メッセージ - 201112のエントリ

当教会では、今夜22時半より年越し礼拝を行いますので、兄弟姉妹達は今、その準備をしています。

今年は災い多き年でしたが、それでも主にあって無事守られてきました。

私達信じる者達には、単に守られてきたばかりでなく、起きてきた災いを上回る恵みとあわれみも、主から示されてきました。

これを読んでおられる皆様も、どうか主にしっかりと繋がって、恵みとあわれみが豊かに注がれる来年でありますように!

主イエスキリストの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:聖餐(1コリント11:23-34):右クリックで保存
韓国語通訳有

今年最後の早天礼拝メッセージは、奇しくも聖餐の箇所、第一コリント11章、23節から34節までです。
イエス様は、肉体の命の最後の夜、聖餐を制定されました。

主が制定された聖餐には、とても大切な意味があります。
パンと杯をいただくのは、主の死を告げ知らせるためであり、また、「わたしの記念として」(24節・25節)これを行います。
聖餐を頂く時、私たちは、イエス・キリストというお方を覚えて、パンと杯をいただく必要があります。

パンは、イエス・キリストの裂かれた肉体を覚える意味があります。
当教会では、小麦粉を手でこねて作った種無しパンを使うのですが、そのパンを手作りする方が、お話して下さいました。
その粉は、本当によく砕かれた粉で、そして手でよくこねたものでないと、パンはうまく焼けないそうです。
イエス様が砕かれて、主の御手のうちでこねられたように、私たちもよく砕かれ、主の御手の中で陶器師の粘土のように、こねられなくてはなりません。

また、パン種や蜜のような、余計なふくらましや味付けはしてはなりません。
種無しパンは、特に味があるわけではありませんが、噛めば噛むほど味が出て、甘くなっていきます。
御言葉なるキリストも、本当によく似ています。
御言葉も外見的には特に見栄えはせず、そのままでは特に味はしないのですが、噛めば噛むほど味わいが出てきます。
そして御言葉には、私達の好む味付けを混ぜたり、ふくらましをさせてはならないのです。

杯は、ぶどうの実で作られた液体が入っています。
ぶどうも特徴的な果物です。粒々がたくさんあり、そのまとまりを一房として数えております。
イエス様は、主はまことのぶどうの木、あなた方は枝です、と言われました。
ぶどう酒は、それら、身が一つ一つすり潰されて、各々の形は留めておりません。
もはや、一粒一粒という個性や形は無いように、私達も主を礼拝する時は、各々の個性や形を主張してはいけません。

27節に、「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」と書いてあります。

イエス様を信じていない方は、主が割かれた肉や主が流された血をわきまえておりませんので、聖餐には与れません。
ところが、イエス様を信じて、洗礼を受けたにもかかわらず、自分が「ふさわしくない」と勝手な判断をして、聖餐を受けない人がおります。
それまでの自分の行いを顧みるに、罪ばっかり犯して自分に良い事がないだから、自分は聖餐を受けるにふさわしくない、という判断をするのです。

もし、罪を犯したか犯してないか、という基準で、聖餐に与るにふさわしいか相応しくないかを判断するとしたら、ふさわしい者など、誰一人いません。
では、ふさわしいとは、何の事でしょうか。
それは、24・25節両方にあるキーワード「わたしを覚えて」という言葉です。
自分がどういう人間か、ではなく、イエス様を覚えているかどうか。それが、ふさわしいかふさわしくないか、です。

私達は自分を吟味する時、自分に罪がある事は、明らかに分かります。
だからこそ主は、そんな私達のために血を流し、肉体を割いてくださったのです。
私達は断然、イエス様を覚えるべきであり、流された血を、裂かれた肉を感謝しつつ、聖餐に与るべきなのです。

聖餐が渡されても拒否するのは、イエス様の裂かれた肉を、流された血を軽んじる事になってしまいます。
イエス様が購いきれないような罪はありません。
どうして私達は、イエス様がせっかく割いてくださった肉、せっかく流してくださった血を、ないがしろにする事ができるでしょか。
そのような、主の体をわきまえない飲み食いは、裁きを招くことになってしまいます。

