メッセージ - 201306のエントリ

さばく事について(マタイ7:1-5)
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『人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。』(マタイ7:1-2)
「裁く」のギリシア語「クリーノー」には、裁判する、判断を下す、支配する、という意味がある。
エデンの園に、いのちの木と善悪を知る知識の木の二つがあったように、神から離れた善悪判断こそ、いのちとは真逆の道である。自分が裁くその裁きの基準で、自分自身も裁かれ、自分が量るその量りで自分も量り返されてしまう。それだから主は、「裁いてはならない」と言われたのだ。
しかし聖書は同時に、兄弟姉妹を正しく裁くようにとも命じている。外部の人たちを裁く事は、私達のすべき事ではないが、内部の人達、すなわち、兄弟姉妹達を正しく裁かねばならない。(1コリント5:12)
それは、神から離れた善悪判断を基準にしてではない。御言葉なるキリストに来ていただき、彼に兄弟姉妹を正しく裁いていただくのだ。
その為にまず、自分自身の目の中から「梁」を取り除く事をしていただかなくてはならない。(マタイ7:3-5)

「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。」(マタイ7:3-4)
人との付き合いの中で、ある人が、自分以外の人と接する時は普通なのに、自分と接する時だけは、なぜか態度が冷たかったり、目に怒りがこもっていたりする事がある。
このような時、まず、自分の中に、その人をそのようにさせている性質(梁)がある事を、疑うべきである。
確かに、「その人」が冷たい性格であったり、差別したりする傾向はあるかもしれないが、スイッチを押さなければ電気はつかないように、相手のそのような性質を引っ張り出してしまう何かが、自分の側にも何%かは必ずある事を、忘れてはならない。

「偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。」(マタイ7:5)
例えば、嘘を平気でついている人が「偽ってはならない」と諭すなら、諭された人は当然、「あなたはどうなのか」と怒るだろう。その人には、その事を言う資格が無いからである。
御言葉を実行してもいないのに、御言葉で裁く。それはまさに、サタンの十八番であり、人を裁きながら、しかも、自分も同じ事をしている人には、弁解の余地は無い。
『ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。』(ローマ2:3-5)
どのようにして目の中の梁を取り除くか。それは、神の豊かな慈愛に導かれた「悔い改め」によって、であり、かたくなな、悔い改めの無い心で、人をさばく者は、神の裁きの日のために怒りを積んでいるのである。
悔い改め。それは莫大な力がある。イスラエルが慰められる日が近いのを御言葉によって悟ったダニエルが、イスラエルの罪をわが事のように悔い改めの祈りに入った時、霊の世界においては天使とサタンの戦争が起こり、クロス王の心を動かしたように、悔い改めの祈りは、目に見えない霊的世界を大いに揺るがす。
自分の中からかたくなさを取り除き、罪を悔い改めるなら、正しく兄弟姉妹の目からちりを除く事が出来る。

私達は地の塩として、世の光として、世界をから腐敗を除き、光を照らしていく務めがあり、それは私達が「裁く」事によってではなく、裁き主であり、御言葉なるキリストという、まことの光を掲げる事によって、であり、いのちの光を掲げる事によって、闇は消え去り、世は裁かれる。
キリストを信じる事により、助け主・聖霊が来られる。その時、そのお方は、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせる。(ヨハネ16:8-11) 光であり、御言葉であられるキリストが来られたのに、信じず、かえって闇に隠れる者は、既に裁かれている。(ヨハネ3:16-21)
真の裁き主、御言葉なるキリストに来ていただき、世を照らし、このお方に正しくさばいていただきましょう!

