メッセージ - 201109のエントリ

今日は秋晴れのさわやかな日で気持ちよかったです。

元町で用事を済ませてから、久しぶりに山下公園のベンチで海をぼんやり眺めたり、公園沿いのマクドナルドで御言葉の準備をしたりして、ゆったりと過ごしました。

教会の焼き鳥チームは今日お店で商品開発し、究極のタレ(?)を作ったそうです。

オープンに乞うご期待。

礼拝説教メッセージ音声:神の子とされ相続人とされた(ローマ8:12-17):右クリックで保存
韓国語通訳有

知らない男が突然「ついて来てタダで働け」と言っても、そんな言葉に従う責任が無いように、私たちは、肉に従って生きるという責任を肉に対して負っていない。(ローマ8:12)
なぜならキリストにあって、罪に対しては十字架につけられたため、もはや肉に従って歩む責任を負っていないからである。
しかし、もし私達が肉に従って歩むなら、私達は確実に死に、霊によって肉の欲を殺すなら、私達は生きる。(13節)

御霊によって歩む者こそ、神の子であり(14節)、子とされたからには相続人であり、世の始まる以前から用意された、あらゆる良き物を、キリストと共に相続する権利まで与えられている。
御霊は、奴隷に権威や威圧によって隷属させるような霊ではなく、神様の子とする霊、自由人とする霊である。

アブラハムは、神の約束があったにも関わらず先走り、肉体的力によって奴隷女ハガルとの子イシュマエルを生んでしまった。
しかし後に、肉の力によらずに自由の女サラとの子イサクが与えられ、神の約束が成就した。
肉の力によって支配される弱肉強食の世は、イシュマエルに属するが、キリストにある私達こそイサクの系統に属する約束の子供たちで(ガラテヤ4:28)、肉によらず、力によらず、ただ御霊によって生きる者達である。

しかし、かつて肉によって生まれた者イシュマエルが、霊によって生まれた者イサクを迫害したように、そのように今もまた同じことがなされている。
しかし、聖書は「女奴隷と彼女の息子をあなたは追い出せ。なぜなら、女奴隷の息子は、自由の女の息子と共に相続することは決してしてはならない」と書いてある。(ガラテヤ4:29)

神の子である以上、世にあっては迫害や艱難があるが、キリストは世に勝利して下さった。
神は肉に属する者を私達の周りから追い出し、子として下さった私達を、責任を持って守り、教育を施し、あらゆる良きものを受け継ぐよう、最善へと導いてくださるのである。

礼拝説教メッセージ音声:ラクして御霊の実を結ぶには(ローマ8:3-11):右クリックで保存
韓国語通訳有

私達の内でせめぎあう善と悪の葛藤から解放される方法は「いのちの霊の法則に乗る事」であると昨日学んだが、では、それを私達に適用するには、どうすれば良いか?
一言で言えば、御霊によって歩む事である。

客観的な事実として、私達の古い人間は、罪のからだが無力化されるために、イエス様と共に十字架につけられた。(ローマ6:6)
つまり、罪の根っこは、私達の内に存在論的に残ってはいるものの、キリストと共に歩む事によってそれは無力となって、私達を支配する事は出来なる。
私達は、罪に対しては死んだ者であり、神に対しては生きている者である、と、自由意志によって「仕分け」する事は、私達の責任であり(ローマ6章11節)、私達という器を罪に捧げるか、それとも義に捧げるか、という責任も、私達の側にある。(12節)

もう一つの私達の責任は、霊に従って歩むか、それとも肉に従って歩むかという二者択一の場面で、霊に従って歩む事を選び続ける事である。
もし霊によって歩む事を選ぶのなら、肉の欲望は沈静化される。
例えば、禁煙なんてとても事無理だ、と思っている人でも、「この身を神に受け入れられる器として用いられたい」という霊の思いに導かれるなら、難なく禁煙する事が出来るのである。(経験者談)
それは、御霊が、肉体の欲する事を沈静化させて下さるからである。
肉が欲する事は、霊が殺す。(ガラテヤ5:17,18)
その事はたばこに限らず、もう止めにしたいあの事この事、全てに関して適用できる真理である。

