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メッセージ - ヨブ記カテゴリのエントリ

旧約では開示されていなかった、人の死んだ後の有り方(ヨブ記14章)
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14:1 女から生れる人は/日が短く、悩みに満ちている。
14:2 彼は花のように咲き出て枯れ、/影のように飛び去って、とどまらない。
14:3 あなたはこのような者にさえ目を開き、/あなたの前に引き出して、さばかれるであろうか。

ヨブはさらに、神に向かって疑問と願いを投げかける。
こんな花のようなはかない自分にさえ目を留めて徹底してさばかれるのですか、と。

14:4 だれが汚れたもののうちから清いものを/出すことができようか、ひとりもない。

イザヤも告白している。自分はくちびるの汚れた民の間に住んでおり、くちびるの汚れた者だ、と。
そしてヨブ自身、自分が汚れた者であり、どう考えても、どう転んでも、自分の中から良いものをひねり出す事は出来ない。
今まで多大な努力をしたけれども出来なかった、と。
ヨブのような義人でさえ、そうなのだ。人間、誰もが、どう転んでも罪の中にある。
しかし神は、この時ヨブが考えているような、すなわち、人間の罪を事細かにつまんで、裁いて、苦しみのまま放置されるようなお方ではない。
神は実に、その、人の罪と死という問題を扱うために、ひとり子キリストをお与えになる程の愛をもって愛し、創世記3章から黙示録20章までの膨大な贖いと救いのご計画を発動されたのだ。
それは、信じる者が誰一人として滅びる事なく、永遠のいのちを持ってほしいと、願っておられるからである。

14:5 その日は定められ、/その月の数もあなたと共にあり、/あなたがその限りを定めて、/越えることのできないようにされたのだから、
14:6 彼から目をはなし、手をひいてください。そうすれば彼は雇人のように、/その日を楽しむことができるでしょう。

ヨブは願っている。限り有る人生、死んだらおしまいなのだから、せめて、罪有る人間にそんなに目を留めず、手を引いて下さい、かまわないでください、そうすれば、人はそのはかない人生の中、はかない楽しみができるでしょう、と。
あいにく聖書は、そのようなはかない現世利得を提供して、せいぜい生きている間は楽しみなさい、というようなものではない。
ヨブは、私から目をそらして下さい、かまわないでください、と言ったが、とんでもない。
イエス様の十字架の場面で、二人の強盗も刑罰を受けていたが、その内の一人の言葉に注目したい。

ルカ23:40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
23:41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

この強盗の人生は、ヨブに比べ、圧倒的に義人とは遠い生き方をして来た、にもかかわらず、彼はその日、イエス様と共にパラダイスに行った。なぜだろうか。
それは、強盗はイエス様に「御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言った。
そう、「わたしを思い出してください」と、関わりを求めて行ったから、彼はパラダイスに行けたのだ。
ヨブは義人であったが「かまわないでください」と言って、苦しみが続いた。
しかし強盗は、自分の罪ゆえの刑罰から来る痛みの中でも、自分の罪を認め、自分には到底及ばない御国の王位に着かれるイエス様に「思い出してくださ」と関わりを求めたからこそ、彼はパラダイスに行けたのだ。

14:7 木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、/その若枝は絶えることがない。
14:8 たといその根が地の中に老い、/その幹が土の中に枯れても、
14:9 なお水の潤いにあえば芽をふき、/若木のように枝を出す。
14:10 しかし人は死ねば消えうせる。息が絶えれば、どこにおるか。
14:11 水が湖から消え、/川がかれて、かわくように、
14:12 人は伏して寝、また起きず、/天のつきるまで、目ざめず、/その眠りからさまされない。
14:13 どうぞ、わたしを陰府にかくし、/あなたの怒りのやむまで、潜ませ、/わたしのために時を定めて、/わたしを覚えてください。
14:14 人がもし死ねば、また生きるでしょうか。わたしはわが服役の諸日の間、/わが解放の来るまで待つでしょう。

ヨブの哲学は、人はひと度死んでしまったら、もう生き返らない、というものだった。
旧約においては死んだ後の概念が新約ほどはっきりしたものではなかった。
最高の知恵が与えられたソロモンでさえ、次のように言った。

