メッセージ - 201205のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:カインの性質(創世記4:8-16):右クリックで保存
韓国語通訳有

神こそ主であり、敬われるべきお方である。
それなのにカインは、自分流の礼拝方法が受け入れられないと怒り、神にたしなめられそれでも悔い改める事をせず、彼はアベルを野に連れて行き、殺してしまった。

人類史上初の「死」は、血の繋がった兄の手による殺人であり、その動機は、神への捧げものに関するねたみであった。
このカインのような性質は、現代を生きる私達の内にも、存在する。
自分流の礼拝を行って、それが神に認められない事を怒り、また、御心に沿った歩みをして祝福されている兄弟姉妹を妬み、憎しみの炎を燃やし、心で殺人を犯すような性質が存在する。

そのような性質は治めるべきである。
すなわち、自分の方法を降ろし、神の方法である御言葉を優先させ、適用させるべきである。
カインはそれをしなかった。
その結果、彼は怒りに身を任せ、弟アベルを殺してしまった。

主はカインのした事をご存知だったが、彼の口で告白させるために、「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」と語りかけたが、カインはまず「知りません」と答えた。
カインの特徴の者は、自分が手を下して動かなくなったアベルを見ても何とも思わず、自分がどんな事をしたのか目にも留めず、全能者の前におそれる事をせず、うそをつく。
そればかりでなく「わたしは弟の番人でしょうか。」と、たてをつく言葉さえ吐いた。

神はそれで「ああそうですか、それじゃ次を当たります」などと退くような方ではないし、侮られるようなお方ではない。
自分の為した結果と、神の前で告白した言葉の報いは、きっちりと、受けるのである。

カインが流した血は、神に向かって叫んでいる。(4:10)
カインは土を耕す者だったが、その土地はカインにとって呪われたものとなってしまい、もはや彼が耕しても産物を出さない。
不当に流された血も、支払うべきはずなのに支払われていない賃金も、神に向かって叫んでいる。(ヤコブ5:4)
その神への叫びによって、そのような事をした者の仕事は呪われてしまい、そして、義人アベルからザカリヤまで、流されてきた義人たちの血は、心頑なに自分流の考えに凝り固まって、義人を蹂躙する者たちの上に、返ってくるのである。(マタイ23章)

『カインは主に言った。「わたしの罪は重すぎて負いきれません。』(4:13)
この言葉には少しだけ、神様憐れんでください、という意図が見えるが、続く言葉は、これから待ち受けている呪いへの悲嘆とつぶやきに満ちている。
それでも神は、そんな彼の少しばかりの憐れみを乞う願いに応え、憐れみを施してくださり、出会う者がだれも彼を撃つことのないようにと、カインにしるしを付けて下さった。

カインはその憐れみの内にへりくだり、悔い改めるべきであったが、彼はそうではなかった。
次回に詳しく見ていきたい。

毎朝早天の後、教会の扉にイエスの血を塗る祈りをして、滅ぼす者が過ぎ去るように、また扉を出入りする聖徒が清められ祝福されるようにと祈っているのですが、昨日、聖徒達が、ある危機的状況から守られました。

その聖徒達と夜、サムギョプサルを共に食しました。

イエスの血に守られて、その祝福の扉の中で肉を食べて、なんだか過ぎ越し祭みたいだね、と共に笑いました。

イエスの血塗られた門の外側は混乱と呪いに満ちていますが、内側はいのちと喜びに満ちています。

礼拝説教メッセージ音声:受け入れられる捧げもの(創世記4:1-7):右クリックで保存
韓国語通訳有

カインはアダムのように土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となった。
ある時彼らは神にささげものをしたが、神はアベルの捧げ物に目を留められ、カインの捧げ物は目に留められなかった。
神はなぜ、そのような差別をしたのだろうか?