いのちの御霊の法則に歩むには、自由意志をもってまず「罪に対して死んだ」と仕分け、御霊によって歩む事を選び続ける事である。
そうしたら「いのちの霊の法則」が支配するようになり、坂道を自転車で下るがごとくラクに御霊の実を結び、主に喜ばれる道を歩む事が出来るようになる。
そして、良くない事も、ラクに「しない」でい続けられるのである。

今日は娘を持った父親のような心境を体験できました。

私は肉の子供はいないので叱るのは不得意ですが、主にあって戒めて、主が全てを取り扱ってくださった後、お互い心開かれて、御言葉や証を色々話す事の出来た一時は、素晴らしかったです。

礼拝説教メッセージ音声:罪と私の方程式2(ローマ7:21-8:2):右クリックで保存
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罪の解決方法は、一言で言えば、法則の乗り換えである。
日本語聖書で7章後半に「律法」「原理」「法則」とあるのは全て「ノモス」という同じ言葉、すなわち「法則」である。

法則は、その人が人格者であろうが罪深い人間であろうが全く関係無しに、その人を支配する。
ダイエットを目指している二人の同じ体重の人が、一方は人格者だから秤が軽く見積もられ、他方は悪人だから重く見積もられる、などという事は有り得ないように、キリストに無い人間が、いくら修行して人格者になったところで、罪の法則を乗り越える事は出来ない。
罪の法則と対峙するには、別の法則を適用させるしか無いのだ。

ローマ7章23,25節によると、人は3種類の法則の下に縛られている事が分かる。
すなわち、1:神の法則、2:罪の法則、3:理性の法則、の3つである。
心では良い事をしたいのだけれど、どうしてもそれが出来ない、というからくりは、これら3つの法則が人の内で攻めぎ合っているからだ。

それでパウロは自らを「みじめな人間」と告白しているが、そのすぐ後に「神に感謝あれ」と叫んでいる。
なぜか?
それは、この解決は自らの頑張りや修行などによるではなく、法則の問題であると、パウロは分かったからである。
この3つの法則のせめぎあいから解放してくれるのが、第4の法則、すなわち、4:命の霊の法則(8章1,2節。)である。
私たちがこの第四の法則に乗り換える時、1〜3の法則のせめぎあいから解放されるのだ。

例えば「空を飛びたい」という思いがあったとする。
神の要求は「空を飛ばなければならない」、そして理性の法則でも「飛びたい」、しかし「重力の法則」に縛られているので、人間は飛べない。
自分はなんてみじめな人間だろうか、という思いになるが、しかし感謝な事に、ライト兄弟が「飛行の法則」を発見した。
私たちが空に飛ぶには、飛行の法則を自分に適用させる、すなわち飛行機に乗ればいい。
もはや、ぴょんぴょんとジャンプし続ける頑張りも、髪の毛を上方向に引っ張って飛ぼうとする無駄な努力からも、解放されたのである。

私達の主イエスキリストが提供して下さった、命の霊の法則に乗るなら、罪と死の法則から解放されているのである。
それは、私達の頑張りによるのではない。
人が神による断罪が無くなるには、「キリスト・イエスのうちにある者」となる事であり、キリスト・イエスのうちにない者は、必ず断罪されるのである。(8:1)

では、いのちの霊の法則に乗るには、どうすれば良いか?
それは次回に。。。

主イエスキリストにある皆さんでありますように。

礼拝説教メッセージ音声:罪と私の方程式(ローマ7:13-20):右クリックで保存
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「私」の中には、色々なモノが棲んでいる。
私たちの内側には、相反するものが存在し、分裂し、戦っている事は、私たちがうすうす気付いている事だ。
「私は、私が行為していることが、わからない。なぜならば、私は自分が欲していることを為すことをせず、むしろ自分が憎んでいることを行なっているからである。」(15節)
その自分が憎んでいる事を行わせているものが、罪である。

