メッセージ - 201207のエントリ

今日は暑い中の平日でしたが、教会は賑やかでした。

公なアナウンスはしておりませんでしたが、火曜〜金曜までの昼13時より、賛美と祈りの集会を行なっております。

公なアナウンスをしていなかったのは、それは自然発生的に始まり、気づいたらそれが習慣的になっていたからです。

それで今日も賛美と祈りをし、その後ある兄弟の洗礼準備会でした。

その後、6人ばかり残って夕食の料理をし、おいしいステーキを皆でいただきました。

皆で同じ料理を作り、同じ食卓を囲み、同じ主を礼拝する事のは、千日にも勝る楽しさです。

「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」
詩篇133篇

教会が好きで、交わりが好きで、聖徒たちが自然に集まってくる教会。

とても幸いな日々を、生かされております。

礼拝説教メッセージ音声:父の信仰の故に守られる(創世記26:1-11):右クリックで保存

アブラハムの時代、彼は飢饉という試練を通して精錬されたが、イサクもまた同じく飢饉という試練が与えられた。
その試練が訪れた時、イサクはエジプト方面へと向かったが、その途中、ガザの南側境界付近の、ゲラル地方にいる時、主が直接イサクに現れた。

『主がイサクに現れて言われた。「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。』(創世記26:2-3)

聖書の記述の中では、神がイサクに直接現れたのは、この時が最初である。
アブラハムに主が現れた時、最初に命じられた事は「わたしが示す地へ行きなさい。」であったが、イサクには逆に、「わたしが命じる土地に滞在しなさい。」と命じられた。
イサクはどこにも行くべきではなく、「ここ」が約束の地であり、そこに留まることが御心であったからである。

主は今日の箇所で、2回「父アブラハムの故に」祝福する、とイサクに言われた。
父の祝福が子に及ぶのは、父が主の御声に聞き従い、御言葉を守り行ったからである。
「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す。」(出エジプト20:6)

さて、イサクは父アブラハムと全く同じ地方で、全く同じ試練に遭い、全く同じ理由の故に、同じ過ちを犯してしまった。

彼はゲラル地方で、その土地の人達を恐れて、妻ラケルを「妹です」と言ってしまった。
妻が美しい、と言う理由で、平気で夫を殺し妻を奪ってしまう、という事が行われていた地方だからである。
ただ彼の場合、アブラハムの時とは違い、妻を召し取られてしまうような事は無く済んだ。
それはやはり、父アブラハムの故に、主が守って下さったからである。

ペリシテの王アビメレクは、イサクの父・アブラハムの代の時に、彼の妻サラを召し入れた事で、主から恐ろしい目に遭った。
またアビメレクは、アブラハムが余りに祝福されている事に恐れをなして、不可侵条約を結んでいた。
イサクがそのアブラハムの子であるからには、やはり「あのイサクの美しい妹には、下手に手を出したらひどい目に遭うかもしれない」と、ある程度の恐れがあったのだろう。

そんなある日、イサクとリベカが兄妹では有り得ないような親密な行動をしている所を、アビメレクに見られ、彼らが夫婦である事が公に知られる所となった。
『アビメレクは早速イサクを呼びつけて言った。「あの女は、本当はあなたの妻ではないか。それなのになぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。」
「彼女のゆえにわたしは死ぬことになるかもしれないと思ったからです」とイサクは答えると、アビメレクは言った。
「あなたは何ということをしたのだ。民のだれかがあなたの妻と寝たら、あなたは我々を罪に陥れるところであった。」アビメレクはすべての民に命令を下した。「この人、またはその妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる。」』(創世記26:9-11)

アビメレクのこの命令は、このようなお国柄の所では、まず無いような命令である。
イサクは、自分たちが小さく弱いから、という事で恐れていたかもしれないが、父アブラハムの故に、そして主が共におられる故に、逆にその国から恐れられていたのである。

『彼らは、国から国へ、一つの王国から他の民へと渡り歩いた。しかし主は、だれにも彼らをしいたげさせず、かえって、彼らのために王たちを責められた。「わたしの油そそがれた者たちに触れるな。わたしの預言者たちに危害を加えるな。」』(詩篇105:13-15)

私達も、御言葉に聞き従い、守り行うのであれば、子孫までも守られるのである。
私達が、いかに小さな群れであっても、御言葉を正しく届ける「預言者」であるなら、主は周囲の国々に恐れを起こさせ、「危害を加えるな」と言って、叱られるのである。
大切な事は、アブラハムのように、御言葉に聞き、従い、守り、行う事である。

