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メッセージ - 詩篇カテゴリのエントリ

早天礼拝
神が神の民を祝福するのはなぜか(詩篇67篇)
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詩篇67篇表題『聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせた歌、さんび』
 
・この詩は神の民が祝福される理由が記されている。
・その理由は、7節でまとめられているように、全世界の人々が神を恐れ、神の救いへと入る事である。
・全世界が、神の民を通して、救いに入り、祝福を受けるという神の動機は、ずっと変わっていない。それは、全て神の民の先祖・アブラハムが呼び出され、祝福された理由であった。(創世記12:3)
 
67:1 どうか、神がわれらをあわれみ、われらを祝福し、そのみ顔をわれらの上に照されるように。〔セラ
・1節は「われらの祝福」を求める祈り。それは民数記6:24-26の大祭司が神の民へ向ける祝福と同じである。1節は7節に対応。
 
67:2 これはあなたの道があまねく地に知られ、あなたの救の力がもろもろの国民のうちに/知られるためです。
・2節では、1節の「われらの祝福」が、すなわち、あまねく地へ、そしてもろもろの国民に主が知られて行く事へとつながる事が記されている。
 
67:3 神よ、民らにあなたをほめたたえさせ、もろもろの民にあなたをほめたたえさせてください。
67:4 もろもろの国民を楽しませ、また喜び歌わせてください。あなたは公平をもってもろもろの民をさばき、地の上なるもろもろの国民を導かれるからです。〔セラ
67:5 神よ、民らにあなたをほめたたえさせ、もろもろの民にあなたをほめたたえさせてください。
・3節と5節にサンドイッチされた4節が、この詩の中心。
・そこに何度も「国々の民が(アム×5回)」「国民が(レオーム×2回)」が出てくる。主体的な願いは、全人類が主をほめたたえる事。
・もろもろの国民を楽しませ、また喜び歌わせる事、これが私達がまず祈り求めるべきことである。
・なぜなら主が公平をもってさばきを成し、地のもろもろの国民を導く事が、全人類の幸いにつながるから。全人類は今、不正なさばき、不当な支配によってうめいている。
 
67:6 地はその産物を出しました。神、われらの神はわれらを祝福されました。
・地の産物が与えられる事は、世の人々にとっての救い。
・ヨセフは7年の豊作の時に、地の産物を溜め、7年の凶作の時にそれをもって全世界の人々を救った。
・ヨセフのこの施策によって、2節が成就した。「これはあなたの道があまねく地に知られ、あなたの救の力がもろもろの国民のうちに/知られるためです。」
 
67:7 神はわれらを祝福されました。地のもろもろのはてにことごとく/神を恐れさせてください。
・結論。神の民の祝福は、全世界の人々が神を恐れ、神の救いへと入る事である。
 
・ゆえに、神の民が祝福される理由は、全世界を救いたいという神の願いを私達が成就させるため。
・与えられた祝福に安住し、主の栄光を伝えず、むしろそのリッチさを用いて罪を犯したイスラエルの民は、呪われた。
・その警告は、申命記28章であらかじめ示されていた。
 
申命記28:1 もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。
28:2 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。
・・・
28:9 あなたが、あなたの神、主の命令を守り、主の道を歩むなら、主はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。
28:10 地上のすべての国々の民は、あなたに主の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。
・・・
28:13 私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。
28:14 あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。
28:15 もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。
 

早天礼拝

私達を練り、清め、神の民として下さる主(詩篇66篇)

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詩篇66篇表題『聖歌隊の指揮者によってうたわせた歌、さんび』
 
前の詩篇のいくつかは、ダビデが作者だったが、この詩篇は、作者の名は記されていない。
 
この詩篇は,国家的な危機からの救いを感謝するものである.背景は不明であるが,13節からは1人称になっているので,王が民を代表して神に感謝をささげていると考えられる.
1節.〈全地よ〉を,神の世界支配の告白と最近の具体的な出来事において示された神の主権への言及とすれば,アッシリヤの敗退というヒゼキヤ王の時の出来事を示唆すると考えられる。(実用聖書注解)
 
詩篇66:1 全地(エレツ)よ、神にむかって喜び呼ばわれ。
 
エレツは、地、地球、世界などの広い意味があり、その、エレツの上にある全ての生き物、植物、鉱物、そして悪人も善人も含めた全人類に対し、呼びかけでこの詩は始まる。
それら全ての創造主である、神に向かって、喜び呼ばわれ!と。
 
詩篇66:2 そのみ名の栄光を歌え。栄えあるさんびをささげよ。
 
実際、全被造物の美しく調和が取れた存在によって、また、それら各々の働きと営みによって、神の栄光は表れており、誰にも弁解の余地は無い。(ローマ1:20)
しかし、全被造物の中で唯一、神の栄光をあらわす事をしない「例外」が、堕落してしまった人間である。
唯一、神に似たものとして創られた人間が、唯一、神の栄光を貶める存在となってしまったという「究極の皮肉」に、全被造物は、うめきつつ、彼らが贖われて神の子があらわれる事を、切に待ち望んでいる。(ローマ8:19-20)。
 
詩篇66:3 神に告げよ。「あなたのもろもろのみわざは恐るべきかな。大いなるみ力によって、あなたの敵はみ前に屈服し、
66:4 全地はあなたを拝み、あなたをほめうたい、み名をほめうたうであろう」と。〔セラ
 
神の御業が恐ろしい、と、ことさらに感じるのは、神に敵対する者達である。
エジプトのパロは、最初、神の言葉を伝えるモーセを侮ったが、最終的に、エジプトの軍隊は海に沈められ、神の前に屈服させられた。
また、ペリシテの神ダゴンも、当初はイスラエルの神に勝ったと思われて、ダゴン神殿に契約の箱が安置されたが、ダゴン像は、神の契約の箱を前にひれ伏せられた挙げ句、頭と胴体が切り離された状態で発見された。(1サムエル記5章)
 
5節以降は、神の民に対しての呼びかけである。
 
66:5 来て、神のみわざを見よ。人の子らにむかってなされることは恐るべきかな。
66:6 神は海を変えて、かわいた地とされた。人々は徒歩で川を渡った。その所でわれらは神を喜んだ。
66:7 神は大能をもって、とこしえに統べ治め、その目はもろもろの国民を監視される。そむく者はみずからを高くしてはならない。〔セラ
 
神は、神の民イスラエルをエジプトを脱出させる際、紅海を割って、海をくぐらせた。
彼らはみな、雲と海とでモーセにつくバプテスマを受け、みな同じ御霊の食べ物を食べ、みな同じ御霊の飲み物を飲んだ。彼らについて来た御霊の岩とは、キリストの事である。(1コリント10:2-4)
イスラエルの民は、モーセを通して律法が与えられ、荒野にて、主ご自身が与える食物によって養われつつ訓練を受けた。
 
その後、神は、ヨシュアを通してヨルダン川を渡らせ、ついに約束の地へと入らせた。
そのヨルダン川は、バプテスマのヨハネがそこで人々に水のバプテスマを授け、イエス・キリストへと導いた所である。
 
モーセは神の民を、エジプトという世から脱出させ、神の訓練所である荒野へ導いたものの、モーセ自身は、約束の地に入れなかった。
同様に、モーセを通して与えられた律法は、神の民を訓練する養育係ではあっても、約束の地には到達し得ない。
しかし、ヨシュアが神の民にヨルダン川を渡らせ、荒野から約束の地へと入らせる事が出来たように、まことのヨシュア(=ヘブライ語イエシュア=イエス)であるイエス・キリストを信じる信仰によって、私達は、永遠の約束の地・天国に入る事が出来るのだ。(ガラテヤ3:17-29)
 
66:8 もろもろの民(アム)よ、われらの神をほめよ。神をほめたたえる声を聞えさせよ。
66:9 神はわれらを生きながらえさせ、われらの足のすべるのをゆるされない。
 
1節は「全地(エレツ)よ」の呼びかけで始まったが、8節は「もろもろの民(アム)よ」という呼びかけによって始まる。
アムは「人々」を意味するが、人々の中でも「善」に属する人々を、特に、イスラエルの人々や神の民をあらわす事が多い。
つまり1-7節は、神を敬う民も、敬わない民も、全部ひっくるめた全被造物に対するメッセージだったが、8節以降は、特に神の民に向けてのメッセージである。
それで作者は、「われらの神をほめよ。神をほめたたえる声を聞えさせよ」と呼びかけている。
神の民は、神に対し声を上げて賛美するべきだ。なぜなら神は、神の民を「生きながらえさせ、われらの足のすべるのをゆるされない」からだ。
 
66:10 神よ、あなたはわれらを試み、しろがねを練るように、われらを練られた。
 
炉の中で鉱物を溶かして、かなかすを除くのと同じように、神は、神の民を試練の中で精錬して、より純化する。
神はイスラエルの民に荒野を通らせ、不従順な世代を取り除いたように、私達を試練の中を通らせ、私達の中から要らない性質、不従順な性質を取り除かれる。
そうして純化された神の民を、広い、祝福の地へと導き入れてくださる。
 
66:11 あなたはわれらを網にひきいれ、われらの腰に重き荷を置き、
66:12 人々にわれらの頭の上を乗り越えさせられた。われらは火の中、水の中を通った。しかしあなたはわれらを広い所に導き出された。
 