キリストは、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられた。(ヘブル9:12-14)
私たちが犯す個々の罪々については、キリストの流された血潮を自らを適用すれば良い。
しかし、その個々の罪々を犯してしまう根源、すなわち原罪が、依然として私たちの内にある。(ローマ7:17)

「もしも私が、この自分の欲しないことを行なっているとするならば、もはやこの私がそれを行為しているのではなく、私のうちに住んでいる罪がそれを行為しているのであ。」(同20節)
この20節によると、望んでもいない事を為してしまうのは、私たちの責任だろうか?そうではなく、私たちの内に住んでいる罪(原罪)が、それを為させていると分かる。
すなわち、私、ノットイコール、罪という式が成立する。

自分は悪魔だとか、罪の人間だとか言う者がいるが、それは過ちで、罪と私たちは、イコールではない!
肉体に突き刺さっている棘は自分ではないように、罪という外来性の棘が突き刺さって、私たちはそれによって痛み苦しんでいるのである。

自分が罪深いことをしてしまった、自分はなんてダメなんだ、と言って自分を責める者がいるが、それもお門違いである。
それは例えば、犬が噛み付いた時、犬を責めずに、痛い思いをしている自分を責めているような、とんちんかんな事なのだ。
私たちが処罰すべきは噛み付いた犬であって自分ではないように、処罰すべきは、罪なのだ。

この今だ私たちの肉に残されている原罪の扱いについては次回以降に譲るが、この罪の根っこがまだ取り除かれていない以上、私たちは日々、肉の欲望に身を委ねる事を否み、キリストの十字架をこの身に適用する事によって、キリストの望んでおられることを自由意志によって選択する事を、主は望んでおられる。
主は、自らのいのちを捨てるという、深遠な贖いのご計画を立てられたほど、人間の自由意志を尊重されたのだ。

生ける限り罪との戦いはあるけれど、日々、キリストの十字架を適用していくことによって、ますます罪を犯しにくい行動パタンが焼きついていき、霊的に熟練していく。
そのように日々、キリストを選んでいく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

法則の勝利

カテゴリ : 
礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-9-5 23:20

主の法則と人の法則が対決する時、あざやかに主の法則に乗っている方が勝つ、というのを、再び見ました。

法則とは、例えば主イエスを信じればあなたもあなたの家族も救われる、とか、父や母を敬えば長生きするとか、十分の一を捧げれば祝福の窓が開く、など、既に皆さんが聞き慣れている事です。

どうぞ皆さんも試してみて下さい。(マラキ3:10)

礼拝説教メッセージ音声:姦淫の現場で捕らえられた女(ヨハネ8:1−11)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

「朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。」(ヨハネ8:2) 宮とは主が礼拝される所、人々が主の御言葉を聞く聖なる所である。
主がそこで御言葉を人々に語っておられる最中、挑戦的な表情の宗教者たちが、絶望的な表情の女性を引き摺って来て、目立つよう真ん中に立たせ、御言葉の聖なる場を、物々しい空気に塗り替えてしまった。
その女性は、姦淫の現場で捕らえられたため、裸同然のような状態で引き摺って来られたのかもしれない。
イエス様はこの様子を見ると顔を伏せ、口で語るのを止めて、地面にものを書かれた。
宗教者達はイエスに詰め寄って、「モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」と言ったが、イエス様は何も言わず、地面に指で書いておられた。
もし「律法の通り石で打て」と言うなら、「それならあなたがいつも言っている恵みと憐れみはどうなるのだ」と訴える材料になり、もし「赦せ」と言うなら、律法を破る事を勧めたかどで、これまた訴える材料にもなる。

