メッセージ - 201206のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ロバの子を用いられる主(ルカ19:29-40):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:近親相姦の原因(創世記19:30-38):右クリックで保存

「ロトはツォアルを出て、二人の娘と山の中に住んだ。ツォアルに住むのを恐れたからである。彼は洞穴に二人の娘と住んだ。」(創世記19:30)

彼らは最初、主に、「あの町(ツォアル)を滅ぼさないで下さい」と言って、その願いは聞き届けられた。
それなのに、彼らはやすやすとその町を出て行ってしまった。
主の言葉に信頼するのではなく、目に見える所に従って、そこに住む事を、恐れたからである。

ロトは、今度は人々から隔離して生活する事が良しと思い、またも彼の目に見える「良かれ」に従って行動したのだが、その結果、何が起こったか。
『姉は妹に言った。「父も年老いてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、わたしたちのところへ来てくれる男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう。」』(創世記19:31-32)

ロトの娘達は、なんと、父親に酒を飲ませ、父親と寝る事によって、子をもうける事をしてしまった。
ソドムでは、性的不品行が、かなりはびこっていたが、彼女たちは、そこで育つにつれて、ソドムの基準で行動する事に何のためらいも無く、成長してしまったのだろう。

信仰者が、御言葉にではなく「自分の良かれ」で判断し、安易に世と隔絶して生きようとすると、信仰が成熟していない子供たちは、どうなるか。
ロトの娘たちは、性の対象としてはならない父親さえ、性の対象としてしまった。

性の営みは、父母を離れて成熟した夫婦だけに許された、生んで増えて地に満ちるいのちの祝福であるが、信仰の歩みではなく、自分よかれの歩みを続けていると、その営みは、愛も、同意も、喜びも無い、機能的な行為へと成り下がってしまうのだ。
父によってみごもる事に、夫婦の喜びは無いし、それは神の民が聞いても、世の人が聞いても、恥であり、蔑みの対象でしかない。

この娘達は、年齢的に、幼い頃からアブラハムと交わりがあったであろうし、アブラハムは、ロトや娘達がまさかそこまで成り下がるとは、思ってもみなかったろう。
アブラハムと交わりが出来るチャンスの時に、しっかりと交わりの内に主を信頼する事を学んでいれば、このような事は無かったはずである。
アブラハムは、御言葉の約束を信じて歩み、ロトは、御言葉よりも目に見える所で判断して歩んでいた。
ロトは、アブラハムと一緒にいた時、しっかりと信仰を学ぶべきだったが、それを軽んじてしまった。
聖徒の交わりを軽んじてはならない。
目に見える所を頼りとする歩みは、右往左往して多くの困難に遭った挙句、アブラハムと一緒にいた時に築き上げた財産を失い、家族も失い、ひもじい思いをするようになってしまうのだ。

『やがて、姉は男の子を産み、モアブ(父親より)と名付けた。彼は今日のモアブ人の先祖である。 妹もまた男の子を産み、ベン・アミ(わたしの肉親の子)と名付けた。彼は今日のアンモンの人々の先祖である。』(創世記19:37-38)

「モアブ人」をそのまま訳せば「父親より(生まれた)人たち」、「アモン人」は「肉親から生まれた人たち」、そんな呼ばれ方は、かなり恥ずかしい。
モアブ人・アモン人は、ロトの子孫であるがゆえに、また、ロトを執り成したアブラハムの故に、主は、イスラエルは彼らと敵対してはならない、と申命記2章で命じられた。
しかし彼らは、イスラエルに不品行をもたらしたり(民数記22-25章)、攻撃を仕掛けたりして来たりした。

しかし、いかに近親相姦の子であろうと、どんな血筋の者であろうと、主に信頼し、全能者の翼の影に身を寄せようとする人に、主は、恵みを施される。

事実、全能者の翼に助けを求めて来たルツは、モアブの娘である。
彼女の信仰の故に、彼女の家は絶えずに済んだばかりでなく、キリストを生む家系へと連なり、全世界にも恩恵をもたらした。

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれ「た」のである。」(ヨハネ1:12-13)

キリストを信じた者は、全く新しく生まれ「た」のであり、以前のものは全て過ぎ去っ「た」。
いかに自分が、血統的に恥ずかしい血筋であろうと、先祖がどんな呪いの契約を霊的に結んでいようと、キリストを信じる者は、以前の自分は死に、神によって新しく生まれた者である。

