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メッセージ - 詩篇カテゴリのエントリ

主に何もかも持って行ったダビデ(詩篇35篇)
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ダビデの歌
35:1 主よ、わたしと争う者とあらそい、わたしと戦う者と戦ってください。
35:2 盾と大盾とを執って、わたしを助けるために立ちあがってください。
35:3 やりと投げやりとを抜いて、わたしに追い迫る者に立ちむかい、「わたしはおまえの救である」と、わたしに言ってください。

ダビデはここでも、彼を悩ます者によって悩まされている状況である。
彼の人生には多くの敵がいたが、その筆頭はサウルだろう。
しかしサウルにしても、その他の敵にしても、ダビデは、自らそれらと戦う気持ちはなく、やりも投げやりも主に持っていただき、盾も主に持っていただき、そして、『「わたしはおまえの救である」と、わたしに言ってください。』(3節)と、慰めも、主が持って下さるようにと願っている。

ここまで来ると、主は、ダビデをかばわざるを得ないであろうし、敵としても、たまったものではないだろう。
戦いにしても守っていただく事にしても、主に全部していただく、という姿勢は、私達も習うべき姿勢である。

35:4 どうか、わたしの命を求める者を/はずかしめ、いやしめ、わたしにむかって悪をたくらむ者を退け、あわてふためかせてください。
35:5 彼らを風の前のもみがらのようにし、主の使に彼らを追いやらせてください。
35:6 彼らの道を暗く、なめらかにし、主の使に彼らを追い行かせてください。
35:7 彼らはゆえなくわたしのために網を隠し、ゆえなくわたしのために穴を掘ったからです。
35:8 不意に滅びを彼らに臨ませ、みずから隠した網にとらえられ、彼らを滅びに陥らせてください。
35:9 そのときわが魂は主によって喜び、その救をもって楽しむでしょう。

敵があわてふためきますように、彼らを主の使いに追い遣らせてください、彼らが網に捕らえられ滅びに陥らせてください、そうして主にあって喜び、救いを楽しむでしょう。。。
決して高貴な祈りとは思えないかもしれない。
しかし、ダビデはサウルに対して高貴な立ち居振る舞いを最後まで貫き通せた。
その背後には、このような、感情丸出しの、鬱憤を全部主へと吐き出すような祈りがあったのだ。

そうである。
人はいかに表面は高貴に見えても、内面はドロドロしているものであるが、しかしそのようなプライベートな、外面には見えない、主との親密で感情丸出しの交わりがあったからこそ、その立ち居振る舞いが高貴だったのだ。
だから、サムエル記のダビデは表舞台のダビデ、詩篇のダビデは、舞台裏のダビデである。
私達の舞台裏も、詩篇のように、何もかも主に持っていくべきだ。

もしダビデが、彼の鬱憤を、主に持っていくのではなく、ゴシップ好きな人達と一緒に酒を飲みながらおしゃべりして鬱憤を晴らしていたら、どうなっていたか。きっと彼は、低俗な者になってしまっていた事だろう。
人は、友によって研がれるものである。
彼は、何でもかんでも神に持って行って、神を友とし、神によって研がれたからこそ、彼は高貴な、ノーブルな者になっていったのだ。

35:10 わたしの骨はことごとく言うでしょう、「主よ、だれかあなたにたぐうべき者がありましょう。あなたは弱い者を強い者から助け出し、弱い者と貧しい者を、かすめ奪う者から助け出される方です」と。

彼がこのように、全身全霊で主をほめ讃えるでしょう、と告白できたのは、彼が主に何もかも打ち明け、神を友とし、攻撃も防御も慰めてむらう相手も全部、神に委ねていたからである。
それで彼は実際に神に守られ、あらゆる敵から救われたのである。

35:11 悪意のある証人が起って、わたしの知らない事をわたしに尋ねる。
35:12 彼らは悪をもってわたしの善に報い、わが魂を寄るべなき者とした。
35:13 しかし、わたしは彼らが病んだとき、荒布をまとい、断食してわが身を苦しめた。わたしは胸にこうべをたれて祈った、
35:14 ちょうど、わが友、わが兄弟のために/悲しんだかのように。わたしは母をいたむ者のように/悲しみうなだれて歩きまわった。
35:15 しかし彼らはわたしのつまずくとき、喜びつどい、ともに集まってわたしを責めた。わたしの知らない他国の者は/わたしをののしってやめなかった。
35:16 彼らはますます、けがす言葉をもってあざけり、わたしにむかって歯をかみならした。

ダビデが主に訴えている「彼ら」は、ダビデに対し、恩を仇で返して来た人達だ。
サウルも実際、そうだった。
ダビデは王サウルのため、そしてイスラエルの神、主のために、いのちがけで戦って、大勝利をおさめて行ったのだが、そうすればするほど、サウルに妬まれて行った。
しかしダビデは、サウルからのみならず、あらゆる敵から救い出され、そして栄誉が与えられた。

35:17 主よ、いつまであなたはながめておられますか、わたしを彼らの破壊から、わたしのいのちを若きししから救い出してください。
35:18 わたしは大いなるつどいの中で、あなたに感謝し、多くの民の中で、あなたをほめたたえるでしょう。
35:19 偽ってわたしの敵となった者どもの/わたしについて喜ぶことを許さないでください。ゆえなく、わたしを憎む者どもの/たがいに目くばせすることを許さないでください。
35:20 彼らは平和を語らず、国のうちに穏やかに住む者にむかって/欺きの言葉をたくらむからです。
35:21 彼らはわたしにむかって口をあけひろげ、「あはぁ、あはぁ、われらの目はそれを見た」と/言います。
35:22 主よ、あなたはこれを見られました。もださないでください。主よ、わたしに遠ざからないでください。

ダビデは、彼をゆえなく憎みあざ笑う者達を主に訴えているが、これは将来、ダビデの子孫であるイエス様が、悪しき者達からゆえなく憎まれ迫害される事を暗示している。

ヨハネ15:22 もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道がない。
15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。
15:24 もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。
15:25 それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。

ヨハネ15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

確かに、主にあって歩む私達は、このような故なき迫害を受ける事がある。
しかしその時、私達は幸いである。
私達も主の道を歩んでいるものとして、主に全てを打ち明け、訴える、主が聞いて下さるのだ。

35:23 わが神、わが主よ、わがさばきのため、わが訴えのために奮いたち、目をさましてください。
35:24 わが神、主よ、あなたの義にしたがってわたしをさばき、わたしの事について彼らを喜ばせないでください。
35:25 彼らにその心のうちで、「あはぁ、われらの願ったことが達せられた」と/言わせないでください。また彼らに「われらは彼を滅ぼしつくした」と/言わせないでください。
35:26 わたしの災を喜ぶ者どもを/ともに恥じ、あわてふためかせてください。わたしにむかって誇りたかぶる者どもに/恥と、はずかしめとを着せてください。
35:27 わたしの義を喜ぶ者をば/喜びの声をあげて喜ばせ、「そのしもべの幸福を喜ばれる主は大いなるかな」と/つねに言わせてください。
35:28 わたしの舌はひねもすあなたの義と、あなたの誉とを語るでしょう。

ダビデはこの詩篇の最後を、信仰告白と賛美で終えている。
人は理不尽な状況に置かれた時、誰かにぶちまけたり、あるいは自分で抑え込んでしまったり、神である主を抜きにして対応してしまいがちだ。
しかしダビデは、たとえ鬱憤をぶちまけるにしても、人に対してでなく全部、主に向かっている。
彼はこのように、神とのコミュニケーションをして行ったからこそ、そうした鬱積は健全に解消され、賛美と信仰告白を出来るまでに平安と喜びに溢れたのだ。
彼はいつもこのように、主にあって健全に交わっていたから、魂を健全に保ち、ノーブルな性質を身に着けて行ったのだ。
私達も全てを主に打ち明け、いつも冷静と魂を健全に保ち、高貴な性質を身に着けていくものでありたい。

