メッセージ - 201305のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:大贖罪日の準備(レビ記16:1-10):右クリックで保存

レビ記16章は、年に一度の大贖罪日(ヨム・キプール)に、祭司が為す務めについて記されている。
この事を教えるにあたり、真っ先に主が思い起こさせた事は、あの恐ろしい事件、主の御前から火が出て、アロンの二人の子を焼き尽くした出来事だった。
『アロンのふたりの子が、主の前に近づいて死んだ後、主はモーセに言われた、「あなたの兄弟アロンに告げて、彼が時をわかたず、垂幕の内なる聖所に入り、箱の上なる贖罪所の前に行かぬようにさせなさい。彼が死を免れるためである。なぜなら、わたしは雲の中にあって贖罪所の上に現れるからである。』(レビ記16:1-2)
人は、いたづらに聖なる主の御前に出てはならず、必ず、主が提示された方法に従うべき事を教えている。

主の栄光が現れる。
それは素晴らしき事である。
主の臨在、それはキリスト者であるなら、誰でも求めるものであろう。
しかし、主の御前に出る時、人間の側の「勝手」は一切通用しない。
主の側が示された作法に、100%従うべきである。
そうでないと、主の栄光は逆にその人自身を滅ぼしてしまうものとなってしまう事は、レビ記10章で既に見ているし、民数記の至る所でも記されている通りである。

『アロンが聖所に、はいるには、次のようにしなければならない。すなわち雄の子牛を罪祭のために取り、雄羊を燔祭のために取り、聖なる亜麻布の服を着、亜麻布のももひきをその身にまとい、亜麻布の帯をしめ、亜麻布の帽子をかぶらなければならない。これらは聖なる衣服である。彼は水に身をすすいで、これを着なければならない。』(レビ記16:3-4)

大贖罪日において、まず真っ先に為すべきは、イスラエル全体の贖いを執り行う大祭司自身の、罪の贖いである。
そのために、雄の子牛を罪祭として取り、雄羊を燔祭のために取る。

人間の祭司は、弱さがあり、罪を犯すし、不完全である。キリストこそ、罪なく完全な大祭司である。
『このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。』(ヘブル7:26-28)

そして、次に準備するのが、イスラエルの人々のための贖いとなる雄やぎ二頭、これを罪祭のために取り、雄羊一頭、これを燔祭のために取る。
二頭のやぎに関しては、特別な捧げ方をする。
『アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。』(レビ記16:7-8)
アザゼルとは、アザール(完全に除去する)の変化形で、KJVではスケープゴートと訳されており、人々の罪を一身に負い、人々の身代わりとなって荒野を遠く追いやられる山羊である。

大贖罪日、それはイスラエル全体の罪を贖い、神の御前に「罪なき」とされる日であるが、人類全体の罪を取り除く、まことのいけにえは、イエスキリストである。
神様が規定したこれらの行為の背後には、いつも、キリストがいる事を忘れてはならない。
『しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。
もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:11-14)

礼拝説教メッセージ音声:女性の過多月経(長血)についての教え(レビ記15:25-33):右クリックで保存

『女にもし、その不浄の時のほかに、多くの日にわたって血の流出があるか、あるいはその不浄の時を越して流出があれば、その汚れの流出の日の間は、すべてその不浄の時と同じように、その女は汚れた者である。その流出の日の間に、その女の寝た床は、すべてその女の不浄の時の床と同じようになる。すべてその女のすわった物は、不浄の汚れのように汚れるであろう。』(レビ記15:25-26)
ここは、いわゆる不正出血、過多月経(長血)などの場合についての教えである。
月経は、女性の体が子供を産む準備をしているために起こるものであり、子供を産むためには、当然、精子(ギリシア語ではスペルマ:種、子孫の意味もある)が必要である。

女性は精子(スペルマ)が無ければ、どうあがいても子供を身篭れないように、私達も、キリストというまことのスペルマが無ければ、永遠のいのちは生じない。
『約束は、アブラハムと彼の子孫(スペルマ)とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫(スペルマ)たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫(スペルマ)とに」と言っている。これは、キリストのことである。』(ガラテヤ3:16)
また、みことばの種(スペルマ)が、私達という土地に蒔かれなければ、いのちの実を結ぶ事は出来ない。

