メッセージ - 201212のエントリ

今年も最後の最後まで色々な事がありましたが、主は全ての面において憐れみ、祝福の内に導いて下さいました。

これからニューイヤーズ・イブ礼拝で、その後は夜を通しての交わりです。

みなさんも良き年越しを、主と共に過ごされますように!

礼拝説教メッセージ音声:主はわが旗(出エジプト記17:8-16):右クリックで保存

マサの事件があったレフィディムにて、水の心配が無くなったと思ったら、今度は外敵・アマレクが戦いを仕掛けて来た。
彼らは、イスラエルの疲れて弱っている、隊列の後ろの人達を攻め打った。(申命記 25:17-19)
アマレクは「国々の中で首位のもの」と言われ(民数記24:20)、後にもたびたびイスラエルに戦いを仕掛けてくる、強く好戦的な民族であった。
それに対し、イスラエルはついこの間までエジプトの奴隷で、戦いの術を知らず、武具も無い。
状況的にはどう見ても不利である。

『モーセはヨシュアに言った。「私たちのために幾人かを選び、出て行ってアマレクと戦いなさい。あす私は神の杖を手に持って、丘の頂に立ちます。」ヨシュアはモーセが言ったとおりにして、アマレクと戦った。モーセとアロンとフルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9)
モーセは今まで、困った事が起きる度に主に叫んでいたが、今回、彼は叫ぶのではなく、主は必ず助けて下さると積極的に信じ、彼の従者ヨシュアに戦うよう指示して、モーセ自身は、あの杖を持って丘の上に立った。

『モーセが手を上げているときは、イスラエルが優勢になり、手を降ろしているときは、アマレクが優勢になった。しかし、モーセの手が重くなった。彼らは石を取り、それをモーセの足もとに置いたので、モーセはその上に腰掛けた。アロンとフルは、ひとりはこちら側、ひとりはあちら側から、モーセの手をささえた。それで彼の手は日が沈むまで、しっかりそのままであった。』(出エジプト記17:11-12)
モーセは手を上げて、民のために執り成し祈っていたのだ。

ヨシュアは前線に出て戦っていたが、この戦いの勝敗を切り分けたのは、モーセの祈りであった。
ヨシュア達が肉体で格闘したように、祈りもまた、重要な格闘である。
『わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。』(エペソ6:11-13)

祈りや執り成しという格闘を続けていると、疲れも出てくる。
そこで、モーセの祈りを助ける手となったのが、アロンとフルだった。
教会や様々なミニストリーにおいても、アロンとフルのように、指導的立場にいる人を助ける人は、必要である。
そうのように、リーダーの身近で親身にフォローしてくれる助け手がいないと、その人が疲れ果ててしまった時、会衆全体が危機に瀕してしまう。

モーセが信仰により執り成し手となって祝福し、アロンとフルがモーセの祈りを支え、ヨシュアが実戦部隊として戦った結果、彼らは勝利した。
『ヨシュアは、アマレクとその民を剣の刃で打ち破った。主はモーセに仰せられた。「このことを記録として、書き物に書きしるし、ヨシュアに読んで聞かせよ。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全に消し去ってしまう。」モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシ(主はわが旗)と呼び、「それは『主の御座の上の手』のことで、主は代々にわたってアマレクと戦われる。」と言った。』(出エジプト記17:13-16)

ヨシュアは、モーセが丘の上に立ち、取り成して祈るその姿を見て、安心して戦いに行けた。
同じように、牧師やミニスターが全体のために祝福し祈るなら、聖徒達は安心して出て行く事が出来、主は旗となって彼らを導き、群れ全体を勝利へ導いて下さるのだ。

来て、そして見なさい(ヨハネ1:35-51)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

バプテスマのヨハネは、人々をメシヤであるキリストの元へと導くために神から遣わされた。ヨハネがイエス様を指して「見よ、神の小羊」と言った時、二人の弟子は、ヨハネの元を去って、イエス様の方へと行った。
ヨハネは自分の元を去ってイエスの方へと向かった二人の弟子達を引き止めなかったし、弟子達も、それまで師であったヨハネの所から離れ、ヨハネが常々示していたお方・キリストに、ためらいなくついて行った。キリスト教会の目的も、教会が栄える事ではなく、キリストが栄える事である。
二人はイエス様に、どこに「泊まって(メノー:とどまる、つながる)」おられるのかを、真っ先に聞いた。
イエス様に真っ先に尋ねるべきは、イエス様がどこに行き、どこに留まられるかであり、イエス様が行かれる所、留まられる所へ、私達もついて行き、イエス様の元に留まるべきである。
イエス様は自分が留まっている所を教えたのではなく、来て、そして、見るようにと言った。(39節、46節)