忘れてはならない事は、神こそ主であり、敬われるべきお方であるという事だ。
神の御前には、人が身勝手に考え出した礼拝方法を神に押し付けてはならず、神の側が提示された方法に、人が従うべきである。

アベルの捧げ方は、神様がよしとされる方法に則っていた。
神様のよしされる方法、それは、犠牲である。
アダムとエバは、いちじくの葉をつづり合わせて裸を覆うものとしたが、そのような、人間の考え出した取り繕いは、神の目には、何も覆われていないも同じだった。
神様が彼らの裸を覆うためには、動物を犠牲にして皮の衣を作って、彼らに着せてやり、それによって彼らの裸は覆われた。これが神様の方法である。

また、捧げる時の心や思いも大切である。
カインは単に「土の実りを主のもとに献げ物として持って来た」としか書かれていないが、アベルは、彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で持って来た(創世記4:4)と書かれてある。
彼は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」神を敬い(申命記6:5)、神に最良のものを捧げたからこそ、神様は目を留められたのだ。

「あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。」(詩篇51:16-17)
このように書いてあるからには、たとえアベルがどんな焼き尽くす捧げ物をささげても、彼の心が砕かれていなかったなら、その捧げ物は受け入れられなかったのだろう。

カインの捧げ物が神に認められなかった時、彼は憤り、顔を伏せたが、この結果は明らかに、彼は、自分の我を神よりも高い所に置いている事を示している。
彼に「もし正しく行っていたら、、、」と神は言ったが、彼はつまり、神の前に正しく行っていなかったのだ。

自己流の方法の押し付けを、神は決して受け取らない。
もし私たちが正しく行っていないとしたら、また、思い通りに行かない事で怒りが込み上げてくるとしたら、罪は戸口で私達を慕っている。
その時、私達はそれを治めるべきである。
治めるとは、自分のしたい事、うずく自分のやりたい方法を降ろし、神の方法を優先させ、適合させる事。

もしそれをしなければ、どうなるか。
それは次回詳しく見ていきたい。

荒野の査定と永遠の報酬(ヘブル3:13−19)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

「ヘブル 4:3 信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。」
神の安息に入るには、どうすれば良いか。それは実にシンプルで、信じる事である。
安息に入った者は自分のわざ、自分のやりくりを終えて、神の為された創造のわざの内に、ただ安息する。
(ヘブル4:10)しかし、安息の地に入れず落伍して行く者もいる。それは、つぶやく者、不信仰の者である。

モーセの時代、出エジプトした群集全体は、安息の地へと導いて下さるという神様の約束を信じ、進んで行ったが、その民は、ヨシュアとカレブの二人を除いて全員、約束の地に入る事が出来なかった。
彼らは主のすばらしい御業を体験し、逆らう者に対する裁きの恐ろしさも、まじまじと見ながら、それでも自分の思い通りに行かないと、不平不満を言い、つぶやいたからだ。
「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では私達の唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで何もない。」(民11:4-6)
この不平をつぶやいたのは、途中、多く入り混じった雑多な外国人で、神の民は、彼らにつられてしまった。
人数が多ければ良いというものではない。不純な者達が雑多に入り混じってしまうと、彼らは余計な事を言って、余計な怒りやいらぬ欲望を駆り立たせ、本来ならつまづかないような者をも、躓かせてしまう。
しかし神は、彼らを決して神の国の祝福にあずからせる事はせず、荒野で篩い分け、ふるい落とし下さる。

