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メッセージ - 詩篇カテゴリのエントリ

御子であられるメシヤの詩篇(詩篇2篇)
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詩篇1篇は、幸いな人と、そうでない者の両方の道が示されたが、2篇も同じである。
この2篇は、王でありメシヤであられる御子キリストが預言されている。
作者は記されていないが、使徒4:25によるとダビデが作者である事が分かる。
すなわちダビデが、聖霊によってメシヤであられるキリストを見せられ、書いたものである。

2:1 なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事をたくらむのか。
2:2 地のもろもろの王は立ち構え、もろもろのつかさはともに、はかり、主とその油そそがれた者とに逆らって言う、
2:3 「われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう」と。

ここに「油そそがれた者」はヘブライ語ではמָשִׁיחַマーシーハ(メシア)、ギリシア語ではキリストである。
すなわち、メシヤ宣言節である。
しかしメシヤはなんと、国々や王達から相共に逆らわれる事が、予め記されている。
事実、ユダヤ人の指導者達やポンテオ・ピラト、ヘロデは、相共に集って油注がれたお方の「かせ」をこわし、「きずな」を解き捨てようと、油注がれたお方イエス・キリストに逆らい、彼を十字架につけた。

2:4 天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう。
2:5 そして主は憤りをもって彼らに語り、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせて言われる、
2:6 「わたしはわが王を聖なる山シオンに立てた」と。

父なる神は、人が共に集って油注がれたお方に逆らうのを、あざけられる。
そして彼らに恐れを臨ませ、メシア・イエス・キリストこそ王であると宣言される。

2:7 わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。

この7節は、イエス様がヨハネからバプテスマを受けられた時、父なる神が宣言された言葉である。

マルコ1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
 1:10 そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとのように自分に下って来るのを、ごらんになった。
 1:11 すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。

この場面は、いわばイエス・キリストの「戴冠式」と言って良い。
この時、父・御子・聖霊が、共に意見一致し、御子キリストこそ、父なる神と聖霊が認証された「御子」であると宣言した。
まさに、次の御言葉のとおりである。

1ヨハネ5:7(永井訳) そは天に於て證をなし給ふ者は、父と言と聖靈と三つなればなり。また此等三つの者は一におはします。
5:8 また地に在りて證をなす者は、靈と水と血との三つなり。されど三つの者は一のためなり。
(ネストレ・アーラントを底本としている多くの聖書は、ここの父子聖霊の一致の記述が、除外されてしまっている。ステファヌス・テキストを底本とする永井訳や、テクストゥス・レセプトゥスを底本とするKJV、NKJVはそうではない。私はNKJV翻訳を監修したゲイリー・コーヘン博士の設立したコーエン・ユニバーシティで学び、また私を導いて下さった聖霊の促しもあるため、テクストゥス・レセプトゥス底本を支持する。)

その時、「天が裂けて(スキゾー)」とある。スキゾーは、イエス様が十字架上で息を引き取られる時、聖所と至聖所とを仕切る幕に対しても起きた。
至聖所、その立方体の空間は、地上において唯一、神の臨在がある「天国」だ。黙示録において示される天国は、縦横長さが1万2千スタディオンの立方体である。
父なる神が天を裂いて、イエス・キリストを通して、天国への道を開いて下さったのだ。

2:8 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を/嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。
2:9 おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを/打ち砕くであろう」と。

御子キリストは今、愛と憐れみ、赦しに富みたもう、優しいお方として現れている。(イザヤ42:1-5)
しかし、あくまで逆らう事を止めなかった者達に対しては、力強い裁き主として来られ、鉄の杖で彼らを粉々に砕かれる。(黙示録2:27、黙示録19:15)

2:10 それゆえ、もろもろの王よ、賢くあれ、地のつかさらよ、戒めをうけよ。
2:11 恐れをもって主に仕え、おののきをもって
2:12 その足に(原文に「足に」は無い)口づけせよ。さもないと主は怒って、あなたがたを道で滅ぼされるであろう、その憤りがすみやかに燃えるからである。すべて主に寄り頼む者はさいわいである。

幸いな人とは、恐れおののきつつ、御子キリストに「口づけ」する者である。
「口づけ」は、ヘブライ語でナシャク、口づけする他に(武器などを)装着する意味もある。
つまり御子キリストに口づけする人、御子キリストへと装着される人こそ、幸いな人である。

以降、「幸いな人」のスタンスに立つ者が受ける詩篇2篇の恵みを見ていきたい。

2:1 なにゆえ、もろもろの国びとは騒ぎたち、もろもろの民はむなしい事を「たくらむ(הָגָהハガー)」のか。

幸いな人は、この逆を行く。
すなわち、むなしい事を「つぶやく(ハガー)」事を、しない。幸いな人はむしろ、主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえ(トーラー)を口ずさむ(ハガー)。(詩篇1:2)