ロトのように見える所に流されて右往左往する信仰ではなく、アブラハムのようにしっかりと御言葉に根を下ろした信仰生活を送る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:滅びの火は真価を試す(創世記19:23-30):右クリックで保存

ロトがツォアルに着いた時、主はソドムとゴモラに硫黄の火を降らせ、滅ぼされた。
「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」(創世記19:26)
ここの「振り向いた」の言葉の構成は「振り向いて+見る」で、「見る」はヘブル語でnawbat、すなわち「注意して見る」「没頭して見る」という意味である。
つまり、ロトの妻は、振り向いてはならないと言われていたのに振り向いて、しかも滅んで行く様をじっくりと見入ったのだ。
それでソドムへの裁きが彼女にも追いついてしまったのである。

彼女がいたのは、ロトのうしろである。
つまり彼女は、滅ぼされるべき町ソドムに、また、滅ぼされるべきソドムにある家財、栄華、暮らし向き、娘や婿たちに未練があったため、振り返ってしまったようである。
「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の「命(思い、意思、感情)」を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:31-33)
「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」(1ヨハネ2:16-17)

「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」(創世記19:29)
脱出前のロトの信仰と、神様に対する従順は、かなり弱っていたが、それでも憐れみが注がれたのは、アブラハムの執り成しの祈りお陰だったのだ。
ように執り成しの祈りは、信仰の弱い者が立ち得なくなってしまった時でも、執り成す者の祈りによって、助けられるのである。

ロトはアブラハムと別れた時、ロトのほうが有利であるかのように見えたかもしれないが、結局彼は、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢に引き寄せられた結果、全てを失って、身一つで逃げるはめになってしまった。
私達もやがて、日々の信仰の真価が試される日が来る。

私達の信仰の土台、それは、キリストである。
この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出され、かの日にそれは明らかにされる。
かの日は火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味し、ある者の建てたものは残り、報いを受け、ある者の建てたものは、燃え尽き、損害を受け、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われる。(1コリント3:10-15)

永遠に残るもの、それは、真き心からキリストに捧げる捧げ物、キリストを信じる信仰によって行う、行いの全てである。
永遠に残らないもの、それは、キリスト抜きに行った行いの全て、自分由来のもの全てである。
ベタニヤのマリヤは、イエス様に300デナリの香油を注ぎ、永遠に残る記念の礼拝を捧げた。
しかし、彼女の礼拝を見積もったイスカリオテのユダは、彼女の捧げ物が永遠の恥の材料となってしまった。

アブラハムのように、滅びの火が届かない、神の示された所に住み、世のものではなく、自分由来のものにでもなく、御言葉に従って生きる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:なりふり構わず逃げるべき時(創世記19:12-22):右クリックで保存

御使い達はロトに打ち明けた。
「実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」(創世記19:13)
ロトはそれを聞くと、嫁いだ娘たちの所に行き、婿たちに、逃げるようにと呼びかけたが、彼らはそれを冗談のように思って耳を貸さなかった。

ある日突然、主の裁きが降る、と、突拍子もない事を言われたのだから、冗談のように思うのは当然かもしれない。
しかし、ロトが普段から義について説いて来て、それを普段から聞き流しているようであるなら、いざ本当に裁きの時が来た時、いかに真剣な表情で最後の警告をしても、決して動かないものである。
そのような場合はあきらめて、その不信仰な者と共に滅ぼされないために、その者から離れて、逃げなくてはならない。
人は誰しも、主の御前には一人で立たなくてはならず、自分の救いは、自分でしか達成できないのだ。

ソドムの男と結婚してしまったロトの娘たちは、結局ソドムに残り、その日、滅ぼされてしまった。
滅ぼされるべき者と、一度結婚してしまったら、そこから手を切るのは余程の覚悟が必要になってしまう。
滅ぼされるべき者達とは、最初から結婚しないに限る。

ソドムの滅びの時は、刻、一刻と近づき、夜明け近くになった。
御使いたちは、ためらっているロトに「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」と通告したが、それでもロトは、ぐずぐずとためらっていた。
そこで主は、ロト、妻、二人の娘の手を取り、町の外へ避難させた。
それは主のあわれみである。

彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」(創世記19:17)
その段においても、ロトは主に願い出た。 「主よ、できません。」(創世記19:18)

