メッセージ - 201202のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:惜しみなく施す祝福(2コリント9:1-7):右クリックで保存
韓国語通訳有

パウロがコリント教会に、エルサレムへの献金を確実に実行するよう手配したのは、お金が欲しくて、という理由では当然ない。
コリントの人達みずから出た良い約束を、偽りとさせないため、そして、せっかくコリントから飛び火した憐れみの心に、冷や水を浴びさせないためである。(1-4節)

コリント教会は元々、どこよりも先んじて、献金を集めて送ろう、という動きが起こり、それがマケドニヤなど周囲の霊と心に火をつけ、その良き働きが広がって行った。
にも関わらず、コリント教会は、偽兄弟や偽使徒にかき乱されてしまい、せっかく起きたその良い働きを中断してしまった。
そこでパウロは、初めに沸き起こったその良いビジョンへと再び戻らせようとして、この手紙を書いたのである。

6節以降に、捧げものをする時の心構えを書いている。

「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」(6節)
それは旧約(箴言11:24-25)にも、新約(ルカ6:38)にもある法則であり、喜んで与える人に神は、押入れ揺すり入れして与えて下さる。

これは世の中の成功哲学でも言われている事だが、そもそも成功哲学とは、成功した人達の行動パターンの統計を取り、編み出したものだが、世の中で成功しているのはユダヤ人が多く、そのユダヤ人が基にしているのは、旧約聖書である。
つまり、聖書こそ最も純粋な成功法則であり、成功の根源である。

惜しみなく施す事には、豊かな祝福がある。
「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(7節)
苦痛を込めつつ捧げるのは、神様に喜ばれるものではないし、周りがみんな捧げているから私も捧げなきゃ、と、空気を読んで捧げる心も、喜ばれるものではない。
ただ、自らの心から湧き出た感覚の通りに、喜んで捧げる捧げものを、主は喜ばれる。

人に知られないよう、密かに捧げる捧げ物を主は喜んでくださるが、コリント教会とマケドニヤ教会のように、他の兄弟姉妹の捧げる様が公にされ、それを見た兄弟姉妹の心が奮い立たされ、その良きわざが広がっていく、という事もある。
また、ある人が惜しみなく捧げ物をして、その人がどんどん祝福される様を見て、それを模範として見ならって捧げた結果、大いに祝福を受けた、という事もある。
公にするにせよ、密かに捧げるにせよ、捧げ物は、各々示された通り、嫌々ながらではなく、心に決めたとおり、喜んで捧げるのが、本来のあり方である。

喜んで捧げ、神様から喜ばれ、さらに祝福され、さらに捧げられるようになる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:キリストの栄光の奉仕(2コリント8:16-24):右クリックで保存
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今日の箇所は、コリントへと派遣する働き人たちの紹介である。
ここではテトスと、匿名の2名の兄弟について紹介している。

テトスへの手紙1章を見ると、テトスの人となりがわかる。
彼はパウロにとって「真実のわが子」であり、野蛮であったクレテに残り、町ごとに長老たちを任命するという、困難で重要な任務が任されている。
そんな彼の心に、コリントへの熱い思いが湧きあがり、この勤めに志願したのであった。

さらに二人の兄弟達が紹介されており、この二人はなぜか匿名であるが、二人がどういう人物であるかは、書かれてある。
一人の働き人は、福音の働きによってすべての教会で称賛され、諸教会の任命を受けた人で、もう一人の兄弟は熱心な人で、コリントの様子を聞いてに会いに行きたいという熱心が起こされた。

パウロはこの献金については誰にも非難されぬよう、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけている。(20節)
献金は聖なる捧げものであるが、人とお金の絡み具合によっては、献金が人につまづきとなる事もあるため、パウロは、この奉仕の実体を説明し(19節)、そのための奉仕者として、テトスと兄弟二人を紹介したのだ。

私たちが神の国の働きをする時、その内実はすべて、キリストの栄光である。(23節)
神の国の働きの内容に、ある奉仕は尊く、ある奉仕は卑しいというものは無い。
人知れず教会の便所掃除をしている人も、キリストの栄光であり、大集会で華々しく賛美リードしている人も、同じキリストの栄光である。

テトスの他二人の奉仕者は、匿名のまま聖書に名前を残されなかった。
しかし彼らは主の栄光である、と、19節と23節で2回言われている。

人は何かと、大勢の前で大活躍する事を望むが、たとい誰から見られていなくても、隠れた所でみておられる主が報いてくださる。
あの人は大勢に見られ、大勢から祈られ、心にかけられているけれど、自分は誰にも見られていないし、祈られてもいない、などと、いらぬ心配をする必要は全く無い。
主は隠れた所を見ておられ、その奉仕の心を良しとされ、主の栄光となるからである。