伝道者の書3:20 みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
3:21 だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
3:22 それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。

こういうわけで、旧約は、死後の概念があいまいで、地上で生きている限りの幸いこそ全てだと思われていた所もあり、死人の復活を信じないサドカイ派もあれば、復活を信じるパリサイ派もあった。
しかし主は、新約において、死後どのようになるのかを、はっきりさせて下さった。

黙示録20:11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

このように、死後、必ずよみがえらされ、おのおの「しわざ」に応じてのさばきがあり、そして、死も、よみも、火の池へと投げ込まれる。
善人も悪人も同じところに行く、というのは、誰もが訪れる「第一の死」においては、そうだろう。
しかしその後にさばきがあり、主の前に悪と見られた人は、永遠の死、「第二の死」に入るのだ。

2コリント5:1-10
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

私達には、キリストにあってさばきを免れ、永遠のいのちに至る望みがある。

ヨハネ5:25 よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。
5:26 それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。
5:27 そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。
5:28 このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。

ある人は、さばきのためによみがえらされ、ある人は、生命を受けるためによみがえらされる。
その分岐点は、キリストの御声を聞いて善をおこなうか、それとも悪をおこなうか、である。

神と論じ合う(ヨブ記13章)
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ヨブは友人達に対し、さらに語る事を止めない。

ヨブ記13:1  見よ、わたしの目は、これをことごとく見た。わたしの耳はこれを聞いて悟った。
ヨブ記13:2  あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。わたしはあなたがたに劣らない。
ヨブ記13:3  しかしわたしは全能者に物を言おう、わたしは神と論ずることを望む。

ヨブは、友人達のあまりに的を外した心なしの格言に飽々して怒り、ついに、神に挑戦したい事を表明する。
彼は今まで、ここまではっきりと「神と論ずる事を望む」と言い切った事は無かった。いわば友人達の心なしの格言の応酬が、ヨブをそのように引き出したのだ。
友人達からすれば、なんと恐れ多い言葉を神に発してしまったのか、と思う所かもしれないが、実を言うと、「神と向き合って論じあおう」としたその時点が、その人にとっての重要な転換点となる。

神と論じ合おうとする事は、とても重要である。
イザヤ1:18  主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
イザヤ1:19  もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
イザヤ1:20  しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。

イザヤ書では、主が「互いに論じよう」と言っており、それによって、緋のような罪が白く、紅のような赤い罪が羊の毛のようにされていく、というのだ。
人にとって、創造主と一緒になって密接に関わる事こそ、最も大事である。それがたとえ、喧嘩腰であったとしても。

旧約の偉人・エノク、ノア、アブラハムに共通しているキーワードは、神と共に「歩む(ハーラフ)」である。(創世記5:22-24, 6:9,12:1-2)
彼らは、罪深い時代・罪深い人々の中に住んでは居ても、周囲の愚かさや思想とは一つにならなかった。それは主と共に歩み、主の御言葉を守り行い、そうして「全き者」(創世記17:1)となって行ったからだ。

神と共に「歩む(ハーラフ)」、それは神の民の必須条件であり、祝福に必要不可欠な行動である。
主はエデンの園を「歩き回られた(ハーラフ)」(創世記3:8 )。 私達も、主と共に歩きまわるなら、そこはエデン(「歓喜の場所」という意味」)であり、たとい死の陰の谷を「歩む」としても、主と共に歩んでいるなら、そこには慰めがあり、敵の前で宴を設けられ、杯は溢れ、恵みといつくしみが追って来るのだ。(詩篇23編)
そして、呪われるための近道は、祝福の源なる神との密接な関わりと解く事、神から離れる事である。ちょうどカインのように。

ヨブはこの時点、主に対して怒っていたものの、主に対して激しく論じて行き、そして主は彼と激しく論じて下さり、そうして後、倍の恵みを施して下さった。
ちょうどヤコブが、神と取っ組み合いの相撲を取り、その後に祝福が与えられ、新しい名イスラエルが与えられたように。
私達も進んで、神と関わり合うべきである。