恐らくその時の彼の精神状態では、そのまま山に逃げ切れた可能性は、極めて薄い。
彼はソドムに未練があり、この段においてもぐずぐずしているようでは、山地まで走り続ける事は、無理であったろう。
ロトは続けて、 「あなたは僕に目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。」と告白し、主は命を救おうとされるお方であると、告白した結果、主は憐れんで下さり、山までは逃げなくても良いように、計らって下さった。

主は実に憐れみ深いお方である。
それはもはや、彼の信仰だけでなく、彼を執り成したアブラハムの祈りを、主が覚えておられた故である。(創世記19:19)
このように、信仰の弱い者が、立ち得なくなってしまった時でも、誰かの執り成しの祈りがあれば、主は支えて下さるのである。

主は確かに憐れみ深いお方であるが、指をくわえているだけで自動的に誰でも助けるのではなく、私達の側にも、従順し、服従すべき「分」がある。
聞いた警告を信じ、服従し、それぞれが足を使い、不従順から走って逃げるのは、人の側の責任である。
服従しなかったロトの一部の家族は、ソドムで滅んでしまった。

私たちも、自分の生来の邪悪な性質をいつまでも改めず、兄弟姉妹を平気で踏みつけたり、いつも赦してくれる親切にあぐらをかき続けたりしていると、やがてリミットが近づいて来る。
もしリミットが近づいた事を悟ったなら、なりふり構わず、生来の邪悪な性質から、逃げなくてはならない。
だらだらと、生来の自分に、未練を残してはならないのだ。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ハゲタカは追い払え(創世記12:5-12):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ペテロ4:1-11:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:ソドムと日本とダブルスタンダード・クリスチャン(創世記19:1-11):右クリックで保存

二人の御使い達がソドムに着いた時、ロトは門のところに座っていた。
町の門は、裁判や商取引が行われる所で、門の所に座っていた、という事は、ロトはソドムの町で役人のような地位にいた、という事である。

ロトもアブラハム同様、彼らを客人として丁重にもてなそうと、自分の家に泊まるように、しきりに勧めた。
もし、この二人が門の所に泊まったとするならば、町の住人は、彼らに大変な事をしてしまうからだ。

ソドムは、カナンの父・ハムの末裔であるが、ハムの性質が、さらに悪い方向へとバージョンアップしている。
ハムは、父ノアの天幕にずかずかと入り、父が酔って裸で寝ている様を見入り、そのような性的な秘密を楽しみ、出ていって皆を連れ戻って来て、みんなでそれを楽しもうとした。
そうして祝福の権威者である父ノアから、のろいを授けられてしまった。(創世記9:20-29)
ソドムの住人も同じように、ロトの家に暴力的に入り込もうとして、客となった御使い達を性的にいたぶろうとして、呪いを受ける事になる。

ロトは義人としてソドムの町の放縦な行いを悩みつつ生活していた(2ペテロ2:7)。
しかし同時に、その邪悪な町から抜けださず、町の有力者にまで上りつめていた事も、また事実である。
有力者にまで登りつめた、という事は、ソドムでの習わしにある程度従って歩み、それなりの評価を得るまでの実績をその町で上げていた、という事である。

ここに、神の基準を知りつつも、世の栄えにも目が眩み、世の基準からも抜け出せないでいる「ダブルスタンダードのクリスチャン」の葛藤を見る。
そのような歩みをしているクリスチャンの歩みと報いは、ロトの歩みと報いから知る事が出来る。

ロト達がソドムの地を選んだのは、そこが主の園のように、エジプトのように潤っていたのを「見た」からである。
しかし、その潤いの恩恵に与りたいと思う為に、妥協に妥協を重ね、最終的には全てを失ってしまい、いのちだけしか助からない事になる。

ロトは二人をもてなしていたが、彼らがまだ床に就かないうちに、ソドムの町の男たちが、若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから。」(創世記19:4-5)

ロトは出て行って町の男たちをなだめるのだが、信じがたい提案をする。
「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。 実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください。この家の屋根の下に身を寄せていただいたのですから。」(創世記19:8)
なんと、客を守るために、大切に育てた二人の未婚の娘を差し出し、好きなようにして下さい、というのである。

とんでもない、ひどい、と思うかもしれないが、人間、居着いている所の風習に染まるもので、狂気の時代、狂気の場所に住んでいると、普通人としては狂気に見えるような事さえ、普通にしてしまうのである。

