メッセージ - 201210のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ2:1-11:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:憐れみ深い政策がもたらすもの(創世記47:13-26):右クリックで保存

世界的な飢饉の時、ヨセフは最初は銀で食料を売っていたが、銀が底をついてしまった人には家畜で物々交換し、それも底をついてしまった人には、その人の農地を引き取って、食料を与える事とした。
そうして得た銀や家畜、土地をパロに収めたので、パロの家はますます豊かになり、必然的に土地も家畜もこの時国有化された。

ヨセフの政策は、とても憐れみ深い。
『収穫の時は、その五分の一をパロに納め、五分の四を自分のものとして田畑の種とし、自分と家族の食糧とし、また子供の食糧としなさい」。』(創世記47:24)
つまり、税率20%の小作農である。
日本の平均的な家庭、年収430万円世帯の税率は、所得税と住民税を合わせると約30%であり、法人税は40%である。(2009年時点)
現代日本と比べても、ヨセフの政策が民にやさしかった事が分かる。

『彼らは言った、「あなたはわれわれの命をお救いくださった。どうかわが主の前に恵みを得させてください。われわれはパロの奴隷になりましょう」。』(創世記47:25)
普通なら、飢饉になると人々は暴動を起こし、政府転覆を狙うのが歴史の常だが、ヨセフ治世のエジプトはその逆で、人々は自ら奴隷になろうと進み出るのである。
それ程ヨセフの政策は優れ、人々の支持を得、その後この税率がずっとエジプトで続いた。(26節)
ヨセフはなぜそんなに優れた政策が出来たのか。それは、神から知恵を頂いていたからである。

ヨセフの行動はまさしく、イザヤ58章そのものである。

『わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。
そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で/あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し/主の栄光があなたのしんがりを守る。』(イザヤ58:6-7)
人は祝福を頂きたくて断食を行うが、主の喜ばれる断食とは、これである。

ヨセフは、食料が無くて困った人の足元を見て税率を跳ね上げたり、貧しい者をそのまま飢え死にさせるような事はせず、憐れんでやったからこそ主に喜ばれ、彼の行いは光のように輝き、正義が常に彼を先導し、主の栄光が、彼のしんがりを守ったのだ。

『あなたが呼べば主は答え/あなたが叫べば/「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと/呪いの言葉をはくことを/あなたの中から取り去るなら、飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。』(同9-10節)

ヨセフは、彼の兄弟や、ポティファルの妻など、指をさして訴えたり呪いの言葉を吐いたりしても良さそうな人達はいたが、決してそのような事はせず、むしろ、苦しんでいる兄弟達に心を配り、彼らを憐れみ、彼らの願いを叶えてやる素養があったからこそ、ヨセフが無実だった事も彼の良い性質も明らかにされ、真昼のように輝いたのだ。

『主は常にあなたを導き/焼けつく地であなたの渇きをいやし/骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。』(同11-12節)

もし私達もそのようになりたいのであれば、すなわち、主にいつも導かれ、焼けつく地で渇きがいやされ、骨に力が与えられたいのであれば、また、潤された園のように、水の枯れない泉のようになりたいのであれば、
あるいは、「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ばれたいのであれば、私達もヨセフのように、うしろ指を指す事や、兄弟姉妹を訴える言葉を口から捨て去り、苦しんでいる兄弟姉妹達に心を配り、彼らの願いを叶えてやるべきである。

ヨセフは神から示された事をしっかり受け止め、来るべき飢饉に備えて穀物をひたすら備蓄した。
私達にも、霊的な飢饉が来ることが聖書に示されているのだから、いや、既に到来しているのだから、今、霊的な食物である御言葉をたっぷりとイエス様からいただいて、蓄えるべきである。
私達が御言葉をしっかり蓄えておくなら、やがて霊に飢えた人々が土地や家畜を携えて全世界から集まり、私達に蓄えられた御言葉を慕い求めて来るのである。

