メッセージ - 201308のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
第二のしゅろの日(黙示録7:9-17):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:御国のオーケストラ奏者である神の奉仕者(民数記4:34-49):右クリックで保存

『モーセとアロン、およびイスラエルのつかさたちは、レビびとを、その氏族により、その父祖の家にしたがって調べ、三十歳以上五十歳以下で、会見の幕屋にはいって務の働きをし、また、運ぶ働きをする者を、ことごとく数えたが、その数えられた者は八千五百八十人であった。彼らは主の命により、モーセによって任じられ、おのおのその働きにつき、かつその運ぶところを受け持った。こうして彼らは主のモーセに命じられたように数えられたのである。』(民数記4:46-49)

こうしてレビ族のうち、幕屋の奉仕が出来る人々が数えられ、登録された。
コハテ族の二千七百五十人は、アロンの子エルアザルが指揮をとり、ゲルション族の二千六百三十人・メラリ族の三千二百人は、アロンの子イタマルが指揮をとる。

神の奉仕者達には、必ずそれぞれ従うべき権威があり、その指揮の元に、各自の奉仕が割り当てられ、秩序正しく奉仕を遂行していく。
レビ以外の部族は、20歳以上が戦う者として登録されたが、ことに神の務めは、若い情欲や血気盛んさが抜けて、ある程度大人として成熟してからでないと、奉仕できる者として登録されない。

神の奉仕は、オーケストラのようであり、奉仕者は自分のやりたい事を捨て、指揮者であるキリストのタクトをよく見、その導きに従い、全体で、キリストのからだという美しいハーモニーを奏でるために、それぞれに与えられた賜物という楽器を演奏するものである。
誰か一人でも、目立ったり注目してもらいたいと、身勝手に指揮されてもいない事をするならば、全体のハーモニーを台無しにしてしまう。
祭司の奉仕も、レビ族の奉仕も、一歩誤ると、神に打たれて死んでしまう。だから神の奉仕は本来、信仰がある程度成熟していなくては、任せられないものである。

旧約時代は、ただ祭司だけが聖所の奉仕が許されているのみで、いかにコハテ族といえども、聖所の器物を見る事さえ許されていなかった。
しかし現代、キリスト者は、キリストにあって隔ての幕は打ち壊され、王族の祭司とされ、聖所の覆いは取り除かれている。
キリストにあるなら、誰もが、大胆に恵みの御座に近づき、おりにかなった助けを得ることができる。
新約の現代、キリストにあって自らを清める人は、ますます、尊い事に用いられる器とされていく。
『大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。そこで、あなたは若い時の情欲を避けなさい。そして、きよい心をもって主を呼び求める人々と共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい。』(2:20-22)

このように、主の奉仕者は、汚れから離れ、自らを清めていく必要があり、そのための「清め」は、私達のがんばりによるのではなく、主の導きに従って行く事による。
『去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。あなたがたは急いで出るに及ばない、また、とんで行くにも及ばない。主はあなたがたの前に行き、イスラエルの神はあなたがたの/しんがりとなられるからだ。』(イザヤ52:11-12)
若い時の情欲から離れ、成熟した者として自らを清め、主に有用なものとされ、ますます尊い事に用いられて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:ゲルション族、メラリ族の奉仕(民数記4:21-33):右クリックで保存

今回の箇所では、ゲルション族、メラリ族の奉仕分担について命じられている。

『ゲルションびとの氏族の務として働くことと、運ぶ物とは次のとおりである。すなわち、彼らは幕屋の幕、会見の幕屋およびそのおおいと、その上のじゅごんの皮のおおい、ならびに会見の幕屋の入口のとばりを運び、また庭のあげばり、および幕屋と祭壇のまわりの庭の門の入口のとばりと、そのひも、ならびにそれに用いるすべての器を運ばなければならない。そして彼らはすべてこれらのものについての働きをしなければならない。』(民数記4:24-26)
ゲルション族が運ぶべき幕屋の器具は、幕や覆い、皮などの布製品で、幕屋を覆うもの、折り曲げ可能なものである。

