メッセージ - 201110のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:裁いてはならない理由(ローマ14:1-12):右クリックで保存
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ローマ14章のテーマは、兄弟姉妹を裁いていはならない、である。
兄弟姉妹が自分の価値観とは違った事をしてたとしても、それの動機が「主のため」であれば、裁いたり侮ったりすべきではない。
しかし、兄弟姉妹を裁かなくてはならない時もある。
それは、例えば偶像礼拝や不品行など、主の忌み嫌われる事と知っていながら敢えてそれを為したり、戒めても改善しない場合である。(1コリント5:11-13)

兄弟姉妹の価値観は、各々の信仰によって、それぞれ違う。
「ある人は何を食べてもよいと信じているが、信仰の弱い人は野菜だけを食べている。」(2節)
当時、店に売っている肉は、偶像に備えられたかどうか分からない状況だったため、信仰の弱い人は、肉を食べなかったが、全てのものは感謝する事によって清められると知っている人は、良心の咎め無く感謝して食した。
また、ある人は或る日を主のために特別に守らなくてはならないと考えていたが、別の人はそうではないと考え、諸々の規定から自由にして下さった主にあって、日を守る事に囚われる事がなかった。

このように、それぞれ主にあって色々な価値観を持った兄弟姉妹達がいるが、他が自分と違うからと言って裁いてはならないし、また、信仰が弱いと言って侮ってもならない。
なぜなら、食べる人も食べない人も、ある日を守る人も守らない人も、主に対する信仰によって、そうしているからである。(6節)

もし、その人の主張にイエス様が不在だったり、御言葉や信仰の根拠無く「私は肉をたべない、だからあなたも肉をたべちゃダメ」と押し付けるだけなら、単に裁いているだけであって、彼の姿勢は正すべきである。
私達はイエス様のしもべとなったのであって、誰か人のしもべになったのではないのだ。

もう一つ、兄弟姉妹を裁いてはならない理由は、私達は皆いずれ神の裁きの座の前に立ち、自分のことについて神に申し述べる時が来るからだ。(10-12節)
私達は、兄弟姉妹を裁いている場合ではない。

信仰の弱い人を侮る事無く、また他人が自分と同じ事をしないからと言って裁くのでもなく、愛を持って兄弟姉妹に仕える皆さんでありますように。
イエス様の名によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:愛においては豊かに貸せ(ローマ13:8-14):右クリックで保存
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「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。」(8節)
私達は規律ある生活をするためにも、また兄弟姉妹に負担をかけないためにも、与えられているものを、しっかり管理しなくてはならない。
例えば、家賃や光熱費が払えない事が続くようなら、自分の生活を改善するべきである。
しかし、「互いに愛し合うこと」についての貸し借りは別だ、とパウロは言っている。

愛し愛される事については、たっぷり借りがあっても問題無い。
愛は、どんな融資よりも優れた助けであり、それによって助けられた人は、愛において豊かな人となり、愛を流し出す人になるからだ。
そればかりでなく、愛はどんな戒めよりも重要で、人を愛する者は律法を全うしている、と言うのだ。

「どんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。」(9節)
パウロは他の箇所(ガラテヤ5:13-15)でも、全く同じ事を言っている。
兄弟姉妹と和解する事の方が、捧げ物をする事よりも、優先順位は高い、とイエス様も言っている。(マタイ5:24)
兄弟姉妹同士が互いにかみ合ったり、食い合ったり、といった事は、何も生み出さないどころか害毒しか残らず、サタンの思う壺であり、何より避けなくてはならない。(ガラテヤ5:15)

「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。」(11節)
現代は夜が更け暗闇がますます深まっているような時勢であるが、それだけ光が近いという事である。
この暗闇の時こそ、私達の信仰が試される。

主人の帰りはまだだと言って酔っ払ったり、同じ僕仲間を打ち叩いたりしていると、主人は思いがけない時に帰ってくる。(ルカ12:41-48)
もし、そのような有様を主人に見られたら厳しく罰されるが、もしどんな時でも目を覚まし、忠実にしている所を主人に見られるなら、後に多くを任されるようになる。

今の世の中全体は、酒を飲んで空虚なとんちゃん騒ぎをし、迫っている絶望を忘れようとしているような有様である。
私達はそれらに巻き込まれるのではく、むしろ昼間らしい正しい生き方をしようではないか、とパウロは勧めている。(13節)

「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(14節)

