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メッセージ - 詩篇カテゴリのエントリ

集会での詩篇(詩篇40篇)
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主に心を向け、耳を傾ける人が、いかに幸いであるか。ダビデはその経験を、集会の中で宣言している。

聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
40:1 わたしは耐え忍んで主を待ち望んだ。主は耳を傾けて、わたしの叫びを聞かれた。
40:2 主はわたしを滅びの穴から、泥の沼から引きあげて、わたしの足を岩の上におき、わたしの歩みをたしかにされた。
40:3 主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌を/わたしの口に授けられた。多くの人はこれを見て恐れ、かつ主に信頼するであろう。

主は、どのような人を、滅びの穴や泥沼から引きあげ、足を岩の上におき、歩みを確かにされるのか。
それは、耐え忍んで主を待ち望む人であると書いてある。
また主は、どのような人の祈りに、耳を傾けられるか。
それは、以下に記されている事を、心して行う人である。

40:4 主をおのが頼みとする人、高ぶる者にたよらず、偽りの神に迷う者にたよらない人はさいわいである。
40:5 わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても/多くて数えることはできない。

主がその祈りを聞いてくださる人とは、自分の道を、罪や虚しい事へと向けない人、主の良くして下さった事と恵みのわざを思い起こし、それを忘れない人だ。

そして6-10節は、この詩篇の心臓部とも言えるべき所である。
特に6節は、旧新約の色々な所で引用され、また、これと同じ事は色々な箇所に記されている。

詩篇40:6 あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。あなたはわたしの耳を開かれた。あなたは燔祭と罪祭とを求められない。

ヘブル10:5 あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、/わたしのために、からだを備えて下さった。

詩篇では「耳を開かれた」となっているが、ヘブル書での引用では「からだを備えて下さった」となっている。
耳は、それほど礼拝において重要な器官のだ。
たとえ体が礼拝に参加していても、耳を御言葉へと傾けないなら、それは無意味である。
耳を傾けること、それこそ私達の最高のいけにえであり、主が求められる事だと、サムエルも言っている。(1サムエル記15:22)

詩篇40:7 その時わたしは言った、「見よ、わたしはまいります。書の巻に、わたしのためにしるされています。
40:8 わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と。

書の巻、すなわち聖書に、まさしくわたしたちの事が記されている!
このとても不思議な体験を、私達クリスチャンはしている。
ダビデは1節で、主はわたしの叫びを聞かれた、と言っているが、主がその祈りを聞いてくださる人とは、主に耳を傾けて聞く人、主のことばを求め、その通りを守り行う人だ。
また、「あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」とダビデが言っている通り、御言葉を心の内に刻みつける人、すなわちテフィリンする人である。

詩篇40:9 わたしは大いなる集会で、「救についての喜びのおとずれ(ツェデク:義)」を告げ示しました。見よ、わたしはくちびるを閉じませんでした。主よ、あなたはこれをご存じです。
40:10 わたしはあなたの「救(ツェデカ:義)」を心のうちに隠しおかず、あなたのまことと救とを「告げ示し(アマール、KJV: declared)」ました。わたしはあなたのいつくしみとまこととを/大いなる集会に隠しませんでした。

口語訳で「救についての喜びのおとずれ」と訳された語は、ヘブライ語では「ツェデク(義)」、英語のKJVでは「righteousness」の一語である。
ダビデは、主の義について、心の中に隠しとどめておかず、大集会を前に大声で告げ知らせた。
イエス様が、ともしびは枡の下には置かない、と言われたように、私達も、主が良くして下さった事を、心に秘めて置く事なく、人々に告げ知らせるべきである。

11節以降は、ダビデの祈りと願いになる。

詩篇40:11 主よ、あなたのあわれみをわたしに惜しまず、あなたのいつくしみとまこととをもって/常にわたしをお守りください。

「あなたのあわれみ」「あなたのいつくしみとまこと」とある通り、憐れみ、恵み、まことは、主から来るのであって、自分から来るのではない。これらが欲しいなら、ダビデのように、主に求めるべきである。

詩篇40:12 数えがたい災がわたしを囲み、わたしの不義がわたしに追い迫って、物見ることができないまでになりました。それはわたしの頭の毛よりも多く、わたしの心は消えうせるばかりになりました。

私達も、自分の身から出た錆的な災いに、追いつかれてしまう事が多々ある。
その場合は、ダビデのように、ただ主の憐れみと恵み、まことが成る事を祈るしかない。

詩篇40:13 主よ、みこころならばわたしをお救いください。主よ、すみやかにわたしをお助けください。
40:14 わたしのいのちを奪おうと尋ね求める者どもを/ことごとく恥じあわてさせてください。わたしのそこなわれることを願う者どもを/うしろに退かせ、恥を負わせてください。
40:15 わたしにむかって「あはぁ、あはぁ」と言う者どもを/自分の恥によって恐れおののかせてください。

ダビデは特に、敵から救われる事を、主に求めている。
敵から救っていただくためには、すべてを主に持っていく事である。
自分の犯した罪、自分の弱さ、どうしようもなさを。そして主の御胸に反した所が示されたなら、それを悔いて改める事である。

誰でも、自分の犯してきた罪々は、自分の髪よりも多い。
主に持っていかないなら、そして悔い改めて主にきれいにしていただかないなら、それらは追いついて絡みつき、見上げる事すら出来なくなって、心が消え失せるばかりになってしまう。
だからダビデは、主に尋ね求めるように、そして自分を助けて下さるようにと、この祈りを閉じている。

詩篇40:16 しかし、すべてあなたを尋ね求める者は/あなたによって喜び楽しむように。あなたの救を愛する者は/常に「主は大いなるかな」ととなえるように。
40:17 わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です。わが神よ、ためらわないでください。

主にすべてを打ち明け、悔い改めるなら、主は豊かに赦して下さる。
この素晴らしい主を体験し、多くの人々の前でこの素晴らしい主をあかししていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

「沈黙は金なり」が真ではない場合の見分け方(詩篇39篇)
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聖歌隊の指揮者エドトンによってうたわせたダビデの歌
39:1 わたしは言った、「舌をもって罪を犯さないために、わたしの道を慎み、悪しき者のわたしの前にある間は/わたしの口にくつわをかけよう」と。
39:2 わたしは黙して物言わず(KJV: even from good: トーブ)、むなしく沈黙を守った。しかし、わたしの悩みはさらにひどくなり、
39:3 わたしの心はわたしのうちに熱し、思いつづけるほどに火が燃えたので、わたしは舌をもって語った。

ダビデは、口で罪を犯さないようにするために、悪者を前には、口を閉ざしておこう、と決心したが、すればするほど痛みがひどくなっていった。
口を閉ざすべき時もあるが、黙ってはならない時もある。
ダビデの悩みがひどくなったのは、良いこと(トーブ)をさえ、口から出さず、黙っていたからだ。

トーブというヘブライ語、それはパーフェクト、ビューティフル、グッドの意味で、神の天地創造の6日間で6回、ご自身の創造のみわざに対して神が評価された言葉であり、そして神の混じりけのない御言葉は、トーブそのものである。
悪者を前にして、神のトーブな御言葉と、神のトーブな御業を黙っているなら、ますます悪が調子に乗って、はびこり、同時に、トーブを口に出さなかった本人の中には、悩みが火のように燃え上がってしまうのだ。

ダビデがトーブな言葉にも黙っていた結果、思い知らされたのは、自分も含めた「人間のはかなさ」である。

詩篇39:4 「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。
39:5 見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも/息にすぎません。〔セラ

はびこる悪におもねって、10年や20年、命を永らえたとしても、結局それは、はかないものである。
この卑屈にながらえた期間は、むなしさと痛みの日々にすぎない。
ダビデは、自分も含めた人間というものの「むなしさ」を味わった故に、次のように結論する。

詩篇39:6 まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために/騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません。
39:7 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。

ダビデは、彼自身の望みは、ただ主である、と結論した。
まことの神から離れた人の世界の中にも、人と人との間にも、そして、自分という人の中にも、結局は、むなしさしか以外には何も見いだせない。
そんな人間が、永遠なる神を抜きにして、10年20年ながらえた所で、一体何になるだろうか。
結局ダビデは、わが望みは決してすたれる事の無い、永遠に価値ある御方、主である、と、思い知るに至ったのだ。