肉の命は血の中にある(レビ記17:11)、とある通り、女性が、血を排出すべきでない時に排出し続ける事は、霊的には、いのちを無駄に流し続けているようなもので、御言葉の「種」を受けず、まことのスペルマなるキリストを受け入れもしない状態では、いたずらにいのちを流し出すのみである。
女性が受精した時、血のいのちは、胎内に宿った新しいいのちに流れ込むようになって、決して無駄にはならないように、人が、キリストというまことのスペルマを受けた時、いのちを無駄に垂れ流すという事は無くなり、キリストのいのちが、その人の内ですくすくと育って行く事となるのだ。

世界という器は、キリストというまことのスペルマが来なければ、この世界に、いのちは無い。
しかしある時、人間のスペルマ無しに、一方的な神の力添えによって身ごもった女性がいた。それが、乙女マリヤである。
彼女は、人のスペルマによってではなく、いと高き方から力が流れてきて、聖霊によって身ごもったのだ。
私達の救いも、人でによるのではなく上から与えられ、聖霊によって「イエスは主です」と告白する事によって、救われるのである。

『その女の流出がやんで、清くなるならば、自分のために、なお七日を数えなければならない。そして後、清くなるであろう。その女は八日目に山ばと二羽、または家ばとのひな二羽を自分のために取り、それを会見の幕屋の入口におる祭司のもとに携えて行かなければならない。』(レビ記15:28-29)
鳩は聖霊を意味する。
いのちを不正に流し出す汚れからきよめられた時、聖霊によって歩む決心をするのである。

新約聖書にも、長血を患う女が登場する。
彼女は12年もそのジレンマにあり、律法上は汚れたものとして苦しんで来たが、多くの医者にかかっても何の助けにもならず、その持ち物をみな費してしまっても、なんのかいもないばかりか、かえってますます悪くなる一方であった。(マルコ5:26)
人間の医学も、お金も、罪に対し、汚れに対し、何の力も持たない。それらに頼っても、逆にますます悪くなる一方で、ただ、いのちと、お金と、時間、若さを費やすのみである。
彼女が唯一救われたのは、まことのスペルマなるイエス様を信じ、信仰をもって触ったからである。

罪と汚れからの救いは、ただイエスキリストのみである。
キリストを信じる信仰を持って、彼に手を延ばすなら、誰でも救われる。
『イエスはその女に言われた、「娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。すっかりなおって、達者でいなさい」。』(5:34)
イエス様に信仰をもって手を伸ばし、罪と汚れから、病から癒していただき、健やかに、安心して行く皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:性器からの流出物(レビ記15:1-15):右クリックで保存

レビ記15章は、性器からの流出物がある場合についての教えである。

『だれでもその肉に流出があれば、その流出は汚れである。』(レビ記15:2)
ここの「だれでも」の原語「イシュ」は、英語で言う所の「man」、「男」をあらわすと同時に、女性も含めた「人」全般を意味する。
「肉(バサー)」には、「体」や「肌」の意味もあるが、特に男性器をあらわす言葉でもあり、例えば、主がアブラハムに「包皮の"肉"を切り捨てなければならない」という割礼の命令を与えられた時にも用いられている言葉である。

また、「流出」という言葉は、原語では、ひっきりなしに流れ出る、という意味があるため、今回の箇所は、特に、性病などによって男性器からの不自然な漏出が常にある場合、と見る事ができる。
その流出が停止している時でも、その人は汚れた状態であり(3節)、その人が寝た床も、座ったものも、乗った鞍も、その下にあったものは、全て、汚れたものであるとされる。
また、それに触れたり、運んだりする人も、水を浴びなければならず、その人も夕方まで汚れた者とされる。

『流出ある者の肉に触れる者は衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。流出ある者のつばきが、清い者にかかったならば、その人は衣服を洗い、水に身をすすがなければならない。彼は夕まで汚れるであろう。』(レビ記15:7-8)
流出がある人の、その部位に触れた場合や、その人のつばきがかかった場合など、そう滅多に起きないであろう場合について、わざわざ指示している点は、興味深い。
また、彼の下になった物は汚れ、それに触れる人も、夕方まで汚れる、とさる。
さらには、流出ある人が、水で手を洗わずに人に触れる場合もその人は汚れ、流出ある人が触れた土の器は、砕かなければならないほどに、この汚れについての指示は、徹底している。(同10-12節)

