メッセージ - 201305のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主が聖であられるように、聖となれ(レビ記11:39-47):右クリックで保存

『あなたがたの食べる獣が死んだ時、その死体に触れる者は夕まで汚れる。その死体を食べる者は、その衣服を洗わなければならない。夕まで汚れる。その死体を運ぶ者も、その衣服を洗わなければならない。夕まで汚れる。』(レビ記11:39)
食べること。それは、その対象と一体化となる行為であるが、食用の家畜などの「きよい」動物であっても、病死したり、獣に殺される等した場合、その死体を食べたり、触れたりする人は「汚れる」とされている。
それと同じように、主にあって「きよい」とされたキリスト者であっても、世の汚れに再び戻って「死んだ」ものとなるなら、その人は「汚れた」者となる。
他のキリスト者が、その人と接触し続け、その汚れた人の死んだ行いを取り込むなら、その人も同様に、汚れた者となるのである。

『すべて地にはう這うものは忌むべきものである。これを食べてはならない。すべて腹ばい行くもの、四つ足で歩くもの、あるいは多くの足をもつもの、すなわち、すべて地にはう這うものは、あなたがたはこれを食べてはならない。それらは忌むべきものだからである。あなたがたはすべて這うものによって、あなたがたの身を忌むべきものとしてはならない。また、これをもって身を汚し、あるいはこれによって汚されてはならない。』(レビ記11:41-42)

地面を這って動く生き物は、忌むべきもの(「汚れ」よりも強い表現)である事を、再度確認している。
地を這いつくばって行き巡る性質は、サタンの性質である。
『主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。』(創世記3:14-15)

サタンは最も呪われたものとして、腹ばいで這い、ちりを食べる事が定められた。
ちり。それは人間の構成要素である。
地を這いつくばっては、食いものとするべき「人」を探して行き巡り、人々を食いものにしたり、されたりしつつ、汚れを増し加えて行くのが、サタンの子孫の性質である。
そのような「這うもの」に接触しつづけ、その汚れた行いを取り込むなら、地面を這いつくばるような、呪われた生き方となり、やがては頭を砕かれてしまう運命である。

『わたしはあなたがたの神、主であるから、あなたがたはおのれを聖別し、聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者である。地にはう這うものによって、あなたがたの身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神となるため、あなたがたをエジプトの国から導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたがたは聖なる者とならなければならない。』(レビ記11:44)

エジプト、それは呪われたハムの子孫の末裔の国、地を這いつくばって互いに食い合う性質で満ちていた。
その国で奴隷状態になっていたイスラエルを、聖なる主は救い出して下さり、聖なる民として、召し出して下さった。
同じように私たちも、かつては世にあって、罪の中に死んでいた者であり、暗闇の支配者の奴隷として歩んでいた。しかし、あわれみ豊かな神は私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださった。私たちが救われたのは、ただ恵みによるのである。(エペソ2:1-6)

それ故、キリストにあって聖とされた私達も、サタンの性質を「忌む」ものとし、自らを世の汚れから分離させ、主へと近づかねばならない。
主は、自らをきよめて近づこうとする者に、近づいてくださるのだ。
『神に従いなさい。そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。罪人どもよ、手をきよめよ。二心の者どもよ、心を清くせよ。』(ヤコブ4:7-8)

ある母の愛の行動(2サムエル21:1-14)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日は、母の日である。そこで今回は、リツパという、ある母の話をしたい。
リツパは、サウル王のそばめで、サウル王にふたりの子、アルモニとメフィボシェテを産んだ。
サウル王の死後、サウル王家の実権を握った将軍アブネルは、彼女と「寝る」事で、実権の確固たるをイスラエルにアピールしたが、彼も程なく殺され、全イスラエルはダビデの支配となった。(2サムエル3章)
それから年月が経ったある時、イスラエルに、三年続いて飢饉があった。
ダビデが主に伺うと、サウル王の時代、サウルがギブオン人達の血を流したため、という事だった。
ギブオン人はカナン人だが、ヨシュアの時代、計略を用いてイスラエルと盟約を結び、イスラエルは御心を求めず軽はずみな誓いをした事に後悔したが、主の御前に誓ってしまった故、その約束は長らく守られてきた。しかし、サウル王は「熱心のあまり」、昔の誓いを無視して、ギブオン人の血を流していたのである。
主との誓いを軽んじ、身勝手な熱心を大上段に振り回した結果、招いたのは、子孫たちへの呪いだった。
そこでこの時、サウルの子孫7人がギブオン人の手に渡され、彼らの手によって殺され、主の御前に「さらし者」(恐らく木にかけられた)にされる事となったが、その7人の中に、リツパの二人の息子も入っていた。