私達のからだは、肉の欲望を満足させるために在るのではなく、イエスキリストを着て昼間らしい生活をするよう、召されている。
この終わりの時代においてしっかりと目を覚まし、愛において豊かに貸し、一人でも多くの囚われている魂をキリストの元に救い出す皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:立てられた権威に従いなさい(ローマ12:17-21):右クリックで保存
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キリスト者が社会生活を送る際、当然ながら、法を尊守し、上に立つ権威に従うべきである。
なぜなら、神によらない権威はなく、存在している権威は全て、一切の権威の頭なるキリストから来たものだからである。
「権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。」(4、6節)
という事は、権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、おろそかにする者は、自分の身に裁きを招く事になる。

定められた法律に限らず、時間を守るとか、借りたものは返すといった、定めと言うには及ばないような、常識的な事も守るべきである。
なぜなら、もしそういった小さな事にさえ不忠実なら、どうして神の働きという大きな事を任されるだろうか。
「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」(7節)

もしかしたら、会社の上司がどうしようもなかったり、上に立つ者達が権威を正しく行使せず、明らかに悪い、といった場合があるかもしれない。
しかしパウロがこの手紙を書いた当時のローマ帝国も、現代に負けず劣らず、腐敗と汚職に満ちていた。
それでも彼は、敢えて、立てられた権威に従いなさい、と書いたのだ。

ダビデはどうしようもない上司であるサウル王に、直接仕返ししたり滅ぼしたりする事をせず、ただ裁きを神様に委ねたように、そのような時は自ら何かする事をせず、上に立てられた権威のために祈るだけである。
そうすれば、神がダビデとサウル王にしてくださったように、神の義が必ず成る。

では、もし神の御言葉に反逆するような法が制定されてしまった場合は、どうするか。
エジプトのパロが、イスラエルに男の子が生まれたらナイル川に投げ捨てるようにという法律を定めた時、助産婦たちはそれに逆らって、主から与えられた命を守ったため祝福され、エジプトは衰退し、神の栄光が大いに輝いた。
また、ダニエルの友人達が、王の建てた偶像を拝まなければ死刑だ、という法に公然と背き、炎の燃え盛る炉に投げ込まれたが、全く害を受けず、逆に神の栄光が大いに輝いた。
このように、明らかに悪者が上に立つ時や、神の御言葉に反逆するような法が制定されたりする時でも、真の権威なる神様の定めた御言葉に踏みとどまるなら、かえって主が大いに栄光をお受けになるのである。

全ての権威の源はイエス様であり、そのイエス様に使えるつもりで権威に従い、平和と尊厳に満ちた人生を送る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

午後の祈祷会メッセージはヘブル12章からで、神様は私達の親として懲らしめられる事があるから、懲らしめられても、力を落とさないように、というメッセージをするつもりでした。

ところが、講壇に立ってみると、導きによって、逆のメッセージ、つまり、親である者は、努めて子を懲らしめたほうがいい、というメッセージへと導かれてしまいました。

今の時代、「子供を懲らしめる?!とんでもない!」と考える親が多いですが、聖書が示す所は、努めて子を懲らしなさい、と語っています。

むしろ、「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」(箴言13:24)とさえ言っております。

ダビデは、アムノンやアブシャロムを懲らすべき時に懲らさず、放置していたため、子に反逆され、この二人の子を失ったばかりでなく、妻達や娘が辱められるまでに至りました。

どんなメッセージへ導かれたのか、聞きたい方は、下の音声メッセージをどうぞ。(mp3ファイル)
http://voh.plala.jp/media/2011/kitoukai/111012k1_korashime.mp3

礼拝説教メッセージ音声:主の懲らしめと親の懲らしめ(ヘブル12:4-8):右クリックで保存
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祈祷会メッセージ

新潟から来られている姉妹も、洗礼準備会を学びたい、という事でしたので(彼女も昔に授洗している)、今日もやりました。

問答形式の学びで、内容的には結構堅いのですが、受けられた方は皆、はやく次を学びたい、と言うので、驚きです。

今日学びを受けられた姉妹も、4時間の長丁場でしたが、さらに続きがあると知って、楽しみだと言っていました。

やはり真理は知れば知るほど自由になっていき、さらに深めて行きたいという願いが起こされるものですね。

礼拝説教メッセージ音声:悪をたくらむ者への対処方法(ローマ12:17-21):右クリックで保存
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私たちを攻撃したり、悪をたくらむ者への対処は、どのようにしたら良いのだろうか。
「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」(17節)