私たちがイエスの名によって願い、それが叶えられる事によって、父は栄光をお受けになる(ヨハネ14:13)。
主に多くの栄光が捧げられるよう、用いられる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:捧げる事の喜び(2コリント8:8-15):右クリックで保存
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持っている人と持っていない人の差を、貧富の差と言う。
貧富の差は悪い事である、と言う理由は、自分の物は人に与えない、という価値観の元に生きているからである。
しかし、貧富の差があるからこそ存在する、良い事もある。
それは、恵みや施しである。

「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」(15節)
神の民に、マナという恵みが降りそそいだ時、ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。(出エジプト16章)
それぞれの力量の差により、集めた量に差が現れたが、共同体全体で分け合った結果、余ったり不足したり、という事は一切無かった。
神は最善を為されるお方であり、40年もの間、共同体全体に最適な恵みを、一日も漏れる事無く、降らせて下さったのである。

自分で集めた物は自分の物、人には分け与えない、という価値観が世の中にはびこっているが、神の国での価値観は、欠乏している人には持っている人が補う、というものである。
「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。」(14節)

多く集める者と、少なく集める者の差は、言ってみれば貧富の差であるが、それがあるからこそ、恵みの業や施しの業が成り立つのである。
もし皆が皆、大金持ちであれば、何かをあげても、もらっても、何の喜びも甘さもない。
しかし、持っている人が持っていない人に与える時、持っていない人を大切に思う心や憐れむ心が刺激され、実際に分ける事によって、愛と徳が増し加わる。
与えられる人にも、不足が満たされた喜びや、その人への感謝が生まれ、こうして、与える側も与えられる側も、ともに愛に満ちた麗しい感情が湧き起こるのだ。

私達の主イエス様こそ、最たる恵みを与えて下さったお方である。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(9節)

主は富んでおられたのに、貧しくなって下さった。
自らのいのちを支払って、私たちのいのちを買い取ってくださった。
それによって私達の内に、感謝する心、愛する心、大切に思う心、人をあわれむ心、生きた者とされた事への喜びが沸き起こった。
彼が与えてくださり、愛して下さったからこそ、私達もキリストを目標とし、兄弟姉妹を愛し、恵みのわざを為すのである。

キリストは罪と貧しさに満ちた世に降りてこられ、自らのいのちを与えることにより、こよなき愛を示してくださった。
だから私たちは永遠に入った時、永遠にキリストを感謝し続けるのであり、また、今、この世において貧しい兄弟姉妹に施しをするのであれば、それもまた永遠に残る記念となる。
頼る者の無い人に施しをする事は主に貸す事であり、御言葉の故に失うなら、永遠に得るのである。
「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」(ルカ18:30)

やがて私たちが行く天の御国には、貧しい者も不足も無く、あらゆる良きもので満ちている。
今この世界では貧富の差があり、不足を覚える事があるが、逆に言えば、恵みや施しは今しかできない。
自分の持ち物など、永遠に残るものではないが、恵みと施しのわざは、天における貯金となり、栄誉となるのだ。

喜んで施しをし、さらに豊かに施しができる祝福が与えられる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

気違い預言者と話すロバ(民数記22章)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ロバは、馬に比べればスピードも力も無いが、温厚で扱いやすいため、馬よりも古くから人や荷物を乗せるために用いられ、寓話の中では、鈍重さや柔和さを表す動物として描かれて来た。
主も、ロバを用いられた事があった。エルサレム入城の時(マタイ21:1-11)、そして、神の言葉を預かる者バラムが、気違い沙汰に走ろうとした時である。(民数記22章)

バラムは、モアブの王にイスラエルを呪うよう、金でお願いされた時、神からそれを止めるよう言われた。
それは、イスラエルは神に愛され、祝福されているからである。(民22:12)
しかし、もっと位の高い者達が送られ説得された時、彼の心に迷いが生じ、「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません。」(18節)などと口先では綺麗事を言った直後に、「あなたがたも、今夜はここにとどまって、主がわたしに、この上何とお告げになるか、確かめさせてください。」などと、既にはっきり示された御心なのに、もう一度伺うような事をした。(同19節)

バラムの道とはすなわち不義の報酬を愛する道(2ペテロ2:15)であり、預言者としては気違い沙汰である。
主は、どのようにして、この気違い沙汰を止めるか。それは、ロバの口を通してである。
神の使いが抜き身の剣を持ってバラムに敵対して立った時、預言者である彼にはそれが見えなかったのに、彼を運ぶロバには神の使いが見えた。ロバは3度も身を翻したが、バラムは怒ってロバを3度も打った。
主はろばの口を開かれ、人間語で物を言ったが、バラムは何の不思議とも無く、普通にろばと会話した。
「バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の気違い沙汰をやめさせたのです。」(2ペテロ2:16)