言葉によって幸いを勝ち取る道を伝授するダビデ(詩篇34:11-22)
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この詩篇34篇は、ダビデが人生で最も恥ずかしい思いをした時に記したが、その経験から、主は真実なお方であり、主により頼む事こそ最も幸いな道である、という事を学ばされたため、彼はこの詩篇の後半で、主を恐れ幸いな道に歩むようにと、人々にアドバイスしている。
彼は、自分の恥ずかしい体験さえもネタとして、主の素晴らしさを伝えたいがために、この詩篇を記したのだ。

詩篇34:11 子らよ、来てわたしに聞け、わたしは主を恐るべきことをあなたがたに教えよう。
34:12 さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。

ダビデは、自分の経験に基づいた人生のコツ、すなわち、命を長くし、幸いで健やかな時をたくさん過ごせるコツを伝授するが、そこで彼が真っ先に言う事は、口から発せられる言葉に気をつけるべき事である。

詩篇34:13 あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。

口から発した言葉は、振動であり、声帯が震わせ、その震えが空気を伝わり、相手の耳の鼓膜を振動させ、そうして言葉が伝達する。
全被造物は神のことばのとどろきによって、創造されたが、同じように、私達も神の子・神の似姿として、信仰を混ぜ込んだ言葉によって、世界を動かし、その唇から出てくる言葉のよしあしによって、良い実も、悪い実も結ばせるのだ。

箴言18:20 人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。
18:21 死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。

だから、人生をより良くしたいのであれば、口からは良い言葉を発し、悪い言葉は発さない事である。

詩篇34:14 悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。

幸いの道のさらなるコツは、悪を離れ善を行い、また、平和を追い求める事である。

マタイ5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

一見すると、悪に長けた者が地をぶんどっているかのように見えるかもしれない。
しかし、いかに彼らが一時的に栄え、また蔓延ったとしても、彼らは御言葉の法則には逆らえない。悪を行う者は、やがて必ず廃れていく。
しかし悪を離れて善をおこない、柔和である事を務めて求める者は、祝福され、地を相続して行く、という法則がある。

詩篇34:15 主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。
34:16 主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。
34:17 正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。
34:18 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。

そしてダビデは、主の御前に心へりくだる者となるよう勧めている。
高ぶった者は、神を喜ばせることができないからだ。

詩篇51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。

神に対する最良のいけにえは、へりくだった、砕かれた魂である。
神は、アベルの最良の捧げ物を捧げたいと願う彼の捧げ物に目を留められたが、カインの傲慢な心と共に捧げた捧げ物は、気にも留めなかった。

詩篇34:19 正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。
34:20 主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。

正しくこの世を歩んで行こうとするなら、確かに、苦労する事が多い。世が、そうではないからだ。
しかし、正しく歩んで行こうとする者には、主が守りを与えて下さる。
ダビデが言っているように、神は、そういう人の命を長くし、幸いで健やかな時をたくさん過ごさせて下さる。

詩篇34:21 悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。
34:22 主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに/罪に定められることはない。

主は、主の御言葉を信頼して宣言し、そのとおり行う「主のしもべ」らを守り、報いてくださる。
かつてダビデは、ゴリヤテと相対した時、彼の信仰を混ぜた宣言により、これは自分対ゴリヤテの戦いから、自分の信頼するイスラエルの神主対、ゴリヤテの信頼する偶像の神へとシフトし、堂々と勝利を勝ち取った。(1サムエル記17:45-47)
この口からは良い言葉を発し、悪い言葉を一切発せず、勝利し、幸いな良い地を受け継いで行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

恥のどん底の最中でも、御使いの陣をもって守って下さる主(詩篇34篇)
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詩篇34篇 ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌
詩篇34:1 わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。

この詩篇は、ダビデが人生で最も危機的な状況を通った末、とても恥ずかしい思いをした場面の時に詠んだ詩篇である。
この表題だけを見るなら、きっとさぞや嘆き悲しみの内容が書いてあると思いきや、とても積極的な賛美で始まっている。

彼がアビメレクの前で狂ったさまを装うに至るまでの経緯で、彼はサウル王から命を狙われ、家(妻ミカル)にも、預言者サムエルの所にも、最親友ヨナタンの所にも、祭司アヒメレクの所にも、居場所が無くなってしまった。
人は、あまりに理不尽で過酷な状況が続くと、どんな信仰の強い人でも、つい、世的・肉的な手段に頼って、もっと悪い状況に陥ってしまう事もある。
ダビデが祭司アヒメレクの仕える主の幕屋に行ったのは、主に頼るためであったろうが、彼は、ゴリヤテの剣を受け取った時、「それに勝るものはありません」と言った。
それまでの彼は、ただ、信仰だけが武器だった。当時彼は、剣や槍で立ち向かわず、ゴリヤテの剣よりも強い「御言葉の剣」で勝負し、勝利したというのに。
彼は理不尽な状況続きで、主への信頼は弱っていた。彼の状況は、同情して余りあるが、主により頼むべき人が、聖なるお方に頼らず、汚れた者の力の象徴(剣)に頼りを置いてしまう時、正常な判断を失い、狂った算段をしてしまう。

1サムエル記21:10 ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。

彼はサウルから隠れるために、あるいは、もしやサウルに敵対する者からの保護を得られるかもしれないと、敵国ペリシテに行ったのだろうが、自分が討ち取ったゴリヤテの剣を持って、ゴリヤテの故郷・ガテに行くのは、狂気の沙汰である事さえ理解できない程、彼の思いの中は、恐れ・不安・心配で、眩まされていた。
ダビデはペリシテ人の地で「捕らえられ」てしまい(詩篇56編表題)、王アキシュの前に引き出された。

1サムエル記21:11 するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。

彼らはダビデを「王」と呼び、また彼がゴリヤテを倒した時に女達が歌った歌も知っており、そして彼は、ゴリヤテの剣を身に帯びていた。ダビデが恐れるに十分だった。この絶望的状況の時、彼は心を主に向けた。

1サムエル記21:13 それでダビデは彼らの前で気違いを装い、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。

当時、男性のひげは権威の象徴であり、そこに対する侮辱は耐え難いものだった。ダビデのこの行動は功を奏し、王アキシュは、ダビデが「万を打った者」「イスラエルの王」の様子ではないのを見、彼を放した。
あの栄光のダビデが、屈辱的な、本当に気が違ってしまったかのような方法でかろうじて救われた。

私達も、恐れと心配のあまり、世の方法に頼ろうとするなら、恥と、気違い沙汰と、屈辱の底を通らなくてはならない。
しかしダビデは、彼の誤った判断によって生み出された命の危機から、主の憐れみで救い出された事で、本当に大切な真理を得た。

ダビデは、アキシュに捕らえられた時の心境を、詩篇56編で詠んでおり、彼はその中で、3度も「みことば」をほめたたえた。(4,10) 
彼は、この一連の事によって、信仰が回復し、悟ったのだ。ゴリヤテの剣よりも、御言葉の剣のほうが遥かに頼りになる事を。

私達も、恐れや不安によって命の危機に陥り、狂気の沙汰と恥のどん底をくぐる事はある。
それでも主に立ち返るなら、主は救って下さり、以前に増してさらに主に用いられるに相応しい器へと造り変えられるのだ。
主は、その愛する人を、敢えてそのように導き、ただ主とだけ向き合い、主をのみ頼るようにされる。