それに対し、メラリ族が運ぶべき幕屋の器具は、立て板や土台などの、幕屋の骨格みをなす部分で、大きく硬いものである。
『彼ら(メラリ族)が会見の幕屋でするすべての務にしたがって、その運ぶ責任のある物は次のとおりである。すなわち、幕屋の枠、その横木、その柱、その座、庭のまわりの柱、その座、その釘、そのひも、またそのすべての器、およびそれに用いるすべてのものである。あなたがたは彼らが運ぶ責任のある器を、その名によって割り当てなければならない。』(民数記4:31)

彼らが取り扱うものは、ケハテ族のような聖なる祭具でなく、板や布など、霊的レベルの低いものを運ぶ奉仕、と思われがちだが、それらが無くては、幕屋は成り立たない。
イエス様も、神殿と神殿の黄金に貴賎の区別をつけているパリサイ人を「愚か」だと叱責している。
『盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。』(マタイ23:16-17)

ゲルション族やメラリ族が運ぶべきものは、出エジプト記26,27章で主が示されている幕屋の寸法を見ると、結構な大きさのものである事が分かる。
幕屋全体を覆う幕は、1.78mx12.5mほどの布を基本構成とし、それを10枚つなぎあわせ、大きな一つの幕としている。さらに、そのような大きさの幕が、合計4層に渡って覆われている。
幕屋の壁は、4.45mx0.66mのアカシヤ材の板が基本的な構成物となり、一枚につき2個の銀の台座によって支えられ、それが南側に20枚、北側に20枚、西側に6枚(幕屋のうしろの二すみに、さらに2枚)ずつ合わされて、建てられる。(出エジプト記26:18-21)
そればかりでなく、外庭の寸法は、およそ22mx44mであるが、その外庭と外界を区切る架け幕、およそ2mほどの感覚で立てられた立板と、それを支える青銅の土台もある。
このように、幕屋全体の器物となると、結構膨大な量となり、それを解体したり運んだり組み立たりするとなると、とても数人でできるものではない。

幕屋から臨在の雲が離れてのぼった時、すなわち、主がその場所から行くようにとのGOサインが出た時、まず、祭司が至聖所と聖所の器物を梱包し、それが終わったら、エルアザルがケハテ族にそれらを運び出すよう指示し、それが終わったら、イタマルがゲルション族に布製品を解体して運び出すよう指示し、それが終わったら、イタマルはメラリ族に骨組みと土台を解体して運び出すよう指示し、そうして、幕屋が荒野を移動する準備が整うのである。
これら全ては、秩序正しく為されなければならない。
神の国の奉仕も同じで、それぞれが身勝手になってはならず、主にあって秩序正しく為されなければならない。

礼拝説教メッセージ音声:コハテ族の奉仕(民数記4:1-20):右クリックで保存

『「レビの子たちのうちから、コハテの子たちの総数を、その氏族により、その父祖の家にしたがって調べ、三十歳以上五十歳以下で、務につき、会見の幕屋で働くことのできる者を、ことごとく数えなさい。』(民数記4:2-3)
3章では、生後一ヶ月からのレビ族の男子が数えられたが、4章ではさらに、幕屋の奉仕に携わる事のできる、三十歳以上・五十歳以下の、働き人の数を数えるように、命じられている。
レビ人の幕屋の奉仕は、幕屋の器物を実際に運ぶ事だが、それらの多くは、金や銀、アカシヤ材などで出来た重量物であり、また、全て主の礼拝に用いられる聖なる器物であるから、この奉仕に当たるのは、ある程度成熟した男性でなければならない。

『宿営の進む時に、アロンとその子たちとは、まず、はいって、隔ての垂幕を取りおろし、それをもって、あかしの箱をおおい、その上に、じゅごんの皮のおおいを施し、またその上に総青色の布をうちかけ、環にさおをさし入れる。』(民数記4:5-6)
主の臨在の雲が立ち上がり、イスラエルが進むように導かれた時、幕屋は解体して、荒野を運んで行かなくてはならないが、解体するにあたって、まず、祭司であるアロンとその子達が解体して梱包し、担ぎ棒を通し、運べる状態にし終わってから、初めて、レビ人達の手に委ねる事が出来る。