『アヤの娘リツパは、荒布を脱いで、それを岩の上に敷いてすわり、刈り入れの始まりから雨が天から彼らの上に降るときまで、昼には空の鳥が、夜には野の獣が死体に近寄らないようにした。』(21:10)
彼女は、息子たちが木にかけられた日以来、神が天の雨を降らせる時まで、その場を離れず、猛禽や獣から、息子たちの遺体を守り続けた。
ここまで徹底した愛、子が犠牲とされ、晒されても、なお守ろうとする「母の愛」以上の愛は、人間には無い。
子が、ぐれて悪くなり、一家の皆からは「死人」のように見なされても、それでも忘れず、いつも子を想い、守り、執り成す。母とは、そういうものである。しかしそれよりも、もっとすごい愛が存在する。神の愛である。
 「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。 見よ、わたしは、たなごころにあなたを彫り刻んだ。あなたの石がきは常にわが前にある。 」(イザヤ49:15-16)
今、私達を言いようもない深いうめきによって執り成して下さる霊が、聖霊である。(ローマ8:26-27)
聖霊はいつまでも、どこまでも私達を探り、追いかける。たとい私達が、罪にまみれ、汚れに陥り、死人のようになっても、なお深く憐れみ、弁護し、主の御前に正しく立てるまでに、執り成す。

リツパのこの行動は、ダビデ王の心を動かし、忘れ去られていたサウルとその子ヨナタンの骨をヤベシュ・ギルアデのところから取り出す行動へと導き、サウルの父・キシュの墓に葬るようにさせた。
そして人々は、さらし者にされた者たちの骨を集め、王が命じた通りに行い、そうして、神は、イスラエルの祈りに心を動かされるに至った。
彼女が若い時に、サウル王のために産んだ子供たちは、父の罪の故に、犠牲にされてしまった。しかし、彼女がその遺体を守り続け、神と人との前にその犠牲を「さらし」続けた事によって、神はなだめられ、ギブオン人もなだめられ、日照りと乾燥の中、遺体を守り続けていた彼女の上に、三年ぶりの雨が降り注いだ。
その雨は、イスラエル全体を潤し、イスラエルの多くの民に、パンをもたらした。
身勝手な正義は、子孫を呪いへと導く。しかし愛は建て上げ、多くの人に愛を思い起こさせ、恵みへと導く。

この、神と人との前にさらし者とされた7人は、イエスキリストのひな形である。
キリストも、大麦の刈り入れの頃、母マリヤに見守られている中、木にかけられ、呪われた者として神と人との前に、晒された。そして神は、ひとり子であるキリストのこの犠牲によってなだめられ、このイエスキリストを通して、全人類に、恵みと慈しみの雨が降り注ぐのだ。
私達も、アダムという「父」の罪の故に、生まれながらに呪われた者として、罪の刑罰を受ける者達だった。
しかし憐れみ豊かな神は、私達を愛する大きな愛の故に、キリスト・イエスを身代わりとして十字架の木にかけ、私達にいのちを得させて下さった。
このキリストの愛に浸され、潤され、さらに多くの愛を触発しつつ、福音は今に至り広まっているのである。

礼拝説教メッセージ音声:汚れを受けた場合の対処(レビ記11:24-38):右クリックで保存

『あなたがたは次の場合に汚れたものとなる。すなわち、すべてこれらのものの死体に触れる者は夕まで汚れる。』(レビ記11:24)
レビ記では「汚れ」や「死体」に触れれば、「洗わなければならず」、「夕方まで汚れる」という指示が、度々出てくるが、「汚れ」という望ましくない状態に陥ったなら、定められた手順をきちんと踏んで対処し、努めて脱却すべきである事を、主は教えている。
汚れを受けたなら「日が沈む前に」「その日の内に」対処しなくてはならない。対処せずに日をまたぐと、汚れた状態をそままずっと持ち越してしまう事になる。