私達は、イエス様にならうべきである。
イエス様は、悪しき者に取り囲まれ、よってたかって「偽り」の言葉に囲まれた時、それらに対しては、一切口を開かなかった。
しかし、真理の言葉については大いに口を開いた。

マタイ26:59 さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。
26:60 そこで多くの偽証者が出てきたが、証拠があがらなかった。しかし、最後にふたりの者が出てきて、
26:61 言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。
26:62 すると、大祭司が立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。
26:63 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。
26:64 イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。

イエス様はこれ故に十字架刑が確定したが、イエス様はいつも真理に立って、心安らかであった。
キリスト者も、偽りに対して一切くちびるで関わらず、ただ、真理の言葉を発するなら、後ろ暗さが一切無く、心安らかで、たとえ迫害され殉教に至るとしても、聖霊が助けてくださり、世の何者にもまさる平安に満たされ、主の栄光をあらわす事が可能なのである。(使徒7:54-60)

詩篇39:8 わたしをすべてのとがから助け出し、愚かな者にわたしをあざけらせないでください。
39:9 わたしは黙して口を開きません。あなたがそれをなされたからです。
39:10 あなたが下された災を/わたしから取り去ってください。わたしはあなたのみ手に打ち懲らされることにより/滅びるばかりです。

ダビデは自分自身の罪や愚かさに由来する災いを、取り去って下さいと願う。
随分都合の良い願いだが、しかし罪の赦しと、聖霊による造り変えは、罪穢れを除き、ゆるしてくださる主へと向かっていき、主に自分の罪を言い表し、悔い改め、主と関わりを持とうとする人々に、与えてくださる。

詩篇39:11 あなたは罪を責めて人を懲らされるとき、その慕い喜ぶものを、しみが食うように、消し滅ぼされるのです。まことにすべての人は息にすぎません。〔セラ

人が、主を抜きにして喜び楽しむ世の楽しみや栄華は、結局、しみが食うように消し滅ぼされてしまう。ソロモンがまさにそうだった。
彼は前半人生は主に従っていたものの、人生の途中から驕り高ぶり、主を抜きにして歩み、富も権威も地上の頂点に立った時、妻を700人、妾を300人囲ったが、結局、それら得たものは全てが虚しい、と言う以外にはなかった。(伝道者の書)
ダビデは、この詩篇の最後を、祈りで締めくくる。

詩篇39:12 主よ、わたしの祈を聞き、わたしの叫びに耳を傾け、わたしの涙を見て、もださないでください。わたしはあなたに身を寄せる旅びと、わがすべての先祖たちのように寄留者です。
39:13 わたしが去って、うせない前に、み顔をそむけて、わたしを喜ばせてください」。

この短い祈りの中に「わたし」という言葉が6回も出てくる。
彼は、「わたしの祈を聞き、わたしの叫びに耳を傾け、わたしの涙を見て、、、」と主に嘆願し、わたしにかまってほしいと、主との関係を求めたのだ。
主との親密な関係を求める事こそ、罪が赦され、パラダイスへ行くコツである。
イエス様と共に十字架につけられた強盗は、イエス様に「わたしを思い出して下さい」と、関係を求めた事によって、その日、イエス様と共にパラダイスに行った。

結局、以下の告白こそ、人間世界のむなしいやりくりから脱出できる言葉である。

詩篇39:7 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。

主イエス様に望みをかけ、真理の御言葉とあかしを宣言し、主に対して一切の後ろ暗い所が無い、永遠に充実した「生」を生きる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主の御名を呼び求め、主との交わりに入っていく事によって、罪をきよめていただく(詩篇38篇)
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『記念のために(to bring to remembrance)うたったダビデの歌』(詩篇38篇表題)

この詩篇は、7つある悔い改めの詩篇の内の一つである。
ダビデは、何かしらの罪を犯したために、この詩篇を記した。
人は一生の内、何度も、無意識的に罪を犯し、人を傷つけ、神の御胸を損傷させてしまうが、この詩篇は、そのような都度、私達も告白すべき祈りである。

詩篇38:1 主よ。あなたの大きな怒りで私を責めないでください。あなたの激しい憤りで私を懲らしめないでください。
38:2 あなたの矢が私の中に突き刺さり、あなたの手が私の上に激しく下って来ました。

この詩篇で、ダビデは、「主(エホバ)よ」「主(アドナーイ)よ」「わが神よ(エロハーイ)」「あなたは」「あなたに」と、主を呼び求める言葉を、何度も何度も発している。
罪に責め苛まされる時、主の御名を呼び求めるべきなのだ。

詩篇38:3 あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のため私の骨には健全なところがありません。
38:4 私の咎が、私の頭を越え、重荷のように、私には重すぎるからです。

彼は、自分の中でありありとうごめいて表面化してしまう罪ゆえに、主から責められ、突き刺されているような思いがしている。
習慣的・自動的・無意識的に犯す罪が、自分で償いきれる分量を超えて、重くのしかかり、それに押しつぶされてしまうように感じる事がある。

私達が病むのも、また体に現れてくる諸々の疾患も、全て、罪ゆえである。
罪のとげが自分の体を蝕み、精神を突き刺し、病ませるのだ。

詩篇38:5 私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです。

ダビデは、自分の罪が、あたかもじゅくじゅくと膿んで悪臭を放つ傷口のようだと言っている。
その溜まりに溜まった汚れが破裂し、膿を周囲へ飛ばして汚し、悪臭を振りまいてしまうように。
自分から離れなくなってしまった罪は、そのように、無意識的に人を、周りを、そして主の御胸を汚すものだ。

詩篇38:6 私はかがみ、深くうなだれ、一日中、嘆いて歩いています。
38:7 私の腰はやけどでおおい尽くされ、私の肉には完全なところがありません。
38:8 私はしびれ、砕き尽くされ、心の乱れのためにうめいています。

腰(ケセル)は、信頼する、確信する事の意味もあり、安定の源であるが、ダビデは自ら犯してしまった罪ゆえに、安定に事欠いており、心乱されうめいている。。

以上のように、自分の中にパターン化されている罪、自動的・無意識的に犯して、自分で償いきれる分量を超えて重くのしかかる罪ゆえにさい悩まされる時、どうするべきか。

その時に「してはならない事」は、アダムとエバのように、主の御顔を避けて隠れる事、覆い隠す事、他人のせいにして自分の罪を告白しない事である。
そうしてしまうなら、彼らのように、楽園から追い出され、労苦と呪いがつきまとってしまう。

ダビデはその真逆、積極的に自分の罪を主に告白し、主との交わりへと積極的に入っていき、罪を扱って下さる主を何度も呼び求めた。
それでこの詩篇で、彼は、何度も「主(エホバ)よ」「主(アドナーイ)よ」「わが神よ(エロハーイ)」「あなたは」「あなたに」と、主を呼び求める言葉を何度も発している。

詩篇38:9 主よ。私の願いはすべてあなたの御前にあり、私の嘆きはあなたから隠されていません。

ダビデは自分の中の全てを主に開示し、主に取り扱っていただく体制を、主の前に整えた。

詩篇38:10 私の心はわななきにわななき、私の力は私を見捨て、目の光さえも、私にはなくなりました。
38:11 私の愛する者や私の友も、私のえやみを避けて立ち、私の近親の者も遠く離れて立っています。
38:12 私のいのちを求める者はわなを仕掛け、私を痛めつけようとする者は私の破滅を告げ、一日中、欺きを語っています。

ダビデは、彼を責める人々がいる事も主に打ち明けた。
人に対して罪を犯し、それを責められても仕方がない場合は、相手に謝意を示すと共に償いをすべきであるが、ありもしない事で悪口雑言を言われる時がある。
その時のダビデの対応が以下である。

詩篇38:13 しかし私には聞こえません。私は耳しいのよう。口を開かないおしのよう。
38:14 まことに私は、耳が聞こえず、口で言い争わない人のようです。

ダビデは、善にかえて悪で返すような者(19-20節)に対しては「耳が聞こえない人のよう」「口をひらかないおしのよう」になった。
イエス様も同様、彼を訴える者にはそのように対応した。

善を悪で返すような悪人からあざけられ、ありもしない事で悪口雑言を言われるような時、私達もそのようにするのだ。
人の悪意、人からの悪口に対しては、耳が聞こえない者のようになり、また「悪口」に対し「悪口」で返さず、ただ正統にさばいてくださる主に委ね、そして私達の耳は主に対して開き、口は主に対して開くのだ。
ダビデはそれをした。

