メッセージ - 201308のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
第七の封印 - 七つのラッパの災い(黙示録8章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:祝福とは(民数記6:22-27):右クリックで保存

前回に続き、祭司に与えられたこの祝福の命令をもう少し詳しく見て行きたい。
祝福という言葉は、聖書では良く出てくるし、教会でも良く使われ、クリスチャンもよく「祝福を下さい」と祈るが、そもそも祝福とは一体何だろう。

祝福は、必ず神様を通して与えられるものであり、神様を除外した人間が、身勝手な善悪判断によって定めた「これが私にとっての祝福」というものは、実は、自分も他人も、そして自然界をも、不幸に陥れてしまうものだ。
祝福のヘブライ語「バーラフ」の元々の語意は「ひざをつく」で、意味としては、「あがめる、かがめる、祝福する、ひざまずく、賛美する、ほめたたえる」である。

このバーラフが聖書で最初に登場するのは、聖書の最初の書の、最初の章からである。
『神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを”祝福”して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。・・・神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。』(創世記1:27-31)

世界に罪が入る以前、神は、アダムと全生物が大いに生んで増えて行くようにと、主が自らがひざをついて便宜を図り、いのちが増え広がって行く様を応援した。
そして神様がその様をご覧になったところ、「はなはだ良し」と評価された。
しかし、アダムが神の言葉に背いて、善悪判断をしだした所、全被造物は呪われてしまった。
それ以来、被造物は神の子たちの現れを、うめきながら待っているのである。(ローマ8章)

神は、御言葉に服従し罪の問題を解決した人達が、繁栄し、増え広がり、地を治めていく事を望んでおられ、そのような人達を、ことさら祝福しようとされるのである。
事実、神は、罪を知らない時のアダムになされた、あの「生めよ、増えよ」の祝福を、ノアにも、アブラハムにも為された。
そして私達も、イエスキリストを信じる信仰によってアブラハムの子孫となるなら神の子とされ、神がアダムやノア、アブラハムに与えられたあの祝福で、私達を覆って下さるのである。

主が、祭司アロンを通して命じられた祝福の第一は、『主があなたを祝福し、あなたを守られ(シャーマル)るように。』(民数記6:24)である。
ここに出てくるシャーマルという言葉は「守る」という意味のほか、見張る、気をつける、という意味がある。
主の御心は、主の民とされた聖徒達が、生んで増えて行く事だった。
それ故、この第一の祝福は、あの創世当初の「はなはだ良かった」時のように、御心にかなった人達が、生んで増え広がって行くそのいのちを、主ご自身が見守り、サポートされますように、という祈りである。

第二の祝福は、『願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、あなたを恵まれる(ハーナン)ように。』(民数記6:25)である。
ここの恵む(ハーナン)という言葉は、憐れむ、情けをかける、という意味で、それは、具体的な行動がともなった同情で、新約のギリシヤ語の「スプランキニゾマイ」に相当し、それは字義通りには「はらわたがちぎれる思いで、かわいそうに思う」である。
つまり、ここの祝福は、主が輝いた表情をあなたに照らし、主のはらわたがちぎれる程の深い憐れみによって、情けをかけて下さるように、という祈りである。

第三の祝福は、『願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安(シャローム)を賜わるように』(民数記6:26)である。
「向け」という言葉は、「上げる」「支持する」という応援的な意味があり、また、シャロームという言葉には広範な意味があって、祝福の総称とも言える。
シャロームは挨拶の言葉であり、平和と安息を願う言葉であり、経済や子宝の繁栄や、健やかである事や、また、全ての面で満ち足り、充足し、満足し、そして知恵に満たされ、あらゆる悪や災いから救われ、敵や悪に対して勝利する事を、願い求める言葉でもある。
つまり、主がその眼差しを向けて支持し、家庭も経済も、知恵も力も、あらゆる面で充足し、健やかであり、平安で、あらゆる面で守られ、勝利するよう、主があらゆる面で応援して下さるように、という祈りである。

