メッセージ - 201309のエントリ

栄光の家系の女達 – ルツ2 信仰をもって畑に飛び込め(ルツ記2:1-3)
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ルツがイスラエルに初入国した時、彼女は、モアブ出身の一介の未亡人で、頼るべき男手も、財産も一切無い、一緒にいるのは、ただ傷心に沈んでいる、年老いた姑のナオミだけという人生を歩み出すには、あまりにも不利な条件が揃いすぎている状況であった。
しかし彼女は、偉大な王・ダビデの曾祖母となり、全世界を祝福へ導くイエスキリストの母として名を連ねた。
私達もルツのように、栄光の家系へと加えて頂く事が、可能である!
たとい当時のルツのように、弱く頼り無くても。いかに、人生を生きるには不利な条件ばかり揃っていても。

ルツ達は、大麦の刈り入れの時期にベツレヘムに着いた。落ち穂拾いが出来るのは、刈り入れた日から一、二週間ほどの短い期間で、ルツ達は、それが出来るちょうど良い時期に、ベツレヘムに着いた。
困難な状況の中でも、主が与えて下さった、ちょうど良いタイミング。しかしナオミは、落ち穂拾いには行けなかった。誰かの畑に入って落ち穂を拾わなくてはならないまでに落ちぶれてしまった自分を、昔ながらの知り合いの前に、晒したくなかったのだろう。しかしルツは、イスラエルの神が定めて下さった「落ち穂拾い」という憐れみにすがり、取るものも取り敢えず、落ち穂を拾うために、どこかの畑に飛び込んだ。
信仰が萎え果て、何も出来なくなった時でも、信仰によって育てた霊的な娘が助けてくれるのである。

外国人の彼女が、他人の畑に入り、人が取りこぼした落ち穂を拾い集める。それは、どれほど恥をしのぶ行為だっただろう。それでも彼女は、ただ謙虚に、膝をかがめて、憐れみにすがった。
私達も、「恵み」という 落穂を拾うには、謙虚に膝をつき、低くかがむ事によって、拾う事が出来る。
困った状況に陥った時、「自分は大丈夫だ」「人の憐れみなどいらない」などと、やせ我慢をしてしまうと、そのプライドが、逆に自分の首を締め、ますますどうにもならない状況へと、追い詰められてしまう。
主の恵みを頂くには、まず「誇り高さ」や「自尊心」は、打ち砕かれていなくてはならない。
主は憐れみ深い。どんなにそしりを受けても、口をちりにつけて主の救いを黙って求めるなら、主はいつまでも見放してはおられず、豊かな恵みによって憐れんでくださるのだ。(哀歌3:22-32)

ルツも、ラハブ同様、まず信仰告白によって神の民に加えられるチケットを手に入れた。
パーティーのチケットを手に入れたなら、その会場に実際に行って使わなければ、そのチケットの恩恵に預かれないように、信仰告白によって手にした「天のパーティーチケット」を「使う」には、恵みが落ちている畑へと実際に行き、その中に飛び込み、落ち穂拾いをしなければならない。
ルツは思い切って刈り入れをしている一つの畑に飛び込んだが、「そこはたまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった。」(2:3)ルツは、それとは知らずに飛び込んだのだが、単なる偶然ではない。
ルツがこの畑に飛び込んだのも、ダビデがゴリアテに致命傷を負わせる石を放ったのも、一人の兵が悪王アハブに致命傷を負わせる矢を放ったのも、それら全ては、「何気なく」であったが、主は人や環境、状況の「何気なく」を支配して御心を行い、信仰を持って第一歩を踏み出す人に、恵みを与えて下さる。
しかし、思い切って畑に飛び込まない者、石を投げない者、弓矢を引かない者には、何も下さらない。
ルツがたまたま飛び込んだボアズの畑は、私達が頼りとした主・イエス様が支配される神の国のようであり、ボアズは、私達を買い取ってくださるイエス・キリストの雛型である。私達も、それまでの自分中心の生き方を捨て、イエス様を主とし、神様を中心とした新しい生き方へと飛び込むなら、「選ばれた種族、王族の祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(1ペテロ2:9)へ加えられるのである。