第二ペテロ2章には、偽預言者の特徴が描かれてある。
偽預言者の特徴は、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否し、自分の身に速やかな滅びを招く事である。(1節)
そして、彼らのために真理の道はそしられ(2節)、彼らは欲が深く、偽りで聖徒達を食い物にする。(3節)
バラムの道を歩む者、偽預言者の行き着く先は、剣による滅びである。(民数記31:8、ヨシュア13:22)
「バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。」(黙示2:14,16)

私達はバラムがした事とその行き着いた先をよくよく思い、私達の中のバラムを取り扱わなくてはならない。
バラムは、欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生んだ。(ヤコブ1:15)
しかし、私達はイエス様にあって、祝福の民である。イエス様に名指しされ、呼び出され、彼を乗せて歩んだロバが、彼と共に栄光を受けたように、私達もイエス様をお乗せして歩むなら、共に栄光を受ける。
イエス様をお乗せして運んでいる限り、私達は祝福された者であり、たとい力ある著名なニセ預言者が、呪おうとしても呪う事はできず(申命記23:5)、たとい彼らが打っても、主が弁護して下さる。
私たちが担ぐべきお方は、預言者ではなくイエス様であるべきであるが、もし、仕えて運んでいる預言者が、誤った道に行こうとし、主が抜き身の剣で立ちふさがっているのを見たなら、ロバがしたように、留まって止めさせるべきであり、たとい叩かれたとしても、私達自身の口からことばの剣を出して戦うべきである。

「心の清い(単一な)人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)
たといロバのようであっても、常にキリストを運んでいる者として心を清く保ち、欲に目をくらまされる事無くキリストを見続けて歩み、いかに力あるニセ預言者の呪いの言葉でさえも、祝福に変えていただく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
隠れた事は明らかに(2サムエル12章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ザアカイ(ルカ19:1-10):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヤコブ4:1-5:右クリックで保存
韓国語通訳有

礼拝の後、皆で集会室で昼食をとるには、場所が手狭になってきました。

主がそろそろ場所を広げてくださらないかな。。。

「必ず、あなたの廃墟と荒れ跡と滅びた地は、いまに、人が住むには狭すぎるようになり、あなたを滅ぼした者たちは遠くへ離れ去る。
あなたが子を失って後に生まれた子らが、再びあなたの耳に言おう。『この場所は、私には狭すぎる。私が住めるように、場所をあけてもらいたい。』と。」(イザヤ49:19)

主日メッセージは放蕩息子の譬えからでしたが、まさしくそのような週でした。

失っていた兄弟姉妹を得て、喜びに溢れ、今まさに宴会のような感じです。

昨晩の祈祷会は、イエス様の十字架が迫ってきて、みんな泣いていました。

そしてその後、交わりが盛り上がって6,7人で教会に泊り、結局寝たのは朝5時でしたが、11時に起きてそのままファミレスで再び交わりに入り・・・。

私は礼拝準備のために抜けてきましたが、まだ交わりは続いていると思います。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。
かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り/衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
ヘルモンにおく露のように/シオンの山々に滴り落ちる。シオンで、主は布告された/祝福と、とこしえの命を。」
詩篇133編

礼拝説教メッセージ音声:捧げる事の喜び(2コリント8:1-7):右クリックで保存
韓国語通訳有

8章でパウロは、施す事、捧げる事を勧め、その恵みと祝福を分かち合っています。
「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」(1,2節)

マケドニアの教会は、激しい試練に遭い(使徒16、17章)、窮乏の中にありました。
普通「恵み」と言えば、試練や貧しさとは真逆の事かと考えがちですが、必ずしもそうではありません。
それを理解するキーワードは、2節の「満ち満ちた喜び」です。
神の恵みとは、試練や極度の貧しさなどの状況に左右されない、満ち満ちた喜びであり、状況に左右されない平安の事です。

「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。」(4節)
この「慈善の業と奉仕」の原意は、コイノニア(交わり)です。
すなわち、交わり(コイノニア)とは、受けるよりも与える事の意味合いが強いのです。
教会や聖徒達の交わりから何か得ようという動機で、交わりを求める人もおりますが、本来交わりとは、キリストのからだである聖徒達のために捧げる事、与える事です。

マケドニアの人達は、極度に貧しいにも関わらず、むしろ喜んで惜しみなく施しました。
それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえであり(ピリピ4:18)、そして神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、私達に必要なものをすべて満たしてくださいます。(同19節)
ピリピの教会は神から栄光の富をいただき、そうして成長して行きました。
それだから、施す事はまさしく恵みだと、パウロは言ったのです。

私たちも、主にあって捧げるなら豊かに祝福され、全ての必要は満たされ、あらゆる面で富む者とされていきます。
そのように祝福される皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
 

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