この民数記6:24-26の祝福は、何世紀にも渡って祭司がイスラエルの民を祝福し、また、キリスト者達が互いに祝福してきた、優れた言葉である。
私達も、キリストにあって祭司という立場を得たからには、大いにこの祝福の祈りを、家族に、仕事に、人生のあらゆる場面に対して、宣言するべきである。
しなければ損である。

礼拝説教メッセージ音声:祝福する祭司として(民数記6:22-27):右クリックで保存

『主はまたモーセに言われた、「アロンとその子たちに言いなさい、『あなたがたはイスラエルの人々を祝福してこのように言わなければならない。』(民数記6:22-23)
主は、祭司が民を祝福するべき言葉を、具体的に示された。
レビ記が学科であるとすれば、民数記は実技であるが、その実技教習は、いよいよ「祝福の仕方」にまで至った。
今までの実技教習の内容を、振り返ってみよう。

まずは「神の民」「神の部隊」としての登録が1章でなされ、ただの「荒野の民」から、登録された「神の民」へと転換し、2章では、神の部隊として、どの部族がどの位置に配置されるべきかが示され、秩序と規律をもって進み行くべきことを示された。
また、3章では、元々は、長男が「主のもの」とされていたのが、レビ人に転換され、主のものとされたレビ人への奉仕分担が4章で示された。
そして5章では、神が住まわれるイスラエルの宿営の中から、汚れを締め出す事が命じられ、また、最も親しくあるべき夫婦関係の中から、不信を取り除く方法が示された。
6章では、主にまったき献身を誓うナジル人に関する規定が示され、そしていよいよ6章の後半で、いかに民を祝福すべきか、という、祝福のことばの制定が為された。

主は順を負って、神の民としての整えを着実に為しておられるが、この順番は、キリスト者が神のものとされた時から始まる成長に良く似ている。
キリスト者が洗礼を受け、神のものとしてしるしを受けた後、生活のあらゆる面で、神の民としての秩序がどんどん与えられて行く。
次に、神の奉仕者としての役割が与えられ、その奉仕を忠実に為して行く内に、自らの中から汚れを取り除くようになり、さらなる献身へと導かれ、そして遂には、神の代理人として、人々を祝福するものとされていく。

「願わくは主があなたを祝福し、/あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照し、/あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、/あなたに平安を賜わるように」(民数記6:24-26)
この祝福の文言は、何世紀にも渡って祭司によって宣言され、また、キリスト教界でも、何世代にも渡って、この言葉によって多くの聖徒達が祝福を受けてきた。

主の祝福の最たる事は、「主が共におられる」事である。
荒野での金の子牛の事件の時、モーセは主の御前にとりなしに行き、民は滅ぼされる事は無いという確約はとりあえずいただいたが、最初、主は、民と一緒には行かないと言われた。(出エジプト記33:1-3)
主に打たれずに済み、敵に勝利して乳と蜜の流れる地に入れる約束をいただいたのだから、主は共にいなくても、それで十分ではないか、と思うとしたら、よほど主を知らない者であり、よほどの恩知らずである。

主が共におられ、主の祝福があり、主の守りがあるという事は、全宇宙を創られた万能なる神が共におられるという事であり、主の守りの内に最善の道を歩ませ、主の最高教育の内に導かれて行く、という事である。
主は、驚くほどの憐れみによって私達を赦し、驚くほどの愛で私達を愛しておられる。
私達はその事にあぐらをかいて図に乗ったり、恵みをないがしろにしてはならない。

『こうして彼らがイスラエルの人々のために、わたしの名を唱えるならば、わたしは彼らを祝福するであろう」。』(民数記6:27)
ここは英語の聖書(KJV)では、イスラエルの子らの上に「わたしの名を置く」なら、わたしは彼らを祝福する、と記されている。
祭司が、イスラエルの会衆の上に「主の名を置き」、そうして祝福する。
それはあたかも、ハンコを押すようなものだ。