礼拝説教メッセージ音声:主の例祭 - ラッパの祭りと大贖罪日(レビ記23:23-32):右クリックで保存

続いて、第七月に行われる祭りについての教えである。
この第七の月・チスリの月(太陽暦では9−10月)は、天地創造を起源とした「新年」である。
それに対し、第一の月・ニサンの月(太陽暦では3−4月)は、エジプト脱出を起源とした「月々の初め」である。(出エジプト記12:2)

『主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『七月一日をあなたがたの安息の日とし、ラッパを吹き鳴らして記念する聖会としなければならない。どのような労働もしてはならない。しかし、主に火祭をささげなければならない』」。』(レビ記23:23-25)
ユダヤでは、第七月が「新年」すなわち、「万物が改まる」時期であるが、その新年の第一日、ユダヤの人々は一切の労働をやめ、あちらこちらでラッパ(角笛)の音を鳴り響かせた。

この世もやがて、万物が一新される日が来る。
その日、御使いのかしらの号令と共に、あちらこちらでラッパが鳴り響き、主ご自身、みずから天から下って来られ、その日、人々はもはや世の仕事をやめ、キリスト者は空中で主と出会うのである。(1テサロニケ4:16)

新年七月の一日からの十日間、イスラエル人は、去年一年間の反省をしつつ、大贖罪日に備えている。
『主はまたモーセに言われた、「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。』(レビ記23:26-17)
この日は、大祭司が年に一度だけ至聖所に入って、イスラエル全体の贖いの務めを為す日、大贖罪日である。
まず、大祭司自身の罪の贖いが為され、次にイスラエル全体の贖いが為され、最後に、イスラエル全体の罪を一頭のやぎの頭に乗せ、それを荒野へ追放する。(レビ記16章)

『その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。またすべてその日にどのような仕事をしても、その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。』(レビ記23:28-30)
「すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれる」とあるが、身を悩ますとは、具体的には、一切の娯楽も食事も味わう事をせず、祈りに専念する事である。
この教えを厳格に守る人は、完全断食を実行し、水はもちろん唾液さえ飲まず、ただ悔い改めの祈りに集中して、自分の罪が贖われ、取り除かれる事を祈る。

この贖罪日に行われる全ては、キリストの贖いを表している。
キリストは私達の全ての罪とがを負って、身代わりに罰されてくださった。
『まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。』(イザヤ53:4-6)
イスラエルが守り行う祭りの内に、イエス・キリストのご性質と、異邦人の救い、そして終末に至るまでの、将来起こるべき事が、隠されていたのである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
狭い所から広い所へ(2コリント6:11-18):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
誰の許可を得て神殿を建てるのか(エズラ記5:6-17):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ラオデキヤにある教会へ - 称賛が無い教会(黙示録3:14-22):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:主の例祭 - 七週の祭り(レビ記23:15-22):右クリックで保存

続いて「七週の祭り(シャブオット)」についての教えである。
初穂の祭りは、大麦の収穫の時期であるのに対し、七週の祭りは、小麦の収穫の時期である。
イスラエル地方で、穀物の収穫は、初穂の祭りの時期に始まり、七週の祭りの時期に終わる。

『また安息日の翌日、すなわち、揺祭の束をささげた日から満七週を数えなければならない。すなわち、第七の安息日の翌日までに、五十日を数えて、新穀の素祭を主にささげなければならない。』(レビ記23:15-16)
この祭りは、初穂の祭りからちょうど五十日目に行う。
この日は、新約におけるペンテコステである。ちなみに「ペンテコステ」という言葉は、ギリシア語で「五十」を意味するペンテコストスの女性形である。

この、七週の祭りの日、イエスの弟子達が、主から約束されていた聖霊を待ち望みつつ、一つ所に集まっていた時、そこに聖霊の風が吹きすさび、弟子達は聖霊に満たされた。
ちょうど七週の祭りを祝うために各地から大勢の人達がエルサレムに集まっていたが、その多くの人達がその聖霊のわざを見、ペテロの御言葉による説教に悔い改め、三千人ほどが、初穂として救いに入れられた。
イスラエル地方で、穀物の収穫は、初穂の祭りの時期に始まったように、いのちの刈り入れはキリストの復活に始まり、収穫は七週の祭りの時期に終わったように、いのちの成熟は、七週の祭りの時期に完成するのである。

