メッセージ - 201210のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ2:15-17:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:より優れた故郷を目指して(創世記50:22-26):右クリックで保存

神はヨセフに多くの権威と力を任せたが、それは、彼は諸々の試練を通して神の民としての品性を豊かに持つ者となったからである。
ヘブル11章には、信仰の偉人達の列伝が記されているが、ヨセフが人生の中で信仰を最も顕著にあらわした時は、臨終の時だったとヘブル書の記者は記している。
「信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。」(ヘブル11:22)

ヨセフの生涯を学んて来た私達は、ヨセフが信仰を現した所は他にもっとあるだろう、と思うかもしれない。
なぜヘブル書の記者は、ヨセフの臨終の時を、最も顕著に信仰が現している、と判断したのか。
それは彼は、エジプトで為した偉業や人々からの栄光などは全く眼中に無く、それより神の民に加えられる栄光の方が、遥かに優れたものだと、行動を持って示したからである。

『ヨセフは兄弟たちに言った、「わたしはやがて死にます。神は必ずあなたがたを顧みて、この国から連れ出し、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地に導き上られるでしょう」。さらにヨセフは、「神は必ずあなたがたを顧みられる。その時、あなたがたはわたしの骨をここから携え上りなさい」と言ってイスラエルの子らに誓わせた。』(創世記50:24-25)

ヨセフはここで「顧みて」という言葉を二度使っている。
普通聖書で「顧みる」という言葉を使う時は、良くない惨めな状態を神様が「顧みて」、そこから救い出して下さる、というニュアンスで良く用いられる。

ヨセフが死のうとしている時のイスラエル民族は、エジプト・ゴシェンの肥沃な地に定住し、破竹の勢いで増え広がっている真っ最中で、欠ける所も顧みられる必要も、何も無かったはずである。
藤原道長が『「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(満月)のように 何も足りないものはない」という意味)』(wikipedia)と詠んだ時のような状態であったはずだ。

しかしヨセフが「顧みて」と言ったのは、イスラエルの民が神の約束された地におらず、エジプトという異国の異教の地にいる事自体、救われる必要のある状態だったと知っており、いかに世の富に溢れ、自民族が強くなり、安泰であっても、神に顧みられてエジプトを脱出する必要があり、そして神は必ずそうして下さると確信していたのだ。
ヨセフはイスラエル民族繁栄の最大功労者であり、エジプトで偉大な功績を残したのに、そのようなエジプトの偉人として偉大な墓に葬られるなど、一切、眼中に無く、ただ彼の望みは、神の用意された約束の地にあったのである。
「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:16)
私達も真のふるさと、神の支配される天の王国に戻る事こそ、私達が何にも勝って求めるべきものである。

ヨセフに与えられた奉仕は”たまたま”エジプトの総理大臣だったが、便所掃除の奉仕も、ちり一つ拾うような事さえも、イエスキリストの故に為すなら、尊い奉仕である事には変わりない。
ただ、尊い事に用いられる器、卑しい事に用いられる器は、確かにある。
『神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあります。また、ある物は尊いことに、ある物は卑しいことに用います。
ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。』(2テモテ2:19-21)
もし神の御前に尊い事に用いられたいのであれば、不義を離れ、自分自身をきよめる事である。


いよいよ今回で、創世記の学びは最後である。
創世記の3章から黙示録までは、実に、神と人とが永遠に共に住めるまでに整えるための贖いの歴史であり、それは黙示録21章で完成する。
人が神の言葉に逆らって、罪と死の呪いを全被造物に招いてしまった所から、いかに人を贖い、救うか。それが聖書の概要であり、その最重要キーパーソンは、イエスキリストである。

イエスキリストの預言は、人が堕落した直後、創世記3章15節にて早くから為されている。
「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15)
この「女の子孫」を世に送り出すために、一人の人すなわちアブラハムを神は選び、アブラハムから神に贖われた一つの民族を興し、その民族が、エジプトのゴシェンの地で大いに増え広がりを見せようとする所で、創世記は終わる。

人の道は、エデンの園以来、二つに一つである。
すなわち、神の言葉に従順して神主体で生きるか、それとも、神の言葉を退け、自分主体で生きるか。
神の民は、自分を退け、神の御言葉を優先させて生きる民であり、アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフは、その性質へと整えられ、その品性に生きた。
私達も彼らのように、地上の事は思わず、天の故郷を目指しつつ、神と共にこの地上を生きるのである。

創世記修了!