神は、私達の中に、神を離れて自分勝手な所に行ってしまう性質がある時、それを取り除くために、敢えて貶め、人々が彼の頭の上を乗り越えて行くような所を、通らせる。
放蕩息子が、父の元を離れて、世に出ていって放蕩した時、人々はよってたかって彼から剥ぎ取り、彼が全てを失った時は豚の世話をさせ、しまいに彼は、豚の餌さえ食べたいと思わせる程、みじめな思いをした。(ルカ15章)
しかし、全てを支配しておられる神は、憐れみのゆえに、彼らが火の中、水の中をくぐっても助かるように、手加減をしてくださり、しかも彼らの中から要らない部分「かなかす」だけを焼き尽くして取り除いて下さる。
これは、神は私達を愛しておられ、私達がより純粋な者となるために、取り計らってくださっているのだ。(イザヤ43:2-4)
 
放蕩息子が困難の渦中で、我に返り、父の元に帰った時、父は放蕩息子が帰ってきた事を喜び、宴会を開いて祝った。
同じように、神の元を離れた罪人が、悔い改めて立ち返るなら、天において、御使い達の間に、大きな喜びと、宴会が沸き起こるのだ。
 
66:13 わたしは燔祭をもってあなたの家に行き、わたしの誓いをあなたに果します。
66:14 これはわたしが悩みにあったとき、わたしのくちびるの言い出したもの、わたしの口が約束したものです。
66:15 わたしは肥えたものの燔祭を/雄羊のいけにえの煙と共にあなたにささげ、雄牛と雄やぎとをささげます。〔セラ
 
神の民が苦しみに遭った時、思い出すのは、主の家(神殿、教会)である。
ハンナは、苦しみの時、主の宮にのぼって、言葉にならない祈りと誓いを捧げた(1サムエル記1章)。
またヨナは、神の命令とは逆方向に行った時、あらしに遭って船から放り出された挙げ句、魚に飲み込まれたが、彼はその魚の腹の中から、主に祈り、主の宮を慕い求め、かろうじて助かった。(ヨナ書1-2章)
 
人は苦しみの中で、神に誓いを立てるが、その立てた誓いは、しっかり果たすべきである。
ハンナが祈った通りに、神は彼女に男の子を与えられ、ハンナは、誓願した通りにその子を捧げた。
その結果、神はハンナを豊かに祝福し、さらに子を与えられた。彼女は大きな喜びの内に、素晴らしい賛美を主に捧げた。(1サムエル記2章)
 
ヨナのほうは、助かった後、主の言葉どおりニネベに行って宣教したものの、まだ心に苦さを覚え、主に不服を申し立てたが、主はヨナを、その苦々しさから救い出すために、東風と虫を備え、実体験を通して主の御思いを知らされた。(ヨナ書4章)
 
66:16 すべて神を恐れる者よ、来て聞け。神がわたしのためになされたことを告げよう。
66:17 わたしは声をあげて神に呼ばわり、わが舌をもって神をあがめた。
 
この詩の最後は、主をほめたたえる賛美で終わる。
 
66:18 もしわたしが心に不義をいだいていたならば、主はお聞きにならないであろう。
66:19 しかし、まことに神はお聞きになり、わが祈の声にみこころをとめられた。
 
主は、心を見るお方である。
外見はうやうやしく礼拝しているかのように見えても、心が御前で純粋でないなら、主は、その祈りを聞かれない。
しかし、心が主に対してまっすぐなら、主はその祈りを聞かれる。
そうして純粋に御前で祈り、心を尽くして礼拝するなら、その祈りが聞かれた時には大きな喜びと感謝があふれる。
 
66:20 神はほむべきかな(バラク)。神はわが祈をしりぞけず、そのいつくしみをわたしから取り去られなかった。
 
バラクは元々、ひざをつくという意味である。主の前にひざをついて低くなる事こそ、人の側の分である。
 
神が人を祝福する、というのは、神が、天の高い所から下りてきて、ひざをついて低くなって便宜を図って下さるものである。
だから、究極に低くなられたイエス様の十字架こそ、祝福の真骨頂である。
高き所から降りて来られ、弱く罪を犯しがちな私達を憐れみ、救い、贖って下さった、素晴らしい神の御前に、いつも低くへりくだり、声をあげて主を賛美し、感謝を捧げるのが、私達が為すべき分である。

早天礼拝

主に聞き従う者に与えられる、豊かな喜びの収穫(詩篇65篇)

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詩篇65篇表題『聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、さんび』
65:1 神よ、シオンにて、あなたをほめたたえる(テヒラー)ことは/ふさわしいことである。人はあなたに誓いを果すであろう。
65:2 祈(テフィラー)を聞かれる方よ、すべての肉なる者は罪のゆえにあなたに来る。われらのとががわれらに打ち勝つとき、あなたはこれをゆるされる(カーファル)。
 
神は、罪を犯してしまう弱い人間を憐れみ、主に泣きついて来る人を赦して(カーファル)くださるからこそ、人々は賛美(テヒラー)と祈り(テフィラー)をもって御前に集う。
 
カーファルは元々、「覆う」が原意で、「無かったことにする」事である。
人はただ、主の一方的な恵みにより、罪を覆われ、義とされるのだ。
だからもし、自分は正しい事を行って来た・悪を行わなかった、などと主張して、自分を正しいと見なす事には何の意味も無く、むしろ、神の義から遠ざかってしまう。
 
パリサイ人は自分と取税人を比較し、自分があれをした、これをした、と、神の前でとうとうと自慢話をしたが、取税人は、遠く離れ、顔を天に向けようともせず、ただ自分の胸を叩いて、ただ「罪人のわたしをお赦し下さい」と祈った。ここで義とされたのは、取税人のほうだった。(ルカ18:9-14)
主は、自分で自分を義とする人ではなく、主に泣きついて来る人をこそ憐れみ、その人の罪を覆って下さるのだ。
 
結局、私達・人間は、自分の罪を覆い隠す事は、できない。
エデンでアダムとエバが、いちじくの葉で裸を覆ったが、それは何の役にも立たなかった。ただ、主が動物の血を流して得た皮の衣こそ、彼らの裸を覆う事ができた。
 
65:4 あなたに選ばれ、あなたに近づけられて、あなたの大庭に住む人はさいわいである。われらはあなたの家、あなたの聖なる宮の/恵みによって飽くことができる。
 
なぜ聖徒は、主の宮に集うのか。
それは、主に泣きついて行く人に、罪の贖いが与えられ、それによって、赦された事の開放感が与えられ、また、永遠なる主との関係を取り戻し、そして、受け入れられている事の安心感と、主に愛されている事の甘い感覚と、また、実際的な問題解決と、セキュリティが与えられているからだ。
 
65:5 われらの救の神よ、地のもろもろのはてと、遠き海の望みであるあなたは/恐るべきわざにより、救をもってわれらに答えられる。(新共同訳:)遠い海、地の果てに至るまで/すべてのものがあなたに「依り頼みます(ミブタハ:避難所、拠り所)」。
 
罪を自覚し、御前に泣きついて礼拝に来る人には、主は、祝福で答えられるが、神を恐れず、神の民を苦しめる者に、主は、恐ろしさをもって、その栄光を表される。
かつてエジプトは、イスラエルの民を430年もの間、奴隷として扱い、それでいて、自分が犯した悪のわざを一切悔い改めなかったが、神はエジプトに対し、恐ろしい災いで御力を表した。
しかし、イスラエルに対しては、救いと贖いの神としてあらわされた。
 
65:6 あなたは大能を帯び、そのみ力によって、もろもろの山を堅く立たせられる。
65:7 あなたは海の響き、大波の響き、もろもろの民の騒ぎを静められる。
 
海は、定まりのない恐ろしい所を、または、不信仰の世界を象徴する。
そのような、主を敬わない国民には、「騒ぎ」がある。
しかし主は、その大能の御力によって、それら全ての騒ぎを鎮められ、そして諸々の山を堅く立たせるお方。
 
65:8 それゆえ、地のはてに住む人々も、あなたのもろもろのしるしを見て恐れる。あなたは朝と夕の出る所をして/喜び歌わせられる。
 
朝と夕の出る所とは、すなわち、一日の初めから終わりまで、そして東の果てから西の果てまで、すなわち世界の隅から隅までをあらわす。
すなわち主は、世界の隅々までを支配し、人々を恐れ敬うようにさせ、また喜び歌うようにさせてくださる。
 
9節以降は、罪を悔い改め神の民とされた人々に与えられる、収穫の祝福が記されている。
 
65:9 あなたは地に臨んで、これに水をそそぎ、これを大いに豊かにされる。神の川は水で満ちている。あなたはそのように備えして/彼らに穀物を与えられる。
 
人が主に立ち返り、その罪が覆われると、主は、その地を豊かに実らせるための、下ごしらえをされる。
 
65:10 あなたはその田みぞを豊かにうるおし、そのうねを整え、夕立をもってそれを柔らかにし、そのもえ出るのを祝福し、
 
夕立と訳された語は、申命記11:14の「先の雨」である。
『わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。』(申命記11:14)
 
この先の雨は、ユダヤの地で10-11月に降り、土地を柔らかにし、種から芽を出させ、その年に萌え出る苗の量を左右する、重要な雨である。
 
65:11 またその恵みをもって年の冠とされる。あなたの道にはあぶらがしたたる。
 
あぶらと訳された語「デシェン」は、豊かさや脂肪を意味する。
せっかくたくさんの芽が萌え出たとしても、その後の雨がなければ、枯れてしまう。
その後の実りをさらに豊かにしてくれるのが、申命記11:14に出てきた「後の雨」である。
 
