メッセージ - 201305のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:身に着けるものに現れるツァラアト(レビ記13:47-59):右クリックで保存

『また衣服にらい病の患部が生じた時は、それが羊毛の衣服であれ、亜麻の衣服であれ、あるいは亜麻または羊毛の縦糸であれ、横糸であれ、あるいは皮であれ、皮で作ったどのような物であれ、もしその衣服あるいは皮、あるいは縦糸、あるいは横糸、あるいは皮で作ったどのような物であれ、その患部が青みをおびているか、あるいは赤みをおびているならば、これはらい病の患部である。これを祭司に見せなければならない。』(レビ記13:47-49)

今回は、衣服や織物、編物、革製品など、人がまとったり、敷いたりするものにツァラアトが現れた場合の指示である。
これらのものに現れたツァラアトの判定と、それに対する対処は、人体に現れた場合よりも厳しい。

ツァラアトの疑いがある場合は、七日間隔離し、患部が広がっていたなら、悪性のらい病(fretting leprosy)として汚れたものと宣言し、焼き捨てるが、広がっていなかったなら洗わせ、さらに七日間隔離して様子を見る。
七日前に比べ、変わっていないようであったら「汚れたもの」と宣言し、焼き捨てるが、それが以前よりも症状が薄れていたなら、その部分をちぎり取ってから、元の用に用いる事ができる。
しかし、もしそれが再発するなら、火に投げ込んで焼き捨てる。
焼き捨てる事から免れるケースは、洗った後に患部が消える場合で、その場合は洗った後にきよいと宣言され、再び元の用に用いる事ができる。

衣類や革製品など、着たり脱いだりするものは、聖書の他の箇所では「救い」や「行い」を意味する。(イザヤ59:3-6, 黙示録19:6-8, コロサイ3:8-11)
人は、キリストにあって救われたなら、古いものは脱ぎ捨て、新しい人を「着た」ものとされる。
『なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。』(1コリント15:53-55)

結局、生まれつきの人間は、修復不能の古びた服のようで、直しても直しても次から次へとツァラアトのような「汚れ」が湧いて出て来るようなものであり、「救い」とは、そのような汚れの泉のような古いいのち(肉)を全く脱ぎ、焼き捨て、新しいいのちが着せられるものある。
古い衣、すなわち生まれつきのこの体は、着れば着る程、古びていくが、キリストにある「新しい人」はその逆で、着れば着る程、日々、新しくされていくものである。
『しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、造り主のかたちに従って(日々)新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。』(コロサイ3:8-11)

そして、キリストにあって新しくされた人は、人生において正しい行いを紡いで行き、その事によって、天にて着せられる花嫁衣裳を織り成して行くのである。
『「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。』(黙示録19:6-9)

しかし、ひと度救われて後、救われる以前の悪い行い(たとえば、飲酒や汚れた遊興など)に再び染まってしまうなら、衣服に現れたツァラアトのように、せっかく清くされた衣装を汚すものであり、それは時間を経るごとに広がって行き、放っておくなら、全体が火に投げ込まれてしまう「汚れたもの」になってしまいかねない。
以前の悪い行いに少しでも戻りそうなら、速やかに、その部分を御言葉の水で洗い流し、その部分を切り取って火に投げ込むくらいの覚悟で望んだほうが良いのである。

『兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。』(ヘブル3:12-14)

礼拝説教メッセージ音声:頭、ひげ、はげ頭のツァラアト(レビ記13:29-46):右クリックで保存

今回は、頭または、あご(ひげ)の部分にツァラアトが生じた場合の指示である。
疑いのある症状が現れた場合、七日間隔離して様子を見、それが広がっていないなら、そこで「きよい」と宣言されるのが通例だったが、頭、またはあご(ひげ)の部分に患部が生じた場合は、その部分の毛を剃り落として、さらに、もう七日間隔離する。
この部位に関しては、他の部位の場合より倍の慎重さをもって扱われる。それはどういうことか。

それは、「頭」や「ひげ」という部位は、男性にとっても、女性にとっても、その人自身の栄光をあらわす場所だからである。
ダビデは、ひげを半分剃られてしまって非常に恥じている使者達を配慮し、ひげが伸びるまでの間、町にこもっているよう指示した。(2サムエル10:1-5)
また、髪が長い事は、女性にとっては栄光、男性にとっては恥である事が、第一コリント11章に記されている。