皆さんは、万引きなど罪の現場を取り押さえられている所を見た事はあるだろうか。
捕らえる者は怒鳴ったり制圧などしながら捕縛し、連行し、人々が何事かと集まって好奇の眼差しを向ける。
最近では、珍奇な場面に遭遇した事をネットで実況するためか、携帯のカメラを向ける者も多くいる。
このような場面に「見る」側として置かれた時、人々はあれこれと解説したり評論したり、あたかも自分はその罪とは全く関係無いかのように振る舞い、そして、あたかもショーを見ているかのように楽しむのである。

宗教者達が姦淫の現場を都合よく押さえられたからには、裏で相当の準備があった筈で、最初に集まってアイデアを絞り出し、準備のためにそれらしい所へ出向いて片っ端からドアに耳をつけて盗み聞きしたか、あるいは、姦淫した男がその場に引き摺り出されていない所を見ると(律法ではこのケースは男女両方を連れてきて石打にしなくてはならない)、その男は彼らの仲間で、女をわざと陥れた事も十分考えられる。
告発者がなぜ正しく見えるか。それは告発されている者の罪に焦点が行くからで、サタンも同じく告発する。
しかし、人を陥れ告発するための裏の手配は、相当醜く汚いもので、汚い女一人の命でイエス様を陥れられるなんて安いなどと思う宗教者達も、その状況を見て楽しむ群衆も、人間の実状は相当罪に汚れている。

宗教者達は、俯いて書いておられるイエス様に、勝ち誇ったようにしつこく問い続け、群集達もますますざわつく中、イエス様は静かに立って、人々をじっと見た。その場は静かになり、イエス様の声だけが響いた。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
場は凍りつき、長く生きた者から一人一人、何も言わずに出て行き、野次っていた群集も、宗教者達も皆、すごすごと出て行き、そこには、地面に書いておられるイエス様と、女だけが残された。
イエス様は、聖なる宮を汚い見世物場に塗り替えてしまった宗教者達や、同調して騒ぎ立てた群衆を糾弾する事は無く、また姦淫の女を罪定めする事も無く、静かに、人々の罪を指摘し、そして、覆って下さった。

イエス様は指で何を書いたのだろうか? それは分からないが、神様が自らの指で書いた聖書の箇所は3つあり、一つ目は石の板に十戒を書き(出20章)、二つ目はベルシャツァル宮殿の壁に「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」と書き(ダニエル5章)、そして三つ目が、この場面である。
一つ目の場面では人の守るべき神の基準が石の板に記され、二つ目の場面では、人の行いが神の基準に数えられ(メネ)、量りにかけられ(テケル)、そして足りないとして裁かれ、分けられ(パルシン)てしまった。
三つ目のこの場面で、主は何を書いたのか分からないが、「わたしもあなたを罪に定めない。」と言われた。

もし私達が神の指によって書かれた内容によって量られるなら、罪々が数えられ、目方は絶対に足りない。
しかし主イエス様は、尊い血の代価で私達の死を、いのちで買い取って下さった。
「婦人よ、あなたの罪ばかりでなく、石を投げようとした人達、そして人類全体の罪を、わたしが引き受けます。わたしが命を差し出し、血の代価で人類全体の不足分を買い取ります」と言っているのではなかろうか。
「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
主が払ってくださった尊いいのちを、尊い血潮を、私達は敢えて罪を犯す事によって軽んじてはならない。

パスターになってからは、恵み続きの幸い続きです。

もちろん富や権力・名声といった幸いではなく、イエス様の実わざを間近で見る事の出来る幸いです。

自らを養う能力や資質が無くても、主ご自身が御腕を動かされて必要を満たして下さった。

以前はどうしようもなかった人が、どんどん良くなって行った。

イエスの名によって祝福すれば、ちゃんと祝福の実が生った。

イエス様が身近にいて生きて働かれる幸せは、あたかも、力強い勇士が私の前を進み盾となって戦ってくれて、私たちはその戦利品を獲得するだけ。そしてその勇士は私たちのすぐ前にいて、私たちはその背中を見ながら安心しているような幸せ。