私達キリスト者は、平和のために召されたのだから、悪に染まるというのは、キリスト者らしからぬ事で(18節)、私達の心が、いつも平和で満たされている事が大切だ。
捧げものをしようとしている時、もし兄弟姉妹から恨みを買っている事を思い出したのなら、供え物はそこに置いて、和解するよう、主は勧めている。(マタイ5:23-26)
つまり、兄弟姉妹の諍いは、かなりの優先度で解決すべきである。

もし、悪い事をたくらむのが、兄弟姉妹ではなく、外部の人であるなら、マタイ5:39の対応を取れば良い。
「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39)
仕返しを自分でする事無く、左の頬を向ける事によって、神様にさばきを委ねる事になる。
ただし、それは「悪人に」対する対処であって、もし兄弟姉妹が訳も無く打つようであれば、御言葉に従って戒めるべきである。
外部の人を裁いてくださるのは主であるが、内部の人を裁くのは、私達であるのだから。(1コリント5:12)

私達は、唇の実を刈り取る。
もし相手が悪をたくらんだり、呪いの言葉を吐いたりする時、私たちも同じように悪をたくらんだり、のろいの言葉を吐いたりするというのは、実は損である。
私達に悪をたくらむ者を祝福するのは、二つのメリットがある。
一つは、燃える炭火を彼の頭に積むことになる事、もう一つは、もし相手が祝福に相応しくない者なら、その祝福は自分に帰ってくる事である。
「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(20,21節)

私達は祝福を受け継ぐために召された者達である。
唇を押さえて悪を言わない人は、いのちを愛し、幸いな日々を送る人であり、そして主は、そのような人たちの祈りに耳を傾け、悪事を働く者に対抗して下さる。(1ペテロ3:9-12)

悪に負けず、かえって善をもって悪に打ち勝ち、豊かな祝福を得る皆さんでありますように。

いつもは礼拝前はじっくり賛美し、10分前になったら皆で手を繋ぎ、輪になって礼拝のために祈り、心と体の整えをしています。

ところが昨日、ある事によってそれが邪魔され、その貴重な整えの時間を泥棒され、教会の備品が無駄になり、それらを思って心がかき乱されました。

そのような時、イヤな思いに心が囚われるなら、礼拝中もそれによって縛られ、それこそサタンの思う壺になります。

そういう時は、現象の改善を祈るのではなく、その現象を引き起こした「サタンよ、イエスの名によって、盗まれた分の百倍、おまえから分捕り返してやる!」と祈ります。

お陰で礼拝中、ますますサタンの嫌がる「いのちの御言葉のつとめ」への熱心が燃え立たせられました。

かえって攻撃を仕掛けてきたサタンは、私達の祝福のネタにされた次第です。

礼拝説教メッセージ音声:愛によって一つとなる(ローマ12:9-16):右クリックで保存
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前回は御霊の賜物の現われについて学んだが、それら賜物よりも大切で優れているものは、愛である。
「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」(9,10節)
ここで使われている愛は、アガペーの愛、すなわち自己を省みない、捧げつくす愛である。
兄弟姉妹の間で愛し合う事においては、取り繕う仮面や打算を入れてはならない。

また、ここの「偽り」には「仮面」や「芝居」の意味がある。
サスペンスドラマでは、外面を「仮面」で取り繕い、いかに高度に、かつ非情に騙しあうか、というような、おどろおどろしい展開を良く見る事が出来る。
ドラマでは悪役あるいは主人公が、善人そうな仮面をつけて騙し、出し抜きながら登りつめ、最後にはさらに上手な騙しテクニックを持った者に滅ぼされるが、仮面をつけて騙しだまされる者達の最後は、滅びである。

そして、人を自分より勝っていると思うよう勧められている理由は、各々の賜物は同じ御霊を源としているし、それが与えられたのは、同じ目的(キリストを立て上げる)の為だからである。
そして愛をもって主に仕える事の原動力は、喜びと希望であり、そして失望しないために、たゆまず祈る事である。(12節)

「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(14節)
なぜなら、私達は唇の結ぶ実によって刈り取りをする(箴言18:20)ものであり、もし呪いの言葉を唇に登らせるなら、かえって良くない結果を招くからだ。
敵のために祝福を祈るなら、相手の頭に炭火を置く事になる(ローマ12:12)ばかりでなく、自分の身に祝福を招くという、2重のメリットがある。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(15節)
聖徒が一人泣いているのに、周りが省みもせず喜んでいるというのは、望ましくない。
教会はキリストのからだで、一人ひとりは各器官だから、一部分が痛ければ全体が痛いし、からだの一部分が栄誉を受ければ、全体が喜ぶものである。