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2012-10-23 23:50

本日で創世記の学びが終わり、明日から出エジプト記に入ります。

主が本当に多くを創世記から得させて下さった事を感謝します。

今日もまたベツレヘム祈祷院に教会の皆と一緒に行き、リフレッシュして来ました。

彼らの証を聞くと、本当にどこを切ってもイエス様ばかりが出てきます。

イエス・キリスト。この御方こそ、私達の救いの力です。

ベツレヘム祈祷院: http://bethlehemchristchurch.web.fc2.com/index.html

礼拝説教メッセージ音声:どうして私が神の代わりでしょうか(創世記50:15-21):右クリックで保存

創世記50章でヨセフは、2回泣いている。
まずは父が死んだので泣いた(1節)が、17節では、兄達の「過去の事を赦して欲しい」という言葉を聞いて泣いた。
『ヨセフの兄弟たちは父の死んだのを見て言った、「ヨセフはことによるとわれわれを憎んで、われわれが彼にしたすべての悪に、仕返しするに違いない」。』(創世記50:15)
ヨセフはもはや兄達の故に負った苦労の日々は、神が忘れさせて下さったのに、兄達は、何十年も前にヨセフにしてしまった事を、未だに引きずっていたのである。

誰かから受けてしまった災いは、神が慰めて下さる事で忘れられるが、自分が誰かにしてしまった災いは、その人が目の前にいる限り、良心の呵責に悩まされ続ける事になってしまう。
キリストが十字架で裂かれた手足の傷跡は、永遠に残っている。
私達が天の御国でキリストを見、私達がつけたその手足の傷跡を見る度に、主の驚くべき赦しと恵み故、永遠に頭が上がらないのである。

『ヨセフは彼らに言った、「恐れることはいりません。わたしが神に代ることができましょうか。』(創世記50:19)

裁きは神の領域である。
そもそも、神がヨセフを総理大臣の地位に着かせた理由は、大いなる救いによって父イスラエルの全家族を救うためであった。
それなのに、どうして父が死んだ途端、その父の家族たちを滅ぼすような事ができるだろうか。
それは、神に対する大いなる反逆である。

ヨセフは、豊かに赦した。
ヨセフは、そのような品性であったからこそ、大きな権威と力が与えられたのだ。
もし赦さない者だったら、神が祝福し生かそうとしている兄達とその家族を、その権威でもって滅ぼしていたであろう。
そのような、赦さない者に、どうして神は、御心を行使するための権威を与えられるだろうか。
憐れみの無い者に、どうして神は力を与えるだろうか。

赦す事、それが御国の子の品性である。
赦す事によって、怒りや憎しみの束縛から開放され、より人生を有意義に過ごせる。
『むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ 12:20-21)

赦す事には多くのメリットはあるが、赦さない事は百害あって一利なしである。
『あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。』(ヤコブ2:13)

私達は、一生働いても返し切れない罪の負債を、主に赦してもらった。(マタイ18:21-35)
多くを赦されたからには、私達も、兄弟姉妹を赦してやるべきである。

霊的権威に従うなら(使徒19:11-20)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

「神はパウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。 たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。」(使19:11)
病が癒されたり悪霊が追い出されたりするのは、イエスキリストを信じる信仰が必須であり、キリスト抜きのパウロ信仰や牧師信仰、キリスト抜きの前掛け信仰やアイテム信仰には、何の力も無い。
「信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。」(ヤコブ5:15)とある通り、信仰による祈りは、人の病と罪を救う。
しかし、「癒す側」の信仰よりも、「癒される側」の信仰のほうが、もっと大事である。
12年長血を患っていた女は、 「この方の服にでも触れればいやしていただける」という信仰ひとつで、イエス様に気付かれぬまま、後ろから癒しを分捕ってしまったし(マルコ5:28)、ツロ・フェニキヤの女も、イエス様には悪霊を追い出すつもりは無いのに「主よ、お言葉どおりです。でも、食卓の下にいる小犬も、子供たちのパンくずは、いただきます」という言葉で、悪霊を出て行かせてしまった。(マルコ7:24-30)