彼らが貪欲に駆られ、「食べたい」と 豚のようにうるさく呟いたのは、薬味が強いもの、肉欲をそそるもので、それを食べた事のある大人はその味を思い出し、味を知らない子供達にはエジプトをあこがれさせ、神が日々下さるマナが、あたかもつまらないものであるかのように仕向けた。
豚が真珠を踏むように、神様の尊い憐れみを踏みにじり、兄弟姉妹の心を挫いても何とも思わず、彼らの善意にいつまでもブラブラぶら下っているような者は、死骸として晒されたまま荒れ野に置いて行かれる。
主は、彼らの汚い貪欲にもかかわらず、望みどおり、おびただしい程の肉を、飽きる程送ってくださった。
しかし、この貪欲な者達は、切望した肉を取って口まで持って行きはしたが、食べる事は出来なかった。
肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は彼らを激しい疫病で打たれたからだ。(民11:33)
このように、神の恵みを忘れさせ、肉に駆られてつぶやく者は、望んだ物を手にしても食べられない。
主が約束して下さった祝福を軽んじる者も同様、祝福を見ても、食べる事は出来ない。(2列王7:16-20)
彼らはどんどん落伍して行くが、神の民は、減る事はない。

出エジプトして2年目の人口調査では、成人男性は603550人(民1:46)、カナンに入る直前に行われた2回目の人口調査では601730人(民26:51)、その差はわずか、1820人の減少である。
最初の人口調査は、編隊を組んで荒野を旅する便宜のためだったが、2回目の調査は、相続地をくじで割り当てる上で、多い部族には多く、少ない部族には少なく、割り当てる情報収集のためである。
荒野において、ある部族は半分以下に減り、ある部族はほぼ変わらず、ある部族はかなり増えた。
このように、荒野においては、信仰が査定され、誘惑に耐えて信頼し続ける者の子孫は着実に増えて行き、永遠に変わらない約束の相続地も増し加えられるが、そうでない者の子孫や相続は、減らされる。
豚のように不平を鳴らし、兄弟姉妹の信仰や神様の憐れみを踏みにじるような者達は、荒野に死体として置いて行かれ、最初の信仰をしっかりと貫く者は、約束の地に入り、そこで栄え、永遠に名を残すのである。

皆さんは荒野に死骸として置いてけぼりにされる者達だろうか? それとも、安息の地に向かって一歩一歩前進し、やがて安息と栄光を勝ち取る者達だろうか?
皆さんは荒野の時期にしっかり信仰に留まり、子孫を増やし、やがて継ぐ天の王国にて多くの領土を頂けるだろうか? それとも信仰に立つ時間よりも不信仰の時間を多くして、いのちを減らしてしまう者だろうか?
それは、皆さんの信仰次第である。
日々、信仰に歩み、安息の地に入れる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:裸を覆って下さる主(創世記3:20-24):右クリックで保存
韓国語通訳有

『主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」』(創世記3:22)
罪ある人が、永遠に生きないようにされたのは、大きな憐れみである。
罪と呪い、痛みと悲惨に満ちた世の中で、決して死ぬ事が出来ないとしたら、それこそ地獄である。
人の罪は、神の方法によって対処しなくてはならない。

「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。」(創世記3:21)
神は人を裸のままエデンから追い出すような事はせず、まず皮の衣を作って、人の裸を覆って下さり、それから救いのご計画を発動された。
アダムとエバはいちじくの葉で覆い、取り繕ったが、人間の編み出した方法では、神の前に罪や裸を覆う事にはならないし、神の前で良しとされるものではない。

日本で犯罪を犯したら日本の法律に則って対処しなくてはならないように、人の罪の贖いの方法は、神の方法に乗っていなくてはならない。
罪を贖う神の方法は、犠牲である。

「皮」の衣が与えられたからには、何かの動物が犠牲となったはずである。
つまり、人間の裸という無力さを覆い、罪を覆うためには、神の前に犠牲が必要だという事である。
事実、後の時代にキリストは世の罪を取り除くまことの子羊として来られ、自らの尊い血潮という罰金を私たちの代わりに払ってくださり、その裂かれた肉体を私達の罪を覆う衣とし、着せてくださった。