このように私達は、キリストにあって一つとなって、愛をもってキリストの体を建て上げてゆくべきである。

礼拝説教メッセージ音声:祭司の担ぐ契約の箱を目指して(ヨシュア3章)
第一礼拝礼拝全体音声:右クリックで保存
特別ゲストによる賛美:右クリックで保存
第二礼拝説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

ヨシュア達が約束の地に入って行く過程から私達が学ぶ事は、信仰によって自己を降ろす事である。
「あなたたちは、あなたたちの神、主の契約の箱をレビ人の祭司たちが担ぐのを見たなら、今いる所をたって、その後に続け。契約の箱との間には約二千アンマの距離をとり、それ以上近寄ってはならない。そうすれば、これまで一度も通ったことのない道であるが、あなたたちの行くべき道は分かる。」(ヨシュア3:4)

今まで一度も通った事の無い道を進む際、慣れ親しんだ経験に頼れず、一歩一歩が信仰の歩みとなる。
それまで昼は雲の柱、夜は火の柱が民を導いてたが、もはやそれらの導きではなく、ただ祭司たちが担ぐ契約の箱が、先だって進んで行くのを目印にして、歩んでいく事になる。
この契約の箱とは、神様の契約のしるしであり、中に入っているのは、御言葉である。
現代、私達が導かれていくべき目印となるのは、火や雲といったしるしではなく、御言葉であり、イエス様を通して与えられた新しい契約は今、私達の心の板に書き記されている。(エレミヤ31:33)
信仰の歩みとは、信仰の創始者また完成者なるイエスから目を離さないで、このお方が先立って進む道を、私達もついて行く事である。
主が「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束した通り、あなたがたに与えている。」(ヨシュア1:3) と約束しておられるのだから、恐れず、どこにでも足を踏み入れて行けば良いのだ。

そこでまず手始めに足を踏み入れるべき所は、ヨルダン川である。
その時期は過越祭直前の3〜4月、大麦が熟する時期の「ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあふれ」(15節)、ヘルモン山からの雪解け水で、一年の中で水かさが最も増す時期だ。
そんな冷たい水が溢れている川に入って行くのは危険極まりない、というのが人の考えだ。
しかし、主は「入れ」と言う。ここに信仰が試される。
別に敵が追ってくる訳でもないし、ヨルダン川のこちら側にも、そこそこの良い土地があるのに、なぜ、危険を冒してまで、私たちは向こう岸へ行かなくてはならないのだろうか?
神様に召しだされた民には、神様が「行け」と言われた時、二つの道以外には無い。
すなわち、祝福か、呪いか。行って祝福を勝ち取るか、それとも留まって荒野をさ迷った末に屍を晒すか。
信じ切れず恐れ退いて右往左往し、信仰の一歩を踏み出せないでいるキリスト者ほど惨めな存在は無い。
手を伸ばせばおいしいごちそうをいくらでも食べられるのに、億劫がって空腹のまま眺めているような者だ。

祭司が進んだのは、目の前の川の流れがせき止められたからではなく、川がまだたっぷりと水を湛えて流れている時だ。しかし、祭司達が足を進めて行き、足が水に浸ると、川は堰き止められたのだ。
私達は様々な見込みを計算するが、御言葉の裏付けがあるなら、信じて進むのみである。
そうすれば、主が川を堰き止め、障害の山は、主が海に移して下さるのである。
信仰とは、川に何万個の土嚢を投げ込む事でも、山と海との間をスコップ持って何万往復するのでもない。
からし種ほどの信仰があれば、それを握って進むだけ。あとは主が為して下さるのだ。

私もこの教会で牧会をする直前、水を湛えたヨルダン川を、一歩一歩進んでいるような感覚だった。
すぐ足元は流れの強い水を湛えた川で、それでも勇気を絞って一歩踏み出し、足を降ろした。
足を降ろした場所は乾いて安全で、流れに足を取られたり溺れる事は無かった。その繰り返し。
底の見えない深淵の向こうに足を踏み出すかのような恐怖を覚えた事もあったが、それでも守られる事を信じて一歩踏み出す都度、そこは安全で、進めば進むほど祝福が増し加わった。
結局私は、御言葉が途切れる事無く奉仕は守られ、野たれ死ぬ事無く必要も満たされ、今に至っている。
ヨルダン渡河は、イスラエルの民が何十年前のあの時出来なかった、信仰のリベンジをするチャンスだ。
皆さんが主からの召しにより、信仰によって進む道は、これまで一度も通ったことのない道かもしれない。
しかし、進むうちに、行くべき道は主が示してくださる。
今、信仰を持って一歩を踏み出し、ヨルダンを渡る皆さんでありますように!

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