彼らのうちの一人は、後の十二弟子の一人、アンデレである。彼はイエス様の所に行って共に泊り、イエス様の素晴らしさを体験した。そして彼は、真っ先に兄弟であるシモンに伝え、キリストの元へ連れて行った。
アンデレは五千人の給食の時、五つのパンと二匹の魚を持っている少年を、イエス様の所へと導いた人で、彼は人に伝える賜物の持ち主で、人をイエス様の元へ連れて来る人だった。
主は、ヨハネの子「シモン(受け入れながら聞く、軽薄)」と出会った時、名前を「ケパ(岩)」と呼ぶ事にした。
主は、彼が将来どのようになって行くのかを、既に見ておられた。彼は確かに、名前の通り軽薄な所もあって、軽々しい言動をしては失敗する事も幾度かあったが、後に彼は、教会の重要人物となる。
教会とは、イエス様に「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白する所から始まり、主はその「信仰告白」という岩の上に、教会を立てられる。そして教会は、ハデスの門も勝てない。(マタイ16:15-18)

『その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。』(ヨハネ1:43) ピリポは五千人の給食の時、この五千人のお腹を満たすには二百デナリ程のパンが必要だと計算し、また、最後の晩さんの時には、イエス様に「わたしたちに父を見せて下さい。そうすれば満足します」と言った事を、イエス様にたしなめられた。(14:8)
彼は理系人間だったようであるが、彼もまたイエス様を人に伝える人で、ナタナエルにイエス様を伝えた。
ナタナエルは御言葉を調べ求める人で、最初は「ナザレから、なんのよいものが出ようか」と、パリサイ人と同じ理屈を言ったが、ピリポはそこを理屈では返さず、「来て、そして見なさい」と言い、ナタナエルはそれに従って行って、そしてイエス様と出会った。
「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。(48節)
イエス様は、ナタナエルがいちじくの木の下にいた事も、御言葉を思い巡らしたり祈ったりして来た事も、全てご存知であった。イエス様はペテロやナタナエルを見ていたように、私達の事もすっかりご存知である。
ナタナエルもイエス様を見、経験して、イエス様こそ神の子であり、イスラエルの王であると告白した。

このように、主は、色々なタイプの、色々な賜物を持った人達を、実に豊かな方法で導かれる。
この一年、主は、実に不思議な導きで皆さんを導かれたのではないだろうか。
教会もこの一年、とても魅力的な人達が多く加えられ、実にバラエティ豊かになったが、主を慕い求めて来た人は、一人も漏れる事なく、主の素晴らしさを知り、味わったのではなかろうか。
主へと導かれる最良の方法は「来て、そして見なさい」という言葉にシンプルに従い主の元に行く事である。
主の元に来て、主が留まられる所へ行き、主が留まる所に留まり、 主の素晴らしさを間近で仰ぎ見るなら、ここに出てきた色々な弟子達のように、ますます主の魅力にはまって行き、誰かに伝えずにはおれなくなって行くのだ。
来年はさらに主の御元へ近づき、主を間近で見、主の恵みをさらに深く、多く頂き、さらに多くの人達に主の素晴らしさを伝えて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:荒野でついて来る岩(出エジプト記17:1-7):右クリックで保存

前回は、この箇所から現象的な面を学んだが、今回は霊的意義を学びたい。

荒野で水が無い事により苦境に立たされた場面は後にもある。ツィンの荒野についた時も、民は同じように、水が無い事でモーセとアロンに逆らった。
『「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。』(民数記20:8)
レフィディムでの時、主は岩を「打つ」ように命じたが、ここでは主は岩に「命じて(あるいは「語って」)水を出させなさい。」と言われている。
しかし、モーセは怒りに燃えていたため、その通りにしなかった。

『モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。』(民数記20:10-11)