ヨブ記の結論は、ヤコブ5:11である。
ヤコブ5:11  忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。

多くの人々は、ヨブ記を、なんにも悪い事をしていない正しい人に、なぜ災いが起きるのか、という「神の不条理」を扱った文献と思っているが、その解釈は、中途の災いにしかフォーカスしていない人間の解釈である。
ヨブ記の結論、それはヤコブ書に書いてある通り、「忍耐した人は幸いである」「主はいかに慈愛とあわれみとに富んだ方か」という事だ。
実際ヨブ記を全部読んでみると、ヨブが災いに遭っていた日々に比べ、祝福と幸いに満ちた年数の方が、圧倒的に多いではないか。

ただ、このヨブ記13章という時点では、彼は激しく怒っており、神と論じ合あおうという勢いだが、その前に彼は友人達をこてんぱんにこき下ろす。

ヨブ記13:4  あなたがたは偽りをもってうわべを繕う者、皆、無用の医師だ。
ヨブ記13:5  どうか、あなたがたは全く沈黙するように。これがあなたがたの知恵であろう。
ヨブ記13:6  今、わたしの論ずることを聞くがよい。わたしの口で言い争うことに耳を傾けるがよい。

ここまで言われてしまっては、友人達もさらにヒートアップせざるを得ない。

ヨブ記13:7  あなたがたは神のために不義を言おうとするのか。また彼のために偽りを述べるのか。
ヨブ記13:8  あなたがたは彼にひいきしようとするのか。神のために争おうとするのか。
ヨブ記13:9  神があなたがたを調べられるとき、あなたがたは無事だろうか。あなたがたは人を欺くように彼を欺くことができるか。
ヨブ記13:10  あなたがたがもし、ひそかにひいきするならば、彼は必ずあなたがたを責められる。
ヨブ記13:11  その威厳はあなたがたを恐れさせないであろうか。彼をおそれる恐れがあなたがたに臨まないであろうか。

ヨブは、彼らが自分達を教え諭す者、「高い者」として位置づけ、「低められているヨブ」「間違っているヨブ」を教え諭し、正しい方向に導こうとして、実際は的を外した格言を並べ立てている事を、ヨブは、「神に成り代わっている」「傲慢だ」と非難し、神がそんなあなた方に現れるならあなた方は耐えられるのか、とまで言っている。

ヨブ記13:12  あなたがたの格言は灰のことわざだ。あなたがたの盾は土の盾だ。
ヨブ記13:13  黙して、わたしにかかわるな、わたしは話そう。何事でもわたしに来るなら、来るがよい。

彼はもはや、友人達には黙っていてほしい、自分はただ、神と関わりたい、という願いを叫びの中で打ち明けた。
人は、人生の中でどうしようも超えられない苦難や悲しみに直面した時、何かの慰めや解決を求めて、誰か「人」に行くなら、大体、もっと失望するものだ。
苦難や悲しみの度合いが深ければ深い程、なお、そうである。
そのような時、ヨブのように、人にではなく、神に向かうべきなのだ。

ヨブ記13:14  わたしはわが肉をわが歯に取り、わが命をわが手のうちに置く。
ヨブ記13:15  見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。
ヨブ記13:16  これこそわたしの救となる。神を信じない者は、神の前に出ることができないからだ。
ヨブ記13:17  あなたがたはよくわたしの言葉を聞き、わたしの述べる所を耳に入れよ。
ヨブ記13:18  見よ、わたしはすでにわたしの立ち場を言い並べた。わたしは義とされることをみずから知っている。
ヨブ記13:19  だれかわたしと言い争う事のできる者があろうか。もしあるならば、わたしは黙して死ぬであろう。

ヨブは何もかも失い、瞬間瞬間、ひどい”かゆみ”に悩まされ、さらには、友人達にも悩まされている状態である。
もう自分は失う者は無い、どころか、瞬間瞬間ただ苦痛だ、もうどうなってもいい、ともかく、ここまでなったからには神と論じ合いたい、と求めるようになった。
それで20節以降、神との論議に入るのだが、しかし最初の論調は、友人達に示したような凛々しく激しい態度ではなく、まずは、恐る恐るのお願いから始まる。