この世の営みは、落ち穂を拾うようなものかもしれない。仕事も、家事も、恥を忍ぶ日々である。
しかし、イエス様を主として、「神の国」にいる限り、恵みは落穂のように、必ず落ちている。
いかに不利な条件が揃いすぎている状況であっても、信仰告白によって、天の王国のパーティーチケットを入手し、信仰によって畑に飛び込んでそのチケットを「使い」、そして、謙虚に恵みをいただく「落穂拾い」によって、主から豊かな恵みをいただき、地上においては家族をしっかり養い、天を故郷とする栄光の家系へと加えられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
兄弟姉妹を愛しなさい(1ヨハネ3:16-24):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
系図が明かすキリストの真理(マタイ1:1-16):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
三日半の後にいのちが入り(黙示録11:7-13):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:とんちんかんな人の特徴(民数記14:37-45):右クリックで保存

『モーセが、これらのことを、イスラエルのすべての人々に告げたとき、民は非常に悲しみ、、、』(民数記14:39)

彼らは、主の約束された地に入れない事が確定してしまった事を、悲しんだが、そんなに深刻に悲しんだわけではなかったようだ。
11章では、大勢の人達が宿営のあちらこちらで「ああ肉が食べたい」と泣いていたし、14章のはじめでは、約束の地には力の強いアナク人がいると知らされた時は、会衆みな声をあげて叫び、夜どおし泣き明かしたが、それらに比べると、悲しみの表現の度合いは、明らかに小さい。
結局、彼らにとって、主の約束の土地を受けられなくなった事には、あまり深刻さを覚えず、むしろ、自分の腹の欲求や、ほしいままの思いが満たされない事のほうが、より大きな悲しみなのだ。

彼らの悲しみは、御心に添えなかった事を悔いるものでも、自分の罪を悲しむものでもなく、ただ、自分の望みが叶えられない事への悲しみだった。
その証拠に、彼らは早速、次のように言っている。
「わたしたちはここにいる。さあ、主が約束された所へ上って行こう。わたしたちは罪を犯したのだから。」(民数記14:40)

彼らはモーセやカレブの勧めを、そして、主の命令を、ことごとく拒否し、モーセ達を石で撃ち殺してでも、エジプトに帰ろう、と言っていた。
ところが、いざ、主が「葦の海を引き返せ」と、すなわち、エジプト方面へと戻れと言われると、今度は手のひらを返したように「さあ、主が約束された所へ上って行こう」と言いだす。
なんという、とんちんかん、なんと御心に逆行してばかりいる民だろうか!
自分のやりたい事で頭がいっぱいで、ウズウズしているような人は、いつもその通りである。

『しかし、彼らは、ほしいままに山の頂に登った。ただし、主の契約の箱と、モーセとは、宿営の中から出なかった。そこで、その山に住んでいたアマレクびとと、カナンびとが下ってきて、彼らを撃ち破り、ホルマまで追ってきた。』(民数記14:44-45)
彼らは「ほしいままに」自分で決めた道を貫こうとした。
主の箱と、モーセは、宿営にとどまり、そちらに「行かない事」が御心であると、はっきり示されているのに。
それでも彼らは行ってしまい、あっけなく、返り討ちにあってしまう。

彼らは、山の頂を越えて約束の地に攻め入るのが「良いこと」だと思ったのだ。
主は確かに、かつて、そこに攻め上れ、と、言われた事はあった。
しかし、彼らが思う「良いこと」が、主の御前にも「良いこと」であった時期は、もはや、その前日に終わってしまっており、今や、攻め入る事のほうが「悪いこと」となっているのだ。

私達も、そのような過ちを犯しやすい。
伝道する事が良いこと、礼拝を捧げる事が良いことだと思って、無鉄砲に飛び込み、かえって、物事を悪くしてしまう事がある。

パウロは、第二次宣教旅行の時、前回はアジヤでの伝道が成功したから、今回もアジヤで頑張っていたのに、行く先々、聖霊によってはばまれ、大した成果も無いまま、千キロ以上もさまよう事になった。主の御心はその時、アジヤではなく、マケドニアにあったのである。(使徒16章)
サウル王は、預言者サムエルをただ待つべき時に、待っていられず、礼拝を捧げることが良い事だと考え、勝手にいけにえを捧げてしまい、それで御心を損ねてしまった。