30節には「そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです。」とあり、これを読むと、非常な恐ろしさを感じます。
コリントで弱い者や病人、死んだ者が多く出たのは、29節にあるとおり、主の体をわきまえない飲み食いが、裁きを招いてしまった結果です。

罪が宿っている肉をまとっている皆さんが、罪を犯してきたのは、当然のことです。。
その罪を、イエス様が購ってくださった事、イエス様を信じる者は赦されるという事を、信じておりますか。
もしアーメンであるなら、流してくださった血潮を、裂いてくださった体を、ただ感謝して頂くべきなのです。

主イエス様を中心とした交わりを、清く保っていく皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって、祝福します。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:聖なる教会の集まり(1コリント11:17-22):右クリックで保存
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「あなた方の集まりが益にならないで、かえって害になっている」(17節)
兄弟姉妹が共に集まるのは良い事のはずですが、害になる集まりというのも、確かに存在します。

17から19節では、パウロは教会内に分裂がある事を指摘しておりますが、彼は、それが起こるのは仕方がないと言っております。
といのは、兄弟姉妹の中に、混じっている偽兄弟と、本物の兄弟が明らかにされるために、分裂が起こるのは、止むをえないからです。
教会から去っていく人にはいろいろ理由がありますが、自分の欲望が満足されない事で、教会を去っていく人は、そのまま去らせておけば良いのです。
なぜなら、教会は、自分の欲望を満足させる場ではなく、主が満足する礼拝を捧げるべきだからです。

しかし、パウロがここで叱責しているのは、教会の中で助けるべき弱い人や貧しい人を、軽んじたり辱めたりして、躓きを与えている人達に対してです。
教会は、御使いも共に参加する聖なる所であるのに、単に飲食をしておしゃべりをするサロンのように見なして集う人達もおりました。
そのような人が、めいめい我先にと食事を全部たいらげて、酔っぱらっていたようです。(21節)

コリントに近いアテネの町においては、自由階級に属する人達が日々、何か目新しいことを見聞きする事に終始し、時間をつぶしておりました(使徒17:21)。
おそらくコリント教会でも、時間を持て余して暇つぶしをしているような自由人、それに対し、夜遅くまで働いている奴隷とが、共に集まっていたことでしょう。
自由人たちは、早い時間に集まって我先にと飲食し、夜遅く疲れて帰ってきた奴隷階級の兄弟姉妹たちが空腹のまま何も食べられない、というような状況だったのかもしれません。
「単に飲食のためなら、自分の家があるでしょう」この22節からは、パウロの憤りが感じられます。

「神の教会」は、飲んだり食べたり、寝たりおしゃべりしたりといった目的のために集まる場所ではなく、聖なるお方に礼拝をお捧げする、聖なる交わりです。
教会のスタッフは、ただ単に人に仕える優しい人達ではありません。
主を差し置いて人に仕えるなんて、とんでもない事です。
教会にいるスタッフは、人にではなく主イエスに仕える人達です。

困っている人を助けるのは、確かに良い事です。
しかし、人が良い方向へと変わるのは、提供される食料やお金などによってではありません。
御言葉を聞いて悔い改める事によってのみ、人は良い方向へ変われるのであり、悔い改めの無い人達に、食料やお金をいくら与えても、それは益にならないで、かえって害になるだけです。

教会での交わりを、単に、食事や交わり、寝食とかいった「物」を目的とするのではなく、悔い改めて聖められ、御言葉によって養われる事を目的にするべきです。
御言葉にしっかり繋がり、ますます純粋となっていく教会でありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

最近行っている路傍での賛美は、今までと違い、人にを見てではなく、天をあおいで主に向かって賛美しています。

トラクト配布も、誰彼かまわずではなく、賛美に目を留めて足を止めた方だけに配っています。

以前、誰彼かまわずトラクトを配って、今日は何枚配ろう、といったやり方をしていた時より、はるかにラクで、しかも、路傍での賛美を始めてから、教会に新しく来る人や、連絡を下さる方が、増えています。