ヨブ記13:20  ただわたしに二つの事を許してください。そうすれば、わたしはあなたの顔をさけて隠れることはないでしょう。
ヨブ記13:21  あなたの手をわたしから離してください。あなたの恐るべき事をもってわたしを恐れさせないでください。
ヨブ記13:22  そしてお呼びください、わたしは答えます。わたしに物を言わせて、あなたご自身、わたしにお答えください。

つまり、神の圧倒的な力と圧倒的な正しさでわたしを圧迫しないで下さい、この痛手を取り除いてください、そして、わたしが話せるように、お膳立てして下さい、というのだ。
神に論じ合いたい!と激しく迫っておきながら、神に憐れみを求めているのである。
なんと調子の良い、と思えるかもしれないが、私達も神にお願いする時、調子よくお願いするものである。
ヨブはさらに、調子の良い申し出をする。

ヨブ記13:23  わたしのよこしまと、わたしの罪がどれほどあるか。わたしのとがと罪とをわたしに知らせてください。
ヨブ記13:24  なにゆえ、あなたはみ顔をかくし、わたしをあなたの敵とされるのか。
ヨブ記13:25  あなたは吹き回される木の葉をおどし、干あがったもみがらを追われるのか。
ヨブ記13:26  あなたはわたしについて苦き事どもを書きしるし、わたしに若い時の罪を継がせ、

ヨブは、自分が罪を犯した者であると自覚している。
そして、自分が若き時に犯した罪は、ほんの木の葉ほどだ、そんな小さな一つ一つの罪さえも詳細に記録して、ご覧になられるのか、と、申し上げている。

ヨブ記13:27  わたしの足を足かせにはめ、わたしのすべての道をうかがい、わたしの足の周囲に限りをつけられる。
ヨブ記13:28  このような人は腐れた物のように朽ち果て、虫に食われた衣服のようにすたれる。

昔、奴隷を持っていた主人は、奴隷の足型を取るか、あるいは足の裏に焼き印を押す。それは万一奴隷が逃げたとしても、その足あとから、どの奴隷が、どこに逃げたのかを特定するためだった。
ヨブは神に対し、自分の足あとの記録を、良しも悪しもつぶさに記録し、その一つ一つを入念に調べつくされているような気がしたのだ。
現在インターネット上で、人々がネット上で行った物事が全部、ウェブログ上に記録されているように。
ヨブは、神よ、あなたはそんな足あとの一つ一つも記録しておられるのですか、そんな事をしたら、誰も彼も、腐れた物のように朽ち果て、虫に食われた衣服のようにすたれてしまいますよ、と申し上げている。
そう、そんな事をされたら、人は、ひとたまりもない、と思う。しかし神は、ウェブログよりもさらに詳細に一人一人の記録をしておられ、それによって終わりの日、裁かれる事になる。

人は人生の内で、一体いくつ、主に打たれても仕方がない罪を犯して来ただろうか。ヨブでさえ、そうなのだ。
一体なぜ人は、主の御前に死罪に値するような事を何遍も犯しているのに、主に打たれずに、こうして生きながらえているのか。

それは、「神の恵み」故である。
私達は今、恵みの中で生かされている。
神は、悪は即処罰と機械的に処断するお方ではなく、情状酌量して下さるお方であり、私達はこの恵みの日、救いの日の内に、キリストの十字架の贖いの覆いへと、飛び込んでいくべきである。救われるために。
神と積極的に関わっていくべきである。
ダビデは積極的に、神に情状酌量を求めて祈った。

詩篇25:6  主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。
詩篇25:7  わたしの若き時の罪と、とがとを思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。
詩篇25:8  主は恵みふかく、かつ正しくいらせられる。それゆえ、主は道を罪びとに教え、
詩篇25:9  へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。
詩篇25:10  主のすべての道はその契約とあかしとを守る者にはいつくしみであり、まことである。
詩篇25:11  主よ、み名のために、わたしの罪をおゆるしください。わたしの罪は大きいのです。