アドラムのほら穴に逃げ込み、独りになったダビデは、人の間から頼りどころを探す事を100%止め、ただ100%、主こそ助けであると求めるに至る。
彼はその時の祈りを、詩篇142篇に綴っており、彼は洞穴の中で声を出して主に呼ばわって願い求め、彼の嘆きを全て主に注ぎ出し、悩みを露わにした。(詩篇142:1-2) 

「わたしは右の方に目を注いで見回したが、わたしに心をとめる者はひとりもありません。わたしには避け所がなく、わたしをかえりみる人はありません。主よ、わたしはあなたに呼ばわります。わたしは言います、「あなたはわが避け所、生ける者の地でわたしの受くべき分です。」(詩篇142:4-5)

イスラエルを導く王となるダビデの「右」には、誰も人がのし上がってはならない。ただ万軍の主以外には。
人の間から頼りをことごとく失ってしまった彼は、ついに、主だけが避け所だと悟った。

「わたしを獄から出し、御名に感謝させて下さい。あなたが豊かにわたしをあしらわれるので、正しい人々はわたしの周りに集まるでしょう。」(詩篇142:7) 

ダビデがこの告白をした時、今度は、人々がダビデの所に集まって来る。
『しえたげられている人々(マツォク)、負債のある人々(ナシャー)、心に不満のある人々(マラ・ネフェシュ原意:苦い魂を持つ人)も皆、彼のもとに集まってきて、彼はその長となった。』(1サムエル記22:2)
それまでダビデは、頼りとなる人を追いかけていたが、誰もいなくなり、ただ一人、主と向き合い、主のみを頼りとした時点が転換となって、今度は逆に、人々がダビデの傘下に入ろうと、彼を追いかけて来たのだ。

ダビデは今まで自分を救う事で手一杯だったのに、彼の所に虐げられている人、破産者、苦い魂を持った、一癖も二癖もありそうな人達が、四百人も来て、彼らの面倒を見なくてはならなくなった。
自分が誰かから助けられたいのに、なぜか、自分の所に助けを求めて人が集まって来るのか。実は、これが主の助けの方法なのだ。
人は、守るべき人、養うべき人を持つと、強く健全になる。そして、一癖も二癖もあるような人々を養い、彼らを正しく統率して行く経験は、一国の王となって行く上で、とても重要な訓練となって行く。
ダビデはそれまで、自分のいのちを救うために、真実ではない行動をして来たが、400人の長となった今、彼らの面前で、偽りの、恥ずかしい行動は、する訳には行かなくなり、真理に立つようになって行った。
だからダビデは、大胆に主を賛美したのだ。

詩篇34:2 わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。
34:3 わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。
34:4 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。
34:5 主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。
34:6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。

ダビデは恥のどん底にあっても、主を誉め讃えた。それだから彼は主に愛され、どんなに恥の境遇の中にあっても助け出されたのだ。
そしてダビデ自身も、こんなにも恥ずかしい状況にあっても主が救い出して下さったことが嬉しくて、この詩をつくり、聖歌隊に歌わせたのだ。
彼は、自分の恥さえも主を賛美するネタとする事に、一切の躊躇が無かったのは、それほど、素晴らしい主を讃えたかったからだ。

詩篇34:7 主の使は主を恐れる者のまわりに/陣をしいて彼らを助けられる。
34:8 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
34:9 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。
34:10 若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。

ダビデは、あの恥ずかしい最中にあって、知ったのだ。あの恥ずかしい最中さえも、主は、彼の周りに御使を遣わして陣を張っておられ、彼を助けだされた事を。
罪の故に、あるいは弱さの故、気違いじみた、望まない行動をしてしまう時があっても、いつも主に助けを求める心を持っているなら、まさにその時、主は御使を遣わして陣を張り、罪や悪から、誘惑から、そして災いや死から守ってくださるのだ。

1テサロニケ5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

栄光の主のみわざこそが成就する(詩篇33篇)
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詩篇33篇は賛美によって始まり、主の創造のわざの素晴らしさを告げ、主をおそれ主を待ち望む者の幸いを宣言し、主への信仰告白と応答によって終わっている。

詩篇33:1 正しき者よ、主によって喜べ、さんびは直き者にふさわしい。

ここで「ふさわしい」と訳された語「ナヴェー」は「美しい」(雅歌書1:5や2:14、6:4)とも訳すことが出来、特に、「似合っている故の調和的美しさ」を意味する。
どんな音楽大学を出ていても、あるいは、歌手としてキャリアを積んでいたとしても、その人が歌う「賛美」が、しっくりとしているかどうかは、別の話である。
ただ歌声がきれいで楽器を演奏するテクニックが素晴らしかったとしても、心がねじ曲がっているとするなら、その「賛美」は、不相応で、違和感を感じるものだ。

詩篇33:2 琴をもって主をさんびせよ、十弦の立琴をもって主をほめたたえよ。
33:3 新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。

賛美は今日も聖徒たちによって、日々、新しく創られる。
その日々つくられる新しい賛美をもって、日々開発される様々の楽器や演奏法を用いて主をほめ讃えるのは、いつの時代でも相応しい事であり、主が求めておられる所である。
この詠み人知らずの詩篇の作者は、今もなお、現代の聖徒たちに語っている。新しい歌を主に向かって歌え、と。

そしてさらに続く所において、主の創造のわざに対する賛美がある。

詩篇33:4 主のみことばは直く、そのすべてのみわざは真実だからである。
33:5 主は正義と公平とを愛される。地は主のいつくしみで満ちている。
33:6 もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた。
33:7 主は海の水を水がめの中に集めるように集め、深い淵を倉におさめられた。
33:8 全地は主を恐れ、世に住むすべての者は主を恐れかしこめ。

この世の、全て主に創られたものは、主の宣言型動詞のことばによって創造された。
神の宣言型動詞は、必ず「そうなる」「在り続ける」もので、全宇宙も、星々も、また海も、空も、あらゆる植物、あらゆる生き物も、この宣言型動詞に100%従順して成り立っている。
さらに聖書には「命令型動詞」があるが、これは被造物の中でも人間に対して発せられる命令で、人は、この命令形動詞に対しては、従順する事が要求される。
しかし人間には、自由意志があるため、人の自由意志によって破られる事もある。
もし人がそれを破るなら、その人には聖書に記されている通りの災いが起きてしまう。しかしもし人がそれに従順するなら、聖書に記されている通り、必ず主のわざが為り、祝福される。(申命記28章)

詩篇33:9 主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである。
33:10 主はもろもろの国のはかりごとをむなしくし、もろもろの民の企てをくじかれる。
33:11 主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ。
33:12 主をおのが神とする国はさいわいである。主がその嗣業として選ばれた民はさいわいである。

ここにおいては、ただ、主のはかりごとだけが成ることが宣言されている。
全被造物の中で、主の言葉に従わない自由さえ与えられているのが、神の似姿である人間であり、神を敬わない自由のみならず、神の御子を殺す自由さえも与えられている。
しかし聖書に記されている通り、御子を引き渡す者は永遠に呪われ、御子を信じる者は永遠の救いを得る。

ただこの世は、そして来る世も、全ては主の御心の通りに成る。
主の御言葉から離れた人の自分勝手なわざは、いかに一時的に大きく燃え上がったとしても、必ず、消えていく。

詩篇33:13 主は天から見おろされ、すべての人の子らを見、
33:14 そのおられる所から/地に住むすべての人をながめられる。
33:15 主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる。

そうである。主は全地を見渡しておられる、のみならず、全・人類の心をも、見透かしておられる。
その証拠に、主は、ダビデが少年の時、イスラエルの中で誰も見向きもしない末っ子で、羊飼いの仕事をさせられている時に、主の目からは、最も王として相応しい者として、既に見出しておられた。