主は「わたしはある」と言われた。
主の名は「ある」である。
英語では「I AM THAT I AM」、すなわち、神は「存在する」という名前であり、在りて在る者、それが主のアイデンティティである。

英語で I am ○○ と言う時、わたしは○○である、という意味であるが、神はその○○の部分に、何でも入るお方だ。
主は全能であり、偏在であり、はじめであり、終わりであり、永遠である。
その素晴らしき主の名をハンコのように押された、という事は、世のどんな大統領のサインよりも遥かに強力な権威を持っている、という事であり、まさに、何でも持っている状態である。

この祝福の言葉は、何世紀にも渡って、祭司によって祝福されてきたが、私達キリスト者も、祭司という立場であり、家族のため、仕事場のために、祝福の祈りをする立場である。
そうであるからには、いたる所に、いたる場面で、偉大なる主イエスの御名によってハンコを押し、祝福すべきである。

礼拝説教メッセージ音声:ナジル人の誓い(民数記6:13-21):右クリックで保存

『これがナジルびとの律法である。聖別の日数が満ちた時は、その人を会見の幕屋の入口に連れてこなければならない。そしてその人は供え物を主にささげなければならない。すなわち、一歳の雄の小羊の全きもの一頭を燔祭とし、一歳の雌の小羊の全きもの一頭を罪祭とし、雄羊の全きもの一頭を酬恩祭とし、また種入れぬパンの一かご、油を混ぜて作った麦粉の菓子、油を塗った種入れぬ煎餅、および素祭と灌祭を携えてこなければならない。』(民数記6:13-15)

ナジル人が主に捧げている期間が満了した時、彼らは所定の捧げ物をする。
すなわち、罪のための犠牲を捧げて自らの罪を清め、また、焼き尽くす捧げ物を捧げて献身の思いを新たにし、また、和解のいけにえを捧げて、神と祭司と同じテーブルのごちそうにあずかる。

この和解のいけにえの際、その聖別した頭の髪を剃り、それを和解のいけにえの火にくべる。
ナジル人としての期間が短ければ、この時の髪はわずかで、期間が長ければ長いほど、それは結構な分量となるだろう。
そうして、所定の務めを主に果たした後、彼らは一般人のように、ぶどう酒を飲む事ができるようになる。

こうして見ると、ナジル人の生活にはかなりの制約があり、好きな事もあまり出来ず、期間が終っても、多くの捧げ物を捧げなければならずで、神を知らない人には、どうしてわざわざそんな立場に身を置くのか、と思うかもしれない。
しかし、キリストにあっていのちを得た人にとって、主に捧げられ、主のものとされている期間は、実に幸いである事を、経験しているはずである。
その人の所属先は、神にあり、守りの根拠も、必要の満たしの源も全能者にあり、しかも、神は決して変わる事の無い愛で愛され、全ての事を最善へと導いて下さるお方だ。
この御方に捧げている限り、決して物事を間違え無駄に過ごす事はなく、揺るがされない事も、心が飢える事も、渇く事も無い。
私達キリスト者は、キリストにあって神に捧げられた者達であるため、その大いなる祝福にあずかっているのである。

中には、自分を誇るため、人々から「すごい」と思われたいがために、断食したり、ナジル人のようになりたがる人もいるかもしれない。
しかし、断食や、ナジル人へと身を投じる事は、本来、主に対して自ら「聖別」する事である。
それは初めから終わりまで「主のためになすべき」ものであり、自分の誇りは一切入ってはならない。

断食や誓いは、むやみにすべきでない。御心でない断食や誓いは徒労以外の何者でも無いからだ。
パウロがエルサレムでユダヤ人達に捕らえられた時、ユダヤ人のうち、40人以上の者達が、パウロを殺すまでは飲み食いをしない、という誓いを立てた。(使徒23章)
しかし、神の御心は、パウロを生きながらえさせ、彼をローマへと連れて行き、カイザルや王達の前で、主イエスの証をする事だった。
結局、主は、パウロがみすみす殺されるような事は許されず、ローマ兵470名の護衛と、車つきで、パウロを安全な所へと護送した。
いかに多くの人間が、熱心や感情の高ぶりによって、パウロを殺すまでは飲食を断つ、という固い誓いを立てたとしても、主の御心に沿っていないなら、それは虚しく、徒労に終わるのだ。