詩篇38:15 それは、主よ、私があなたを待ち望んでいるからです。わが神、主よ。あなたが答えてくださいますように。

この1節の中に、「主(エホバ)よ」「あなた」「わが神(エロハーイ)」「主(アドナーイ)よ」と、4つの主を呼び求める言葉がある。
罪の責めに悩まされる時は、ただ主を呼び求めるのだ。
私達の救い主・イエス様のヘブライ語読みは「イエシュア」、意味は「主は救い」である。
このイエス様の御名を、信仰をもって呼び求める時、「神は救い」だと告白して呼び求めているのだ。

詩篇38:16 私は申しました。「私の足がよろけるとき、彼らが私のことで喜ばず、私に対して高ぶらないようにしてください。」
38:17 私はつまずき倒れそうであり、私の痛みはいつも私の前にあります。
38:18 私は自分の咎を言い表わし、私の罪で私は不安になっています。

ダビデは、自分の罪を言い表した。
自分の罪を認め、それを表明する時、不安になるかもしれない。
そこでダビデは主に願う。

詩篇38:21 私を見捨てないでください。主よ。わが神よ。私から遠く離れないでください。
38:22 急いで私を助けてください。主よ、私の救いよ。

ここでも「主(エホバ)よ」「わが神」「主(アドナーイ)よ」「私の救いよ」と、4つの主を呼び求める言葉がある。
ダビデは罪を犯した時でも、どんな時でも、積極的に主を色々な呼び名で呼び求めた。
このように、いつでも絶えず主を呼び求め、主と関わる「交わり」の中にこそ、罪や汚れが清められる源がある。

1ヨハネ1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。

使徒ヨハネは、交わりへの参加を促している。
なぜなら主は、二人でも三人でも主の御名がある交わりの中におられ、そのイエス・キリストの血潮の中に、罪のゆるしがあるからだ。

1ヨハネ1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

使徒ヨハネも、罪の告白を説いた。
自分の罪を告白し、悔い改めるなら、神はその罪をゆるし、すべての不義から清めて下さる。
そのような罪を告白した人に対して、主は弁護者となり、告発者・サタンに立ち向かって下さる。

ゼカリヤ3:1 主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシ3:1 時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。
3:2 主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
3:3 ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、
3:4 み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。
3:5 わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。

大祭司ヨシュアは、バビロン捕囚から戻ってきた時代の人である。
バビロン捕囚という罰を受け、しっかりと悔いて改めたなら、主が弁護者として立ってくださるのだ。

罪のゆるしは、ダビデのように悔い改め、そして正直に告白し、主との交わりの中へ入っていく人のものである。
アダム・エバのように、神から逃げ隠れ、自分の罪を隠す間は、のろいの中に留まり続けるしか無いのだ。

義人が受ける報酬の法則(詩篇37:21-40)
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詩篇37:21 悪しき者は物を借りて返すことをしない。しかし「正しい人」は寛大で、施し与える。
37:22 主に祝福された者は国を継ぎ、主にのろわれた者は断ち滅ぼされる。

今回の箇所では特に「正しい人(ヘ:ツァディーク 英:righteous、義人とも訳せる)」が受ける報いを知る事ができる。
では聖書的に、「義人」とは一体何なのだろう。
パウロは「義人」を、次のように定義した。

ローマ1:17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる(エック ピステオス エイス ピステイン)」と書いてあるとおりである。

ここの原意は、信仰(ピスティス)は、「所有する事(エック)」によって始まり、信仰の目的地を「目指して(エイス)」、歩み続ける事である。
つまり「義人」とは、イエス様(御言葉)を信じた瞬間から始まり、その信仰を「所有し続け」ながら生きる人の事である。
つまりイエス様を信じた瞬間がゴールではない。それはスタートであって、その瞬間から、信仰を所有しつつ、信仰の目的地である天国へと向かって歩み続けて行く「状態にある人」が、義人なのだ。
だから、昨日までは義人だったけれど今日は義人ではないという事が、起こりうる。
それでヤコブは、次のように言った。

ヤコブ2:21 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
2:22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、
2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

アブラハムは75歳の時、神に召され、その言葉通り父の家を離れて神の示す地に言った。
すなわちその時、初めて信仰を所有したのである。
しかし、それを途中で投げ出してしまう可能性は、十分にあった。父テラは目的途上で、投げ出してしまった。

この時期、アブラハムの信仰は全うされていない状態だったが、ヤコブ書二章によると、イサクを捧げたとき、その信仰が全うしたのである。
こうして、神へ捧げられたイサクから生まれる子孫・イスラエルを通して、神に贖われた者、神の所有の民として、神のみわざが全人類に介入できるようになり、さらに彼の子孫からイエス・キリストが出て、この世界を救う事ができるに至った。

以上のように、信仰の完成に至るまで、すなわち、義人とされるに至るまでに必要なのは、忍耐である。
次のように書いてある。

ヘブル10:35 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。
10:36 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。
10:37 「もうしばらくすれば、/きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。
10:38 わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、/わたしのたましいはこれを喜ばない」。
10:39 しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。

以上、詩篇37篇後半における「正しい人」「義人」とは、信仰を所有し続けながら、神の目に完成と認められる時至るまで、忍耐をもって歩み続ける人である。

詩篇37:23 人の歩みは主によって定められる。主はその行く道を喜ばれる。
37:24 たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない、主がその手を助けささえられるからである。

ここの「人」はゲベル、勇士という意味である。
主は誰も彼もの手をささえ助けるわけではない。信仰を持ち続ける「勇士」をこそ、主は、その人の歩みを定め、その道を喜ばれるのだ。
人が思う勇士と神の目に見える勇士は、違う。信仰を持ち続ける人こそ、神の目に勇士である。
ペテロはイエス様を三度知らないと言って、信仰において倒れてしまったかのように見えても、しかし主は予め、ペテロのために祈っておられた。

ルカ22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

信仰者は、倒れる時もある。しかし七度倒れたとしても、八度目に起き上がる。
それは、主がその手を助け、ささえられるから、と詩篇に書いてある。
イエス様はシモン・ペテロが倒れる事を知っておられ、だからあらかじめ祈って支えておられたのだ。
私達・現代の信仰者たちも、主は支えてくださるのだ。

37:25 わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も、正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が/食物を請いあるくのを見たことがない。
37:26 正しい人は常に寛大で、物を貸し与え、その子孫は祝福を得る。

そうである。
信仰を所有し続けながら歩み続ける人の中に、捨てられて食物を乞い歩く者を、ダビデは見たことは無かったし、私達も、無い。
信仰者は、貧困や不足、困難の時、主に助けを求め、主が彼らに答えて助けるからだ。

37:27 悪をさけて、善を行え。そうすれば、あなたはとこしえに住むことができる。
37:28 主は公義を愛し、その聖徒を見捨てられないからである。正しい者はとこしえに助け守られる。しかし、悪しき者の子孫は断ち滅ぼされる。
37:29 正しい者は国を継ぎ、とこしえにその中に住むことができる。

とこしえに住む事ができる人、それは正しい者であると書いてある。
その人は、どのような性質の人であるか。続く節に書いてある。

37:30 正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を述べる。
37:31 その心には神のおきてがあり、その歩みはすべることがない。

正しい人は、口にも、心にも、神の御言葉がある。
それを昼も夜も口ずさみ、心に刻みつけている人は、正しい者が受ける祝福を得て、とこしえに神の用意してくださった国に住まうのだ。

37:32 悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。
37:33 主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
37:34 主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の/断ち滅ぼされるのを見るであろう。

ここにも記されている。
主が国を継がせてくださる人とは、主を待ち望み、その道を守る人である。
信仰には忍耐が必要である。
信仰を所有し、忍耐をもって、信仰の完成を目指して進み続ける人に対し、主は必ず引き上げてくださる。
そして、悪しき者のわざが滅びる事を、見るのだ。

37:35 わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。
37:36 しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
37:37 全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。
37:38 しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。