積極的に神と関わり、時にはヨブのように神と論じ合い、時にはヤコブのように神と相撲を取り合い、神と仲良く共に歩みつつ、造り変えられ続け、祝福の実りを豊かに実らせていく皆様の人生でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ヨブの応答 - 善悪判断の応酬という不毛な牢獄へ落ち込んで行くヨブ達(ヨブ記12章)
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ナアマ人ツォファルの言葉に対してヨブが答えるが、その答えは、ツォファルへの返答というより3人の友人達の論説に対するヨブの辛辣な総評となり、さらには、神と論じ合いたい(13:3)とまで、論調がエスカレートして行ってしまう。

12:1 そこでヨブは答えて言った、
12:2 「まことに、あなたがたのみ、人である、/知恵はあなたがたと共に死ぬであろう。

ヨブは、あなた方が広げた知恵は人の知恵、死ねば一緒に無くなる息のような知恵だという酷評から始まる。
ツォファルは、ヨブを口達者なおしゃべりで、それもそのおしゃべりの内容は、「むなしい(バド:うそ)」、「あざけり」だと決めつけてかかって来た(11:3)が、ヨブはまさに売り言葉に買い言葉で返し、自分も知恵ある者だ、と主張する。

12:3 しかしわたしも、あなたがたと同様に悟りをもつ。わたしはあなたがたに劣らない。だれがこのような事を知らないだろうか。
12:4 わたしは神に呼ばわって、聞かれた者であるのに、/その友の物笑いとなっている。正しく全き人は物笑いとなる。

ヨブ自身、自らを悟りある者、あなた方に劣らない者である、わたしは神を呼んで神に聞かれた者である、それなのにあなた方ときたら、わたしを物笑いにしている、と批判し、あなた方が開帳したそんな知恵など、知らない者があろうか、と、こきおろす。
感情が高ぶって発せられた言葉とはいえ、一応、ヨブを思いやって訪ねて来た友人達である。傲慢な言葉であるが、以下に続く言葉は、もっと論調がヒートアップして行く。

12:5 安らかな者の思いには、/不幸な者に対する侮りがあって、/足のすべる者を待っている。
12:6 かすめ奪う者の天幕は栄え、/神を怒らす者は安らかである。自分の手に神を携えている者も同様だ。

ヨブは、友人達が、自分達は安泰な者、不幸に落ちぶれたヨブを、高い位置にある自分達が教え導かなければならない、というような立場にしている、と指摘し、しかも、「かすめ奪う者」「神を怒らす者」「自分の手に神を携えている者」という言葉を発したからには、暗に、ヨブの友人達はそのような者だ、と批判しているのだろう。

義人ヨブ。なぜここまでねじ曲がってしまったのか。
パウロは言う。

1コリント3:18 だれも自分を欺いてはならない。もしあなたがたのうちに、自分がこの世の知者だと思う人がいるなら、その人は知者になるために愚かになるがよい。
3:19 なぜなら、この世の知恵は、神の前では愚かなものだからである。「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」と書いてあり、
3:20 更にまた、「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある。

ヨブと友人達は、自分をこの世の知者だと思っており、それを曲げずにいるが、ヨブのように大いに苦しんでいる友人と相対した時には、むしろ自分の知者である事を降ろし、愚かになるべきだ。
もし自分をあくまで知者だと貫くなら、「神は、知者たちをその悪知恵によって捕える」「主は、知者たちの論議のむなしいことをご存じである」と書いてある通りである。

もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていないのである。(1コリント8:2)
知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てるからだ。(同1節)
むしろ、「自分は正しい」という思い込みは、ヨブのような義人さえも腐らせてしまうのだ。

ヨブはさらに言う。
12:7 しかし獣に問うてみよ、/それはあなたに教える。空の鳥に問うてみよ、/それはあなたに告げる。
12:8 あるいは地の草や木に問うてみよ、/彼らはあなたに教える。海の魚もまたあなたに示す。
12:9 これらすべてのもののうち、いずれか/主の手がこれをなしたことを知らぬ者があろうか。
12:10 すべての生き物の命、/およびすべての人の息は彼の手のうちにある。

