メッセージ - 201302のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:手と足、そして耳に血を塗る(出エジプト記29:19-21):右クリックで保存

祭司の任職の際、三番目に捧げられる動物のいけにえが「任職の雄羊」である。
『あなたはまた雄羊の他の一頭を取り、アロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置かなければならない。』(出エジプト記29:19)
これも他のいけにえと同様、アロンとその子達が手を置き、彼らの罪をこの雄羊に移してほふる。

『そしてあなたはその雄羊をほふり、その血を取って、アロンの右の耳たぶと、その子たちの右の耳たぶとにつけ、また彼らの右の手の親指と、右の足の親指とにつけ、その残りの血を祭壇の四つの側面に注ぎかけなければならない。また祭壇の上の血および注ぎ油を取って、アロンとその衣服、およびその子たちと、その子たちの衣服とに注がなければならない。彼とその衣服、およびその子らと、その衣服とは聖別されるであろう。』(出エジプト記29:20-21)

なぜ動物の血が流され、その血がアロンとその子達につけられるのか。
それは、全てのものは血潮によって清められ、血が流される事によって罪は赦されるからである。(ヘブル9:22)
祭司は血塗られている事によって聖別され、清められ、主の御用ができる者とされているのだ。

この血潮は、祭司の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけられるが、それは何を意味するのだろうか。

まず、「右」は力と権威をあらわし(詩篇110篇)、名誉をあらわし(詩篇45:9)、誓いをあらわしている(イザヤ62:8)。
真っ先に血が塗られる部位は「耳」である。祭司の耳は、手や足以上に重要である。
なぜなら、祭司は主の御声を正確に聞くべきであり、また民をさばく時、民の訴えを正しく聞き分けなくてはならないからだ。

主が何より喜ばれるものは、焼きつくす捧げ物でも、最上の脂肪でもなく、「耳を傾け、聞き従う」事である。
『それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、/「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。』(ヘブル10:5-6)
この箇所では「わたしのために、からだを備えて下さった」とあるが、その引用元である詩篇40:6では「からだ」ではなく「耳」となっている。
耳で聞く事は、からだで行うのと同等に大切な事である。
また、次のようにも書いてある。

『「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。』(1サムエル15:22-23)
これ程までに耳は重要であり、聞き従う事こそ、主が喜ばれる事なのだ。

そして祭司は、手も、足も、血潮によって清められる必要がある。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義が/あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が/主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。あなたがたの手は血で汚れ、あなたがたの指は不義で汚れ、・・・
彼のわざは不義のわざであり、彼らの手には暴虐の行いがある。彼らの足は悪に走り、罪のない血を流すことに速い。彼らの思いは不義の思いであり、荒廃と滅亡とがその道にある。彼らは平和の道を知らず、その行く道には公平がない。彼らはその道を曲げた。すべてこれを歩む者は平和を知らない。』(イザヤ59:1-8)

上記の通り、「手」はわざを示し、「足」は行いを示すが、人は元々、手のわざも、足の行いも、汚れている。
だから、血潮で現れ、清められる必要があり、祭司は清められた上で主の命令どおり忠実に行う必要があるのだ。
私達もまた、神の祭司とされた。(1ペテロ2:9)
まず、耳に血潮を塗って清めていただき、そして、手も足も清めていただき、主のみわざを大いに行っていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:罪のいけにえと全焼のいけにえ(出エジプト記29:10-18):右クリックで保存

祭司の任職の際、捧げられる動物のいけにえには三種類あり、その中で真っ先に捧げられるのは、雄牛による「罪のためのいけにえ」である。

『あなたは会見の幕屋の前に雄牛を引いてきて、アロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置かなければならない。』(出エジプト記29:10)
手を置く、という行為は、その相手と一体化となって我にあるものを彼に移すものであり、これから祭司になろうとしている人達が動物に手を置く時、彼らの罪がその動物に移され、そして、その動物が罪のいけにえとしてほふられる時、祭司達の罪はその動物を通して罰される事になる。

働き人として召す時なども、手を置いて祈る「按手」を行う。(使徒13:3)
手を置くという事を意味もなくパフォーマンス的に行ったりする事をたまに見かけるが、パウロはテモテに、誰にでも軽々しく按手しないよう戒めている。
『軽々しく人に手をおいてはならない。また、ほかの人の罪に加わってはいけない。自分をきよく守りなさい。』(1テモテ5:22)