創世のはじめ、神は「生」も「性」も祝福され、それらは良きものであったが、アダム以来、人類には罪がはびこるようになってしまい、「生」も、「性」も、主の前に汚れたものとなってしまった。
事実、神を知らない異教徒は、性的に乱れやすく、性行為から感染する泌尿器系の病にかかりやすかった。
性器に由来する汚れは、徹底して清めなければならないのは、イスラエルの民がそのような汚れに染まらないように、という、予防的な意味も、もちろんあっただろう。

「肉」の奥底からひっきりなしに流れ出てくるもの、それは、新約においても、汚れているとされている。
『わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。わたしの内に、すなわち、わたしの”肉”の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。』(ローマ7:15-18)

パウロが言うように、肉の内には善は宿っておらず、そこから絶え間なく流れ出てくるものは、罪であり、人を汚すものである。
肉からの噴出物、すなわち、肉由来のものは、「汚れている」とされ、良いものは何一つ無い。
『 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。』(ガラテヤ5:19-21)

このように、「肉」を源とする者の座に、自らも座るなら、汚れているとされ、その者の口から出たもの(つばき)に触れる者も、汚れる。
肉から汚れを噴出している者が、清められるためには、御子イエスの御言葉の水で洗われ、新しく生まれ変わり、御霊に満たされる以外に無い。

『肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。』(ローマ8:6-9)

肉にあって歩む者の結ぶ実は、罪であり、死である。それは、神を喜ばせない。
しかし、御霊にあって歩む者の結ぶ実は、あらゆる良きもので満たされており、神の御前に有用である。
『御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。』(ガラテヤ5:22-24)

肉からの噴出を病む者が清められるには、七という完全数を経て、衣服を水で洗い、すすいで清くされる。
『八日目に、山ばと二羽、または家ばとのひな二羽を取って、会見の幕屋の入口に行き、主の前に出て、それを祭司に渡さなければならない。祭司はその一つを罪祭とし、他の一つを燔祭としてささげなければならない。こうして祭司はその人のため、その流出のために主の前に、あがないをするであろう。』(レビ記15:14)

ここで鳩が使われているのは興味深い。
鳩は御霊を意味する。
肉にあって歩むのを止め、御霊によって新しく歩みをはじめる。そうするならば、清くされるのである。

聖霊のご性質(ヨハネ14:16-20)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

聖霊はどのような霊であり、どのような特徴があるのか。聖書の色々な箇所から見て行きたい。
聖霊の「霊」は、神の「息」や「風」をあらわす「プネウマ」であり、「聖霊」「御霊」いずれも同じ神の息である。

聖霊は、イエスキリストをあかしする霊である。「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」(ヨハネ15:26) 「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。」(1ヨハネ4:2-3)
誰でも聖霊によるのでなければ、イエスは主であると告白できない。(1コリント12:3)
イエスを主とする人は、既に、聖霊を受けている人である。しかし、聖霊が充満したとは限らない。
聖霊の「満たし」には二段階ある。最初の段階は、イエスを主とした人が誰でも受ける「満たし」(プレレース、あるいはプレロー)であり、それは公ではなく密かに、しかし、本質的に聖霊が備わった事を意味する。
次に、ペンテコステのような外面的で力を伴った「充満」(プレソー)という段階があり、イエスを力強く証したり(使徒4:8)、真理の対決をしたり(使徒13:9)、しるしと不思議など(4:31)、力強く機能的な現れである。

御霊には色々な種類がある、などと勘違いされやすいが、現れ方や働き方が違うだけで、御霊は一つであり、皆、同じ御霊を飲む者とされた(エペソ4:4)。その同じ一つの御霊から、一人ひとりに違った”現れ”がある。(1コリント12章) 「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。務は種々あるが、主は同じである。働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。」(1コリント12:4-7)

また、聖霊は、自分から語るのではなく、父なる神から聞くままを話す(ヨハネ16:13)。この、自分から語るのではなく、聞くままを話す、という特徴は、キリストも同じであり(ヨハネ12:49、14:10)、聖霊に導かれるキリスト者も、同じ性質である。弟子達は、ペンテコステ以前は自分から語って色々な失敗をしたが、ペンテコステ以降は、自分由来の事は一切語らず、ただ、聖霊に導かれるままを話した。(使徒4:1-21)

