メッセージ - 201202のエントリ

今日は遅まきながらのバレンタインデーの祝いという事で、男性達はレストランでスイーツをごちそういただきました。

たまたま今日お休みした兄弟達、残念でした。。。

礼拝説教メッセージ音声:御心に沿った悲しみ(2コリント7:1-16):右クリックで保存
韓国語通訳有

7章全体は、パウロのコリント人達に対する信頼が回復できた事への喜びに満ちている。

パウロは1コリントへの手紙で、不品行に対する叱責をなど、結構厳しい内容を書いたが、パウロ自身、そのように厳しく戒めるのは悲しい事、嫌だった事が、8節から伺える。
彼自身、あの手紙を書いた事で心に不安を抱えていたが、しかし、パウロのその悲しみは喜びへと変わった。
コリント人達は、あの手紙によって御心に沿った悲しみをし、悔い改めが生じて良い実を結んだからである。
「つまり、あなたがたがわたしを慕い、わたしのために嘆き悲しみ、わたしに対して熱心であることを彼が伝えてくれたので、わたしはいっそう喜んだのです。」(7節)

神の御心に添った悲しみは、大いに有益である。
御心に添った悲しみのメリットの一つ目は、まず、その罪による害を、もはや受けなくなる事である。(9節)

二つ目は、悔いの無い救いに至る悔い改めを生じさせる事だ。(10節)
世の悲しみは、死をもたらすだけだが、御心に添った悲しみは、逆にいのちをもたらす。

三つ目のメリットは、あらゆる良き熱心を起こさせる事である。
「神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。例の事件に関しては、あなたがたは自分がすべての点で潔白であることを証明しました。」(11節)
これによって、本当に罰されるべき人が処罰され、群れ全体が汚され全体が処罰される事を免れた。

このように、御心にそった悲しみは、多くの良い実を結び、神と聖徒達とを喜ばせるものである。

人に後ろ指をさされないために、決してごめんなさいを言わない人がいるが、それは強さとは言わず、愚かと言う。
悔いない心、頑としてごめんなさいを言わない心は高ぶりであり、周りの人達に悲しみや気落ちを起こさせ、結局は自分の身と周りに害を招く事である。
「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)

聖徒達の中に罪があれば、パウロのように、悲しむ事を辞さずに指摘し、悔い改めへと導く皆さんでありますように。
そして、もし自分に悔い改めるべき所があればすぐ悔い改め、いつでも柔和な心で、大きな益を受け続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって、祝福します!

今日の文体がいつもと違うと思われた方がいるかもしれませんが、それは、いつもメッセージのテキスト起こしをしていただいている働き人・中祖兄弟が体調不良のため、パスターがしたためです。
彼が主にあって健やかに回復し、主の働きを存分にできますように、皆さんもお祈りに覚えてください。

礼拝説教メッセージ音声:くびきを共にする相手を選べ(2コリント6:11-18):右クリックで保存
韓国語通訳有

人間の教えや神学に頼らず、御言葉の真理に頼った方が良い、と、どんなに事例を示したり、論理的証拠を示しつつ説明しても、決して自分の考えを手放さないとするなら、その人は、御言葉の真理よりも、自分の納得のいく答えを言ってもらおうという願いを、決して手放さないからだ。
パウロは勧める。
「あなたがたは、私たちの中で制約を受けているのではなく、自分の心で自分を窮屈にしているのです。 私は自分の子どもに対するように言います。それに報いて、あなたがたのほうでも心を広くしてください。」(12,13節)

コリントの人達が、自分の心を窮屈にしているもう一つの理由は、一緒につながれてはならぬ者と共に歩んでいるからである。

「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛(くびき)につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とに何のつながりがありますか。」(14節)

ここは、キリストを信じていない人と全く付き合ってはならない、という事ではなく「不釣り合いな軛」につながれてはならない、と言っているのである。
軛(くびき)とは、牛や馬などを組にさせて、2頭で車を引かせるための道具であるが、申命記22:10には、牛とろばを同じくびきにつなげてはならない、と書かれてある。

別のいのちの動物は、力も耐久力も違うし、嗜好の方向性も違うため、同じくびきにつなぐなら、当然不具合が起こる。
牛はあっちに行きたいと思っているのにロバはこっちに行きたい、といった事が起こるように、キリスト者はこれをしたいと思っているのに、不信者はこれをしたいと思って互いに引っ張られ、いつもお互いに辛い事が起きてしまう。

キリスト者は、世の中の釣り合わぬ価値観を、自分と自分の家族に取り入れてはならず、むしろ、世の中にどんどん神の国の価値観を広め、キリストを証していくべきである。
私たちが世に染まるのではなく、世を、キリスト色に染めるべきである。