ここではモーセは「われわれがあなたに」と言っている。あたかも、モーセとアロンが岩から水を出すかのように民に言い、そして岩に「語る」のではなく、二度打った。
岩は水を湧きださせたが、それはモーセとアロンの故ではない。神は水が人に必要である事をご存知であり、その必要な水を民に与えるためであった。
『そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう。」』(民数記20:12)

モーセはこの時、誤った対応をしてしまったが故に、主が与えると約束して下さった地に入る事ができなくなってしまった。
あれだけ苦労し、あれだけ多くの功績を残し、あれだけ主と親しかったモーセが、「岩を二度打った」事によって約束の地に入れないというのは、どういう事だろう。

『兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、「彼らについてきた霊の岩」から飲んだのであるが、 こ の 岩 は キ リ ス ト に ほ か な ら ない。
しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。』(1コリント10:1-6)

なんと、この岩とはキリストであり、荒野を行く 彼 ら に つ い て き て、彼らの渇きを癒したのだ。
岩砂漠地帯を40年も旅する行程が、出エジプト記から申命記までの長きに渡って詳細に記されている中で、水に困った場面は数回しか出てこない、という事は、その40年ほぼずっと民は水に困っていなかった、キリストは荒野をずっとついてきて下さっていた、という事であろう。

この岩はキリストであると分かったが、ではなぜレフィディムでの時、主は「打つ」ように命じ、ツィンの荒野では「語れ」と命じられたのか。
その事は、主イエスのご性質を表している。
イエスは十字架で神に打たれ、その打ち傷によって私達人間はいやされた。(イザヤ53章)
そしてキリストは復活された。キリストはただ一度十字架に渡され、ただ一度死に、そして復活され、全ての救いは完成したのだ。
そして、主が約束して下おられた聖霊が、私達・主に従う人たちに注がれ、私達はもはや、キリストを「打つ」のではなく、キリストと「語る」者達である。
主キリストを再び十字架につけるような事は、もはや、してはならないのだ。(ヘブル6:1-6)

モーセは御言葉に逆らい、岩なるキリストを打ってしまった結果、逆らった民と同じように、約束の地に入れなくなってしまった。
この事は、警告である。(1コリント10:6)
悪をむさぼった民が約束の地に入れなかったように、わたしたちも悪をむさぼってそのような事をする事の無いためであり、いかにモーセのように、多くのしるしや奇跡、多くの預言をしたとしても、御心に反してキリストを再び打つような事をするなら、約束の地に入れないという事を、わたしたちに示すためである。(マタイ7:21-23)

モーセも人間である。弱いのだ。
そして、牧師など霊的に指導する立場の人も、同じ人間である。
取り成して祈る立場にある彼らを、怒らせたり、煩わせたりしてはならない。
さもないと、その指導者もろとも、荒野で滅んでしまう事になるからだ。
むしろ、指導者の立場にある人のために執り成し祈るべきである。そしてキリストにあって直接主に祈り、直接主から助けを頂くべきだ。

主キリストはまことの泉である。私達はもはや主を打つような事をしてはならない。
主に語れば、主は水を溢れさせ、潤して下さるのだ。
『祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。』(ヨハネ7:37)

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
シメオンとアンナ(ルカ2:21-38):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神殿の宝物庫をきよめよ(ネヘミヤ記13:1-14):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ4:12-21:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:メリバでの試み(出エジプト記17:1-7):右クリックで保存

シンの荒野を出てレフィディムで宿営し、主が示されていたホレブ山へと近づいたが、再び問題が起こった。水が尽きたのである。
『それで、民はモーセと争って言った、「わたしたちに飲む水をください」。モーセは彼らに言った、「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」。』(出エジプト記17:2)
以前も水やパンが無かった時、民はモーセにつぶやいたが、主がその都度、必要を満たして下さった。

しかし、ここでも民は、主に叫ぶのではなく、モーセと争っている。
生きる上で必要な水を主に求めるのは正当だが、民は再三、主をスルーし、求めるべき相手をモーセとした。
モーセ自身「今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と主に叫んでいる事から、民のモーセに対する要求の激しさは、かなりものだったと分かる。

モーセ自身、民に水が必要で、水が無い事が危急の祈るべき課題である事は熟知していたし、祈っていた事であろう。
それなのに民は、モーセと一緒に祈るのではなく、モーセに叫び、激しく要求し、さらには石で撃ち殺そうとさえして、モーセを苦しめた。