礼拝説教メッセージ音声:短く不幸せだった百三十年(創世記47:1-12):右クリックで保存

『パロはヨセフの兄弟たちに言った、「あなたがたの職業は何か」。彼らはパロに言った、「しもべらは羊を飼う者です。われわれも、われわれの先祖もそうです」。』(創世記47:3)
兄弟達はヨセフ忠告どおり、自分達が羊飼いである事を正直に伝えた。
羊飼いはエジプト人の忌み嫌う職業であるため、これでイスラエルはエジプト人から隔離されて生活する事となり、その後430年間、イスラエルの民族的・宗教的純潔が保たれた。

『そこでヨセフは父ヤコブを導いてパロの前に立たせた。ヤコブはパロを祝福(barak)した。』(創世記47:7)
ここの祝福(barak)という言葉は、神がアダムやノア、アブラハムに「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福した時にも用いられた言葉である。(創世記1:22,28、9:1、12:2-3)

時の世界のスーパーパワーであるエジプトの王パロと、カナンに寄留中の70人の遊牧民の長ヤコブ。
パロの方が圧倒的に権威が上であるかのように見えるが、小なる者が、大なる者から祝福をいただくのである。(ヘブル7:7)
つまり、外見上はパロの方が上に見えても、真理の上ではヤコブのほうがパロより圧倒的に上であり、事実、永遠の書物である聖書には、ヤコブは遥かに栄誉ある者として記されている。

主イエスに服従する者は、全能の神から権威を与えられる。
神から権威を付与された権威者は、ポンテオ・ピラトの前のイエスのように、外見的には大した権威を帯びているようには見えないものであるが、主イエスに従う者は、汚れた霊を追い出すけんい、あらゆる病気やわずらいをいやす権威を与えられ(マタイ10:1)、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けられ(ルカ10:19)、後には、諸国の民を支配する権威を授けられる。(黙示録2:26)

『パロはヤコブに言った、「あなたの年はいくつか」。ヤコブはパロに言った、「わたしの旅路のとしつきは、百三十年です。わたしのよわいの日はわずかで、ふしあわせで、わたしの先祖たちのよわいの日と旅路の日には及びません」。』(創世記47:8-9)
百三十年という年月は、決してわずかとは言えないが、ヤコブは自分の生きてきた年月はふしあわせに満ち、先祖たちには顔見せできないような日々を送ってきた事を告白した。

彼の父たち、アブラハムやイサクは、自分の思いや願いを、神の御前に手放す人だったのに、ヤコブはその逆で、自分の思い願いを頑として掴んで離さない人だった。
つかみ取ってなんぼという価値観は世の価値観で、それは一見栄えるかのように見えて実は災多く、尻すぼみな生き方である。

彼は生涯のはじめから兄のかかとを掴み、騙し、父イサクをも騙して祝福をつかみとったが、そこには居られなくなってしまった。
彼は伯父ラバンの元で20年搾取され、土地を購入した地で娘は犯され、息子達はその地の男を皆殺して略奪してしまい、また、溺愛したヨセフは兄達によって殺されそうになってエジプトへ売られ、長らく悲嘆の内に過ごす事となった。
彼がようやく自分を主の御前に手放したのは、ベニヤミンをも失おうとしていた時であった。

ヤコブのように、かたくなであればあるほど、打ち砕かれ方はひどいものとなり、手放さない手が固ければ固いほど、打たれる度合いは痛く、長くなってしまう。
ヤコブは白髪頭になるまで、頑なにつかむ生き方を改めなかったが、私達はそこまでなる必要は無い。
自分の願うものを掴む手は、主に速やかに手放し、全ての重荷は主の御前に全て下ろし、人生の早い段階から楽に生きるコツをつかむ皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:栄光にあふれた再会(創世記46:28-34):右クリックで保存

『ヨセフは車を整えて、父イスラエルを迎えるためにゴセンに上り、父に会い、そのくびを抱き、くびをかかえて久しく泣いた。』(創世記46:29)
ヤコブが最後にヨセフを見たのは、22年以上前、シェケムで羊を飼っている兄達の様子を知るために、ヨセフをおつかいに送り出したのが最後で、その時以来の再会である。

