メッセージ - 201302のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の民に敵対するハマンの性質(エステル記3:1-7):右クリックで保存
祈りと祝祷:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ヨハネ7-13:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:契約の箱に見るキリストのご性質(出エジプト記25:10-22):右クリックで保存

今回の箇所は、契約の板を入れるための箱(契約の箱、英語:ark)を造る際の指示であるが、この箱の性質は、イエス・キリストの性質である。

契約の箱は、アカシヤ材を元にして造られる。
アカシヤは砂漠地方に育つ木で、密度のある頑丈な木で、とげばっており、材木としてはあまり適した木ではないが、この木はイエス・キリストの人間性をあらわしている。
『彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。』(イザヤ53:2)

また、アカシヤ材は純金で覆われるが、純金は神の性質である。
つまり、イエスキリストの、神であり人としての二面性が、ここに示されているわけである。

この箱の四隅には、輪が取り付けられ、そこにさおを通し、日本の神輿のように担ぐ事によって持ち運びが可能となっている。(出エジプト記25:12)
そのようにするのは、持ち運びの便宜のためだけではない。この箱は神聖なものであり、神が示した手順によって扱わないならその人は死ぬ他に無く(1サムエル6:19、2サムエル6章)、そのような事の無いためである。

キリストは人として来られ、ヨハネもキリストをじっと見、手で触った。(1ヨハネ1:1)人としてのキリストは、そのように親しく私達と交われるお方であるが、キリストの神としての栄光の御姿を見た時、ヨハネは倒れて死人のようになってしまった。(黙示録1:17)
神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方(1テモテ6:15-16)である。

『また純金の贖罪所を造らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。』(出エジプト記25:17)
この「贖罪所」または贖罪蓋(ギリシア語:ヒラステリオン)は、律法の石板が人に直接触れないようにするための「覆い」である。
これもまた、贖いの衣であるキリストを表している。
キリストは、聖なる御言葉の剣が人に直接触れて死んでしまわないようにするための、神と人との間の覆いとなっておられるのだ。

『すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべき「あがないの供え物(ヒラステリオン:贖いの蓋、贖罪蓋)」とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。』(ローマ3:23-26)

姦淫の現場で捕らえられた女が、イエス様の前に引きずり出された時、イエス様は地面に指で書いておられたが(ヨハネ8章)、神の指で書かれた律法に従って人が裁かれるなら、誰しも、死ぬ他に無い。
その女も、彼女を訴えた者も、傍観して面白がっていた者も。
しかし、主イエスは全ての人の罪を覆い、ご自身を通して神と和解をするようにと、全ての人に促しておられるのだ。
「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(2コリント5:20)

礼拝説教メッセージ音声:幕屋についての詳細な指示(出エジプト記25:1-9):右クリックで保存

『すべてあなたに示す幕屋の型および、そのもろもろの器の型に従って、これを造らなければならない。』(出エジプト記25:9)
25章以降、荒野の民の礼拝の中心である「幕屋」の建造と、それに関わる全ての用具を作るにあたっての主の指示が続く。
その内容は設計書や仕様書そのもので、建造物の材料や寸法から、個々の什器の形や色に至るまで、詳細に指示されている。
聖書通読を挑戦する人にとって、最初の山となりやすい所で、一体、この内容が私達に何の関係があるのか、と感じる事が多いかもしれない。

主はなぜ、幕屋についてそこまでの緻密な指示を出されたのか。
それは、これら幕屋の建造物や器物は「天の型」であり、人に天の有様を示すためである。

『彼らは、天にある聖所のひな型と影とに仕えている者にすぎない。それについては、モーセが幕屋を建てようとしたとき、御告げを受け、「山で示された型どおりに、注意してそのいっさいを作りなさい」と言われたのである。』(ヘブル8:5)
『このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。』(同9:23-24)

主は、これらの細やかな指示を、当てずっぽうにされたのではない。天にはまことの幕屋、まことの聖所があり、その模型を造らせるために指示されたのだ。
人が地上の幕屋を見る時、天の模型を見ているのであり、人が地上の幕屋で礼拝する時、天でのまことの礼拝の”型”を行なっているのである。

『主はモーセに言われた、「イスラエルの人々に告げて、わたしのためにささげ物を携えてこさせなさい。すべて、心から喜んでする者から、わたしにささげる物を受け取りなさい。』(出エジプト記25:1-2)
地上の幕屋は、聖徒達の捧げ物が元となって、造られる。そしてその元は、エジプトから分捕ったものである。
同じように私達も、サタンが所有権を持っている世から分捕って神の国のものとし、それを主に捧げるべきである。