危機的状況の時に、主に叫ぶ事をせず、霊的指導者のために執り成すことも一緒に祈る事もせず、ただその指導者にだらだら文句を言ってクレームする事は、火事の時にバケツの水を火にではなく指導者にぶっかけるような事である。
それは霊的指導者を二重苦に陥れるだけで、害悪以外の何者でもない。
そういう時は一緒に祈り、一緒に執り成すべきである。

主をスルーしモーセに文句を言う事を幾度も続けていた民の大部分は、約束の地に入る事はできず、荒野で屍を晒して行った。
『わたしは生きている。また主の栄光が、全世界に満ちている。わたしの栄光と、わたしがエジプトと荒野で行ったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞きしたがわなかった人々はひとりも、わたしがかつて彼らの先祖たちに与えると誓った地を見ないであろう。またわたしを侮った人々も、それを見ないであろう。ただし、わたしのしもべカレブは違った心をもっていて、わたしに完全に従ったので、わたしは彼が行ってきた地に彼を導き入れるであろう。彼の子孫はそれを所有するにいたるであろう。』(民数記14:20-24)

荒野の民が主の素晴らしい御業を十度(明らかにそれ以上である)も経験しておきながら、なお主を試みて御声に聞き従わなかった結果、約束の地に入る特権を剥奪されてしまった。
同じように、主はいつまでも赦してくれると思って平気で主の嫌われる事をし続けるなら、御国に入る特権が剥奪されてしまうのだ。(ヘブル6:4-6、10:26)

それに対し、カレブは主が真実なお方であると民の前で信仰告白し、民に信仰に戻るよう説得した。
『わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。もし、主が良しとされるならば、わたしたちをその地に導いて行って、それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。ただ、主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから、彼らを恐れてはなりません。』(民数記14:7-9)

カレブも、もしかしたらエジプトを出て数ヶ月しか経っていないメリバでの時は心配したかもしれない。
しかし彼は他の民と違い、荒野での道を進む度に、主がことごとく必要を満たし、敵からの勝利を与え、正しい導きをなさるのを見て、信仰的に学習し、ますます信仰を強めて行ったのだ。
私達もカレブのように、「信仰的に学習する姿勢」を持つべきである。この姿勢を持っているのと持っていないのとでは、後に大きな差となり、祝福の地に入れるか、入れないかの違いにまでなるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:マナの性質(出エジプト記16:31-36):右クリックで保存

『イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。』(出エジプト記16:31 新共同訳)

このマナは、まことのパンであるキリストの性質をよく表している。
マナはコエンドロ(コリアンダー)の実のように小さく、丸く、大人でも子供でも誰の口にも入る。
キリストのご性質もマナと同じように、丸く小さく、棘が無い。
全宇宙はこの御方によって成ったというのに、小さな人間の赤ちゃんとして降りてこられ、誰の口にも入るマナのように、大人でも子供でも誰もが受け入れる事が出来る。
マナが白いように、キリストのご性質も雪よりも白く潔白である。
マナが甘いように、キリストの人柄に触れた人は全て、甘く柔らかな感覚に満ち足りる。

イスラエルの民はそれをマナ(「これは何」という意味)と名付けたが、主が日々与えて下さる恵みとは、実に「これは何」の連続だ。
空気は当たり前のようにそこにある。もし明日、いつも吸っている空気が無くなったらどうしよう、などとは、誰も心配しない。
人は文字通り、空気を吸うように、その存在を当たり前の事としているが、そもそも、人に必要な空気も光も、主が力ある御腕によって日々整えておられるのだ

もし、高度な知性を持った地球外生命体が突然現れ、地球の有様や、そこに満ちる生き物たちの有様を見たなら、きっと「これは何」と驚くに違いない。
地球の質量や重力定数、地軸や太陽との距離などが少しでも狂ったなら、人は存続できない。この地は、驚くべき主の不思議によって支えられているのである。
それなのに、人はなんと、荒野の民のように主の恵みを覚えず、ないがしろにしているだろうか。

『モーセは言った、「主の命じられることはこうである、『それを一オメルあなたがたの子孫のためにたくわえておきなさい。それはわたしが、あなたがたをエジプトの地から導き出した時、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らに見させるためである』と」。』(出エジプト記16:32)