実際、今日の日本では、このソドムと似たような状況が、社会通念としてまかり通ってい事に気づかないだろうか。
日本は、世間の面目を保つために、あるいは会社での地位を保つために、妻を、夫を、息子・娘を犠牲とする事が、むしろ社会通念に近くなってしまっているのではないだろうか。
会社から、あるいは世間から、つまはじきされない為に、自分の大切な家族が蹂躙されても仕方無し、という価値観に、どっぷりと浸かり込んでいる者が、多くなって来ている。

『男たちは口々に言った。「そこをどけ。」「こいつは、よそ者のくせに、指図などして。」「さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。」そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした。』(創世記19:9)
しかし主は、この、僅かながらでも義を振り絞った義人を、守って下さった。
いかにロトが、ソドムの価値観に染まって誤った選択をしていても、主は憐れみ深い方である。彼らを守って下さった。

今、アメリカなどでは、同性愛者がプラカードを掲げて、町の役人に殺到しているが、キリスト者は断固、御言葉の基準から離れてはならない。
「女と寝るように男と寝る者は、ふたりとも憎むべき事をしたので、必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。」(レビ20:13)
「それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、 男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。」(ローマ1:26-27)

世の価値観が迫ってきた時は、妥協する事なく御言葉を示し、拒否し、戦うべきである。
そうでないと、塩気のない塩のように外に投げ出され、踏みつけられてしまうだけである。
ダブルスタンダードは捨て、世に妥協する事無く、御言葉にしっかりと留まり、キリストにあって戦い、キリストにあって勝利する皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

証:愛の原子爆弾と呼ばれた理由

カテゴリ : 
その他音声
執筆 : 
pastor 2012-6-26 18:40

証(音声のみ)
愛の原子爆弾と呼ばれた理由」:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:主と交渉する際には(創世記18:23-33):右クリックで保存

アブラハムは、主がソドムとゴモラに行き、その罪が非常に大きいかどうかを確かめに行く、という事を聞いて、アブラハムは意を決して主の前に立ち、申し上げた。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」(創世記18:24)
主の答えは、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(26節)だった。
そこを発端に、主とアブラハムとの交渉がはじまり、アブラハムは「では45人なら」と食い下がり、さらには40人、30人と詰めて行き、最終的には、ソドムにいる義人がたとえ10人であっても、町は滅ぼさない、という約束を漕ぎ着けるまでに至った。

相手が言った言葉を盾に取るのは、交渉において強力な手段である。
主は正義と公道とを行わせるお方である事が19節で言われているが、アブラハムはその言葉を盾に取った。
「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」(創世記18:25)

私達が主と交渉する際、最も有効な手段は、御言葉を盾に取って祈る事である。

ツロの女がイエス様から娘の癒しを頂けた決定的な勝因は、彼女のしつこさではない。
子犬呼ばわりされても「その通りです、しかし、子犬でも食卓からこぼれるパンに与ります」と、イエス様の言葉を逆手に取った故である。(マルコ7:24-30)
御言葉にそぐわない自分の願いを千回万回述べて、祈り倒そうとしても無駄である。しかし、御言葉を盾にとった祈りは、非常に有効である。

主は雲の上に高く座して、私達の言葉なんか聞かれない、と思ったら、大間違いである。
主は人の姿を取って来られ、その足で歩き、目で見、耳で聞き、ソドムの町に泊まられた。
主はアブラハムに人の姿を取って現れ、面と向かって交渉に応じられ、また、主はヤコブにも人の姿を取って現れ、取っ組み合いの相撲を取られた。

相撲は、抱きつくように組み合い、汗が一つになり、顔と顔は間近になって、各々の力を賭けて戦う。
神は、はるか彼方から見下ろすお方ではなく、生々しいほどに人と近くなって、関わるお方である。
主イエス様は、貧しい家庭に人として生まれ、人として貧しさを体験され、誘惑も、人からのあざけりも、暴力も、痛みも、十字架刑も、そして死さえも、体験された。

イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、自らを不正な裁判官にまでたとえて、絶えず祈り求めるように話された(ルカ18章)し、また、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」とも言われた。(マタイ7:7)
主は、関わりを求めておられる。
私達は「主は御心を変えられない」と絶望して求める事を止めてはならないし、虚無に走ってはならない。

アブラハムのように、御言葉を盾に食い下がり、皆さんの使わされた場を執り成し、災い多きこの国を執り成す皆さんでありますように。
ヤコブのように取っ組み合いをしてでも主と関わり、祝福を勝ち取る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