御子キリストに従う者は、しもべの姿を持つ。
その人は聖霊に導かれて志を立てられ、それに従い、御心のままに事を行って行く。

ピリピ2:13 あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。
2:14 すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。

災いな者、鉄の杖で粉々に砕かれる者とは、主に向かって立ち構え、共に主と油そそがれた者とに逆らって「われらは彼らのかせをこわし、彼らのきずなを解き捨てるであろう」と言う。
幸いな人は、その逆である。イエス様は言われた。

マタイ11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

幸いな人とは、喜んでイエス様のくびきを共にする人。
その人は、あらゆる重荷を負う労苦の中でも、安息を得、魂に休みが与えられる。

2:7 わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。

御子キリストは、全能の父なる神の御子として来られ、王として就任されたが、地上においての彼の生き様は、「しもべ」の有様であった。
イエス様はポンテオ・ピラトに対して言われた。

ヨハネ18:36 「わたしの国はこの世のものではない・・・事実、わたしの国はこの世のものではない」。

私達は、この地上での王となって好き放題にする事を求めるのではない。
キリストが歩まれたのに習い、本質においては父なる神の子であり、王でながら、しかし地上においては「しもべ」の姿で歩むべきなのだ。
だから使徒たちは祈る時、「しもべ」という言葉を多用したのだ。

使徒4:24 一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。
 4:25 あなたは、わたしたちの先祖、「あなたの僕ダビデ」の口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、/『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、/もろもろの民は、むなしいことを図り、
 4:26 地上の王たちは、立ちかまえ、/支配者たちは、党を組んで、/主とそのキリストとに逆らったのか』。
 4:27 まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた「聖なる僕」イエスに逆らい、
 4:28 み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。
 4:29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、「僕たち」に、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。
 4:30 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、「聖なる僕イエス」の名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。
 4:31 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。

しもべイエス様の姿にならい、しもべとして聖霊を求め、しるしと奇跡を求める時、聖霊に満たされ、しるしと奇跡をもって、キリストのわざを為す事を得られるのである。
さらに、しもべとして歩む人には、次の特権も与えられる。

2:8 わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を/嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。
2:9 おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを/打ち砕くであろう」と。

世の中の王や権力者達は、自分の欲するままに支配し、権力を振るうが、私達はそうではない。
自分の欲するままにではなく、キリストのしもべに与えられる聖霊のおもむくままに、与えられる土地において、与えられる権威の座において支配し、悪魔サタンのわざを鉄の杖で粉々に砕き、病や悪霊を追い出すのである。

幸いな人とは、キリストに口づけし、しもべとなって、世にキリストの統治をもたらす者であり、災いな人とは、キリストのくびきを投げ捨て、自分の欲するままに生きようとする者である。

主の教えを喜びとする者の幸いと、悪しき道に留まり続ける者の災い(詩篇1篇)
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詩篇全体を流れるアシェルの概念について、二回に渡って学んだ。
今回は、詩篇1篇の全体から、幸いな者の道と災いな者の道とを学びたい。

1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。

詩篇1篇は、幸いな人(アシェルな人)と、その対極にある「悪しき者」の、両極端な双方の道が示されている。

人は何かと、自分はそんなに悪人ではない、と思っている。それは、物事を自分にとって都合よく見る、自己正当化という色眼鏡がかかっているからであり、ほとんどの人は、自分がそのような眼鏡をかけているという事さえわかっていない。
その色眼鏡がある事が分からないために、物事を正しく見る事ができず、なぜこんなに自分だけが災いにばかり遭うのか、なぜ人は自分にだけこんな態度を取るのか、という事が分からない。
この色眼鏡を取るには、どうすれば良いか。それは、絶対的に正しいものさしで、自分を測る必要がある。
その正しいものさしこそ「主のおきて」、すなわち、神の御言葉である。
だから、主のおきてを「喜び」とし、昼も夜もそのおきてを口ずさむ人こそ、真に自分を正しく測り、真に正しい道、すなわちアシェルな道が分かり、そこへと進んで行く事が出来る「幸いな人」なのである。

1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

主の御言葉を「喜びとする」事が肝心である。
たとえ、御言葉を口ずさむ事を強いられて、嫌々ながらやっているとしても、その通りに守り行うなら、その祝福には与れる。
しかしそれでは、心底楽しい道とは言えない。
愛する人からの手紙は喜びをもって読むのと同じように、主を愛する愛をもって為すなら、口ずさむ事も守り行う事も喜びとなり、ますます栄えて行くものである。

人は何かと、流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える者になりたいと願うが、そうなるためのコツとして、ヨシュア記にも全く変わらない事が記されている。