イエス様はたとえ話で、王が婚礼に客を招いた際、礼服を身に着けてこなかった者は外に追い出した話をされた。
婚礼の礼服は王から支給されるものであり、せっかく支給されたものを跳ね除けて、自前の服を身に着けて行くなら、どんな人間であっても外の闇に追い出される。
同様に、神の支給して下さったキリストという贖いの衣を身に着けず、自前のいちじくの葉で取り繕うなら、どんなに善人であっても、天の王国から追い出されてしまうのである。

私達は、ただ与えられた衣を、すなわちキリストを着て、その上ではじめて神の国に入れるのである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ペテロ2:1-8:右クリックで保存
韓国語通訳有

礼拝説教メッセージ音声:アダムへの呪いと、そこからの脱出方法(創世記3:17-19):右クリックで保存
韓国語通訳有

アダムの不従順への報いは、土(アダマ)に関する呪いである。
『神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。』(創世記3:17)
アダムは、全能者の息によって息吹かれ、生きた者とされたと言うのに、その創造者なる神の言葉を退け、自分の肉であり骨であるエバの言う事を採用してしまったため、土地全体が呪われてしまった。

そうして土地は、わざわざ、アダムを苦しめるために、茨とあざみを生えいでさせるようになってしまった。
アダムの違反によって、土地全体が呪われてしまうとは、一体アダムは、どれほど重要な人物なのだろうか。

神は人を、神にかたどり、神に似せ、全ての生物を支配するようにと、その鼻に自らの息吹を入れて、造ってくださった。
つまり人類以外の生物は、人類のために造られた、と言っても過言ではない。
全能者の息吹を宿し、支配する立場として造られているアダムが、その全能者に逆らってしまったからには、それによって全被造物のバランスが崩れてしまい、全被造物はそのためにうめき続けている。

「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」(ローマ8:19-22)

被造物は、神の子たちのあらわれを、すなわち、全能者の息吹を持った、正当な支配者である第二のアダムに連なる者達を、待ち望んでいるのだ。

私達が神の子となるには、どうしたらよいか?
「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(ローマ8:14)
私達が全能者の霊によって導かれるなら神の子であり、全被造物を正しく治める事が出来、また、第一のアダムに入った呪いも、私達には届かなくなるのである。

「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」(ローマ 8:13)

アダムがエバという血肉の言う事を聞いて、死とのろいが入ってしまったように、人は、自分が血肉のように大切にして来た価値観や、築き上げて来て血肉のように大切にしている持ち物などを優先してしまうと、死とのろいへと導かれてしまうのだ。
「世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。」(1ヨハネ2:17)

礼拝説教メッセージ音声:蛇と女の子孫(創世記3:14-16):右クリックで保存
韓国語通訳有

神はまず、蛇に対して呪いを定められた。
「お前は、あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で、呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。」(創世記3:14)

サタンは地を行き巡って、ほうぼうを練り歩き、神の前に訴えるべき獲物、食い尽くすべき塵を探しまわっている。(ヨブ1:7)
サタンがヨブを訴えた時、神はヨブを試みる事を許可したが、それによってヨブが誤った事をしてしまったとしても、しっかりと救いの道を備えてくださった。
ヨブは確かに全てを失って酷い目に遭ったが、彼は以前よりも遥かに主を知り、主に近くなり、そして以前よりも2倍も祝福された。

サタンがシモン・ペテロをふるいにかけた時も、主は決して見捨てる事無く、信仰が無くならないよう、あらかじめ執り成しておられた(ルカ22:31-32)し、そして、サタンがエバを唆した時も、主は決して見捨てる事無く、人類に対する救いの道を用意していて下さった。

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。」(創世記3:15)
主の、人類全体を贖うご計画は、この女の子孫(単数形)によって成し遂げられる。
この単数形の女の子孫こそ、主イエスキリストであり、彼によってサタンの頭は砕かれ、その血によって私達の罪に対する罰金は支払われ、再び永遠のいのちへの道が開かれたのだ。

「神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」(創世記3:16)
女には、生みの苦しみと男に支配される事が定められたが、「しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。」(1テモテ2:15)
ここの「子を産む事によって救われる」とは、どういうことか。