『またあなたがたのすまいから、十分の二エパの麦粉に種を入れて焼いたパン二個を携えてきて揺祭としなければならない。これは初穂として主にささげるものである。』(レビ記23:17)
七週の祭りでは、パン種を入れたパン二個が捧げられる。
捧げ物の中に、パン種がはいるのはめずらしい。なぜなら、パン種入りのパンは、聖書では不純物の混じったものとして、あまり良い意味では使われないからだ。

この、二つの種入りのパンは、新約の教会の特徴をよくあらわしている。

キリストの十字架と復活の前までは、神の道はユダヤ人にしか示されていなかった。しかしキリストの復活以降、救いはユダヤ人だけでなく、異邦人にも及ぶようになり、イエス・キリストを信じる者は、全て救われるようになった。
『キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。』(エペソ2:14-16)
この箇所の「二つのもの」とは、ユダヤ人と、私達異邦人である。

しかし、この集まりの中には、パン種のような不純な者も混ざっている。
主はどういうわけか、あえて、麦の中から毒麦を除いたり、羊の中から山羊を除いたりする事はせず、そのまま共に育てるがままにされた。
それらを選り分ける日時は、主が定めており、その時まで、主は、敢えて混在したままにしておかれるのだ。

『あなたがたはまたパンのほかに、一歳の全き小羊七頭と、若き雄牛一頭と、雄羊二頭をささげなければならない。すなわち、これらをその素祭および灌祭とともに主にささげて燔祭としなければならない。これは火祭であって、主に香ばしいかおりとなるであろう。』(レビ記23:17-18)
七週の祭りでは、パンの他にも、多くの種類のいけにえが捧げられる。

過越祭でも、初穂の祭りでも、傷の無い一歳の小羊が捧げられていたが、この七週の祭りでは、それが七頭になっている。
以前も説明したように、傷の無い一歳の小羊は、キリストをあらわしている。
キリストの苦難と復活の時は、キリストという人格(神格)は、地上でひとりだったが、キリストの昇天と聖霊降誕以降、キリストの似姿である聖徒達が、地上で増え広がりつつあるのだ。

『あなたがたの地の穀物を刈り入れるときは、その刈入れにあたって、畑のすみずみまで刈りつくしてはならない。またあなたの穀物の落ち穂を拾ってはならない。貧しい者と寄留者のために、それを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である』」。』(レビ記23:22)
初穂の祭りも、七週の祭りも、共に収穫の祭りである。
貧しい人のために、畑の実りを残しておいてやるべき事を、主はここでも示された。なぜなら、全ての人が、いのちの収穫の恵みに与るべきだからであり、それを独り占めしてはならないからだ。

礼拝説教メッセージ音声:主の例祭 - 過越祭・除酵祭・初穂の祭り(レビ記23:4-14):右クリックで保存

『その時々に、あなたがたが、ふれ示すべき主の定めの祭なる聖会は次のとおりである。正月の十四日の夕は主の過越の祭である。』(レビ記23:4-5)
続いて、年ごとの祭りの規定が続くが、今回は特に、アビブの月(ユダヤの第一月、太陽暦では三、四月)に続けて行われる三つの祭りについて見て行きたい。

この、年ごとの祭り中で、最も先に定められている大切な祭りは、過越の祭、すなわち、主がイスラエルの民をエジプトから脱出させたその日を記念する祭りである。
この祭りの特徴は、まず小羊をほり、その血を、家のかもいと門柱にしるしとしてつけ、家の中で、そのほふられた小羊を食す事である。
主はこの月を一年のはじめと定めた程に、出エジプトとその祭りの内容を重要なものと定義されたが、実は、それはイスラエル民族だけでなく、全被造物にとって、重要な出来事である。
なぜなら、このほふられた小羊は、十字架につけられたイエスキリストをあらわしており、全被造物が、このほふられた小羊キリストによって、救いを得るからである。
詳細:出エジプト記12章 http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=1224