その時出ていったヨセフの姿は、父が贈った長服を着ていた。
しかしその長服は血まみれになって返って来て、それ以来、ヨセフは死んだものと思っていた。
それが今、20数年ぶりに会ったヨセフは、高級外車で迎えに来て、亜麻布の宰相服を身につけ、金の首飾りをかけており、パロの指輪をはめていた。

かつて、大切なわが子に、と身につけさせてやった長服やアクセサリーよりも、はるかに優れたものを彼は身に帯びており、かつて、ただ大切にしてかわいがっていたい、と思っていたヨセフだったのに、今や自分が、ただ彼に助けられ、養われる側となっていた。

ヤコブは、かつてヨセフが見た夢、あの太陽と月と十一の星がヨセフを伏し拝んでいる様子を、思い起こした事だろう。
その時、その夢はヤコブの心を害したが、ヨセフは決して好き好んで、その夢をみたのでもないし、好き好んでエジプトの主となったわけでも、夢の通りに兄弟達や父母を養う者となったわけでもなかった。
ただ神が一方的に、イスラエル一族を救うため、予めヨセフを選び、その夢を見させ、予めエジプトへ送っていたのだ。

『時に、”イスラエル”はヨセフに言った、「あなたがなお生きていて、わたしはあなたの顔を見たので今は死んでもよい」。』(創世記46:30)
彼は、地上の祝福を掴み取ろうとする「ヤコブ」の生き方はもはや未練が無くなり、神のご計画が成就した事に満足を見出し、ただ神に支配されるがままの生き方をする「イスラエル」となった。

かつて「ヤコブ」は、世的な祝福を掴んで離さない生き方だったが、それら掴んできたものはやがて無理やり彼の手から引き剥がされて行った。
ラケルが剥がされ、ヨセフが剥がされ、そしてベニヤミンも、という所まで来た。
その時、「子を失わなければならないのなら、失ってもよい」(創世記43:14)と告白し、全てを全能の神の御手に委ねた。
するとヤコブは、ベニヤミンだけでなく、ヨセフをも取り返し、それも、思ってもみなかった程遥かに優れた形になって、彼の元に帰ってきたのだ。

自分で握りしめていたものを、主の御前に手放し、明け渡し、委ねる。そうして、主の元から再び返してもらう。
それが十字架と復活の経験である。
神は、その人が主の元へ手放したもの、主の故に失ったものを復活させ、以前よりも遥かに優れた形で、栄光のいのちを伴った形で、返して下さるのだ。
それはアブラハム、イサク、ヤコブが経験した事であり、私達も経験すべき事なのだ。

ヨセフは父や兄達に助言する。
『もしパロがあなたがたを召して、『あなたがたの職業は何か』と言われたら、『しもべらは幼い時から、ずっと家畜の牧者です。われわれも、われわれの先祖もそうです』と言いなさい。そうすればあなたがたはゴセンの地に住むことができましょう。羊飼はすべて、エジプトびとの忌む者だからです」。』(創世記46:33-34)

なぜわざわざ、エジプト人に嫌われる事を言うようにと、助言したのだろうか。
それは、ヨセフはエジプト人の有様を良く知っており、エジプト人とイスラエルの家が互いに和合し、血が混ざり、宗教が混ざらぬように、と思ったからであろう。
実際そのお陰で、430年後にイスラエル民族がエジプトを脱出する時、エジプト人とユダヤ人ははっきりと区別されており、民族的・宗教的純潔がずっと保たれていた。

兄達も「この国に寄留しようとしてきました」とパロに言い(47:4)、自分達はエジプトに永住するつもりは無い、ただ神が定めた時まで寄留するだけのつもりだと表明した。
私達も、世に対しては寄留者であるとの意識を持つべきである。

『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。
愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。
異邦人の中にあって、りっぱな行いをしなさい。そうすれば、彼らは、あなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのりっぱなわざを見て、かえって、おとずれの日に神をあがめるようになろう。』(1ペテロ2:9-12)