この「後の雨」は、3-4月に降って、根付いた苗の実りを豊かにする、いわば木々に果実という「冠」を与える雨である。
この、先の雨と後の雨の両方が主から送られる事によって、その年の実りが豊かになるのだ。
これによって地が潤されると、家畜が食べる草も豊かに生え出て、家畜たちも命がみなぎるようになる。
 
65:12 野の牧場はしたたり、小山は喜びをまとい、
65:13 牧場は羊の群れを着、もろもろの谷は穀物をもっておおわれ、彼らは喜び呼ばわって共に歌う。
 
主を敬う民は、確かに、このように祝福される。
しかし、イスラエルが主を無視して別の神々を拝んでいた時代には、例えば、アハブやイゼベルの時代には、先の雨も後の雨も一切降らず、地につゆさえ降らなかった。
主はそれでも、悔い改めて立ち返る人には、豊かに雨を返してくださる。
 
レビ記26:3 もしあなたがたがわたしの定めに歩み、わたしの戒めを守って、これを行うならば、
26:4 わたしはその季節季節に、雨をあなたがたに与えるであろう。地は産物を出し、畑の木々は実を結ぶであろう。
26:5 あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。
26:6 わたしが国に平和を与えるから、あなたがたは安らかに寝ることができ、あなたがたを恐れさすものはないであろう。わたしはまた国のうちから悪い獣を絶やすであろう。つるぎがあなたがたの国を行き巡ることはないであろう。
26:7 あなたがたは敵を追うであろう。彼らは、あなたがたのつるぎに倒れるであろう。
26:8 あなたがたの五人は百人を追い、百人は万人を追い、あなたがたの敵はつるぎに倒れるであろう。
26:9 わたしはあなたがたを顧み、多くの子を獲させ、あなたがたを増し、あなたがたと結んだ契約を固めるであろう。
26:10 あなたがたは古い穀物を食べている間に、また新しいものを獲て、その古いものを捨てるようになるであろう。
 
主に聞き従い、その言葉を守り行い、御言葉に約束された祝福に、豊かなあずかっていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

早天礼拝

自分の罪の報いを受けている最中でも、何度でも主に泣きついたダビデ(詩篇61-62篇)

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詩篇63篇表題『ユダの野にあったときによんだダビデの歌』
 
これは、アブシャロムがダビデにクーデターを起こし、ダビデがユダの荒野へ逃げざるを得なくなった時に詠んだ詩である(2サムエル記16:2)。
 
ダビデは、彼自身が犯した姦淫と殺人の罪の故、彼の子たちもまた、子供たち同士で姦淫や殺人を犯すようになり、父ダビデの煮え切らない態度の結果、息子アブシャロムはクーデターを起こしてしまった。
いわば、自分の身から出た錆である。
 
しかし、ダビデは、「自分はもう罪を犯したので、主に合わせる顔がない」などと、主から離れる事はせず、かえって、熱烈に主に泣きつき、主に助けを求めた。
あたかも、泥だらけになって汚れた子供が、親に泣きつくように。
親を慕っている子は、自分が泥だらけになった時、「自分はもう汚れてしまったから、親に合わせる顔が無い」などとは言わず、逆に、親に泣きついて行くものだ。
まことの父なる神様も、それを願っておられる。
だから私達は、どんな罪を犯し裏切ったとしても、何度でも神に立ち返るべきなのだ。
 
詩篇63:1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
 
ダビデは、は、岩砂漠の荒野にて、水に渇く以上に、主に対して渇いており、神に「あなたはわたしの神」と呼んだ。
主は、それほどまでに主を慕い求め、積極的に関って行こうとする人を、ご自身のものとし助けてくださる。
 
詩篇63:2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。
 
彼は、ユダの荒野にいるはずで、そこには聖所は無いはずである。
ではなぜ、彼は「聖所にあって目をあなたに注いだ。」と言ったのか?
もし、主を「わたしの主」とし、砂漠で水を求めるように、主を慕い求めるなら、そこが聖所と化すのである。
ダビデは、この荒野の聖所で、素晴らしい賛美を捧げる。
 
詩篇63:3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。
63:4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。
 
心の底からの賛美は、「あなたのいつくしみは、いのちにもまさる」という実感から出て来る。
そして、その慕い求める心からの賛美を捧げる時、主は、甘く麗しい感覚をもって答えてくださる。
 
賛美や礼拝が「お勤め」になっている人にとっては、永遠に賛美をささげる天国は、つまらない所に思えるかもしれない。
しかし、こんなにも罪深い自分を、こんなにも素晴らしい天国へ入れてくれたという心の底からの感謝と賛美を、永遠に捧げられる天国は、じつに甘く麗しい、喜びに満ちた所なのだ。
天国にて、24人の長老たちが、冠を自分の頭から外して、主の御前に投げ出したのは、自分の頭なんかに冠があるなど、とてももったいない、一刻も早く、主こそが冠を受けるに相応しいお方だ、と表現したいのではないだろうか。(黙示録4:10)
 
天国でも、自分は罪を犯して生きてきた、という記憶がある。
なぜなら、
罪を犯した記憶、そして、そんな自分さえ赦されたという記憶なしには、感謝は生まれないからである。
だから、今私達の罪の記憶が消えていない理由は、自分は罪深いのだと自分に言い聞かせて苦しむためではなく、むしろ、こんな自分を赦して下さった事を、主に感謝するためである。
 
詩篇63:5 わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもって/もてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもって/あなたをほめたたえる。
63:7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
63:8 わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。
 
ダビデは、息子アブシャロムが起こしたクーデターのゆえに、逃げている最中である。
状況からして、到底眠るどころではないはずなのに、彼は床の上で横にり、しかも魂は豊かにもてなされるかのように満ち足りていて、彼の口は、喜びをもって主をほめたたえている。
 
それは、彼が主を思い、主の御言葉を思い巡らした故に、そこが御翼の陰、平安に満ちた所となり、いかに荒野で敵に追い回されている最中であっても、安らかな眠りが与えられたからだ。
もし私達が、過去や現在、将来起こるであろうあの事この事や、あるいはあの人・この人の言葉を思い巡らすなら、どんなにそこがセキュリティの確保されたホテルであっても、不眠症になってしまう。
 
63:9 しかしわたしの魂を滅ぼそうとたずね求める者は/地の深き所に行き、
63:10 つるぎの力にわたされ、山犬のえじき(メナート:分前、相続)となる。
 
この時、ダビデの魂を滅ぼそうとする者はアブシャロムであったが、彼はダビデはずかしめるために、公然と父ダビデの側女と寝たり、策略を巡らして父親を殺そうと追い回したり、と、律法では死に値する事を平気で行った。
その結果、彼は木に吊るされた状態、すなわち、呪われた状態のまま、なぶり殺されてしまった。
主に憎まれる事をあえてするような者は、山犬のえじき(相続分)となってしまうのだ。
 
63:11 しかし王は神にあって喜び、神によって誓う者はみな誇ることができる。偽りを言う者の口はふさがれるからである。
 
神からの約束に従って忠実に歩もうとする人は、真理の内に歩み、つまづく事なく、その道は確かである。
しかし、偽りを言う者は、その口が塞がれてしまうのだ。
 
続く詩篇64篇は、口達者な悪者に対抗する詩篇である。
もし自分は言葉巧みではない、けれども相手は悪辣な言葉を朗々と操るのに長けていて、言葉では勝ち目がない、という場合は、この詩篇を宣言すると良い。
 
詩篇64篇表題『指揮者のために。ダビデの賛歌』
64:1 神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。
64:2 悪を行なう者どものはかりごとから、不法を行なう者らの騒ぎから、私をかくまってください。
 
この詩も、神への訴えで始まる。
 
64:3 彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。
64:4 全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。
 
ダビデを攻める者達は、舌が達者で、苦い言葉をダビデにめぐらして、彼を苦しめている。
実際、アブシャロムは口達者な者だった。
彼は長年、ダビデを貶めるうわさ話を周到に巡らす事によって人々をダビデに敵対させ、また、甘い言葉で人心を買い、そうして長年の準備が整った時、彼はクーデターを起こした。
 
64:5 彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう。」と言っています。
64:6 彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった。」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。
 
彼らは、悪において長けている。
互いに談合し合意の上で、ひそかに罠を仕掛け、それを「だれに、見破ることができよう。」「たくらんだ策略がうまくいった。」と言っている、いわば、確信犯である。
意図して悪いたくらみをし、そうして成り上がって行こうとする事において、長けた者達である。
 
そのような者が、悪い力を駆使して攻め寄せて来る時、私達も、詩篇64篇の内容で、主に訴えるのだ。
特に、相手が主に忌み嫌われるような偽りや不正で立ち向かって来るなら、主の軍配は私達の側に上がり、以下のように扱って下さる。
 
64:7 しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。
64:8 彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。
 
そう、彼らが不正をする時、その不正が、彼らを攻め立てる口実となる。
偽りを言うなら、その偽りを言った口が、彼らを攻め立てる材料となる。
だから私達は、悪者の道に足を踏み入れるべきではない。
 
箴言1:19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。
1:20 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、
 
詩篇64:9 こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。
64:10 正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。
 