キリストとサタンとの間には、厳然たる権威的な上下関係が存在し、主イエスキリスト、及び、キリストを信じる私達は、勝利者の側、支配者の側、権威的に遥か上にあり、サタンや悪霊、病は、遥か下なのだ。
軍隊の上官が二等兵に便所掃除を命じるなら、二等兵はそうするしか無いように、悪霊やサタンも、私達キリスト者の信仰によって命じる事には、従わなくてはならない。
しかし、警察官が制服を着ずに車を止めようとしても、車は止められないように、私達も、イエスを信じる「信仰」を帯びずには、その権威は行使できないし、おどおどしながら暴力団に警察手帳を見せても舐められてしまうように、しっかりと信仰に根ざす事なくイエスの名を持ちだしても、悪霊に舐められてしまう。
ユダヤの祭司長スケワの7人の息子達は巡回祈祷師であったが、試しに、悪霊に憑かれていた者に向って「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた所「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」と言い返され、傷を負わされ、裸にされ、七人ぞろぞろと逃げて行くはめになった。(13-16節)
ここで分かるのは、霊との戦いにおいては、その人の素性や力、人数などは一切関係無く、ただイエスを信じる信仰だけが大切であり、口先だけでイエスの名を唱えた祭司長の息子祈祷師七人よりも、子犬呼ばわりされてなお信仰告白したツロ・フェニキヤの女一人のほうが、悪霊にとっては、よほど怖いのである。

その事がエペソ中に知れ渡って、恐れが生じ、主イエスの御名をあがめる悔い改めが湧き起こり、多くの者が信仰に入って、自分達のしている事をさらけ出して告白した。特に、魔術を行なっていた者達が、その書物をかかえて来て皆の前で焼き捨て、その総額は3〜5億円(銀貨5万枚)に相当した。(17-20節)
魔術は悪霊の力を用いるため、それに支配され、他人や自分を不幸に陥れるが、イエスは絶対的な権威を持ついのちの君であり、人を生かし、健やかさといのちを与える。
そのいのちは、死を圧倒的に飲み、暗闇を圧倒的な光で照らし出す、圧倒的な権威の主である。
その霊的権威構造がエペソの人達に分かったから、誰かに売ったりせずに、焼き捨てたのである。
「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである」(エペソ5:8-9)
こうしてエペソは、神への恐れと悔い改めによって、暗闇の力が破られ、いのちが増え広がった。
もしまだ暗闇につきまとわれたり、イエスの名を用いても悪霊に負かされるかのような日々を送っているなら、神を恐れず傲慢に生きていないだろうか。悔い改めという方向転換は、為されているだろうか。それまで頼って来た、キリスト抜きの生き方という「高価な魔術の本」を手放さずに隠し持っては、いないだろうか。
隠れた傲慢を悔い改め、自分のしている事をさらけだし、隠れた魔術本を焼き捨てるなら、エペソでいのちの言葉が力を増して増え広がったように、私達にも、いのちが増え広がるのである。
パウロはエペソの聖徒達に勧めた。悪魔の策略に対抗して立つために、神の武具で身を固めよと。(6章)
真理の帯、義の胸当をつけ、平和の福音を履き、信仰の大盾を取り、救の兜を被り、御霊の剣を取れ、と。
権威に従い、霊的武具を取って悪魔と戦い、勝利といのちを豊かにもたらす皆さんでありますように!

本日は遠くのある姉妹から、ある足の悪い聖徒にと、やさしいスニーカーを送っていただき、また、これから冷えるので、と、電気毛布も送っていただきました。

お心遣い、主イエスにあって感謝します。

他にも、ここでは公開できないような捧げものをして下さった聖徒たちにも、主イエスの祝福が豊かにありますように!

