メッセージ - 201109のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:一方的な恵み(ローマ11:1-6):右クリックで保存
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パウロは、イスラエルの頑なさの理由を、ローマ9章より解き明かして来たが、いよいよ11章で、神の深遠なご配剤を明らかにする。

「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。」(ローマ11:1)
神は、ご自分の民イスラエルを、決して見放さず、見捨てられない。
イスラエルは確かに、神の御前に悪をし続けて来た。
しかし、彼らが見捨てられ絶えるくらいならむしろ、太陽や月星海の運行の定めが取り去られるだろう(エレミヤ31:35-37)、と言われるほど、主が憐れむと定められた民は、御目に尊いのだ。

エリヤの時代、彼は神の偉大なる実業を、大勢の前で堂々と為したにもかかわらず、王の妻イゼベルは悔い改めないどころか、彼を殺そうと付けねらってきた。
イゼベルや王の心頑なさ、人々のどっちつかずさ、神に従う人のいなさに、エリヤさえ絶望しが、神は、選びの器を確かに残しておられるのだ。
「しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。」(4節)
イスラエルは神の憐れみのゆえに、滅びる事なく脈々と存続し続け、現代にまで至っている。

救いは、神様の側の一方的な恵みの故であり、私達の側の何かには拠らない。
「もし恵みによるのであれば、もはや行ないによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。」(ローマ11:6)

神の愛は、一人子を与えるほどであり、御子イエス様の愛は、命を捨てるほどである。
私達は、父なる神こそ憐れみ深いお方であり、イエス様こそ主であると、感謝しつつ告白するのみである。

鄭先生は70歳近いベテランの牧会者で、この間の来日の時、私にテモテ書を読むようアドバイスを下さいました。

テモテ書は、第1も第2も、牧会者が指針とすべき重要な事柄が、実に多く散りばめられているからです。

テモテ書は私も何度となく読みましたが、改めてじっくり読むと、心に刺さる事や身につまされる事多く、パウロの遺言を読んでいるようで、目頭が熱くなりました。

「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。」(2テモテ2:15)
「主のしもべが争ってはいけません。むしろ、すべての人に優しくし、よく教え、よく忍び、
反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。
それで悪魔に捕えられて思うままにされている人々でも、目ざめてそのわなをのがれることもあるでしょう。」(2テモテ2:24-26)

心刺された箇所は他に多くあるのですが、当面、私が心に刻むべき御言葉は、これです。

礼拝説教メッセージ音声:信仰は聞く事から(ローマ10:14-21):右クリックで保存
韓国語通訳有

救われる事の条件は、イエスを信じる事だ。
その前提条件として、まず福音を聞いていなければならない。
そのまた前提条件として、福音が述べ伝えられていなければならない。
「信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」(ローマ10:14)
だからまず、福音は宣べ伝えられる必要があり、伝道はとても大切という事になる。

しかし、正しい知識の無い熱心は良くない。
まず、イエスというお方について良く知っている必要がある。
このお方は、知れば知るほど伝えたいという衝動が強くなってゆく「善いお方」であり、主から志が与えられ、遣わされなくては伝える事は出来ない。(15節)

本来、イスラエルがイエスというメシヤを受け入れ、その福音がユダヤから広がって行くはずだったが、民族としては、なんとメシヤを拒否してしまった。
「それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。」(10:18)
まず、律法や預言書によって、イエスが救い主である事が予め示されていたし、このローマ書が書かれた時点でも、福音は地中海世界全体に広がっているし、何より、イエス様が活動された3年半の間、数々の証拠としての奇跡をもって、ご自身がメシヤである事は、イスラエルにおいて既に示されていた。
にもかかわらず、彼らは頑なにそれを受け入れなかった。

例えば、会社に雇われている人が、この商品を売って来るようにと言われているのに、それを聞いていながら行きもせず、自分勝手に机や椅子をピカピカに磨く事で頑張っても、上司から怒られるだけである。
同じように、イスラエルも、神様から示された救い主はイエスなのに、自分勝手な義を勝手に考え出し、それを一生懸命頑張っているだけで、救われないのである。
しかし、神様から示された通りにそのまま信じた異邦人達は、元々神の民ではなかったというのに、救われた。
その結果、イザヤの預言「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見いだされ、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」が実現したのである。(20節)

「しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。」(21節)