主は、悪者が報いを受ける事によっても、栄光を受けられる。
その報いを人々が見る時、義なる神が生きておられ、悪人は必ず滅びるのだ、と、世界は知るようになる。
事実、ダビデをあなどったアブシャロムは、誰が見ても呪われた死に方をして、主がダビデに軍配を上げて下さった事を、全国民は知った。
 
確かに私達も、罪を犯した者達で、主から守られるに値しないように見えるかもしれない。
しかしたとえ罪を犯した者であったとしても、悔い改めて何度でも主に立ち返り、主に泣きつき、主により頼む人を、主は弁護し、保護してくださる。

詩篇 講解説教

人から来る圧迫のただ中でも平安と喜びを湧き上がらせる方法(詩篇61-62篇)

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詩篇61-64篇の背景は、アブシャロムがダビデに対してクーデターを起こし、ダビデはユダの荒野に逃げざるを得なくなった時のものと思われる。(63篇表題)
強い敵が追い迫って来た時、人から圧迫され続けている時、私達はどのように乗り切るか。その術を、この一連の詩篇から学びたい。
 
詩篇61篇表題『聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌』
61:1 神よ、わたしの「叫び(リナー)」を聞いてください。わたしの祈に耳を傾けてください。
 
「叫び(リナー)」とは、金切り声、甲高い叫びである。
ダビデは、金切り声を上げざるを得ないほどの圧迫に瀕していたが、その金切り声を単に響かせるのではなく、主に向かって、叫んだ。
何事も、金切り声さえも、主に向かう事。それこそダビデの道である。
 
詩篇61:2 わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。わたしを導いて/わたしの及びがたいほどの高い岩に/のぼらせてください。
61:3 あなたはわたしの避け所、敵に対する堅固なやぐらです。
61:4 わたしをとこしえにあなたの幕屋に住まわせ、あなたの翼の陰にのがれさせてください。〔セラ
 
アブシャロムに追われて、ユダの荒野にいる彼は、まさに、地の果てにいる心地だったろう。
私達も、圧迫するようなもの、事、状況を前にした時、ダビデのように主に叫び、全ての重荷を主に委ねるなら、そこがたとえ地の果てであろうと、あるいは、いつもの職場や家庭であろうと、そこは主の幕屋となり、また、主の翼の陰となる。
 
詩篇61:5 神よ、あなたはわたしのもろもろの誓いを聞き、み名を恐れる者に賜わる嗣業を/わたしに与えられました。
 
ダビデは宣言した。嗣業は既に与えられました、と。
まだ実体として得ていないのに、主の御言葉を盾にとって、信仰を混ぜて「得た」と宣言する。すると、実際にすぐ与えられた、という証を、信仰者はよくする。
それは確かな事である。次のように書いてある。
『信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。』(ヘブル11:1)
 
詩篇61:6 どうか王のいのちを延ばし、そのよわいをよろずよに至らせてください。
61:7 彼をとこしえに神の前に王たらしめ、いつくしみとまこととに命じて/彼を守らせてください。
 
ダビデは、王のいのちを伸ばしてくださいと祈ったが、神の国に生きる王は、世の王とは全く違う。
世の王は、人々の上に立って権力をふるい、好き勝手に支配できるため、誰もが王様になりたがる。
しかし、神の国の王たる者は、そうであってはならない。
イエス様は言う。神の国における王たる者は、皆に仕える者、しもべになりなさい、と。
『人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。』(マタイ20:28)
 
私達・主イエスを信じる者は、事実、王である。
王として、民を良い政治を行って幸いにし、神の敵と戦い、悪い者から支配権を奪還し、神の統治をもたらさなくてはならない。
 
ダビデは彼の告白を主に申し上げ、訴えた結果、平安が与えられ、賛美が生まれた。
 
詩篇61:8 そうすればわたしはとこしえにみ名をほめうたい、日ごとにわたしのもろもろの誓いを果すでしょう。
 
彼は告白した。とこしえに神と共に住まい、いつまでも永遠に主をほめたたえる、と。
それだけでなく、地上における残された日々も、いつも主に対しての誓い(ネデル:約束)を果たしていく、と。
これは、うるわしい主に対する私達の告白でもあるべきである。
 
そして、力強い信仰宣言に満ちた62篇へと続く。
 
詩篇62篇表題『聖歌隊の指揮者によってエドトンのしらべにしたがってうたわせたダビデの歌』
62:1 わが魂はもだして「ただ(アク)」神をまつ。わが救は神から来る。
 
62篇の1,2,4,5,6節は、「アク」というヘブライ語で始まる。
「アク」は肯定の助詞で、日本語では「ただ」「こそ」「まことに」など、強い肯定を表現する。
 
詩篇62:2 神「こそ(アク)」わが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。
 
神を「わが岩、わが救、わが高きやぐら」と呼ぶのは、ダビデに特徴的な宣言だが、これを、ダビデだけの宣言で終わらせてはならない。
私達自身の宣言にするべきだ。
詩篇は、全人類が直面するあらゆる問題に対処できる祈りが、記されているからだ。
 
詩篇62:3 あなたがたは、いつまで人に押し迫るのか。あなたがたは皆、傾いた石がきのように、揺り動くまがきのように人を倒そうとするのか。
62:4 彼らは人を尊い地位から落そうと「のみ(アク)」はかり、偽りを喜び、その口では祝福し、心のうちではのろうのである。〔セラ
 
ダビデは、このような者によって、苦しめられていた。
人を、尊い地位から落そうとはかり、偽りを喜び、その口では祝福しても心のうちではのろうような者達に。
 
神を恐れぬ者や良心が麻痺している者は、今にも倒れそうな石垣を見ると、倒したい衝動に駆られる。
いじめられっ子がいじめられているのを見たら、嬉しくなって、一緒にいじめに参加するのだ。
それら、破壊したい、殺したい、倒したいという衝動、は、サタンから来る。
 
私達は、忘れてはならない。
主はそのような弱者が虐げられているのを黙って見ておらず、特に、ダビデのように、主に叫び求める者の声を、主は聞いて下さるのだ、と。
ダビデに敵対した者達の末路を見れば、その者達が最後はどうなるかがわかる。
 
詩篇62:5 わが魂はもだして「ただ(アク)」神をまつ。わが望みは神から来るからである。
62:6 神「こそ(アク)」わが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。
62:7 わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。
 
この世の中で、最も敵に回してはならない人とは、力ある人でも、お金持ちでもない。
ダビデのように、何かあったらすぐに主に走って行き、泣きつき、訴え、御言葉を宣言する人だ。
ダビデはその事を、人々に模範として示すために詩篇を書いている。
 
詩篇62:8 民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。〔セラ
 
これが、真の王が宣言すべき言葉である。
真の王とは、人々の心を、まことの神である主へと向けるようにと、支配する王である。
 
詩篇62:9 低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。
 
ダビデは宣言した。
人は、むなしい。身分が低い人も、高い人も、ともどもに。彼らを全部まとめても、息よりも軽い、と。
そうであるからには、「息よりも軽い」人間による「息よりも軽い」いじめ言葉や、「息よりも軽い」者の嫌がらせに、目を留めても仕方ない。
私達は、永遠に土台として残るイエス・キリストの言葉にこそ目を留め、そこに土台を据えるのだ。
その土台に立つ時、私達は、そうした「軽い」物事は一切、問題ではなくなる。
 
詩篇62:10 あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。
 
しいたげも、かすめ奪う事も、力づくで人を圧迫する事であり、そこに生活基盤を置いてはならない。
圧迫された人が、主に叫ぶ時、主が、その者達に敵対されるからだ。
 
富は、使ってしまえばなくなってしまう。
そのようなものにも、人生の基盤を置いてはならない。
人生の基盤は、永遠のいのちの源である主にこそ置くべきだ。
 
62:11 神はひとたび言われた、わたしはふたたびこれを聞いた、力は神に属することを。
 
話すための口はひとつ、聞くための耳は2つである。
タルムードによれば、神は人を、口を使うよりも神の言葉を耳で二倍聞くように、そのように創造されたという。
私達はただ一つ、神の口から出る言葉をこそ、この二つの耳をよくかたむけて聞くべきである。
最後にダビデは願う。
 
詩篇62:12 主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって/報いられるからである。
 
もし主が、人のおのおののわざに従って報いていたなら、誰一人、生きながらえる者はいない。
しかし、主イエス様の贖いによって、赦しと救いを得た。
だから私達もダビデのように、ほめたたえるのである。
 
詩篇61:8 そうすればわたしはとこしえにみ名をほめうたい、日ごとにわたしのもろもろの誓いを果すでしょう。
 
主のあわれみ、主の素晴らしさを体験し、味わい、実感し、そうして感動した心をもって、人々に主の素晴らしさ伝え、そして王として、人々に憐れみの統治をしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

詩篇 講解説教

ダビデの連戦連勝の陰にあった、彼の葛藤の祈り(詩篇60篇)

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詩篇60篇表題『聖歌隊の指揮者によって、「あかしのゆり」というしらべにあわせて教のためにうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが、アラムナハライムおよびアラムゾバと戦ったとき、ヨアブがその帰りに、塩の谷でエドムびと一万二千人を殺したときによんだもの』
 
この表題の出来事は、第2サムエル記8章、1歴代誌18章で示されている。
それらの記事を見ると、「ダビデは**と戦った、勝った」と、結果だけが淡々と記されていて、途中どんな葛藤やドラマがあったのかは記されていないので、その箇所だけを見るなら、あたかもダビデは、何の苦労も無く連戦連勝したかのように見えるかもしれない。
しかし、詩篇60篇の内容を見ると、決してそうではなかったのだという事が伺える。
 