この、過越祭の小羊を食すその日を起点として、七日間の「種入れぬパンの祭り(除酵祭)」が始まる。
『またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に聖会を開かなければならない。どんな労働もしてはならない。あなたがたは七日の間、主に火祭をささげなければならない。第七日には、また聖会を開き、どのような労働もしてはならない』」。』(レビ記23:6-7)

この祭りの最初の日に、家の中からパン種を徹底して取り除き、続く七日の期間中、どんな仕事もしてはならず(その食事を作る事以外)、種を入れぬパンを食べつつ、安息する。
パン種は、聖書では良くない意味として用いられる。なぜなら、パン種は生地を発酵させて外見を膨らまし、純粋さを失わせるからだ。
また、このパンは、「悩みのパン」とも呼ばれ(申命記16:3)、苦菜が添えられて食べる。
イスラエル民族は、この期間、この純粋な「悩みパン」のみを食べ続ける事によって、純粋な御言葉のみによって養われる事を学び、自分達もかつてエジプトの地で悩んでいた所、主が大いなる救いによって救って下さった事を、覚えるのである。
また、この「悩みのパン」を食べる時期は、ちょうどキリストが苦難を受けられた時期とも一致しており、苦難を受けられたキリストをもあらわしている。

もう一つ、続けて行われる祭りに、初穂の祭りがある。
『主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『わたしが与える地にはいって穀物を刈り入れるとき、あなたがたは穀物の初穂の束を、祭司のところへ携えてこなければならない。彼はあなたがたの受け入れられるように、その束を主の前に揺り動かすであろう。すなわち、祭司は安息日の翌日に、これを揺り動かすであろう。』(レビ記23:9-11)
この祭りは、過ぎ越のいけにえが捧げられた安息日の翌日に行われる。
すなわち、受難日の後の最初の日曜日、教会暦で言う所の、イースターの日である。

『またその束を揺り動かす日に、一歳の雄の小羊の全きものを燔祭として主にささげなければならない。その素祭には油を混ぜた麦粉十分の二エパを用い、これを主にささげて火祭とし、香ばしいかおりとしなければならない。またその灌祭には、ぶどう酒一ヒンの四分の一を用いなければならない。あなたがたの神にこの供え物をささげるその日まで、あなたがたはパンも、焼麦も、新穀も食べてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。』(レビ記23:12-14)
ここで捧げられるいけにえは、過越の小羊と同じ、傷のない一歳の雄であり、これもまたキリストをあらわしている。
キリストは、十字架上で神に捧げられ、そして私達キリスト者の「復活の初穂」として、神に捧げられた。

以上、これら続けて行われる三つの祭りは全て、時期的にも、内容も、キリストの苦難と復活とに一致している。
神は、キリストがあらわれる何千年も前に、既に、キリストを予型した祭りを定めておられ、イスラエル民族がその祭りを行う度に、キリストのご性質を実演して見せ、キリストの特徴を都度、あらわしていたわけである。
まことに律法は、私達をキリストへと導く養育係である。(ガラテヤ3:24)

礼拝説教メッセージ音声:主の例祭 - 安息日(レビ記23:1-3):右クリックで保存

『主はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたが、ふれ示して聖会とすべき主の定めの祭は次のとおりである。これらはわたしの定めの祭である。六日の間は仕事をしなければならない。第七日は全き休みの安息日であり、聖会である。どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて守るべき主の安息日である。』(レビ記23:1-3)

レビ記23章は、週ごと・年ごとの例祭の定めであり、その中で、最も先に命じられた事は、安息日の「聖会」についてだった。
ここで、「ふれ示す」「聖会とす」と訳されてた言葉「カーラー」は「呼ぶ、呼び集める」という意味で、新約では「教会」と訳されている語「エクレシア」、すなわち「呼び出された者達」「召しだされた者達」と同等である。
つまり、ユダヤ人が年ごと・週ごとに行う聖なる祭りや聖会は、新約では、教会での集いに相当する。