神はそんな頑なな民に対しても、忍耐深く、立ち返るようにと、手を差し伸べながら待っておられる。
私達もイスラエルの罠に陥ってしまわないためには、まず聞いて、そして御心を理解するよう気をつけるべきである。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(17節)

熱心なのは確かに大切であるが、その前に、「聞く」事から全てが始まるのだ。
御言葉をしっかり聞き、御心を理解して、その通り行えば救われ、そして豊かに祝福される。
そのような皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

いっさく

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礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-9-28 19:18

さきほど聖書学び会の後、例の焼き鳥屋に移動して、婦人達に料理を作っていただき、皆で食事しました。

兄弟姉妹と一緒に食事するのはとても楽しいですね。

この焼き鳥屋は扉が無く中の様子が外に見えるのですが、行く人行く人が歩きながら覗き込んでいました。

やっぱり楽しく笑いに満ちていると、人を惹き付けますね。

そうそう、笑いと言えばこの焼き鳥屋の名前は「いっさく」になりました。

そう、アブラハムの子イサクが元です。

イサクのように、従順で、ただ祝福を頂く、笑いに満ちたお店になるように、という意味が込められています。

礼拝説教メッセージ音声:口で告白する事の大切さ(ローマ10:9-13):右クリックで保存
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私達は口の結ぶ実によって満ち足り、その唇による収穫に満たされる(箴言18:20)。
その中で、最も優れた唇の実は、イエスを主とする告白である。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」(ローマ10:9-10)

イエスを主とする、とは、主従関係においてイエスが主、自分は従とする事、人生の支配権を、自分から主に譲り明け渡す事である。

もし心で信じるだけであるなら、その事を知るのは自分と主しか知らないため、主に対しては義と認められるものの、世に対しては、主は関わりが無い状態である。
しかしもし口で告白するなら、主と自分のみならず、世に対して自分の主を明らかにする事となりため、救いが成就する。
心の内にある信仰が、口という境界線を越えた時、天地万物の支配者なる主との主従関係が、世に対して示され、適用され、世の諸々の呪われた仕組みから救われるのである。

ダビデは口で告白する事の達人だった。
彼があんなに神に愛され祝福されたのは、自分の困った時だけ主を告白するのではなく、困っていない時も、そればかりか、敵を自分の思いのままに出来る状況にあってさえも、裁きや支配権を自分ではなく神に明け渡す、と、部下や民の前で告白したからである。
「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」(詩篇18:2)
彼が、主と自分との関係が何であるかを、これだけ徹底的に告白したからこそ、あらゆる面において祝福されたのである。

私達は口の結ぶ実によって満ち足りる。
自分に対し、友人家族に対し、仕事に対し、人生に対して、あらゆる面においてイエスが主権者である事を告白し、あらゆる面で祝福の実を豊かに刈り取る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
 

礼拝説教メッセージ音声:間違った熱心(ローマ10:1-8):右クリックで保存
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間違った熱心というものがある。
「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」(ローマ10:2-3)
イスラエルの多くは、正しい知識に基づかず、救いを得なかった。
すなわち、神が提示した義は信仰によるものなのに、行いによって義を得ようという間違った熱心の空回りをしていた。

パウロ自身も、かつては間違った熱心によって教会を迫害し、神に敵対する事に熱心だった事を告白した。(ピリピ3:4-6)
彼は、自分はベニヤミンの血筋の者で、熱心なパリサイ人として行いの良さでは引けを取らない事など書いているものの、キリストイエスを知る知識の素晴らしさを知ってしまったからには、そいういった人間的な血筋や熱心は損だった、損どころか糞土のようだ、とさえ言っている。(ピリピ3:7-9)
つまるところ、私達が損をしない道、最も得する道とは、キリストを良く知る、という事である。

「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」(ローマ10:7-8)

あの人は救われるのか救われないのか、あの人は神の子かサタンの子か、といった事を、人は知りたがる。
しかし、唯一キリストだけが天に引き上げられたのだから、このお方を差し置いて、誰が天に上る上らないといった議論は、キリストを天からひき下ろす事になってしまう。
人の為に地の深みにまで下られたのは、キリストのみである。
それだから、このお方を差し置いて、誰が地に落ちる落ちないなどと議論するのは、キリストを死者から引き上げる事にもなる。
イエス様こそが天から降りてこられ、十字架につけられ、地の深みにまで下られ、そしてよみがえり、神の右に引き上げられたからこそ、私達は救われたのである。
そういうわけで、私達にとって大切なのは8節、「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」
私達が目を留めるべきは、あの人この人や自分ではなく、私達の近くにある御言葉のみであり、救い主は唯一キリストのみである事なのだ。