書いてあるとおり、私達は、悪を行う者に目を向けてはならない。
そのような者の悪に、目を留め続けていると、心煩わされ、怒り、妬み、あらゆる良くないものをもたらすだけで、どんどん病んでいってしまう。
書いてある。そのような者達は、主が、過ぎ去らせてくださるのだ。
私達がむしろ目を向けるべきは「全き人」であると書いてある。
聖書の中には、信仰における全き道を歩んだ信仰者がたくさん登場し、彼らがどんなに報いを受けたか、が書いてある。
私達もそれらにならう者となり、彼らが受けた報いに私達もあずかる者と期待しつつ、進んでいくべきなのだ。
何よりの全き人とは、イエス・キリストの事である。
私達は彼から目を離さずに歩んで行くべきなのだ。

37:39 正しい人の救は主から出る。主は彼らの悩みの時の避け所である。
37:40 主は彼らを助け、彼らを解き放ち、彼らを悪しき者どもから解き放って救われる。彼らは主に寄り頼むからである。

以上のように、悪を行う者は決して長く永らえる事はない。
むしろ、信仰を保ち、忍耐して主の御言葉を守り行う「義人」こそ、永遠にながらえる事が出来る、という法則を、この詩篇37篇から見いだせる。
この法則にしっかり立って、その幸いを豊かに受ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

悪人と相対した時に立ち振る舞うべき法則(詩篇37:1-20)
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詩篇37篇も、25篇と同様、それぞれの節の冒頭がヘブライ語アルファベット順に並んだ詩篇である。
アルファベット順に並んでいる理由は、覚えやすくなっているから「覚えなさい」という事であり、もしこの詩篇を覚え、この詩篇に記されている通りの思考パターンで生きるなら、人生の途上で、たとえ悪人と相対した時でも、煩わせられる事なく、効果的に立ち振る舞う事が出来るのだ。

『ダビデの歌』(詩篇37篇表題)
詩篇37:1 悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不義を行う者のゆえに、ねたみを起すな。
37:2 彼らはやがて草のように衰え、青菜のようにしおれるからである。

これを覚えているなら、自ら悪の道に入る事はできない。
もし御言葉にそぐわない悪をを行うなら、主に敵対され、草のように衰えるという法則が、御言葉を通して、身に沁みているからだ。
悪人達とは逆に、水路のそばに植わった木のごとくに、何をしても栄える人とは、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった人、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人である。(詩篇1篇)

詩篇37:3 主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。
37:4 主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。
37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、
37:6 あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。

この箇所は、多くのキリスト者の聖書に印がついている所ではないだろうか。
主に信頼する事、主を喜びとする事、人生の道を主にゆだねる事、それは、ユダヤ人の多くも遵守する所であり、キリストにある老若男女全ての聖徒が生きる人生の基準である。
この基準に従って歩む人に対し、主は、彼らの全ての物事を成し遂げさせてくださり、また、彼らが世にさばきの場に立つ時、主からの軍配が上がって、主の栄光の光に輝かされるコツである。(6節)

詩篇37:7 主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。
37:8 怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。

主は、悪人に対しては悪で報いられる故に、私達も、悪人が悪をしたからと言って、悪で返してはならない。

詩篇37:9 悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。

この「国を継ぐ」というキーワードは、詩篇37篇で5回出てくる重要キーワードである。(9,11,22,29,34節)
どのような人が、地を相続するか。

1ペテロ3:9 悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。
3:10 「いのちを愛し、/さいわいな日々を過ごそうと願う人は、/舌を制して悪を言わず、/くちびるを閉じて偽りを語らず、
3:11 悪を避けて善を行い、/平和を求めて、これを追え。
3:12 主の目は義人たちに注がれ、/主の耳は彼らの祈にかたむく。しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」。

さばきは主のものであり、私達が報復する者ではない。
私達は、悪に対しては悪で返さず、善で返すべきである。悪で返すなら、悪人の報いを受けてしまうからだ。
なぜなら私達が召されたのは、祝福を受け継ぐためであるからだ。

詩篇37:10 悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。
37:11 しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。

柔和な者は、地を相続する。(マタイ5:5)
この「柔和(アナーブ:謙遜な、貧しい)」は、モーセの性質でもある。

民数記12:3 モーセはその人となり柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた。

この民数記12章の場面では、彼の姉ミリヤムが、モーセがクシュ人の女をめとっていた事を責め立てて、「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」、と言ったが、主の軍配はモーセのほうに上がった。ミリヤムはこの高ぶりが元で、ツァラアトになった。
なぜなら主が立てた権威は、ミリヤムにではなく、モーセのほうにあったからだ。
地上においては、弁論達者な者、多少うそをついても物事をうまく進めて行く者が栄えてくかのように見えるが、主が目を留めて偉大な指導者とされる人とは、多少口下手であっても謙遜な人なのだ。

詩篇37篇の12節以降は、悪者は決して栄え続けないという法則が記されている。

詩篇37:12 悪しき者は正しい者にむかって/はかりごとをめぐらし、これにむかって歯がみする。
37:13 しかし主は悪しき者を笑われる、彼の日の来るのを見られるからである。
37:14 悪しき者はつるぎを抜き、弓を張って、貧しい者と乏しい者とを倒し、直く歩む者を殺そうとする。
37:15 しかしそのつるぎはおのが胸を刺し、その弓は折られる。

主は、御前において誠実に正しく立とうとする人が、悪人の手の中で滅びるような事を、黙ってはおかない。
悪人は主の目にかなった人に罠を張ろうとしても、その墓穴は自分で入るように、主はなされる。

詩篇37:16 正しい人の持ち物の少ないのは、多くの悪しきの者の豊かなのにまさる。
37:17 悪しき者の腕は折られるが、主は正しい者を助けささえられるからである。
37:18 主は全き者のもろもろの日を知られる。彼らの嗣業はとこしえに続く。
37:19 彼らは災の時にも恥をこうむらず、ききんの日にも飽き足りる。

ボアズはききんの時代にあっても、彼の畑は豊かに満ち足りていた。
それは、彼が貧しい人をかえりみ、自分の事業所では祝福のあいさつを交わし合う、主の御言葉を忠実に守り行う、御前で正しく歩む人だったからだ。
主はそのような人に対して、恥をこうむらせる事なく、その嗣業を、永遠に続かせて下さる。

詩篇37:20 しかし、悪しき者は滅び、主の敵は牧場の栄えの枯れるように消え、煙のように消えうせる。

牧場が草で生え盛っているとするなら、それは、羊たちに食べ尽くされる。
同様に、悪人の蓄えたものは、主の羊たちが、それを食べて行くものなのだ。

伝道者の書2:26 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。

悪人は、いかに悪で蓄えても、それは悪人がいつまでも持つものではない。
それらは主を羊飼いとする主の羊たちへと、渡されていくのだ。

この詩篇37篇に従い、悪人がした事には、いつまでも心煩わせる事なく、主を喜びとし、主に信頼し、主が成し遂げて下さる事にまかせるという、ただ平安の日々を歩んでいく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

主のしもべこそ手に入れる事ができるエデン(詩篇36篇)
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『聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌』(詩篇36篇表題)

この詩篇の表題で、ダビデは自らを「主のしもべダビデ(レ・エベド・ヤーウェ・レ・ダヴィド)」と表明している。

「しもべ」とは「主人」ありきの存在であるが、私達・全ての信仰者にとって、主なる神が主人であり、私達はしのしもべである。
主のしもべである事には、特別な意味がある。それでダビデも、初代教会の人々も、自分は主のしもべである事を宣言した。

使徒4:24 一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。
4:25 あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、/『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、/もろもろの民は、むなしいことを図り、
4:26 地上の王たちは、立ちかまえ、/支配者たちは、党を組んで、/主とそのキリストとに逆らったのか』。

迫害を受けた初代教会の聖徒達は、「わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデ」と言って、自分達を「僕ダビデ」の子孫と位置づけた。
すなわち、自分達も王であり、そして僕である、と。

使徒4:27 まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、
4:28 み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。

彼らは続いて、彼らの主イエス様を「僕イエス」と告白した。
それは、主であるイエス様は、王であり、父なる神の御子でありながらも、父なる神に対しては「僕」の立場を全うされたからだ。

使徒4:29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。
4:30 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。
4:31 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。

自分たちもまた「僕」ダビデに繋がる者であり、「僕」イエス様の御名を宣言した。
すると彼らに、しるしとして、聖霊の満たしと、神の御言葉を語る事の大胆さが与えられた。