私達も以前は汚れた者としてサタンに支配され、罪と罪過の内に死んだ者、「汚れた者」であった。
しかし、憐れみ豊かな神の、私達を愛するその大きな愛によって、救いの手が差し伸べられ、キリスト・イエスを信じる信仰によって救われ、神にあって生きたもの、「きよい者」とされた。(エペソ2:1-6)

しかし、もし私達が再び、世のならわしへと入って行き、罪の内へと入るなら、汚れた者となり、神の御前に、死んだ者となってしまうのだ。
『サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は「死んでいる。」・・・しかし、サルデスにはその「衣」を汚さない人が、数人いる。彼らは白い「衣」を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。』(黙示録3:1-4)

世俗の人達の、罪の行いに関わったり、触れたりして、その衣を汚したなら、対処が必要である。
レビ記では、衣を水で洗わなければならない、とあるが、私達の罪に汚れた衣を清めるものは、何だろうか。
それはまず、イエスの血である。

『もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられた「キリストの血」は、なおさら、わたしたちの「良心」をきよめて「死んだわざを取り除き」、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:13-14)
まず、イエスの血潮によって、汚れた良心を清められ、死んだわざが取り除かれ、生ける神に仕えるものとされる。

そして、罪を洗い清める「水」は、御言葉である。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26-27)

私達が世から汚れを受けたなら、イエスの血潮によって汚された良心を清め、御言葉の水によってすすぎ、汚れや偽りという「しみ」を除くのである。
「その人は夕方まで汚れる」とある通り、御言葉の水で洗えば、すぐに気持ちが晴れるかといえば、そうではないかもしれない。
思いも晴れ晴れするまでに、ある程度の時間がかかるかもしれないが、続けてイエスの血で上塗りし、御言葉の水ですすぎ続けるのである。

『またそれらのものが死んで、それが落ちかかった物はすべて汚れる。木の器であれ、衣服であれ、皮であれ、袋であれ、およそ「仕事に使う器」はそれを水に入れなければならない。それは夕まで汚れているが、そののち清くなる。』(レビ記11:32)
私達は世に出て仕事をする時、世から汚れを受ける事を免れないが、汚れを受けた都度、御言葉の水の中に入れるのである。

『またそれらのものが、土の器の中に落ちたならば、その中にあるものは皆汚れる。あなたがたはその器をこわさなければならない。』(レビ記11:33)
土の器は、染みこむものである。
もし罪がその身に染み込んでしまったら、粉々に割るくらいの思い切りで、その罪から離れたほうが良いのだ。

『またすべてその中にある食物で、水分のあるものは汚れる。またすべてそのような器の中にある飲み物も皆汚れる。またそれらのものの死体が落ちかかったならば、その物はすべて汚れる。天火であれ、かまどであれ、それをこわさなければならない。これらは汚れたもので、あなたがたに汚れたものとなる。』(レビ記11:34-35)
ここは、食料として口に入るものを入れる器や、食料をるくる「かまど」についてであるが、世の罪や汚れが、家の中、ことに台所にまで入り込んだら、かまどを割るくらいに、徹底的に取り除いたほうが良いのだ。
特に口に入るもの、食卓の中に汚れが入り込んでしまうなら、それほど徹底して対処しなくてはならない。

『ただし、泉、あるいは水の集まった水たまりは汚れない。しかし、その死体に触れる者は汚れる。』(レビ記11:36)
イエスこそ、まことの命の泉である。
12年長血を患った女は、律法上は汚れていたが、信仰をもって命の泉なるイエス様の衣に触れた時、汚れは清められた。

『それらのものの死体が、まく種の上に落ちても、それは汚れない。ただし、種の上に水がかかっていて、その上にそれらのものの死体が、落ちるならば、それはあなたがたに汚れたものとなる。』(レビ記11:37-38)
「種」は御言葉そのものであり、御言葉に汚れが落ちた所で、なんともないが、人の心に御言葉の種が蒔かれ、水がまかれ、根が出た状態で、その蒔かれた御言葉の上に汚れが落ちるとするなら、対処しなくてはならない。
私達は汚れを受けた場合、イエスの血によって汚された良心を清め、御言葉の水によってすすぎ、汚れや偽りという「しみ」を除くのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
信仰を込めた御言葉の宣言(ヘブル4:1-3):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
昔からの主のご計画の通りに(エズラ記1章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
圧倒的な主のご性質(黙示録1:9-20):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:きよい性質とは(レビ記11:13-23):右クリックで保存