ユダヤの会堂では、安息日ごとに「聖会」がもたれ、そこでは律法が朗読され、賛美が捧げられ、祈りが捧げられた。
この日には一切の世の仕事をしてはならず、ただ安息し、主にのみ心を向ける日である。

安息日に守るべき定めは、既に出エジプト記で学んだ通りである。
『安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。』(出エジプト記20:8-11)

パリサイ人たちは「働かない事」に重点を置き、大切な事を忘れてしまっていたが、主がここで重要なこととして言われている事は、主が定めた安息日を「覚え」、これを「聖」とする事である。
つまり、この日は、世の仕事をしない、と言うより、安息しつつ心を主にのみ向ける事、それこそ安息日の趣旨である。
パリサイ人は「働かない」事をきっちり守りながらも、心は主に向かず、サタンのようにじっとイエス様のあら探しをし、一番大切な正義とあわれみと誠実を、おろそかにしていたため、主から「災いだ」と言われたのだ。

モーセが十戒の内容を再確認している所が申命記にあり、その中でモーセは、以下のように命じている。
『あなたはかつてエジプトの地で奴隷であったが、あなたの神、主が強い手と、伸ばした腕とをもって、そこからあなたを導き出されたことを覚えなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守ることを命じられるのである。』(申命記5:15)
イスラエル民族は、かつて、エジプトで奴隷状態にあり、400年もの間働き詰めであったが、主が、その奴隷の国から開放して下さって安息を与えて下さった。
あなた方は安息日ごとに、その事を覚えなさい、という事である。

そして現代の私達も、主が特別に聖とされた「安息日」を覚える事は、とても大事なことである。
『もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:8-9)
イスラエル民族は、ヨシュアの時代、約束の地に入った事によって、安息に入ったわけではなかった。
安息日の休みは、私達・キリスト者のために、まだ残されているのである。
それはすなわち、天の御国における、永遠の安息である。

神の民といえど、その安息に入れない可能性もある。そして、その安息に「入れない」コツは、「不信仰」である。
『それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。』(ヘブル4:1-3)

主が用意されている「安息」を求める人達、その「安息」を意識する民は、安息日を覚え、これを聖とする。
しかし、主が用意された安息を軽んじ、主が聖とされた安息日をも惜しんで、あえて世に出て、世の仕事をしたがる人は、天の御国よりも地上の事を思い、乳と蜜の流れる地よりも、エジプトでの奴隷生活を優先さていると、自分で証言しているような者だ。そういう人は、安息日を覚えて聖とする事を知らない。

神の安息は、私達のために、まだ残されている。
その安息から、ひとりも漏れる人がいないように、日々、互いに励まし合って、地上での信仰生活を歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!。

礼拝説教メッセージ音声:主に捧げてはならないもの(レビ記22:17-33):右クリックで保存

続いて主は、捧げ物における「してはならぬ」事を、祭司を含め、イスラエルの全ての人々に命じている。
『「アロンとその子たち、およびイスラエルのすべての人々に言いなさい、『イスラエルの家の者、またはイスラエルにおる他国人のうちのだれでも、誓願の供え物、または自発の供え物を燔祭として主にささげようとするならば、あなたがたの受け入れられるように牛、羊、あるいはやぎの雄の全きものをささげなければならない。すべてきずのあるものはささげてはならない。それはあなたがたのために、受け入れられないからである。』(レビ記22:18-20)
捧げ物は、傷のあるものや、病気持ちのもの、欠損のあるものなどを、主は嫌われる。

