メッセージ - 201209のエントリ

台風ですが

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礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2012-9-30 21:56

今、横浜では台風のまっただ中ですが、箴言の学びで恵まれ(台風なのに11人も残りました)、その後サムギョプサルパーティーで盛り上がり、ある聖徒は、教会に泊まり込みで交わって、始発で帰ろう、という聖徒もおります。

教会の外は台風、中は交わり、という状況。なんだかワクワクします。

忍耐して蒔き続けよ(使徒16:6-15)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

若き助け手テモテを仲間に加えたパウロ達は、いざ多くのいのちを刈り取らん、と、アジヤへ繰り出して行ったが、あちらに行っては御霊に阻まれ、こちらに行っても阻まれ、そうしてはるばるトロアスまで来た。
使徒16章6-8節の、わずか3節で記されている行程は、千キロは超えているはずで、交通手段の発達していない当時としては、途方も無い距離である。
行く所行く所、御霊によって阻まれ、たましいの刈り取りができず、思っていたようなミニストリーもうまく行かず、行くべき所も長い間示されない働き人達には、どれほどの苦労、落胆、苛立ちがあった事だろう。

パウロはアジアでの宣教、魂の刈り取りに情熱を持っていたが、実は、それは主の御心とは違う所だった。
ある夜、主から示された幻があり、その中で一人のマケドニヤ人が現れ、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願していた。(9節)
耕されていない畑に種を蒔く働きは不毛であり、救われて欲しいという懇願が無い者を救う事は、難しい。
人の目には見えないが、主が示す地こそいのちの穂が熟し、働き手による刈り入れを待っているのである。
導きが示されたなら、握りしめていた自分のビジョンを捨てる事に、躊躇すべきではない。
彼らは早速、トロアスから船出し、ネアポリスからマケドニヤのこの地方第一の都市、ピリピへと行った。
しかし、そこにはユダヤの会堂は無かった。ユダヤの会堂が立つには最低10人のユダヤ人男子が必要で、ピリピには、主を敬うユダヤ人男子は10人もいなかった、という事である。
会堂が無い場合、神を敬う人達は、川岸の適当な場所(身体を清める等に適すため)で安息日の礼拝を行う。パウロ達はなんとかその場所を見つけたものの、そこには、女達しか集まって来なかった。
パウロ達にしてみれば、ピリピに至るまで千キロ以上もさ迷い歩いた挙句、やっと到着したその所は、会堂も無く、祈り場に集うのも女達だけという霊的僻地で、がっかり続きだったかもしれない。
しかし主には、人知を遥かに超えたご計画があり、主の時が満ちた時、主は働き人を用いて実行される。

パウロがそこで福音を語った時、主は、テアテラ市の紫布の商人でルデヤという神を敬う婦人の心を開き、彼女もその家族も共にバプテスマを受けた。『その時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。』(使16:14-15)
パウロ達は、ルステラから千キロ以上の道のりと労苦の末、やっと、たましいの刈り取りが出来、働き人達が温かいもてなしを受け、安息できる「家の教会」が、この時建った。
この「ピリピ教会」は、パウロにとって実に思い入れのある教会となり(ピリピ1:1-6)、後にこの教会は成長して、監督や執事も立てられ、パウロの働きのために物質的援助をするまでに成長した。(ピリピ4:14-20)