当教会は、至る所にティッシュボックスが置いてあって、初めて来られる方は、どうしてだろう、と不思議に思われるのですが、参加して頂ければ分かります。

礼拝中、主に触れられて、しょっちょう涙が出てしまうのです。

最近、このティッシュの交換頻度が高くなって来ました。

それだけ聖徒たちが、主に触れられる頻度も、高くなって来たのでしょう。。。

礼拝説教メッセージ音声:狩人型 vs 牧者型(創世記25:27-34):右クリックで保存

「二人の子供は成長して、エサウは巧みな狩人で野の人となった」(創世記25:27)
エサウは、生まれた時から毛深くて赤く、いかにも強そうだったが、成長すると強さを増し加え、思うままに好きな所へ出ていき、腕づくで獲物を勝ち取る者となった。
創世記を今まで学んで来た中で、巧みな猟師に成長した人物は、これで3人目である。(10:9のニムロデ、21:20のイシュマエル)
彼らは総じて、自分の力強さに頼り、自らの欲するままに腕づくで周囲を支配し、神に喜ばれない歩み方をして来た。

「ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした。」(創世記25:27)
ここの「穏やか(タァウム)」という語は、ヨブ記1:1に登場した「正しい」「全き」「無垢」とも訳す事の出来る、義人ヨブの品性を表す語であり、また創世記6:9でも類義語としてノアの「正しさ」を表した語である。
彼は父の天幕の周りで働き、父が所有していた多くの羊や牛の群れをしっかり管理し、牧していた。
ダビデは若かりし頃、羊飼いとして身につけた牧者としてのスキルが後に王になった時に役だったように、ヤコブもここで身につけたスキルが、後にラバンの所で大いに役立ち、さらに富む者とされて行く。

まだ二人が生まれる前、リベカは主から「兄が弟に仕える」と言われていた。
彼女は、主の言葉に心を留め、エサウよりもヤコブを愛し、兄はやがてあなたに仕えるようになる、あなたは神様に祝福される、と言っていたのかもしれない。
それで彼は、主のそのことばに思いを留めていたものの、現状のままでは、あの僅差で先に生まれた兄に、全ての祝福を持っていかれてしまう、この現状を何とかしなくては、と、機会をいつも伺っていたのかもしれない。

そんなある日、彼にとってチャンスが訪れる。
ヤコブがレンズ豆の煮物を作っている所に、エサウは死ぬほど疲れきって、野から帰って来た。

『エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。』
ヤコブからすれば、降って湧いたようなチャンスであった。
『ヤコブは言った。「まず、お兄さんの長子の権利を譲ってください。」』
エサウからすれば、突拍子もない事を言われ、面食らったかも知れない。
しかし、長子の座に安住していた彼にとって、弟のそんな言葉はどうでも良く、ただ、目の前にあるその「赤いもの」が欲しかった。
『「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」とエサウが答えると、ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。』

彼にとっては、まさかこれで本当に長子の権利が売られてしまったとは、思ってもいなかったのかも知れない。
とりあえず口先で言っておけば、その赤いものが早く手に入る、くらいに考えていたかも知れない。
しかし、壁に耳あり障子に目ありである。
その場にエサウとヤコブの二人しかいなかったとしても、主は聞いておられ、後にはその言葉の実をしっかりと刈り取ってしまう事になる。
エサウは結局、自分の好きな獲物を追いかける事に夢中になり、自己管理を怠って死にそうなまでに疲れ果て、たかだか一杯の食物で、長子の権利を売る事になってしまったのだ。

『また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです。あなたがたも知っているとおり、エサウは後になって祝福を受け継ぎたいと願ったが、拒絶されたからです。涙を流して求めたけれども、事態を変えてもらうことができなかったのです。』(ヘブル12:16-17)

長子の権利とは、父から全ての祝福を受け継ぐ事のできる、独占的な権利である。
私達キリスト者も、永遠の祝福を受け継ぐ権利を、キリストにあって持っているが、エサウのようにそれを軽んじて売ってはならない。
エサウの場合、祝福の権利と引換にしたものは、一杯の食物だったが、それは様々な形に姿を変え、神の国を受け継ぐ権利と引換に売らせようとして誘惑して来る。
私達は断固、それをキリストの名によって拒否しなくてはならない。

自分の赴くままの所へ出て行き、腕づくで獲物をぶんどる「狩人型」のエサウと、父の天幕に留まって、従順に任された群れを養い管理する「牧者型」のヤコブ。
イサクがエサウを好んだように彼のようなタイプの人は人々から好かれ、そして多くの人は、世の中をうまく渡り合っていけるために、狩人型の人間になりたいと願う。
しかし主は、狩人型の人間を退け、牧者型の人間を栄えさせる。