この、幕屋の聖なる器物には、それぞれ、梱包する手順も、主から定められている。
まず、あかしの箱の場合は、聖所と至聖所を仕切る幕で覆い、次はじゅごんの皮で、そして一番外側は、青色の布で覆う。
供えのパンの机と、それに属する祭具の場合は、まず青布で覆い、次は緋色の撚り糸の布、そして一番外側は、じゅごんの皮で覆う。
燭台や金の香壇など、その他に聖所の務めに用いる道具は、全て、まず青布で覆い、その上にじゅごんの皮で覆う。
つまり、レビ人がそれらを運搬する際は、契約の箱は、青布で包まれた神輿のようなものとなり、それ以外の祭具は、じゅごんの皮で包まれたものとなる。

これら聖なる祭具は、少しでも中身を晒してはならない。
それらは、あまりに聖であるため、主の許しの無い人が触れてしまうと、死んでしまうためであり、それは、いかに祭具を運ぶ役割が与えられたケハテ族のレビ人であっても、それを直接見るなら、死んでしまうのである。(15,20節)

これらの中身は、尊き神の聖なる器具ではあるものの、ケハテ族にとっては、それは単に、じゅごんの皮で包まれた、見栄えの良くない、運ぶには重たく難儀するもの、と、思えるかもしれない。
そのように、外見的・表面的な事で、奉仕を見てしまうと、自分達は、つまらない、きつい、地味すぎる奉仕ばかりやらされている、と、良からぬ思いで満ちて行ってしまう。
だからいつも、自分達は尊い器を運ぶという、尊い奉仕をさせていただいている、という、感謝を忘れぬべきである。
しかし、聖なる祭具を運ぶ役割が与えられているコハテ族のコラは、モーセとアロンに逆らった。

『ここに、レビの子コハテの子なるイヅハルの子コラと、ルベンの子なるエリアブの子ダタンおよびアビラムと、ルベンの子なるペレテの子オンとが相結び、イスラエルの人々のうち、会衆のうちから選ばれて、つかさとなった名のある人々二百五十人と共に立って、モーセに逆らった。彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らって言った、「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」。』(民数記16:1-3)
彼らの言い分は、全会衆はことごとく聖なるもので、主がその内におられるのだから、モーセとアロンだけが人の上に立って祭司として偉そうにしているのはおかしい、というものだ。
その言い分は、現状の立ち位置に不満のある人々には、もっともに聞こえ、ある種の自己実現欲をくすぐるものである。
ここにいる、名のある二百五十名も、その欲望をかき立てられて、コラと共に立ったのだろう。

モーセは、そんな彼らに、本来的な事を思い起こさせようと、説得する。
コラ達コハテ族は、主の御そば近くで栄誉ある務めに任じられており、それは小さなことではなく、特別な事である。
それで満足せず、なお祭司の職務を求めるのは、主に敵対する事だ、と。
しかし、彼らはモーセの説得を突っぱねた。

そんな彼らの末路は、とても恐ろしいものであった。
『エリアブの子はネムエル、ダタン、アビラムである。このダタンとアビラムとは会衆のうちから選び出された者で、コラのともがらと共にモーセとアロンとに逆らって主と争った時、地は口を開いて彼らとコラとをのみ、その仲間は死んだ。その時二百五十人が火に焼き滅ぼされて、戒めの鏡となった。ただし、コラの子たちは死ななかった。』(民数記26:9-11)

コラの子達は、父が滅びるまさにその時、その天幕から離れて、滅びを免れていたようである。
恐らく彼らは、父よりも主を恐れ、父の陰謀から離れていたのだろう。
そして、そのコラの子孫たちは、詩篇において、素晴らしい信仰告白をいくつも残している。
『聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌
神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を/見ることができるだろうか。』(詩篇42:1-2)
いかにコラの子といえど、主を慕いあえぐ心をもって、主の奉仕を感謝しつつ望むなら、後に大きな栄誉に与るのである。

私達の奉仕も、もしかしたら、じゅごんの皮の重たいものを運んでいるかのような、地味なものであるかのように見えるかもしれない。
しかし、その中身は、主の尊い事に用いられる、聖なる器である。
その事をいつも忘れずに、主を慕いあえぎつつ感謝を持って、奉仕に当たっていく皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:イスラエルの長男の数(民数記3:40-51):右クリックで保存