『人がもしその頭から毛が抜け落ちても、それがはげならば清い。』(レビ記13:40)
男性の「はげ」は、普通に起こりうる現象だが、それをあざけりの対象として見る価値観は、昔のイスラエルにもあったようである。

『彼(エリシャ)はそこからベテルへ上ったが、上って行く途中、小さい子供らが町から出てきて彼をあざけり、彼にむかって「はげ頭よ、のぼれ。はげ頭よ、のぼれ」と言ったので、彼はふり返って彼らを見、主の名をもって彼らをのろった。すると林の中から二頭の雌ぐまが出てきて、その子供らのうち四十二人を裂いた。』(2列王記2:23-24)
はげ頭をあざけった報いとして、四十二人の子供が熊に襲われる。
それを「やりすぎ」と思うかもしれないが、男性の「頭」、ことに、神の預言者の、栄光の現れである「頭」を蔑む事が、いかに恐ろしい罰を招くか、伺い知る事ができる。

『祭司はこれを見なければならない。もしそのはげ頭または、はげ額の患部の腫が白く赤みをおびて、身の皮にらい病があらわれているならば、その人はらい病に冒された者であって、汚れた者である。祭司はその人を確かに汚れた者としなければならない。患部が頭にあるからである。』(レビ13:43-44)

ここで「確かに汚れた者(utterly unclean)」という、特有の強い表現がなされる理由は、患部が「頭」にあるから、である。
このように、「頭」や「ひげ」という、人の栄光をあらわす部位については、他よりも、二倍の慎重さ、二倍の期間をもって、取り扱われなくてはならない。
そして、そこにツァラアトが発覚した場合、「確かに汚れた者(utterly unclean)」という強い表現であらわされるのだ。
ウジヤ王の場合、祭司たちの面前で、ひたいにツァラアトが現れたが、いかに彼の傲慢さが神の御心を損ねたかが分かる。(2歴代誌26章)

現代、キリストのからだである教会においても、同じ価値観を適用できる。
かしらと見られる人、主だった人達の罪や汚れは、二倍の注意をもって対処しなければならない。
『よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。』(1テモテ5:17-19)

そして、ツァラアトがあらわれて「汚れている」と宣言された人は、自ら、次のように振舞う事が命じられている。
『患部のあるらい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない。』(レビ記13:45-46)

これは、その人にとって辛い事かもしれない。しかし、祭司に「汚れている」と宣言された者は、神のコミュニティに、自らの汚れを振りまいてはならない。
同様に、教会はキリストのからだである事をわきまえ、自分一人の汚れやエゴ、あるいは身勝手な人権思想によって、自分の汚れを、キリストのからだに持ち込んではならない。

ツァラアトにかかった人は、一人になって、悔い改めて主に立ち返るべきである。
神である主こそ、全ての罪汚れから、病から、清めて下さるお方であり、その事を信じて主に向かい、主の御言葉どおり行う人は、主の栄光を見る。
預言者エリシャの時、イスラエルにはツァラアトを患っている人はたくさんいたが、その誰もきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめらた。ナアマンは、預言者に言われた事を、曲がりなりにも、実行したからである。
イエス様の時代、10人のツァラアト患者は全員清められたが、彼らはイエス様に助けを求め、まだ癒されていない時に、あたかも「癒された」人が取るかのような行動を、イエス様の言葉を信じて行ったからである。

主イエスキリストこそ、ツァラアトからも、霊的なあらゆる汚れからも、清めてくださるお方である。
私達は、あらゆる思い込みや先入観を捨て、人々に頼るのではなく、このお方に向かって、助けを求めるべきである。

枯れた骨も息を吹き返す(使徒2:1-4、エゼキエル37章)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

