らう罪は、見過ごしに出来ない事であり、また、権威に逆らうと、どんな罰が待っているのか、民は見知ったのである。

私達はモーセのように、キリストのように、謙遜で、主ご自身から直接弁護される者でありたい。
『キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。』(1ペテロ2:22-24)

礼拝説教メッセージ音声:モーセの人となり(民数記12:1-8):右クリックで保存

モーセの姉ミリヤムは、アロンを引き連れて来て、モーセを非難した。
『モーセはクシの女をめとっていたが、そのクシの女をめとったゆえをもって、ミリアムとアロンはモーセを非難した。彼らは言った、「主はただモーセによって語られるのか。われわれによっても語られるのではないのか」。主はこれを聞かれた。 』(民数記12:1-2)
モーセがどういう経緯と理由でクシ(KJV:エチオピア)の女をめとっていたのか、聖書に記されていないので分からないが、とにかく、ミリアムはその点を訴えの拠点とし、あなたにはこれこれの罪がある、だからあなたは指導者としての資格は無い、だから我々をもっと活躍させろ、という論法で詰め寄った。

ミリアムは、主がエジプト軍を海で打たれた時も、女達の先頭に立ち、率先してタンバリンと踊りで主をほめたたえた。
また彼女は「女預言者」である。度々、主からの預言が与えられていた。
それなのに、なんで弟のモーセだけ目立つのか、自分達も預言を語るではないか、と、常日頃思っていたのかもしれない。
前回の箇所では長老たち七十人にも預言の霊が与えられたのを見て、彼女はもしかしたら、自分の立ち位置に不安を覚え、このタイミングでモーセの欠点を突いて訴え出て来たのかもしれない。

どんな理由であれ彼は、異邦人を妻としている事は否めない。それは律法に照らせば、良くない事である。
モーセはそれに対し、何の口答えもしなかったようだ。

『モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。』(民数記12:3)
モーセの人となりを表す「柔和」と訳されたこの言葉「アナーブ」には、他にも「貧しい、弱い」の意味があり、七十人訳聖書では「プラウース」と訳され、「非難を受けた際は即座に反応しない」性質である。

モーセは、色々の場面において、実にそうだった。
民から分からない事を質問をされた時も、適当に即答する事をせず、主に伺ってくるから待つように指示したし(民数記9:8)、民がモーセにつぶやいた時や非難した時も、口答えする事なく、いつでもすぐ主にひれ伏した。(民数記14:5、16:4,45、20:6)
主に用いられる人とは、強い人でも知恵ある人でも、カリスマ性のある人でもない。柔和な人である。
なぜなら、「柔和」な性質が、キリストのご性質だからである。
そしてそれは、とても楽で平和な、心地良い道である。
『すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。 』(マタイ11:28-30)

ミリアムの非難は、会見の幕屋ではない場所で、すなわち、プライベートな場所で為された事だったが、主の耳はどこにでもあり、それを聞いておられ、即座に「あなたがた三人、会見の幕屋に出てきなさい」と言われた。
ミリアムは人々の先頭に立って指導する事を得意とし、アロンは弁が立って物事を丸く収める事に長けているが、口下手で、口答えをしない、いつでも主にひれ伏す柔和なモーセの弁明は、主御自身がして下さった。

『彼らに言われた、「あなたがたは、いま、わたしの言葉を聞きなさい。あなたがたのうちに、もし、預言者があるならば、主なるわたしは幻をもって、これにわたしを知らせ、また夢をもって、これと語るであろう。しかし、わたしのしもべモーセとは、そうではない。彼はわたしの全家に忠信なる者である。彼とは、わたしは口ずから語り、明らかに言って、なぞを使わない。彼はまた主の形を見るのである。なぜ、あなたがたはわたしのしもべモーセを恐れず非難するのか」。 』(民数記12:6-8)

主は彼を、「わたしのしもべモーセ」「彼はわたしの全家に忠信なる者」と評価された。
彼は神の友呼ばれ、他の人には語らない事でも、主は明瞭に語られた。
主は、普通の預言者には、夢や幻によって、おぼろげに、断片的に語るが、モーセにはそうではない。
主はモーセには口ずから(KJV: マウス・トゥ・マウスで)語り、なぞを使わずに、ご自身を明らかに表明される。

人には誰しも必ず欠点があり、もし主が人の欠点を見るなら、この世の誰をも用いる事はしなかっただろう。
主は、人の罪を見てその罪に従ってあしらわず、柔和な人、主に従順な人を用いられるが、人の些細な欠点をじっと見て非難し、貶めるような人を、主は退けられる。
モーセのように、物事を自分で即断せず主に持っていく性質の人であればあるほど、主はますます親しく語られ、謎を明らかにされ、ご自身をはっきりと示される。