こんなに幸せが続いていいんだろうか?もしかしたらワナが待ち受けているんではないか?と恐れた時期も一時期ありましたが、主は「いいんだよ、わたしはいつでもあなたの傍にいるよ」と答えてくださっているようで、そういう不安も無くなってきました。

礼拝説教メッセージ音声:アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ(ヘブル11:17-23):右クリックで保存
韓国語通訳有

アブラハムは100歳にしてやっと息子イサクが与えられたのに、全焼のいけにえとして捧げなさい、と言われた。
その時アブラハムはどんな心境であったのかは記述が無いが、彼は命じられた翌日、すぐに準備してイサクを連れ、命じられた所へ言った。(創世記22章)
「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」(同5節)
わたしと息子は一緒に戻ってくる、と言った言葉に、アブラハムの信仰が見える。
「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。」(ヘブル11:19)
アブラハムはイサクを、主にあって失った。そうしたら、何倍にも祝福された形で得た。
これこそ死と復活の型であり、私達も主にあって失うなら、何倍にもなって得るのである。

イサクは従順だったため、井戸を奪われてもつぶやかずに主に信頼し、次から次へと井戸を見つけて行った。
「信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。」(ヘブル11:20)
実際の所、彼はエサウを祝福したと思っていたのだが、ヤコブが祝福を騙し取った。彼は息子にさえも騙されたのだ。
しかし、この箇所の趣旨は、家族内の騙し騙されるサスペンス劇ではなく、祝福しようとしたイサクの信仰に対する賞賛である。
皆さんにも、「この人を祝福したい」と思って祈ったり支援をしてきたのに、実は騙され、祝福は別の者に横取りされ、結局自分の望む形で祝福が与えられなかった、という経験はあるだろうか。
しかしそのように、たとい望む形でなかったとしても、神様は私達の「祝福したい」という信仰を良しとされるのである。

ヤコブが人生の中で最も賞賛されている場面は、子供達を祝福し、杖によりかかって礼拝する場面である。(同21節)
彼は神と格闘している間は、祝福は与えられなかった。
しかし、もものつがいを打たれ、力が無くなった時、彼は神の使いを掴んで離さず、ただ寄りかかるしかなくなった。
その時、彼に祝福と新しい名が与えられた。
私達も、神に打たれて自分の力が尽き、もはやイエス様に寄りかかるしか無くなった時、祝福と幸いが与えられるのである。
彼は自分の力や騙しテクニックによって世を渡り歩いて来たが、神様から賞賛されたのは、生涯を閉じようとする時に、わずかな力を振り絞って為した、子供達への祝福と礼拝であった。

ヨセフが人生の中で最も賞賛されている場面は、臨終の時、自分の骨について指示した場面である。(同22節)
彼はエジプトに来て既に100年近く経ち、エジプトで2番目の高い地位に就いていたが、臨終の間際に彼が指示した事というのは、子孫の代でエジプトを脱出するからその時に自分の骨を故郷まで届けて欲しい、というものだった。
人生で何に心の重点を一番置いてきたか、というのは、遺言に如実に現れる。
彼の100年近くの日々で、心に最も重きを置いてきたのは、エジプトの富や地位、名声などではなく、神様の約束された地、生まれ故郷だった。
だからその信仰を賞賛されたのだ。

この世の人生の旅路は仮の宿に過ぎず、私達には天にまことの故郷がある。
彼らが賞賛されたのは、地上での住まいよりも神様の備えて下さる天の住まいを望んでいたからである。
天のまことの故郷に至る歩みが、この地上の歩みである。

いつ死ぬか分からないような情勢の元で住んでいる今日、一日一日の歩みを、天のまことの故郷に向かう歩みとして尊く生きる皆さんでありますように。

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