僕とは主人の言葉に100%従う者である。
その立ち位置に立つ時、私達も聖霊の充満が与えられるのだ。
聖霊充満とは、本人自身が、聖霊の導きに従順する決心が充満する時、与えられる。だから、聖霊の不思議な力を利用して自分が何か特別な存在になりたい、と、自己中心的な願望をもって「ください、ください」と祈っても、与えられないのだ。
主なる神に従順する事なしに、超自然的な力を得て、身勝手に行使したいとするなら、その人は「魔術」を求める者である。

詩篇36篇は、悪者の道と、主のしもべの幸いな道、そしてダビデの祈りという3つの部分によって成り立っており、1-4節では、「しもべ」の逆を行く悪しき達の特徴が示されている。

詩篇36:1 とがは悪しき者にむかい、その心のうちに「言う(ネウム)」。その目の前に神を恐れる恐れはない。

「言う」と訳された語ネウムは聖書にたくさん出てくるが、特に、イザヤ・エレミヤ書以降の預言書に「主の御告げ(ネウム・ヤーウェ)」として頻繁に出てくる。
主を恐れ敬う者にとっては「主の御告げ」が行動規範であるのに対し、悪しき者にとっては、「とが」が、彼らの行動規範なのだ。

詩篇36:2 彼は自分の不義があらわされないため、また憎まれないために、みずからその目でおもねる。
彼らは、目で見える事が全てである。
だから、見えない神に対する恐れはなく、そして、誰も見ていない・誰にもバレないなら、どんなに悪辣な事をしても全く問題なし、と思っているのだ。

詩篇36:3 その口の言葉はよこしまと欺きである。彼は知恵を得ることと、善を行う事とをやめた。
36:4 彼はその床の上でよこしまな事をたくらみ、よからぬ道に身をおいて、悪をきらわない。

主を恐れ敬う人は、その口から、自分自身の信仰を混ぜた御言葉を語りだす。
しかし悪人は、その口からよこしまと欺きが溢れ流れ出てくる。
また彼らは、主から知恵を得ようとする心も、善を行う気持ちも、止めてしまった。

そのような彼らは、夜、一日の終わりの寝床でさえ、悪を計る。主を恐れる人は御言葉に固く立とうとするように、彼らはよくない道に固く立っているのだ。
それは「主のしもべ」とは真逆の道、自分を自分の主人とする「悪者」の道であり、自分の背丈以上のことは出来ないし、また自分の背丈以上に得る事も出来ない。
そうして自分の身の丈ほどの人生が終わってしまったら、もうそれで永遠におしまいである。

それに対し、5節から9節に、主のしもべが受けるさいわいが記されている。

詩篇36:5 主よ、あなたのいつくしみは天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及ぶ。
36:6 あなたの義は神の山のごとく、あなたのさばきは大きな淵のようだ。主よ、あなたは人と獣とを救われる。

5-9節の主人公は「あなた」、すなわち彼らの主人である神、主である。
主のいつくしみ、主のまことは、天よりも雲よりも高い。
そして主の義と、悪人を正しく主のさばき、そして、そこから受ける莫大な恩恵を、主のしもべは、大いに享受できる。
悪人は、自分の身の丈ほどしか得られないのに対し、主のしもべが受ける恩恵は、天よりも雲よりも高いのだ。

詩篇36:7 神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、

主のしもべとなる事の報酬は、主が御翼を広げ、その陰に宿らせて下さる事である。
主は彼らを狩人のわなから、恐ろしい疫病から救い出され、ご自分の羽でおおわれ、その人は夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。
暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも、千人がかたわらに、万人が右手に倒れても、それらの災いは近づかない。
このような、詩篇91篇に記されているあらゆる幸いが、主のしもべのものとなるのだ。

詩篇36:8 あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。あなたはその楽しみ(エデン)の川の水を彼らに飲ませられる。
36:9 いのちの泉はあなたのもとにあり、われらはあなたの光によって光を見る。

主はその言葉に従順する「しもべ」を、あらゆる良きもので満ちたらせ、エデンの川の水を飲ませてくださるという。
エデンにおいては全ての必要が満たされている。
エデンでは、何万本あるか分からない程の色々な種類の実りがあり、主は、その全てから、思いのまま取って食べて良い、と言われたのだが、その中で唯一、取って食べてはならないのは、善悪を知る知識の木だった。(創世記2:16-17)
私達の人生がエデンのように楽園のようになるためには、しもべであり続ける事、すなわち、自分の善悪判断を捨て、主の御言葉どおり従順し続ける事である。

10節以降は、ダビデの祈りである。

詩篇36:10 どうか、あなたを知る者に絶えずいつくしみを施し、心の直き者に絶えず救を施してください。

彼は、2つが注がれるよう、主に求めた。すなわち、主を知る者に、主の恵みが注がれる事と、心に偽りの無い者に、主の義が注がれる事を。
恵みと義は、いずれも主に由来するものであって、決して、自分由来ではない。
主の義は、主に対しては心になんの後ろめたい所が無い人、やましくて隠したい所が無い人にこそ、現して下さる。だからアダムとエバのように、自分のとがを隠す者は、義とされず、エデンから追い出されてしまった。

詩篇36:11 高ぶる者の足がわたしを踏み、悪しき者の手がわたしを追い出すことを/ゆるさないでください。
36:12 悪を行う者はそこに倒れ、彼らは打ち伏せられて、起きあがることはできない。

ダビデは成功した時、高ぶる者の足に追いつかれてしまい、彼の忠実な部下の妻に手を出し、その部下を謀殺してしまった。
ダビデにとって人生の最大の敵は、ペリシテ人でもサウルでもなく、成功した時に忍び寄ってくる「高ぶり」だった。それが彼の後半人生を、非常に苦々しいものにしてしまった。

私達も祈るべきである。「高ぶる者の足がわたしを踏み、悪しき者の手がわたしを追い出すことを/ゆるさないでください。」と。

主に何もかも持って行ったダビデ(詩篇35篇)
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ダビデの歌
35:1 主よ、わたしと争う者とあらそい、わたしと戦う者と戦ってください。
35:2 盾と大盾とを執って、わたしを助けるために立ちあがってください。
35:3 やりと投げやりとを抜いて、わたしに追い迫る者に立ちむかい、「わたしはおまえの救である」と、わたしに言ってください。

ダビデはここでも、彼を悩ます者によって悩まされている状況である。
彼の人生には多くの敵がいたが、その筆頭はサウルだろう。
しかしサウルにしても、その他の敵にしても、ダビデは、自らそれらと戦う気持ちはなく、やりも投げやりも主に持っていただき、盾も主に持っていただき、そして、『「わたしはおまえの救である」と、わたしに言ってください。』(3節)と、慰めも、主が持って下さるようにと願っている。

ここまで来ると、主は、ダビデをかばわざるを得ないであろうし、敵としても、たまったものではないだろう。
戦いにしても守っていただく事にしても、主に全部していただく、という姿勢は、私達も習うべき姿勢である。

35:4 どうか、わたしの命を求める者を/はずかしめ、いやしめ、わたしにむかって悪をたくらむ者を退け、あわてふためかせてください。
35:5 彼らを風の前のもみがらのようにし、主の使に彼らを追いやらせてください。
35:6 彼らの道を暗く、なめらかにし、主の使に彼らを追い行かせてください。
35:7 彼らはゆえなくわたしのために網を隠し、ゆえなくわたしのために穴を掘ったからです。
35:8 不意に滅びを彼らに臨ませ、みずから隠した網にとらえられ、彼らを滅びに陥らせてください。
35:9 そのときわが魂は主によって喜び、その救をもって楽しむでしょう。

敵があわてふためきますように、彼らを主の使いに追い遣らせてください、彼らが網に捕らえられ滅びに陥らせてください、そうして主にあって喜び、救いを楽しむでしょう。。。
決して高貴な祈りとは思えないかもしれない。
しかし、ダビデはサウルに対して高貴な立ち居振る舞いを最後まで貫き通せた。
その背後には、このような、感情丸出しの、鬱憤を全部主へと吐き出すような祈りがあったのだ。

そうである。
人はいかに表面は高貴に見えても、内面はドロドロしているものであるが、しかしそのようなプライベートな、外面には見えない、主との親密で感情丸出しの交わりがあったからこそ、その立ち居振る舞いが高貴だったのだ。
だから、サムエル記のダビデは表舞台のダビデ、詩篇のダビデは、舞台裏のダビデである。
私達の舞台裏も、詩篇のように、何もかも主に持っていくべきだ。