クリスチャンは、伝道も礼拝もいけにえも、両手放しで「良いこと」だと思っている。
しかし、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。そして、御声にそむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪である。(1サムエル15章)

料理には賞味期限があるように、御声に聞き従い、それを行う事にも、期限があるのだ。
賞味期限切れのものを食べたらお腹をこわすように、”御心期限切れ”の行いは、ただ自分を滅ぼすだけだ。

何事にも、定まった時がある。(伝道者の書3章)
主のなさる事が美しいのは、時に叶った事をなさるからだ。
しかし自分の事で頭がいっぱいの人は、御心を無視し、美しくない事、見苦しい事、とんちんかんな事をする。

とんちんかんな事をするコツは、主の声や他人の声に「耳を貸さない」事であり、時に叶った美しい事をするコツは、主の声や他人の声に、よく「聞き耳を立てる」事である。
主の時を見極め、時に叶った美しい事を為し、神と人とを喜ばせ、祝福を得る皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:口で語った通りの刈り取り(民数記14:26-36):右クリックで保存

前回の箇所で、主ご自身から直接警告を受けたにもかかわらず、イスラエルの民は、あちらこちらで早速、主につぶやいた。
『主はモーセとアロンに言われた、「わたしにむかってつぶやくこの悪い会衆をいつまで忍ぶことができようか。わたしはイスラエルの人々が、わたしにむかってつぶやくのを聞いた。』(民数記14:26-27)
主の耳は至る所にあり、民が何気なくつぶやくそのつぶやきは、主の耳に向かって直接語るようなものである。

この民、神とモーセ達からの再三の警告にもかかわらず、主に逆らうその性質を、改める事をしなかった。
それで、ついに、二十歳以上の男子は全員、主が入らせようとした約束の地には入れず、荒野で死体としてて倒れてしまう事が、確定してしまった。
「わたしは生きている。あなたがたが、わたしの耳に語ったように、わたしはあなたがたにするであろう。あなたがたは死体となって、この荒野に倒れるであろう。あなたがたのうち、わたしにむかってつぶやいた者、すなわち、すべて数えられた二十歳以上の者はみな倒れるであろう。」(民数記14:28-29)
また、彼らの子の世代は、荒野を四十年放浪する事が確定してしまった。それは、親の「不信の罪を負う」ためである。(同33節)

モーセ五書をおおざっぱに説明する時、「主は、イスラエルの民の不信仰のため、荒野で四十年間放浪させ、エジプトを出た世代は誰も約束の地に入れず、荒野で死んでいった」のように、要点だけの説明がされるため、あたかも、主は、人が少しでも罪を犯したら、すぐにでも厳しい罰を下されるかのような印象がある。
しかし、ひどいのは主ではなく、逆らってきた人間のほうである。
主はどれ程、民の悪行を忍耐され、それでも彼らに必要なものを満たされ、罪を赦されて来たか、それに対し、民はいかに調子に乗って、主とモーセに逆らってきたか、今まで学んで来た皆さんは、見てきただろう。

『あなたは彼らに言いなさい、『主は言われる、「わたしは生きている。あなたがたが、わたしの耳に語ったように、わたしはあなたがたにするであろう。あなたがたは死体となって、この荒野に倒れるであろう。あなたがたのうち、わたしにむかってつぶやいた者、すなわち、すべて数えられた二十歳以上の者はみな倒れるであろう。』(民数記14:28-29)

人は、そのくちびるで語った事の、刈り取りをしなければならない。
彼らは実際、自分達はこの荒野やエジプトで死んでいたほうがましだった、と、つぶやいたが(民数記14:2)、果たして、その通りになった。
自分の妻や子はさらわれてしまう、と彼らは言ったが、彼らの妻子を、不信仰な言葉の通りにするような事を主はされず、かえって、その子達の世代が、約束の地を受け継ぐようにされた。