ヨシュア記1:7 ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。
1:8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。

こちらにも、行く所で勝利を得るコツ、何をしても栄えるためのコツが書かれている。
すなわち、主から命じられた御言葉を、昼も夜も口ずさみ、そこに記されている事を守り行う事。
これは、何をしても栄えるための普遍的な法則なのだ。

御言葉を口ずさむ事、それがすなわち、御言葉を食べる事である。
耳や目から頭に入った言葉を、口で声に出して宣言し、自分の鼓膜を震わせ、骨を震わせ、脳に、心に、たましいに、そして霊に、行き届かせる。
それを反復すると、反復した言葉が心に、脳に、たましいに、霊に定着し、その時、完全に「食べた」という。
ごはんを食べて肉体が体験することと似た事が、御言葉を食べると起きるのだ。

人は食べる行為を、1日3回する。そうしないと元気が出ないからだ。
だから御言葉を口で宣言しないなら、霊的飢餓状態に陥ってしまう。それだから、昼も夜も、と教えられているのだ。

エレミヤも言っている。
15:16 わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもって/となえられている者です。
15:17 わたしは笑いさざめく人のつどいに/すわることなく、また喜ぶことをせず、ただひとりですわっていました。あなたの手がわたしの上にあり、あなたが憤りをもって/わたしを満たされたからです。

エレミヤは、御言葉を食べたら、それが喜びとなり、心の楽しみとなった。
その結果、「万軍の神、主の名をもってとなえられている者」(KJV: I am called by thy name, O LORD God of hosts)すなわち、「主の御名がつけられた者」となった。

主の御名がつけられ、主の御名をもって人々から呼ばれる。
それはなんと幸いな事であろう。
申命記28章に、祝福と呪いの極端な二分化が行われる様が記されているが、その分岐点は、御言葉を聞いて守り行うか、それとも、御言葉に聞かず御言葉を守り行わない、という分岐であった。

主の声によく聞き従い、御言葉を守り行うならば、神である主は諸国民の上に立たせ、町の内でも畑でも祝福され、身から生れるものも、地に産する物も、家畜の産むものは祝福され、かごもこねばちも祝福され、はいるにも出るにも祝福され、敵に対しては圧倒的に勝利し、倉にも手のすべてのわざにも祝福が下る。(申命記28:1-7)
御言葉を聞いて守り行う者には、確かにこの誰もがうらやむ祝福が与えられるが、何よりの祝福は、エレミヤが得たとおり「主の御名がつけられる事」である。

申命記28:9 もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。
28:10 そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。

主の名をもって唱えられる事、それはすばらしい幸いである。
女性が男性の家へ嫁いで行く時、姓が嫁ぎ先に変わるが、私達は、イエス様の御前において全て「女」である。
もし私達が、主の御言葉を前にして自分の「やりたい」を降ろし、御言葉に記されている事のほうを選択して、御言葉の通りに「する」なら、主を「主人」としているわけであり、主に嫁いだ者、主の御名がつけられた者、主の御名で唱えられる者となり、そうなるのであれば、すなわち私達を守り養って下さる責任は、全て主へと帰属し、主の富はすべて私達も共同で相続する権利がある。
しかし、もし主の言葉より、自分の「やりたい」のほうを優先させるなら、その人は主を主人としていないわけであるから、その人は主の保護は得られず、自分の腕っぷしひとつでやっていかなければならず、主の栄光の富の相続には与れない。
その人は、水路のそばに植えられる特権に与れず、何をしても栄えず、申命記28:15節以降の全ての呪いを受ける覚悟をしなくてはならない。

1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。

「悪しき者」は、KJVではungodly、すなわち、神なき者、神を神としない者である。
神を神としない者は、風が吹き飛ばすもみがらのようである。パレスチナでは今でも、実ともみ殻を振り分けるのに、風を用いているが、もみ殻は見事に吹き飛ばされ、実は蔵へおさめられる。

神を神としない者は、主の会衆の中に居続ける事が出来ない。
主の会衆が、喜んで賛美したり、祈ったり、御言葉に養われるのに、その楽しみが理解できず、むしろ心底ひまな、つまらないものとして見るからだが、もしその者が、主の会衆に害を加えるようなら、主がアカンを吹き飛ばしたように、その者は主の会衆から吹き飛ばされて行く。(ヨシュア記7章)
その様は、箴言5章にも記されている。

箴言5:3 遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
5:4 しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
5:5 その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
5:6 彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。

箴言5章は一見すると、「女性には気をつけなさい」と男性に向けて戒めているかのように見えるが、ここは当然男性のものだけでなく、女性も含めた主の民全般に対する警告である。
なぜなら私達・主の民は、主イエス様に対しては、嫁いでいくべき花嫁ではあるが、世に対しては正しく支配し、サタンに対しては打ち負かして行くという、「男」の立ち位置だからである。
サタンは、主の民に対し、遊女のくちびるのように、甘言でたぶらかして来ようとする。