本日ペンテコステは、イエス・キリストの弟子達が、聖霊に満たされ、力を受けた事を記念する日である。
聖霊の「霊」は、ギリシア語でプネウマ、ヘブライ語でルアッハ、いずれも「(神の)息」、「風」、「霊」を意味し、主のしもべにも、はしためにも、それが与えられる事は、旧約の預言者たちによって預言されており(ヨエル2章)、それはまさに主の弟子達に与えられる事は、イエス様も言われていた事だった。(使徒1章)
このペンテコステの日、激しい風が天から吹いて来るようなとどろきが、弟子達のいた家全体に響き渡り、炎のような分かれた舌が現れ一人一人の上に留まり、みな、聖霊に満たされ、異なる舌で話し出した。
「聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは”力”を受け、、、地の果てまでわたしの証人となる」(使徒1:8)
力(デュナミス)。それはダイナマイトの語源で、ダイナマイトのような莫大なパワーを持つものであり、その力が与えられる目的は、イエス様の証人となるためである。
聖霊の「力」は、どれ程のものであるのか。エゼキエル書37章に、その顕著な様子を見る事ができる。

『主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。』(エゼキエル37:1) エゼキエルが連れて行かれた場所は、ひどく干からびた骨に満ちた谷、かつて戦により切り殺された者達が、骨の残骸となって、あちこちに散らばっている所だった。
これらの骨は、バビロン捕囚で移されたイスラエルの全家をあらわしているが、それは次のような人達にも当てはめる事ができる。
すなわち、自らの不従順の罪によって徹底的に打たれ、もはや復興の望みは絶たれてしまったような人。
昔、若かりし頃の戦いに破れ、夢破られ、復帰する望みもない骨として年月を重ね、ただ枯れるに任せるしかなかった状態。あるいは、自らの罪と神への不従順のために、暗く死に満ちた谷底に落とされ、果てしなく長い間、身動きもできぬまま、枯れ果てて行く自分を、ただじっと眺めていたような。そんな人達に。

『「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです。」』(3節) 枯れ果てた骨が、生き返る。それは、人には考えつきもしない事だが、主には何でも出来る。
主はエゼキエルに、それらの骨に預言せよ、と言われる。わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす、と。(5-6節)
彼がその通り預言すると、ペンテコステの日のような、大きなとどろきと共に、骨と骨が互いにつながり、筋がつき、肉が生じ、皮膚が覆った。しかし、その中に「息」は無かった。(7-8節)
確かに主は、死んだような状態から、生き返らせて下さる。主の憐れみによって、かつては骨のような状態から、人並みの状態にまで戻されたキリスト者は大勢いるし、そのように求めている人は多い。
しかし、「神の息」が無い状態では、マネキンのように、「行い」の無い、死んだも同然の状態である。

『時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。』(9節)
その通り、彼が「息」に預言すると、息が彼らの中に入り、自分の足で立ち上がった。それは、非常に多くの集団(カッイル:軍団、部隊)となった。
ペテロやイエス様の弟子達は、以前は、大した実を結ぶ事のできない烏合の集団で、イエス様が十字架につけられた時、ちりぢりになり、死んだ骨のような状態だったが、イエス様の息で息吹かれ、ペンテコステで聖霊に満たされて以降、力強く、大胆な伝道者となり、死をも恐れない神の軍団となって全世界に出て行き、ローマを席巻し、ヨーロッパやアメリカ、アジアにまで、神の言葉が伝わっている。

自分は干からびた骨のようだ、と言っている人は、自分自身に、御言葉を宣言すべきである。生き返れ、と。
人並みに回復しても、御前に良しとされる行いの無い、死んだも同然のような人も、「息」に預言すべきである。「息よ、四方から吹いて来い、この者に吹きつけて、生き返らせよ」と。
神の息吹のダイナマイトパワーに満たされて、干からびた骨から、神の軍団へと造り替えられ、大胆にキリストを証して行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:腫物とやけどからのツァラアト(レビ記13:18-28):右クリックで保存

『また身の皮に腫物があったが、直って、その腫物の場所に白い腫、または赤みをおびた白い光る所があれば、これを祭司に見せなければならない。』(レビ記13:18-19)