また、聖霊の働き方や現れは、旧約と新約では、違う。
旧約時代は、神様がある人をある特別な任務に就かせるために、聖霊をその人に注ぎ、王や祭司、士師、預言者などの、特別な役割を与えら、その人の不従順や罪の故に、聖霊がその人から離れる、という事もあった。(1サムエル16:14、詩篇51:11)
しかし今、新約において、聖霊が与えられるなら、それが離れてしまう、という事は、無い。(ヨハネ14:16)
ただ、その人が聖霊を悲しませたり(エペソ4:30)、聖霊を侮ったり、という事は可能である。
ひとたび聖霊が与えられて、なお、聖霊を侮る者には、重い罰が下る。(ヘブル10:26-31)

聖霊は、人の本質的な渇きを癒し、その人の内から、霊的な潤いが、生ける泉として沸き上がってくる。
『「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかった(直訳:御霊はまだ無かった)のである。』(ヨハネ7:37-39)
イエス様がこれを宣言された時点、イエス様はまだ父の御元に上っておらず(ヨハネ14:16-28)、イエスを証する御霊、イエスの言われた事をことごとく思い起こさせ、世ならぬ平安で満たし、決して離れる事の無い助け主は、まだ、弟子達に下っていなかったのだ。
しかし、十字架以降、イエスを信じる人々には全て聖霊が与えられ、それが離れる事は、決して無い。
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊である。・・・それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。」(ヨハネ14:16-28)

礼拝説教メッセージ音声:家に現れたツァラアト - 教会の汚れの対処(レビ記14:33-57):右クリックで保存

今回は、家にツァラアトが発生した場合の教えである。
『「あなたがたに所有として与えるカナンの地に、あなたがたがはいる時、その所有の地において、家にわたしがらい病の患部を生じさせることがあれば、その家の持ち主はきて、祭司に告げ、『患部のようなものが、わたしの家にあります』と言わなければならない。』(レビ記14:34-35)
ここに「家にわたしがらい病の患部を生じさせることがあれば」とあるが、つまり、神が、その家に汚れがある事を示し、対処が必要である事を、明示されるのである。

家に現れたツァラアトへの対処は、他の場合と比べて、寛大である。
他の場合なら、症状が現れて、七日間の様子見の後、患部が広がっていたなら、「汚れている」宣言され、衣類や革製品なら、その時点で焼き捨てられる事が確定する。
しかし家の場合はそうではなく、その部分の石を取り除き、他の石でそこを埋め、家の内側を削らせて、漆喰を塗り直させる。
家全体が取り壊しになるのは、上記の事をしても、なお、再びツァラアト現れた場合である。
では、この「家」は、霊的には何を意味するだろうか。

『神の家というのは、生ける神の教会のことであって、それは真理の柱、真理の基礎なのである。』(1テモテ3:15)
『もしわたしたちが、望みの確信と誇とを最後までしっかりと持ち続けるなら、わたしたちは神の家なのである。』(ヘブル3:6)
上記の御言葉の通り、神の家とは教会であり、そして教会(エクレシア)とは「召しだされた者達」、つまり、キリストにあって召しだされた”私達”である。
私達は、キリストのからだであり、おのおのが各器官であるとコリント書に記されている通り、教会が神の家であり、私達は、その構成要素である。

つまり、家に現れるツァラアトは、霊的に、教会に罪をはびこらせる「人」として解釈する事が出来る。
そのような人への対処について、イエス様は次のように言っている。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。』(マタイ18:15-17)

「人」に対する対処は、ツァラアトを取り除くような機械的なものではなく、まずその人を諭し、それでも聞かなければさらに二人、三人と証人を増やして行き、教会の言う事も聞かなければ、その人を異邦人や取税人同様に扱う、すなわち、神の共同体からは切り離されたものと見なす。
それが、主が定めた教会における対処方法であるが、それをしなかったケースが、第一コリントの手紙に記されている。

『現に聞くところによると、あなたがたの間に不品行な者があり、しかもその不品行は、異邦人の間にもないほどのもので、ある人がその父の妻と一緒に住んでいるということである。それだのに、なお、あなたがたは高ぶっている。むしろ、そんな行いをしている者が、あなたがたの中から除かれねばならないことを思って、悲しむべきではないか。
しかし、わたし自身としては、からだは離れていても、霊では一緒にいて、その場にいる者のように、そんな行いをした者を、すでにさばいてしまっている。すなわち、主イエスの名によって、あなたがたもわたしの霊も共に、わたしたちの主イエスの権威のもとに集まって、彼の肉が滅ぼされても、その霊が主のさばきの日に救われるように、彼をサタンに引き渡してしまったのである。』(1コリント5:1-5)