1サムエル記16:1 さて主はサムエルに言われた、「わたしがすでにサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けたのに、あなたはいつまで彼のために悲しむのか。角に油を満たし、それをもって行きなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである」。

それは彼の心は主に対して全く一つで、羊を飼いながら主への賛美の詩を沢山つくり、また羊たちを命がけで守っていたからだ。
まことに主の目と、人の見る目は違う。

1サムエル記16:7 しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。

サムエルでさえ、見た目で惑わされた。
しかし主が言っておられる通り、主は、人の心をこそご覧になられる。

2歴代誌16:7 そのころ先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った、「あなたがスリヤの王に寄り頼んで、あなたの神、主に寄り頼まなかったので、スリヤ王の軍勢はあなたの手からのがれてしまった。
16:8 かのエチオピヤびとと、リビアびとは大軍で、その戦車と騎兵は、はなはだ多かったではないか。しかしあなたが主に寄り頼んだので、主は彼らをあなたの手に渡された。
16:9 主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。今度の事では、あなたは愚かな事をした。ゆえにこの後、あなたに戦争が臨むであろう」。
16:10 するとアサはその先見者を怒って、獄屋に入れた。この事のために激しく彼を怒ったからである。アサはまたそのころ民のある者をしえたげた。
16:11 見よ、アサの始終の行為は、ユダとイスラエルの列王の書にしるされている。
16:12 アサはその治世の三十九年に足を病み、その病は激しくなったが、その病の時にも、主を求めないで医者を求めた。

アサ王は、最初は主により頼み良き政治を行っていた。しかし、栄えて富み出すと、驕り高ぶり、主に対して心を尽くす者ではなくなってしまった。
彼の場合、ダビデとは逆の道を行き、彼に御言葉を持っていって戒めた預言者の足をしばり、主の御言葉には従わない事を示してしまった故に、最後には足に病が発症し、それでも主に立ち返らず医者に頼ったので、結局、その病が元で彼は死んでしまう。
主を差し置いていて、医療や戦闘力により頼む者は、このようになってしまう。

詩篇33:16 王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。
33:17 馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない。

人は軍馬や兵器に、勇士により頼もうとするが、主の御前には、それらは役に立たない。
主が求めておられる事はむしろ、主を恐れる事、そのいつくしみを望む人をこそ、求めておられる。

詩篇33:18 見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。
33:19 これは主が彼らの魂を死から救い、ききんの時にも生きながらえさせるためである。

そして、この詩篇の最後は、主に対する応答と信仰告白によって締めくくられている。

詩篇33:20 われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である。
33:21 われらは主の聖なるみ名に信頼するがゆえに、われらの心は主にあって喜ぶ。
33:22 主よ、われらが待ち望むように、あなたのいつくしみをわれらの上にたれてください。

私達も主に告白すべきである。
あなたこそ、わたしの救いの神、あなたこそ私の助け、私の盾、と。
主もまた、そのように主を呼び求める魂を救い出し、恵みて満たして下さるのだ。

罪の問題を主に解決していただいた「幸いな人」(詩篇32篇)
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詩篇32篇 ダビデのマスキールの歌

これは7つの悔い改めの詩篇(6,32,38,51,102,130,143篇)の中の1つである.マスキールの意味は明確ではないが,8節の「悟りを与え」と同じ言葉であり,アモ5:13の「賢い者」と同語であることから,「教訓的な」内容の詩篇という理解もある.13の詩篇に表題として用いられている.47:7の「巧みな歌で」が〈ヘ〉マスキールであることから,演奏上技巧を要した曲を指すものと思われる(実用聖書注解)

詩篇32:1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
32:2a 主によって不義を負わされず

詩篇32篇も、詩篇1篇と同様、「さいわいである(アシュレイ)」という言葉から始まる。
どういう人が幸いな人か。
まず、「罪がおおい消される者」、また、「主によって不義を負わされず」の人である。

イザヤ書1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。「紅(トラー)」のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

雪が大地を覆うと、大地がいかに汚くとも、一面銀世界となるが、その雪の下は、相変わらず汚いままである。
しかし「主によって不義を負わされ」ないという、本質的に罪の問題が解消される段階がある。
それは、新しいいのちへ生まれ変わる段階である。

このイザヤ1:18で使われている「紅」という言葉は、ヘブライ語でトラー、ことさら「ミミズ」をあらわす故、ミミズの色である「紅」と訳されている。
主はイザヤを通して、あなたの罪が、ミミズのように醜く汚らわしく、そして赤くても、雪のように、羊の毛のようになる、と言って下さった。
私達が罪人として、ミミズのように地を這いつくばって塵を食べるような生き方は、もはや死へと明け渡し、神の子として生まれ変わららされたのは、イエス様が私達の身代わりとなって、人間以下に、虫けらのようになって、私達の罪と刑罰を一身に負ってくださったからだ。(詩篇22:6)

詩篇32:2b その霊に偽りのない人はさいわいである。

ダビデは「霊に偽りのない人」はさいわいである、と言った。
私達は、口先と心を裏腹にして偽る事は良くする。しかし霊は正直であり、自分で自分を偽りようが無い。
しかし、霊が自分の犯した罪を知っていて、主からも指摘されておりながら、それを主の御まえに認めず、悔い改めないまま残している状態が、霊に偽っている状態である。
ダビデは、そのような状態にあった時の苦しみを、以下のように告白している。

詩篇32:3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
32:4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ

自分の罪を言い表さなかった時には、次の「損」がつきまとう。
すなわち、一日中苦しみうめき、御手が重くのしかかり、あたかも夏のひでりに枯れ果てるような思いがするのだ。
楽になるためには、罪を告白し、悔い改めて、その重荷を下ろす事である。

詩篇32:5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ

罪は誰でも犯すが、その罪を赦される人と、赦されずに災いを背負って行く人とに別れる。
赦される人とは、自分の犯してしまった罪に、心痛め、主に告白して悔い改め、そこから離れようとする人である。
しかし、罪を犯す事に躊躇せず、罪を指摘された時も、いややっていない、と言うような人には、打ち叩きの杖がいつも付きまとう。
それ故、主に対しては、思い出す限り、罪を告白しなくてはならない。

主は、気づかせる。ちょうど、ヤコブの子ユダに隠している罪を気づかせたように。(創世記38章)
そして、気付かされた後、その自分の罪についてどうするかという判断は、本人の自由意志に任されている。

主は私達キリスト者には、罪を犯した時に苦しいと思える心を与えて下さるが、それは特権である。
そして告白して悔い改めたなら、主はその罪をゆるし、きよめて下さる。

1ヨハネ1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

それで私達は、はばかることなく主に祈ることができる。

32:6 このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にも/その身に及ぶことはない。
32:7 あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。〔セラ
32:8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。

主は私達に、自由意志を与えて下さった。
主は求めておられる。それを用いて、主を愛し、罪から離れる事を。

32:9 あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。
32:10 悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。
32:11 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。

神は思いのままに赦す・赦さないをされるわけではない。赦しには、根拠がある。
その根拠とは、神の御子が身代わりとなってくださった事である。

イザヤ53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

まことに主から罪を認められない人は、幸いである。
主に全てを打ち明け、心に後ろ暗い所の無い幸いな人であり続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

何者にも奪われない平安と実際的な助けが与えられるための効果的な祈り(詩篇31篇)
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この詩篇もダビデによるもので、彼が敵に追われていて、命の危機が迫っている中、救いが必要な状況の中での、主への祈りである。
この詩篇には、何者にも奪われない平安と、実際的な助けが与えられるための効果的な「祈りのコツ」が散りばめられている。