『主はまたモーセに言われた、「あなたは、イスラエルの人々のうち、すべてういごである男子の一か月以上のものを数えて、その名の数を調べなさい。また主なるわたしのために、イスラエルの人々のうちの、すべてのういごの代りにレビびとを取り、またイスラエルの人々の家畜のうちの、すべてのういごの代りに、レビびとの家畜を取りなさい」。』(民数記3:40-41)
イスラエルにおいて、長男は主のものである。
その長男を主に捧げる代わりに、レビ人をその代わりとするため、イスラエルの長男の数を数えるよう、命じられている。
面白い事に、家畜の初子も、同じように、レビ人が所有する家畜の代わりとせよ、と言われている。
レビ人の持ち物も、イスラエル民族の持ち物の代表として、神に捧げられている、という事だろうか。

『またイスラエルの人々のういごは、レビびとの数を二百七十三人超過しているから、そのあがないのために、そのあたまかずによって、ひとりごとに銀五シケルを取らなければならない。すなわち、聖所のシケルにしたがって、それを取らなければならない。一シケルは二十ゲラである。あなたは、その超過した者をあがなう金を、アロンと、その子たちに渡さなければならない」。』(民数記3:46-48)
イスラエル全体の長男の数を数えてみた所、長男の数のほうが、レビ人の数より273人多い事が分かり、『一か月から五歳までは、男にはその値積りを銀五シケルとしなければならない。』(レビ記27:6) という規定に従って、その人数分の贖いの銀を主の元に納め、そうして、イスラエルの初子の贖いを完済した。

『その数えられたういごの男子、すべて一か月以上の者は、その名の数によると二万二千二百七十三人であった。』(民数記3:43)
イスラエル全体の長男の数は、22,273人。それに対し、イスラエル全体の男子の数は、レビ族を除いて、603,550人。(1:46)
全男子の数を、長男の数で割ると、イスラエルの一家の平均的な男子の数となるが、その数、およそ27!
驚きである。
ひと家庭に、男子が27人いたという事は、男女比率が1:1だとすると、一家庭に、60人近くの子供がいた、という事だろう。
それは、現代日本の常識では想像もできないが、ギネスブックによると、18世紀のロシアの農民ヒョードル・ワシリエフの妻が、1725年から1765年にかけて、27回の出産で、双子16組、三つ子7組、四つ子4組の、計69人を産んだ記録があるそうだ。
イスラエルは、エジプトに滞在した400年で、70人から六十万以上に増えた。エジプトがイスラエルを脅威に感じたのも、うなずける。

カナンの地で穫れたぶどうは、あまりに大きく、そのひと房を、大人が二人がかりで担いだ(民 13:23)とか、七日間イスラエルの民がエリコを廻ったら城壁が崩れたとか、ヨシュアが祈ると地球の自転が一日止まったとか(ヨシュア10:12)、聖書は、現代の常識では考えられない記述の連続である。
しかし、考古学の発掘で、エリコの城壁は内部から外部へと不自然な崩壊の仕方をしている事が発見され、宇宙物理学でも、地球は確かに過去、一日自転が止まった事が証明されているそうである。

聖書の記述は、現代を生きる私達にとって、あまりに想定外のため、多くの人が信じられないと言っているが、主は、天地を創られ、物理法則を定められた、不可能の無いお方であり、信じる者には、力強き助けの御手を伸ばして下さるお方である。
イスラエルの民に注がれたのと同じ祝福を、いや、それ以上の祝福さえ、私達・信じる者に与えて下さると、私達も大いに信じるべきである。
『イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。』(マルコ9:23-24)

栄光の家系の女達 – タマル3 王族としての整え(創世記38:20-26)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

皆さんは、印鑑や一族のしるしを、誰とも分からぬ遊女に報酬の抵当として預けたりするだろうか。イスラエル王族の父祖・ユダは、それをしてしまう程、霊的に落ちぶれていたが、主はそこから立ち直らせて下さる。
ユダが、遊女の報酬のやぎを送ろうとしたのは、遊女にさえ律儀に約束を守るため、というより、大事な自分の印と紐、つえを取り戻すためだった。しかし、彼女は探しても見つからなかった。(創世記38:20)
それらの三品は、本人証明に使える程の大事なものであるにもかかわらず、それを持っている”遊女”を徹底的に探す事をしなかったのは、ユダにとって、自分のした事は、恥だったからである。(23節)