黙示録12章に、女と、その女が産みの苦しみを経て産んだ子と、それと敵対する巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれる者の記述がある。
女が産んだ子は、鉄の杖でもってすべての国民を治める者、すなわちキリストであり、女は太陽(キリスト)をまとい、月と星のしるしを持つ者、すなわち、教会を現すと思われる。

私達教会は、福音伝道によって、キリストのいのちを生んで、増えて、地に満ちて行く者、キリストの花嫁として、キリストを宿し、キリストを生んで行くのである。
「若い者が処女をめとるように/あなたの「子ら(子孫達)」はあなたを「めとり(保護者となり)」、花婿が花嫁を喜ぶように/あなたの神はあなたを喜ばれる。」(イザヤ62:5)

礼拝説教メッセージ音声:目が開け、裸である事を知った(創世記3:7-13):右クリックで保存
韓国語通訳有

善悪の知識の木の実を取って食べたら、必ず死ぬ、と、神は言われていた。
人の構成は、土から作った「肉体」に、神がいのちの息吹「霊」を吹き込み、その結果、生ける「魂」が生成した事を、創世記2:7にて学んだが、この実を食べた時、神の息吹であり、神と交わる機能を持つ「霊」が死んでしまったのだ。
その結果人は、肉体と魂をやりくりして生きなくてはならなくなり、霊に導入されてしまった死が、肉体や魂にも及ぶようになり、結果、やがて死ぬ存在となってしまった。
また、霊が機能を失ってしまった結果、神との愛なる交わりが出来なくなり、人は神を避け、神から逃げるようになってしまったのだ。

「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。」(創世記3:7)

霊が死んでしまった結果、真っ先に起こった事は「目が開け」た事である。
「イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」(ヨハネ9:41)
神に対する目が閉ざされ、神との交わりが除外されてしまった自然、環境、人間関係が、彼らの眼前に「目が開けた」所、それらは彼らに脅威となり、自分達が何も出来ない、裸で、無力な存在である事に気付き、そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて裸を覆った。

この、自分の恥ずかしい部分をいちじくの葉で覆う行為こそ、人類全体が持つ「取り繕い」のはじまりである。
自分の弱さを、裸を覆うために、力を蓄え、知識を蓄え、技術を発展させて自活して生きて行く。これがアダム以来の呪いの生き方である。
この、人間が神から離れて自力で生きて行くための道具としての「いちじくの葉」は、歴史を下るごとに進化して行き、それはやがて身を守る道具や武器となり、知識や学術体系となって、発展して行ったが、結局、神によってしか埋められない霊の空洞も、罪に対しても、死に対しても、どうする事も出来ない。

『アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」』(創世記3:12)
アダムは自分の非を告白せず、あたかも神のほうが悪いかのように、また、妻が悪いかのように、「言い訳」といういちじくの葉で自分の罪を覆い、エバも同様であった。

神に対して実を結ばない「いちじくの葉」という取り繕いだらけの者は、主によって枯らされてしまう。(マタイ21:18-22)
人がいかに主の臨在から逃げ隠れしようと、やがていつか、圧倒的な主の臨在の前に隠れる事が出来ず、 山や岩に向かって、自分に倒れ掛かって覆ってくれ、と叫ぶようになる。(黙示録6:15-17)

ただ主にささげるべきは、砕かれたたましい、悔いた心である。神はそれをさげすまれない。(詩篇51:17)

人は何によって罪と裸を覆っていただくべきか。
『「お前は誰だ」とボアズが言うと、ルツは答えた。「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」』( ルツ記3:9)

私達は、まことのボアズであるキリストに申し上げるべきである。
「わたしはあなたのはしためです。」「あなたの贖いの衣でわたしを覆ってください。」「あなたは、罪と死から、いのちへと買い取って下さる方です。」と。

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