増えているのは、路傍から繋がる人ではなく、全く別の方面から、新しく来る人です。

あたかも主が天の窓を開いて、喜んでおられるかのようです。

礼拝説教メッセージ音声:女のかぶりものについて(1コリント11:1-16):右クリックで保存
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今日の箇所では、パウロは、女は祈りや預言をする時は、頭にかぶりものをするように、男はしないように、と指示しております。
パウロは律法を知り尽くしているはずですが、旧約律法の中には、礼拝中のかぶりものについては特に指示はありません。
パウロはなぜ、コリントの人達に、かぶりものの指示をしたのでしょうか。
それは、当時のその場所の習慣を知らなくては、理解しづらい事です。

当時の習慣として、女性は通常外を歩く時、かぶりものをして髪を隠しておりましたが、遊女はそれをせず、誇らしげに自分の髪をあらわにして「女」をアピールをしておりました。
現在でも、女性は、露出する事がより前衛的、よりかっこいい、という価値観の元に、足や素肌を露出している女性もおりますが、それと同じように、当時のコリントでも、かぶりものをかぶらないことが、前衛的で進んでいるような風潮があったのかもしれません。

しかし「コリント風」という言葉が性的不品行の代名詞にまでなったコリントという町の中の、祈りや預言をする教会という場で、女性が遊女のようにかぶりものを脱ぎ、「女」という事を全面に押し出したり自分をアピールするのは、当然、問題のある事でしょう。

女性に限らず男性でも、あがむべきお方であり礼拝の中心である方・イエス様を差し置いて、「自分の誇らしげな何か」を誇示し、主よりも注目を集めようとするのは、栄光泥棒です。
「自分の誇らしげな何か」とは、歌声や楽器奏楽テクニックかもしれませんし、朗々と出てくる祈り言葉かもしれませんし、雄弁な説得力や財力かもしれません。
それらの存在そのものは良いかもしれませんが、もしそれらが、神様から注目を奪い、人間に注目させる「栄光泥棒」となるなら、それは問題です。

現代の日本では、女性が帽子をかぶる・かぶらない事に、あまり意味はありませんが、例えば礼拝中に足など肌を露出する格好をし、人々の注目を神様から奪って、いらぬ情欲を起こさせるのは、あってはならない事です。

神は無秩序な神ではなく秩序の神であり、私達には従うべき権威の順番があります。
「すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。」(3節)
パウロは女性を卑しめているわけではありません。
ただ、創造の御業には順番があり、その順番に従って権威に服従し、秩序正しく礼拝を行いなさい、と言っているのです。

さて、10節を見ますと、「だから、女は天使たちのために、頭に力の印をかぶるべきです。」とあります。
礼拝という場においては聖なる天使たちも参加しております。
天使が礼拝をする様を見てみましょう。イザヤ書の6章1節から4節です。

セラフィム(天使)は、二つの翼で顔を覆っておりました。
それは、権威は自分にではなく神にあるということを、表しております。
また、二つの翼で足を覆っていました。
それは、自らを隠す慎み深さを表すためです。
御使いがそのようにして、聖なるかな、と賛美したとき、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされました。
この御使い達のように、自らの栄光を隠して、自らの美しさを隠して、神を賛美するなら、神の栄光は、大いに満ち満ちて行きます。

天使は神の栄光を表す、神を助ける美しい使いで、女も、男の栄光を表す者として美しく創られました。
天使は、自らの美しさに驕り高ぶって、神のようになろうとしたら、投げ落とされ、サタンとなりました。(エゼキエル28:17)
ですから、女もおごり高ぶって、男に先んじようとするなら、それはサタンの道であり、また男もキリストに先んじようとするなら、それはサタンの道です。

11節、12節「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たように、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。」
男性と女性、どちらが優れ、どちらが劣っているか、という議論は、ナンセンスです。
主にあって、女は男を離れてあるべきではないし、男も、女を離れてあるべきではないからです。
全ては神から出ていると書いてあるとおり、男も女も、それぞれ創られた領分を守り、創造の秩序に従って、神に栄光を捧げるのみです。