『ところが三月ほどたって、ひとりの人がユダに言った、「あなたの嫁タマルは姦淫しました。そのうえ、彼女は姦淫によってみごもりました」。ユダは言った、「彼女を引き出して焼いてしまえ」。』(24節)
この場面はタマルの危機というより、ユダの危機である。ユダは、タマルが姦淫したという事で死刑に定めたが、彼自身こそ、3ヶ月前、密かに遊女を買い、それを隠しおおせたつもりが、主はそうは行かせない。
『彼女は引き出された時、そのしゅうとに人をつかわして言った、「わたしはこれをもっている人によって、みごもりました」。彼女はまた言った、「どうか、この印と、紐と、つえとはだれのものか、見定めてください」。』
ユダは、うやむやに葬り去ろうとした諸々が、全て、明るみに出されてしまった。
自分と家族が主から離れている事をうやむやにし、タマルに夫を与える約束をうやむやにし、神様の御心である産んで増えて行くという事をうやむやにしつつ、自分は遊女と遊び、その事も秘密裏に葬り去ろうとした結果、それら全てが結実した実は、自分の赤ちゃんという、誰にも申し開き出来ないものだった。
神に属する一族は、罪の問題やいのちを生む事、悔い改める事など、神に果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウトする事など、出来ないのだ。

本来、かけがえのないはずの自分の赤ちゃんが、恥である時、その人自身には必ず 罪がある。
しかし、いかに人の罪の行いの結果生まれたいのちであっても、いのちは例外なく主の御前に尊い光であり、人が隠しおおせるものではなく、そのいのちを疎む者を、主は疎まれる。ユダはどう対応しただろうか。
『ユダはこれを見定めて言った、「彼女はわたしよりも正しい。わたしが彼女をわが子シラに与えなかったためである」。彼は再び彼女を知らなかった。』(26節)
彼は試されたが、主の前に正しい対応をした。すなわち、自分の罪を認め、悔い改め、罪の行いを離れた。
もしこの時、頑固になって怒り狂い、タマルを焼き殺し、自分の赤ちゃんのいのちまで奪っていたとしたら、彼もオナンのように、主に打たれていたのではなかろうか。
彼の子孫・ダビデ王も、姦淫の結果のいのちの事で、犯した罪が示された時「私は主に対して罪を犯した」と正直に非を認め、正しい判断をした。それで主は、ダビデを打たれず、罪を見過ごして下さった。

罪ある事を主から示された時、正直に認め、悔い改め、罪に戻らない事。それこそ、王族の対応である。
ユダはずっと後、エジプトの宰相となった弟・ヨセフから濡れ衣を着せられた時、一切の言い訳をせず、告白した。『われわれはわが主に何を言い、何を述べ得ましょう。どうしてわれわれは身の潔白をあらわし得ましょう。神がしもべらの罪をあばかれました。』(44:16)
ユダは、主からの懲らしめと恥を受けた事により、罪を指摘された時は断然、正直になって悔い改めるようにと、また、伴侶選びと女性に関してはくれぐれも気をつけるようにと、自分と子孫達を教育した事だろう。
それでユダの家は、多くの失敗を事前に防げた事だろう。こうしてユダ族は、支配者として整えられて行き、ついには、罪なき身であるのに、罪人の身代わりとなって、その身を差し出すという、主イエスにも似た、黄金のように気高く尊い性質を帯びるまでになった。(創世記44章)
そうしてユダは、後に、兄弟の中で一番の祝福を父ヤコブから受けた。『つえはユダを離れず、立法者のつえはその足の間を離れることなく、シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。』(49:8)
一度は、肉欲のために手放してしまった支配者の杖だが、タマルという主の懲らしめの杖を真正面から受け入れ、悔い改めた結果、もはや支配の杖は、彼から決して離れる事は無くなったのだ。
罪を正直に認め、悔い改め、王族の高貴な性質を帯びるようになって行く皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:神の奉仕者として登録される(民数記3:14-39):右クリックで保存