今回は、主が定められた、食べて良い「きよい生き物」「きよくない生き物」の性質について、詳しく見て行きたい。
神はどのような性質をきよい、どのような性質をきよくないとされたのか。

まず、ひずめ、ひれ、うろこを持つ性質、後ろ足で跳躍する性質、それらを持つ動物を「きよい」とされた。
これらの性質に共通する事は、「地面(あるいは海底)に、直接、接しない」事である。
サタンの性質は、「一生腹ばいで歩き、ちりを食べる」(創世記3:14)、あるいは、「地を行き巡り、そこを歩き回る」(ヨブ2:2)ものである。
すなわち、きよい性質とは、地とは直接的に接しない、地に属さない性質である。

「地につくもの」は肉に属するもの、悪魔的なものであると、ヤコブ書3章で記されている。
そして、「上」に属する人、「地」とは距離を置く清い人の性質は、平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがないものである。(ヤコブ3:14-18)

また、「反芻」する動物はきよい動物、そうでない動物は、きよくない、とされた。
羊や牛などは、草をよく噛んで、胃で一部を消化し、それを再び口に戻してまたよく噛みしめ、また消化する、という事を繰り返すが、ここから、「反芻」する事が、主に喜ばれる性質である事を見る。
私達も、御言葉をよく噛んで咀嚼し、よく消化するなら、主に喜ばれる。
しかし、何でもかんでもそのまま鵜呑みにして消化不良になってしまう「豚」のような性質は、主に嫌われてしまう。

また、レビ記11章にて神がきよいとされた動物は、ほぼ、草食動物である事を見る。
実は、神が全被造物を創造されたはじめ、全ての動物は、皆、草食であった。
『神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。また地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべてのもの、すなわち命あるものには、食物としてすべての青草を与える」。そのようになった。神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。』(創世記1:29-31)

主の創世の当初は、どの生き物も、互いを害したり、食ったりする事などしない、「はなはだ良い」時代であった。
しかし、人間が堕落して早速、人は兄弟姉妹を傷つけたり殺したりするようになり、動物たちもいつしか、他の動物をとらえ、血を流し、捕食するようになってしまった。
鉤爪や牙で傷つけ、血を流し、他を食い物にしたりする性質は、神の性質ではなくサタンの性質、「汚れた」性質である。

創世の当初、全被造物は人によって正しく平和に支配されていたのに、人に罪が入って以来、全被造物は、呪いの下に束縛されてうめき(ローマ8章)、ノアの時代以降、全ての動物は、人間を恐れるようになってしまった。(創世記9:1-6)
しかし後に、預言者イザヤは、次のような平和な様を、幻で示されている。

『おおかみは小羊と共にやどり、ひょうは子やぎと共に伏し、子牛、若じし、肥えたる家畜は共にいて、小さいわらべに導かれ、雌牛と熊とは食い物を共にし、牛の子と熊の子と共に伏し、ししは牛のようにわらを食い、乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ、乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。
彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。その日、エッサイの根が立って、もろもろの民の旗となり、もろもろの国びとはこれに尋ね求め、その置かれる所に栄光がある。』(イザヤ11:6-10)

この、創世当初のような平和な世界の鍵、それは、エッサイの根、すなわち、イエス・キリストによる統治である。
イエスキリストにより、全地が主を知る知識が海の水のように満ちあふれ、主の栄光があらわれるところには、もはや、互いに害する者も、食い物にし合う者もなくなるのだ。
私達キリスト者の中にも、以前は、ライオンやコブラ、ハゲタカのような性質の者達もいたかもしれない。
しかし皆、エッサイの子・イエスキリストによって、そうした肉食の性質、サタンの性質はすっかり抜き取られ、きよく平和な性質へと造り変えられるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:私たち異邦人と律法との関わり(レビ記11:1-12):右クリックで保存

11章以降は、聖なるものと俗なるものの区別、きよいものと汚れたものの区別が示されており、いかに自らを清く保って主の民として歩むかというガイドラインが示されている。
そして、この11章では、食物に関する規定が示されている。