『そして会見の幕屋の入口で、主の前にその雄牛をほふり、その雄牛の血を取り、指をもって、これを祭壇の角につけ、その残りの血を祭壇の基に注ぎかけなさい。』(出エジプト記29:11-12)
雄牛の血は、祭壇の角につけられ、その残りは祭壇の下に注ぎ尽くされた。同じように、イエス様も十字架で打たれ、十字架の下に血を注ぎ尽くされた。

『また、その内臓をおおうすべての脂肪と肝臓の小葉と、二つの腎臓と、その上の脂肪とを取って、これを祭壇の上で焼かなければならない。』(出エジプト記29:13)
内蔵やその脂肪は、外から見ることのできない「心」をあらわす。
イエス様が群集を憐れみの目で見られた時、岩波訳では次のように訳している。
「彼は群集を見て、彼らに対して腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人(まきびと)のない羊のように疲れ果て、打ち棄てられていたからである。」(マタイ9:36)
イエス様は十字架上で神に見捨てられ、心がずたずたに裂き尽くされ、その十字架上での叫びが天に登り、御父は、その深い信仰の故に祈りを聞き届けられたのである。(ヘブル5:7)

『ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼き捨てなければならない。これは罪祭である。』(出エジプト記29:14)
肉と皮など外見的に見える「からだ」は、外に出されてそこで焼かれた。
同じようにイエス様も、都の外に出され、そこで苦難を受けられた。
『なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。』(ヘブル13:11-14)

このように、罪のためのいけにえ(罪祭)は、人々の罪を一身に引き受け、血を流され、心は裂かれ、燃やし尽くされ、からだは都の外に出されて苦難を受けられた、主イエスキリストをあらわしている。

続いて、全焼のいけにえ(なだめのかおり)の雄羊についての、主の指示である。
『あなたはまた、かの雄羊の一頭を取り、そしてアロンとその子たちは、その雄羊の頭に手を置かなければならない。』(出エジプト記29:15)
これにも手を置いて、アロンとその子達と一体化される。

『あなたはその雄羊をほふり、その血を取って、祭壇の四つの側面に注ぎかけなければならない。またその雄羊を切り裂き、その内臓と、その足とを洗って、これをその肉の切れ、および頭と共に置き、その雄羊をみな祭壇の上で焼かなければならない。これは主にささげる燔祭である。すなわち、これは香ばしいかおりであって、主にささげる火祭である。』(出エジプト記29:16-18)

全焼のいけにえの血は、祭壇の周囲に注がれ、解体された上で全部位が焼き尽くされた。
詩篇22篇には、そのようにされたイエス様の様子が預言的に記されている。
『わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。
まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。』(詩篇22:14-17)

イエス様は十字架で「わたしは渇く」と言われたほどに、焼き尽くされる経験をされた。
全焼のいけにえは、なだめのかおりとも呼ばれる。
ノアは洪水の後、祭壇で焼きつくす捧げ物をささげ、神はそのかおりをかいで宥められ、もはや地上に洪水を起こさないと誓われた。(創世記8章)
そしてイエス様の十字架上での祈りという「なだめのかおり」によって、神は完全に宥められた。

私達もまた、全身全霊をもって、自分自身を主に捧げるべきであるが、何より喜ばれるのは「聞きしがたう」事であり、それはどんな焼きつくす捧げ物よりも大切な事である。(1サムエル15:22-23、ヘブル10:5-7)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
思いを一つにして祈れ(エステル4章):右クリックで保存
祈り会:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
3ヨハネ9-15:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:祭司としての任職 - きよめ(出エジプト記29:1-9):右クリックで保存

29章は、祭司を任職する際の主の指示である。
『あなたは彼らを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせるために、次の事を彼らにしなければならない。すなわち若い雄牛一頭と、きずのない雄羊二頭とを取り、また種入れぬパンと、油を混ぜた種入れぬ菓子と、油を塗った種入れぬせんべいとを取りなさい。これらは小麦粉で作らなければならない。そしてこれを一つのかごに入れ、そのかごに入れたまま、かの一頭の雄牛および二頭の雄羊と共に携えてこなければならない。』(出エジプト記29:1-3)
以上のものが、祭司の任職の際に用意すべきもので、雄牛は罪のためのいけにえとして、雄羊の一頭は全焼のいけにえによるなだめのかおりとして、もう一頭は「任職の雄羊」と呼ばれ、この肉やパンは聖なる食物として祭司が食べるものとなる。