5:7 子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。
5:8 あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。

主は言われる。わたしの口の言葉から離れ去ってはならない、と。
サタンの遊女のくちびるに惑わされたりして、主の御教えの外へと行ってはならない、と。
遊女のくちびるから出る言葉は甘く、楽しそうに、ラクそうに見えても、「その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく」のだ。

5:9 おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
5:10 おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。

主の民であるべき者が、主の教えから離れて、遊女の言葉に、すなわち世の言葉、サタンの言葉にうつつを抜かしているなら、どんどんと誉れが、資産が、労苦の実は、他人に渡されて行ってしまう。
それでもなお主の教えに帰らないなら、その人に終わりが来る。

5:11 そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
5:12 言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
5:13 教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
5:14 集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。

このように、主の教え、主の御言葉から離れる人は、会衆のただ中にあって、最悪のままの状態を過ごし、それでもなお立ち返らないなら、最終的にその人は、集会から絶たれてしまう。

そのような道は心して避けて通り、主の教えを喜びとし、昼も夜も口ずさむ事によって、御言葉を毎日「食べ」、主の御名がつけられたアシェルな者としての幸いを得、そこから逸れる事の一切ない皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

アシェルな人になるために(詩篇1:1-3)
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 1:1 幸い(アシェル)なことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

前回、この「幸い(アシェル)な人」、な人が得る幸いとはどのような幸いであるのかを学んだ。
今回は、そのアシェルな人になるには、どうすれば良いかを学びたい。

アシェルの祝福は、「悪者のはかりごとに歩まず」「罪人の道に立たず」「あざける者の座に着かない」という、3つの「ない」の人に与えられる。アシェルな人の辞書には、それら3つは、存在しない。
アシェルな人は、そうした「悪いわざ」から気をつけて身を引いて行く。
彼らは、一体何が悪者のはかりごとで、罪人の道で、あざける者の座であるのか、という「分別」ができる。
どうすればそのセンスが磨かれて行くのか。

 1:2 まことに、その人は主のおしえ(トーラー)を喜びとし、昼も夜もそのおしえ(トーラー)を口ずさむ(ハガー)。

ハガー(הָגָה)は元々は「つぶやく」であるが、そこから「思い巡らす」「学ぶ」、すなわち「咀嚼する」という意味になる。
KJVでは、「meditate day and night」と書いてある。
主のトーラー(律法)を、喜びをもって、昼も夜も口ずさむ(ハガー)。
御言葉を口ずさむ事が、すなわち、きよい御言葉を食べる事であり、そのような人はますます、アシェルなセンスが磨かれていく。

そのきよさを身に着けていくためには、神が「きよい」とされた動物がどんな性質であるのかを調べる事が有益である。

レビ記11:1 主はまたモーセとアロンに言われた、
11:2 「イスラエルの人々に言いなさい、『地にあるすべての獣のうち、あなたがたの食べることができる動物は次のとおりである。
11:3 獣のうち、すべてひずめの分かれたもの、すなわち、ひずめの全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。

律法上「きよい」とされている牛や羊の胃袋は4つある。
食べた草を、1胃と2胃の反芻胃を使い、胃袋から口に戻して噛み返しを繰り返しつつ、分解吸収している。 (この1胃をミノ、2胃をハチノス、3胃はセンマイ、4胃をギャラと呼ぶ。)
これが、主への良き捧げ物となれる性質である。
私達も、神の言葉を折を見ては取り出して反芻(ハガー)し、御言葉をよく消化・吸収して行くなら、主への良き捧げ物となる事ができる。

レビ記11:4 ただし、反芻するもの、またはひずめの分かれたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、らくだ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。
・・・
 11:9 水の中にいるすべてのもののうち、あなたがたの食べることができるものは次のとおりである。すなわち、海でも、川でも、すべて水の中にいるもので、ひれと、うろこのあるものは、これを食べることができる。
 11:10 すべて水に群がるもの、またすべての水の中にいる生き物のうち、すなわち、すべて海、また川にいて、ひれとうろこのないものは、あなたがたに忌むべきものである。

ひずめやうろこは、自身と世との間に境界を引き、世の汚れから自身を守るものである。
主はそれを持つ生き物を、きよい性質の一つとされた。
私達も、世の汚れに対して一線を画すこころざしを持つべきである。

11:20 また羽があって四つの足で歩くすべての這うものは、あなたがたに忌むべきものである。
11:21 ただし、羽があって四つの足で歩くすべての這うもののうち、その足のうえに、跳ね足があり、それで地の上をはねるものは食べることができる。

