メッセージ - 201306のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:近親相姦はなぜ良くないのか(レビ記18:1-18):右クリックで保存

『あなたがたの住んでいたエジプトの国の習慣を見習ってはならない。またわたしがあなたがたを導き入れるカナンの国の習慣を見習ってはならない。また彼らの定めに歩んではならない。わたしのおきてを行い、わたしの定めを守り、それに歩まなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。』(レビ記18:3-5)

この章で、主は幾度も「わたしはあなたの神、主である」と言っており、あなたは、わ た し の お き て と 定 め に 従 っ て 歩 み な さ い、と特に強調している。
パウロも同じように、「もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。」と強調している。(ローマ10:5、ガラテヤ3:12)

もしイスラエルが、かつていたエジプトの風習に従って生きるなら、エジプトに下った災いを生きる事となり、入ろうとしている国・カナンの風習に従って生きるなら、主がカナンの人々をそこから追い払ったように、彼らもまた、祝福の地から追い出されてしまう。
しかし、彼らが主から与えられた御言葉によって生きるなら、主の中を生きるようになる。
それは私達も、同じである。
私達が、キリストにあって新しく創り変えられた者として生きるのなら、新しい永遠のいのちに生き、救われる以前の世の習慣によって生きるなら、呪いの内に生きるのだ。

エジプトやカナンの風習に染まってはならぬ。
主がその命令をされた時、真っ先に禁じられた事は、肉親や身内との性行為であった。
『あなたがたは、だれも、その肉親の者に近づいて、これを犯してはならない。わたしは主である。あなたの母を犯してはならない。それはあなたの父をはずかしめることだからである。彼女はあなたの母であるから、これを犯してはならない。』(レビ記18:6-7)

ここで「肉親」という語は「肉」あるいは「肉体」という意味でもあり、創世記2:24の「人はその父と母を離れ妻と結び合い、ひとつ”肉”となる」という場面でも使われている語である。
つまり、実の母義理の母と性関係を持つ事は、母と一つ肉である"父"を辱める行為であり(7-8節)、孫娘と性関係を持つ事は、自分自身を辱める行為である。(10節)
他にも具体的に、自分の姉や妹、腹違いの姉妹、おば、息子の妻、兄弟の妻と、性関係を持つ事を禁じており、また、母と娘を同時にめとる事や、姉と妹の二人を同時にめとる事も、主は明確に禁じている。

「肉親」と交わる事は、エジプトやカナンでは、日常的に行われていた。
実際、アブラハムの妻サラは腹違いの妹だったし(創世記20:12)、ヤコブがめとったラケルとレアは互いに妹と姉だったし、モーセやアロンも、父とおばが結婚して生まれた子であった。その他にも、近親相姦の例はいくつか見いだせるが、イスラエルの民は、それほど、現地異教徒の風習に染まりやすかったのだ。

肉親と性行為を持つ事には、嫌悪を覚えるのが普通の感覚であるが、エジプトやカナンでは、そうではなかった。
それは、エジプトも、カナンも、同じ「ハム」の子孫であるが故である。

「カナンの父ハムは、自分の父の裸を見て、外にいた二人の兄弟に告げた。」(創世記9:22)
この「見る」のヘブル語(raah)は、じっくり見る、楽しみつつ見る、等の意味がある。つまりハムは、敬うべき父の天幕に入り、そこで見つけた父の裸を、じっくりと見、楽しんで見、それでは飽きたらず、天幕から出て兄弟たちに言いふらし、来て、見るよう、招いたのだ。
肉親、特に父親の、裸を、性的秘密を、指さし、あげつらえ、吹聴し、一緒になって中傷するのは、サタンの道であり、子々孫々が呪われてしまう道である。

身内や肉親には、親密な愛情(フィレオー)のみ抱くのが普通だが、肉親同士が性行為にまで及ぶ所には、相当の情欲(エロース)を燃え立たせなければならないはずである。
エロースは奪う愛、破滅へと導く愛である。
親子同士・兄弟姉妹同士など肉親との性行為の結果、生まれる子も、その親に当たる男女も、とても不幸な境遇を生きねばならない事は、どの時代・どの国でも同じはずである。
エジプトやカナンでは、それをおかしい事とも何とも思われず、当然のごとく行われていたが、神の民は、そうであってはならない。

不自然な情欲に駆られた結果、はびこるものは悲惨と不幸であるが、しかし、たとい、そのような境遇にあって生まれた人でも、神にあって、希望がある。
『あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。』(レビ記18:5)
イスラエル一族も、モーセも、大祭司の家系も、肉親同士の結婚によって生まれた。
しかし、彼らに与えられた神のいましめによって歩む事によって、神にあって生きるようになり、神の民として、新しい生き方を歩むようになった。
それは私達も、キリストにあって、そうである。

『しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲(直訳:男の欲望)にもよらず、ただ神によって生れたのである。』(ヨハネ1:12-13)
人は、その生まれがどのようであっても、たとい肉親同士の情欲によって生まれたとしても、男が無理矢理に思いを遂げた事によって、生まれた命であったとしても、キリストを信じた人は、肉の欲によらず、男の欲望によらず、ただ、神によって新しく生まれた者とされるのだ。
その事は、人にとって大きな慰めである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
過去の罪の故に礼拝を禁止された時は(エズラ4:7-24):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:イエスのDNA(レビ記17:10-16):右クリックで保存

『だれでも、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう。肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。』(レビ記17:10-11)

肉のいのちは血にある、血はいのちそのものである、という事を、主は今日の箇所だけでも三度も呼びかけている。
そして、血を飲む者は、イスラエルから絶たれるとまで定めており、主はそこまで、血を重要なものとして位置づけている。

聖書の中で、血は、非常に重要なものである。
血の性質の第一は、今日の箇所からも見た通り、いのちそのものであり、また、神との契約のしるしとして有効なものである。
『そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。』(出エジプト記24:8)
『イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」』(マルコ14:24)

日本では、印鑑が契約のしるしとして用いられる。印鑑はその持ち主の人となりをあらわし、朱肉が印鑑の複雑な文様を大きく赤々と写し出している契約書を見ると、何か荘厳な気持ちにさせられるものだが、血は、印鑑よりも遥かに多くを語り、説得力がある。
事実、科学的にも、血の中には、多くの情報が隠されている。
すなわち、赤血球や白血球など血潮に含まれる全ての細胞には、DNA情報が組み込まれており、その持ち主の全ての情報が記されている。

血は、語る。血は、叫ぶ。血は、証しする。(創世記4:10、黙示録6:9-10、ヘブル12:24、1ヨハネ5:6-7)
不当に流されたアベルの血は、地面の中から主に向かって叫んだように、イエス様の血潮も、父なる神に向かって叫ぶ。
父なる神に対しては弁護を叫び、サタンに対しては、罪定めを叫ぶのだ。

また、血潮はきよめの役割を果たす。
『もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。・・・
だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル9:13-22)

レビ記では、血を食べてはならない、その内にはいのちがあるから、と、血を摂る事を禁じていたが、唯一の例外がある。
いや、それどころか、その血を飲まなくては、いのちは無い、とまで言われている血がある。
それは、イエスの血である。
『イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。』(ヨハネ6:53-56)

レビ記や、聖書の色々な箇所において、血潮がとても重要なものとして位置づけられている事の、全ての理由は、イエスの血潮に行き着くため、と言っても過言ではない。
イエスの血潮は、私達の罪を完全にきよめ、神に対しては弁護を叫び、サタンに対しては罪定めを叫び、私達が贖われた事の、完全なる契約の調印のしるしである。
私達も、イエスのいのちそのものである、その血潮を頂く事によって、イエス様のあらゆる優れたDNAが、すなわち、イエスの聖なるご性質、神の子としての完全なご性質が、私達の内にも、組み込まれるのである。

礼拝説教メッセージ音声:肉を食べる度に「礼拝」する(レビ記17:1-9):右クリックで保存

レビ記16章までは、いかにすれば罪が清められ、聖とされるのか、いかにすれば神に近づけるかについて語られていた。
イスラエルの民は、血潮や水の洗いによって清められ、身代わりの犠牲によって神に近づく事が出来たが、それらは全て、キリストをあらわしていた。
このレビ記17章以降は、聖められた民として、いかに日常生活を歩んで行くべきかについて記されている。
その冒頭の17章では、いのちをいただく事について、そして、いのちそのものである「血」についてのおしえである。

出エジプトの民は、牛や羊、やぎを、身勝手に屠殺してはならず、それを食す時は、必ず、主の幕屋の前に連れて来て、酬恩祭(和解のいけにえ)として捧げなければならなかった。そうしないのであるなら、その人は「血を流した者」とされ、民の内から絶たれる、とまで言われていた。(レビ記17:3-5)
酬恩祭とは、神と祭司と捧げる人とが、共に同じ動物からいただく、神と人との交わりの祭りであるが、いけにえとして定められている動物のいのちは、ほんのささいな肉であっても、必ず神を通し、祭司を通し、礼拝を通さなくてはならない。

もっとも、その事は、約束の地に入るまでの間、という期間限定であった。(申命記12:20-23)
一体なぜ、イスラエルの民は、出エジプトしてから約束の地に入るまでの期間、そこまで徹底して、牛や羊、やぎの肉を食べるごとに、「礼拝」というステップを通さなくてはならなかったのか。
それは、7節の御言葉から、エジプトにいた頃に染まってしまった「偶像崇拝」の習慣からの、「霊的毒抜き」のためと思われる。