詩篇31篇 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
31:1 主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。とこしえにわたしをはずかしめず、あなたの義をもってわたしをお助けください。
31:2 あなたの耳をわたしに傾けて、すみやかにわたしをお救いください。わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。
31:3 まことに、あなたはわたしの岩、わたしの城です。み名のためにわたしを引き、わたしを導き、
31:4 わたしのためにひそかに設けた網から/わたしを取り出してください。あなたはわたしの避け所です。

人は何かと祈る時、「何々を下さい」という願いごとを、連発をしやすいが、彼は祈りの真っ先に、主に対しする彼の信仰告白ではじめている。
それは「聞かれる祈りのコツ」ではあるが、それ以上に、羊が羊飼いに甘えて、どんな事でも羊飼いに持っていくかのような、彼の、主との親しさをよく表している。

彼は主に彼の思いのたけを、持って行った。
主よ、わたしはあなたにより頼みます、と。
あなたの義によって、わたしを助け出してください、と。

主に向かって、「あなたの耳」を傾けてください、「あなたは」わたしの逃れの岩、「あなたは」わたしを救う堅固な城、という、主に対する告白を織り交ぜながら、彼がこの危機から救われる願いを、主に求めている。
主への呼びかけが無き祈りは、空を打つ祈りである。神との人格的な親しい交わり無き「願い事の投げつけ」は、偶像礼拝者の祈願と変わりが無い。
私達キリスト者の祈りは、主との交わり、主とのコミュニケーションなのだ。

詩篇31:5 わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。
31:6 あなたはむなしい偶像に心を寄せる者を憎まれます。しかしわたしは主に信頼し、
31:7 あなたのいつくしみを喜び楽しみます。あなたがわたしの苦しみをかえりみ、わたしの悩みにみこころをとめ、
31:8 わたしを敵の手にわたさず、わたしの足を広い所に立たせられたからです。

この5-8節は、主語が「あなた」、すなわち、神である主となっていて、主はいかなるお方であるのかという表明と、そして、主は今まで何をして下さったのか、という、今まで与えられた恵みを数える彼の信仰告白である。
主は彼をあがなわれ、むなしい偶像に心を寄せる者を憎まれ、いつくしみで喜び楽しませて下さるお方であり、彼の苦しみをかえりみ、彼の悩みに御心を留め、彼を敵の手に渡さず、彼の足を広い所に立たせられた。
このように、主はいかなるお方であるのか、という宣言をするなら、自分が願い求める祈りに「万軍の主の御名」という裏付けが取れて、その祈りは土台のしっかりした、確証の取れた祈りとなり、大胆に主に願う事を告白することができる。
それで続く祈りで、ダビデは、主に対して切々と現状を訴えている。

31:9 主よ、わたしをあわれんでください。わたしは悩み苦しんでいます。わたしの目は憂いによって衰え、わたしの魂も、からだもまた衰えました。
31:10 わたしのいのちは悲しみによって消えゆき、わたしの年は嘆きによって消えさり、わたしの力は苦しみによって尽き、わたしの骨は枯れはてました。
31:11 わたしはすべてのあだにそしられる者となり、隣り人には恐れられ、知り人には恐るべき者となり、ちまたでわたしを見る者は避けて逃げます。
31:12 わたしは死んだ者のように人の心に忘れられ、破れた器のようになりました。
31:13 まことに、わたしは多くの人のささやくのを聞きます、「至る所に恐るべきことがある」と。彼らはわたしに逆らってともに計り、わたしのいのちを取ろうと、たくらむのです。

これらの祈りは、「わたしを」「わたしは」「わたしの」、、、と「わたし」づくであったが、しかし、その前にダビデは、主がいかなるお方であるのかをしっかり宣言した、その裏付けがもうあるので、安心して自分の状況を洗いざらい告白して、スに全部聞いていただき、助けを求めることが出来たのだ。

31:14 しかし、主よ、わたしはあなたに信頼して、言います、「あなたはわたしの神である」と。
31:15 わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください。
31:16 み顔をしもべの上に輝かせ、いつくしみをもってわたしをお救いください。
31:17 主よ、わたしはあなたに呼ばわります、わたしをはずかしめないでください。悪しき者に恥をうけさせ、彼らに声をあげさせずに陰府に行かせてください。
31:18 高ぶりと侮りとをもって正しい者をみだりにそしる/偽りのくちびるをつぐませてください。

ダビデが「あなたはわたしの神である」としたなら、彼の全ての問題は、主の手の中に移った。
主の御手の中に匿われているダビデを攻め立てる敵は、主の御手に対して攻め立てる事となり、主があとは取り扱って下さるようになる。
私達も、御言葉の裏付けが取れた主と自分との関係を宣言をした後に、洗いざらい主に自分の状況を告白し、主に聞いていただいたなら、平安が与えられるのだ。

31:19 あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに寄り頼む者のために/人の子らの前に施されたあなたの恵みは/いかに大いなるものでしょう。
31:20 あなたは彼らをみ前のひそかな所に隠して/人々のはかりごとを免れさせ、また仮屋のうちに潜ませて/舌の争いを避けさせられます。
31:21 主はほむべきかな、包囲された町のようにわたしが囲まれたとき、主は驚くばかりに、いつくしみをわたしに示された。
31:22 わたしは驚きあわてて言った、「わたしはあなたの目の前から断たれた」と。しかしわたしがあなたに助けを呼び求めたとき、わたしの願いを聞きいれられた。

ついに彼は、心底主をほめたたえることができる平安へと至る。
祈るなら平安が与えられ、そしてその揺るぎない平安は喜びになり、さらには賛美へと昇華して行くのだ。

最後に彼は、聖徒たちへの勧めによってこの詩篇を閉じている。

31:23 すべての聖徒よ、主を愛せよ。主は真実な者を守られるが、おごりふるまう者にはしたたかに報いられる。
31:24 すべて主を待ち望む者よ、強くあれ、心を雄々しくせよ。

ダビデは幾度も命の危機があったが、ことごとく主に守られるという経験をして来た。
それは、何かある度に、主に対して彼は真実であったからだ。
またダビデは、それまで数多の敵が沸き起こった。
サウル、ナバル、アブシャロムなど、主に対しておごりふるまう者に相対して来たが、主はことごとくそのような者達を、厳しく扱われた。

私達も、ダビデのように、主と自分との関係をはっきり宣言し、主と親密に交わる祈りをして行くなら、どんな局面でも平安が与えられ、具体的な助けが与えられ、この地上において、高い者とされて行くのだ。
この時代においてダビデのように主の栄光を表す器として、大いに用いられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

私達のために永遠の家を建てて下さった主(詩篇30篇)
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詩篇30篇 宮をささげるときにうたったダビデの歌

この詩篇の表題で「宮」と訳されているヘブライ語はベイト、宮の意味もあるが、大きくは「家」の意味である。
ダビデが王となり、自分の杉材の家を建てた時は、もう彼を追い回すサウルは死に、周囲の敵を平定した時だった。
その時ダビデは、神の家を建てるビジョンが与えられた。

2サムエル記7:1 さて、王が自分の家に住み、また主が周囲の敵をことごとく打ち退けて彼に安息を賜わった時、
7:2 王は預言者ナタンに言った、「見よ、今わたしは、香柏の家に住んでいるが、神の箱はなお幕屋のうちにある」。
7:3 ナタンは王に言った、「主があなたと共におられますから、行って、すべてあなたの心にあるところを行いなさい」。

ダビデは、自分は快適に杉材の家で暮らしているというのに、主の箱は、相変わらず粗末な環境にある、と思ったのかもしれない。
しかし主は、人が造った家に住まわれるお方ではない。主は天にも地にも満ちておられ、まどろむ事も眠る事も無く、疲れる事もたゆむ事も無いお方である。
ただダビデとしては、純粋に、主を愛する故に何かしたかったのだろう。
ちょうど子供が、親のために何かしたい、と思っても、それは幼稚で意味が無いものであるかのように。
しかし親は、そんな子供を愛おしく思うものである。
主もダビデを愛おしく思ったのだろう。
主はダビデに、さらに大いなる名誉を与える約束をされる。