ヤコブのように、与えられた領分において、与えられた群れをしっかり養い育て、神の約束をいつも思い巡らし、祝福は貪欲に勝ち取ろうとする皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

有益な集まりと有害な集まり(1コリント11:17-22)
第一礼拝・礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

「あなたがたの集まりが利益にならないで、かえって損失になっているからである。」(1コリント11:17)
兄弟姉妹は、単に集まれば良い、というものではない。「有害な集まり」というものが、確かに存在する。
良い集まりは、人をいのちで満たし、力強くするが、有害な集まりは、人を不安に導き、焦らせ、疲れさせる。
良い交わりと有害な交わりはどうやって見分ければいいか?それは、ガラテヤ5:19-23の、肉の行いのリストと、御霊の実のリストを見比べて、どちらの実を結んでいるかを見れば良い。
その集まりによって、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制が満ちるなら、その交わりを続けるべきである。しかし、その集まりによって、不品行や汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものが増し加わるなら、止めた方が良い。

コリントの集まりが損失になっている理由は、肉の結果である分裂分派がある事だとパウロは言っているが、同時に、本当に残るべき者が明らかにされるためには、分派もやむを得ない、とも言っている。(19-20節)
人が教会から去っていく理由は色々あるが、もし、教会が正しく御言葉を伝え、霊的に問題無いのに、自分の意見や欲する事が通らない、というので教会を去っていくのなら、その人はそのまま去らせれば良い。
なぜなら、教会は、自分の欲望を満足させる場ではなく、主が満足されるべき所だからである。
また、教会の働き人は、人に仕えて人を満足させる、単なる「優しい人達」ではない。
教会の働き人とは、主イエスのために働き、仕える人達である。もちろん主は、人に仕えるように命じておられるが、主を差し置いて、人に優先的に仕えるのは、本末転倒である。
人の満足を求めるあまり、人の拒否や離別を恐れるあまり、御言葉を希釈したり、曲げたりしてはならない。

「そこで、あなたがたが一緒に集まるとき、主の晩餐を守ることができないでいる。というのは、食事の際、各自が自分の晩餐をかってに先に食べるので、飢えている人があるかと思えば、酔っている人がある始末である。」(1コリント11:20-21)
原語の位置から、パウロは極めて強い調子で「そんな飲食は、決して主の晩餐では無い!」と憤慨している。
教会の中で、真に助けるべき弱い人や貧しい人を軽んじ、辱めたりして、躓きを与える者たちがいたのだ。
富んだ者も貧しい者も、共に主にあって一つの食卓に与るようにと、整えられた聖なる主の愛餐を、俗悪なおしゃべりしたり、酔ったり、感謝も無くつまんだりして、貶めてしまった事を、彼は激しく憤った。
「神の教会」は、食べたり飲んだり、寝たり、おしゃべりしたりといった、社交サロン的な、使い勝手の良い施設のような場所だと思ったら、大間違いである。
神の教会は、聖なる主イエスの御体であり、聖なる主に礼拝を捧げ、共に主と一つとなる、聖なる所である。

間違った幻想を教会に求めて来て、物質的・霊的にも食い散らかす者を、主は忌み嫌われる。
パウロはここで、自分の食欲を満たそうと我先に飲み食いする者を叱責したが、それは何も、飲み食いの事だけでなく、聖徒の尊い思いやりや、きよい良心を食い散らかしたり、礼拝の時間を食い散らかしたりして、真にそれらを求めている人たちに、それらが行き渡らないよう食い散らかしてしまう者達も、含まれる。
「神の教会を軽んじ、貧しい人々をはずかしめるのか。」(22節) 神の教会とは、キリストの御体である。
「主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招く。あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。」(29-30節)

人が良い方向へと変わるのは、教会が支援する食料やお金、良心的な思いやり等ではない。
御言葉を聞いて悔い改める事によってのみ、人は良い方向へ変わるのであり、悔い改めの無い人達に、食料やお金をいくら与えても、それは益にならず、害になるだけである。
私達の集まりの中心は、主イエスであり、主イエスの御体を覚えて、全ての事を行うべきである。(24,25節)
主イエスを覚え、真に必要を覚えている人に支援し、共にひとつの食卓に与り、ひとつ主の御体に与って、ますます純粋で聖なる者とされていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
何のために生きるのか(ルカ12:16-23):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
王女としての信仰(創世記18:1-15):右クリックで保存

 

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ペテロ5:6-14:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:安住するなかれ(創世記25:19-26):右クリックで保存

イサクは祝福の家系に生まれ、生まれながらにして子孫の祝福は約束されてはいた。
しかし、結婚して5年経っても、10年経っても、15年経っても、子は生まれなかった。
そこで彼が祈ったところ、主がその祈りを聞き届けられ、20年目にしてやっと与えられた。
イサクが60歳の時であった。