近隣の聖徒から「皆でアイスを召し上がって下さい」と、ささやかな献金をいただいていたので、礼拝後、残った皆と一緒にアイスを楽しんでおります。

砂糖を使っていない、天然素材のみのフィリピンの(高級?)アイスで、とってもおいしいです。

また、ある聖徒からお祈りの要請の手紙をいただき、信仰による捧げものと共に主の御前に手紙を広げ、収めました。

イザヤ37章で、ヒゼキヤ王が万軍の主に依り頼んで大いなる救いを得たように、万軍の主が、依り頼む聖徒を救って下さいますように。

つながれていない神のことば(使徒16:16-34)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

パウロ達は、遠い道のりをさ迷った挙句、やっとピリピへと導かれ、そこでささやかな人数のいのちの刈り取りがあって、ほっとしたのも束の間、現地の人達に訴えられ、鞭打たれ、牢屋に入れられてしまった。
なぜ告訴人達は、パウロ達を訴えたのか。それは、もうける望みが無くなったから(19節)、すなわち、彼らの奴隷である占い女から、占いの霊を追い出したためである。
女は占いの霊に縛られ、占いで得たお金は、霊障のリスクを負わない主人たちに搾取される状態だった。
パウロの取った行動は彼女にとっては救いだったが、彼女の上司達のビジネスには損失であった。
今の時代でも、多くの日本人達が、時代の霊に引きずり回され、働いても働いても主人たちに中間マージンを搾取され、子育てやマイホーム資金もままならない人達が多いが、もし彼らが、主人たちが強いる労働を止め、彼ららしい生き方をするようになりだすとしたら、その主人たちには当然、望ましくない事である。
福音が伝わる所には自由があり、奴隷開放があるが、それが気に食わないという人達もおり、彼らが宣教者たちを迫害したり殺したり、奴隷にまつわり戦争を起こしたりするのは、歴史で見てきた通りである。

「それで二人に何度もむちを加えさせた後、獄に入れ、獄吏にしっかり番をするようにと命じた。」(23節)
もし私達も、もし、いのちのために起こした行動が災いで返って来てしまったら、何を思うだろう。
パウロは幾度も鞭打ちや牢獄、迫害に遭ったのに、それでもなぜ福音を伝えるのを止めなかったのか?
それは、無理してヤル気を喚起したからではなく、福音そのものには圧倒的ないのちの力があり、死はいのちに、病は健やかに、貧しさは豊かさに、取って替えられるからである。
福音ほど「おトク」な話は世のどこにも無く、伝えなければ災いだとさえ思える程、良き知らせだからである。

「真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。」(25節) この25節以降、なぜそうなるのか?と問いたくなるような事ばかりが続く。
なぜ打ち傷だらけで鎖に繋がれているのに、賛美を歌えるのか。なぜ悪人達が閉じ込められている獄舎で夜中に賛美しても、誰も文句も言わず聞き入るのか。なぜ賛美すると地震が起き、皆の鎖が解けるのか。
そして、鎖が解けて扉が開いたのに、なぜ逃げる人が一人もいなかったのか。また、なぜ看守は自殺しようとし、看守はなぜ、つい先まで自分が見張っていた囚人パウロにひれ伏し「先生がた・・・」と言うのだろう。
恐らくパウロ達は地震までに、囚人たちが一晩で変化するような行動を、起こしていたのではなかろうか。
すなわちパウロ達は、ぶち込まれた牢屋で、看守長にも聞こえるように福音を伝えていたのではなかろうか。
イエス様はどんなお方で、信じた者がこんなに救われ、自分達もイエス様にどんなに守られて来たのかを。
賛美は邪悪な者にはノイズだが、救われた者には、どんなノイズのような賛美でも、心揺さぶられる。
賛美の内に地震が起こり、鎖も解けてしまった。普通の悪人なら、ここぞとばかりに逃げるはずなのに、一人も逃げなかった、という事は、既に牢屋の皆は、圧倒的な主の力と愛に打たれていたのではなかろうか。