詩篇60:1 神よ、あなたはわれらを捨て、われらを打ち破られました。あなたは憤られました。再びわれらをかえしてください。
60:2 あなたは国を震わせ、これを裂かれました。その破れをいやしてください。国が揺れ動くのです。
60:3 あなたはその民に耐えがたい事をさせ、人をよろめかす酒をわれらに飲ませられました。
 
ダビデはその時、北のアラム・ナハライム(アラム軍)や、アラム・ツォバ(ダマスコの北東の国)と戦っているさ中で、しかもその時、南からはエドムが蜂起して戦いを仕掛けて来た。
強敵が次から次へとイスラエルに襲いかかって来る。
その時、ダビデは、あたかも神が憤ってダビデを捨てたかのように感じたのだ。
ダビデがここまで弱気な事を書いたからには、この時のイスラエルは、普通の人が見るなら、誰が見ても絶望、と見られる程の、危機的状況だったのだろう。
しかしダビデは、信仰を奮い立たせて、宣言する。
 
詩篇60:4 あなたは弓の前からのがれた者を再び集めようと/あなたを恐れる者のために/一つの旗を立てられました。〔セラ
 
ここは、訳し方が分かれる節である。
原文は以下である。
ナタター(あなたは与えた) リレエイカ(恐れる、打つ) ネス(旗) レヒトノーセス(ひらめく、逃れる) ミペネイ(顔に、〜前に、のために) コシェット(ヘブライ語:真理、アラム語:弓) セラ
 
口語訳や新改訳は、コシェットをアラム語の「弓」と訳したが、KJVや新共同訳は、ヘブライ語の「真理」と訳している。
主は、主をおそれ敬う人達、すなわち主を避け所として、主の御旗の元に集う人の前には、真理(あるいは弓)をもって、偉大な御力をあらわしてくださるのだ。
 
旗には、自分の所属のしるしが記されている。
私達も、自分の所属は、天地を創られた主である、という事を表明するために、主の御旗を掲げるべきである。
どのようにしたら、主の御旗を掲げる事が出来るのだろう。
出エジプト記に、主の旗をかかげて勝利をもたらした記事がある。
 
『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)
 
手を上げて主に祈る事が、すなわち、主の旗を掲げる事である!
 
『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11節)
モーセが背後で祝福の手を上げて祈る、その手が「主の旗」となり、それが戦いを左右した。
教会と、世の組織との違いは、祈るか、祈らないか、であり、祈る教会と祈らない教会とでは、大きな違いが出てくる。
世の人は、肉弾戦で戦おうとするが、私達・教会は、主の御名によって祈る事によって、天の扉を開けたり閉めたりする権威をもって、戦うのである。
 
出エジプト記17:12 しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。
 
このように、霊的指導者の祈りの手が下りないように支える働きは、実戦部隊より重要である。
教会も、牧会者が祈りと御言葉の奉仕に専念できるよう、事務作業において、経済において、支える働き人が必要である。
もし牧会者ひとりが、祈りと御言葉の奉仕をし、その上で事務作業をしたり、日銭を稼いだりしていたら、疲れ果てて、祈りの手が萎えてしまう。
 
出エジプト記17:13 ヨシュアは、つるぎにかけてアマレクとその民を打ち敗った。
 
祈りに専念したら、ヨシュアが戦って勝利してくれた。
ヨシュア、ヘブライ語でイエシュア、その意味は「主は救い」。すなわちヨシュアは、イエス様の名と同じである。
私達も、祈りの手を上げて主の旗をかかげるなら、まことのヨシュアであられるイエス様が戦って、勝利をもたらしてくださるのだ。
 
出エジプト記17:15 モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。
17:16 そしてモーセは言った、/「主の旗にむかって手を上げる、/主は世々アマレクと戦われる」。
 
「主は世々、戦われる」と書いてある。世々に、という事は、今も、である。
現代の私達も、手を上げて祈る時、主の旗が掲げられ、そうして主は、今も、主の民に敵対する者と戦われるのだ。
 
詩篇60篇は、4節で、セラ(モードチェンジ)が宣言されている。
恐れおののいていたダビデは、主の御旗を掲げた信仰宣言によって、その雰囲気をチェンジする。
 
詩篇60:5 あなたの愛される者が助けを得るために、右の手をもって勝利を与え、われらに答えてください。
 
ダビデは、主の右の手をもって勝利を与えてください、と願った。
主の旗は、世々に渡って勝利を与えて下さる主の手である。
そしてダビデは、主の聖所に入り、主の言葉を聞いた。
 
詩篇60:6 神はその聖所で言われた、「わたしは大いなる喜びをもってシケムを分かち、スコテの谷を分かち与えよう。
60:7 ギレアデはわたしのもの、マナセもわたしのものである。エフライムはわたしのかぶと、ユダはわたしのつえである。
 
シェケムとエフライムはヨルダンの西側、スコテとギルアデはヨルダンの東側の地で、それらの地は元々、創世記15章において、主が「与える」と約束された相続地である。
私達も、祈りの内に主の聖所に行って、主の約束の御言葉を盾にとって祈るなら、それは実現する。
 
詩篇60:8 モアブはわたしの足だらい、エドムにはわたしのくつを投げる。ペリシテについては、かちどきをあげる」と。
 
モアブ、エドム、ペリシテは、神の民に敵対して来た者達であるが、主は、それを足の下に踏みつける、と言われる。
私達も、御言葉を宣言するのだ。
「平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。」(ローマ16:20)
 
詩篇60:9 だれがわたしを堅固な町に至らせるでしょうか。だれがわたしをエドムに導くでしょうか。
60:10 神よ、あなたはわれらを捨てられたではありませんか。神よ、あなたはわれらの軍勢と共に出て行かれません。
60:11 われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいのです。
 
ダビデは、北から南からイスラエルを引き裂こうとして来た強敵を前に一度は恐れおののいたが、しかし信仰告白によって奮い立つ。
 
詩篇60:12 われらは神によって勇ましく働きます。われらのあだを踏みにじる者は神だからです。
 
ダビデは「神によって」と宣言した。
そう、人の力や助けは虚しいが、神にあって私達は強い。
 
ダビデはこの宣言をもって、戦った結果、あっさりと勝利した。
 
サムエル記や歴代誌の記述だけを見ると、あたかもダビデは何の葛藤もなく、あっさりと勝ったかのような印象を受けるが、そうではない。
ダビデにも戦いの毎に恐れがあり、そして主への祈りと信頼があり、そして勝利する度に、主への感謝と賛美があったのだ。
 
この詩篇の表題にある「あかしのゆり」の原語は、シュシャン・エイドゥース。
シュシャンはゆり、エイドゥースは「あかし」で、新共同訳では「定め」「教え」と訳されている。
つまりこの詩は、教えのために作られたものであると考えられる。
 
この詩は、現代の私達にも、教える。
戦いを前に、あるいはコロナウイルスが蔓延る現状に、恐れがあるだろうか。葛藤があるだろうか。
しかし主は、今も、祈りの手を上げて御旗を掲げる人には、イエシュアであられるイエス様が戦ってくださり、勝利をもたらしてくれるのだ。

詩篇 講解説教

好んで悪に加担する者達に殺されそうになった時にダビデが宣言した祈り(詩篇59篇)

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詩篇59篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはサウルがダビデを殺そうとして人をつかわし、その家をうかがわせたときダビデのよんだもの」
 
この時の状況は、1サムエル記19章11節以降に記されている。
ダビデはサウルの元で仕え、戦争の時は千人隊長として真っ先に敵陣に突入して勝利をもたらし、平時はサウルの元で立琴を弾いていたが、サウルは妬みにかられ、悪霊に憑かれて、ダビデに槍を投げた。
ダビデは槍を逃れて、妻ミカルがいる家に逃げ帰ったが、サウルは使者をその家に遣わし、夜があけたらダビデを殺そうとしていた、まさにその夜の状況を、ダビデは詩篇に編纂し、後にダビデが王になった時、聖歌隊にこれを歌わせ、主を賛美した。
 
詩篇の順番は、時系列ではなく、内容順にまとめられており、特に51篇以降、ダビデが「自分自身の罪」という敵に、あるいはサウルやペリシテ人など、あらゆる外的な敵によって苦しめられた時、それらに対し、いかに主と共に克服して行ったかが記されている。
ダビデが危機に陥る都度、彼は主を叫び求め、祈り、そうして心の平安と、そして実際的な助けを得て行った。
これらの詩篇は、全て私たち主の民に対するメッセージであり、私たちも危機的状況に陥った時、どのような祈りをすればよいか、また、主はどのような危機から解決して下さるかを、知る事が出来る。
 
59:1 わが神よ、どうかわたしをわが敵から助け出し、わたしに逆らって起りたつ者からお守りください。
59:2 悪を行う者からわたしを助け出し、血を流す人からわたしをお救いください。
 
わが神(エロハイ)の呼びかけによって、この詩が始まる。
いのちを付け狙う者が目の前にせまっていて、今にも殺されそうな時、ダビデは神を「わが」と呼び、神は自分のもの、と宣言した。
 