腫物は、傷を正しく対処しなかったり、体に溜まった老廃物を洗い流さなかったり、あるいは、不摂生を続けたりすると、出来やすいものである。
どんなにささいな傷であっても、そこに細菌が入ってしまうと、化膿して腫物となってしまい、それがさらに悪化して、ツァラアトとなっていく事もある。
同じように、私たちも、誰かから受けた心の傷、あるいは自ら湧き上がった悪しき思い、自らの不摂生の結果など、それを思い巡らし、心の中で汚れた膿を増幅させてしまうと、それを根城に、霊的な雑菌を繁殖させてしまう。
さらに悪化すると、人々に汚れを振りまく「霊的ツァラアト」にまで発展してしまい、文字通り「腫れ物を触るように」扱われ、隔離されてしまう。
ツァラアトの疑いがある場合、祭司は、さらに七日間隔離し、それが広がっていないかどうか確認し、七日前よりもさらに広がっているなら、その者を「汚れている」と宣言するが、同じように、私たちも、どんな些細な事であっても、良くない思いを思い巡らし、増幅させてしまうなら、汚れている、と宣言されてしまうのだ。

『しかし、その光る所がもしその所にとどまって広がらなければ、それは腫物の跡である。祭司はその人を清い者としなければならない。』(レビ記13:23)
それが広がっていないのであれば、それはただの腫物の跡であり、きよい、と宣言される。
腫物そのものは、誰にでも出来るものであり、それだけでは「汚れ」とはされない。
しかし、それを自らいじり回しているなら、汚染が広がり、「汚れた者」と判定され、人々から隔離されてしまうのだ。

『また身の皮にやけどがあって、そのやけどの生きた肉がもし赤みをおびた白、または、ただ白くて光る所となるならば、祭司はこれを見なければならない。そしてもし、その光る所にある毛が白く変って、そこが皮よりも深く見えるならば、これはやけどに生じたらい病である。祭司はその人を汚れた者としなければならない。これはらい病の患部だからである。』(レビ記13:24-25)

やけどは、火や熱などによって皮膚が損傷するものであるが、それが悪化してツァラアトとなっていくケースもある。
私たちの心も、火傷を負ってしまう事があるが、その原因は何か。
聖書の他の箇所で「火」というと、ねたみや、怒りを火として表現する他、唇から出てくる悪しき言葉も、火として表現される。
『舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。舌は火である。不義の世界である。舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。』(ヤコブ3:5-6)

あるいは、御言葉の光に頼らず、自家製の「ともしび」を灯して行こうとする者は、自らその身を焦がし、苦しみの内に倒れてしまう。(イザヤ50:10-11)
そのように、自身の身勝手により、火傷を負う事もある。

やけどを負ってしまうと、壊れた組織から細菌が入り、ツァラアト化する可能性が高くなる。
同じように、誰かからの怒りやねたみ、口撃によって火傷を負ってしまった場合、あるいは、主への不従順、不信頼によって自ら火傷を負ってしまった場合、それを速やかに取り扱わないなら、そこから霊的な細菌が入り込み、霊的ツァラアトに発展してしまう場合もある。

では、受けてしまったそれらの傷は、どのように取り扱う必要があるか。
「良きサマリヤ人のたとえ」の中にヒントがある。(ルカ10:30-37)

このたとえには、ある人が旅路で強盗に襲われ、ひどく傷を負わされ、持ち物を奪い去られてしまった人が出てくる。
律法を遂行する祭司やレビ人は、傷を負ったその人を見て見ぬふりをして通り過ぎてしまうが、人間の祭司には限界があり、本質的に、人を救う事は出来ない。
私たちも、世の旅路で、様々な種類の強盗に遭い、身体的・心的・経済的に傷を負わされる事がある。
どんなに有名な先生でも、真にその人を知っているわけではないし、やはり人間であるため、その人自身からの汚れを受けてしまうと、正しく対処できないからだ。

『ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。』(ルカ10:33-35)
このサマリヤ人は、イエス様ご自身である。

イエス様は、世の旅路で強盗に襲われて、傷を負ったような私たちを、気の毒に思い、近寄ってきて、その傷に聖霊の油を塗って下さった。
イエス様の血であるぶどう酒を注いで消毒して下さり、御翼の陰に覆って下さった。
イエス様の乗り物であるロバから降りて、そこに私たちを乗せて下さり、教会に連れて行って下さり、介抱して下さった。
イエス様は、教会に傷を負った人を託される時、その人を介抱するのに必要な銀貨をも置いて行って下さり、足りないならば、さらに必要分を支払って下さる。