祭司の任職において真っ先に行われる事は、水による清めである。次に、彼らに前章で示された通りの祭服を着させ、そして、任職の油が注がれる。(出エジプト記29:4-7)
そこから続いていけにえが捧げられたり、いけにえの血がつけられたりするが、これらは大祭司キリストが任職されるプロセスや、私達が祭司として任職されるプロセスをも、あらわしている。

「キリスト」とは元々「油注がれた者」という意味であり、油注がれる事は、特別な役割が神から与えられるしるしである。
また、油には聖霊の意味がある。(1サムエル16:13、1ヨハネ2:27)
イエス様は働きのはじめに、まず、水の洗い(バプテスマ)を受けられ、次に聖霊の油注ぎ(聖霊が鳩のように降り留まる)があり、父なる神によって「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」と、公に任職された。(マタイ3:14-17)
私達も祭司とされるためには、まず、清めが必要で、神から任職を受ける必要がある。

私達を清め、神からあかしされるものは、三つあり、そのうちの一つが「御霊(聖霊)」である。
 『わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。』(テトス3:5-7)

そして、「血」もまた私達を罪から解放し、清めるため、祭司の任職に必要なものである。
『わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。』(黙示録1:5-6)

また、「御言葉の水」も私達を洗い清め、聖なるものとする。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26-27)

『このイエス・キリストは、水と血とをとおってこられたかたである。水によるだけではなく、水と血とによってこられたのである。そのあかしをするものは、御霊である。御霊は真理だからである。あかしをするものが、三つある。』(1ヨハネ 5:6)御霊と水と血とである。そして、この三つのものは一致する。』(1ヨハネ 5:6-8)
これら三つによって私達はあかしされ、清められ、祭司とされるのである。

礼拝説教メッセージ音声:祭司が身に付けるべきもの(出エジプト記28:31-43):右クリックで保存

続いて、大祭司がエポデの下に着る青服についての指示である。
『あなたはまた、エポデに属する上服をすべて青地で作らなければならない。頭を通す口を、そのまん中に設け、その口の周囲には、よろいのえりのように織物の縁をつけて、ほころびないようにし、そのすそには青糸、紫糸、緋糸で、ざくろを作り、そのすその周囲につけ、また周囲に金の鈴をざくろの間々につけなければならない。
すなわち金の鈴にざくろ、また金の鈴にざくろと、上服のすその周囲につけなければならない。アロンは務の時、これを着なければならない。彼が聖所にはいって主の前にいたる時、また出る時、その音が聞えて、彼は死を免れるであろう。』(出エジプト記28:31-35)

このエポデの下に着る服は、天の色・青で、襟はほころびないように鎧のように縁がついている。
これは、決してほころびたり色あせたりする事の無い、天で執り成しておられる大祭司イエスキリストの永遠性をあらわしている。
その裾には、金のすずとざくろが交互に取り付けられ、大祭司が動く時、このすずが鳴るようになっている。
伝承によれば、大祭司が至聖所に入る時、ひもで結ばれて入ったようである。それは、万一何かの間違いを起こし、大祭司が聖所で主に打たれて死んでしまっても、ひもを引っ張って引きずり出せるようにするためである。
それほど、大祭司には重大な責任が伴ったのである。

年に一度の贖罪日、大祭司は洗盤で身を清め、祭壇上のいけにえをほふり、祭壇の周りに血を注ぎ、残りの血を器の中に入れ、それを携えて至聖所へと入って行く。
外の大庭では、大祭司が贖いのつとめを果たすのを待つイスラエルの民は、大祭司の青服のすそにつけられた鈴の音を耳にしながら、無事につとめを果たす事を祈りつつ待っている。
そして大祭司が契約の箱の贖罪蓋に血を注ぎ終わり、一切の贖いのつとめを成し遂げ終わると、大祭司はひもを引きずりながら民の前に戻って、「テテレスタイ!(完了した)」と叫んだ。

同じように、キリストは、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられ(ヘブル9:12)、全人類の贖いが終わった時、「完了した」と叫ばれた。(ヨハネ19:30)