私たちもこれを習うべきである。
神は、すべてより頼む者を助けて下さる。
神は、私たちと関係無き存在ではなく、私たちと関係される存在、そして、私の拠り所、と宣言するなら、主が本当に直接関わって下さる。
 
59:3 見よ、彼らはひそみかくれて、わたしの命をうかがい、力ある人々が共に集まってわたしを攻めます。主よ、わたしにとがも罪もなく、
59:4 わたしにあやまちもないのに、彼らは走りまわって備えをします。わたしを助けるために目をさまして、ごらんください。
 
ダビデがいのちを付け狙う者達に囲まれているのは、ダビデが悪い事をしたからではなかった。
彼はただ、サウル王の元で、神と、神の民イスラエルに、純粋に仕えていただけだった。
しかしサウルは、ダビデの活躍をねたみ、ダビデは命を狙われる事になってしまった。
 
そこでダビデは、主に、「目」を用いて、この状況を見てください、と願い求めた。
正しい事が行われていない現状です、自分は殺される事などしていないのに、不当にも命が奪われようとしています、と。
私たちも、主に願い求めるのだ。
主よ、どうか今のこの状況をご覧になって下さい!と。
 
59:5 万軍の神、主よ、あなたはイスラエルの神です。目をさまして、もろもろの国民を罰し、悪をたくらむ者どもに、あわれみを施さないでください。〔セラ
 
「もろもろの国々」と訳された語「ゴイーム」は、群生する獣やいなごが元々の意味で、特に、主を知らない異邦の者達のことをいう。
敢えて好き好んで、悪に加担する者達を罰してください、とダビデは主に願う。
その者達が、以下の意図をもって悪を行っているからだ。
 
59:6 彼らは夕ごとに帰ってきて、犬のようにほえて町をあさりまわる。
59:7 見よ、彼らはその口をもってほえ叫び、そのくちびるをもってうなり、「だれが聞くものか」と言う。
 
彼らは、口で(言葉で)、多くの罪を犯しているのだ。
「だれが聞くものか」。
これは、「神はいない」という人生観で、誰も見ていない所では、どんな悪い事を犯してもいい、と思い込んでいる人々だ。
そのような者達には、主が生きておられる事、主は決して嘲られるお方ではない、という事を、知るべきだ。
そのために、ダビデは以下のように祈る。
 
59:8 しかし、主よ、あなたは彼らを笑い、もろもろの国民(ゴイーム)をあざけり笑われる。
59:9 わが力よ、わたしはあなたにむかってほめ歌います。神よ、あなたはわたしの高きやぐらです。
59:10 わが神はそのいつくしみをもって/わたしを迎えられる。わが神はわたしに敵の敗北を見させられる。
 
ダビデは宣言した。
自分は、彼らが軽んじた主が「わが」力である、そして主は、主をないとする者達(ゴイーム)をあざける、と。
さらに主は、ダビデを襲う者達の敗北を見させて下さると。
なぜなら彼らは、何も悪い事をしていないダビデを、不当に追い回し、いのちを奪おうとしており、対してダビデは、主が「わが神、わが避けどころ」と宣言した。主の軍配は、確実に、ダビデに上がるのだ。
 
59:11 どうぞ、わが民の忘れることのないために、彼らを殺さないでください。主、われらの盾よ、み力をもって彼らをよろめかせ、彼らを倒れさせないでください。
59:12 彼らの口の罪、そのくちびるの言葉のために/彼らをその高ぶりに捕われさせてください。彼らが語るのろいと偽りのために
59:13 憤りをもって彼らを滅ぼし、もはやながらえることのないまでに、彼らを滅ぼしてください。そうすれば地のはてまで、人々は神がヤコブを治められることを/知るに至るでしょう。〔セラ
 
彼らのように、悪辣な事を平気でする者達が、あまりにも速やかに滅びるとするなら、人々は、すぐに忘れてしまうため、むしろ人々が忘れないように、敢えて彼らが長くさまようようになって、人々がそれを見る時、「確かに悪者はこうなるのだ」「主は確かに生きておられる」と、知るように、とダビデは願った。
義であられる主は、主に逆らって悪を行う者達に、災いを降す事によっても、栄光をお受けになるのだ。
 
59:14 彼らは夕ごとに帰ってきて、犬のようにほえて町をあさりまわる。
59:15 彼らは食い物のためにあるきまわり、飽くことを得なければ怒りうなる。
 
「うなる」と訳された語の元の意味は「とどまる」「ずっとそこにいる」事をあらわしている。
ダビデを狙っていた者は、その晩、一晩中ずっとダビデの家の外で待ち伏せ、夜が明けたらダビデを捕縛して殺そうとしていた。
しかし、ミカルがダビデを窓から吊り降ろして助けてくれたので、ダビデは主の守りの内に逃げる事が出来た。
 
59:16 しかし、わたしはあなたのみ力をうたい、朝には声をあげてみいつくしみを歌います。あなたはわたしの悩みの日にわが高きやぐらとなり、わたしの避け所となられたからです。
59:17 わが力よ、わたしはあなたにむかってほめうたいます。神よ、あなたはわが高きやぐら、わたしにいつくしみを賜わる神であられるからです。
 
彼は最後、主への喜びの賛美でこの詩を閉じる。
どんなに敵が夕に攻めて来て、一晩中、犬のようにうろつきまわっても、朝には主の守りと平安が来るからだ。
彼は主をやぐらとし、助けとした。
そのような人に対し、主はどのように扱って下さるか。
詩篇91篇に記されている。
 
91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
91:11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道で/あなたを守らせられるからである。
91:12 彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。
91:13 あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう。
91:14 彼はわたしを愛して離れないゆえに、わたしは彼を助けよう。彼はわが名を知るゆえに、わたしは彼を守る。
91:15 彼がわたしを呼ぶとき、わたしは彼に答える。わたしは彼の悩みのときに、共にいて、彼を救い、彼に光栄を与えよう。
91:16 わたしは長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救を彼に示すであろう。

詩篇 講解説教
あえて真理に耳をふさぎ、喜んで悪に同意し偽りを選択する者に対しての祈り方(詩篇58篇)
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詩篇58篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌」
 
この詩篇には、敢えて不正を好み悪魔サタンに同意するような者に対して、どう祈るべきかが記されている。
 
詩篇58:1 あなたがた力ある者よ、まことにあなたがたは正しい事を語り、公平をもって人の子らをさばくのか。
 
「あなたがた力ある者」と訳された所の原文は「あなたがた、もの言わぬ者」である。
すなわち、さばきの座で、あえて正しい事や公平な事には口を閉ざす者の事である。
 
箴言31章に書いてある。
箴言31:8 あなたは黙っている人のために、すべてのみなしごの訴えのために、口を開くがよい。
31:9 口を開いて、正しいさばきを行い、貧しい者と乏しい者の訴えをただせ。
 
さばく立場において、私たちの口は、御言葉に基づいて、弱い立場の人が守られるように、ただしいさばきを宣告するために、大いに開くべきである。
それなのに彼らは、敢えて口を閉ざすのだ。
 
正しい事に対し、口を閉ざす彼らは、果たして公平なさばきが出来るのだろうか。「否」である。
 
詩篇58:2 否、あなたがたは心のうちに悪い事をたくらみ、その手は地に暴虐を行う。
58:3 悪しき者は胎を出た時から、そむき去り、生れ出た時から、あやまちを犯し、偽りを語る。
 
「暴虐を行う」と訳された語・パーラスは、均一化する、平たくする事の意味である。
彼らは、悪やうそを標準化しようと敢えてたくらんでいる。
もし彼らが御言葉を聞き、叱責を聞いて悔い改めるなら、救われるのだが、残念ながら、彼らはそうではなく、母の胎内にいる時から既に「うそ」で塗り固めていた者だという証明が、4節以降で為されている。
 
詩篇58:4 彼らはへびの毒のような毒をもち、魔法使または巧みに呪文を唱える者の声を聞かない/耳をふさぐ耳しいのまむしのようである。
 
まむしや蛇には、手足が無い、はずなのに、その無い手足を使ってでも、御言葉や叱責を聞く耳を塞ごうと、敢えてするのだ。
彼らは神の言葉も人からの叱責も、意図して、聞かないのである。
 
このように、意図して真理を受け付けない者のために祈る祈りが、6-9節である。
 
詩篇58:6 神よ、彼らの口の歯を折ってください。主よ、若いししのきばを抜き砕いてください。
58:7 彼らを流れゆく水のように消え去らせ、踏み倒される若草のように衰えさせてください。
58:8 また溶けてどろどろになるかたつむりのように、時ならず生れた日を見ぬ子のようにしてください。
 
歯や牙は、食べ物を食べるためについてるものだが、そのために用いるのではなく、あえて、人を害するために用いる。
そのような歯や牙は、主が折って下さいますように、と、祈るべきなのだ。
人をあえて傷つけるために込める矢、人を傷つける事において長けた舌という矢を、心の中に蓄えているとするなら、それらは全部へし折って下さい、彼らは水のように流れ去らせ、消え去らせて下さい、元々存在しなかった者のようにしてください、と祈るのだ。
 
詩篇58:9 あなたがたの釜がまだいばらの熱を感じない前に/青いのも、燃えているのも共につむじ風に/吹き払われるように彼らを吹き払ってください。
 
当時は、よく燃えるいばらを着火剤にしてたきぎに火をつけ、釜の中の青物や生物を煮ていたが、ここでは、悪人が悪を計画し、準備し、実行し、悪のうまいものを得るという全工程を、料理の工程にたとえている。
悪人が悪のうまいものを料理しようと、準備し、その着火剤に火をつけたその瞬間に、主が釜も、いばらも、中身の具材も、全部一式、つむじ風で吹き飛ばして下さい、と祈るのだ。
まさに箴言1章後半に書いてある。
 