後ろ足や羽で地を跳躍する、あるいは、ひれで泳ぐ生き物は、水底や地にいつまでも留まっていない。
私達も、地上のものにいつまでも留まらず、この世の事を思わずに天を思うなら、それはきよい性質である。
それにひきかえ、サタンは「一生腹ばいで歩き、ちりを食べる」「地を行き巡り、そこを歩き回る」性質だ。(創世記3:14、ヨブ2:2)

地に属し、世に属し、サタンに属するものに対しては一定の境界線を置き、自分自身をそれらから隔てを置く。
そして自分自身は、きよい御言葉を昼も夜も反芻する。
私達がそうして行くなら、私達も神に受け入れられる、きよい生きた供え物として神に捧げる事が出来るのだ。

レビ記11:4 ただし、反芻するもの、またはひずめの分かれたもののうち、次のものは食べてはならない。すなわち、らくだ、これは、反芻するけれども、ひずめが分かれていないから、あなたがたには汚れたものである。

反芻する動物であっても、ひずめが分かれていないものは「汚れている」とされる。地に接地している状態で反芻しても、その反芻は無駄になってしまうのだ。
同様に、いくらテフィリンやハガーをしたとしても、世の事・肉欲を思い巡らしながら、あるいは、不平不満を握りしめながら反芻するとすれば、それは結局、災いで有害なものをよく咀嚼し消化吸収してしまう事になり、きよくなるどころか、ますます汚れてしまう。
もし、テフィリン続けていても、全く人格や状況が変わらない、という人がいるなら、その人は世に接地した状態で反芻していなかったかを、よく思い返すべきだ。
妬みや怒り、罪定めする気持ちなどの汚れたものを握りしめたままであるなら、その人は、悪者のはかりごとに歩み、罪人の道に立ち、あざける者の座に着いたままの状態で、その状態でいくらテフィリンしても、無駄なのだ。

祭司である者は、自らを清め、世俗と分離する。
レビ記10:9 「あなたも、あなたの子たちも会見の幕屋にはいる時には、死ぬことのないように、ぶどう酒と濃い酒を飲んではならない。これはあなたがたが代々永く守るべき定めとしなければならない。
10:10 これはあなたがたが聖なるものと俗なるもの、汚れたものと清いものとの区別をすることができるため、
10:11 また主がモーセによって語られたすべての定めを、イスラエルの人々に教えることができるためである」。

キリストにあって祭司とされた私達も、神が「汚れている」としているものは摂らず、御言葉を取り入れ、世俗の民と区別する事によって、「祭司の民族」として、全人類を神へと導く務めを為すのだ。
そのような人にこそ、以下の幸いが約束されている。

 1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

キリスト者の中には、「信仰の先取り」と言ってこの3節を盾に取り、「わたしは水路のそばに植わった木である事を感謝します」「時が来ると実がなり、葉は枯れず、何をしても栄える者である事を感謝します。」と祈る人もいるかもしれない。
もちろん、御言葉を信じて告白するのは良いが、聖書に記されている祝福には、前提条件があり、その前提条件を満たした人のものになるという事を忘れてはならない。
ここの前提条件とは、すなわち、1節と2節である。

1ペテロ1:13 それだから、心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。
1:14 従順な子供として、無知であった時代の欲情に従わず、
1:15 むしろ、あなたがたを召して下さった聖なるかたにならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なる者となりなさい。
1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。

自分自身を世とは区別し、聖なる御言葉をいつもハガーし、ますますきよい者とされ、神に捧げられ御国のために有用に用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

アシュレイ! ハ イシュ : 何と幸いな人だろう!(詩篇1:1)
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 1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。

詩篇の最初の言葉は「アシュレイ・ハ・イシュ」、アシュレイは「אֶשֶׁרエシェル(祝福、幸い)」の間投詞(感嘆詞)、ハは冠詞で、イシュは「人」の意味である。
ヘブライ語で祝福と言えば「バラク」(創世記12:3、民数記6:24など)であるが、バラクは祭司が宣言する「根本的な祝福」で、エシェルのほうは、生き方の現場における祝福、すなわち、健康や富、人気といった祝福で、多くの人が、このエシェルの祝福を求める。
つまり詩篇は「何と(健康や富、人気といった面での)幸いな、祝福された人だろう!」という感嘆の言葉で始まる。
このエシェルの祝福は、「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かない」という、3つの「ない」の人である。
まずは、このאשׁרという言葉が、どれ程幸いな言葉であるのかを研究し、そうして、詩篇1篇で記された幸いな人、すなわち御言葉を愛し昼も夜も口ずさむ人が、どれほどの幸いを得るかを学びたい。