『主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。』(2サムエル記7:11-14)

主のための家を建てたいと願っていたダビデだが、なんと主は、ダビデのために永遠に堅く続く家をたてる、と言われたのだ。
永遠の王が、ダビデの家系から誕生する、と。
ダビデは主を愛する故に、素晴らしい栄誉が与えられる。

詩篇30:1 主よ、わたしはあなたをあがめます。あなたはわたしを引きあげ、敵がわたしの事によって喜ぶのを、ゆるされなかったからです。
30:2 わが神、主よ、わたしがあなたにむかって助けを叫び求めると、あなたはわたしをいやしてくださいました。
30:3 主よ、あなたはわたしの魂を陰府からひきあげ、墓に下る者のうちから、わたしを生き返らせてくださいました。

主はダビデを、多くの敵や危機から救い出し、ここまで引き上げてくださったゆえに、ダビデは主に賛美し、感謝を捧げている。
キリスト者であるなら、主に向かって助けを求めたなら主が答えてくださった、という経験を何度かしているだろう。
何度も危ない橋を渡っても、なおも主は自分を王とし、鍛えつつ守って来て下さった事を経験して来たダビデの人生は、まさに私達にとって良き手本となる。

詩篇30:4 主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝せよ。
30:5 その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。

ダビデはさらに、聖徒たちに、このような素晴らしい主をほめたたえるようにと、勧めている。
聖徒の「聖」は、その漢字を分解すると、耳と口と王であり、また「徒」の彳は「少しづつ歩む」の意味で、それと共に「走」という語から成る漢字である。
つまり、聖徒とは、耳と口を王へ捧げ、王なるお方と共に歩み、王のために信仰の競争を走り抜く者達なのだ。
聖徒はすべて、ダビデが勧めているように、この、王なる主をほめ歌い、聖なる御名に感謝すべきなのだ。

詩篇30:6 わたしは安らかな時に言った、「わたしは決して動かされることはない」と。
30:7 主よ、あなた恵みをもって、わたしをゆるがない山のように堅くされました。あなたがみ顔をかくされたので、わたしはおじ惑いました。

ダビデは安全になった時、動かされることはないと思ったが、しかし主が御顔を隠される経験をした。
それは、決して思い上がってはならず、結局私達を山のように動かされないようにして下さるのは、神であるという事を示すためだったのだろう。

詩篇30:8 主よ、わたしはあなたに呼ばわりました。ひたすら主に請い願いました、
30:9 「わたしが墓に下るならば、わたしの死になんの益があるでしょうか。ちりはあなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことをのべ伝えるでしょうか。
30:10 主よ、聞いてください、わたしをあわれんでください。主よ、わたしの助けとなってください」と。

彼は、人生の中で幾度も命の危険にさらされた。決して自分の力では勝ち得ない敵、不足、困窮、孤独など。
それに出会う都度、彼は主に祈り求め、主はその都度、ことごとく危機から救い出して下さった。
私達キリスト者も、幾度、そのような経験をして来ただろう。
そして私達が祈る都度、主はいかに誠実に祈りに答えて来られた事だろう。

詩篇30:11 あなたはわたしのために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、喜びをわたしの帯とされました。
30:12 これはわたしの魂があなたをほめたたえて、口をつぐむことのないためです。わが神、主よ、わたしはとこしえにあなたに感謝します。

主を恐れ敬う者には、嘆きを踊りに、灰の代わりに冠を与えてくださる。

イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。

主の前に低くへりくだり、灰と粗布をまとって悔い改める聖徒を、主は、プライドをかけて守ってくださる。
イエス様は、本来救いからほど遠い私達を、十字架の血潮によって救ってくださり、嘆きを踊りへと、悲しみを喜びへと、灰を冠へと替えて下さった。
それ故私達も、私達の主イエス様に感謝のいけにえを捧げるのである。

主の御声(詩篇29篇)
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この詩篇の表題は「ダビデの歌」(ミズモール レ ダヴィド)、ミズモールは音楽あるいは詩(psalm)である。
この詩篇では「主のみ声」というキーワードが七回、登場すし、、ダビデは、主の御声を通して成される神の創造と支配の偉大さを褒め称えている。

詩篇29:1 神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。
29:2 み名の栄光を主に帰せよ、聖なる装いをもって主を拝め。

まず彼は「神の子らよ、主に帰せよ」という呼びかけと命令で始めている。
神の子。それは御使いのような天的な存在を指す事もあろうが、イエス・キリストを信じて救われた人はみな、神の子である。
神の子には、栄光と力が与えられるが、それらは、本人自身の好き勝手に用いるために与えられるのではなく、栄光と力を、主に帰するため、である。
御使い達も、神の子キリストに、栄光と力を捧げた。

ルカ2:10 御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。
2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。
2:12 あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。

神の御子キリストは、確かに偉大な力を持っており、天地万物はこの御方のために創られ、この御方にあって成り立っている。
それなのに、その偉大なキリストが、なんと人間の赤ちゃんとなられ、しかもなんと、不衛生な飼い葉おけの中に寝かされているのだ。
そこまで低く、低くへりくだられた、全被造物の主なる主。
主はここまで低くへりくだられたからこそ、どんな貧しく卑しい人でも、この救い主イエス様に届くお方となってくださったのだ。
だから御使いは、ほめたたえざるを得なかったのだ。

主イエス様は、低くへりくだられて地上に降りてこられたが、それに対しダビデは、主の偉大さをほめたたえている。

詩篇29:3 主のみ声は水の上にあり、栄光の神は雷をとどろかせ、主は大水の上におられる。
29:4 主のみ声は力があり、主のみ声は威厳がある。

創世記1章2節において、混沌と闇の大海原の上に、主の霊が舞いかけているが、そこで主は
「光よ、あれ」
と仰せられ、そうして光が出来、混沌だった天地を、6日かけて秩序を整えて行かれた。

詩篇29:5 主のみ声は香柏を折り砕き、主はレバノンの香柏を折り砕かれる。
29:6 主はレバノンを子牛のように踊らせ、シリオンを若い野牛のように踊らされる。

シリオンはシドン人による「ヘルモン」の呼び名である。
レバノンの香木も、ヘルモンも、威風堂々とした有様であるが、主は、神を除外した者達の威風堂々を砕かれ、それらを子牛のように、野牛のように踊らされる。
威風堂々とした人間も、自然も、主を前にしてはなんの力も無いのだ。

29:7 主のみ声は炎をひらめかす。
29:8 主のみ声は荒野を震わせ、主はカデシの荒野を震わされる。
29:9 主のみ声はかしの木を巻きあげ、また林を裸にする。その宮で、すべてのものは呼ばわって言う、「栄光」と。

主が御声を発せられると、稲妻が走り、炎をひらめかる。
また、地震によって大地を震わせ、つむじ風を起こし、全被造物は、この御方の栄光をほめたたえざるを得ない。

29:10 主は洪水の上に座し、主はみくらに座して、とこしえに王であらせられる。

洪水と言えばノアの時代の洪水であるが、天地創造から洪水までのおよそ1000年の間、人間は罪に罪を重ねて来たが、憐れみ深い主はずっと忍耐しておられた。
しかしついにノアの家族8人以外は皆、悪に染まり、すでにノアの家族にもその悪が侵食して来ようとしていたため、神はついに大洪水を起こし、そうして主は、愛と憐れみ、忍耐の主であるのみならず、義なる主、審判される主であると、威光を示されたのだ。
しかし主は、やはり憐れみの主である。