「パウロは大声で、「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」と叫んだ。」(28節)
当時のローマの法律では、囚人が逃げてしまった場合、看守はその囚人の罰を受けなくてはならない、という決まりがあった。だから、囚人が全て逃げてしまったと思った時、絶望して自殺しようとしたのだ。
彼は牢獄を見張っていたようで、実は、ローマの制度という牢獄に縛られていたのだ。
現代も当時と変わる事なく、空中の権威を持つ支配者達によって学校や会社、家庭も搾取され、縛られ、どうあがいても幸せになれない「見えない牢獄」にあえいで、自殺しようとしている人も、沢山いる。
福音は、有形無形の監獄にいる人を全て、救いへと導く。
パウロが獄中に居ながらにして、獄の中をいのちに満たしたように、私達も、救いの御言葉を伝える事によって、有形無形の牢獄に居ながらにして、そこをいのちで満たす働きが出来るのだ。
それは永遠の栄誉をもたらす、いのちの務めであり、それだからパウロは、福音伝道が止められないのだ。
獄から出るのが救いではない。イエス様こそ、獄や鞭、死さえも、決して無効には出来ない救いである。
イエス様を知れば知る程、伝えたくて仕方なり、たとい伝えなくても、普段の趣が、イエス様を証してしまう。
現代日本の全て監獄に囚われている人達を、一人でも多くイエスへと救い出す皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
聖絶のもの(ヨシュア7章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:はじめの七十人(創世記46:1-27):右クリックで保存

イスラエルの子孫が住むべき地はカナンだと神は指定されていたが、ヨセフが言うには、あと5年はききんが続く為、家族も家財道具も全てエジプトに移って住むように、という事だった。
果たして神が約束された土地を、ききんだからと言って離れて良いのだろうか、という迷いが、イスラエルにあったのかもしれない。
しかし神は現れ、その心配を払拭してくれた。

『この時、神は夜の幻のうちにイスラエルに語って言われた、「ヤコブよ、ヤコブよ」。彼は言った、「ここにいます」。神は言われた、「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下るのを恐れてはならない。わたしはあそこであなたを大いなる国民にする。』(創世記46:2-3)
神は、ヤコブ一家がエジプトにくだるのは御心だと、はっきりと教えてくれた。

「わたしはあなたと一緒にエジプトに下り、また必ずあなたを導き上るであろう。ヨセフが手ずからあなたの目を閉じるであろう」。(4節)
このことは、ヤコブはエジプトでヨセフの手の中で死に、死んだ後、約束の地へと戻る事を意味する。

神は、死んだ者の神ではなく、生きた者の神である。
アブラハムもイサクもヤコブも、今は肉体のいのちは死んでいるが、やがて私達信仰者は彼らと共によみがえらされ、共に天の食卓に与かるのだ。

今日の箇所を見ると、イスラエルの70人の子達全ての名前が登場するが、実に色々な場所で、色々な母親から生まれているのがわかる。
しかし、人が誰から、どの場所で生まれて、どの場所で死ぬのか、というのは、永遠の観点から見れば何も重要ではない。
むしろ、どなたにあって生き、どなたにあって死ぬのかが重要である。

アブラハムもイスラエルの12人の子達もメソポタミアで生まれたし、出エジプトの民60万人はエジプトで生まれたし、カナンを征服した世代は、荒野で生まれた。
むしろ、士師記の時代にカナンで生まれた世代が、神に不従順であった。
重要なのは、どなたにあって生き、どなたにあって死ぬのか、である。

『ヤコブと共にエジプトへ行ったすべての者、すなわち彼の身から出た者はヤコブの子らの妻をのぞいて、合わせて六十六人であった。エジプトでヨセフに生れた子がふたりあった。エジプトへ行ったヤコブの家の者は合わせて七十人であった。』(創世記46:26)

この時代、エジプトに入ったイスラエルの子孫達は、わずか70人だったが、430年後にエジプトから出る時は、成人男子だけでも60万にまで増えていた。
『ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。』(ヘブル11:12)
そのように、イスラエル民族が異国エジプトの地へ移されて増え広がる事は、アブラハムの代から、そのように定められていたのだ。(創世記15:13-15)

主は確かに、死んだも同然の者を生かし、わずかだった者を増え広がらせ、貧しい者を富む者とし、呪いの子を祝福の子へと造り替えて下さる。
しかし、神の目が注がれた民にとって、祝福とのろいは表裏一体であり、どちらに傾くかは、主の御声に聞き従うかどうかにかかっている。