ピリピで教会が建つまでのミニストリーは、多くの苦労と落胆、苛立ちがあったが、実は、パウロ達がアジヤからヨーロッパに渡り、ピリピに教会を設立した事は、後の歴史を大きく揺るがす重要な出来事である。
ヨーロッパ。その後、福音が大いに広められ栄えた地域であり、キリスト教抜きに、その歴史は語れない。
ピレンヌという歴史学者は、ルデヤの家の教会が建った瞬間、ヨーロッパ文明社会そのものが始まった、とさえ言っている。このささやかな、ルデヤの家の教会こそ、ヨーロッパ文明発祥の地となったのだ。
ノアは「神がヤペテを広げ、セムの天幕に住まわせるように。」(創世記9:27)と預言していたが、キリスト以降、ヤペテの子孫(白色人種)に福音が最も普及し、結果、セム(ユダヤ)の恩恵を最も受けた民族となった。
「お前は聞いたことがないのか/はるか昔にわたしが計画を立てていたことを。いにしえの日に心に描いたことを/わたしは今実現させた。」(イザヤ37:26)
私達のビジョンと、主のビジョンが違っていると分かったら、すぐに自分の方法を捨て、主に従うべきである。
もしすぐに示しが与えられないとしても、忍耐強く御心を求め続けるなら、いずれ私達が行くべきマケドニヤへと導かれ、建てるべきピリピ教会が建ち、後にはヨーロッパの救いへと発展するのである。
私達が建てるべき「ピリピ教会」は、何だろうか。救うべき「マケドニア人」は、どこにいるだろうか。
主に導きを求め、目に見える刈り取りが見えなくても忍耐して導きに従い続け、後には、委ねられた「ピリピ教会」を建て、「マケドニア人」を救う皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
イスラエル一番の信仰者(マタイ8:5-13):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:仮面の食宴(創世記43:16-34):右クリックで保存

『ヨセフはベニヤミンが彼らと共にいるのを見て、家づかさに言った、「この人々を家に連れて行き、獣をほふって、したくするように。この人々は昼、わたしと一緒に食事をします」。』(創世記43:16)

ヨセフには、彼らを捕らえて陥れるつもりは一切無かったのだが、彼らは宰相の家に連れて来られた事に恐れを抱き、あの、自分達に戻されていた銀の事で、自分達は捕らえられてしまうのではないか、と恐れた。
そこで、彼らは予防策として、宰相の家の管理者に、正直に今までのいきさつを事を話した。
すなわち、以前食料を買いに来た時に、支払ったはずの銀がなぜか戻されていた事、その事は自分達には全く身に覚えは無く、誰がそれをしたのか分からない事を。
それに対し、このエジプト人の管理人からは意外な応えが帰ってきた。

『彼は言った、「安心しなさい。恐れてはいけません。その宝はあなたがたの神、あなたがたの父の神が、あなたがたの袋に入れてあなたがたに賜わったのです。あなたがたの銀はわたしが受け取りました」。』(創世記43:23)
なんと、このエジプト人のしもべは、自分達が恐怖のあまり忘れかけていた「神(エローヒム)」を言葉に出し、しかも、彼らの「父の神」がそれをしてくれた、と言ってくれたのだ。

自分達がおそれ、自分達の父もおそれている「神」を、なんとこのしもべは知っており、しかも、支払うべきものを正直に支払う、という「義の対応」をしたら、彼らもしっかり義で返してくれた事から、どうやらこの宰相の家では、上から下まで「神」についての教育がしっかり行き届いているようだ。
兄達は、この家が神を恐れる家であり、また、捕らえられていたシメオンも無事に返された事に、彼らはどれほど安堵した事だろう。

「さてヨセフが家に帰ってきたので、彼らはその家に携えてきた贈り物をヨセフにささげ、地に伏して、彼を拝した。」(創世記43:26)
ヨセフが帰ってきて、真っ先に尋ねたのは、父の安否だった。
そして、同じ母の子であるベニヤミンを20数年ぶりに見た時、「わが子よ、どうか神があなたを恵まれるように。」と、感涙が込み上がり、奥の部屋に行って、そこで泣いた。

どうやらヨセフは、兄達が憎くて意地悪をしたのではなく、本当は兄達と早く平和な交わりをしたい、けれども、兄達の本性や家の様子がまだ明らかになっていないため、敢えて、荒々しい態度を取って試していた、と思われる。
私達も、主から諸々の試練をいただくことがあるが、主は好きこのんで私達を苦しい目に遭わせたり荒々しく対応したりするのではない。
むしろ子として扱って下さるからこそ、敢えて厳しい所を通らされる事もあるのだ。