私たちが、傷を負った時、人間のだれかの所に行くよりも、直接イエス様の所に行ったほうが良い。
特に、霊的汚れを負ったなら、なおさら、人の所に行ってはならない。人々に自らの汚れを伝染させ、さらなる拒絶に遭うだけだから。
私たちは、霊的な傷を負った時、霊的ツァラアトにかかった時、イエス様の所に、まず行くべきである。
まことの隣人となって下さったイエス様こそ、癒し主であり、私たちのツァラアトを癒し、汚れを除き、全ての霊的不具合を癒して下さるからである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
その事ができる間に(ルカ22:17-31):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の呼びかけに応答せよ(エズラ記2章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
エペソにある教会へ - 初めの愛に戻れ(黙示録2:1-7):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:ツァラアトに現れる生肉(レビ記13:9-17):右クリックで保存

『もし人にらい病の患部があるならば、その人を祭司のもとに連れて行かなければならない。祭司がこれを見て、その皮に白い腫があり、その毛も白く変り、かつその腫に生きた生肉が見えるならば、これは古いらい病がその身の皮にあるのであるから、祭司はその人を汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、これを留め置くに及ばない。』(レビ記13:9-11)
らい(ツァラアト)の患部に、「生きた生肉」があらわれる場合、それは古くからあるもの、すなわち慢性のものであり、その存在は誰の目にも明らかに「ある」ため、祭司はわざわざ隔離して様子見する事なく「汚れている」と宣言する。

生きた生肉(raw flesh)、これこそ「汚れている」と宣言される原因である。(10,16節)
聖書の中で、肉(flesh)とは、神から切り離された生き方をする人間性、自分の魂(思い・意志・感情)や身体能力だけで生きる有様を意味し(創世記6:3)、そのような「肉」の振る舞いは、神の御前には汚れたものである。
『わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。』(ローマ7:18-20)
肉の性質は、ただ御前に腐敗しており、改善の余地は無く、死、あるのみである。

『もしらい病が広く皮に出て、そのらい病が、その患者の皮を頭から足まで、ことごとくおおい、祭司の見るところすべてに及んでおれば、祭司はこれを見、もしらい病がその身をことごとくおおっておれば、その患者を清い者としなければならない。それはことごとく白く変ったから、彼は清い者である。』(レビ記13:12-13)
ツァラアトの兆候が少しでも広がっていたら、容赦なく「汚れている」と宣言されていたのに、全身、頭から足まで全てがツァラアトに覆われていたなら、逆に「清い」と宣言される・・・。一見不思議に見えるが、それは十字架の福音に合致する。

ツァラアトは、「崩壊する」「打ちくだく」の意味があり、神の御手によって打たれる事を意味していたが、その「打たれたしるし」が全身にあり、「肉」がもはやない状態、すなわち、古き肉の性質が、徹底的に神によって取り扱われた状態なら、祭司によって「きよい」と宣言される。
私達も、神に打たれたしるしである「十字架」を負い、この「肉」の体は、徹底的に主の御手に委ね、死へと明け渡すのであれば、たとい緋のように赤い罪であっても、雪のように白くされ、きよいとされるのである。
『わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。 』(ローマ6:6)

肉、それはアダム以来の神から離れた生き方である。神と人の前から隠そうとするなら、ツァラアトの中から「肉」が見え隠れする人のように、「汚れている」とされる。
しかし、自分の中に「罪」がある事を、神と人との前にはっきり認め、自らの「肉」を、十字架の死へと明け渡すなら、全身白くなり生肉の無くなった人のように「きよい」とされる。

私達の「肉」を殺すのは、御霊である。
『それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。』(ローマ8:12-14)
『こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。』(ローマ8:1-3)

自らの肉を十字架によって処罰し、御霊にあって、きよい生き方を歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:らい病 - ツァラアト(レビ記13:1-8):右クリックで保存