信仰の創始者であり完成者であるイエス様から目を離さず、このお方についての知識を御言葉によって正しく習得し、損をしない歩み、的を射た歩みをして行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:この岩は、躓きとなるか?救いとなるか?(ローマ9:24-33):右クリックで保存
韓国語通訳有

頑なに悔い改めない者が、さらに頑なになって、滅びへと落ち込んで行くんで行く。
それでも神は忍耐して、彼らが悔い改め、イエスに立ち返る事を待っておられる、という事を前回学んだ。

イスラエルの民の多くは、イエスがメシヤである事を頑なに受け入れなかったが、その結果、福音は異邦人に広く伝えられ、多くの異邦人が救いへと導かれた。
異邦人の救いについてパウロは預言者の書を引用して提示している。

神の民でない者達、本来見捨てられるべき異邦人さえ、「生ける神の子供」とされるという逆転劇を、ホセアが既に預言しており(25,26節)、
また、たとえイスラエルの子らの数が海辺の砂のようであっても「残りの者」だけが救われる事が、イザヤによって預言されている。(27節)
イスラエルの内の救われる「残りの者」とは、つまりイエス様を信じた者達である。
もしこの残りの者がいなかったら、イスラエルといえども、ソドムやゴモラのように、とうの昔に滅ぼされていたわけである。(29節)
結局、イスラエルであろうと異邦人であろうと、共通して救われる者とは、信仰による者である。

実に皮肉であるが、義を追い求めもしなかった異邦人が救われ、義を追い求めたユダヤ人が救われなかった。
「なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」(ローマ9:32)
信仰による者こそ義とされるのであるが、イスラエルはつまづきの石、すなわち、イエス様につまづいてしまった。
我々は、何かの行いをして成果を出したら救われる、という罠に陥りやすいが、神様が人に求められる事は、何かをしたりしなかったりする事ではなく、いのちなる御方イエス様を信じる事である。

今日の箇所から私たちが気をつけるべき事は、私達も心を頑なにしてはならない、という事だ。
救いの道がこれだ、と示されたなら、素直にそれに従えば良い。
その救いの道とは、何度も聞いている通り、イエス様を自分の救い主として信頼し、彼の言う通りに行う事である。
ここを離れて、自分勝手にああせよこうせよという思い込みを、頑なに握り締めているなら、救いを逃してしまうのだ。

イエス様を躓きの岩とはせず、むしろこの御方に信頼する皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

唇=境界線

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礼拝メッセージ説教音声配信 » パスター日記
執筆 : 
pastor 2011-9-25 18:00

布団をかぶって寝るのが心地良い季節になってきましたね。

先ほどの聖書の学びで、「唇」には「境界線」という意味が含まれている事を知りました。

私達は口の結ぶ実によって腹を満たし、その唇による収穫に満たされる(箴言18:20)とありますが、言葉で境界線を越えない事は大事ですね。

嫌なことを心で思い巡らして、怒り憎しみを増長させる前に、「イエス様助けて下さい」と叫び求める事で、罪が実を結ぶ事を防げます。

礼拝説教メッセージ音声:向きを変えて出発せよ(申命記1:6-8)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存
第二礼拝(韓国語通訳つき)説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

先週の昼の会合で、当教会は、これから礼拝を日本語のみにして行こう、という方向性となった。

主にあって進んで行く先は、分からなくとも、祝福がある
信仰生活をして行くならば、慣れ親しんだ所にいつまでも留まるという事はなく、主が道を示してくださるなら、いつでもその地へと導かれつつ進んで行くべきだ。
行く先は見えないかもしれないが、主が行くように言われたその先に待っているのは、必ず祝福である。
「主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記12:1-3)

自分の願いではなく御心が成るように
その上で取るべき心構えは、自分の願いではなく御心を選択する(ルカ22:42)という事だ。
今回、天声教会の開拓当初から霊的にも物理的にも骨折っていただいた鄭先生や聖徒達が、主の御心を最優先するという英断をしてくださったからには、その姿勢を全ての聖徒達が模範とすべきである。
教会の前進においては、誰かがすたれ、誰かが栄える、という事は全く無い。
バプテスマのヨハネは、人々をキリストへと導くミニストリーを展開したが、キリストが現われ、キリストが盛んになった時、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と言った。(ヨハネ3:26-30)
すたれるべきは誰や彼ではなく、私達全員である。主イエス様だけが栄えるべきなのだ。