『主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。』(詩篇127:1-2)
私達も、主の御心がどこにあるかを必ず探り、自分の心の動機をよく確かめ、御心でない誓いや、御心でない断食は、やめるべきである。

礼拝説教メッセージ音声:主に捧げられた者が気をつけるべき事(民数記6:1-12):右クリックで保存

民数記6章は、神に特別に誓願を立ててその身を主に聖別した人、「ナジル人(ナーザル:聖別する、分離する)」についての規定である。
聖書には、特別に主に捧げたこのナジル人が、何人か登場する。
ナジル人になる人は、普通、ナジル人としての期間を自由意志で決められるが、サムソン、サムエル、バプテスマのヨハネなど、親や主から生まれながらにナジル人として捧げられた人もいる。
彼らに共通している事は、神業としか思えないような働きを為している事であるが、その力の秘密は、忠実に「捧げ尽くし」「身を聖別している」事である。

神は何ゆえか、人間に神の御国の事業に参加する事を願っておられる。
それも、人が捧げたら捧げた分、明け渡したら明け渡した分、神は人を通して働かれる機会を得、人が捧げたらそれ以上に、大いに御業を為される。
人が自分のものとして握り締めている領域には、主は働く事は出来ない。
しかし、手放せば手放す程に、その領域において主は働く事が出来る。
だから、ナジル人のように主に捧げ尽くした人であるなら、主は、その人を通して、大いなる御業を働かれるのだ。

ナジル人は、世とは分離し、主に聖別されているため、以下の事で、他の人と区別されている。
すなわち、その食物において、イスラエルの民は日常的に食べる「ぶどう」のものを、一切食べてはならなず、飲んではならない。(民数記6:2-4)
また、ナジル人としての誓願を立てている間は、頭に剃刀を当ててはならない。その身を主に聖別した日数が満ちるまで、彼らは聖なる者として、髪の毛をのばしておかなければならない。
また、彼らは死体に触れてはならない。

『身を主に聖別している間は、すべて死体に近づいてはならない。父母、兄弟、姉妹が死んだ時でも、そのために身を汚してはならない。神に聖別したしるしが、頭にあるからである。彼はナジルびとである間は、すべて主の聖なる者である。もし人がはからずも彼のかたわらに死んで、彼の聖別した頭を汚したならば、彼は身を清める日に、頭をそらなければならない。すなわち、七日目にそれをそらなければならない。』(民数記6:6-9)
もし死体に触れるなら、意図的・自主的に死体に触れたのでないとしても、たとい、死体が向こうからぶつかって来るような事があったとしても、罪のためのいけにえを捧げなくてはならない。
そして、それまでの捧げて来た期間はリセットされ、彼らの頭にある聖別のしるしは無効とされてしまい、定められた捧げものを捧げてから、再度、ナジル人としての期間を開始しなくてはならない。

死体が向こう側からぶつかって来るような事は、人生で滅多に無いであろうが、状況的にそれに似たケースが、サムソンの場合である。
サムソンは、イスラエルには女が大勢いるのに、よりによって、ペリシテの女デリラを愛し、妻に迎えた。
そこで、サムソンによって悩まされていたペリシテ人たちは、デリラを銀で買収し、サムソンの力の秘密を探らせた。