『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。』(箴言18:20-21)
『愚かな者のくちびるは争いを起し、その口はむち打たれることを招く。愚かな者の口は自分の滅びとなり、そのくちびるは自分を捕えるわなとなる。人のよしあしをいう者の言葉は/おいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ。』(箴言18:6-8)

まことに、口はわざわいのもである。
箴言には、愚か者でも黙っていれば賢く見えると記されているが、ただ、口を慎んで黙っているという、それだけで、人生が大きくプラスに転じるような人は、結構多いのではないだろうか。
荒野で滅んでいった世代をよく見ていたヨシュアは、「無駄口をきかない事」がいかに大切であるかを、よくわきまえていた。

『ヨシュアは民に命じて言った、「あなたがたは呼ばわってはならない。あなたがたの声を聞えさせてはならない。また口から言葉を出してはならない。ただ、わたしが呼ばわれと命じる日に、あなたがたは呼ばわらなければならない」。』(ヨシュア記6:10)

ヨシュアは、大切な戦いの時に、口から言葉を出してはならないと命じて、黙らせた。
もし黙らせていなかったら、民の中に、「こんな意味不明な行動に、何の意味があるのだろう」などと、つぶやきが蔓延していたかもしれない。
ヨシュアは、つぶやきの蔓延を防ぎ、見事、民全体を信仰の勝利へと導いたのだ。

ヨシュアとカレブは、主を信じて従い通し、最後には、彼らの口が告白した通り、約束の地を継ぐ者となり、また、継がせるために導く者となった。
真理の御言葉を信仰をもって語り、祝福の言葉を語り、そのくちびるの良き産物で満ち足りる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:主に聞き従わない事の報い(民数記14:20-25):右クリックで保存

『主は言われた、「わたしはあなたの言葉のとおりにゆるそう。』(民数記14:20)
主はモーセの執り成しを聞き入れ、赦して下さった。
しかし人は、自分が為した事の報いは、当然受けなければならない。

イエス様を信じれば罪赦されるから、好き放題の事をやって良いのだ、と、「赦し」を勘違いしているクリスチャンは多い。
確かに主の御前に罪は覚えられないが、人が罪の行いをした結果は、必ず刈り取らなくてはならない。
クリスチャンがたばこを止めなかったら、健康を害するリスクが減少するわけではないし、クリスチャンが銀行強盗を犯したら、銀行強盗を犯したなりの刑罰は、当然受けなければならない。

『しかし、わたしは生きている。また主の栄光が、全世界に満ちている。』(民数記14:21)
主の栄光は、全世界に満ちている。
彼らが宿営のテントの片隅で呟いた事でも、大群衆の中でぼそっと言った一言でも、主の耳は聞いておられ、主の目は見ておられる。
わたしたちが喋った言葉も、隠れて行った行動も、全てそうである。

『わたしの栄光と、わたしがエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった人々はひとりも、わたしがかつて彼らの先祖たちに与えると誓った地を見ないであろう。またわたしを侮った人々も、それを見ないであろう。』(民数記14:22-23)
荒野の民は、主の栄光を見た。主の恵みを、食べた。主の素晴らしさを、体験した。
それでも主を「十度も」試みて(原意:試す、テストする)、主が御業をなされても、なお御声に聞き従わなかった。
彼らがそのように為した事への報い、それは、主が与えると誓った地を見れない事である。

しかし、後になって分かるが、主はまだその事を確定した訳ではなかった。
主は、ニネベの町の滅びを、預言者ヨナを通して語られたが、ニネベがその預言で行いを悔い改めると、主はその災いを思い直された。
同じように、イスラエルの民がここで悔い改めていたら、きっと、約束の地に入る余地は、まだあっただろう。

主は、イスラエルの民は「十度もわたしを試みた」と言われた。
十という数字は、「わずかな」数ではないが、数え切るのに、そう時間のかからない数字である。
主に三度、四度、試みに怒らせるような事をしてみても、何も罰せられないのを見て、主はずっとゆるして下さる、と、勘違いし、好き放題したりしていると、そう遠くはない将来に、赦しのリミットが尽きてしまうようである。