29:11 主はその民に力を与え、平安をもってその民を祝福されるであろう。

ノアを通して人類を滅ぼし尽くさず、主と共に歩む民を、平安をもって祝福されるのだ。

主の御声は、このように力があり、偉大なわざを為す。
その御業は、自然界の諸々の現象を通して、誰の目にも明らかなものであるが、主が語りかけてくるその御声の「内容」や「意味」を理解する人は、少ない。

エリヤは、神に仕える者が、自分以外には誰もいなくなってしまったと感じ、神と問答したが(1列王記19:9-18)、神が通り過ぎられた時、山を裂き、岩を砕くという、圧倒的な現象が起きたが、その中には、主はおられなかった。
風の後に地震があったが、地震の中にもおられず、地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。
そして、火の後に静かな細い声が聞えた。
エリヤはそれを聞いて、顔を外套に包んだ。

神は確かに、圧倒的な自然現象を起こされるが、その現象だけを見ても、神の意図は分からない。
神の意図を教える御声は、とても静かで、聞こうとする者にしかその意図は理解できないものである。
だから私達は、神のかすかな声を聞く耳が与えられるように、理解する心が与えられるよう、意図して耳を傾け、祈り求めるべきだ。

神の御声は、神を求める心ある人のみが、理解する。
迫害者であったサウロ、後の使徒パウロが、そうだった。

使徒9:3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
9:4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
9:5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
9:6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。

サウロは、主イエス様の圧倒的な光に照らされた時、「主よ、あなたは、どなたですか」と問うた。
パウロは「主よ」と呼び求めているからには、この、圧倒的な光の主人が「主」であると瞬時に悟ったからだ。

しかし、同じ場面に立ち会い、同じ言葉を聞いておきならが、それを悟らない人達もいる。

使徒9:7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声(フォーネー)だけは聞えたが、だれも見えなかった。

同行者達は、その場に立ち会って、しかも声(フォーネー)も聞こえたのに、彼らは、サウロのような衝撃的な主との出会いをしていないし、この出来事の直後も、ショックを受けているサウロを、普通に介添えしている。
どういう事だろう。

この「フォーネー」というギリシア語には、声の意味の他に、ノイズという意味もある。
つまり、この場面では、サウロはこのフォーネーを聞いて、それが、主からのものであると瞬時に理解し、そしてその内容は、サウロという自分の名前を繰り返して呼び、しかも「わたしを迫害するのか」と、はっきり理解したので、彼はいまだかつて無かったショックを受けたのだ。
それなのに、このフォーネーを聞いても、何も感じない者達もいる。
主の御言葉とは、そういうものなのだ。

主を求め、主に聞こうとしている人にとっては、御言葉は、人生を揺るがし変えてしまう程のショックをもたらすが、かたや、同じ御言葉に触れても、なんのショックも変化も無い人も、いるものなのだ。

私達は生活の場面で、諸々の現象の中で、主の語られる静かな御声を聞き分け、その内容を理解し、主のみわざを為していく者達であるべきだ。
 

なんでも主に持って行って、主から可愛がられたダビデ(詩篇28篇)
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詩篇28篇 ダビデの歌
28:1 主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。わが岩よ、わたしにむかって/耳しいとならないでください。もしあなたが黙っておられるならば、おそらく、わたしは墓に下る者と等しくなるでしょう。

詩篇28篇も27篇同様、ダビデが敵によって苦しめられ、主に向かって祈る祈りである。
ダビデはどんな事でも、「主よ、わたしはあなたにむかって呼ばわります。」と、主になんでも持って行くのが、彼のトレードマークである。
親としては、どんな事でもいつでも親に持ってくる子供が、持って行かない子供よりも、かわいいのではなかろうか。
ダビデは、何事につけても、主に向かって持って行った。だから主の目には、彼は、かなりかわいかったのではないだろうか。
それで主は彼を高めて下さった。

28:2 わたしがあなたにむかって助けを求め、あなたの至聖所にむかって手をあげるとき、わたしの願いの声を聞いてください。

ダビデは悩みの時、主の至聖所に向かって手を上げた。その手は、祈りの手である。

28:3 悪しき者および悪を行う者らと共に/わたしを引き行かないでください。彼らはその隣り人とむつまじく語るけれども、その心には害悪をいだく者です。

ダビデは悪を行う者を、主に訴えている。
その彼らの性質は、彼らは表面的には仲良さそうに来るが、心には害悪を抱いている、というものだ、と。

28:4 どうぞ、そのわざにしたがい、その悪しき行いにしたがって彼らに報い、その手のわざにしたがって彼らに報い、その受くべき罰を彼らに与えてください。
28:5 彼らは主のもろもろのみわざと、み手のわざとを顧みないゆえに、主は彼らを倒して、再び建てられることはない。

この詩篇28篇には、3種類の「手」が登場する。
すなわち、自分の手と、敵の手と、そして主の御手である。
敵の手は、悪しきわざを行うが、その手が迫ってくる時こそ、私達が主に向かってきよい手を挙げて祈る時である。
パウロは以下のように勧めている。

1テモテ2:8 男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。

またモーセも60万のつぶやきやすい群衆を40年間荒野で導いた時、彼自身が怒り心頭になりそうな時は幾度もあったが、その時モーセ自身はいつでも主にひれ伏して執り成し、祈った。
彼やダビデのように、問題も怒りも全てを主に持っていく人こそ、主の御業が働く人である。

この世界は、主の良きわざによって、6日に渡って創造されたが、主は、ご自身の創造のわざを見て、6度「よし」と言われた。
人の手のわざは、悪を行う事に傾きやすく、悪い事ばかりである。
だから私達は、主の「良き」わざを成す主の御手へと、持っていくべきである。

28:6 主はほむべきかな。主はわたしの願いの声を聞かれた。
28:7 主はわが力、わが盾。わたしの心は主に寄り頼む。わたしは助けを得たので、わたしの心は大いに喜び、歌をもって主をほめたたえる。

この詩篇の後半は、早速祈りが答えられ主を喜び褒め称えている箇所へと、早速移っている。
主を呼び求める人に、主が速やかに答えて下さる事例は、聖書には事欠かない。

ハンナも主に求めた時、主が答えてくださり、ダビデ同様の感謝の歌を主に捧げている。
ハンナはペニンナから嫌味といじめを受けたが、そのつのる憂いを彼女は誰にもぶつけず、全部、主へと持って行った。
主は、彼女の祈りに聞かれ、彼女もダビデのように、主をほめ歌った。

1サムエル記2:1 ハンナは祈って言った、/「わたしの心は主によって喜び、/わたしの力は主によって強められた、/わたしの口は敵をあざ笑う、/あなたの救によってわたしは楽しむからである。
2:2 主のように聖なるものはない、/あなたのほかには、だれもない、/われわれの神のような岩はない。
2:3 あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、/たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、/もろもろのおこないは主によって量られる。
2:4 勇士の弓は折れ、/弱き者は力を帯びる。
2:5 飽き足りた者は食のために雇われ、/飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、/多くの子をもつ女は孤独となる。
2:6 主は殺し、また生かし、/陰府にくだし、また上げられる。
2:7 主は貧しくし、また富ませ、/低くし、また高くされる。
2:8 貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、/乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、/王侯と共にすわらせ、/栄誉の位を継がせられる。地の柱は主のものであって、/その柱の上に、世界をすえられたからである。
2:9 主はその聖徒たちの足を守られる、/しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。人は力をもって勝つことができないからである。
2:10 主と争うものは粉々に砕かれるであろう、/主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、/地のはてまでもさばき、/王に力を与え、/油そそがれた者の力を強くされるであろう」。