ピリピ4:17-21
あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。
贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。
わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。
わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。
わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
的を外さない歩み(1ヨハネ3:6-11):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:いかに生きるかではなく、いかに死ぬか(創世記50:1-14):右クリックで保存

『ヨセフは父の顔に伏して泣き、口づけした。』(創世記50:1)
ヤコブは子供たちの後の有様を預言して祝福し、そして自分の遺体を約束の地へ戻すよう指示し、最後に足を床に入れて先祖の列に加えられた。
その地上での生涯を閉じる有り様は、あまりに尊厳に満ち溢れ、ヨセフは泣いて口づけした。

「そしてヨセフは彼のしもべである医者たちに、父に薬を塗ることを命じたので、医者たちはイスラエルに薬を塗った。」(同2節)
父の遺言では、彼の遺体はカナンで父祖アブラハムが買った墓地に葬るように、という事だったため、そこへ運ぶ上で腐敗させないように薬を塗らせた。
口語訳では「薬を塗る」だが、この言葉は「ミイラにする」、あるいは「防腐処置をする」とも訳せる。
ミイラにする時は通常、呪術的な儀式も行われていたものだが、ヨセフはそれを避けるため「医者」に防腐処置を施させたのだろう。

ヨセフはパロにねがい出た。
『わたしの父はわたしに誓わせて言いました「わたしはやがて死にます。カナンの地に、わたしが掘って置いた墓に葬ってください」。それで、どうかわたしを上って行かせ、父を葬らせてください。そうすれば、わたしはまた帰ってきます。』(同5節)

パロは喜んで送り出した。それも、宮廷の元老である重臣たち全てと、全国の長老たち全て、また、戦車も騎兵も多く共に上って行ったので、それはまことに盛大な行列となった。
その葬儀は、パロが死んだ時に行う国葬に匹敵するレベルのもので、その追悼の式は7日も続き、あまりに荘厳で、それを見ていた現地の人が驚いて「アベル・ミツライム(エジプト流の追悼の儀式)」という名前をその場所につける程だった。

本日の箇所を読むと、なんだか壮大なエジプト流の葬儀を行った、という印象だけが残るが、父ヤコブは「荘厳な葬儀を行なって欲しい」などとは一言も言っておらず、単にマクペラの墓地へ先祖たちと共に葬って欲しい、と言っただけだった。(創世記49:29-32)
そこにはアブラハムと妻サラが、イサクと妻リベカが、また、自分の妻レアが葬られているから、そこに加えて欲しい、と。

七十日もの間喪に服したり、一つの遺体を運ぶ為に、大勢の群衆が500km以上もの距離を戦争さながらの行進をするのは、やりすぎとも思えるかもしれないが、古代エジプト人の「死」に対する姿勢には、他の文明では類を見ないほどのこだわりがあり、それは「死者の書」の詳細かつ膨大な資料や、ピラミッドという墓の巨大さ、ミイラ技術の発達などを見ても、エジプト人の「死」に対する強い恐れとこだわりを見て取る事が出来る。
肉体が死んだ者のために、これだけ大規模な葬儀をするなど、ナンセンスの極みだとヨセフも知っていたでろうが、エジプト人たちの自分達への好意を無駄にしないため、躓かせないために、あえて行ったのだろう。

エジプトの王族が自分の死体をミイラにするのは、神々がよみがえったように自分も将来たましいが戻ってくるための「からだ」を保存しておくためで、それは王族の特権だった。
しかし後の新たな信仰では、生前正しい行いをした者なら誰でもよみがえりの特権が与えられるようになり、死者の書も一般向けに売られ、ミイラ職人も増え、ミイラが安置される墓の壁面には、死後の審判で神々に好印象を持っていただくために、生前に成した「良いこと」がびっしりと記され、それが現在我々が見るエジプトの墓美術である。

それを考えると、私達はイエス・キリストの父なる神に感謝がこみ上げてくる。
私達キリスト者は、何も荘厳な追悼式を行わなくても、ミイラになって将来生き返る準備をしなくても、また、大勢の人を動かして、遺族やしもべを使って巨大な墓を建てさせる必要も、全く無い。
地上は執着するような所ではなく仮の住まい、地上では旅人であり寄留者である。
よみがえりは一部の特権階級のものではなく、信じる者には誰でも与えられる特権であり、信じる私達の国籍は天にあり、天の故郷に思いを寄せつつ、地上での歩みを為すのだから。