主は、彼らは「しるし」を幾度も「見た」と言っておられる。
キリスト者の中にも、主のしるしを見たい、奇跡を体験したい、と言う人がいるが、奇跡を見たり、体験したりすれば、信仰がレベルアップすると思ったら、大間違いである。むしろ、逆である。
しるしや奇跡がなければ、信仰の行動ができないようでいては、その信仰は、かなりレベルダウンしている。

聖書中、主のしるしや奇跡を、最も多く見、最も体験した、あの六十万の人々の内、何人が約束の地に入れただろうか?わずか二人だった。
この事からも、主のしるしを見れば良いというものではない事が分かる。
主イエス様は、見ないで信じるものは幸いだ、と言われた。
大切なのは、しるしや奇跡を「見る」事ではない。御言葉を「聞いて、従う」事である。

『ただし、わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有するにいたるであろう。』(民数記14:24)
暗澹とした今回の箇所で、唯一、光輝いている節である。
カレブは、違った心(原意:霊)を持っていた。
つぶやきの霊、恩知らずの霊、の集団の中に、主に聞き従う霊という光があった。
私達も、邪悪な世代の中にあって、主に聞き従う「霊」を持ちたいものである。
では、どのようにすればそれが注がれるだろうか。箴言一章に、以下の言葉がある。

『知恵は巷に呼ばわり/広場に声をあげる。雑踏の街角で呼びかけ/城門の脇の通路で語りかける。「いつまで/浅はかな者は浅はかであることに愛着をもち/不遜な者は不遜であることを好み/愚か者は知ることをいとうのか。立ち帰って、わたしの懲らしめを受け入れるなら/見よ、わたしの霊をあなたたちに注ぎ/わたしの言葉を示そう。』(箴言1:20-23 新共同訳)

ここにあるように、知恵の言葉である御言葉に立ち返り、御言葉からの懲らしめを受け入れるなら、主の霊が注がれ、ますます知恵の言葉が示される。
しかし、懲らしめをないがしろにする者には次のように言われている。

『彼らは知ることをいとい/主を畏れることを選ばずわたしの勧めに従わず/懲らしめをすべてないがしろにした。だから、自分たちの道が結んだ実を食べ/自分たちの意見に飽き足りるがよい。浅はかな者は座して死に至り/愚か者は無為の内に滅びる。わたしに聞き従う人は確かな住まいを得/災難を恐れることなく平穏に暮らす。』(箴言1:29-33)

知恵の言葉を退ける者は、自分の「道」が結んだ実を食べ、自分たちの意見に飽き飽きする事になる。
彼らは、自分の蒔いた種が結んだ実を食べるが、それは死に至り、滅びに至ってしまう。

『谷にはアマレクびととカナンびとが住んでいるから、あなたがたは、あす、身をめぐらして紅海の道を荒野へ進みなさい」。』(民数記14:25)

主は最後に、イスラエルの民が進みたかった「道」、すなわち、紅海への道へと進み行きなさい、と命じられるが、それでイスラエルの民が「やった、望みどおりエジプトに戻れるぞ」と思ったかというと、そうではない。
結局彼らは、自分の「道」が結んだ実を食べ、自分たちが身勝手にわめいていた「意見」に、飽き飽きする事になったのだ。

私達は、主の叱責をしっかり受け入れ、カレブのように、世の民とは違った霊、主に聞き従う霊を持ち、約束の地を受け継ぐものでありたい。

礼拝説教メッセージ音声:これぞ「執り成しの祈り」(民数記14:10-19):右クリックで保存

『ところが会衆はみな石で彼らを撃ち殺そうとした。』(民数記14:10)
モーセとアロンの必死の執り成しに、また、ヨシュアとカレブの必死のすすめに、イスラエルの民が報いようとした事は、「石打ち」だった。
ひれ伏して執り成しているモーセ達に、民が石を投げようとしたその時、主の栄光が、会見の幕屋からイスラエルのすべての人に現れた。