神は、目に見えないお方、耳でその話を聞けないお方である。
それ故、人は、あたかも神はいないかのように、神は見ておらず聞いていないかのように、そのように無意識的に振る舞いやすい。
もし神がいないとしたら、家畜を祭壇に持って行って捧げる一連の行為は、単なる体裁の取り繕いに過ぎず、単純に自分の資産のプラスマイナスで見るなら、マイナスの行為である。
どうせそうなら、健康で良い動物は自分のもとに残し、きず物や無価値のものを捧げるほうがエコで効率的だ、という事になる。
しかしあいにく、主は生きておられるお方であり、私達の一挙手一投足だけでなく、心の動機も見ておられる。
そのように、主を軽んじるいけにえを主は忌み嫌われ、その人の身に呪いを招く事になってしまう。

『今これをあなたのつかさにささげてみよ。彼はあなたを喜び、あなたを受けいれるであろうかと、万軍の主は言われる。』(マラキ1:8)
主は問われる。どうでも良い傷ものを、あなたの上司や支配者などに捧げるのか、と。
主は、主を軽んじるような捧げ物にはうんざりで、そのような捧げ物を捧げる者がなくなるよう、戸を閉じる者があれば良いのに、とさえ言われる。(マラキ1:10)

このように戒められても、なお、その事を面倒くさく思ったり、ちゃんと捧げますと言いながら実体はそれと違う事を行う者に、主は、呪いを送られる。
なんと主は、そのような捧げ物を「糞」と呼び、それをあなたたちの顔面に投げ返す、とさえ言っている。
『祭司たちよ、今この命令があなたがたに与えられる。万軍の主は言われる、あなたがたがもし聞き従わず、またこれを心に留めず、わが名に栄光を帰さないならば、わたしはあなたがたの上に、のろいを送り、またあなたがたの祝福をのろいに変える。あなたがたは、これを心に留めないので、わたしはすでにこれをのろった。見よ、わたしはあなたがたの子孫を責める。またあなたがたの犠牲の糞を、あなたがたの顔の上にまき散らし、あなたがたをわたしの前から退ける。』(マラキ2:1-3)

「汚れ」以外の理由でも、捧げてはならないパターンがある。
『「牛、または羊、またはやぎが生れたならば、これを七日の間その母親のもとに置かなければならない。八日目からは主にささげる火祭として受け入れられるであろう。あなたがたは雌牛または雌羊をその子と同じ日にほふってはならない。』(レビ記22:27-28)
生まれたばかりの子を、すぐさまその母から引き離す事や、親と子とを同じ時にほふる事は、残酷な行為である。
神へ捧げる捧げ物の中に、そのような「残酷」が含まれていてはならない事を、主は命じておられる。

最後に主は、主の戒めを守り行う事、主の聖なる名を汚すことなく、イスラエルの中で主の名は聖とされなくてはならない事を、命じている。
『あなたがたはわたしの戒めを守り、これを行わなければならない。わたしは主である。あなたがたはわたしの聖なる名を汚してはならない。かえって、わたしはイスラエルの人々のうちに聖とされなければならない。わたしはあなたがたを聖別する主である。あなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの国から導き出した者である。わたしは主である」。』(レビ記22:31-33)

ここで、主は何度も「わたしは主である」と言っている。
言うまでもなく、主こそ、主である。
すなわち、決定権や支配権は自分には無く、主の側にあり、私達は主従関係の「従」、主こそ「主」である事を、いつも忘れてはならない。

ナルドの香油とイスカリオテのユダ(ヨハネ12:1-8)
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イエス様が十字架にかかられる6日前、イエス様はベタニヤのある家へ行かれた。そこはイエス様がよく行く所、イエス様が愛されたマルタ、マリヤ、ラザロの三姉弟がいる、イエス様にとって居心地の良い所だった。
かつてマルタは、イエス様の足元で御言葉に聞き入っているマリヤを怒り、自分の手伝いをするようイエス様に指図して、逆にたしなめられた彼女だったが、ラザロをよみがえらせて頂き、イエス様こそいのちの君で、彼のなさる事は何もかもが素晴らしいと知った彼女は、その、もてなしの賜物を遺憾なく発揮していた。
そしてラザロは、死んでいた所を蘇らせていただき、今、仲の良い皆と食事を共にし、死から救われたいのちを生きる喜びを噛み締めながら、共に交わりを楽しんでいた。
そして、いつもイエス様の足元で御言葉に聞き入っていたマリヤは、イエス様に最上の香油を捧げた。