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)

私達・信仰にあるアブラハムの子孫、すなわちキリスト者は、死に対してなんと楽観的になれる事だろう。
アブラハムが地上で買い取った土地は、墓地だけだった。同じように、私達も地上で必要なのは、墓地だけである。
どういう事かというと、私達の信仰生活は、キリストと共に十字架で死ぬ事から始まり、日々十字架を負って自分に対して死ぬ事でキリストが私達の内に生き、キリストのいのちにあって、私達は日々生きるからである。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)

結局、この地上では、いかに生きるかではなく、いかに死ぬかが大事なのだ。

礼拝説教メッセージ音声:信仰者の集いへと帰ったヤコブ、帰る私達(創世記49:28-33):右クリックで保存

イスラエルは12人の子達を祝福し、最後に、自分の葬りについて指示した。
『わたしはわが民に「加えられ(アゥサフ:集められ、受け入れられ)」ようとしている。あなたがたはヘテびとエフロンの畑にあるほら穴に、わたしの先祖たちと共にわたしを葬ってください。』(29節)

彼が死にあたり厳重に誓わせた事は、自分を決してエジプトに葬らせない事、エジプトから必ず運び出して、先祖たちの墓へ葬って欲しい事だった。(創世記47:29-30)
彼は、当時最も富み、最も強かったエジプトの総理大臣の父として、エジプト最高の墓に葬られようなどとは、つゆだに願っておらず、父祖たちが葬られている墓へ自分も葬られ、信仰に歩んだ先祖たちの集いに入る事をこそ望んでいた。
なぜなら、信仰に歩んだ先祖たちに加えられる事が、どれほど栄光に富んだ事か、エジプトの栄光など遥か足元にも及ばない永遠の偉大な栄光がその先に待っている事を、彼は知っていたからである。

『こうしてヤコブは子らに命じ終って、足を床に「おさめ(アゥサフ)」、息絶えて、その民に「加え(アゥサフ)」られた。』(創世記49:33)
ヤコブは遂に、罪深く苦難続きだった地上での生活から解放され、信仰の先人たちの所へ、永遠の安息へと入った。

「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。」(ヘブル11:13,16)

私達・信仰者が行くべき所が、どれほど栄光に富んだ所であるのか、加えられるべき民がどれほど素晴らしいかを、はっきり思い描く事が出来るなら、私達の地上での人生は、とても有意義なものへと変わって行く。
それがはっきりすればなるほど、それを私達に用意して下さった主イエス様への感謝と賛美に溢れ、地上のどんな栄光も富もかすんでしまうからである。

パウロもエペソ人への手紙の中で、祈っている。
「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。」(エペソ1:17-19)

私達も、祈るべきである。
主がどれほど素晴らしいか、主が用意しておられる御国がどれほど栄光に富んだものであるのかを、もっともっと知ることが出来るように。

信仰によって歩む人の行先は、決まっている。それは、アブラハム、イサク、ヤコブの食卓である。
『あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」』(マタイ8:11-12)

信じた事でアブラハムの子孫とされたと甘んじ、安逸をむさぼり、行いという実体が伴わず、信仰の実を全く結んでいない「御国の子ら」は、外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりする。
歯ぎしりという行為は、くやしいからするものである。
地上で共に信仰生活をして来た人達が、アブラハムの食卓に連なっているのを眺めながら、自分だけそこに加われず、外の暗闇に放り出されてしまう事のくやしさは、一体どれほどのものだろうか。

『それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。』(同13節)
この百人隊長は、イエスがどんな権威あるお方であるのか、すなわち、イエスは悪霊や病をも動かす遥かに高い権威者であると信じ、実際に口で告白したため、「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」と褒められた。

百人隊長のように、主イエスこそサタンや死にも勝利される救い主であると信じ、主を主として地上での日々を歩むなら、やがて私達も、ヤコブや百人隊長など信仰の先人たちが連なっている、あの天の食卓へと加えられるのである。

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