『そこでヨセフはヨセフ、彼らは彼ら、陪食のエジプトびとはエジプトびと、と別々に席に着いた。エジプトびとはヘブルびとと共に食事することができなかった。それはエジプトびとの忌むところであったからである。』(創世記43:32)
エジプトには牛や羊の神々がおり、それらは特別な動物として庶民は食さなかったが、ヘブル人は平気で飼ったり食したりしてしまうため、エジプト人がヘブル人と食事を共にする事は、忌み嫌われる事だったようである。

『またヨセフの前から、めいめいの分が運ばれたが、ベニヤミンの分は他のいずれの者の分よりも五倍多かった。こうして彼らは飲み、ヨセフと共に楽しんだ。』(創世記43:34)
最初は恐怖に満ちていた兄弟達だったが、最後にはリラックスして共に楽しむ事ができた。

ヨセフとしても、本当は兄達ともっと平和で打ち解けた食卓を望んでいた事だろう。しかし彼はまだ自分の身を明かせず、真の家族の食卓に入れなかった。
まだ兄達の心の内が明らかにされておらず、「試しの期間」が終わっていないからである。

私達も、地上の歩みは、天の食卓にあずかる前の、試験期間である。
まだキリストとの真の食卓には預かれないが、主は、私達が無事この地上での歩むべき道のりを全うし、天の食卓に加わるに相応しく整えられるのを待っておられる。
日々、キリストにあって成長し、働き人として、子として、一日も早く整えられる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:イエスの手に委ねよ(創世記43:1-15):右クリックで保存

愛する末息子・ベニヤミンをエジプトへ送り出すのを渋っていたヤコブだが、食料も尽き、とうとう決断しなくてはならない時が来てしまった。
そこで進み出たのは、ユダだった。
『ユダは父イスラエルに言った、「あの子をわたしと一緒にやってくだされば、われわれは立って行きましょう。そしてわれわれもあなたも、われわれの子供らも生きながらえ、死を免れましょう。わたしが彼の身を請け合います。わたしの手から彼を求めなさい。もしわたしが彼をあなたのもとに連れ帰って、あなたの前に置かなかったら、わたしはあなたに対して永久に罪を負いましょう。』(創世記43:8-9)

前章では、ルベンが、あの子を連れ戻す事に失敗したら私の二人の子を殺してください、と言って、ベニヤミンを自分に託すように促したが、ヤコブは断った。
対してユダは、自分があの子の保証人になるので、ベニヤミンを託して下さい、と申し出た。

例えば、わたしに事業を任せて下さい、と願い出る二人がいるとして、「もし失敗したら、私は自分の子を殺す所存です」と言う人と、「もし失敗したら、私が一生働いてでも損失を補填します」と言う人と、どちらに任せたいだろうか。
ユダは、後者のような立場を取ったのだ。
保証人を引き受けるとは、もしその人が何か間違いを犯しても、自分が身代わりとなって償いをします、と言うようなものである。
ヤコブはユダの言葉を信頼し、ベニヤミンを彼に委ねる事にした。

ユダは、キリストの先祖であり、キリストの型でもある。
彼は父に対して末息子の保証人となり、弟の身代わりを引き受けたが、私達にもまた、キリストが保証人となって、私達の身代わりを引き受けてくださっておられる。

この時、父は「ヤコブ」という呼び名ではなく「イスラエル」という呼び名を用いられている。
彼は大体の場面において、人間的な行動を取る時はヤコブ(前章)、信仰によって行動する時はイスラエルと呼ばれている。
彼はこの土壇場の時、わずかばかりの信仰を奮い立たせたのだ。

『どうか全能の神がその人の前であなたがたをあわれみ、もうひとりの兄弟とベニヤミンとを、返させてくださるように。もしわたしが子を失わなければならないのなら、失ってもよい」。』(創世記43:14)
イスラエルの口から「全能の神」という言葉を聞いたのは、久しぶりである。
そして彼は、その人(エジプトの宰相)を全能の神が憐れみの内に支配して下さるようにと祈り、また、兄弟達の全行程が守られるよう、祝福を祈った。
やはり家長イスラエルは、こうでなくてはならない。
もっとも、初めからそうしていれば、ユダの言っている通り、もっと早くに解決していたのであるが。