「あなたはレビの子たちを、その父祖の家により、その氏族によって数えなさい。すなわち、一か月以上の男子を数えなければならない」(民数記3:15)
一般のイスラエル部族が登録される場合は、二十歳以上の成人男性が数えられたが、レビ族に限ってはそうではなく、生後一ヶ月以上の男子を数えなければならない、とされた。
レビ族は、神殿や幕屋で、神の奉仕をする部族である。
つまり、神の奉仕者は、たとい、生後一ヶ月の、母に抱かれている乳幼児であっても「神の奉仕者」としてカウントされており、彼らは子供の頃から働き人として教えこまれ、育てられるのである。

『レビの子たちの名は次のとおりである。すなわち、ゲルション、コハテ、メラリ。』(民数記3:17)
レビ族にはこの三部族がおり、それぞれの部族ごとの役割は、21-39節で示されている。
まず、ゲルション族で登録された人は七千五百人で、奉仕内容は主に幕屋の布製品に関わる事で、神の幕屋の西側に宿営する。
ケハテ族で数えられた人は八千六百人で、奉仕内容は主に幕屋内の祭具や調度品に関わる事で、幕屋の南側に宿営する。
メラリ族で登録された人は六千二百人で、奉仕内容は主に、幕屋の板や土台などの骨格部分に関わる事で、幕屋の北側に宿営する。

そして、神の幕屋の正面、すなわち、東側に住まう事が出来るのは、モーセとアロン、その子たちのみである。
『また幕屋の前、その東の方、すなわち、会見の幕屋の東の方に宿営する者は、モーセとアロン、およびアロンの子たちであって、イスラエルの人々の務に代って、聖所の務を守るものである。ほかの人で近づく者は殺されるであろう。』(民数記3:38)

主の御そば近くに住まう特権が与えられている人とは、主に捧げている人である。
レビ族が神の幕屋の近くに住まう特権が与えられたのは、前回も見たように、親や兄弟姉妹、友人に逆らってでも、御言葉に従い通したからであり、それ程の主に対するコミットがあったからこそ、その栄誉にあずかったのだ。

教会に住み込みたい、という人がいるが、教会に住めば聖くなるというものではない。
聖なる所にはいたいけれど、俗なる事も手放したくない、という人が、聖なる所に居続けるなら、彼の言動によってその「聖なる空間を食いつぶす」という罪を、増し加える事になってしまう。
モーセやアロンの子達の「ほかの人で近づく者は殺される」と戒められている通りである。
主に捧げる心を育てる人でなければ、教会に何年住み込んだ所で何の変わりは無い。
しかし、「主に捧げられた心」を持つ人は、たとい牢に何年も閉じ込められ、教会通いができなくても主は共におられ、ますます聖められて行くのだ。

『モーセとアロンとが、主の言葉にしたがって数えたレビびとで、その氏族によって数えられた者、一か月以上の男子は、合わせて二万二千人であった。』(民数記3:39)
レビ族として登録された人は、合わせて22000人、と記されているが、実は、22,28,34節で示されているゲルション、コハテ、メラリの数を合計すると、22300人で、この合計数のほうが、上記で記されている数より、なぜか300人多い。

実は、「数えられる」と訳されている言葉には二種類ある。
一つは「mispar」で、ただ単に数字を数える意味、もう一つは「paqad」で、数える事の他に、登録する、コミットするという意味である。
ゲルション族、メラリ族は「paqad(登録する、コミットする)」が用いられ、39節の合計数もそれが用いられているが、ケハテ族(28節)に限ってはそれは使われておらず、ただ「mispar(数えた)」としか記されていない。
つまり、コハテ族は、8600人「数えられた」けれど、神の奉仕者として登録されたのは8300人、という事になるのだろう。
コハテ族の300人がなぜ登録されなかったのか、それは記されていないので分からない。

ところで、16章でモーセに反逆したコラも、コハテ族であった。
彼らはレビの務めが与えられているのに祭司の職を要求し、イスラエル全体を扇動してモーセとアロンに逆らったため、彼は家族や天幕もろとも地に飲み込まれてしまった。
いかに神の民として数えられようと、いかに神の働き人として数えられようとも、主から「登録」されない人もあり、そして、主が立てた権威に逆らうのであれば、災いが下されてしまうという事も忘れてはならない。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の印が押されるために(黙示録7:1-8):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
愛する人への心構え(雅歌3:1-4):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の民の聖なるプライド(エズラ記8:1-23):右クリックで保存

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