大祭司はまた、ひたいに純金の札がつけられる。その時、大祭司は全ユダヤ人の罪咎を代表して負っており、この札をつけて御前に出て、贖いのつとめを為したなら、ユダヤ人全体の罪咎もまた贖われた事になる。(出エジプト記28:36-38)
同じように、キリストも十字架にかけられた時、「これはユダヤ人の王イエス」と書かれた札が掲げられ、ユダヤ人だけでなく全人類の罪咎を代表して負い、贖いのつとめを完全に成し遂げられたのだ。

大祭司は他にも、市松模様の長服、亜麻布のかぶり物、色とりどりに織られた飾り帯を身につけており、他の一般の祭司たち(アロンの子ら)とは一線を画していた。アロンの子らと呼ばれる一般の祭司たちは、もっとシンプルな格好だったようである。(出エジプト記28:39-40)

『アロンとその子たちは会見の幕屋にはいる時、あるいは聖所で務をするために祭壇に近づく時に、これを着なければならない。そうすれば、彼らは罪を得て死ぬことはないであろう。これは彼と彼の後の子孫とのための永久の定めでなければならない。』(出エジプト記28:43)

先にも書いた通り、祭司たちのつとめは栄光であると共に、重大な責任が伴われるものであり、主に命じられた事をおろそかにしてしまうと、主に打たれて死んでしまうものであった。
私達も主イエスにあって王族の祭司とされたからには、御言葉に正しく従い、この祭司としての栄えあるつとめを、決しておろそかにすることなく、誠実に為さなくてはならない。

いのちの木と善悪知識の木(創世記2:8-17)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

『主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた。』(2:15)
主はアダムとエバをエデンに置かれたように、私達が住むべき領域に、私達を置いてくださっている。
主が人を園に置き、そこを耕し守り、管理させたように、私達も、主が置いて下さった場において、そこをしっかりと耕し、守り、て管理するべきである。
そして、主が置いて下さった生活ステージの中央には、ふた種類の木がある。
『園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。』(創世記2:8-9)
人類なら誰しも必ず通る「二者択一」がある。すなわち、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るか。それは、人類創造以降、全ての人が避けて通れない究極の選択である。
究極の二択というと、「善か悪か」と思われやすい。しかしそうではない。聖書が提示する究極の選択は、「いのちか、善悪判断か」である。
「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17) 神は善悪の知識の木から食べる事を、禁じられた。
善悪を知る事、それはすなわち、神のようになる事である。(創世記3:5,22)
人は神のようになろうという誘惑によって善悪の実を取って食べ、また、サタンも、神のようになろうとして地に落とされた。(イザヤ14:14)神の命令を敢えて超える神から独立した善悪判断は、死へと導かれてしまう。

善悪の実を食べた時、真っ先に人に起こった事は、目が開かれた事であり(創世記3:7)、こうしてある意味、神のようになった。しかし、神のようになった彼らが最初に気づいた事は、実は自分達は裸であった事。
そこで彼らが最初に働かせた善悪判断は、恥ずかしい所をいちじくの葉で隠そうという「取り繕い」だった。
このように、神のような開かれた目で周りの状況や人間をじっと見、善悪判断する事は、自らに死を招く。
神から離れ、神との関わりが絶たれた人間は、所詮裸であり、弱い者であり、罪深く何も出来ない者である。
自分の弱さや裸を覆うために、力や知識を蓄え、技術を発展させて自活して生きて行く生き方こそ、アダム以来の呪いの生き方の本性であり、この、神から離れて取り繕う道具「いちじくの葉」は、歴史を下るごとに進化し、やがて身を守る道具となり、武器となり、知識や学術体系となって発展して行ったが、それは所詮、自分の不完全さに対して、罪に対して、死に対して、どうする事も出来ないのだ。

どこどこに行って遊んでも良いか悪いか、この映画を見ても良いか悪いか、など、何でもいちいち誰かに伺いたがる人がいるが、そのように、何でも「善いか悪いか」の善悪判断で生きる生き方こそ、呪いである。
律法は善悪の集大成だが、律法の行いの内にある人は全て呪いの元にある。(ガラテヤ3:10-12)
しかし、キリストは呪いの木にかけられ、私たちを、その律法の呪いから贖い出して下さった。
この事は、信仰によって義とされるアブラハムの祝福が、私達に及び、私達が信仰によって約束の御霊を受けるためである。(同13-14節) イエス様を信じた人には、聖霊が与えられ、もはや「善いか、悪いか」という善悪判断の呪いの中ではなく、聖霊が教えて下さる導きに従って歩むのである。(ヨハネ14:26)