ある女性が、小学校の遠足で、次の事を体験した。
山の中で、吊り橋を渡らなければならなくなったのだが、彼女は怖くて渡れず、彼女の組の生徒が全て渡り終えても、彼女は渡れないままだった。
次の組、そのまた次の組と、生徒たちはどんどん渡って行くのに、彼女だけは、相変わらず渡れない。
そして最後の組みも渡り追え、いよいよこちら側には自分と校長先生のみ、あちら側には自分以外の全部が待っている、という状況になってしまった。
校長先生は「さあ、もう渡らなくてはならないよ。」と言うのだが、彼女は怖くて震えている。
「ほら、手を取ってあげるから、私だけを見て、手をつないで一緒に行こう」と言い、彼女はついに意を決して、恐る恐る、校長先生に手を引かれて一緒に一歩一歩歩み、ついに無事に渡り終える事が出来たという。

今、皆さんの中にも、彼女のような状況の方は、いるだろうか。
ヤコブはいよいよ決断しなくてはならなくなった時、大事な子をユダの手に委ねて、信仰のあちら側へと渡る決心をした。
結果的にユダは、ベニヤミンもシメオンも無事取り戻しただけでなく、死んだと思っていたヨセフも、しかも、王族の接待と膨大な食料や宝も伴って、連れ戻した。

私達も、自分が手放したくなかった事の全てを主の御手に委ねるなら、さらに優れた形で取り戻すのである。
ヤコブにとってかけがえのないものは、末息子ベニヤミンだったが、あなたにとってのベニヤミンは何だろうか。子供だろうか。お金だろうか。何かの願い事だろうか。
それが何であろうとも、主イエスの御手に委ね任せるなら、主は、以前より遥かに優れた復活の形で、あなたの手へと取り戻して下さるのである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
獄中の宣教者(使徒16:19-34):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:早く楽になるためには、手放せ(創世記42:29-38):右クリックで保存

ヤコブの子達は父の元に帰り、エジプトでの事をありのまま話し、そして皆は恐れた。
『父ヤコブは彼らに言った、「あなたがたはわたしに子を失わせた。ヨセフはいなくなり、シメオンもいなくなった。今度はベニヤミンをも取り去る。これらはみなわたしの身にふりかかって来るのだ。(KJVでは、all these things are against me.)」』(創世記42:36)

ヤコブはこの時、自分が大切に握りしめているものが、どんどん指の間からこぼれ落ちて行き、最後の大切な末子・べニヤミンさえ喪失してしまうのではないかという恐れに満たされ、あたかも全ての物事が、自分に敵対しているかのように見えた。

『ルベンは父に言った、「もしわたしが彼をあなたのもとに連れて帰らなかったら、わたしのふたりの子を殺してください。ただ彼をわたしの手にまかせてください。わたしはきっと、あなたのもとに彼を連れて帰ります」。』(創世記42:37)
ルベンは、自分の二人の子供のいのちにかける事で、覚悟を表明したかったのだろう。
しかし「もし失敗したら」という話では、逆に心配を募らせるであるし、万一、ベニヤミンを失ってしまった時に、ルベンの子二人を殺した所で、ヤコブには何の慰めもメリットも無い。

ヤコブはルベンの言葉を拒否して言った。
「わたしの子はあなたがたと共に下って行ってはならない。彼の兄は死に、ただひとり彼が残っているのだから。もしあなたがたの行く道で彼が災に会えば、あなたがたは、しらがのわたしを悲しんで陰府に下らせるであろう」。

ヤコブは昔の生き方に、すなわち、自分の好きなもの欲しいものをつかんで離さない生き方に、再び戻ってしまった。
かつては、最愛の妻も子供も皆自分の元から去らせ、一人、主の御前に出て主ご自身と格闘し、イスラエルという新しい名と祝福を勝ち取った。
それなのに、神を掴もうとする生き方から離れ、世のものをつかもうとする生き方に逆戻りしてしまった。

神の方法は、いつでも死と復活である。
自分を十字架の死へと明け渡し、神から息吹かれる新しいいのちを着せられる「復活」を通して、人は新しく造り替えられ、罪は聖められ、いのちの祝福が与えられるのだ。
なぜ死と復活を経なくてはならないか?
それは、人は生まれながら邪悪で、一旦破棄せねばならないものだからだ。(ローマ3:10-18)