全ての生き物のいのち(ネフェシュ:生物的な命)も、神の似姿である人間の息(ルアッハ:神の霊)も、全て神の御手が下さるものである。
そのような事は、何も、あなた方が言わなくても、獣でも、鳥でも、地も、海の生き物さえ、みんな知っている事だ、とヨブは言う。
ちなみに、ヨブ記3章から37章の、詩文体の討論の中で、唯一、主エホバの御名があるのは、この12章9節のヨブの言葉のみである。
それ程、この討論には、主エホバの御名の無い、人間の知恵、人間の正しさばかりがはびこっている、不毛なものなのだ。

12:11 口が食物を味わうように、/耳は言葉をわきまえないであろうか。
12:12 老いた者には知恵があり、/命の長い者には悟りがある。
12:13 知恵と力は神と共にあり、/深慮と悟りも彼のものである。

友人達の言葉は、ヨブには全く響かなかった。味わいが無かった。
知恵は、人が年を取れば自動的に身につけるものではない、神が下さるものである、それに引き換えあなた方の知恵は人間由来で、死んでしまえば無くなるものだ、とヨブは主張している。

友人達は、因果応報的な神観を打ち出したが、続く14節以降から読み取れるヨブの神観は、神は何か専制君主のように、思いのままに人を高くし、あるいは引きずり下ろす圧制者のようなお方であるかのような感じが、にじみ出ている。
それはねじ曲がった神観であるが、ヨブをそのようにしてしまったのは、結局、ヨブと友人達の「自分は正しい」という、頑として曲げない前提条件と、「自分は知者だ」という驕り高ぶりである。
自分は善、あれは悪。
そのような善悪判断こそ、全てのものに死をもたらす毒薬である。

創世記2:16  主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
2:17  しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

ヨブと友人達を、主エホバの御名の無い、不毛な人間の議論という「死」へと導いてしまったものは、飽くなき善悪主張なのだ。
結局、この12章から学ぶべき言葉、この不毛な善悪応酬の牢獄から解放される鍵は、以下の御言葉であろう。

ローマ12:15 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。
12:16 互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない。

ツォファルによる最初の弁論 - 数多の言葉から言葉尻を捕らえて議論する事の無意味さ(ヨブ記11章)
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11章は、ナアマ人ツォファルによるヨブへの最初の答弁である。

11:1 そこでナアマびとゾパルは答えて言った、
11:2 「言葉が多ければ、答なしにすまされるだろうか。口の達者な人は義とされるだろうか。
11:3 あなたのむなしい言葉は人を沈黙させるだろうか。あなたがあざけるとき、/人はあなたを恥じさせないだろうか。

ツォファルが最初の答弁をする頃になると大分議論が白熱化しヨブが多くの言葉をすでに発したが、それ故にツォファルはヨブを口達者なおしゃべりで、それもそのおしゃべりの内容は、「むなしい(バド:うそ)」、「あざけり」だと決めつけてかかっている。

11:4 あなたは言う、『わたしの教は正しい、/わたしは神の目に潔い』と。

確かにヨブの怒涛のような分量の言葉の中には、そのように言った言葉もあった。(10:7)
しかし怒涛のような言葉を言わなければならない情状があったわけであり、決して彼は理由なく怒涛のような言葉で「うそ」や「あざけり」を言ったつもりは無い。
そこで、この言葉ゆえにますますヨブを苛立たせ、さらにあさってな議論のぶつけあいが白熱化してしまう。

11:5 どうぞ神が言葉を出し、/あなたにむかってくちびるを開き、
11:6 知恵の秘密をあなたに示されるように。神はさまざまの知識をもたれるからである。それであなたは知るがよい、神はあなたの罪よりも/軽くあなたを罰せられることを。
11:7 あなたは神の深い事を窮めることができるか。全能者の限界を窮めることができるか。
11:8 それは天よりも高い、あなたは何をなしうるか。それは陰府よりも深い、あなたは何を知りうるか。
11:9 その量は地よりも長く、海よりも広い。