主は、それを子孫たちも見れるように、蓄えるよう命じ、アロンはそれをあかしの箱の前に安置した。
イスラエルの子孫達が、その何世代もの長い間腐りもせず壺の中に保たれていたマナを見た時、驚きをもって主の御業をほめたたえた事だろう。
私達もまた、主が与えて下さる日々の恵みと不思議を覚え、それを後々の子孫にも告げ知らせ、証拠として残しておくべきなのだ。

神の箱の中には、マナの入ったつぼの他、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあった。(ヘブル9:1-5)
マナは神の恵み、神による不思議な養いである。アロンのつえは、死からの復活のしるしであり、神が認証された祭司のしるしである。そして契約の石版は、神のおきてであり、御言葉である。
これらは「あかしの箱」の中に納められ、その箱は旧約時代、最も神聖な場所である至聖所に安置されていた。

至聖所は、主の臨在で満ちている聖なる領域であり、旧約の時代は、大祭司が年に一度、犠牲の血を携えてしか入れなかったが、キリストは十字架上で尊い血を流し、真の身代わりの犠牲となって下さった事によって、父なる御神は完全になだめられ、神殿の幕は裂け、人類全てに、神の聖所への道が開かれたのだ。
それで今や、私達も、キリストによって大胆に恵みの御座へと、近づく事が出来るようになった。

この世を生きていく人生は、荒野を旅しているようなものかもしれない。
しかし日々、天から注がれる恵みは与えられている。
すなわち、まことのパンである御言葉なるキリストによって、日々養われている。
毎日御言葉に養われ、毎日キリストをいただきつつ、主が約束して下さった祝福の地へと一歩一歩向かって行く皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声:安息日の休み(出エジプト記16:22-30):右クリックで保存

『モーセは彼らに言った、「主の語られたのはこうである、『あすは主の聖安息日で休みである。きょう、焼こうとするものを焼き、煮ようとするものを煮なさい。残ったものはみな朝までたくわえて保存しなさい』と」。彼らはモーセの命じたように、それを朝まで保存したが、臭くならず、また虫もつかなかった。』(出エジプト記16:23-24)
主は真実な方であり、主が定められた安息日には、ちゃんと休めるよう、六日目には二日分のパンを、不足なく備えて下さる。
主は礼拝を守ろうとする聖徒には、仕事を祝福し、しっかり礼拝を捧げられるよう都合をつけて下さり、その日に休んでも必要な金銀は備えて下さり、礼拝のための体調も全て整えて下さるのだ。

『モーセは言った、「きょう、それを食べなさい。きょうは主の安息日であるから、きょうは野でそれを獲られないであろう。六日の間はそれを集めなければならない。七日目は安息日であるから、その日には無いであろう」。ところが民のうちには、七日目に出て集めようとした者があったが、獲られなかった。』(25−27節)
神の民は、礼拝すべき日に仕事に行っても、何も取れないのだ。
その日は、世の取引ごとは一切休み、主を覚えるべき日である。
その日に立ち働いても、徒労に終わるのみで、神と人から蔑みしか得られない。

「そこで主はモーセに言われた、「あなたがたは、いつまでわたしの戒めと、律法とを守ることを拒むのか。」(28節)
民がモーセの言う事を聞かず、翌日までパンを残しておいた時でも、その前で民がつぶやいた時でも、主は何も言われていなかったが、民が安息日を犯した時、主は初めて怒りを露わにされた。
主が定められた聖なる安息日に、世の仕事を休んで安息し、主を覚える事は、それだけ大切だという事である。

『もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを求めず、むなしい言葉を語らないならば、その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。』(イザヤ58:13)

エジプトを出た世代のうち、約束の地に入れたのは、たったの二名だった。それは、その二名以外は不信仰に陥り、神に不従順を続けたからである。
『また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。』(ヘブル3:18-19)

安息の休みは、神の民に残されている。そして安息に入った人は、自分のわざを終えて休む。(ヘブル4:10)
『それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。』(ヘブル4:1-4)

聞いた御言葉に信仰を結びつけるなら、私達も安息に入るのだ。
御言葉に信頼して世のわざ・自分のわざは終わりにし、主が安息されたように、安息に入る皆さんでありますように!

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