捧げ物をする際、心から進んで捧げる捧げ物をこそ、主は喜ばれる。
主はその捧げ物を豊かに用いられ、さらに感謝が捧げられるように、祝福を増し加えて下さる。しかし、嫌々ながら捧げるような捧げ物は、主は喜ばれない。
『少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。』(2コリント9:6-8)

天のまことの幕屋でも、地上の聖徒の捧げ物が元となっているものがある。
人が地上で主のために為した事は、天において宝として積まれ、決して朽ちる事が無い。(マタイ6:20)
主にあって勝利を得る者は、神の聖所の柱とされ(黙示録3:12)、また、聖徒たちは神の子羊の花嫁なる「聖なる都」とされ、高価な色とりどりの宝石で飾られ(黙示録21章)、この花嫁が着せられる光り輝く麻布は、聖徒たちの正しい行ないである。(黙示録19:8)
天においては、神の幕屋が人とともにあり、神は人と共に永遠に住まわれるのである。(黙示録21章)

私達が地上の幕屋で主に仕える事は、天におけるまことの礼拝の前味わいをしているわけである。

どの法則に乗って生きるか(ローマ7:14-8:2)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

私達はキリストに似た者へ、清く聖なる者になりたいと願っているが、やっている事はハエのようで、汚い思いに吸い寄せられ、うるさく人に付きまとっては神経を逆撫でさせ、ペタッと汚い思いをくっつけたりする。
聖書に記されている為すべき事は分かっているのに、それができず、かえって、してはならぬ悪を行なってしまう。あたかも自分の中に二つの異なるものが住んでいて、その葛藤の内に、したくない事をしてしまう。
今日は、そうした葛藤から開放される方法を学びたい。

まず、私達はなぜハエのような汚れた行いをしてしまうのか。それは、私達の内に宿る罪の故である。
「そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」(ローマ7:17)
よく、わたしはサタンの末裔だとか、罪の申し子だとかの「偽り」を思い込まされている人はいるが、この節を良く読むと「罪≠私」であり、私とは別物なる”罪”という楔が、私に打ち込まれている原理を見出す。
罪は外来性のものであり、アダムとエバが自分の意思を用いて善悪の知識の木の実を取って食べ、神から離れ自分の善悪判断で生きる生き方を”選択”してしまった時、この楔が打ち込まれてしまったのだ。
皆さんに犬が噛み付いて、痛くて、のた打ち回っている時、「のたうち回る自分が悪い」と言って自分を打ち叩くだろうか?いや、犬を打ち叩くはずである。同様に、罪にのたうち回る自分を、滝に打たせても、冷水を浴びせても、その他あらゆる修行も、無意味である。打ち叩くべきは、自分ではなく、罪である。
この罪に対し、どう対処したら良いのだろうか。

キリスト者が葛藤する原因が、21−23節にある。この節で「原理」とか「律法」とか訳されている言葉は、皆、同じギリシヤ語「ノモス」という言葉で、「法則」という意味である。
これらの節の中から、3種類の法則を見出す。第一の法則は「神の法則」。しかし、からだの中に異なった第二の法則があって、「心の法則」(第三の法則)に戦いを挑み、「罪の法則」(第二の法則)のとりこにしている。これが葛藤の原因であり、これら三つの法則のせめぎあいのために、したい善が出来ないのだ。
つまり、事は頑張りとか人格とかの問題ではなく、法則の問題である。
同じ60kgの女性がいて、一方は人格者で、他方は悪人だとする。体重計に乗ると、人格者はボーナスで体重計が30kgを指し、悪人のほうはペナルティで90kgを指す、などという事は、ありうるだろうか?
そんな事は有り得ない。法則に反するからである。法則がそうなら、別の法則によって対処するものである。
パウロは、24節では自分はみじめだと叫んでいるのに、25節では喜びに溢れ感謝を叫んでいるのはなぜか?それは、対処方法を見出したからである。そう、対処方法があるのだ!私達にも。