もしダビデが、彼の鬱憤を、主に持っていくのではなく、ゴシップ好きな人達と一緒に酒を飲みながらおしゃべりして鬱憤を晴らしていたら、どうなっていたか。きっと彼は、低俗な者になってしまっていた事だろう。
人は、友によって研がれるものである。
彼は、何でもかんでも神に持って行って、神を友とし、神によって研がれたからこそ、彼は高貴な、ノーブルな者になっていったのだ。

35:10 わたしの骨はことごとく言うでしょう、「主よ、だれかあなたにたぐうべき者がありましょう。あなたは弱い者を強い者から助け出し、弱い者と貧しい者を、かすめ奪う者から助け出される方です」と。

彼がこのように、全身全霊で主をほめ讃えるでしょう、と告白できたのは、彼が主に何もかも打ち明け、神を友とし、攻撃も防御も慰めてむらう相手も全部、神に委ねていたからである。
それで彼は実際に神に守られ、あらゆる敵から救われたのである。

35:11 悪意のある証人が起って、わたしの知らない事をわたしに尋ねる。
35:12 彼らは悪をもってわたしの善に報い、わが魂を寄るべなき者とした。
35:13 しかし、わたしは彼らが病んだとき、荒布をまとい、断食してわが身を苦しめた。わたしは胸にこうべをたれて祈った、
35:14 ちょうど、わが友、わが兄弟のために/悲しんだかのように。わたしは母をいたむ者のように/悲しみうなだれて歩きまわった。
35:15 しかし彼らはわたしのつまずくとき、喜びつどい、ともに集まってわたしを責めた。わたしの知らない他国の者は/わたしをののしってやめなかった。
35:16 彼らはますます、けがす言葉をもってあざけり、わたしにむかって歯をかみならした。

ダビデが主に訴えている「彼ら」は、ダビデに対し、恩を仇で返して来た人達だ。
サウルも実際、そうだった。
ダビデは王サウルのため、そしてイスラエルの神、主のために、いのちがけで戦って、大勝利をおさめて行ったのだが、そうすればするほど、サウルに妬まれて行った。
しかしダビデは、サウルからのみならず、あらゆる敵から救い出され、そして栄誉が与えられた。

35:17 主よ、いつまであなたはながめておられますか、わたしを彼らの破壊から、わたしのいのちを若きししから救い出してください。
35:18 わたしは大いなるつどいの中で、あなたに感謝し、多くの民の中で、あなたをほめたたえるでしょう。
35:19 偽ってわたしの敵となった者どもの/わたしについて喜ぶことを許さないでください。ゆえなく、わたしを憎む者どもの/たがいに目くばせすることを許さないでください。
35:20 彼らは平和を語らず、国のうちに穏やかに住む者にむかって/欺きの言葉をたくらむからです。
35:21 彼らはわたしにむかって口をあけひろげ、「あはぁ、あはぁ、われらの目はそれを見た」と/言います。
35:22 主よ、あなたはこれを見られました。もださないでください。主よ、わたしに遠ざからないでください。

ダビデは、彼をゆえなく憎みあざ笑う者達を主に訴えているが、これは将来、ダビデの子孫であるイエス様が、悪しき者達からゆえなく憎まれ迫害される事を暗示している。

ヨハネ15:22 もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道がない。
15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。
15:24 もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。
15:25 それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。

ヨハネ15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

確かに、主にあって歩む私達は、このような故なき迫害を受ける事がある。
しかしその時、私達は幸いである。
私達も主の道を歩んでいるものとして、主に全てを打ち明け、訴える、主が聞いて下さるのだ。

35:23 わが神、わが主よ、わがさばきのため、わが訴えのために奮いたち、目をさましてください。
35:24 わが神、主よ、あなたの義にしたがってわたしをさばき、わたしの事について彼らを喜ばせないでください。
35:25 彼らにその心のうちで、「あはぁ、われらの願ったことが達せられた」と/言わせないでください。また彼らに「われらは彼を滅ぼしつくした」と/言わせないでください。
35:26 わたしの災を喜ぶ者どもを/ともに恥じ、あわてふためかせてください。わたしにむかって誇りたかぶる者どもに/恥と、はずかしめとを着せてください。
35:27 わたしの義を喜ぶ者をば/喜びの声をあげて喜ばせ、「そのしもべの幸福を喜ばれる主は大いなるかな」と/つねに言わせてください。
35:28 わたしの舌はひねもすあなたの義と、あなたの誉とを語るでしょう。

ダビデはこの詩篇の最後を、信仰告白と賛美で終えている。
人は理不尽な状況に置かれた時、誰かにぶちまけたり、あるいは自分で抑え込んでしまったり、神である主を抜きにして対応してしまいがちだ。
しかしダビデは、たとえ鬱憤をぶちまけるにしても、人に対してでなく全部、主に向かっている。
彼はこのように、神とのコミュニケーションをして行ったからこそ、そうした鬱積は健全に解消され、賛美と信仰告白を出来るまでに平安と喜びに溢れたのだ。
彼はいつもこのように、主にあって健全に交わっていたから、魂を健全に保ち、ノーブルな性質を身に着けて行ったのだ。
私達も全てを主に打ち明け、いつも冷静と魂を健全に保ち、高貴な性質を身に着けていくものでありたい。

言葉によって幸いを勝ち取る道を伝授するダビデ(詩篇34:11-22)
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この詩篇34篇は、ダビデが人生で最も恥ずかしい思いをした時に記したが、その経験から、主は真実なお方であり、主により頼む事こそ最も幸いな道である、という事を学ばされたため、彼はこの詩篇の後半で、主を恐れ幸いな道に歩むようにと、人々にアドバイスしている。
彼は、自分の恥ずかしい体験さえもネタとして、主の素晴らしさを伝えたいがために、この詩篇を記したのだ。

詩篇34:11 子らよ、来てわたしに聞け、わたしは主を恐るべきことをあなたがたに教えよう。
34:12 さいわいを見ようとして、いのちを慕い、ながらえることを好む人はだれか。

ダビデは、自分の経験に基づいた人生のコツ、すなわち、命を長くし、幸いで健やかな時をたくさん過ごせるコツを伝授するが、そこで彼が真っ先に言う事は、口から発せられる言葉に気をつけるべき事である。

詩篇34:13 あなたの舌をおさえて悪を言わせず、あなたのくちびるをおさえて偽りを言わすな。

口から発した言葉は、振動であり、声帯が震わせ、その震えが空気を伝わり、相手の耳の鼓膜を振動させ、そうして言葉が伝達する。
全被造物は神のことばのとどろきによって、創造されたが、同じように、私達も神の子・神の似姿として、信仰を混ぜ込んだ言葉によって、世界を動かし、その唇から出てくる言葉のよしあしによって、良い実も、悪い実も結ばせるのだ。

箴言18:20 人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる。
18:21 死と生とは舌に支配される、これを愛する者はその実を食べる。

だから、人生をより良くしたいのであれば、口からは良い言葉を発し、悪い言葉は発さない事である。

詩篇34:14 悪を離れて善をおこない、やわらぎを求めて、これを努めよ。

幸いの道のさらなるコツは、悪を離れ善を行い、また、平和を追い求める事である。

マタイ5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

一見すると、悪に長けた者が地をぶんどっているかのように見えるかもしれない。
しかし、いかに彼らが一時的に栄え、また蔓延ったとしても、彼らは御言葉の法則には逆らえない。悪を行う者は、やがて必ず廃れていく。
しかし悪を離れて善をおこない、柔和である事を務めて求める者は、祝福され、地を相続して行く、という法則がある。

詩篇34:15 主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。
34:16 主のみ顔は悪を行う者にむかい、その記憶を地から断ち滅ぼされる。
34:17 正しい者が助けを叫び求めるとき、主は聞いて、彼らをそのすべての悩みから助け出される。
34:18 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。

そしてダビデは、主の御前に心へりくだる者となるよう勧めている。
高ぶった者は、神を喜ばせることができないからだ。

詩篇51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。

神に対する最良のいけにえは、へりくだった、砕かれた魂である。
神は、アベルの最良の捧げ物を捧げたいと願う彼の捧げ物に目を留められたが、カインの傲慢な心と共に捧げた捧げ物は、気にも留めなかった。