ヤコブは、ベニヤミンを愛していると言うが、それは他人を不幸に陥れる不健全な愛である。
そもそもの家族分離劇の原因は、ヤコブのその偏愛癖からではなかったか。
生まれながらの人間が、良かれと思って為す事は、大抵、どこかしらに歪みがあり、その歪みから誰かの不幸が生まれ、自分の不幸が生まれ、後悔が生まれていくのだ。

自分の願う事の一切を神に委ねて明け渡したアブラハムやイサクには、祝福と備えは、すぐに来た。
アブラハムは最愛の子イサクを捧げなさいと神に言われた時、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたため、一日の躊躇もなくイサクを捧げに行き、三日の行程の後、すぐにイサクを取り戻した。
イサクもまた、異邦人に井戸を奪われようとした時、争ったり自分を主張したりする事無く、すぐに手放した所、すぐに別の井戸が主から与えられる、という事が、二度三度あった。

それに引き換え、ヤコブは、かなり長い間、自分の願う事を掴んで離さず、苦しみの期間をいたずらに長く過ごしてしまった。
ヤコブは「握りしめて離さない」という生来の手癖が出てしまい、彼が偏愛していたラケルは奪われ、偏愛していたヨセフも奪われ、今偏愛しているベニヤミンも奪われようとしている。

彼は後に告白している。
『ヤコブはパロに答えた。「私のたどった年月は百三十年です。私の齢の年月はわずかで、ふしあわせで、私の先祖のたどった齢の年月には及びません。」』(創世記47:9)
掴んで離さない人生は、わずかで、ふしあわせで、先祖のたどった年月には及ばない。

私達も、楽になりたいなら、主の前で掴んで離さないものは、すぐに主の前に手放すべきである。
願いも、重荷も、大切にしているものも。
神に愛された人であるなら、神はその人から何もかも強制的に剥ぎ取ってしまった後、今度は、祝福を強制的にゆすり入れて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ1:1-4:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:悪夢を憐れみへ造り変えて下さる主(創世記42:18-28):右クリックで保存

ヨセフが兄達を試みるための厳しい言動には、憐れみの配慮も見え隠れする。
『三日目にヨセフは彼らに言った、「こうすればあなたがたは助かるでしょう。わたしは神を恐れます。もしあなたがたが真実な者なら、兄弟のひとりをあなたがたのいる監禁所に残し、あなたがたは穀物を携えて行って、家族の飢えを救いなさい。』(創世記42:18-19)

兄達はヨセフによって3日間牢獄に入れられたが、ヨセフは兄達によって、13年も奴隷となり、牢獄にいたのだ。
それと同じ罰を与えようと思えば与えられる立場にいたが、そんな事はしなかった。いや、出来なかった。
なぜなら、彼は「神を恐れる」者だからであり(18節)、神を恐れる者には、そのような事をしてしまえば逆に苦しくなるため、出来ないのだ。

ヨセフは兄達を試みた結果、多くの事を知ることができた。
長男ルベンは首謀者ではなくヨセフを弁護する側にいた、という事はあの時、10人の弟たちをあのように導いたのは長男の次に実権を持つ次男・シメオンという事である。
ヨセフはシメオンを縛って人質とし、残りの兄弟達は父親のもとに帰らせる事とした。

『彼らは互に言った、「確かにわれわれは弟の事で罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」。』(創世記42:21)
兄達は、今自分たちが災いに遭っている事を、悪くないのに不当な苦しみを受けたと主張したり運の悪さで片づけたり、八つ当たりの言葉を発したりする事をせず、「弟のことで罰を受けている」と言った。
義なる神が、かつて自分達がヨセフをエジプトで苦しい目に遭わせたのと同じ苦しみを、今、自分たちに味わわせておられる、と認めているのだ。
そしてあの時、弟の心の苦しみを見ながら聞き入れなかった事を後悔し、この苦しみに遭う事は当然であると、告白しているのだ。