私達のアイデンティティは「生ける神の宮」であり、キリストは、私達の内に住んでおられる。
キリストを宿しているからには、それに見合う聖なる者として、ふさわしく歩むべきである。

鉄と泥が決して混じる事は無いように、私たちは不信者と釣り合わぬくびきを負ってはならない。
もし祝福を得たい得たい思っているのに、どうしても得られないなら、自分の中に、神と自分を隔てている壁が存在しないかを吟味すべきである。

「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。」(イザヤ59:1-2)

皆さんは祝福を受け、安らぎを得たいだろうか?
そうであるなら、神に対して生きた者として、死んだ者としてのくびきを取り払い、キリストとくびきを共にするべきだ。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

日々、キリストのくびきを負い、キリストと歩調を合わせ、安らぎの内を歩む皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:恵みの時、救いの日の内に(2コリント6:1-10):右クリックで保存
韓国語通訳有

人は、キリストにあって神と和解し、神との間に平和が成就しました。
私たちキリスト者は、その平和の使節であり、パウロはキリストに代わって「神との和解を受け入れなさい」と言いました。(5:20)
そしてパウロは続けて、神と共に働く者として「恵みを無駄にしないように」と懇願しています。(6:1)

私たちは税金や経費精算など、身近な所では支払ったものを取り戻そうと努力するものですが、イエス様が支払ってくださった「いのち」という代金を無駄にする事は、なんと多い事でしょう。
どのようにしてムダにするのでしょうか。
それは、御言葉よりも自分の凝り固まった概念を優先してそれに囚われてしまったり、御言葉を素直に信じなかったりする事で、キリストの贖いを空文にしてしまうのです。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」(2節)
大切なのは「今」です。
そうです。救いには、賞味期限があるのです。
恵みの時に、差し伸べられた救いの御手に応じるべきであり、明日に引き伸ばす事無く、救いの告げられた日の内に、素直に受け入れるべきなのです。

パウロは自分を、神のしもべとして推薦している、と話しております。(4節)
それは、この奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも、人につまづきとならないために、です。

私たちが神のしもべとして福音を伝えているのに、その私達事態がしっかりしていなくて、私達の存在が逆につまづきのきっかけとなり、福音の妨げになるような事は、あってはなりません。
だから私たちは、この身をもって、神の栄光を現す器として、整えられなくてはなりません。

「栄誉を受けるときも、辱めを受けるときも、悪評を浴びるときも、好評を博するときにもそうしているのです。」(8節)
悪評を受けるのは望ましくないと感じるものですが、最も良くないのは、好評も悪評も無い事、つまり、何も伝え無い事です。
私たちがすべきことは、まず御言葉をのべ伝える事です。

「人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(9,10節)
私達は、弱い時にこそ強いのです。
なぜならキリストの力は、弱さのうちに完全に現われるからです。(2コリント12:9)
求めるべき事は、私たちが強くなる事ではなく、私達の内におられるお方に働いていただく事です。

どうか、このイエス・キリストにある、大能の力に満ち溢れ、どんな時にも、いかなる困難においても、全てにおいて全てを満たすお方に働いていただき、このお方を表現する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:託された和解のつとめ(2コリント5:16-21):右クリックで保存
韓国語通訳有

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しい者が生じた。」(17節)

私たちはキリストにあって、生まれながらの自分とは全く違う、全く新しい人間となります。
血筋も、能力も、誰かからの支配も、外見も関係無く、ただ神によって、新しくされるのです。

「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1章12-13)

新しく変えられるのは、血筋や肉体的性質に留まらず、遺伝的な病気や、家庭内の虐待や歪んだ育て方によって染み付いてしまった、呪われた生き方からも解放されます。
そのようにキリストによって新しく造り変えられたという証は、キリスト者達から沢山聞くことができます。
キリストは、生きておられるのです。

「それで、わたしたちは、今後だれをも肉に従って知ろうとはしません。肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません。」(16節)

この世は、血筋や能力、どこに属しているかなど、目に見えるものさしで人を判断しますし、自分の事も判断します。
しかし、キリストにあって新しく生まれた以上、そのような肉的な標準で自分を計る必要はありません。
キリストを信じた者にとって重要なのは、「私が何者か」ではなく「私の内におられるお方は何者か」だからです。
「子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです。」(1ヨハネ4:4)

キリストは神と私達と間を、和解させてくださいました。
今、イエス様は肉体をもってこの世におりません。だから和解のつとめは、肉体を持ってこの世にいる私たちに、課されているのです。(18節)

「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(20節)
私たちがキリストの使者である以上、まず、キリストというお方の人となりを、そして神の意図している事を、正確に知り、伝える必要があります。
そのためにはキリストを知る知識の霊がさらに与えられるよう、祈り求めるべきです。

「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:17-19)

イエス様の名前によって祝福します!