正しい秩序のうちに礼拝を行い、神にのみ栄光を捧げる皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:主の妬み(1コリント10:14-22):右クリックで保存
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コリント人の一部は、イエス様を信じた後でも、なお親戚や近所付き合い等で偶像の宮に一緒に行き、偶像に捧げられたものを一緒に食べるような事をしておりました。
今回は、そのような人達への戒めです。

既に8章の方で、偶像とは単に物であって神ではなく、偶像に捧げられた肉には何の意味もない事を、パウロは語りました。
という事は、親戚づきあいを壊さないために一緒に偶像を拝み、一緒に偶像に捧げた肉を食べて、良いのでしょうか?

偶像は確かに神ではないのですが、偶像に捧げている人たちは、悪霊にさ捧げている事だと、パウロは言っております。(20節)
それを説明するために、まず16節で、聖餐の事について触れております。

私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血に与ることであり、また、私達の割くパンは、キリストの体に与る事です。
また、旧約律法における肉による礼拝においても「供え物を食べる者は、祭壇にあずかる」とあります。

つまり、食べるという行為は、食べる対象と「一つになる」事を意味します。
という事は、偶像の宮に捧げ悪霊に捧げたもの食し、偶像霊すなわち悪霊礼拝をしている者と同じ食卓の交わりに加わるとは、悪霊と一つになる、という事になります。

偶像礼拝とは、霊的姦淫です。
唯一愛するべき夫がいるにもかかわらず、別の男のに走ってしまった女を、夫が激しく妬むように、神も、唯一愛すべき神がいるのに、別の神に走ってしまうような者を、激しく妬むのです。

エレミヤ3章の1節から5節までをお読みください。ここではイスラエルを、夫がありながらその夫を去り、他の男の所に行っている女に例えています。
この箇所からわかる事は、神様の目から見れば、イスラエル共同体は「妻」という立場にある事です。

現在、教会という共同体は、キリストの妻という立場です。(エペソ5章)
ですから、キリストの妻たる私たちが、別のものに走るならば、主の妬みを引き起こすのは、当然です。

妬みとは、敵意より激しい感情です。
敵を憎むのは当然ですが、共に一つとなって愛し合うべき妻が、他の男に走るとなると、敵意よりはるかに強い感情を引き起こしてしまいます。

不信者が偶像礼拝を行なっても、神にとっては大した事ありませんが、既に一度、主に愛されて、妻となった私たちが、他の神々に走るとなれば、妬みを引き起こし、不信者よりも激しい災いが起こる事になってしまいます。
「私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか。まさか、私たちが主よりも強いことはないでしょう。」(1コリント10:22)

コリントと似たような状況である今の日本に住む私達も、気を付けなくてはなりません。
唯一愛すべきお方、イエス様から決して離れず、身を聖め、交わりを純粋に保ち続ける皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福します。アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:与えられている自由の用い方(1コリント10章23-33):右クリックで保存
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『「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。』(1コリ10:23)
パウロは6章12節でも同じことを言っていますので、おそらくコリントの人達は、この言葉を根拠にして、好き放題な事を行っていたのかもしれません。
キリスト者には全ての事を行える自由が確かにありますが、「すべてのことが益になるわけではない」と言っています。

キリスト者には自由が与えられているのですが、何でもかんでもやっていい、というわけではありません。
その自由が、ある人にとっては躓きとなり、ある人にとっては滅びになるかもしれないからです。
それで「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい。」と24節に書いてある通り、他の人への心遣いも必要です。

偶像の宮で捧げられた肉を、食べるか食べないかの話の続きが、25節以降に出てきます。
25節に 「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。「地とそこに満ちているものは、主のもの」だからです。」とあります。