箴言1:22 「思慮のない者たちよ、あなたがたは、いつまで/思慮のないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけり楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。
1:23 わたしの戒めに心をとめよ、見よ、わたしは自分の思いを、あなたがたに告げ、わたしの言葉を、あなたがたに知らせる。
1:24 わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、
1:25 かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、
1:26 わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、笑い、あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。
1:27 これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。
1:28 その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない。
1:29 彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
1:30 わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじたゆえ、
1:31 自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる。
1:32 思慮のない者の不従順はおのれを殺し、愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす。
1:33 しかし、わたしに聞き従う者は安らかに住まい、災に会う恐れもなく、安全である」。
 
彼らが災いに遭った理由は、悔い改めを促す言葉をかけられても、敢えて耳をふさぎ、無視し、その言葉をあなどったからだ。
意図して真理を憎み、主のいましめを軽んじる者には、恐怖があらしのように臨み、災がつむじ風のように臨み、悩みと悲しみとに覆われて、いっぱいいっぱいになる。
彼らは、自分自身が蒔いた種の実を食らうのだ。
 
イエス様は、敵を愛し、迫害する者のために祈れ、と言われた。
しかし、悪い者の悪辣さが祝福されるように祈れ、とは言っていないし、うそつきのうそが成功して不正が成功するように祈りなさい、とも言っていない。
 
もし、私達に害をなしたり迫害する者が、「知らないで」それを行っていて、無知ゆえに、自分に滅びを招くわざをしているとするなら、祈るべきだ。
何が主に喜ばれる事で、何が主に喜ばれない事なのかを知り、また、何が主の前で良い事で何が悪い事であるのかを知って、その呪いを招くわざを止め、祝福の歩みに入るように、と。
しかし、悔い改めの勧めや、叱責の言葉、矯正の知恵を教えても、あえて耳をふさぎ、敢えて悪を選択し、その悪の道を貫くような者に対しては、彼の牙が折られ、その悪のわざがもはや出来ないようにと、祈るべきなのだ。
 
詩篇58:10 正しい者は復讐を見て喜び、その足を悪しき者の血で洗うであろう。
58:11 そして人々は言うであろう、「まことに正しい者には報いがある。まことに地にさばきを行われる神がある」と。
 
ここの報いの原語ペリーは、「実を結ぶ」ことである。
正しい者は、正しさの故に結ぶ実を食べる事が出来、しかし悪を行う者は、悪の故の実を食らう。
これは一貫して流れている真実である。

早天礼拝
ほら穴の中で信仰をもって宣言した通りになって行ったダビデ(詩篇57篇)
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詩篇57篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが洞にはいってサウルの手をのがれたときによんだもの」
 
この詩篇57篇が創られたのは、おそらく1サムエル記22章にてダビデがアドラムのほら穴にいた時、あるいは、24章でエン・ゲディのほら穴にいた時であろう。
アドラムもエン・ゲディも、ともに死海の西側、洞窟が多い荒涼とした岩砂漠地帯である。
前回56章は、ダビデがペリシテ人に囲まれて気が違ったふりをして、散々な思いで逃れて来た状況だったが、そのすぐ後、彼はたった一人、アドラムのほら穴にいた。
しかし彼は、一人ではかった。彼の信頼する主がそばにおられ、彼はその主を呼び求める。
 
57:1 神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びのあらしの過ぎ去るまでは/あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。
57:2 わたしはいと高き神に呼ばわります。わたしのためにすべての事をなしとげられる神に/呼ばわります。
 
どこにも助けが無い、どこにも居場所が無い、そんな状態で彼にできた事は、ただ主に向かって助けを求めるだけだった。
ちょうど鳩が、敵を逃れて岩の隙間に隠れ、ただうめき鳴いているように。
それは拾は、最も幸いな事である。
主を呼び、主に助けを求める者に、主は平安と確信とを送られる。
 
57:3 神は天から送ってわたしを救い、わたしを踏みつける者をはずかしめられます。〔セラ/すなわち神はそのいつくしみとまこととを/送られるのです。
 
ここにセラが、すなわち、モードチェンジの指示がある。
1-2節では、ダビデはただ主に向かってうめくだけだったが、彼はそれによって主が平安と確信を得て、敵に対する報復を宣言する。
 
57:4 わたしは人の子らをむさぼり食らうししの中に/横たわっています。彼らの歯はほこ、また矢、彼らの舌は鋭いつるぎです。
 
4節で「横たわっています」はヘブライ語でシャーカブ、「休む」「寝る」の意味がある。
彼は、ライオンのような敵に囲まれていても、休みが与えられたのだ。
 
57:5 神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。
57:6 彼らはわたしの足を捕えようと網を設けました。わたしの魂はうなだれました。彼らはわたしの前に穴を掘りました。しかし彼らはみずからその中に陥ったのです。〔セラ
 
ダビデは宣言した。わなをもって捕らえようとする者は、自ら、その罠にかかる、と。
それは真理であり、法則である。箴言にも記されている。
 
箴言1:15 わが子よ、彼らの仲間になってはならない、あなたの足をとどめて、彼らの道に行ってはならない。
1:16 彼らの足は悪に走り、血を流すことに速いからだ。
1:17 すべて鳥の目の前で/網を張るのは、むだである。
1:18 彼らは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏してねらうのだ。
1:19 すべて利をむさぼる者の道はこのようなものである。これはその持ち主の命を取り去るのだ。
 
もし、罠で捕らえようとする者がいるなら、私達も宣言するのである。
わなをもって捕らえようとする者は、自ら、その罠にかかる、と。
なぜならそれは、真理だから。
 
57:7 神よ、わたしの心は定まりました。わたしの心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。
 
「定まる」のヘブライ語は、クーン。奮い立つ、あるいは揺るがない様を表す。
彼は主にあって、心が定まった。
 
57:8 わが魂よ、さめよ。立琴よ、琴よ、さめよ。わたしはしののめを呼びさまします。
 
立琴や琴は、元々、ダビデが得意とする賛美の道具であった。
彼はそれまで久しく追われていたため、賛美どころではなかったが、彼は奮い立ったゆえに、賛美を呼び覚まし、あけぼのを呼び覚まそうとした。
なんという復帰力だろうか。
その源泉は、鳩のように主に助けを求める所にある。
 
ダビデは、闇夜の状況に、あけぼのを呼び覚ます。
わが「魂」と訳された原語はカヴォド、元々の意味は肝臓で、肝臓は最も重い臓器である事から「重さ」を表し、また「栄光」を表すため、KJVでは「My glory」と訳されている。
ダビデは、すぐ前はペリシテ人の前で気違いを装い、栄光が地に落ちたかのようであったが、彼は、ほら穴の中で主に呼び求め、主にあって奮い立ち、どん底に落ち込んでしまった彼の栄光に向かって「さめよ」と宣言した。
実際彼は、その後、栄光を回復して行く。
 
57:9 主よ、わたしはもろもろの民の中であなたに感謝し、もろもろの国の中であなたをほめたたえます。
 
ダビデは、アドラムのほら穴にいた時、たった一人だった。
にもかかわらず、彼は「もろもろの国」を見据え、国々の間で主をほめたたえる、と宣言している。
 
事実、彼が宣言したとおりに、彼はその後、彼の敵は打ち負かされ、サウルに代わって王となり、聖歌隊を編成し、ダビデ自身が作った詩篇を歌わせ、そして多くの国々を占領し、主の栄光をあまねく告げ知らせて行った。
いかに一人ぼっちで、ほら穴に逃げ隠れしていたとしても、主を拠り所とし、主を信頼して、御言葉を宣言するなら、その宣言したとおりになるのである。
 
57:10 あなたのいつくしみは大きく、天にまで及び、あなたのまことは雲にまで及びます。
57:11 神よ、みずからを天よりも高くし、みさかえを全地の上にあげてください。
 
最初は嘆きで始まったが、最後は賛美で終わる。
彼が主にあって確信を得たからだ。
まさに詩篇23篇で彼が記した通りである。
 
詩篇23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
23:6 わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。
 
ダビデはこの後、彼の元に次々と人々が集まって来るようになり、600人の人々の頭領となった。
その彼らがエン・ゲディのほら穴にいた時、ダビデのいのちをつけ狙って来たサウル王は、ダビデのいたほら穴に、自分から一人で来て、彼の無防備な様を、ダビデ達の前にさらした。
主がダビデの手に、敵であるサウル王を渡して下さったのだ。
 
ダビデはいつでもサウル王に手を下す事はできたが、それをしなかった。
それは、ダビデが大好きな主が、サウルに油を注いで下さったからだ。
そしてダビデは知った。
主により頼むなら、主はいつでも、自分の敵を手に渡して下さる、自分は、主にあって安全に守られるのだ、と。
 
今、コロナが流行っているこの時勢、私達も鳩のように、ただ家の中に閉じこもって主に向かって呼ばわるだけかもしれない。
しかし、そのような時期に、主を呼び求める事は、実は幸いな一時である。
それによって主は、平安と確信を送ってくださり、暁を呼びささます者とし、ゆくゆくは信じて宣言した言葉のとおりに栄光が与えられるからだ。