אשׁרというヘブライ語からは、木の名前としてのエシェル(אֵשֶׁל)、人(部族)の名前としてのアシェル(אָשֵׁר)が派生する。
まずは、木としての「エシェルאֵשֶׁל」について。

創世記21:33  アブラハムはベエルシバに一本の「ぎょりゅうの木(אֵשֶׁלエシェル)」を植え、その所で永遠の神、主の名を呼んだ。

この箇所は、アブラハムが100歳でイサクを産んで後、大いに祝福されて行くのを見て恐れたペリシテの王アビメレクが、アブラハムに同盟を求めて来た場面である。
その時アブラハムは、アビメレクのしもべ達が奪い取った井戸の事で抗議した。
アビメレクはその井戸をアブラハムに返す際、アブラハムは雌の子羊を七頭、取り分けた。

創世記21:29  アビメレクはアブラハムに言った、「あなたがこれらの雌の小羊七頭を分けて置いたのは、なんのためですか」。
21:30  アブラハムは言った、「あなたはわたしの手からこれらの雌の小羊七頭を受け取って、わたしがこの井戸を掘ったことの証拠としてください」。
21:31  これによってその所をベエルシバと名づけた。彼らがふたりそこで誓いをしたからである。

ベエルは井戸、シェバは数字の七あるいは誓いという意味である。
それでその場所を、ベエル・シェバという名前をつけて、アブラハムはそこに、ぎょうりゅう(エシェル)の木を植えた。
このエシェルの木「ぎょりゅう(御柳)」は、水が少ない所でも育つ。
イスラエルが再建国され、入植したばかりの当時、そこは砂漠地帯だったが、彼らは先祖アブラハムにならってこの木を植えたところ、緑化に成功し、大きく成長し、今はネゲヴ沙漠最大の都市となって、『ネゲヴの首都』と呼ばれることもある。
今もそのベエル・シェバには、1000年を超えるエシェルの木があり、また1000年を超える古井戸からは、今も水が出続けている。

続いて、人(部族)の名前としてのアシェル(אָשֵׁר)について。
アシェルは、ヤコブの妾・レアの女奴隷ジルパがヤコブに二番目に産んだ男の子である。

創世記30:13 そこでレアは、「わたしは、しあわせです。娘たちはわたしをしあわせな者と言うでしょう」と言って、名をアセルと名づけた。

アシェルは女奴隷の子であったが、イスラエルの部族としては、モーセから大きな祝福を受けた。

申命記33:24  アセルについては言った、「アセルは他の子らにまさって祝福される。彼はその兄弟たちに愛せられ、その足を油にひたすことができるように。
33:25  あなたの貫の木は鉄と青銅、あなたの力はあなたの年と共に続くであろう」。

アシェルにはモーセから4つの祝福が宣言された。
1つ目は「他の子らにまさって」の祝福(バラク)、2つ目は「兄弟たちに愛せられ」る祝福である。
アシェルに会うと、兄弟たちが幸せになり、色々と事がうまく進む。彼と出会うと楽しく、彼が祝福されると、妬まれるのではなく心から「よかったね」と賞賛される。
ヨセフは兄弟から妬まれたが、アシェルの場合はそうではない。このようなアシェルの幸いは、詩篇1:2のように、御言葉を昼も夜も口ずさむ人のものである。

その逆は、悪者のはかりごとに歩み、罪人の道に立ち、あざける者の座に着く人である。
その人が行く所では、物事がうまく行かなくなり、それで人々からは嫌煙され、彼が来ると、楽しかった場が曇ってしまい、彼が栄えると、人々がうんざりする。

3つ目の祝福は、「その足を油にひたす」祝福である。油は繁栄(申命記8:8)、喜び(エレミヤ31:12)のしるしとされ,油が欠乏することは悲哀を表した(黙示録6:6)。
油はパンの素材であり、灯火用の燃料であり、王や祭司を聖別するものであり、医療用の薬であり、また化粧のために頭や皮膚に塗り、捧げ物にもなった。
その油が足に浸されるまでの祝福とは、どれほどの祝福だろうか。

4つ目の祝福は、「貫の木は鉄と青銅」という祝福、すなわち、主がアシェルの「守り」となって、サタンや泥棒など、災いをもたらす者を立ち入らせない祝福である。

これほどの幸い、すなわち、アシェルの祝福を受ける人は誰か。
それが詩篇1:1に記されている。すなわち、悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった人、そして、御言葉を昼も夜も口ずさむ人、つまり御言葉暗唱(テフィリン)する人である。

ユダヤ人は好んで詩篇を暗唱し、そして彼らは、実際的な祝福を享受している。
ユダヤ人は世界人口の0.25%しかいないのに、ノーベル賞の20%を獲得している。
また彼らは、頭脳が祝福されているので、アメリカの優良大学は、ユダヤ人を制限した程だ。なぜなら制限しないと、受験で上位点数を取るのはユダヤ人なので、大学がユダヤ人しかいなくなってしまうからだ。