ツォファルがヨブを、うそとあざけりを口達者にべらべらしゃべっているという思い込みから話している限り、いかに神の素晴らしさを並べようとも、それは苛立たしい羽音に過ぎない。
相手をよく見ない・聞かない伝道は、まさにそのようなものでしかない。

11:12 しかし野ろばの子が人として生れるとき、/愚かな者も悟りを得るであろう。

聖書注解を見ると、彼がこの「ことわざ」を持ちだした理由も、その意味も難解とされているが、いずれにせよヨブが御し難い野ろば、愚か者、と揶揄している事は確かだろう。
相手がどうしてそんなに饒舌になるのか。どうしてそんなに、傍からみれば愚か者のような有様になってしまっているのか。それをまず見て、聞き出す必要がある。
よく聞いてこそ、突かれた人を癒やす舌が与えられるからだ。
イザヤ50:4 主なる神は教をうけた者の舌をわたしに与えて、疲れた者を言葉をもって助けることを知らせ、また朝ごとにさまし、わたしの耳をさまして、教をうけた者のように聞かせられる。

いずれにせよ、ヨブ自身が言葉数を多くしてしまい、その言葉の中に、愚か者と見做されて仕方ないような言葉もあった事は確かである。

箴言10:19 言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある。
伝道者の書5:1 神の宮に行く時には、その足を慎むがよい。近よって聞くのは愚かな者の犠牲をささげるのにまさる。彼らは悪を行っていることを知らないからである。
5:2 神の前で軽々しく口をひらき、また言葉を出そうと、心にあせってはならない。神は天にいまし、あなたは地におるからである。それゆえ、あなたは言葉を少なくせよ。
5:3 夢は仕事の多いことによってきたり、愚かなる者の声は言葉の多いことによって知られる。

ヨブは言葉数を多くして、愚かな声となってしまった。
口から怒涛のように文句を述べたい時は、どうすれば良いか。

ハンナは、ペニンナから礼拝のたびに子供がないという点を突かれてハンナを苛立たせた。
ハンナはペニンナに対し、あるいは夫に対し、怒涛のように愚痴をこぼしても仕方がなさそうな状況であったにもかかわらず、その言葉は一切、言葉の振動として空中に発さず、ただ神にのみ、言葉にならない祈りを捧げた。
彼女は全部、神に持って行った。それゆえ、神は彼女の祈りに答えられ、神に捧げられた子、サムエルという、偉大な預言者を生むに至った。

私達のこのくちびるは汚れており、また、汚れたくちびるの民の間に住んでいる故、私達はそのままでは神の御前に出る事は出来ない。(イザヤ6章)
だからこそ、ただ、神に持っていくべきである。憂い、悲しみ、叫びを。
ヨブは苦難を受けた後、確かにくちびるで罪を犯さなかったが、しかし募る憂いを神に向かって吐き出す事がないままに、友人たちへの言葉のぶちまけに入り、そうして、この段々と白熱化して行く無味な議論へと突入して行ってしまった。

私達はただ、人にではなく、まず神に向かうべきである。

神様を不当者にしてしまう人に共通する主張:「わたしは悪くない」(ヨブ記10章)
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ヨブの、ビルダデに対する返答から、神への問いかけへと転換した9章に続き、10章は、神様に対する感情的な嘆きのぶちまけへと発展して行く。
感情的なぶちまけの故に、その内容には神様に対する認識が間違っている点も多いが、少なくとも「神様と関係している」という点において、彼は道を外していない。

10:1 わたしは自分の命をいとう。わたしは自分の嘆きを包まず言いあらわし、/わが魂の苦しみによって語ろう。
10:2 わたしは神に申そう、/わたしを罪ある者とされないように。なぜわたしと争われるかを知らせてほしい。

3人の友人たちの弁論の内容は、間違っていないかもしれないが、彼らの言葉には主エホバの御名は無く、神様との個人的な関わりが無いのに対し、ヨブの弁論の内容は、たとえ間違っているにしても、それでも、神様と深く個人的に関わっている点においては、ヨブのほうが真実なのだ。