このレビ記の命令が与えられた時は、エジプトから出てそんなに経っていない時で、体は出エジプトしていも、心は完全に出エジプトしていない民が多かった。
事実、民数記を見ると、イスラエルの民の心は幾度もエジプトへ傾き、エジプトへ戻ろうという扇動が幾度もなされたが、そのような人達は皆、荒野で打たれ、屍となって荒野に置いてけぼりにされた。

イスラエルの民が、以前の奴隷の国・エジプトの習慣から、完全に抜け出す。
その毒抜きのために、牛や羊、やぎなど、エジプトでは崇拝の対象となっていた動物をほふるときは、必ず主を通し、主の前で礼拝を行った。その事を、約束の地に入るまでの間、ずっと続けた。

同じように、私達も、脱出すべき以前の「世」の習慣があるかもしれない。
それは、例えば、お酒や性的不品行などの肉体的な悪い習慣かもしれないし、あるいは、すぐ暴力を振るったり暴言を吐くといった、性格的な悪い習慣かもしれない。
それらは、奴隷のように私達を縛り、新しい聖なる生活へ入ろうとする事を邪魔するが、それらは、イエスの御名と血潮によって、束縛から開放される事は可能である。
イスラエルの民が行ったように、そこから完全に抜け出すまでに、自分の中でそれに関わる全てにイエスの御名を通し、兄弟姉妹の祈りを通すのだ。
その事を一定期間続けるなら、段々、以前の悪い習慣や誘惑は、ものともしなくなって行き、やがて、その束縛を断ち切る事が出来る。

以前のエジプトでの習慣を断ち切りたくないがために、あるいは、御言葉に従う事を窮屈に思うために、モーセとアロンに逆らった者達が出てきたが、同じように、現代でも、健全な御言葉に逆らう者が出てくる事がある。
しかし、そのような者は、荒野で屍として取り残さ荒れて行ったように、そのような人は、自ら会衆から離れていく。そして彼らは決して安息には入れない。

今を生きる私達は、荒野を歩んでいるようなものかもしれない。
しかし、その荒野でしっかりと主からの訓練を受け、成熟するのであれば、約束の御国に入る資格が与えられ、永遠のいのちに預かる事ができるのである。

礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の実体なるキリスト(レビ記16:23-34):右クリックで保存

『そして、アロンは会見の幕屋に入り、聖所に入る時に着た亜麻布の衣服を脱いで、そこに置き、聖なる所で水に身をすすぎ、他の衣服を着、出てきて、自分の燔祭と民の燔祭とをささげて、自分のため、また民のために、あがないをしなければならない。また罪祭の脂肪を祭壇の上で焼かなければならない。』(レビ記16:23)
大贖罪の日、イスラエル全体の贖いを為し終え、アザゼルのやぎを解き放った後、大祭司は、着ていた亜麻布の衣服を脱ぎ、今度は通常の大祭司服 - エポデやさばきの胸当てなど、栄光と美をあらわす大祭司の衣装 - に着替え、大祭司自身とイスラエルの民のために、全焼のいけにえを捧げる。
全焼のいけにえは、自らの全身全霊を捧げる事を意味するが、全ての罪が贖われ、清くされた後は、主に全身全霊捧げる思いを新たにし、この新しく始まった年を送ろうと決意するのである。

『これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。
この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。』(レビ記16:29-31)

この、第七の月・チスリの月(太陽暦では9−10月)は、天地創造を起源とした「新年」であり、第一の月・ニサンの月(太陽暦では3−4月)は、出エジプトを起源とした「月々の初め」である。(出エジプト記12:2)
新年七月の一日からの十日間、イスラエル人は、去年一年間の反省をしつつ、大贖罪日に備える。
大贖罪の日は、「あなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない」とあるが、具体的には、一切の仕事も、娯楽もせず、断食して祈りに専念する。
ユダヤ教を厳格に守る人は完全断食をし、水も飲まず、唾液さえ飲まず、悔い改めの祈りに集中して、自分の罪が贖われ取り除かれる事を祈る。

しかし、いかに”儀式”を厳格に守ろうとも、それら一連の定めはキリストによる完全な贖いの比喩であって、携わる人の良心を完全なものとする事はできない。
『幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。・・・この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。』(ヘブル9:7-10)

キリストは既に現れ、完全な贖いの務めを、まことの大祭司として成し遂げてくださった。
『キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。』(ヘブル9:11-15)