『主はモーセに言われた、「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがもろもろのしるしを彼らのうちに行ったのに、彼らはいつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病をもって彼らを撃ち滅ぼし、あなたを彼らよりも大いなる強い国民としよう」。』(民数記14:11-12)
普通の人なら、「ぜひそうして下さい、こんなに聞き分けのない、文句ばかり言うような民はさっさと滅ぼして、私を栄えさせて下さい」とでも言いたい所であろう。
しかし、彼の対応は、逆であった。

『モーセは主に言った、「エジプトびとは、あなたが力をもって、この民を彼らのうちから導き出されたことを聞いて、この地の住民に告げるでしょう。彼らは、主なるあなたが、この民のうちにおられ、主なるあなたが、まのあたり現れ、あなたの雲が、彼らの上にとどまり、昼は雲の柱のうちに、夜は火の柱のうちにあって、彼らの前に行かれるのを聞いたのです。』(民数記14:13-14)

モーセの言葉の主語は、自分でも民でもなく、あくまで「あなた(主)」だった。
彼は、逆らった民への報復も、自分の栄えや守りも、一切求めなかった。
ただ、主がどのようなお方であるか、そして、今まで主がどのように栄光を受て来られたかを、思い起こさせた。

『いま、もし、あなたがこの民をひとり残らず殺されるならば、あなたのことを聞いた国民は語って、『主は与えると誓った地に、この民を導き入れることができなかったため、彼らを荒野で殺したのだ』と言うでしょう。』(民数記14:15-16)
モーセは、民を滅ぼす事の無いよう、主に執り成している。
主よ、あなたの栄光は、既に、全地に語り継げられています。つきましては今、もしここで民を殺されるのでしたら、主は民を導く事を出来ずに荒野で殺した、という、不面目な噂が立つでしょう、それではあなたの栄光にはなりません、という論法である。

『どうぞ、あなたが約束されたように、いま主の大いなる力を現してください。』(民数記14:17)
ここは、伝統的な英訳聖書(KJV)では
「あなたに願います。どうか、力の主は、偉大であられて下さい。あなたがおっしゃられた通りに」
という意味であり、モーセは、主はその偉大な御名にふさわしく、不名誉な噂さえ流れるような事は、なさらないで下さい、と願っているのである。

『あなたはかつて、『主は怒ることおそく、いつくしみに富み、罪ととがをゆるす者、しかし、罰すべき者は、決してゆるさず、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼす者である』と言われました。どうぞ、あなたの大いなるいつくしみによって、エジプトからこのかた、今にいたるまで、この民をゆるされたように、この民の罪をおゆるしください」。』(民数記14:18)
さらにモーセは、主がかつて語られた御言葉を人質に取り、それを盾に取って、主の慈しみを求め、赦しを求めた。

これこそ、「執り成しの祈り」である。
私達は何かと「あの人を救って下さい」「赦してください」「ください、ください」といった願い言葉を、何百遍も繰り返しがちだが、聞かれる祈りとは、人間の何かを押し出すものではなく、主がどなたであるか、主はどのような御言葉を語られたかを盾に取る祈りこそ、聞かれる祈りである。

モーセの祈りの中には、イスラエルの民の良さをアピールする言葉は、何一つ無かった。事実、そうだから。
彼はその代わり、「あなた」という言葉を幾度も繰り返し、主を主語として祈り、主の憐れみに訴えている。
主が真実だから、主が憐れみ深く赦しに富みたもうお方だから、赦してください、と。
そのように祈った結果、その祈りは、聞かれた。

私達も同様に、主の御前に誇れるものは、何一つ無い。
だから私達は、自分の義を主張する事なく、ただ自分の心を全て晒して主の憐れみにすがるのみである。
主は、パリサイ人の「私は週に二度断食し、捧げ物はちゃんと納めています」的な祈りは聞かれず、ただ、胸を打ち叩いて自分の罪を悲しみ、主の憐れみを乞うた取税人の祈りを聞かれ、義として下さるお方なのだ。(ルカ18:10-14)

礼拝説教メッセージ音声:民の"不信仰"告白(民数記14:1-9):右クリックで保存

『そこで、会衆はみな声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。』(民数記14:1-3)
12人の斥候がもたらした報告を、民は「悪い方」に受け止めた。
それも、声をあげて叫び、夜通し泣き明かす程に。

主は、彼らの先祖アブラハムに現れ、この地を継がせようと400年も前から約束されておられるのに、そして今や、その地まではあと一歩なのに、彼らはこの期に及んで「エジプトの国で死んでいたらよかった」「この荒野で死んでいたらよかった」「主はわたしたちをこの地に連れてきて、つるぎに倒れさせ、またわたしたちの妻子をえじきとされる」「エジプトに帰る方が、むしろ良い」とまで言ったのだ。(民数記14:2-3)
なんという「不信仰告白」だろう!