『「イスラエルの人々に言いなさい、『地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。』(レビ記11:2)
『水の中にいるすべてのもののうち、あなたがたの食べることができるものは次のとおりである。すなわち、海でも、川でも、すべて水の中にいるもので、ひれと、うろこのあるものは、これを食べることができる。すべて水に群がるもの、またすべての水の中にいる生き物のうち、すなわち、すべて海、また川にいて、ひれとうろこのないものは、あなたがたに忌むべきものである。これらはあなたがたに忌むべきものであるから、あなたがたはその肉を食べてはならない。』(レビ記11:10-12)

ここを読むと、私達日本人が普通に食べているものの中で、多くのものは、律法上では汚れたもの、食べてはならぬもの、と分かる。
では、私達日本人を含む「全異邦人」は、これらの規定と、どのような関わりがあるのだろうか。

そもそも、律法が特別にイスラエルの民に授けられた意義は、イスラエル民族がまだ一人の人だった頃、すなわち、アブラハムの時代にさかのぼる。
アブラハムがまだ、子供の無い75歳の一老人だった時、はじめて神から召命を受け、その時、子孫が与えられる約束がアブラハムに与えられた。
そして、その子孫を通じて、全人類を祝福へと入る約束が、与えられた。(創世記12:1-3)
つまり、神はアブラハムを特別に選び、彼の子孫、すなわち、イスラエル民族に神の規定を与え、神の基準を示し、神の存在と、神の聖なるご性質、そして、人類の救いの道を、全人類に表明するよう、祭司の民族として特別に定められたのだ。

祭司は自らを清め、世俗と分離する必要があるように(レビ記10:9-11)、祭司たる民族・イスラエルも、神が「汚れている」とされるものは摂ってはならず、そうして神の定めた律法を尊守し、世俗の民と区別する事によって、「祭司の民族」として、全人類を神へと導く務めを為すのだ。
そしてそれは、イエス・キリストのあらわれによって成就し、キリストを信じた者は、いかに「汚れている」とされている民であっても聖霊が与えられ、新しく造り変えられ、きよい、と宣言されるのだ。(使徒10章)
そして、エルサレム使徒会議にて、異邦人には、イスラエルの先祖たちさえ負いきれなかったくびき、すなわち、律法の数々の規定を、負わせない事が決議された。(使徒15章)

律法のもろもろの規定は、私達異邦人には適用されないものではあるものの、律法は、聖なるものと俗なるものの神の基準を知る事が出来、そして、これを守り行う人は、確かに祝福を受ける。
実際、これらを注意深く守り行ったイスラエル民族は、他と比べて伝染病にかかりにくく、平均寿命も長く、学力も社会ステータスも高かった。
ただ、律法を守り行う事によっては、いのちを得る事は出来ない。
結局、律法はあくまでキリストへと導く養育係であり、キリストを信じた事によって、私達も信仰によるアブラハムの子孫とされ、キリストがあらわれた以上、もはや「養育係」の下にいる必要は無いのだ。(ガラテヤ3章)

今や私達にとって、大切なのは、愛によって働く信仰である。
『自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。
わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。』(ガラテヤ5:1-6)

礼拝説教メッセージ音声:違反しても赦される人の特徴(レビ記10:12-20):右クリックで保存

『モーセはまたアロンおよびその残っている子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは主の火祭のうちから素祭の残りを取り、パン種を入れずに、これを祭壇のかたわらで食べなさい。これはいと聖なる物である。』(レビ記10:12)

あの恐ろしい事件の後、モーセは、アロンとその子達に、祭司たちが受けるようにと定められていた分を食べるよう言ったが、彼らはこの時、規定どおり行わなかった。
『モーセは罪祭のやぎを、ていねいに捜したが、見よ、それがすでに焼かれていたので、彼は残っているアロンの子エレアザルとイタマルとにむかい、怒って言った、「あなたがたは、なぜ罪祭のものを聖なる所で食べなかったのか。これはいと聖なる物であって、あなたがたが会衆の罪を負って、彼らのために主の前にあがないをするため、あなたがたに賜わった物である。見よ、その血は聖所の中に携え入れなかった。その肉はわたしが命じたように、あなたがたは必ずそれを聖なる所で食べるべきであった」。』(レビ記10:16-18)

モーセが、エレアザルとイタマルに怒ったのは、彼らが食べるべきだったものは、「いと聖なるもの(most holy)」であり、祭司たちは、これを食べる事によって会衆の罪を負い、主の前にあがないをするものだから、である。