イスラエルは確かに大勝利し、多くの土地を勝ち取ったが、しかし、後の時代の不従順によって、滅亡の危機も幾度も訪れた。
『あなたがたは天の星のように多かったが、あなたの神、主の声に聞き従わなかったから、残る者が少なくなるであろう。』(申命記28:62)
この言葉は、バビロン捕囚の時や、AD73年のユダヤ戦争において、また、近年では第二次世界大戦のホロコーストにおいて、成就した。
主の御声に聞き従う事こそ、祝福の前提条件であり、聞き従わない事は、呪いの前提条件となる。

御言葉にしっかりと服従し、大いに増え広がり、富む者となり、祝福された者となる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:備えられている途方も無い祝福(創世記45:16-28):右クリックで保存

ヨセフの兄弟たちが来た、という知らせは、パロと家臣たちを喜ばせ、パロは喜んでヨセフの兄や父のために便宜を図ってやった。
『わたしはあなたがたに、エジプトの地の良い物を与えます。あなたがたは、この国の最も良いものを食べるでしょう』。』(創世記45:18)

神がヨセフをエジプトへ送った意図は、苦労したヨセフを幸せに報いる、というよりも、大いなる救いをもってイスラエル一家を助け、イスラエルの子孫をその地に増やすためであった。(7節)
すなわち、ききんの時でもイスラエル全家には食事と住む所を整え、それも、パロが「家財に心を引かれてはなりません。エジプト全国の良い物は、あなたがたのものだから」と言う程のVIP待遇で彼らを特別扱いされた。

そのためにこそヨセフは、先にエジプトへ遣わされていたのだ。
キリストの次の言葉の通りである。
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネ14:1-3)

『まためいめいに晴着を与えたが、ベニヤミンには銀三百シケルと晴着五着とを与えた。』(創世記45:22)
かつてヨセフは、袖付きの長服を兄達に剥ぎ取られたが、ヨセフはそんな兄達に、晴れ着を着せてやった。
キリストも十字架上でくじで引かれ、服を全てを剥ぎ取られたが、彼が栄光の御姿で現れる時、新しい白い衣を私達に着せて下さるのだ。

『こうしてヨセフは兄弟たちを送り去らせ、彼らに言った、「途中で争ってはなりません」。』(創世記45:24)
兄達はヨセフと再会して後ずっと、自分達がかつてヨセフにした事を後悔し、父親が死んだ後もずっと彼を恐れ、心苦しい思いを長らくする事となる。
ヨセフとしては、兄がした事は神が忘れさせて下さったが、兄達はずっと良心の呵責に責められる事になったのだ。
私達も兄弟姉妹にした悪い事は、長い間良心の呵責に悩まされる事となり、また、天の御国に入った時、キリストにひどいことをした分が多ければ多いほど、主の御前に立つ時の恥ずかしさも、増し加わってしまうのである。

『彼らはエジプトから上ってカナンの地に入り、父ヤコブのもとへ行って、彼に言った、「ヨセフはなお生きていてエジプト全国のつかさです」。ヤコブは気が遠くなった。彼らの言うことが信じられなかったからである。そこで彼らはヨセフが語った言葉を残らず彼に告げた。父ヤコブはヨセフが自分を乗せるために送った車を見て元気づいた。そしてイスラエルは言った、「満足だ。わが子ヨセフがまだ生きている。わたしは死ぬ前に行って彼を見よう」。』(創世記45:25)

ヨセフを失っていたヤコブは、老い先短い未来に何の喜びも見いだせず、悲しみの内によみに下るとばかり思っていた。
何の望みも持てず失意に沈んで久しかった、そんな父に、喜びの知らせが、それも、途方も無いほど栄光の喜びがおとずれた。
主は、希望の持てない者に、見たことも聞いたこともないような祝福を備えて下さるお方だ。
『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』(1コリント2:9)