悔い改めの大きな喜び(ルカ15章11-24節)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ルカ15章の3つの譬えから、3種類の悔い改めのパタンを知る事が出来る。
3つのたとえで共通している事は、羊も銀貨も弟息子も、元々、本来居るべき所にいたけれど、何らかの理由で離れ、そして、戻って来た事である。
まず迷子の羊は、迷い出た所を羊飼いなるイエス様に探され、見つけられ、肩に担がれて戻された。
二つ目の譬え(8-10節)の銀貨は感情も意志も無い物質で、私達が銀貨に感情移入する余地は全く無い。
ただ、捜す側の一方的な熱心だけが際立ち、たとい感情も意志も無い「カネ」のような人でも、一つでも無くなれば意味をなさず、女(教会または聖霊)は救いたいという情熱をもって掃き清め、そして見つけ出す。

羊は勝手に迷い出た所を、また、銀貨は持ち主のミスで無くした所を、持ち主によって一方的に探され、取り戻されたが、放蕩息子のたとえは、弟息子が明確な意思をもって、自ら父親の元を離れて行き、そして父親は、羊飼いや女のように出て行って探す事は無く、息子が自らの意志で戻るのを、ただ待っていた。
ここに、父なる神、子なるキリスト、聖霊また教会の性質が分かり、そして迷い出た者が悔い改め立ち返る事は、天においても地においても、父も子も御霊も、教会も御使いも、大きな喜びが沸き起こる事が分かる。

御父は、自らの意志で出て行く者、自らの意志で命令に逆らう者を、「死んだ者」「失った者」として悲しみ、いつでも立ち返るのを待ち、悔い改めて戻って来たら「生き返った者」「得た者」として喜ばれるお方である。
しかも、悔い改めて父の元に戻って来る事には、信じられないほどの大きな特典がついている。
「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」(ルカ15:22-23)
息子は、もう子と呼ばれる資格は無いと認め、雇い人の一人にしてもらおうと来たのに、父は、子としての晴れ着を着せてやり、権威そのものである指輪を嵌めさせ、また、足に履物をはかせてやった。
履物を履かせるという行為は、その人を奴隷としてではなく自由人として認める行為である。
つまり父は、息子を、雇い人や奴隷としてではなく、自由人として、子として、相続者として認めているのだ。
また、服も、指輪も、靴も、サイズが合わなくては身に着けることは出来ず、知っていなくては用意できない。
御父は、子がいなくなっている間も、いつでも戻って来ても良いように、息子に身の丈にあった晴れ着や権威、歩み方を用意し、悔い改めて立ち返った折にはそれらを与え、子としての特別扱いをして下さる。

アダムは元々、神の子として創られたのに、自らの意志で御言葉に逆らい、御父から隠れ、悔い改めなかった結果、御父の保護の下にあったエデンを追い出され、神から与えられた尊い財産、いのちの息吹を、ただ放蕩するしかなく、それを使い切った時、死ぬしかなかった。
憐れみ深い御父は、羊飼いなる御子イエスを世に遣わし、悔い改めによる救いの道を示してくださった。
御父を離れた世で、世の主(サタン)から任される仕事は、豚飼いという、労だけが多い、汚れた仕事である。
豚は汚れた動物であり、その世話をする事はともかく、豚の食べる物さえ欲しい、けど誰もそれを食べさせてくれない、というのは惨めの極み、屈辱の極みである。
自ら父を離れ、あくまで「自分の行きたいように」を貫き通す者は、心を御父に向かない限り、いつまでも惨めな、どん底の生活からは、決して抜け出せない。

今皆さんは、御父を離れているだろうか。豚の食べている汚れたエサさえ欲しいと願っているだろうか。
しかし豚のエサは聖徒達にふさわしくないため、神の子達には、決して豚の食べ物は与えられない。
御父の元を離れているのであれば、断然、戻るべきであり、御父が用意してくださったまことの食物、屠られた肥えた動物、すなわち、屠られたキリストを、共に食すべきである。(23節)
「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(10節)
御父の元を離れず、もし離れてしまったとしても、いつでも悔い改めて御父に戻り、王子としての王服と権威、歩みを返していただき、その内を歩む皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
失われた銀貨(ルカ15:8-10):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
サドカイ派(マルコ12:18):右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヤコブ3:13-18:右クリックで保存
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