信仰の無い人から食事に招待され、それに応じる場合、食事が偶像に捧げられた物かどうかといった心配はせず、そのまま感謝して食べなさい、と、パウロは27節で勧めております。
信仰の無い人に招待されたら断りなさい、とは、言っていない事に注目下さい。
そんな事でなら、この世で社会生活は成り立ちません。
自分が汚れを受ける事を心配するよりも、その人の所に行って、キリストを届ける方が、はるかに有益です。

さて、ここで昨日のメッセージをお聞きになった方の中には、疑問が沸いた方もいるかもしれません。
昨日のメッセージの箇所は、偶像に捧げた肉は悪霊に捧げたものである、だから、それを食べて、悪霊と交わる者となり、主の妬みを引き起こすようなことをして良いものだろうか、という所でした。
それなのに今日の箇所では、いちいち詮索せずに、そのまま食べなさい、と言っています。
偶像崇拝者の出される食事は、偶像に捧げられたものが出される確立は高いはずですが、果たしてそれで良いのでしょうか。
それを読み解くキーワードは、30節「感謝をして食べるなら」ということです。

神に感謝を捧げて食べるなら、それは清められるのです。
「しかし、この食物は、信仰を持ち、真理を認識した人たちが感謝して食べるようにと、神がお造りになったものです。
というのは、神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。 神の言葉と祈りとによって聖なるものとされるのです。」(第一テモテ4:3-5)
たとえ、偶像の宮に捧げられた肉を出されても、感謝して受けるのであれば、神の言葉と祈りによって、清められるのです。

イエス様に穢れた女が触れると、その女が信仰を持っていたので、彼女は清められました。
穢れたものが、キリストイエスの名によって、清められれば、それは、清められるのです。
私達も、たとえ穢れたものを受けても、神の祈りと言葉によって、清められるのです。

なお、次の事は、私・林の信仰であって、全てのキリスト者が受け入れられる信仰では無い事を知りつつ、語らせていただきます。
日本の農作物の一部は放射能汚染されていて、市場に売られているものが汚染されているかどうかと心配しつつも、かと言って食料は必要なので、とりあえず買って食べている状況です。
私は、第一テモテ4:3-5の、感謝の祈りをして頂くのであれば聖なるものとされる、という御言葉と、また、もう一つの根拠の御言葉「信じる人々には、、、たとい毒を飲んでも決して害を受けず」(マルコ16:17-18)という御言葉を、そのまま信じておりますので、食事に関しては、出されたものはいちいち心配や詮索をせず、神様に感謝をして頂く事にしております。
但し、明らかに「汚染されている」と分かっている物に関しては、人に勧めませんし、私も食べません。
全ての人が同じ信仰に立っている訳ではありませんし、それで人の躓きとなったり、無益な議論を引き起こしたりしないためです。
(以上の事は、私の信仰であって、人に勧めるものではありません。汚染されている・されていないの判断や、食べる・食べないの判断は、各々の信仰と責任に従って行って頂きたいと思います。)
とにかく、食前の感謝の祈りは、大いに有益である事は、確かなのです。

さて、今日の箇所でパウロが伝えたかった事のまとめは「ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、あなたがたは人を惑わす原因にならないようにしなさい。」(32節)です。
ギリシア人は律法を持たない民、ユダヤ人は律法を持っている人達ですが、全ての人に対して躓きを与えないように、と強調しており、また33節にある通り、パウロは全ての人々を救うために、日夜苦心しているのです。
キリスト者には自由を与えられておりますが、その自由は、自分の好き放題、自由奔放という事ではありません。
むしろ、人を建て上げるのに、躓きとなるのであれば敢えてその自由を、あえて「制限する自由」が、クリスチャンには与えられております。

与えられている自由を、ぜひ、キリストを建て上げるために用いる皆さんでありますように。
そして、食前には感謝をささげて、頂くものを清め、また、あらゆるものに感謝して、それらを聖なるものとする、その祭司の役割を存分に発揮する皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって、祝福いたします。
アーメン。