祭司たちは、その動物がほふられる様を見、血が流れる様を見、その上で食べ、味わうべきものなのだ。

罪祭は、キリストの予表である。
何の罪も無い動物が、会衆の罪を背負い、身代わりに命を絶たれたのと同じように、私達も、キリストが十字架上で裂かれた肉を、流された血潮を、しっかりと覚え、尊びつつ、感謝をもって頂かなくてはならないのだ。

『アロンはモーセに言った、「見よ、きょう、彼らはその罪祭と燔祭とを主の前にささげたが、このような事がわたしに臨んだ。もしわたしが、きょう罪祭のものを食べたとしたら、主はこれを良しとせられたであろうか」。モーセはこれを聞いて良しとした。』(レビ記10:19-20)

モーセは、アロンのこの言葉で、良しとした。
アロンとその子らも、主の言われた事を厳密には守らなかった。なのに、赦された。
ナダブとアビフとは、主に火で焼き滅ぼされてしまった。
一体、滅ぼされた者達と、赦された者達の違いは何だろう。おそらく、次の事によるのではなかろうか。

モーセが怒った対象は、二人の子に、であり、アロンに、ではなかった。つまり、咎めを負っていないアロンが、子達のために、執り成した形になる。
義人による執り成し。それによって滅びを免れたケースは聖書に多い。

また、アロンの言葉からは、自分たちは「分からないで」事を起こしてしまった事を伺う事ができる。
もしかしたら、あまりに恐ろしい出来事の直後で、気が動転していて、命じられた事をつい忘れてしまっていたのかもしれない。とにかく、彼等は故意に命令に逆らったのではなかった事は、確かである。
主は、知らないで犯してしまった罪を、執り成して下さる。イエス様は十字架上で、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と、知らないで犯す恐ろしい罪について、執り成してくださった。(ルカ23:34)
しかし、罪だと指摘され、知りつつも、なお主への捧げものを軽んじた、ホフニとピネハスは、主から下る災いによって、一日にして滅んだ(1サムエル2章)。
また、初代教会において、夫婦で共謀し、意図的に捧げものを偽った夫婦も、たちどころに主に打たれた。(使徒5章)
主は、知らずに犯した罪は憐れんで下さる。しかし、知りつつ意図的に主に逆らう者には、憐れみは無い。

そしてまた、祭司アロンは、自分達の側に非があった事を、認めている。
ダビデも、姦淫と殺人の罪を犯した事を、預言者ナタンに指摘された時、「わたしは罪を犯した」と素直に認めた。
罪を指摘されても、言い訳と自己義を貫き通すような者は、サウル王のように、地位を剥ぎ取られ悲惨な末路を辿る。
罪を指摘されても、開き直って、神に反抗するような者は、カインのように追放され、人々から忌み嫌われ、さすらい人とされてしまうのだ。

罪を正直に告白し、言い表す人に対しては、神は真実で正しいお方であるから、その罪をゆるし、すべての不義から清めて下さる。しかしもし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とする者である。(1ヨハネ1:7-9)
私達も、自分の罪を認め、告白し、悔い改めて赦していただき、そうして、末永く祭司として主に仕える皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:不従順を焼きつくす火(レビ記10:1-11):右クリックで保存

『さてアロンの子ナダブとアビフとは、おのおのその香炉を取って火をこれに入れ、薫香をその上に盛って、異火を主の前にささげた。これは主の命令に反することであったので、主の前から火が出て彼らを焼き滅ぼし、彼らは主の前に死んだ。』(レビ記10:1-2)
前回は、「主がモーセに命じられたとおり」に祭司が行った結果、主が捧げものを受け入れる火が降り、全ての民はそれを見て力づけられたが、今回は、主が命じられなかった事を祭司が行ってしまった結果、その祭司を焼きつくす火が降り、全ての民はそれを見て、主の峻厳なる「聖」を恐れた。

なぜこのような事が起こってしまったのだろうか。
この出来事が起こった直後の9節に、「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。」と、唐突に「酒」についての命令が出てくるため、もしかすると、彼等は酒を飲み、酔った状態で主に近づいてしまったのかもしれない。
また、16章の1-2節によると、このふたりは、主の栄光が現れる贖罪蓋のある所、すなわち、年に一度大祭司が血を携えてしか入れない至聖所に、むやみに入ったようであり、そこで主の命じられていない異なる火を、身勝手にも捧げてしまったのかもしれない。