『女はサムソンに言った、「あなたの心がわたしを離れているのに、どうして『おまえを愛する』と言うことができますか。あなたはすでに三度もわたしを欺き、あなたの大力がどこにあるかをわたしに告げませんでした」。女は毎日その言葉をもって彼に迫り促したので、彼の魂は死ぬばかりに苦しんだ。
彼はついにその心をことごとく打ち明けて女に言った、「わたしの頭にはかみそりを当てたことがありません。わたしは生れた時から神にささげられたナジルびとだからです。もし髪をそり落されたなら、わたしの力は去って弱くなり、ほかの人のようになるでしょう」。デリラはサムソンがその心をことごとく打ち明けたのを見、人をつかわしてペリシテびとの君たちを呼んで言った、「サムソンはその心をことごとくわたしに打ち明けましたから、今度こそ上っておいでなさい」。そこでペリシテびとの君たちは、銀を携えて女のもとに上ってきた。
女は自分のひざの上にサムソンを眠らせ、人を呼んで髪の毛、七ふさをそり落させ、彼を苦しめ始めたが、その力は彼を去っていた。そして女が「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」と言ったので、彼は目をさまして言った、「わたしはいつものように出て行って、からだをゆすろう」。彼は主が自分を去られたことを知らなかった。』(士師記16:15-20)

サムソンは、自ら髪を切ったわけでも、自らぶどう酒を飲んだわけでも、なかった。
しかし、彼が聖別のしるしを汚す事になってしまった原因は、異邦の女に身も心も委ねてしまったからである。

汚れが偶発的に向こうから降って来る事は、まず無いであろう。
ただし、汚れが降りかかりそうな所に身を置かないようには、注意すべきである。
たとい自分は強いと思っていても、誘惑になりそうなものは避け、味見すらしない事である。

ペリシテ人の屈強な戦士は、サムソンを苦しめる事は決して出来なかったが、妻デリラは、サムソンを死ぬほど苦しい目にあわせる事が出来、結局、サムソンは聖なるものの与奪の権利を、彼女に渡してしまった。
異邦の女と結婚した事、そのような、つまづきのとっかかりとなる事を、初めからしていなければよかったのだ。
サムソンも、ソロモン王も、まんまんとその罠に陥ってしまい、人生を転落させてしまった。

私達キリスト者も、いわば主に「捧げられた者達」である。
私達も、つまづきになりやすいものを近くに置くべきでない。

礼拝説教メッセージ音声:のろいの苦い水(民数記5:11-31):右クリックで保存

この章は、イスラエルの宿営の中から汚れを取り除く命令であるが、神の共同体の中で、最も根幹を為す「夫婦関係」という、絶対に親密であるべき信頼関係において、夫が妻の貞節を疑うという「汚れ」が生じた場合、たとい妻が無実であったとしても、夫のために、必ず取り扱かわなくてはならず、その方法を、主は示しておられる。
『「イスラエルの人々に告げなさい、『もし人の妻たる者が、道ならぬ事をして、その夫に罪を犯し、人が彼女と寝たのに、その事が夫の目に隠れて現れず、彼女はその身を汚したけれども、それに対する証人もなく、彼女もまたその時に捕えられなかった場合、
すなわち、妻が身を汚したために、夫が疑いの心を起して妻を疑うことがあり、または妻が身を汚した事がないのに、夫が疑いの心を起して妻を疑うことがあれば、夫は妻を祭司のもとに伴い、彼女のために大麦の粉一エパの十分の一を供え物として携えてこなければならない。ただし、その上に油を注いではならない。また乳香を加えてはならない。これは疑いの供え物、覚えの供え物であって罪を覚えさせるものだからである。』(民数記5:12-15)

ここには女性に不貞の疑いが生じた場合が記されているが、聖書には、男性が不貞を犯した場合の指示は、記されていない。
なぜなら、夫の「主人」は、全てを見ておられる全能の主であり、彼が不貞を犯す場合は、ダビデの場合のように、主ご自身がその罪を露わにされるからである。
しかし、妻の主人は、全能ではない男性であり、彼は妻が本当に不貞を犯したかどうかが分からないため、それを明らかにするために主はその方法を示された。