教会とは、何でもかんでも愛して赦して受け入れて・・・という集団ではない。
主が忌み嫌われる事を、平然とし続けているような者を同居させたまま、自分も健全に保っていける、と思っているとしたら、それはパウロが言っているように「高ぶっている」のだ。
そのように罪をはびこらせて平然としている者は、あえてサタンに引き渡し、その人が終わりの日に救われる事に賭ける勇気も、必要である。

もちろん、信徒をサタンに引き渡したい牧会者など、一人もいないし、パウロも怒りに任せて「サタンに引き渡す」などと言ったのではない。
パウロは愛の故に「主の日に彼の霊が救われるため」そうしたのであり、大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらにあの手紙を書いた、と、後に記している。(2コリント2:4)
パウロは、得るか失うかの賭けに出た結果、後に「得た」ようである。(2コリント2:5-11 http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=745&cid=16

いずれにせよ、教会に罪を持ち込み、はびこらせ、注意しても聞かないようであるなら、たとい痛みを覚えようとも、交わりから断つ、というのは、旧約にも新約にも記されている聖書のスタンダードである。
その事をしない教会は、どんどん汚れが進行し、ついには、ツァラアトが再発する家のように、ばらばらにされてしまう。
何でもかんでも愛して赦して受け入れて・・・という雰囲気が、キリスト教界ではびこっている昨今、この事はよく肝に銘じるべきである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
霊の賜物と愛(1コリント12-13章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
泣き声と喜びの叫び声(エズラ記3章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:ツァラアトからのきよめの儀式(レビ記14:10-32):右クリックで保存

ツァラアトからきよめられる人が、七日間のきよめの期間を終え八日目に捧げる捧げものは、罪過のためのいけにえ(愆祭)、罪のためのいけにえ(罪祭)、全焼のいけにえ(燔祭)、穀物の捧げもの(素祭)である。
多くの種類のいけにえが必要であるが、貧しくてそれらが手に入らない人でもそれが出来るための配慮が、21節以降31節に記されている。

ツァラアトからの回復の上で、真っ先に捧げられるいけにえが、罪過のためのいけにえ(愆祭)である事は、意義深い。
罪のためのいけにえ(罪祭)は、神とその人自身との間の罪の問題を解消するものであったが、罪過のためのいけにえ(愆祭)は、神と人との間のみならず、誰か、迷惑をかけた相手への賠償の意味合いもあった。

イエス様も、『祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。』(マタイ5:23-24)と言っている。
きよめられて神の共同体に再び入る上では、まず、兄弟姉妹との軋轢を解消するというステップを真っ先に踏まなくてはならない。

『そして祭司はその愆祭の血を取り、これを清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけなければならない。』(レビ記14:14)
興味深い事に、血潮を右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけるのは、祭司が任職される時と同じである。(レビ記8:23-24)
清められる者も「耳」に血潮を塗り、これからは、主の御声と、人々の声を、正しく聞き分けていくように清め、「手」のわざも、「足」での歩みも、全て、きよい働きをするよう一新するのだ。

『そして祭司は右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指をもって、その油を七たび主の前に注がなければならない。祭司は手のひらにある油の残りを、清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とに、さきにつけた愆祭の血の上につけなければならない。そして祭司は手のひらになお残っている油を、清められる者の頭につけ、主の前で、その人のためにあがないをしなければならない。』(レビ記14:16-18)

さらに今度は、右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とに、油が塗られ、祭司のように、頭にも油が塗られる。
善きサマリア人のたとえでも、サマリヤ人は傷を受けた人にぶどう酒を注ぎ、オリーブ油を塗ったが、主も、私達を血潮(ぶどう酒)できよめ、聖霊の油を塗り、新しい歩みを歩ませ、聖霊の導きによって、全ての事において導きを与えて下さるのだ。
『あなたがたのうちには、キリストからいただいた油(原意:塗り油)がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。』(1ヨハネ2:27)