彼らがそこまで祝福されているのは、彼らは4歳からテフィリン教育により御言葉暗唱を始め、日々、昼も夜も口ずさみ、そうして13歳の成人式(バル・ミツバ)までには、モーセ五書を丸暗記しているからだ。
このように、御言葉を昼も夜も口ずさむ人は、他の人々にまさって祝福され、人々から妬まれずに愛され、富において祝福され、そしてあらゆる災いや敵から守られるのだ。

詩篇概要(詩篇1:1)
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本日より、詩篇の講解説教に入る。

詩篇は、ユダヤ的な分類では、ヨブ記と同様「諸書(ケトゥビーム)」に、また異邦人の分類では「詩歌・文学」に当たる。
ヘブライ語ではテヒリーム、すなわち、テヒラー(賛美)の複数形で、「賛美たち」がその意味する所である。

実際、イスラエルでは、ダビデの時代より、礼拝が捧げられる時には、色々な種類の楽器によるオーケストラと聖歌隊で成る賛美チームが編成され、詩篇の歌詞を色々な”調べ(メロディ)”に合わせて、栄光の主へと賛美が捧げられた。
詩篇の中に、「セラ」「マスキール」「ミクタム」など、音楽の指示をする言葉であろう特有の語が登場し、また、「ゆりの花のしらべ」(詩篇45篇)や、「マハラテのしらべ」(詩篇53篇)、「遠き所におる音をたてぬ鳩のしらべ」(詩篇56篇)など、歌詞は残っていても現在は失われてしまっているメロディも表記されていて、当時は一体どんな演奏でどんなメロディで賛美が捧げられていたのだろうと、興味をそそられるものがある。
しかし、それらがどのようなものであったのかを調べたり、「その通りしなくては」とこだわる必要は無い。なぜなら詩篇には、何度も「新しい歌を主に向かって歌え」と記されており、実際に現代、多くの新しい歌が作られ、礼拝の都度、主に捧げられているからである。

詩篇は、現在の形へと編纂し終わるまで、1000年以上はかかっている。
最も古い記者はモーセ(詩篇90篇)で、新しい所では、バビロン捕囚の時代にユダヤ人がバビロンの川のほとりで作った嘆きの詩もある(詩篇137篇)。
表題の中で、作者の名前が明記されている所では、ダビデが73回、アサフが12回、コラの子たちが11回、ソロモンが2回、エズラフ人ヘマンが1回、エズラフ人エタンが1回、モーセが1回である。
色々な時代の、神とともに歩んだ信仰の先輩たちの信仰の表明をあらわした詩集が、この詩篇なのだ。


詩篇の構造は、モーセ五書(トーラー)と同じく、五巻から成り立っていて、ヘブライ思考的に見るなら、詩篇は「トーラーの注釈」とも言える。
すなわち、第1巻(1‐41篇)は、創造と人のコンセプトが記されており、ここを読むと創世記が分かる。
第2巻(42‐72篇)は、解放と贖いについての言葉があり、トーラーの出エジプト記の内容に相当する。
第3巻(73‐89篇)は、聖所と礼拝に関する事が記されており、レビ記の内容に相当する。
第4巻(90‐106篇)は、さまよいと苦難が記されており、まさに民数記の内容である。
第5巻(107‐150篇)は、律法と賛美が記されており、申命記の内容である。

トーラー、すなわちモーセ五書は、ユダヤ人の礼拝・生活法規が記されているが、それを個人個人の生活の場面場面で適用して行くために、それぞれが個人的な祈りをもって神と親密な交わりをするために編纂された形式である。
すなわち詩篇は、トーラーを生活へとエンバディング(具現化、体現化)するものであり、色々な時代の信仰の先人たちが、それぞれ困難な状況で、あるいは喜びの状況の中で、どのような心境で神と交わりを持ち、いかなる言葉で神と関わってきたかを示している。
それだから、現代を生きる私達も、これを神との関わり方のモデル、祈りのモデルとし、あるいは賛美のモデル、神との関わり方のモデルとするために、大いに用いるべきである。


詩篇の直前の書・ヨブ記も、詩篇と同様に詩歌文学に分類され、3章から最終章まで詩文体によって記されているが、ヨブ記の詩文形式の議論を、そのまま自分の祈りの言葉にしている人は、ほぼいないだろう。
詩篇はギリシア語で「プサルモイ」、すなわち「心を動かすもの」であるのに対し、ヨブ記の詩文形式で記された議論は、人を感動させないどころか、うんざりさせる事が多い内容だ。
なぜなら、その中身がどんなに崇高に見えたとしても、所詮は人の知恵や哲学に基づく議論であり、そして何より、そこには主エホバの御名が一切無いからだ。実際ヨブ記3章から37章の長い議論の中で、唯一、主エホバの御名が出てくるのは、12章9節のヨブの言葉の、たった1回なのだ。
主の御名の無き人間同士の議論は、人をうんざりさせるものだ。