「キリスト・イエスにある”いのちの御霊の法則”は、罪と死との法則からあなたを解放した」(ローマ8:2)
この第四の法則”いのちの御霊の法則”こそ、罪と死の法則に対抗する唯一の手段である。
この世には重力の法則があり、それに縛られている限り人は地上から離れる事はできない。
ところが、ライト兄弟が飛行の法則を発見し、飛行機に乗る事で地上を離れる事が出来るようになった。
同じように、キリスト・イエスがいのちの御霊の法則を開放し、私達も罪から離れる事が出来るようになった。
どうしたらこの法則に乗っかる事が出来るのだろうか?
それは、皆さんの継続的な選択の問題であり、肉によらず、霊によって歩み続ける選択によって、である。
欽定訳のローマ8:1を訳すと「こういうわけで、今や、<肉によらず霊によって歩み続ける>キリスト・イエスにある者は、罪に定められることがない。」となる。(ネストレの底本からは上記<カッコ部分>がなぜか削除されている。)
命の御霊の法則に乗り続けるには、肉によらず霊に従って歩み続ける事によって、である。
あらゆる場面において、罪に対して死んだ者であると「仕分け」し、キリスト・イエスにあって神に生きている者であると「仕分け」する事である。(ローマ6:11)
私達の死ぬべき体を、罪の支配や情欲に「委ねない」と選択し、死人の中から生かされた者として、自分自身を神に捧げ、自分の体を義の武器として神に捧げる事を、意思で決定するのである。(同12-13節)
私達はアダム以来、選択によって罪と死を取り入れてしまった。故に、選択によって、救われるのだ。
御言葉によって正しく仕分けし、霊に従って歩む事を選択し続け、いのちに歩む皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:主の御前で(出エジプト記24:9-18):右クリックで保存

血のそそぎを受けたアロンと長老七十人も、ともに主の御前に出る事ができるようになった。
『そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。』(出エジプト記24:10-11)

イスラエルの神が現れる様は、恐ろしいもので、サファイアの輝きのような主の栄光は、エゼキエル1章や黙示録でも同じ記述がされている。
主の現れを見たイザヤやエゼキエルは恐れ、ダニエルやヨハネは、そのあまりに「聖なる」様に、倒れて死人のようになっている。
しかし、主の御前出た長老七十人は、大丈夫だった。しかも、神を見て飲み食いしたというのだ。
なぜか?
それは、「血の注ぎかけ」を受けていたからである。
私達も、イエスの血によって、大胆に恵みの御座に近づく事が出来たのだ。
それにしても、なぜ御前で「飲み食い」なのか?

血の注ぎを受け、罪赦された人に待っているのは、さばきや恐ろしさではなく、ほふられた動物を共に食す宴会が用意されているのだ。放蕩から帰って来た息子のように。
私達がいただけるごちそうとは、キリストの裂かれたからだである。
『わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。』(1コリント10:16-18)

私達はなにかと、サファイアの輝きのような主の栄光を見たがるものだが、しるしや不思議を見れば良いというものではないし、主の奇跡と祝福が毎日あれば良いというものでもない。
山のふもとで待っていた民は、四十日四十夜、山の上で燃える火のように見える主の臨在をそばで見ていながら、別の神々を作ってしまった。
なぜそんな、有り得ないことをするのか、と思うだろうか。しかし人間の「慣れ」は、怖いものである。
主の祝福が続き、物持ちとなり、安全が続いたダビデも、罪を犯してしまった。
私達は祝福が続いた時こそ、心して、私達の内に潜む怠慢に気をつけるべきである。

『ときに主はモーセに言われた、「山に登り、わたしの所にきて、そこにいなさい。彼らを教えるために、わたしが律法と戒めとを書きしるした石の板をあなたに授けるであろう」。そこでモーセは従者ヨシュアと共に立ちあがり、モーセは神の山に登った。彼は長老たちに言った、「わたしたちがあなたがたの所に帰って来るまで、ここで待っていなさい。見よ、アロンとホルとが、あなたがたと共にいるから、事ある者は、だれでも彼らの所へ行きなさい」。』(出エジプト記24:12-14)

ここで主は、律法と戒めを書き記した石の板を授けるために、モーセひとりを山へ呼び出される。
ヨシュアはモーセの従者(「シャーラス」英語でミニスターやアテンドと訳されている)として、いつもモーセのそばで仕えており、彼だけがモーセが山を降りるまで忠実に待っていた。
そして長老たちには、モーセが山で主と会っている不在の間、重要な案件はアロンとフルに持っていくよう託し、こうしてモーセは山に登っていった。

この時、モーセは「いつまで」山に留まるとは言わなかった。それは、主が言わなかったからであり、モーセも知らなかったからだ。
後でわかるが、モーセがあまりに山で手間取るので民は待ちきれなくなり、アロンとフルも、そんな正しく民を導く事はできなかった。
モーセがいつ山を降りてくるかを知っていたなら、おそらく民もアロンも持ちこたえただろう。しかし、人の内に隠れた信仰が明らかとされるために、神は敢えて「いつまで」を言わないものである。