『その女を主の前に立たせ、女にその髪の毛をほどかせ、覚えの供え物すなわち、疑いの供え物を、その手に持たせなければならない。そして祭司は、のろいの苦い水を手に取り、女に誓わせて、これに言わなければならない、「もし人があなたと寝たことがなく、またあなたが、夫のもとにあって、道ならぬ事をして汚れたことがなければ、のろいの苦い水も、あなたに害を与えないであろう。
しかし、あなたが、もし夫のもとにあって、道ならぬことをして身を汚し、あなたの夫でない人が、あなたと寝たことがあるならば、―― 祭司はその女に、のろいの誓いをもって誓わせ、その女に言わなければならない。――主はあなたのももをやせさせ、あなたの腹をふくれさせて、あなたを民のうちの、のろいとし、また、ののしりとされるように。また、のろいの水が、あなたの腹にはいってあなたの腹をふくれさせ、あなたのももをやせさせるように」。その時、女は「アァメン、アァメン」と言わなければならない。』(民数記5:18-22)

こうして、女はその「のろいの苦い水」を、主の御前で飲む。
もし彼女が潔白なら、その水は害を与えず、かえって、彼女は子を宿すようになる。
そうでなく本当に彼女が不貞を犯したなら、その女のももは痩せ細り、腹がふくれ、彼女はのろいのしるしとなる。
通常、男が他人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も殺されなければならないが(レビ記20:10)、この場合、彼女は「のろいのしるし」として、共同体の中で生きなければならない。

不貞の疑いがかけられている間、妻にとっては苦しみの時であるが、主が、彼女の潔白を明らかにされ、それで夫の愛が以前にも増して戻って来て、しかも、子を宿すようになるからには、この「呪いの苦い水」は、後の彼女には幸いである。
同じように、私達も、主から試され、心の隠れた思いが明らかにされるために、御前で苦い水を飲まされるような時がある。

私達キリスト者は、男も女も全員、主の御前には「妻」という立場であり、他の神々を拝む事は、霊的姦淫である。
のろいの苦い水を飲んだ不貞の女は、腹が膨れ、ももがやせたように、私達も、主に対して隠れた不貞がある時、私達の健康や、経済、あるいは外見などに、必ず何かしらの変調が現れる。
その時は主に罪を告白し、悔い改めるべきである。主は、姦淫と殺人の罪を犯したダビデが自分の罪を主に認めた時、それを赦して下さったし、イエス様も、姦淫の現場で捕らえられた女を罪に定めず、「これからは決して罪を犯してはならない」と言われた。

主が、敢えて私達を苦々しい試練に遭わせられるのは、私達の心の中が明らかにされるため、私達が全き心で主に従い通すかを、探るためである。
『あなたがたのうちに預言者または夢みる者が起って、しるしや奇跡を示し、あなたに告げるそのしるしや奇跡が実現して、あなたがこれまで知らなかった『ほかの神々に、われわれは従い仕えよう』と言っても、あなたはその預言者または夢みる者の言葉に聞き従ってはならない。あなたがたの神、主はあなたがたが心をつくし、精神をつくして、あなたがたの神、主を愛するか、どうかを知ろうと、このようにあなたがたを試みられるからである。』(申命記13:1-3)

のろいの苦い水には、聖所のちりが混ぜられたが、私達も、試練に会った時は、口をちりにつけ、主の御前でおとなしく、自分が「ちり」である成り立ちを思い返すべき時である。
『主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。彼は心から人の子を苦しめ悩ますことをされないからである。 』(哀歌3:28-33)

のろいの水の試練にあって、潔白が証明された時、夫の愛が戻って来て、以前にも増して愛され、さらに、子を生むようになった。
同じように私達も、主から試され、苦い試練を通され、そしてそれをパスしたなら、主からの寵愛は以前よりも増し、健康や経済など、いのちの祝福は増し加わるのだ。
だから私達は日々、主に対して、全き心であり続けるべきである。

栄光の家系の女達 – タマル4 祝福を掴む執念(創世記38:27-30)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