きっとヨセフは長年、兄が殺意を抱き、憎み、売ろうとした、悪夢のような出来事を思い起こす度に、苦しんで来ただろう。
お兄さん達はあの時、自分が悪い事をしたという自覚が、少しでもあったのだろうか。それとも一片も後悔する事無く、安泰に暮らして来たのだろうか。
自分がどんなに苦しい思いをして来たのかを、兄達は思い起こす事があったのだろうか、と。

しかし、兄達がすぐ「ヨセフ」に結びつけて後悔した、という事は、ヨセフに悪い事をしたという良心の攻めにいつもつきまとわれていた、という事である。
父親の悲しむ姿をいつも見、家族全体が暗く悲しい、後悔に満ちた日々を送っており、そして、ヨセフがあの時どんなに苦しい思いをしていたのか、という後悔も、彼らに存在したのだ。
悪夢のように恐ろしかった兄達は、罪を後悔し悲しんで来た憐れむべき兄達に変わっていた。
長い間知るよしの無かった諸々の事を知ったヨセフは、一人離れて密かに泣いた。

『そしてヨセフは人々に命じて、彼らの袋に穀物を満たし、めいめいの銀を袋に返し、道中の食料を与えさせた。ヨセフはこのように彼らにした。』(25節)
ヨセフは銀を袋に返させたが、兄達はそれを災いとして受け止めた。
『彼は兄弟たちに言った、「わたしの銀は返してある。しかも見よ、それは袋の中にある」。そこで彼らは非常に驚き、互に震えながら言った、「神がわれわれにされたこのことは何事だろう」。』(28節)

兄達が恐れたのは、自分達を窃盗罪として捕らえる口実を作るために、それらの銀をわざと入れたのかもしれない、と思ったからである。
ヨセフは、そういうつもりで銀を入れさせたのだろうか?
43章23節のヨセフのしもべの言葉からすると、とてもそんな意図だったとは思えない。

むしろ、ヨセフは次のように思っていたのではなかろうか。
自分をエジプトの宰相にしたのは主であり、そのわけは、兄弟や父を食糧難から救い、生かすためである。(45章7-8節)
だから、穀物は決して兄達から代価を受け取るようなものではなく、父や兄達は銀を払うことなく食べてしかるべきものである、と。

20数年ぶりに再会した兄達からは、邪悪さの牙が抜かれ、カドが取れており、長年ヨセフを苦しめてきた兄達についての悪夢は、もはや消え去った霧となった。
主は必ず、主の民を取り扱われる。
いかに邪悪な者であろうと、その邪悪な性質を消毒し、人を傷つける牙を抜き、神の民にますます相応しく整えて下さるのである。
思い出したくもない悪夢のような過去も、主の愛の導きの日々により、憐れみと慈しみに満ちたものへと造り変えられるのである。
そして、傷を与えて来た者も、傷を受けて来た者も、双方を共にキリストにあって和解させ、共に主の御前で平和に生かして下さるのである。

礼拝説教メッセージ音声:真価が試される時(創世記42:1-17):右クリックで保存

ヨセフはいよいよ、兄と再会する。
その時、ヨセフは権威の座に着いており、兄達は顔を地につけて、ヨセフを伏し拝んでいた。
20数年も昔に、主が見させて下さった夢(37:6-11)の、そのままの光景であった。
かつて、その夢を兄に告げた時は反感を買ってしまったが、主は、ヨセフに示して下さった通りに成就して下さった。

兄達がヨセフには気付かなかったのは、ヨセフがあまりにも変わってしまったからである。
かつては弱々しく、兄弟達の中では最も生意気で蔑まれる存在だったのに、今や彼はエジプトの宰相であり、全世界が、彼の憐れみを乞う為に跪きに来る程になったのだ。
「あなたを苦しめた者の子らは、かがんで、あなたのもとに来、あなたをさげすんだ者は、ことごとくあなたの足もとに伏し、あなたを主の都、イスラエルの聖者のシオンととなえる。」(イザヤ60:14)