主の山に登る時は(創世記22章)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

神様に何かを捧げようとする時、考えても頑張っても、捧げるべきものに自信が無くなって行く事がある。
それは神様を敬う人、最善のものを捧げようとする人であるならあるほど経験する事であるが、そういう時は自分でやりくりしたり頑張ったりする事を止め、主の前に身を横たえ、全てを委ねた時、主が示しを与える。
主はアブラハムに主が示された山モリヤに行き、自分の愛する子イサクを捧げるよう命じられた。(創22章)
彼が主の言葉に口答えしたり、つぶやいたりした記録は一切無く、ただ言われた通り、翌朝早く準備を整え、その場所へ行き、イサクを縛り、ほふろうとして刀を取った。主は、恐らく慌てて、止めるように命じた。
「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」(創世記22:13-14)
私達も、3日の従順を経て主の山に登り、主の祭壇に身を横たえ、御言葉の剣の前に服すなら、主は私達を3日目に死から救い出し、捧げるべき良き物さえも、主が備えて下さるのだ。

皆さんが主の山に登る時、すなわち礼拝に来る時、何を期待して行くだろうか?主に出会う事だろうか?主が「備え」て下さる何かを、頂く事だろうか? 主の山での礼拝においては、優先すべき順序がある。
まず、私達の側が、主の御前に自らを横たえ、御言葉の前に自らを下ろすなら、主が備えて下さるのだ。
「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらの物はみな加えて与えられる。」(マタ6:33)
主が備えて下さるものは欲しいの、でも主の山に登らない者、登っても御言葉の前に身を置かない者、食べ物や着る物ばかりを求め、神の国と義を求めない者は、何も与えられず、それら全てに逃げられてしまう。

アブラハムがイサクを捧げたこのモリヤ山は、後の時代、エルサレム神殿となった場所である。(2歴代3:1)
そこはエブス人オルナンの打ち場で、ダビデが人口を数える事で主に罪を犯し、その災いとして、御使が3日間、抜き身の剣を差し伸べ、イスラエルの民を打っていた場所だった。(1歴21章,2サム24章)
数を数える事そのものは罪ではない。民数記では神がモーセに「民を数えよ」と言われたし、アブラハムにも「星を数えることができるなら、数えてみよ」と言われた。いずれも、神の恵みを悟らせるためである。
神が与えた祝福であるのに、ダビデは自分の欲のため、自分が誇るため、勝手に数えたから、罪とされた。
ネブカデネザル王も、バビロンの栄華を「私がしたのだ」と驕り高ぶった時、地位を落とされた。(ダニ4章)
神の恵みを忘れ、祝福を自分のおかげとし、自分の誇りとするために数える時、主は災いをもたらす。
イスカリオテのユダは、聖徒の捧げ物を値積もり、自分で打算する事を最後まで続け、滅びに至った。
ベオルの子バラムは、イスラエルを呪うよう雇われた時、御心は「行くな」だったのに、不義の報酬が並べられるとそれを愛し、行こうとしたので、御使いが抜き身の剣を持って彼に立ちふさがった。(民数記22章)
肉欲に魅せられ、数え、我が物にしようと、主の御言葉を超えて行く者には、主は剣を持って立ちはだかる。
ダビデはヨアブの制止にもかかわらず、強引に数えたため、主の使いがエブス人オルナンの打ち場に現れ、抜き身の剣がイスラエルに及んだ。

オルナンは滅ぼされるべきエブス人で、主の使いが自分の打ち場に現れているのに、全く恐れず、小麦を粉々に砕くため打穀していた。彼には全てを捧げる心の用意があったから恐れが無かったのかもしれない。
礼拝とは主の前に自らを砕く事で、主に喜ばれる捧げ物とは、砕かれた魂、悔いた心である。(詩篇51:17)
主は、モリヤの山、すなわちエブス人オルナンの打ち場に祭壇を築くよう、ダビデに指示された。
ダビデはそこへ登って行った時、オルナンはひれ伏して全て差し上げると言ったが、ダビデは、自分の財布を痛めずに礼拝を捧げたくない、と、相当の代価で買取り、礼拝を捧げ、そこを神殿の場所と定めた。
主はこの山で、アブラハムに御言葉の前に砕かれる事を迫り、ダビデにも迫った。私達も、主の山に登る時、御言葉の前に自分を砕き、御言葉に切り分けて頂くのである。
御言葉の前に身を横たえ、砕かれ、3日の後に主からいのちをいただき、新しいいのちにおいて、主から豊かに備えられ、祝福される皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

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