世の中のお父さんとお母さんの馴れ初め話を聞くと、心和むものや、聞いていて嬉しくなる話は多いが、必ずしもそうでない場合もある。ユダとタマルという父母の馴れ初め話(?)は、最悪な部類に入ると言えるだろう。しかしなんと、タマルの子ペレツは、後にはイスラエルの中で、祝福の代名詞となった。(ルツ4:12)
いかに父母の最悪な行為によって生まれた子でも、祝福の代名詞にまでなれるのが、栄光の家系の不思議であり、神の民の醍醐味であり、キリストによって神の民に加えたらた私達には、慰めである。
イエス様を受けいれた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子となる全権が与えられた。
その人は、親の血統や肉欲は一切関係なく、ただ、神によって全く新しく生れたのである。(ヨハネ1:12)
では、タマルの子ペレツは、なぜ祝福の代名詞になったのか。その鍵は、祝福を掴む執念である。

『さて彼女の出産の時がきたが、胎内には、ふたごがあった。』(創世記38:27)
助産婦は、最初に出てきた赤子の手に「こちらが長男だ」という印として、真っ赤な糸を結びつけたが、その子は、お母さんのお腹のほうが居心地良かったのか、戻ってしまい、その間に、もう一方の子が先に生まれ出てきた。その、先に生まれてきた子はペレツ(割り込む)、手だけ先に出して、長男としての真っ赤な印をつけられながらも、後から出て来て、長男ではなくなってしまった子は、ゼラフ(輝き)と名付けられた。
ゼラフも、手を引っ込めたりせず、そのまま長男として出ていれば、王族の家系を継ぐものとされていたものを、それを逃し、割り込んで先に生まれ出たペレツが長男とされ、このペレツから王族が出る事となった。
この事は、現代を生きる私達への警告であり、戒めである。
ひと度、栄光の世界に一歩足を踏み入れ、祝福のしるしがつけられたのに、肉の中にいる事のほうを良しとし、その中へと引っ込んでしまうなら、その王族の家系の権利は別の人に奪われ、永遠に逃してしまう。
ヤコブの兄・エサウも、長子の権利を軽んじ、それを奪わんと虎視眈々と狙っていた弟によって、長子の権利も、祝福も、奪われてしまった。彼は、一杯の食物によって、長男の権利そのものを売ってしまった。
『一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。』(ヘブル12:16-17)

御国が私達に向かって手を差し伸べている時、天国への道が開かれている時、臆病になってはならない。『臆病な者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、全て偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。』(黙21:7)
黙示録のこの箇所では、第二の死へと向かう筆頭は、「臆病者」で、その次が「信じない者」である。
なぜ、邪悪な「人殺し」とか、神を知らぬ「偶像礼拝者」を差し置いて、「おくびょう者」が筆頭なのか?
それは、御国に入るチャンスが与えられ、その前味わいまでしたのに、捨て去るべき以前の世と決別する段になって、おくびょうになり、捨てきれないからだ。
ポンテオ・ピラトをかわいそう、と言う向きもある。イエス様を敬う心を少し持っていたのだから、赦してあげればいいじゃないか、と。しかし、イエス様を敬う心を持っていながらに、最後には臆病の故にイエス様を捨てて世に従ってしまう、これは、最初からイエス様に敵対していたパリサイ人達よりも、たちが悪い。
なぜなら、イエス様が真理であり王の王であると知った上で、なお、拒否したからだ。

『バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。』(マタイ11:12) 神の国の権利は、それを奪おうとする人が勝ち取り、自分は大丈夫だと安穏として肉に浸り続け、そこから動こうとしない人は、祝福の権利を奪われてしまう。
パリサイ人達は、ヨハネのバプテスマはどこから来たのか、と、イエス様から質問をされた時、人前で臆病になり、「わかりません」と答えた。そこで主は、あなたがたよりも取税人や遊女の方が、先に神の国に入っている、と、宣言された。(マタイ21:23-32)
イエスの血潮という、救いの「赤い印」が与えられたなら、それを決して離さず、神の国を熱心に求め、執念深く祝福を奪い取って行く皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:主の住まわれる集会の清め(民数記5:1-10):右クリックで保存