そして続いて、罪のためのいけにえと(罪祭)、全焼のいけにえ(燔祭)と、穀物の捧げ物(素祭)が捧げられ、贖いが完了する。(レビ記14:19-20)
ここまで見ていくと、ひと度、ツァラアトにかかって、そこから癒され、清くされた人は、生涯一度もツァラアトにかからなかった人に比べ、遥かに豊かな体験をする事が分かる。
ツァラアトにかかった人は、衣服を裂き、「けがれている」と叫んで、孤立しなくてはならなかった。
その時はその人にとって辛い事であったが、人々から離れ、じっくりと自分の汚れを味わい、主と一対一となって交わり、そうして癒された後には、このように、祭司のごとく、血塗られ、油塗られ、全焼のいけにえを捧げて、再献身をするのだ。

これは実に、キリストにある私達の有様を表している。
私達も元々、罪という霊的ツァラアトに犯され、神の民からは切り離された者だったが、キリストの犠牲によって、罪赦され、血潮によって清められ、聖霊の油が塗られ、王族の祭司のような扱いを受けた。
そして、自らの全てを全焼のいけにえとして捧げ、主に従って新しいいのちを生きていくのである。

礼拝説教メッセージ音声:ツァラアトからの立ち直り:全てが新たにされる(レビ記14:1-9):右クリックで保存

レビ記14章は、ツァラアトが癒されて、汚れた状態から清められた状態へと変えられる際の教えが記されている。

ツァラアトが癒えたら、そのまま人の交わりに復帰できるわけではなく、必ず祭司に見せ、「きよい」と宣言され、所定の手続きを経る必要がある。
ある人のツァラアトが癒えた場合、聖なる所で奉仕をしている祭司は、宿営の外の、人々から隔離されているその人の所へと出向き、きよめの儀式を行いに行く。
まことの大祭司イエス様も、聖なる御住まいであられる天から降りてこられ、罪で汚れた私達をきよめるために、私達に近づいて下さった。

『祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もしらい病の患部がいえているならば、祭司は命じてその清められる者のために、生きている清い小鳥二羽と、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプとを取ってこさせ、
祭司はまた命じて、その小鳥の一羽を、流れ水を盛った土の器の上で殺させ、そして生きている小鳥を、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプと共に取って、これをかの流れ水を盛った土の器の上で殺した小鳥の血に、その生きている小鳥と共に浸し、これをらい病から清められる者に七たび注いで、その人を清い者とし、その生きている小鳥は野に放たなければならない。』(レビ記14:3-7)

この儀式では、生き物としては、小鳥二匹が用いられる。
その内の一羽は、湧き水を入れた土の器の上で殺され、血は、その器の中に滴り落ちる。
私達は土の器であり、イエス・キリストは私達を清めるために、十字架という木の上で、血潮を流された。
『わたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。』(2コリント4:7)
故に、この器の上でほふられる小鳥は、イエス・キリストの犠牲を、香柏の木は十字架を暗示する。

そして、緋色(血の色)の糸は、犠牲のために流される血潮を、そして、滅びを免れ守られるを意味する。
遊女ラハブは、イスラエルの斥候から教えられた通り、緋色のひもを窓の所に結びつけ、その家を滅びから免れさせた。(ヨシュア記2章)
また、出エジプトの民は皆、主に命じられた通りに、扉の鴨居と門柱に血潮のしるしを付け、滅ぼす者が過ぎ越すしるしとした。

ヒソプは、血潮によるきよめを意味する。
ヒソプは過越祭の時、鴨居と門柱に血潮のしるしを付けるのに用いられたし、また、ダビデも罪を犯した時、次の詩篇を詠んだ。
『ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。』(詩篇51:7-9)
その血潮に浸され、生き残って、野に放たれる小鳥は、水と血潮の中をくぐって滅びを免れ、生かされ、自由にされた私達を意味し、また、十字架の死を通して復活し、天に昇られた、イエス・キリストをも暗示する。

『清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。ただし七日の間はその天幕の外にいなければならない。そして七日目に毛をことごとくそらなければならい。頭の毛も、ひげも、まゆも、ことごとくそらなければならない。彼はその衣服を洗い、水に身をすすいで清くなるであろう。』(レビ記14:8)

髪も、ひげも、眉毛も剃った人は、実に特徴的である。
その人は誰の目にも明らかに、古いものは過ぎ去って、全てが新しくなった。
ツァラアトから清くされる事は、実に、イエス・キリストの十字架上での犠牲、血潮によるきよめ、滅びからの免れ、復活、古いものが過ぎ去り全てが新しくされる事を、暗示しているのだ。

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