キリストにあって一つとなれ
今まで慣れ親しんできた形式から離れるため、当然、不便を被る方もおられる。
そうであるからには、私達聖徒達は今まで以上に一つとなり、愛をもって互いに助け合って行く必要がある。
「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(ヨハネ13:14)
言葉が違う者同士集まってはいても、私達は主にあってひとつであり、同じ天国民であるから(ピリピ3:20)同じ思いとなり、愛を結びの帯として心を一つにキリストの喜びを満たしていくべきである。(ピリピ2:1-2)
「あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。 ・・・ そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ3:9-11,14)

「天声教会」とは
そして、私達が中心とするお方は、まことの大牧者なる主、イエスキリストだ。
この群れが集うのは、同じ言葉の元ではなく、誰々さんや誰々先生の下に集うのでもなく、同じ主であるキリスト・イエスの名の元に、である。
天声教会という名は、天からの声すなわちモーセでもエリヤでもなく、あの師でもこの先生でもない、ただイエスキリストの御声に聞き従う教会を目指すものとして、名付けられた。(マタイ17:4,5)
主が明らかに方向性を示して下さっているのであれば、迷わず、確信をもってその道を進めば良い。
そういうわけで私達は、人間的な心地よさに留まり続けるのではなく、主が示して下さる方向へと足を踏み出し、愛を持って互いに仕え合い、大牧者なるキリストの声を聞きつつ歩んでいくのみである。
主が示される先には必ず祝福が待っているのだから、大胆に進み行き、祝福を勝ち取って行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:生まれる前から選ばれた(ローマ9:19-23):右クリックで保存
韓国語通訳有

神様は元々、救われる人を、その人が生まれる前から選ばれているのだろうか?
答えは、イエスである。
では神は、救いの器と、滅びの器を、おまえはあっち、おまえはこっちと、好き勝手に選別するのだろうか?
聖書を読んでいくと、救われるか滅びるかは、神の側の一方的な選びだけではなく、人の側の責任も関与している事が分かる。
「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。」(ローマ1:24)
もし人が、あくまで欲望のままに歩むなら、神はその人を望むままに、汚れへと引き渡されるのだ。

そもそも、この世はなぜ、滅びの器と、憐れみの器が混在するのだろうか?
マタイ13章24-30の毒麦のたとえを見ると、世という畑には、神の蒔いた良い麦と、敵(悪魔)の蒔いた毒麦が混在している事が分かる。
毒麦を巻いた張本人がサタンであり、サタンの根本的欲求は「自分が神のように高められよう」である。(イザヤ14:12-15)

神は元々、人をあわれみの器として、作られた。(創世記1章)
しかし悪しき者が蒔いた種の子孫もいて、この世は良い麦と毒麦の混在状態である。
サタンは何故赦されないのか?
それは、人は唆されて御言葉に背き、神から離れてしまったが、サタンは誰にも唆されず、自らの意志で反逆し、高き者になろうとしたからである。
そのサタンが、世の中という畑に毒麦を蒔いて行き、その毒麦が誰の目にも明らかな「毒」を結んだのであれば、当然の結果として、火に投げ込まれるのである。

神は何も、好きこのんで人間を頑なにしたり、滅びの器に定めたりするわけではない。
「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼ18:23)
むしろ神は、人を憐れもうとするが故に、一人子を世に与え、その大切な一人子を身代わりの十字架につける程の憐れみによって、憐れもうとされたのである。

主は、偉大な寛容さをもって、忍耐しておられる。
「もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自身の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、
かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。」(ローマ9:22)

こういうわけで、神は徹底的に義なる御方であり、公平で正しい御方なのである。
むしろ、良い逆らう私達の方に、問題があるのである。
私たちは、神が不公平だといって、神を裁いたり計ったりするのではなく、むしろ、神が私達に一人子を賜るほどに愛し、憐れまれたことを、感謝すべきである。

「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」(エペソ1:4,5)

私たちを、憐れみの器として、世界のはじまる前から愛をもって定めておられた神様に、栄光と祝福がありますように。

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