『人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。』(箴言18:20)
箴言のこの言葉が真実である事を、私達は、じき知るようになる。

『彼らは互に言った、「わたしたちはひとりのかしらを立てて、エジプトに帰ろう」。』(民数記14:4)
彼らは、ミリヤムの一件を見ていたはずである。神が立てられた権威・モーセに逆らった結果、ミリアムの身に何があったかを。
それなのに、そのモーセを退け、別の指導者を立てて、エジプトの戻ろうと言う。
そのエジプトは、400年もの間、イスラエルを奴隷として酷使し、男の子が生まれたらナイル川に投げられ、それ程の圧制の中で苦しめられている所を、主が、力強い御手でエジプトを打ち、そこから救い出されたというのに。

主は、荒野でも数々のすばらしいわざによって民を養い、パンと水を与え、主に逆らう者には、災いが下った。
タブエラでは、民のつぶやきの故に主の火が燃え上がり、キブロテ・ハタアワでは、主を軽んじ肉欲に駆られた者達の墓が立ち、ハツェロテでは、モーセの権威を軽んじたミリアムがツァラアトにかかったというのに、彼らは相変わらず、主を畏れるという事をしなかった。
そして民が、恐ろしいほどの不信仰告白を為し、主とモーセへの反逆の言葉をつぶやいているが、この時点で、主はまだ何も仰せられない。

モーセとアロンは、民に即答する事なく、主に向かってひれ伏した。(民数記14:5)
ひれ伏しているその姿は、人には弱さの極地と見えるかもしれない。
しかし主の御前にひれ伏す事こそ、御前に最も偉大な姿勢である。
民がめいめい叫んでいる内容やその態度が、いかに主の御前に罪深く、御怒りを引き起こすものであるのかを熟知しているため、何よりも先ず主にひれ伏し執り成す事が、最優先事項なのだ。
アロンもひれ伏しているという事は、彼も、ミリヤムの一件以来、御前に謙遜に執り成す事の大切さを学んだのだろう。

『このとき、その地を探った者のうちのヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、その衣服を裂き、イスラエルの人々の全会衆に言った、「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません」。』(民数記14:6-9)

モーセとアロンが主にひれ伏している中、ヨシュアとカレブが立ち上がった。
二人は衣を引き裂いた。民の不信仰が悲しく、やるせなく、憤りを覚えたのだろう。主があんなにも力強く敵を倒し、恵みを与え、逆らう者を滅ぼした事を、どうして皆、それが無かったかのような反応をするのだろう、と。
彼らは、その地がいかに良い地であるか、また、主が我々と共におられるなら、主が勝利させて下さり、その地を手に入れさせて下さる事を、力説した。

主に信頼して進み行こうという意見は、わずか四人。進み行かずエジプトに戻ろうという意見は、およそ六十万人。
この場面は、多数決として見ると、どう見ても敗北である。
しかし主は、人間の多数決で、御心を動かされるお方ではなく、主の真実がある側に、味方される。
たといそれが、4人対、600000人であったとしても、4人の側に真実があるなら、主は600000人のほうを退け、4人の側につかれるのだ。
それ故、私達は、たとい大勢を前にしても、主の真実を告白すべきである。

栄光の家系の女達 - ルツ1 七人の息子にも勝る信仰の娘(ルツ記1:1-7)
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マタイ1章のイエスキリストの系図に名を連ねた3人目の女性・ルツは、ユダヤ人に忌み嫌われているモアブの国の女である。バラムはイスラエルを、モアブの女を使って誘惑させ、堕落させた。(民数記25章)
それでもルツは、栄光の家系として名を連ねるに至った。それは何故か。その秘訣を探って行きたい。