ヨセフは、イエス様の予表である。
彼は兄弟達から捨てられ、のけ者にされ、銀で売られ、父や兄たちの間では、死んだものと見なされた。
しかし、彼が父や兄たちから離れている間、ヨセフは彼らのために住む所や食べる所を整えており、ずっと後に、全く違った姿かたちで互いに対面をする事になる。
イエス様もまた、人々から嘲られ、十字架で捨てられた時は、人からは弱々しさの極みと見なされたが、やがて来られるイエス様は、力強く、栄光に富み、権威を帯びた御姿で現れるのだ。

ヨセフは兄達が来た時、すぐにそれだと分かったが、ヨセフはすぐ自分を打ち明ける事なく、見知らぬ者のように、荒々しく振舞った。
今までのヨセフのキャラクターとは随分違う、と思われるが、なぜ彼はそのような行動を取ったのか。
それは恐らく、16節で彼が言っている通り、兄たちに誠実さがあるかどうか、試すためであったのだろう。

ヨセフに子が生まれた時、「神がわたしにすべての苦難と父の家のすべての事を忘れさせられた」と告白した通り、彼は、父の家や兄達の暗い影をずっと引きずっていたのだ。
少しは「仕返し」をしたいという気持ちもあったのかもしれないが、兄たちが昔のまま、実の弟にさえ殺意を起こすほど邪悪な性質でないかどうか、また、実の弟ベニヤミンや、そしてお父さんはどういう様子なのかを、知りたかったのだ。

ヨセフは兄たちを、どこかの間者だ、スパイだ、と、一方的に決めつける事で、兄たちを試した。
同じように、主も、私達を試されるために、一見荒々しく、あるいは冷たく対応される事がある。

例えばイエス様がツロ・フェニキヤの女と出会った時の態度は、非常に冷たかった。(マタイ15:21-28)
イエス様は彼女を子犬呼ばわりまでしたが、女は「主よ、その通りです」と告白し、「でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と食い下がり、彼女の内にある信仰、すなわち、イエス様がどなたであり、どんなに恵み深いお方であるのかという信頼が表明され、明らかとされた。

イエス様が一見、そっけなく見える時や、荒々しく対応されるかのような時、私達は、培ってきた信仰の真価が試されている。

既に据えられている信仰の土台はイエス・キリストであるが、私達はその土台の上に金や銀、木や草、藁など、色々な材料で、信仰の作品を建て上げて行く。
それはやがて、試練の火によって、各々の信仰がどんなものであったかを、明らかにする。(1コリント3:10-15)

自分自身の肉の行いや、主イエス不在の頑張り、自分の好き勝手という「木や草、藁」で建てたとすれば、それらは試練の火に焼き尽くされてしまう。
そして、主イエスへの信仰によって建て上げて来た「金や銀」は、永遠に残る。

せっかく積み上げて来たものが燃やし尽くされてしまうのは、その時は恥ずかしく、悲しいかもしれない。
しかし、自分の欲やエゴなど不純物が混ざった恥ずかしい不純な作品が、神と人との前で永遠に晒され続ける事の方が、もっと恥ずかしい事である。
自分の不純な恥ずかしい作品は燃やし尽くされ、キリストにあって建てた純粋な作品だけが残される、というのは、実に、憐れみにほかならない。

イスラエルと12部族の父祖を見るに、創世記を読む限りでは、彼らの悪行の数々ばかりが目立ち、一体なぜ彼らが栄光の12部族になれたのだろう、と、不思議に思う事しきりである。
しかし、聖書の後の箇所を読んでいくと、彼らの偉大さばかりが印象に残るようになって行く。
それは主の憐れみであり、彼らの信仰による偉大な行いだけが永遠の書物に記され、肉の行いは、全て御前に忘れ去られて行ったからである。

私達も、今までの人生、恥ずかしい事や消し去ってしまいたい事もあるだろう。
しかし主は、からし種ほどの信仰を振り絞って私達が主に為した純粋な事だけを、永遠に残して下さるのだ。

信仰が試される時、自分自身の肉の行いや、主イエス不在の頑張り、自分の好き勝手という不純物は、全て燃やしていただき、ただ主にあって純粋な、永遠に残る栄光の作品を建て上げていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

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