礼拝説教メッセージ音声:つぶやきの災いと、そこからの救い(1コリント10:10):右クリックで保存
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私達が気を付ける戒めの第4回目は、つぶやきについてです。
出エジプトの民がつぶやいた事によって滅ぼす者に滅ぼされた箇所が、民数記16:41-50にあります。
その時、一万四千七百人もの民が、つぶやいた事によって滅ぼす者に滅ぼされてしまいました。
つぶやきの結果、刈り取る実は、滅ぼす者に滅ぼされてしまう事です。

この時、共同体がつぶやいて言った言葉は「あなたたち(モーセとアロン)は主の民を殺してしまったではないか」ですが、果たしてその通りでしょうか。
ここで彼らが言っている「主の民」とは、コラと彼につく有力者250名です。

コラと250名の有力者達は、見た目もよく、あたかも民の民意をくみ取っているかのような、耳ざわりの良い言葉を言っておりました。
しかし、彼らがモーセに逆らって立った時、モーセ達こそ神様が認めた預言者だと知らしめるために、地面は口を開け、逆らった者達は、生きたまま陰府に落とされてしまったのです。
モーセとアロンに逆らった「主の民」が滅んだのは、誰が見ても明らかに神の手によるものであり、コラたちが悪くモーセたちが正しかったと明らかに示されたのです。

ところがその翌日、なんと翌日に、早速イスラエルの共同体全体はモーセとアロンに「あなたたちは主の民を殺してしまったではないか」と言ってつぶやいたのです。
この民は、よほどモーセとアロンが上に立つのが気に食わないか、あるいはよほどコラ達に幻想を抱いていたようですね。
しかし、心頑なにしてつぶやく者に待っているのは、滅ぼすものによって滅ぼされてしまうという結果です。
神の立てた指導者に逆らう者が、いかに多くとも、また、いかに彼らが有名人で有力者然としていようとも、神の立てた権威に反逆すれば、必ず災いが下されてしまうのです。

私達が「つぶやき」から身を守る方法は、何でしょうか。
それは、くちびるを見張る、という事です。(箴言13:2-3)
ヤコブ書にも、自分の唇を制御できる者は、完全な者であると書いてあり、心のうちに何かあっても、自分の唇をしっかり見張って悪い言葉を唇に登らせない者は、命を救うのです。
しかし、どうしても自分の唇で言いたくて言いたくてつらい、ということもあるかもしれません。

詩編の39編において、ダビデは、自分の唇で罪を犯さないように、ことさら、悪者が自分の前にいる間は唇を閉ざそうと、努力した事を書いております。
しかしダビデは、悪口を抑えたばかりでなく、その人に言うべき「良い事」さえ黙っておりました。
そうすると彼の呻きは熱くなり、火が燃え上がるような感覚を覚えるようになりました。

そこでダビデは唇を開きますが、その唇を開いた相手は、人にではなく、主にでした。(4、7節冒頭)
唇を抑えていると苦しくなってくる事もありますが、そのような時は、主に何でも申し上げれば良いのです。

さて、唇でつぶやきを犯してしまい、滅ぼす者に追われるような状況になってしまった時、そこからの脱出の道は、何でしょうか。

先ほどの民数記の箇所を読みますと、この神罰が止んだのは、大祭司アロンの執り成しによってでした。
即ち、つぶやきによる災いからの脱出の道とは、大祭司のとりなしの内に入ることです。

執り成したアロンは、執り成されたイスラエルの民から、槍玉にあげられ、つぶやきの対象とされていた、にもかかわらず、また、もしかしたら自分も神罰に巻き込まれ死んでしまうかもしれないというリスクがあるにもかかわらず、アロンは執り成すために、走っていきました。
そうして神罰は止んだのです。

まことの大祭司イエス様は、人々から槍玉にあげられ、つぶやきを一身に受けたにもかかわらず、イエス様は自らの命を投げ出して、死と生との間に立って、私達のために執り成して下さいました。
もし、私達が神様に対して、あるいは、神の定められた預言者に対して、つぶやいたがゆえに、災いに遭うのであれば、大祭司イエスの所に行って、執り成していただくべきです。

つぶやくことのないように、唇をしっかりと見張り、有用なことばを語りだす唇として、平和に過ごす皆さんでありますように。
イエス様の御名前によって祝福します。
アーメン。