『僕たる者よ。心からのおそれをもって、主人に仕えなさい。善良で寛容な主人だけにでなく、気むずかしい主人にも、そうしなさい。もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、それはよみせられることである。 悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、これこそ神によみせられることである。
あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。
キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。』(1ペテロ2:18-24)

栄光の家系の女達 – ラハブ4 有力者への子育て(マタイ1:5-6a)
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イスラエルがエリコを陥落させたヨシュアの時代、イスラエルは敵無しだった。御言葉から右にも左にも離れず、神の民として大いに栄え、祝福され、国々から恐れられた。それなのに、その子・孫の世代は、主の御言葉に従順しなかったため、外敵の攻撃や、ききん等によって、不安定な生活を強いられていた。
ラハブが憧れた、あの神の民は弱くなってしまい、神の民として恐れられていたイスラエルの威光は、わずか二,三世代で地に落ちてしまったが、そんな時世のイスラエルでも、着実に力をつけ有力者として成長して行った一族は、確かにあった。ラハブが嫁いだ家も、そうである。彼女の子ボアズは、有力者となった。
異邦人で遊女だったラハブを、妻として迎えた男性は、サルモン(名の意:平和を好む)という男である。
異邦人や不品行に厳しいイスラエルの中で、ラハブをめとり、彼女との間に生まれた息子・ボアズを養う時、世間の理不尽な差別や偏見もあったであろう事は、想像に難くない。
しかし、社会事情も家庭事情も、不利に不利が重なっているような状況であっても、このサルモンとラハブの家庭は、着実に力を伸ばして行き、彼らの子ボアズは、時代の有力者になった。
ラハブは異邦人として生まれ、人生の大半を、悪しき習慣に染まって過ごして来た。だから、律法の教育によって正しく子育てできる自信もスキルも、無かったであろう。それでも、彼女の子は、立派に育った。
その秘訣は一体何だろう。ボアズの言動から、ラハブ達がどう彼を育てたのかを、想像して行きたい。

ボアズは身内との挨拶に「主が共におられるように」という祈りと、「主が祝福して下さるように」という祝福の挨拶を、日常的に交わしていた。(ルツ2:4)という事は、家庭の中でも幼い頃から、頻繁に祝福の挨拶が為されていたはずである。家庭内で、祝福の挨拶を取り交わす事。これが有力者への第一歩である。
ラハブは在留異邦人であり、弱き立場の彼女を憐れむ主の恵みを、多くいただいていた故、息子にも、主の「憐れみ」のわざを、自分のものとするよう、教えた事だろう。事実、ボアズは在留異国人ルツのために「わざと」穂を落とすよう指示した。(ルツ2:16) 在留異国人や、やもめを憐れみ養う主のわざを、自分のわざとし、主の思いを自分の思いとするからには、主から祝福を受けない訳は無い。主は、惜しみなく与える人には、さらに押入れゆすり入れして与え、その人が憐れみのわざを為す力をさらに与えられるのである。
また、ナオミは、全能者が自分をひどい目に合わせた、自分をマラ(苦しむ)と呼ぶよう人々に言った。
それ対し、ボアズは、主は「報いて下さるお方」「翼の下でかくまって下さるお方」と告白した。(ルツ2:12)
この事から、主は全能者であり、その翼の下に救いを求めて来る人には、報いて下さるお方だと、ボアズは常々教育されていたのだろう。実際、母ラハブの人生は、まさにそれを実体験して来た人生だった。
またボアズは、自分のはやる思いは抑え、律法のルールに従順した。
若く美しいルツにせまられた時も、自分よりも権利のある親類をさし置いて身勝手は出来ないと告げ、正式な買い戻しの手続きを踏んでから、ルツを公に、正式にめとった。それだから、皆から公に祝福された。
結婚が皆から公に祝福されるコツは、身勝手に走らず、公に、御言葉のルールを踏み行う事であり、情欲に流され、御心に反し、親や世間にも逆らった、誰からも祝福を得られないような結婚は、必ず挫折する。