ヨブはしかも、創造主に対し、詩文体を用いて”崇高に”文句を言い、自分が正しくて、主のほうが間違っている、と、延々と主張しているのだ。
もしヨブのような祈り、すなわち「わたしは悪くない、創造主が悪い」という祈りを延々とする人がいるとするなら、その人はヨブのように、どんどん怒り心頭して行き、最後には、圧倒的な主の取り扱いを受け、砕かれる。そうして悔い改めてから、ようやく幸いを得るのである。

ユダヤ人は詩篇を好んで暗唱(テフィリン)し、暗唱した御言葉に、自分の信仰を混ぜ込んで宣言し、それをすなわち祈り(テフィラー)としているため、彼らは多くの祝福を得ているのだ。
もし人が、ヨブのように、自己義を主に向かって主張する祈りをするなら、打ち砕かれる事が待っている。しかし詩篇で祈っていくなら、ユダヤ人のような知恵の祝福、富の祝福、繁栄の祝福が待っている。


詩篇をギリシア思考的に分類するなら、次のようになる。
〇身と尊崇の歌 共同体の嘆きの歌 2Δ了輅咫´じ朕佑涼欧の歌 ジ朕妖な感謝の歌 神の国に関する詩篇 Т脅佞販蘿劼了輅咫´┣い改めの詩篇 知恵と律法を称賛する詩篇 とりなしの詩篇 のろいと報復の詩篇 (実用聖書注解より)

しかし私達は、詩篇を読む時、単なる、遠い国の、古代の詩歌文学として読むのではなく、今この時代、私達もこの詩篇の言葉をもって賛美し、礼拝の場面で主に向かって感謝と喜びの賛美をささげるなら、あの時代に起きたごとく、主は偉大な栄光を表して下さる。
もし、詩篇のある箇所に記されているような困難な状況にあって、その時、この詩篇の言葉をもって祈り、また、主に在る兄弟姉妹と心を合わせて共に互いに祈りあうなら、主はあの時代、あの聖徒たちに大いなる助けの御手を差し伸ばしてくださったように、私達も主の偉大な御腕によって助けられる経験をする。
もし自ら罪を犯してしまい、それによって苦々しい困難な状況に陥ってしまった場合、いかに祈り、対処し、いかに主との関係を取り戻せば良いか、という道が示されている。
その他にも、この詩篇の言葉をもって、今の時代の王や権威者のため、国のために執り成し祈る事もできるし、いのちを阻害する神の敵に対し、呪いを宣言するする事もできる。
このように、150篇という膨大な量の祈りの言葉、賛美の言葉、執り成しの言葉、感謝の言葉は、私達信仰者にとって、実に色々な場面に適用できる祈りのガイドであり、主との関わり方のガイド、人生のガイドとして、大いに役立てる事が出来るのだ。

そして詩篇と関わる上で、忘れてはならない事は、イエス様が言われた次の言葉である。

ルカ24:44 「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。
24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

すなわち、詩篇も、トーラーも、預言書も、全てイエス・キリストについて書かれているのだ。
実際、詩篇2篇では世の指導者や王たちがともに集って「油注がれた者(ヘブライ語:メシヤハ、ギリシア語:キリスト)」に逆らう事が記されており、詩篇22篇はまさしく十字架のイエス様の場面が正確に記されている。
ダビデもまた、イエス様について言っている。

使徒2:24 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。
2:25 ダビデはイエスについてこう言っている、/『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、/わたしの右にいて下さるからである。
2:26 それゆえ、わたしの心は楽しみ、/わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、/あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない/であろう。
2:28 あなたは、いのちの道をわたしに示し、/み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであ/ろう』。

ダビデは、将来来るべきメシヤ、すなわちキリストをほめたたえ、詩篇を幾つも書いた。

マタイ22:42 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。
22:43 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。
22:44 すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。
22:45 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。

私達が心と知性と力を尽くして、詩篇の内容で主に祈り、賛美して行く時、御言葉が私達の生活へと具現化(エンバディング)して行く。
そうして神との関係がますます濃厚になり、そして私達も知恵の祝福、富の祝福、繁栄の祝福が与えられて行く。

まさに詩篇1篇にある通りである。

詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。

詩篇は、最初のヘブライ語は「アシュレイ・ハ・イシュ」、訳すと「幸いな人」である。
幸いな人の道、何をしても栄える道を歩むために、詩篇のことばを豊かに心に住まわせ、いつも口ずさむ皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

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