詩篇34:19 正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。
34:20 主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。

正しくこの世を歩んで行こうとするなら、確かに、苦労する事が多い。世が、そうではないからだ。
しかし、正しく歩んで行こうとする者には、主が守りを与えて下さる。
ダビデが言っているように、神は、そういう人の命を長くし、幸いで健やかな時をたくさん過ごさせて下さる。

詩篇34:21 悪は悪しき者を殺す。正しい者を憎む者は罪に定められる。
34:22 主はそのしもべらの命をあがなわれる。主に寄り頼む者はひとりだに/罪に定められることはない。

主は、主の御言葉を信頼して宣言し、そのとおり行う「主のしもべ」らを守り、報いてくださる。
かつてダビデは、ゴリヤテと相対した時、彼の信仰を混ぜた宣言により、これは自分対ゴリヤテの戦いから、自分の信頼するイスラエルの神主対、ゴリヤテの信頼する偶像の神へとシフトし、堂々と勝利を勝ち取った。(1サムエル記17:45-47)
この口からは良い言葉を発し、悪い言葉を一切発せず、勝利し、幸いな良い地を受け継いで行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

恥のどん底の最中でも、御使いの陣をもって守って下さる主(詩篇34篇)
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詩篇34篇 ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌
詩篇34:1 わたしは常に主をほめまつる。そのさんびはわたしの口に絶えない。

この詩篇は、ダビデが人生で最も危機的な状況を通った末、とても恥ずかしい思いをした場面の時に詠んだ詩篇である。
この表題だけを見るなら、きっとさぞや嘆き悲しみの内容が書いてあると思いきや、とても積極的な賛美で始まっている。

彼がアビメレクの前で狂ったさまを装うに至るまでの経緯で、彼はサウル王から命を狙われ、家(妻ミカル)にも、預言者サムエルの所にも、最親友ヨナタンの所にも、祭司アヒメレクの所にも、居場所が無くなってしまった。
人は、あまりに理不尽で過酷な状況が続くと、どんな信仰の強い人でも、つい、世的・肉的な手段に頼って、もっと悪い状況に陥ってしまう事もある。
ダビデが祭司アヒメレクの仕える主の幕屋に行ったのは、主に頼るためであったろうが、彼は、ゴリヤテの剣を受け取った時、「それに勝るものはありません」と言った。
それまでの彼は、ただ、信仰だけが武器だった。当時彼は、剣や槍で立ち向かわず、ゴリヤテの剣よりも強い「御言葉の剣」で勝負し、勝利したというのに。
彼は理不尽な状況続きで、主への信頼は弱っていた。彼の状況は、同情して余りあるが、主により頼むべき人が、聖なるお方に頼らず、汚れた者の力の象徴(剣)に頼りを置いてしまう時、正常な判断を失い、狂った算段をしてしまう。

1サムエル記21:10 ダビデはその日、すぐにサウルからのがれ、ガテの王アキシュのところへ行った。

彼はサウルから隠れるために、あるいは、もしやサウルに敵対する者からの保護を得られるかもしれないと、敵国ペリシテに行ったのだろうが、自分が討ち取ったゴリヤテの剣を持って、ゴリヤテの故郷・ガテに行くのは、狂気の沙汰である事さえ理解できない程、彼の思いの中は、恐れ・不安・心配で、眩まされていた。
ダビデはペリシテ人の地で「捕らえられ」てしまい(詩篇56編表題)、王アキシュの前に引き出された。

1サムエル記21:11 するとアキシュの家来たちがアキシュに言った。「この人は、あの国の王ダビデではありませんか。みなが踊りながら、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。』と言って歌っていたのは、この人のことではありませんか。

彼らはダビデを「王」と呼び、また彼がゴリヤテを倒した時に女達が歌った歌も知っており、そして彼は、ゴリヤテの剣を身に帯びていた。ダビデが恐れるに十分だった。この絶望的状況の時、彼は心を主に向けた。

1サムエル記21:13 それでダビデは彼らの前で気違いを装い、捕えられて狂ったふりをし、門のとびらに傷をつけたり、ひげによだれを流したりした。

当時、男性のひげは権威の象徴であり、そこに対する侮辱は耐え難いものだった。ダビデのこの行動は功を奏し、王アキシュは、ダビデが「万を打った者」「イスラエルの王」の様子ではないのを見、彼を放した。
あの栄光のダビデが、屈辱的な、本当に気が違ってしまったかのような方法でかろうじて救われた。

私達も、恐れと心配のあまり、世の方法に頼ろうとするなら、恥と、気違い沙汰と、屈辱の底を通らなくてはならない。
しかしダビデは、彼の誤った判断によって生み出された命の危機から、主の憐れみで救い出された事で、本当に大切な真理を得た。

ダビデは、アキシュに捕らえられた時の心境を、詩篇56編で詠んでおり、彼はその中で、3度も「みことば」をほめたたえた。(4,10) 
彼は、この一連の事によって、信仰が回復し、悟ったのだ。ゴリヤテの剣よりも、御言葉の剣のほうが遥かに頼りになる事を。

私達も、恐れや不安によって命の危機に陥り、狂気の沙汰と恥のどん底をくぐる事はある。
それでも主に立ち返るなら、主は救って下さり、以前に増してさらに主に用いられるに相応しい器へと造り変えられるのだ。
主は、その愛する人を、敢えてそのように導き、ただ主とだけ向き合い、主をのみ頼るようにされる。

アドラムのほら穴に逃げ込み、独りになったダビデは、人の間から頼りどころを探す事を100%止め、ただ100%、主こそ助けであると求めるに至る。
彼はその時の祈りを、詩篇142篇に綴っており、彼は洞穴の中で声を出して主に呼ばわって願い求め、彼の嘆きを全て主に注ぎ出し、悩みを露わにした。(詩篇142:1-2) 

「わたしは右の方に目を注いで見回したが、わたしに心をとめる者はひとりもありません。わたしには避け所がなく、わたしをかえりみる人はありません。主よ、わたしはあなたに呼ばわります。わたしは言います、「あなたはわが避け所、生ける者の地でわたしの受くべき分です。」(詩篇142:4-5)

イスラエルを導く王となるダビデの「右」には、誰も人がのし上がってはならない。ただ万軍の主以外には。
人の間から頼りをことごとく失ってしまった彼は、ついに、主だけが避け所だと悟った。

「わたしを獄から出し、御名に感謝させて下さい。あなたが豊かにわたしをあしらわれるので、正しい人々はわたしの周りに集まるでしょう。」(詩篇142:7) 

ダビデがこの告白をした時、今度は、人々がダビデの所に集まって来る。
『しえたげられている人々(マツォク)、負債のある人々(ナシャー)、心に不満のある人々(マラ・ネフェシュ原意:苦い魂を持つ人)も皆、彼のもとに集まってきて、彼はその長となった。』(1サムエル記22:2)
それまでダビデは、頼りとなる人を追いかけていたが、誰もいなくなり、ただ一人、主と向き合い、主のみを頼りとした時点が転換となって、今度は逆に、人々がダビデの傘下に入ろうと、彼を追いかけて来たのだ。

ダビデは今まで自分を救う事で手一杯だったのに、彼の所に虐げられている人、破産者、苦い魂を持った、一癖も二癖もありそうな人達が、四百人も来て、彼らの面倒を見なくてはならなくなった。
自分が誰かから助けられたいのに、なぜか、自分の所に助けを求めて人が集まって来るのか。実は、これが主の助けの方法なのだ。
人は、守るべき人、養うべき人を持つと、強く健全になる。そして、一癖も二癖もあるような人々を養い、彼らを正しく統率して行く経験は、一国の王となって行く上で、とても重要な訓練となって行く。
ダビデはそれまで、自分のいのちを救うために、真実ではない行動をして来たが、400人の長となった今、彼らの面前で、偽りの、恥ずかしい行動は、する訳には行かなくなり、真理に立つようになって行った。
だからダビデは、大胆に主を賛美したのだ。

詩篇34:2 わが魂は主によって誇る。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。
34:3 わたしと共に主をあがめよ、われらは共にみ名をほめたたえよう。
34:4 わたしが主に求めたとき、主はわたしに答え、すべての恐れからわたしを助け出された。
34:5 主を仰ぎ見て、光を得よ、そうすれば、あなたがたは、恥じて顔を赤くすることはない。
34:6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。