礼拝説教メッセージ音声:「神が」(創世記45:1-15):右クリックで保存

『そこでヨセフはそばに立っているすべての人の前で、自分を制しきれなくなったので、「人は皆ここから出てください」と呼ばわった。それゆえヨセフが兄弟たちに自分のことを明かした時、ひとりも彼のそばに立っている者はなかった。ヨセフは声をあげて泣いた。エジプトびとはこれを聞き、パロの家もこれを聞いた。』(創世記45:1-2)
ヨセフは、兄達やユダの高貴な趣を身につけた様を見、そして、彼らが父や弟を思いやる愛に満ちた弁明を聞き、もはや我慢ができなくなり、別の部屋にいるエジプト人達にも聞こえるほど大声で泣いた。
そして、いよいよ自分を打ち明けた。
「わたしはヨセフです。父はまだ生きながらえていますか」(3節)

ヨセフの人生をドラマとして見るならば、クライマックスに相当する場面である。
不当な扱いを受け、苦労に苦労を重ね、最底辺に落とされ、最高権力者へと上げられ、かつて彼を虐げていた兄と、大逆転の立場で再会するという数奇な運命。
ドラマ好きな人が好みそうなサクセスストーリーであり、ヨセフのようになりたいと漠然と憧れるキリスト者も多いが、もし、ヨセフのようになりたいのなら、彼が試練を受けていた時機、すなわち、兄に憎まれていた時期や、奴隷の時期、監獄にいたそれぞれの時期に、どなたを主とし、何を口で告白し、どなたを基準に行動したのか、という事に目を留め、それに見習って行動すべきである。

映画やドラマの中にも「神」はよく登場するが、その中で神が演じる役割は、人を面白おかしい運命へと導いたり、あるいは良い人をドラマチックな形で幸せに導き、あるいは悪い人をドラマチックに災いを下らせる、「一役者」のように描かれている。
しかし、あいにく神は、私達の人生をいろどる役者でも、願い事を叶える為の手段でもないし、私達の人生を面白おかしくドラマチックに演出する義理も、神には無い。

神は、全てを支配しておられる全能者、私達の主であり、主従関係において私達は従、神は主である。
そして神は、ひとり子の命を捨てるまでの愛をもって私達を愛し、私達を自由意志のある「子」として扱われ、たとい、私達の罪によって、せっかくの御業を台無しにしてしまっても、全てを益とし、最善へと導いて下さる、憐れみ深いお方なのだ。

『しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。”神は”命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。”神は”、あなたがたのすえを地に残すため、また大いなる救をもってあなたがたの命を助けるために、わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです。』(創世記45:5-7)

結局、全てを導いたのは、”神”である。
ヨセフは、表向き兄の手に陥り、奴隷としてひっ立てられて行った形だったが、実は、そこかしこに神の配剤があったのである。
神は、イスラエルの家全体を救うために、ヨセフを先にエジプトへ遣わし、その一連の役割を果たさせるためにヨセフを宰相へと任じた。
それに対しヨセフは、「父や兄を養う」という、神から与えられた使命を果たす為、宰相としての日々の職務を、忠実に全うしたのだ。

人は、お金持ちになったり権力者になったりする事を目標とし、それが達成したとたん神を忘れ、あるいは神をポイ捨てするような所があるが、私達を権力者にも囚人にも導く事のできるお方をこそ恐れ、愛の故にいのちを差し出して下さったお方をこそ、大切にすべきであり、与えらた祝福は、神が愛しておられる兄弟姉妹を養うために用いるべきである。

ポンテオ・ピラトがイエス様に「わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につける権威がある」と言った時、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。」と答えられた。(ヨハネ19:11)
その時、イエス様は誰よりも弱々しく、ピラトが誰よりも強いかのように見えたが、イエス様を低くされたのも、ピラトを高くされたのも、神であり、全ての権威は、上から与えられるものである。

「神のみ名は永遠より永遠に至るまでほむべきかな、知恵と権能とは神のものである。神は時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる。」(ダニエル2:21)
私達はただ、この全能の神にひれ伏し従うのみであり、いのちを差し出す程に私達を愛されたイエスを愛するのみである。

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