現代、私達が選ぶべき「いのちの木の実」は、まことの食物であるイエス・キリストである。
「わたしは命のパンである。・・・これは天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」(ヨハネ6:48-51)
呪いの木に掛かって下さった、イエス様という「いのちの木の実」を食べるなら、私達は生きるのである。
福音は、律法のような「こうせよ/するな」という善悪の集大成ではなく、イエス・キリストという「いのちの実」を、信仰によって受け取り、いただくという、命の路線である。
キリストは十字架を負われ、そこで自分の善悪判断を捨てられ、ただ御父のみこころに委ねられた。
私達もキリストにならい、自分で善悪判断する生き方を十字架にはりつけ、それを死に渡し、いのちなるお方イエス様と共に、十字架上で両手離しで御父に自らを委ねるなら、いのちを得るのである。
神のような開かれた目で善悪判断する生き方を止め、呪いの木に架って下さったキリストといういのちの実を食べ、命を得る皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

最近、何かと予定が入ってしまうため、配信が定時通り出来ない事が多く、ご迷惑おかけしております。

昨日も来客があったり、礼拝の臨在が濃厚で時間が押してしまったりしため、配信ができませんでした。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
こう祈りなさい(マタイ6:5-13):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:さばきの胸当 - 主の胸に結び付けられて(出エジプト記28:15-30):右クリックで保存

今回は、エポデの上につける「さばきの胸当」についての主の指示である。
さばきは恐ろしいイメージがあるが、悪しき者が支配する世の中で不当に扱われてきた聖徒たちにとっては、主のさばきは慰めである。(詩篇18:20-34、黙示録6:9-10)
この「さばきの胸当」の特徴から、ご自分の民をしっかりと胸に結び付けて下さる大祭司イエスのご性質を見る事が出来る。

『あなたはまたさばきの胸当を巧みなわざをもって作り、これをエポデの作りのように作らなければならない。すなわち金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、これを作らなければならない。』(出エジプト記28:15)
これは、エポデと同じ種類の撚り糸を用いて22cm四方の四角形に織られ、その中に、12種類の宝石がはめ込まれる。

『さばきの胸当てには、ウリムとトンミムを入れ、アロンが主の前に出るときに、それがアロンの胸の上にあるようにする。アロンは絶えず主の前に、イスラエルの子らのさばきを、その胸の上に載せる。』(出エジプト記28:30)
ウリムは光、トンミムは完全という意味で、主のさばき(御心)を求める時に用いられるものである。(民数記27:21、1サムエル28:6)

その十二の宝石には、イスラエル十二部族の名前が彫り込まれている。つまり、大祭司が「さばきの胸当」を身につけて聖所を出入りする時、イスラエルの名前が大祭司の胸に置かれた状態で、出入りする事になる。(出エジプト記28:21)

「胸」は心の座であるが、まことの大祭司である主も、まことの聖所である天において、私達地上にいるキリスト者をいつも御心に留め、取り成しておられるのである。
『しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。』(ヘブル7:24-25)

さばきの胸当には十二種の宝石がはめ込まれているが、十二種の宝石は、黙示録にも登場する。
『その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。花嫁は宝石のよう。またその門には十二部族の名が記されている。そして土台石は宝石であり、十二使徒の名が記されている。』(黙示録21:10-12)

この、宝石を土台とした新しい聖都エルサレムは、主の花嫁であるが、宝石は花嫁と対比される。(箴言31:10、雅歌4:9)
私達の成り立ちが石ころのようであっても、主は、石ころからアブラハムの子孫を起こされ、それを尊い宝石として整え(ゼカリヤ9:16)、尊い宝石で飾って傷を包み慰めて下さる。(イザヤ54:11-13)

さばきの胸当ては金の輪と青紐によってしっかりとエポデに結び付けられるように(出エジプト記28:22-27)、私達も、主の御胸から落ちないよう、しっかりと天の紐によって結び付けられるのだ。
以下の雅歌の女性の告白は、そのまま私達の主に対する祈りでもある。

『私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。・・・ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。』(雅歌8:6,3)

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