私達キリスト者も、イサクのように、祝福の約束は確かに与えられているが、その祝福の実体、例えば、仕事の成功、結婚相手、子供、金銭などが中々与えられない、といった事は、大いにある。
もし私達が、願う事がスルスルと叶えられ、祝福もインスタントに与えられるとしたら、主に対する感謝も、有難みも、与えられたものへの思い入れも、愛着も、沸かないのではなかろうか。
私達がキリスト者である事にあぐらをかき、主に求めず、祈りもせず、感謝も無い、という事であるなら、主はそこを取り扱われるために、敢えて与えて下さらない事があるのだ。

アブラハムの導かれ方は、主から歩むべき道が示され、示された通りに実行したら、さらに具体的に次の道が示されて、それを繰り返して行く内に、さらに恵みの高みへと登って行く、というものだった。

キリスト者の歩みは、祝福が与えられてそこに満足し、そこで主との関係が途切れてしまう、というものであってはならないのだ。

天国は、神と人とが共に住み、永遠に関係を持つ所である。
同じように、神と人とが、途切れなきリレーションを続ける事こそ、人にとっての祝福の歩みである。

「月が満ちて出産の時が来ると、胎内にはまさしく双子がいた。先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。リベカが二人を産んだとき、イサクは六十歳であった。」(創世記25:24-26)

アブラハムからダビデ、キリストへと続く栄光の家系を受け継いだのは、長男のエサウではなく、ヤコブとなる。
エサウは後に、兄という立場に安住し、長男という生来の権利を軽んじ、食べてしまえば無くなるものを得る為に、売ってしまったのだ。

私達も、決して売ってはならぬものがあり、それは、キリスト・イエスにあって御国を受け継ぐ権利である。
食物やお金、地位や名誉など、いずれ無くなってしまうものを得るために、この大切なものを売ってはならない。
私達がキリスト者である事に安住し、神の国を求める事、探すこと、叩くことを、止めてはならない。

「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。」(マタイ11:12)

御国を得るまでは、貪欲なまでに主を慕い求める皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:アブラハムの子孫とは(創世記25:1-18):右クリックで保存

妻サラが亡くなった後、アブラハムはさらにケトラという名の妻をめとり、彼女はアブラハムに6人の子を生んだ。

サラが亡くなった時、アブラハムは137歳のはずであるが、それ以降にも妻をめとって、6人も子を生んだのは、驚きである。
サラもまた、89歳であった時、信仰によって子を宿す力が与えられ、異国の王に「美しいから」という理由で召し入れられた程、主から若さと美しさを増し加えられたのだ。
人はそれらを有り得ない事、創作物語として片付けるかもしれないが、信じる私達、すなわち信仰によるアブラハムの子孫である私達は、それらの事を大きな励ましとして、望みをもって受け止めるべきである。

ケトラによって新たに生まれた6人の子の子孫は、以降の聖書には滅多に登場しないし、イシュマエルの子12人の子から生まれた子孫も、全く出てこない。
「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた。」(創世記25:5-6)
なぜなら、イサクこそ主に約束された子であり、祝福はただ、約束の子のものだからである。

「アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。」すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。」(ローマ9:7-8)
人間的な力によって、すなわち、肉によって出たものは、主の祝福を受け継ぐ事は決して出来ず、ただ、主の約束によって出たもののみが、祝福を受け継ぐ事が出来るのだ。

私達はキリストを信じる信仰により、真のアブラハムの子孫とされ、約束の相続人となる事が出来る。(ガラテヤ3:29)
それはどのような血筋の者でも、いかにカナンの子孫であっても、イシュマエルの子孫であっても、そこに変わりは無い。
事実、遊女ラハブやルツは、滅ぼされるべき異邦人であったのに、全能者の御翼の陰に助けを求める信仰によって、イスラエルの民に加えられ、アブラハムの子孫として加えられた。

しかし、主から祝福の約束と御言葉を軽んじ、不従順を悔い改めないなら、呪われてしまい、神の民から除外されてしまうのは、列王記や歴代史の王達を見れば一目瞭然である。
「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」(マタイ3:8-10)
そして、イエスの十字架の血潮をないがしろにし、恵みの御霊を侮る者には、もはや罪のためのいけにえは残されていない。(ヘブル10:26-31)

「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。」(創世記25:7-8)
私達の信仰の父、アブラハムは、そのように平安と尊厳に満ちた生涯を終えた。
アブラハムのように、全ての人のために祈り、願い、とりなし、感謝を捧げる事によって、敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごす皆さんでありますように。(1テモテ2:1-2)
イエス様の名前によって祝福します!

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