詩篇 講解説教
主によって黒歴史は感謝の歴史へ変わり、賛美へと変わる(詩篇56篇)
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詩篇56篇表題「聖歌隊の指揮者によって、「遠き所におる音をたてぬはと」のしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデがガテでペリシテびとに捕えられたときによんだもの」
 
この状況は、1サムエル記21:10-16に記されている。
ダビデはサウル王から追われ、イスラエルに居場所がなくなったために、ペリシテのガテへと逃れ、ペリシテの王の元に身を寄せようとした。
ところがガテは、彼が倒したペリシテ人ゴリヤテの故郷であり、ダビデは、そのゴリヤテの剣を身に帯びていた。
結果どうなるか、大体創造できそうなものであるが、ダビデは恐れに取り憑かれ、焦って、そこまでの判断が出来なかったのかもしれない。
自国から遠く離れたペリシテの敵地に、たった一人でいて、敵に囲まれ、うめく声もあげられない状態、まさに「遠き所におる音をたてぬはと」の状況の中、作った詩である。
 
1サムエル記21:11 アキシの家来たちはアキシに言った、「これはあの国の王ダビデではありませんか。人々が踊りながら、互に歌いかわして、/『サウルは千を撃ち殺し、/ダビデは万を撃ち殺した』/と言ったのは、この人のことではありませんか」。
 
ペリシテ人らはダビデを「王」と呼び、そして彼がゴリヤテを倒した時に女達が歌った歌も知っている。さらに悪い事に、彼はゴリヤテの剣を身に帯びていた。
まさに彼の命は風前の灯、ダビデが恐れるに十分だった。
そんなダビデには、もはや、一択しか残されていなかった。
すなわち、いつでも彼とともにおられる主に助けを求める、という事を。
 
詩篇56:1 神よ、どうかわたしをあわれんでください。人々がわたしを踏みつけ、あだする人々がひねもすわたしをしえたげます。
56:2 わたしの敵はひねもすわたしを踏みつけ、誇りたかぶって、わたしと戦う者が多いのです。
 
「ひねもす」(新改訳では「一日中」)と訳されたヘブライ語は、「コール・ハイ・ヨム」。コールは「全」、ヨムは「日」の他に、「期間」の意味がある。
ダビデがペリシテにいた期間、ずっと、ひっきりなしに、ダビデはペリシテ人から責め立てられ、虐げられつづけたのかもしれないし、あるいは、サウル王に追われ続けたて来たこの期間、ずっと、そのような心境だったのかもしれない。
 
詩篇56:3 わたしが恐れるときは、あなたに寄り頼みます。
56:4 わたしは神によって、そのみ言葉をほめたたえます。わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。肉なる者はわたしに何をなし得ましょうか。
56:5 彼らはひねもすわたしの事を妨害し、その思いはことごとくわたしにわざわいします。
 
 
実に素晴らしい、かっこ良い告白であるが、ダビデがその時、自分のいのちを救うために取った行動は、かっこ良くなかった。
 
1サムエル記21:12 ダビデは、これらの言葉を心におき、ガテの王アキシを、ひじょうに恐れたので、
21:13 人々の前で、わざと挙動を変え、捕えられて気が変になったふりをし、門のとびらを打ちたたき、よだれを流して、ひげに伝わらせた。
 
彼の人生一番の黒歴史かもしれない。
主にあって自分自身を御言葉でふるい立たせ、「恐れません」と告白しても、結局は恐れて、恥ずかしい行動を取ってしまう。
 
それは私達にもあるかもしれない。
せっかく、苦しみの中で信仰を奮い立たせ、素晴らしい信仰告白をしても、弱いゆえに、あるいは恐れ混乱したゆえに、格好悪い事をしてしまう事が。
あの偉大なダビデでさえ、そこを通って来たのだ。
 
しかしダビデは、その事を隠さず、むしろその出来事を詩にして、聖歌隊に賛美させた。
なぜなら、ダビデは、彼を救い出して下さった主への感謝と喜びが、あまりに大きいために、自分の恥さえ喜んでさらして、主を賛美したかったからだ。
だからこそ主は、彼を高め、大きな栄誉を与えたのだ。
 
自分自身の、恥の黒歴史は、主が働く事によって感謝の歴史へと変わり、そして賛美へと変わる。
 
56:8 あなたはわたしのさすらいを数えられました。わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書に/しるされているではありませんか。
 
ダビデは弱さのゆえに信仰宣言した通りに凛々しく振る舞えなかった事を悲しみ、涙を流した。
しかし主は、私達・信仰者が、主のゆえに労苦したさすらいの日々を数えておられ、主の書物に記しておられる。
そして、主のゆえに労苦して流した全ての涙を、皮袋にたくわえておられる。
 
ダビデは主の前に凛々しく立ち続けられなかったゆえに流した涙が、無駄にはならず、なおも主により頼んだ故に、確信をいただく。
 
56:9 わたしが呼び求める日に、わたしの敵は退きます。これによって神がわたしを守られることを知ります。
56:10 わたしは神によってそのみ言葉をほめたたえ、主によってそのみ言葉をほめたたえます。
 
ダビデはこの詩篇で、合計、3度も「御言葉をほめたたえた」。(4,10節)
だから、御言葉が彼の盾となり、城壁となって、彼を守る事になる。
いかに敵地の真ん中で、敵に囲まれ、ひっきりなしに責めたてられるような、危機的状況であったとしても。
御言葉は、千万の敵を前にしても決して揺るがされない完全な防護壁である。
だからダビデは、この詩を、賛美で終わらせている。
 
56:11 わたしは神に信頼するゆえ、恐れることはありません。人はわたしに何をなし得ましょうか。
56:12 神よ、わたしがあなたに立てた誓いは/果さなければなりません。わたしは感謝の供え物をあなたにささげます。
56:13 あなたはわたしの魂を死から救い、わたしの足を守って倒れることなく、いのちの光のうちで神の前に/わたしを歩ませられたからです。
 
ダビデはまだ、死ぬような時ではない。
彼はこれから、王としてイスラエルを導き、主の御名を褒め称える賛美をたくさん作り、神殿を建て、主の栄光を多くの人々に伝え残して行かなくてはならないからだ。
主はダビデを守ったように、主は、全て主に従おうとする人々を、あらゆる災いから守られる。
 
ダビデがこの危機的状況から脱出した時に作った、もう一つの詩が、詩篇34篇である。
 
詩篇34篇表題「ダビデがアビメレクの前で狂ったさまをよそおい、追われて出ていったときの歌」
34:1 わたしは常に主をほめまつる(バラク)。そのさんび(テヒラー)はわたしの口に絶えない。
34:2 わが魂は主によって誇る(ハラル)。苦しむ者はこれを聞いて喜ぶであろう。
34:3 わたしと共に主をあがめよ(ガダル)、われらは共にみ名をほめたたえよう(ルーム)。
 
ダビデは、言葉を変えて色々な表現で主を賛美している。
彼のいのちが助け出された時の、彼の立ち居振る舞いが、いかに恥かしいものであっても、彼は真実な主を褒め称えたい故に、そして、多くの人々にこの主の素晴らしさを知ってほしいから、この詩を公開したのだ。
 
詩篇34:6 この苦しむ者が呼ばわったとき、主は聞いて、すべての悩みから救い出された。
34:7 主の使は主を恐れる者のまわりに/陣をしいて彼らを助けられる。
34:8 主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである。
 
あの敵地の只中、敵に囲まれたさ中にあっても、ダビデが守られたのは、目には見えない御使いが陣営をはってダビデを囲み、守っていたからである。
無数の御使いがダビデを守った理由は、ダビデが御言葉を3度もほめたたえ、御言葉を城壁としたからだ。
彼が信仰をまぜて御言葉を宣言し、御言葉を重んじたから、神はダビデを重んじ、御使いたちを遣わして彼を守らせたのだ。
 
主はすべて、御言葉を重んじ、御言葉をほめたたえる人に、御使いの陣営を遣わし、守ってくださる。
そして主は、主のゆえに労苦する信仰者の日々を数えておられ、その記録を主の書物に記しておられ、そして主のゆえに労苦して流した全ての涙を全て、たくわえておられる。
しかし主は、主のゆえでない涙、たとえば罪の楽しみができなかったゆえに流した涙や、騙しが通じなかったゆえに流した涙などは、数えてはおられない。
 
ダビデは常日頃、主により頼んでいたから、敵地の真ん中でも救われた。
しかし、常日頃から御言葉を軽んじている者は、いざという時に助けを求めても、何の答えも助けも無い。
 
箴言1:24 わたしは呼んだが、あなたがたは聞くことを拒み、手を伸べたが、顧みる者はなく、
1:25 かえって、あなたがたはわたしのすべての勧めを捨て、わたしの戒めを受けなかったので、
1:26 わたしもまた、あなたがたが災にあう時に、笑い、あなたがたが恐慌にあう時、あざけるであろう。
1:27 これは恐慌が、あらしのようにあなたがたに臨み、災が、つむじ風のように臨み、悩みと悲しみとが、あなたがたに臨む時である。
1:28 その時、彼らはわたしを呼ぶであろう、しかし、わたしは答えない。ひたすら、わたしを求めるであろう、しかし、わたしに会えない。
 
常日頃から主により頼み、どんな艱難の時代でも主から守られ、やがてダビデのように大いに用いられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
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