口語訳や、新改訳第二版で「らい病」と訳されている言葉は、新共同訳では「重い皮膚」、新改訳第三版では、そのままヘブライ語読みの「ツァラアト」と訳されており、レビ記13章は、この「ツァラアト」についてのおしえである。
なぜこんなに訳のバリエーションがあるのか。
それは、日本語で「らい病」と言う時、「ハンセン氏病」という一つの病を意味しているが、聖書に出てくるこのヘブライ語「ツァラアト」は、もっと広範な意味を含み(湿疹、かびなど、ユダヤ教口伝「ミシュナー」では最大72種類もある)、日本語の「らい病」という言葉では収まりきれないためであり、そしてまた、「らい病」という言葉には、その病にまつわる人の受けてきた差別と苦しみを彷彿させるものがあるためである。

ツァラアトというヘブライ語には「崩壊する」「打ちくだく」の意味があり、レビ記以外の箇所でこの言葉が出てくる時は、大体、神の御手によって打たれる事を意味している。
その一例が、ウジヤ王(2歴代誌26章)である。

ウジヤ王は、最初の内は主を恐れる良い王で、祝福され、強くなったが、彼は強くなるにつれて高ぶり、その身を滅ぼすような事をした。
『彼はその神、主にむかって罪を犯し、主の宮にはいって香の祭壇の上に香をたこうとした。その時、祭司アザリヤは主の祭司である勇士八十人を率いて、彼のあとに従ってはいり、ウジヤ王を引き止めて言った、「ウジヤよ、主に香をたくことはあなたのなすべきことではなく、ただアロンの子孫で、香をたくために清められた祭司たちのすることです。すぐ聖所から出なさい。あなたは罪を犯しました。あなたは主なる神から栄えを得ることはできません」。
するとウジヤは怒りを発し、香炉を手にとって香をたこうとしたが、彼が祭司に向かって怒りを発している間に、らい病がその額に起った。時に彼は主の宮で祭司たちの前、香の祭壇のかたわらにいた。祭司の長アザリヤおよびすべての祭司たちが彼を見ると、彼の額にらい病が生じていたので、急いで彼をそこから追い出した。彼自身もまた主に撃たれたことを知って、急いで出て行った。ウジヤ王は、死ぬ日までらい病人であった。彼はらい病人であったので、離れ殿に住んだ。主の宮から断たれたからである。』(2歴代誌26:17-21)

「ツァラアト」は、私達の肉の奥底に住んでいる、死に至る病、すなわち、「内住の罪」をよく表している。
この病は、伝染するものであり、それに犯されている事が発覚した場合は、人々から離れる事が定まっている。

この病は、皮膚の奥底に潜伏し、表面化しない事も多い。
そのため、祭司が一見してそれと判断できない場合は、七日という期間、その人を世間から隔離して様子見する。(レビ記13:1-8)
ウジヤ王の場合、「高ぶり」という罪が、ある時までは隠れていて、ある時に表面化したが、同じように、私達の罪も、ある時まで表面化せずに潜伏する事がある。
普段は巧妙に隠れ、何か自分の気に入らない事があるととたんに噴出するような、表面化しない罪を隠し持つ人は、本来、祭司から「汚れている」と宣言され、神の民から隔離せねばならないのだ。

私達が、この霊的なツァラアトに罹っていると自覚した時、誰か、人のところや、集団の中に行くべきでない。むしろ人から自らを隔離するべきである。
なぜなら、それは伝染性の汚れであり、行った相手に、その汚れた思いをべっとり付着させ、汚れを集団の中へと拡大感染させてしまうからだ。

私達を、この霊的なツァラアトから清め救って下さるお方は、唯一、大祭司なるイエスキリストのみである。
『ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら(if You are willing)、きよめていただけるのですが」。イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう(I am willing)、きよくなれ」と言われた。すると、らい病は直ちにきよめられた。』(マタイ8:2-3)
私達は自ら、この霊的病から清めていただく意志をイエス様に表明し、取り除いていただくよう、願う必要がある。その意志があるなら、主は、喜んで(willing)その罪をきよめ、癒して下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:女性の出産の汚れときよめ(レビ記12:1-8):右クリックで保存