ダビデは恥のどん底にあっても、主を誉め讃えた。それだから彼は主に愛され、どんなに恥の境遇の中にあっても助け出されたのだ。
そしてダビデ自身も、こんなにも恥ずかしい状況にあっても主が救い出して下さったことが嬉しくて、この詩をつくり、聖歌隊に歌わせたのだ。
彼は、自分の恥さえも主を賛美するネタとする事に、一切の躊躇が無かったのは、それほど、素晴らしい主を讃えたかったからだ。

詩篇34:7 主の使は主を恐れる者のまわりに/陣をしいて彼らを助けられる。
34:8 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
34:9 主の聖徒よ、主を恐れよ、主を恐れる者には乏しいことがないからである。
34:10 若きししは乏しくなって飢えることがある。しかし主を求める者は良き物に欠けることはない。

ダビデは、あの恥ずかしい最中にあって、知ったのだ。あの恥ずかしい最中さえも、主は、彼の周りに御使を遣わして陣を張っておられ、彼を助けだされた事を。
罪の故に、あるいは弱さの故、気違いじみた、望まない行動をしてしまう時があっても、いつも主に助けを求める心を持っているなら、まさにその時、主は御使を遣わして陣を張り、罪や悪から、誘惑から、そして災いや死から守ってくださるのだ。

1テサロニケ5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

栄光の主のみわざこそが成就する(詩篇33篇)
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詩篇33篇は賛美によって始まり、主の創造のわざの素晴らしさを告げ、主をおそれ主を待ち望む者の幸いを宣言し、主への信仰告白と応答によって終わっている。

詩篇33:1 正しき者よ、主によって喜べ、さんびは直き者にふさわしい。

ここで「ふさわしい」と訳された語「ナヴェー」は「美しい」(雅歌書1:5や2:14、6:4)とも訳すことが出来、特に、「似合っている故の調和的美しさ」を意味する。
どんな音楽大学を出ていても、あるいは、歌手としてキャリアを積んでいたとしても、その人が歌う「賛美」が、しっくりとしているかどうかは、別の話である。
ただ歌声がきれいで楽器を演奏するテクニックが素晴らしかったとしても、心がねじ曲がっているとするなら、その「賛美」は、不相応で、違和感を感じるものだ。

詩篇33:2 琴をもって主をさんびせよ、十弦の立琴をもって主をほめたたえよ。
33:3 新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。

賛美は今日も聖徒たちによって、日々、新しく創られる。
その日々つくられる新しい賛美をもって、日々開発される様々の楽器や演奏法を用いて主をほめ讃えるのは、いつの時代でも相応しい事であり、主が求めておられる所である。
この詠み人知らずの詩篇の作者は、今もなお、現代の聖徒たちに語っている。新しい歌を主に向かって歌え、と。

そしてさらに続く所において、主の創造のわざに対する賛美がある。

詩篇33:4 主のみことばは直く、そのすべてのみわざは真実だからである。
33:5 主は正義と公平とを愛される。地は主のいつくしみで満ちている。
33:6 もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた。
33:7 主は海の水を水がめの中に集めるように集め、深い淵を倉におさめられた。
33:8 全地は主を恐れ、世に住むすべての者は主を恐れかしこめ。

この世の、全て主に創られたものは、主の宣言型動詞のことばによって創造された。
神の宣言型動詞は、必ず「そうなる」「在り続ける」もので、全宇宙も、星々も、また海も、空も、あらゆる植物、あらゆる生き物も、この宣言型動詞に100%従順して成り立っている。
さらに聖書には「命令型動詞」があるが、これは被造物の中でも人間に対して発せられる命令で、人は、この命令形動詞に対しては、従順する事が要求される。
しかし人間には、自由意志があるため、人の自由意志によって破られる事もある。
もし人がそれを破るなら、その人には聖書に記されている通りの災いが起きてしまう。しかしもし人がそれに従順するなら、聖書に記されている通り、必ず主のわざが為り、祝福される。(申命記28章)

詩篇33:9 主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである。
33:10 主はもろもろの国のはかりごとをむなしくし、もろもろの民の企てをくじかれる。
33:11 主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ。
33:12 主をおのが神とする国はさいわいである。主がその嗣業として選ばれた民はさいわいである。

ここにおいては、ただ、主のはかりごとだけが成ることが宣言されている。
全被造物の中で、主の言葉に従わない自由さえ与えられているのが、神の似姿である人間であり、神を敬わない自由のみならず、神の御子を殺す自由さえも与えられている。
しかし聖書に記されている通り、御子を引き渡す者は永遠に呪われ、御子を信じる者は永遠の救いを得る。

ただこの世は、そして来る世も、全ては主の御心の通りに成る。
主の御言葉から離れた人の自分勝手なわざは、いかに一時的に大きく燃え上がったとしても、必ず、消えていく。

詩篇33:13 主は天から見おろされ、すべての人の子らを見、
33:14 そのおられる所から/地に住むすべての人をながめられる。
33:15 主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる。

そうである。主は全地を見渡しておられる、のみならず、全・人類の心をも、見透かしておられる。
その証拠に、主は、ダビデが少年の時、イスラエルの中で誰も見向きもしない末っ子で、羊飼いの仕事をさせられている時に、主の目からは、最も王として相応しい者として、既に見出しておられた。

1サムエル記16:1 さて主はサムエルに言われた、「わたしがすでにサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けたのに、あなたはいつまで彼のために悲しむのか。角に油を満たし、それをもって行きなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである」。

それは彼の心は主に対して全く一つで、羊を飼いながら主への賛美の詩を沢山つくり、また羊たちを命がけで守っていたからだ。
まことに主の目と、人の見る目は違う。

1サムエル記16:7 しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。

サムエルでさえ、見た目で惑わされた。
しかし主が言っておられる通り、主は、人の心をこそご覧になられる。

2歴代誌16:7 そのころ先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った、「あなたがスリヤの王に寄り頼んで、あなたの神、主に寄り頼まなかったので、スリヤ王の軍勢はあなたの手からのがれてしまった。
16:8 かのエチオピヤびとと、リビアびとは大軍で、その戦車と騎兵は、はなはだ多かったではないか。しかしあなたが主に寄り頼んだので、主は彼らをあなたの手に渡された。
16:9 主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。今度の事では、あなたは愚かな事をした。ゆえにこの後、あなたに戦争が臨むであろう」。
16:10 するとアサはその先見者を怒って、獄屋に入れた。この事のために激しく彼を怒ったからである。アサはまたそのころ民のある者をしえたげた。
16:11 見よ、アサの始終の行為は、ユダとイスラエルの列王の書にしるされている。
16:12 アサはその治世の三十九年に足を病み、その病は激しくなったが、その病の時にも、主を求めないで医者を求めた。

アサ王は、最初は主により頼み良き政治を行っていた。しかし、栄えて富み出すと、驕り高ぶり、主に対して心を尽くす者ではなくなってしまった。
彼の場合、ダビデとは逆の道を行き、彼に御言葉を持っていって戒めた預言者の足をしばり、主の御言葉には従わない事を示してしまった故に、最後には足に病が発症し、それでも主に立ち返らず医者に頼ったので、結局、その病が元で彼は死んでしまう。
主を差し置いていて、医療や戦闘力により頼む者は、このようになってしまう。

詩篇33:16 王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。
33:17 馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない。

人は軍馬や兵器に、勇士により頼もうとするが、主の御前には、それらは役に立たない。
主が求めておられる事はむしろ、主を恐れる事、そのいつくしみを望む人をこそ、求めておられる。

詩篇33:18 見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。
33:19 これは主が彼らの魂を死から救い、ききんの時にも生きながらえさせるためである。

そして、この詩篇の最後は、主に対する応答と信仰告白によって締めくくられている。

詩篇33:20 われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である。
33:21 われらは主の聖なるみ名に信頼するがゆえに、われらの心は主にあって喜ぶ。
33:22 主よ、われらが待ち望むように、あなたのいつくしみをわれらの上にたれてください。

私達も主に告白すべきである。
あなたこそ、わたしの救いの神、あなたこそ私の助け、私の盾、と。
主もまた、そのように主を呼び求める魂を救い出し、恵みて満たして下さるのだ。

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