『「イスラエルの人々に命じて、らい病人(原語:ツァラアト)、流出のある者、死体にふれて汚れた者を、ことごとく宿営の外に出させなさい。男でも女でも、あなたがたは彼らを宿営の外に出してそこにおらせ、彼らに宿営を汚させてはならない。わたしがその中に住んでいるからである」。イスラエルの人々はそのようにして、彼らを宿営の外に出した。すなわち、主がモーセに言われたようにイスラエルの人々は行った。』(民数記5:2-5)

ツァラアトに罹っている人や、流出のある人等は、宿営の外に隔離し、そこで生活しなければならないという事を、主は既にレビ記で命じられていた。
その命令が出された時点で、自主的に出て行った人も、出て行かなかった人もいたのだろう。
そしてここで主は、明示的に「ことごとく宿営の外に出させなさい」と命じ、こうしてツァラアトに罹っている人や流出のある人たちは全て宿営から出て行った。

この事は、現代の民主主義・人権主義の観点からは、ひどいよう見える。
しかし、忘れてはならない。神の民は、「民主主義」ではなく「神主主義」、「人権主義」ではなく「神権主義」で生きるべき事を。
主は、イスラエルの宿営を「わたしがその中に住んでいる」と言われた。
聖なる主が、宿営の中に共に住んでおられるからには、一切の汚れをその中から除き去るべきである。
現代は「人権」を不自然に重んじるあまり、殺人者や未成年者の「人権」が歪んだ形でまかり通ってしまい、本来あるべき善悪の概念や、清さと汚れの概念が、混乱を来たしていて、罰するべきを罰さず、罰さぬべきを罰してしまうような事が、まかり通ってしまっている。
民主主義や人権主義は、罪過ちのある不完全な人間を主体とする所に、致命的な欠陥がある。人は結局、神を主として生きる事こそ、最善と幸いがあるのだ。

自分の中に、他人を汚してしまうような罪や汚れがある時は、周囲の人達を汚したり不愉快にしてしまうだけであるので、人の集まりから出て、主と一対一で向き合い、主にこの罪や汚れを対処して頂くうべき時だ。
『ひとりの重い皮膚病人(ツァラアト)がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら(if You are willing)、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう(I am willing)、きよくなれ」と言われた。すると、重い皮膚病(ツァラアト)は直ちにきよめられた。』(マタイ8:2-3)

また主は、和解すべき紛争を和解し、解決すべき問題を解決し、そうして、イスラエルの宿営の中から平和を乱す種を除き去るよう命じておられる。
『男または女が、もし人の犯す罪をおかして、主に罪を得、その人がとがある者となる時は、その犯した罪を告白し、その物の価にその五分の一を加えて、彼がとがを犯した相手方に渡し、そのとがをことごとく償わなければならない。』(民数記5:6-7)
ここはKJVでは「When a man or woman shall commit any sin that men commit,」と始まる。
罪にコミットする事、すなわち、「罪」状態に入る事は、人に損害を与えるだけでなく、「主に罪を犯す事」と記されている。

その解決のために、犯した罪を告白し、損失を与えた相手がいる場合には、五分の一を加えて償いをし、償いをすべき相手がいなければ、主に対して償わなければならない。
私達が罪を犯す事によって、主も、兄弟姉妹たちも、心に傷を受ける。だから、単に物品の償いをすれば良いという問題ではなく、相手の心のためにも、主のためにも、ある程度のペナルティを自分が受ける必要があるのだ。

イスラエルの会衆は、このように、共同体の中から汚れを除き去り、主の住まわれるイスラエルの宿営を清めた。
私達も、主から除き去るべき罪、解決すべき問題が示されたなら、早急にそれを除き去り、私達が属する主の集会を清めるべきである。

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