ラハブは元々、異邦人の遊女だった。にもかかわらず、主から多く赦された。だから人一倍、多く主を愛したのだろう。『この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。』(ルカ7:47-48)
彼女は生まれながらのイスラエル人ではない。イスラエルのどの女性よりも、御言葉の知識は少ないし、そのたしなみも無かった。それでも人一倍、立派な子育てが出来たのは、主を多く愛したからであろう。
生まれや知識よりも、人一倍主の恵みを実感し、感動し、心底主に従順したいと願う事の方が大事である。
ラハブを見ていると、救いにも、子育てにも、「遅すぎる」という事は無い事が、本当にわかる。
主に愛され、多く赦され、恵みに包まれている事を実感し、御業に感動し、主をもっと知りたいという渇きがあるなら、生まれながらのイスラエル女を、すぐに追い越し、どの家よりも立派な子育てが出来るのである。
祝福の挨拶を交わし、主の憐れみを自分のわざとし、主は報いて下さるお方と告白し、御言葉のルールに沿った結婚をして、サルモンとラハブが築いた家庭のように、この災い多い世情においても、有力者となって栄える皆さんの家庭でありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:見渡す限り一面「肉」世界(民数記11:31-35):右クリックで保存

神を何か、欲望を叶える「道具」の一つのように見る人がいる。
レストランや学校などに、クレームを言えば言う程、色々なサービスを引き出せる、と、思っている人達がいるが、それと同じ感覚で、神や、モーセなど主の働き人に、うるさくクレームつければつける程、色々なサービスを引き出せる、と、思っているとしたら、大きな勘違いである。
私達は神にサービス(礼拝)を捧げる側で、サービスを受けられるのは、神の側である。
肉欲に駆られて不平不満をつぶやく民が、一方的に不平不満をぶちまけ、モーセなど主の働き人達が、一方的にその重荷を負わされる、という状態が、いつまでも続く事を、主は許されない。

『さて、主のもとから風が起り、海の向こうから、うずらを運んできて、これを宿営の近くに落した。その落ちた範囲は、宿営の周囲で、こちら側も、おおよそ一日の行程、あちら側も、おおよそ一日の行程、地面から高さおおよそ二キュビト(およそ八十八センチ)であった。』(民数記11:31)
人が一日ずっと歩き通しても、見渡す限りは、九十センチ近くにまで降り積もった、肉、肉、肉。
一面銀世界ならぬ、一面「肉」世界である。
これは、単純に「肉が与えられた」と喜んで良いものではなく、圧倒的な御業をなさる主を恐れ、今まで主につぶやいて来た事を悔い改めるべきではないだろうか。

『そこで民は立ち上がってその日は終日、その夜は終夜、またその次の日も終日、うずらを集めたが、集める事の最も少ない者も、十ホメルほど集めた。彼らはみな、それを宿営の周囲に広げておいた。』(民数記11:32)
一ホメルは、二百三十リットル、ゆったり目な風呂一杯分ほどである。
だから、少なく集めた人でも、風呂十杯分の肉を集めたのだ。
実に、驚くべき分量である。

彼らは望みどおり、向こう何日分もの肉が確保できた事を、喜んだかもしれない。
ところが、である。
主が備えて下さった、その驚くべき膨大な肉を見、手に取り、口の中にまで持っておきながら、それを歯の間に残したまま死んだ人達が、大勢いた。

『その肉がなお、彼らの歯の間にあって食べつくさないうちに、主は民にむかって怒りを発し、主は非常に激しい疫病をもって民を撃たれた。これによって、その所の名はキブロテ・ハッタワと呼ばれた。欲心を起した民を、そこに埋めたからである。キブロテ・ハッタワから、民はハゼロテに進み、ハゼロテにとどまった。』(民数記11:33-35)
もし、肉に病原菌が含まれていたとか、肉が腐っていた、とかいった事だったら、全ての人が害を受けていたであろう。
ところが、どうもそういう事ではなさそうで、ある特定の人々を狙い撃ちしたようである。
狙い撃ちされた人とは、すなわち、欲心を起こした民(34節)であり、相変わらず欲から離れなかった者達である。(詩篇78:27-29)
主が、圧倒的な御業によって恵みを与えられたのに、感謝もせず、主の素晴らしさを覚えもせず、望んでいた肉が与えられたら、早速欲深い手を伸ばし、ただ貪り食おうとした者達を、主は、打たれたのだ。

肉欲を追求して止まず、主に感謝もせず、ただつぶやくままにつぶやく者達に対し、主は、圧倒的な分量の肉まみれにして、その肉の中で、滅び行くまま任せられる。
そのような「主の滅ぼし方」もある事に、私達は恐れおののくべきである。
主から顔をそむけ、金を追求して止まない者を、主は、圧倒的な金で満たして、滅び行かせる。
権力、名声、快楽を追求して止まない者を、主は、圧倒的な権力、名声、快楽で満たして、滅び行かせる。
私達は滅びる前に、それらを手放し、主に心を向けるべきである。

『彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。・・・また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。』(1コリント10:5-11)

私達は、これらの事から教訓を得るべきであり、また、次の主の言葉をよく心に刻みつけるべきである。
「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである。」(ヨハネ6:26-27)

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