レビ記12章は、出産に関する規定である。
『「イスラエルの人々に言いなさい、『女がもし身ごもって男の子を産めば、七日のあいだ汚れる。すなわち、月のさわりの日かずほど汚れるであろう。八日目にはその子の前の皮に割礼を施さなければならない。その女はなお、血の清めに三十三日を経なければならない。その清めの日の満ちるまでは、聖なる物に触れてはならない。また聖なる所にはいってはならない。』(レビ記12:2-4)

男の子を出産すると、七日間その女性は汚れ、さらに三十三日、きよめのために家に留まり、その間、聖なる所に入ってはならない。
そして女の子を出産するなら、その汚れときよめの期間は、男の子の場合の2倍となる。
新しいいのちが誕生する「おめでた」なのに、一体なぜ「汚れ」からの「きよめ」が必要なのか。

創世のはじめ、神は全生物に対し、産んで、増えて、地に満ちていくよう、祝福の命令を下された。
アダムとエバに罪が無かった頃、出産は、命を増え広がらせる、尊くすばらしき事であったはずだが、女が蛇に欺かれ、全人類に罪を導入してしまった時、「良き事」であったはずの出産は、罪を生み出し、罪を地にはびこらせる「悪しき事」へと変容してしま、ノアの時代に至っては、悪が甚だはびこり、神を悲しませるまでになった。
「女の産みの苦しみを大いに増す」(創世記3:16)、これは、夫に対して、そして全人類に対して、罪を運ぶ通路として用いられてしまった事の、ペナルティとして、女に与えられたものだった。

女性は、いのちを産み、育てるという役割が与えられている故、「母性」という特別な愛情が与えられた。
それ故、ことさらに清めに立つ必要があるのだ。
神は、女性の全員に、別のいのちへ罪を運んでしまうような、エバのような用いられ方は、もはやして欲しくないと願っておられる。

そういうわけで、出産した女性は、七日プラス三十三日の、計四十日(女児の場合は八十日)という期間が定められ、その閉じこもっている期間、エバ由来の犯しやすい罪と弱さについて、汚れときよめについて、そして、母としてこれからいのちをしっかり繋いで行くべき事を、新しく生まれたいのちとじっくり向き合いながら、思いめぐらし、考えるべきなのだ。
「汚れ」と「きよめ」のおしえを、きちんと受け止める女性にとっては、この閉じこもっている期間は、いのちに向き合う良き学びの時であり、同時に、産後の肥立ちが良くなって、再び新しいいのちを生み出す土台を体に造る安息の期間なのだ。

四十日。それはノアの時代に大雨が降り続いたのと同じ期間である。
洪水の間、増え続けてしまった悪しきいのち達は洗い流され、ノア家族の他、神に呼び出された多くのいのち達は、方舟の中にじっとして、閉じこもっていた。
同じように、女性も40という間、じっと閉じこもり、悪しき呪われるべきいのちを洗い流し、神の御手によって守られた新しきいのちを後の世に送り出す、準備期間とするのだ。

「八日目にはその子の前の皮に割礼を施さなければならない。」(レビ記12:3)
割礼は、古い肉を切り捨て、新しいいのちに生きる者へと造り替えられた事を覚える儀式である。
罪に生きてはならぬ事、人類に罪と死をもたらしたエバのように生きる事には、ことさら気をつけ、家族全体のいのちを育む事を培うのである。

いのちを産む事、子を育てる事、そして、性的な事には、ことさら「汚れ」が入りやすい。
それ故、それらの事には特に「きよめ」の意識を持たなくてはならない。
夫婦の営みや、出産の度にそれらを学んでいるユダヤ人女性は、いのちと性に関する概念がとてもしっかりしており、そのため、ユダヤ民族は諸々の歴史的な困難にもかかわらず、栄え、増え広がって行ったが、そうした学びの一切無い異教徒達は、それだけ罪と汚れに陥りやすく、滅びを身に招きやすいのだ。

レビ記12章は、人間的な視点で考えるなら、あまりいい気はしないかもしれない。
しかし、主がそのように定めている以上、人間は、善し悪し判断する事を止めるべきであり、主がそのように定められた事に思いを巡らせ、背後にある重要な意味を汲み取ろうとするのが、御言葉に対する正しい対応である。

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