すばらしい喜びの知らせ(ルカ2:10-11)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
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もしもイエス様が生まれていなかったとしたら、私達に助け主・聖霊は与えられず、罪の赦しも、からだのよみがえりも、とこしえのいのちへ望みも無い、絶望の世界である。

ある牧師が夢を見た。その世界は、なんと、イエス様が生まれていない世界だった。
聖書を開くと旧約聖書しか無く、書斎の本からイエス様に関するあらゆる記述が消えており、救いは選びの民のみで異邦人は汚れた民、神殿に入って神を礼拝する事は、異邦人は赦されなかった。
戸惑いつつ書物を調べているその時、ドアを叩く音があった。開けてみると、貧しい身なりの子が泣きながら「死にかかっているお母さんのために祈って下さい」と訴えていた。
牧師はその子の家に行き、病にうなされているお母さんを前に、聖書を開いてみた。
しかし病の癒しの保障となるお方は世に来ておらず、誰の名によって祈って良いのか分からなかった。
母親は死を前に、今まで犯して来た過ちや罪を思い返して恐れていた。
牧師は聖書を探してみたが、罪の身代わりとなって下さった方がいないので、何の根拠ある言葉が思い浮かばず、また、聖霊による示しも無いため、死の恐れの中にある親子を前に、ただ一緒に泣いたり、人間の知恵によって励ましをするしか無かった。
そして、その母親は亡くなった。
その牧師は、彼女のためにお葬式をする事になったものの、罪の赦しやからだのよみがえり、永遠のいのちの希望の言葉は見当たらないので、ただ「土から生まれた者は土に帰る」という伝道者の御言葉を語り、その子と一緒に泣きながら埋葬するしかなかった。
牧師は、救い主抜きの自分があまりにも無力であり、そしてあまりにも希望の無い世界に、打ちひしがれた。
病や呪い、罪や死、滅びに対して無力である世界に、絶望して泣いていた、その時、その悪夢から醒めた。

牧師は聖書を手に取って見た。目に飛び込んで来た聖句には、次のように書かれてあった。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)
キリストの誕生は、どれほど嬉しく、人類全体にとって素晴らしい出来事だろう。
恐れるな、と私達に語りかけられた御使いの言葉は、何と力強く、慰めに満ちている事だろう。

イエス様が生まれてくださったからこそ、私達には病の癒しを祈る根拠があるのだ。(使徒3:16)
イエス様が、私達の罪のために身代わりとなり、罪を処罰して下さったからこそ、その名を信じる者は決して罪に定められる事が無く、罪と死の原理から解放されるのだ。(ローマ8:1-3)
彼が永遠のいのちへの道を開いてくださったからこそ、例え死の間際であろうと、平安と希望、喜びに満たされるのである。(1コリント15:20-22)
そればかりでなく、キリストは全ての支配、全ての権威や勢力を滅ぼし、全ての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっており、そして最後の敵である死が滅ぼされる。(1コリント15:23-26)
キリストに連なる聖徒達は、キリストと共に永遠に生き、永遠に支配する事になる。(2テモテ2:11-13)

イエス様は「わたしはある」と言われた。(ヨハネ8:24、28、58、11:25‐27、18:5)
私達は百年ほどで土に還る存在だが、主こそ、とこしえからとこしえまで、在りて在られるお方である。
「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」(黙22:13)
この終わりの時代、不正を行う者はますます不正を行うが、私達聖徒は、いよいよ主の流された血で自分の行いという着物を洗い、主に在って聖なる者とされ、いのちの木へ至る権利を勝ち取るべきである。

主イエス様が私達のために与えられた事を感謝し、このお方が投げ出して下さったいのちを軽んじる事無く、その特権を十分に知り、活用し、勝利と祝福を勝ち取る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

先ほどイブ礼拝を行い、今皆は集会室で食事の団欒中です。

これからまた路傍に繰り出して、賛美してきます。

良いクリスマスを送る皆さんでありますように!

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