酒の故の事件や事故はよくニュースで聞くが、酒を飲むと、あらゆる事において気がゆるくなり、失敗をしてしまいがちである。
こないだの火柱すごかったな、たしか、捧げものには香がなんとかと言ってたぞ、俺たちもやってみよう、皆きっとびっくりするぞ、それで俺たちの格も上がるだろう、などと、酒を飲むと、してはならない領分を犯してしまうものだ。

『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。』(ガラテヤ6:7-8)
彼らは、自分の考えで、身勝手な流儀で、主が命じられていない事を行い、自分の「肉」にまいて滅びを刈り取ってしまったのだ。
しかし、主をおそれ、主に命じられた事を正しく行う人には、前章でのように、主は栄光の形で現れて下さる。

『その時モーセはアロンに言った、「主は、こう仰せられた。すなわち『わたしは、わたしに近づく者のうちに、わたしの聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現すであろう』」。アロンは黙していた。』(レビ記10:3)
主は、人がどのように行なったとしても、栄光をお受けになられるお方である。
人が主を軽んじ、御言葉を侮るなら、その者がどのような災いに遭うかによって、人々は主の栄光を見る事になる。
また、主を敬い、主を信頼する人には、その人が主から助けを得、祝福を受ける事で、主はそれによっても栄光をお受けになる。

『モーセはアロンの叔父ウジエルの子ミシヤエルとエルザパンとを呼び寄せて彼らに言った、「近寄って、あなたがたの兄弟たちを聖所の前から、宿営の外に運び出しなさい」。彼らは近寄って、彼らをその服のまま宿営の外に運び出し、モーセの言ったようにした。』(レビ記10:4-5)
2つの遺体は、服のまま運びだされた。
という事は、主の火によって焼かれたのは、彼らの体だけで、油注がれ聖別された祭司服は、焼けていなかったようである。
主はそこまで、ピンポイントに、災いにあうべき者と、そうでないものとを区別される。

『モーセはまたアロンおよびその子エレアザルとイタマルとに言った、「あなたがたは髪の毛を乱し、また衣服を裂いてはならない。あなたがたが死ぬことのないため、また主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないためである。ただし、あなたがたの兄弟イスラエルの全家は、主が火をもって焼き滅ぼしたもうたことを嘆いてもよい。また、あなたがたは死ぬことのないように、会見の幕屋の入口から外へ出てはならない。あなたがたの上に主の注ぎ油があるからである」。彼らはモーセの言葉のとおりにした。』(レビ記10:6-7)

髪の毛を乱したり、衣服を裂くのは、イスラエルにおける悲しみの表現だが、なんと、アロンにとっての子供達が、また、エレアザルやイタマルにとってはお兄さんが、あれだけ悲惨な死に方をしたというのに、悲しみの表現をしてはならないというのだ。
その理由は、「死なないため」「主の怒りが、すべての会衆に及ぶことのないため」である。祭司がその任職中に、私情に走って、主の御前に誤った事をしてしまうと、その会衆全体に累が及んでしまうのだ。
主の祭司は、そこまで、私情をはさんではならないのだ。

イエス様も、ある弟子が「まず父を葬りに行かせて下さい」と言われた時、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」と、厳しい事を言われた。
それ程、人々の上に立ち、神の国のつとめをする人は、人間的な感情や私情は、降ろさねばならないのである。
牧者や教師、賛美リーダーなど、人の上に立って導く立場は、感情や私情で簡単に動いてしまうような人がやってはいけないのだ。

『「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。』(レビ記10:9-11)

清められた良心を麻痺させ、霊的な感度を鈍らせる様々な「霊的アルコール」がある。
神の国の働きをする人は、世の価値観や、世のもろもろの楽しみに耽り過ぎる事は禁物である。
それらに浸り続けると、聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの判断を、誤らせてしまうからだ。
アルコールを摂取した状態で車を運転する人への罰則は、かなり厳しくなっているが、霊的なつとめをする人は、車の運転よりもはるかに「重要ないのち」をあずかっている故、なおさら、そうしたアルコール類に気をつけるべきである。
王たるものに、酒は相応しくない。(箴言31:4)
むしろ、御霊に満たされて、詩と賛美と霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心から賛美の歌を歌うべきである。(エペソ5:18-19)

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