最も高価なもの、それはイエス様の口から語られる御言葉であり、それこそマリヤにとって一番の宝である。
それをいつも足元で頂いていたマリヤは、自分が取っておいたものの中で、一番高価なもの、自分のために一度も使った事のない、純粋なナルドの器を割り、自分の信仰を混ぜつつ、一滴残らず捧げ尽くした。
イエス様の尊いその足に、心の中で「ありがとう」を言いながらナルドをそそぎ、女の冠である髪で拭った。
この尊い足がわたしを訪ねて下さいました、この足を使って。みずぼらしい我が家に入って来て下さいました。つたないおもてなしを受けて下さいました。わたしに尊い御言葉を語って下さいました。わたしを選び、死から救って下さいました、ありがとうございます、ありがとうございます。そのような気持ちを、込めながら。
彼女は、主への尊敬と愛、主への信仰を、そのナルドに混ぜ、注ぎ尽くし、その香りは、主の御前にいっそう高価で尊くなり、家全体を、そして、全世界に永遠の記念として広がった。
主はどれほど満足されただろう!私達も、マリヤのような、捧げ尽くす信仰が与えられるよう祈るべきである。

この三姉弟の奉仕によって高貴な香りが立ち登る、聖なる雰囲気を押し破り、しゃしゃり出てくる物がいた。
イスカリオテのユダである。
彼は、マリヤが捧げたこの香油は、カネでは幾らになる、と、値積もりし、「なぜこれを300デナリに売って貧しい人に施さなかったのか」と、文句を言った。それは、貧しい人に心を配っていたからではなく、彼は「弟子」という立場でありながら、盗人で、それを着服したかったからである。
彼は後に、イエス様を銀30枚(90日分の日当)で売った。それはすなわち、300デナリ(300日分の日当)の三分の一以下の値段である。つまり、イエスに300デナリも注ぐなど、もったいない、私に預けてくれれば、思い通りの活用ができたのに、と、思っていたのだ。
あの300デナリの何割かは俺のもの、残りは貧しい人達にやって、「ユダさま、恵んで下さりありがとうございます」「さすがユダさま、お優しいですね」といった賛辞を、いっぱいもらえたのに、と、思っていたのだ。

ユダの性質は、キリストや有名な先生にひっつき、聖徒の奉仕や、あらゆる捧げものに、じっと目を凝らし、教会で捧げられた献金や素晴らしい賛美、愛さんの食物、あるいは教会で聞いた素晴らしい御言葉の解釈、それらを値積もりし、横取りし、自分の財布や自分の腹、自分の名誉のために、着服しようとつけ狙う。
そのようなユダの性質は、私達に無いだろうか。それがどれ程卑しく恥ずかしい事であるか知るべきである。

イエス様は当然、ユダの嫌らしい魂胆を見抜いていたが、イエス様はそれを公にして叱り飛ばし、聖なる香り高い雰囲気を一気に壊すような事は、なさらない。
マリヤやマルタの麗しい奉仕、ラザロや友人達の楽しい交わり、その聖なる、香り高い雰囲気を台無しにしないよう、イエス様は美しい品性をもって言われた。「そのままにしておきなさい。」
ユダのような浅ましい人間が、聖なる香り高い雰囲気に、汚物を塗るような事は、確かにある。
しかし、私達はそれに対し、怒りや悪で報いてはいけない。
『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。・・・悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17,21)
聖なる香り高い雰囲気は「そのままに」しておくべきであり、イエス様の品性で悪に対応し、勝利すべきだ。

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