結局、大贖罪日の実体は、キリストである。
今や私達は、儀式によるのではなく、肉体による善行によるのでもなく、ただ、キリストが成してくださった完全な贖いによって、永遠に罪が赦され、呪いから開放され、永遠のいのちに入れられた。
私達はその尊い贖いを、軽んじたり、侮ったりしては決してならず、ただ、その事に感謝しつつ、喜びながら生かされて行くのみである。

主の祈り−御名、御国、御心(マタイ6:9−13)
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主の祈りは、主イエス様が「こう祈りなさい」と示された「祈りの手本」であり、一分弱で終える事のできる、この短い祈りの中には、私達が祈るべき全ての祈りにおいて必要なエッセンスが納められている。

主の祈りの冒頭は、「天にいますわれらの父よ」という文句で始まる。
人が何かを話す時、誰を対象に話すのか明確にするために、真っ先に呼びかけをするものだが、この冒頭の文句は、今生きており、今聞いておられる方への「呼びかけ」である。
祈りとは神様との会話である事は知っての通りだが、私達が祈る時、神様との会話になっていない場合がよくある。祈り文句を人に聞かせるためであったり、また、自分自身を奮い立たせるためであったり・・・。
そのような、聞いて下さるべき相手を無視した祈り「もどき」を防ぐために、正しく呼びかける必要があるのだ。
私達が祈る時、一体誰に呼びかけるのか。それは、「天に座しておられる」 「私達の」 「父」 にである。
今、呼びかけている相手、これから自分の口から出る事を、聞いていただくお方は、高き天にいます方。
今生きておられ、たとい私達がどこにいても、呼びかけるなら、そこで聞いて下さる、偏在なるお方。
そして、「私達の父」、すなわち、私達を造られた、私達の源なる、私達の全てをご存知なる、父なる神。
そのようなお方であるという信仰を、明確に示すのが、この冒頭の呼びかけである。
この呼びかけに続いて、最初に祈る三つの願いの主語は、「御名(Thy name)」、「御国(Thy kingdom)」、「御心(Thy will)」である。すなわち、祈りで優先すべき主語は「Thy(あなた)」であって、私達ではない。
今回は、「御名」が、「御国」が、「御心」が、どのようになるよう、祈るべきか。それを見て行きたい。

第一の願いは「御名があがめられますように。」これは、「御名が聖められますように」とも訳す事が出来る。
私達が祈りにおいて最も先んじて祈るべきは、父なる神が、人々から聖とされ、栄光をお受けになる事。
詩篇100篇3節に「主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。」と記されている通り、私達を造られたお方は主であり、造られた目的は、主を称える事、そして私達は、主のものである。
人は祈る時、大体「**して下さい」と、自分の願い事を並べがちで、あたかも、神様が私達に仕えるかのように錯覚している人は多いが、そうではなく、私達の側こそ、神様に仕える身分である。
その事の表明を、真っ先にすべきであり、私達が第一に願うべき事は、「御名」があがめられる事である。

第二の願いは、「御国がきますように。」 この「国(バシレイア)」とは、王権、権威、支配、統治、王威、王の称号や栄誉などの意味もあり、すなわち「御国」とは、神の支配、権威、統治の行き届く領域の事である。
すなわち「御国がきますように」とは、御父のご支配が、私達の体に、心に、思いに、また、私達の家庭に、職場に、私達に属する、全ての領域が、あなたのご支配が行き届きますように、という願いである。
世の多くの領域は、人間の好き勝手によって、そしてサタンによって、正しき支配が為されていない。
自分自身が支配しようとする領域を、次々と手放し、その所の支配権を御父に渡すのであれば、その領域は、神の支配が「有効」となり、神のものとされる。

第三の願いは、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」である。
生まれながらの人は、誰でも、自分が思い描く事が成るようにと、当然のごとく願い、知恵と力をやりくりして、周りの環境や、周りの人間を、支配しようとする。そうして罪をはびこらせ、世界をおかしくさせて来た。
その事を止め、主の御心のみが最善である事を認め、その支配に委ねるのである。
イエス様もゲッセマネで「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られた。
おそらく、誰しもが天国に入りたいと願っているであろうが、主が「御心の天になるごとく、地にも」と言われた、という事は、天国とは、自分の願いが100%叶う国ではなく、その真逆、御心が100%成る国である。
天国に入るには、自分の心を降ろし、御心を優先させる事こそ、不可欠である。

祈りの時は主を第一として祈り、皆さんの内に、御父の支配を、天国を招き寄せる皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
つぶやく事の災いと、そこからの救い(1コリント10:10-13):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神殿を建てようとする際の妨害(エズラ記4:1-6):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ペルガモにある教会へ - 世と和合するなかれ(黙示録2:12-17):右クリックで保存

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