ルツの義理の母にあたるナオミは、ユダヤのベツレヘムで、夫、息子二人に囲まれ、幸せに暮らしていた。
しかしある時、飢饉のためにパンが無くなり、一家揃ってモアブに移住する事にした。
モアブに来て、パンにありつけた当初は、家族内で「来て良かったね」と語り合っていたかもしれない。
しかし結論から言うと、パンを求めて神の国を離れ、異邦の国に来たのが、全ての災いの始まりであった。
ユダヤ人にとって、主の懲らしめから逃げ、「神の国」を捨てて異邦の国にパンを求めて行くのは、もっての外であり、その身にさらなる災いを招いてしまう。それは、神の民たる私達も同じである。
素直に主からの懲らしめを受け、悔い改めていれば、やがて飢饉は去ったのに、この一家は、安易に困難から逃げ出したいばかりに、さらなる災いを受け、一家の主と、息子を全て失ってしまった。
主の懲らしめを受けた時、私達は自分で編み出した脱出方法に頼るべきではなく、主に対して素直になって悔い改め、口をちりにつける(哀歌3章)ならば、主は憐れみ、ちょうど良い時に引き上げて下さる。

主の民から遠く離れ、モアブの野で淋しく取り残されてしまったナオミの所に、神がご自分の民を顧み、パンをお与えになったという、風の便りが届いた。この風の便りは、異邦の国に長らく浸かっていたナオミに、神の国で養われていた幸いな日々を思い起こさせ、「帰っておいで」という主の語りかけとして響いた。
私達も、主からの語りかけを聞いていないだろうか?聞いていながら、敢えて離れていないだろうか?
ナオミは帰るまでに10年もかかり、その間に、夫に先立たれ、息子達にも先立たれてしまった。
私達は何もかも失う前に、主に帰るべきである。放蕩息子も全てを失ってから我に返ったが、自分がいかに弱く、罪深く、神から離れたら何も出来ないのだと「我に返る」所から、回復は始まるのだ。
ナオミもついに、自分が拠り頼むべき所は、主にしかないと悟り、帰る事にした。

「オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。」(14節)
オルパは、自分がナオミと一緒にいる事が彼女にとって苦しみとなると聞き(13節)、ナオミの元を去った。
それは大人の「思いやり」だったのかもしれない。しかし帰って行った先は結局、偶像の神の元であった。
それに対し、ルツは、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神」と言って、まことの神を自分の神とする「信仰告白」をし、ナオミについて行こうとした。
何にも増して真に有益なものは、大人の対応でも人間的な思いやりでもなく、主を信じ告白する事である。

ナオミにとっては10年ぶりの帰郷であったが、それは懐かしさよりも惨めさに満たされたものだった。
ベツレヘムを離れずに主の懲らしめを受けていた友人たちは、口々に「ナオミさんではありませんか」と声をかけ、色々聞いて来たが、彼女にはそれが苦痛で耐えられず、「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを/主はうつろにして帰らせたのです。」(21,22節)と、惨めな思いで返事せざるを得なかった。
人々との交流が苦痛で仕方ない時こそ、一対一で神に向き合い、神に近づくチャンスである。
家族やパンという「快さ」は、いつ「マラ」になってもおかしくはない。神は、ご自身以外のものによって快くなろうとする「ナオミ」は、「マラ」にされ、その代わり、決して色褪せる事のない真の「ナオミ」へと導かれる。
彼女は「うつろにして帰らせた」と言っているが、彼女は七人の息子にも勝るルツを育て上げ、連れ帰った。
ルツは、パンもお金も力も無いが、祝福の器としてナオミに希望と喜びをもたらすようになったばかりでなく、イスラエル全体に祝福をもたらす器となった。ルツの曾孫にダビデが生まれ、イエスキリストが生まれるのだ。信仰によって産んだ娘とは、そのようなものである。
不信仰な男たちに遥かに勝るルツになるための第一ステップは、まことの神を主とする、信仰告白である。
イエスを主として信仰告白し、自分の家族に、国全体に、祝福をもたらす皆さんでありますように!

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