主は必ず、再び来られる。しかし、その日その時はいつになるか、分からない。
不忠実だったイスラエルの民のように、主人の帰りは遅いと思ってどんちゃん騒ぎしたり、酔ったり、おなじ仲間を打ち叩いたりしてはならない。
主がいつ来ても大丈夫なように、忠実なしもべとして霊的に目を覚ましているべきであり、いつでも迎え出られるよう、聖霊の油を常に用意しておくべきなのだ。

『こうしてモーセは山に登ったが、雲は山をおおっていた。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日のあいだ、山をおおっていたが、七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光は山の頂で、燃える火のようにイスラエルの人々の目に見えたが、モーセは雲の中にはいって、山に登った。そしてモーセは四十日四十夜、山にいた。』(出エジプト記24:15-18)

主が現れるまで、モーセは六日感待たされ、民は四十日待たされたわけである。
私達は何かと、今日明日にでもインスタントに導きを欲しがるが、忍耐して待ち望む事が必要なのだ。
それは、私達の内に秘められた信仰がためされ、真実が露わにされるためである。

出エジプトの民はその日その時を待てず身勝手に神々を作り、サウル王も人々からのプレッシャーにその日を待てず、自分勝手な礼拝を捧げてしまった
それに対し、忠実にその時を待ったヨシュアは、約束の地を継ぐ事ができた。
私達に必要な姿勢は、ヨシュアのように、ミニスターとして、アテンドとして仕える姿勢であり、主人の帰りが遅くなっても、いつ来ても大丈夫なように準備して霊的に目をさましている事なのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
兄弟姉妹を憎む者は(オバデヤ書):右クリックで保存
兄弟姉妹を憎む者は(祈り会):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:血潮による契約(出エジプト記24:1-8):右クリックで保存

いよいよ主とイスラエルの民との、契約の調印とも言えるべき箇所である。
はじめに主の御元に近づく事が許されたのは、モーセ一人だけだった。(出エジプト記24:1-2)
主はあまりに聖なるお方であり、人がそのまま御前に出ると死ぬしか無いため、必ず仲介者が必要なのだ。

『モーセはきて、主のすべての言葉と、すべてのおきてとを民に告げた。民はみな同音に答えて言った、「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」。そしてモーセは主の言葉を、ことごとく書きしるし、朝はやく起きて山のふもとに祭壇を築き、イスラエルの十二部族に従って十二の柱を建て、イスラエルの人々のうちの若者たちをつかわして、主に燔祭をささげさせ、また酬恩祭として雄牛をささげさせた。』(出エジプト記24:3-5)

民が主の全ての言葉に同意したため、その実体のしるしとして、イスラエルの十二部族に従い十二の柱を建て、主の言葉を文書として書き記した。
契約は口頭での同意の他、文書の取り交わしにて為されるが、日本では印鑑が、西欧ではサインが、そして、神に対しては血が有効なしるしである。

『その時モーセはその血の半ばを取って、鉢に入れ、また、その血の半ばを祭壇に注ぎかけた。そして契約の書を取って、これを民に読み聞かせた。すると、彼らは答えて言った、「わたしたちは主が仰せられたことを皆、従順に行います」。そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。』(出エジプト記24:6-8)
日本では、甲乙の契約書に一つの印を押して「割印」とするが、それと同じように、モーセは血の半分を祭壇に注ぎ、もう半分を民に注ぎかけて契約の血とした。

『だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。
彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル9:18)

血はまた、きよめの役割も果たす。
キリストの血は、人を完全にきよめ、死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者とするものである。(ヘブル9:14)
血はまた、いのちを買い戻す代価として有効である。
『それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。』(ヘブル9:15)

この荒野の民は、後に契約を破ってしまう事になるが、人類もまた同じように、神が提示した律法の基準に到達する事は人にはできず、誰もが罰せられるべき存在である。
それ故、人は誰もが、この罪の罰金を誰かに支払ってもらう必要がある。
それを成して下さったのが、イエスであり、ご自身の血潮によって完済して下さった。

『一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。』(マタイ26:26)

私達はこの贖いを、ただ感謝して受け取るのみである。
そして、イエスが流して下さったこの尊い血潮を、裂いて下さった尊い御からだを、ないがしろにしてはならない。

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