マリヤも、同様の祈りを祈った。

1:46 するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、
1:47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
1:48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
1:49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、
1:50 そのあわれみは、代々限りなく/主をかしこみ恐れる者に及びます。
1:51 主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、
1:53 飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
1:54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、
1:55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。

これらはいずれも、自分の力によらず、自分で仕返しせず、ただ主の救いにより頼んだ人々による、感謝の祈りである。
主は彼らのような、主の御声に100%従順する人を通して、世に良き介入をする機会を得て、彼らを通して大きな事をして下さった。
まことに世は、主に従順な人を通してこそ、世に介入されるのである。
しかし、御声に聞き従わない人、驕り高ぶる者、悪を行う者は、廃れていく。

28:8 主はその民の力、その油そそがれた者の救のとりでである。
28:9 どうぞ、あなたの民を救い、あなたの嗣業を恵み、彼らの牧者となって、とこしえに彼らをいだき導いてください。

ダビデは確かにイスラエルを導く羊飼いであったが、それ以上に、主こそ、まことの羊飼いである。
パスターも牧師も「羊飼い」という意味であるが、真の羊飼いは、イエス様である。
だからパスターも牧師も、人々を、まことの羊飼いへと導く「羊飼いのしもべ」である。

私達も、ダビデのように祈るべきである。
どうぞ、あなたの民を救い、あなたの嗣業を恵み、彼らの牧者となって、とこしえに彼らを抱いて導いてください、と。
まことの大牧者よ、来て支配して下さい、と。

主との交わりの甘く麗しい感覚を慕い求めて(詩篇27篇)
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詩篇27篇 ダビデの歌
27:1 主はわたしの光、わたしの救だ、わたしはだれを恐れよう。主はわたしの命のとりでだ。わたしはだれをおじ恐れよう。
27:2 わたしのあだ、わたしの敵である悪を行う者どもが、襲ってきて、わたしをそしり、わたしを攻めるとき、彼らはつまずき倒れるであろう。
27:3 たとい軍勢が陣営を張って、わたしを攻めても、わたしの心は恐れない。たといいくさが起って、わたしを攻めても、なおわたしはみずから頼むところがある。

27篇は、ダビデが敵を前にした時、ダビデの主に対する思いと姿勢がよく現れた詩篇である。
彼は「主はわたしの光、わたしの救だ、わたしの命のとりでだ」と、信仰をもって宣言した。
主を救いとする時、恐れは取り除かれ、そして主の御言葉を信仰を混ぜて宣言する時、その救いは実体として現れていく。
それで彼の人生、戦いにおいて、敗北は無かったのだ。

主を助け、主を拠り所とする人は、確かに守られ、匿われる。(詩篇91篇)
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので

信仰をもって主の約束の御言葉を宣言し、主に助けを求めて行く時、主はその信仰を実体化させて下さるが、この主の守りに囲われる時、甘く麗しい感覚が沸き起こる。

27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
27:5 それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。

女性が愛する男性の腕にくるまれる時、甘い安心感を覚えるように、ダビデも主に対して、そうだった。
だから彼は主の宮を慕い求め、生涯、そこに住む事を求めた。
この、主と主の宮をうるわしいと感じる感覚は、クリスチャンがイエス様に対して覚えるべき感覚である。
麗しい主を慕い求め、探し、門を叩き続ける人こそ、主を見出し、奥の間で主と麗しい愛の交わりにあずかれる人である。

雅歌3:1 わたしは夜、床の上で、わが魂の愛する者をたずねた。わたしは彼をたずねたが、見つからなかった。わたしは彼を呼んだが、答がなかった。
3:2 「わたしは今起きて、町をまわり歩き、街路や広場で、わが魂の愛する者をたずねよう」と、彼をたずねたが、見つからなかった。
3:3 町をまわり歩く夜回りたちに出会ったので、「あなたがたは、わが魂の愛する者を見ましたか」と尋ねた。
3:4 わたしが彼らと別れて行くとすぐ、わが魂の愛する者に出会った。わたしは彼を引き留めて行かせず、ついにわが母の家につれて行き、わたしを産んだ者のへやにはいった。

この、主との麗しい交わりに入った人は、たとえ敵が目の前にいたとしても、真理の上では主の守りの御手で囲まれているゆえに、大胆に、自信満々になる事ができる。

27:6 今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。それゆえ、わたしは主の幕屋で/喜びの声をあげて、いけにえをささげ、歌って、主をほめたたえるであろう。

ダビデは主の守りを信じ、宣言し、それが実体化になった。
だからダビデは、あらゆる戦いで勝利を得続けたのである。

27:7 主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
27:8 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。

「わが顔をたずね求めよ」、これは父なる神の、私達に対して願っておられる事であるが、ダビデはその心を熟知していた故に、それを先取りして宣言した。
もし子供がお父さんに向かって、『僕はお父さんの心を知っているよ。だからお父さんに代わって言います。「わたしの顔をたずね求めよ」』と言ったとしたら、その子供はとてもかわいいのではなかろうか。
主の目に、ダビデは、どれほどかわいく映っただろう。それ故主はダビデを特別に扱って下さった。
私達も、主からの特別待遇をいただきたいなら、心して御心を先取りし、御言葉を宣言するべきである。

27:9 み顔をわたしに隠さないでください。怒ってあなたのしもべを退けないでください。あなたはわたしの助けです。わが救の神よ、わたしを追い出し、わたしを捨てないでください。

主は、決して捨てない、と言っておられるのだけれど、この、主に捨てられてしまうのではないか、という気持はたまに沸き起こってくる。
罪を犯した時、自分が相応しくないと感じる時など。
その時、悪魔、サタンがその人を絶望させ主から引き離すためにその感覚を用いるが、私達はそれを信仰をもって制さなくてはならない。

しかし少なくとも、主に捨てられて欲しくないという思いがあるのは、健全な思いであり、主を敬わない人には、沸き起こらない感覚である。
第一サムエル記において、大祭司エリは、息子たちが御前で大きな罪を犯し続けた故に、主から捨てられる、と、幼子サムエルを通して警告を受けた時、「主の御旨がなりますように」などと、信心深そうな事を言ったが、もしダビデだったどうだっただろうか。
一刻でも早く主の御まえに走って行って、赦しを乞い、悔い改めたのではなかろうか。
つまりエリの中には、主を敬う心、主を愛し親しむ心は、無かったのだ。

私達は、人の前に信心深そうに装う事よりも、ダビデのように、なりふり構わず主を愛し、主に慕い求め、罪を犯した時でも、主に食いついて行って、赦しを求めるべきである。

27:10 たとい父母がわたしを捨てても、主がわたしを迎えられるでしょう。

世の親は、その娘や息子を、捨てるかもしれない。
しかし、たとい親が私達を見捨てたとしても、主は決して見捨てないし、忘れない。
なぜなら主は、十字架上で、手のひらに私達を刻みつけられたからである。

「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、
わたしはあなたを/わたしの手のひらに刻みつける。
あなたの城壁は常にわたしの前にある。」(イザヤ49:14-16)

27:11 主よ、あなたの道をわたしに教え、わたしのあだのゆえに、わたしを平らかな道に導いてください。
27:12 わたしのあだの望むがままに、わたしを引き渡さないでください。偽りのあかしをする者がわたしに逆らって起り、暴言を吐くからです。

平時の時さえも、ただ主の麗しさを仰ぎ見ようと求め続けている者こそ、有事の時にも真に主により頼む者である。

27:13 わたしは信じます、生ける者の地でわたしは主の恵みを見ることを。
27:14 主を待ち望め、強く、かつ雄々しくあれ。主を待ち望め。

私達もダビデのように、いつでも主に求め、主を待ち望み、おりにかなった助けを得る者でありたい。

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