10:3 あなたはしえたげをなし、み手のわざを捨て、/悪人の計画を照すことを良しとされるのか。
10:4 あなたの持っておられるのは肉の目か、/あなたは人が見るように見られるのか。
10:5 あなたの日は人の日のごとく、/あなたの年は人の年のようであるのか。
10:6 あなたはなにゆえわたしのとがを尋ね、/わたしの罪を調べられるのか。
10:7 あなたはわたしの罪のないことを知っておられる。またあなたの手から救い出しうる者はない。

彼は、神様はあたかも肉に過ぎない人間のごとくに不当に人をしいたげ、悪人に与するような事をして御手のわざを捨てているのは、一体それは良い事なのか、と言っており、さらに、神様はあたかも人間が肉の目で見るのと同じように人を見、罪のない人間を不当に苦しめる、と申し上げているが、それらは、行き過ぎた思い込みである。
聖書のはじめから終わりまでを読むなら、神は真実で正当なさばきをされるお方である事が分かる。

ただし、この問題を単に感情的な叫びだと看過する事ができないのは、実に多くの人達が、このヨブのような偏見を持って、神様に敵対している事である。
そのような偏見は、どうして起きるのか?
その原因は、単純明快である。
それは「自分は正しい」「自分には罪がない」という前提条件で生きている事である。
ヨブはまさに、3章から37章まで、ずっとその意識を貫き通している。

まずローマ3章に書いてある通り、義人はいない、ひとりもいない。
さらに書かれてある。
1ヨハネ1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

ヨブはまさに、神の側を偽り者とし自分の側を正当としている状態だが、その原因はここに書いてある通り、罪がない、と言う所である。
全て、神は不当だ、と叫ぶ人達に共通している前提条件は「自分は悪く無い」「自分には罪は無い」である。
神は、真実で正しい方である。私達が自分の罪を告白するなら、神はその罪をゆるし、すべての不義からきよめて下さるのだ。

ヨブは確かに義人を貫いたかもしれない。いわれのない罪を犯さなかったかもしれない。
ただ唯一、彼が罪を犯した事とは、義人は本来一人もいないはずなのに、自分をあくまで正しいとし、自分に罪はない、とした事だ。

ヨブは続いて、わたしをこのように造られたのはあなたではありませんか、と主張し(8-13節)、そのように私をつくっておきながら不当に苦しめ、私が正しくても、圧倒的な力で「罪有り」とねじふせてしまいます。これいかに?と主張する。(14-17節)
世の中には、確かに、そのように主張する人も多い。
しかし結局、一緒である。すなわち、自分は正しい、自分には罪がない、という前提条件が、そもそもまちがいなのだ。

ダビデも同じように苦しみが大きくなった時、彼は素直にそれは自分の罪ゆえだと告白した。
詩篇25:16 わたしをかえりみ、わたしをあわれんでください。わたしはひとりわびしく苦しんでいるのです。
25:17 わたしの心の悩みをゆるめ、わたしを苦しみから引き出してください。
25:18 わたしの苦しみ悩みをかえりみ、わたしのすべての罪をおゆるしください。

ヨブの場合、確かに1章2章において、見上げるほどの信仰告白をした。
しかしその気高さゆえに、自分を義としてしまい、罪を告白するに至らず、ずっと苦しむはめになってしまう。
ダビデはすぐに自分に罪があり、主の憐れみゆえにそれを覚えていないでください、あなたの憐れみで憐れみ、赦して下さい、と告白するから、回復もすぐなのだ。

10:18 なにゆえあなたはわたしを胎から出されたか、/わたしは息絶えて目に見られることなく、
10:19 胎から墓に運ばれて、/初めからなかった者のようであったなら、/よかったのに。
10:20 わたしの命の日はいくばくもないではないか。どうぞ、しばしわたしを離れて、/少しく慰めを得させられるように。
10:21 わたしが行って、帰ることのないその前に、/これを得させられるように。わたしは暗き地、暗黒の地へ行く。
10:22 これは暗き地で、やみにひとしく、/暗黒で秩序なく、光もやみのようだ」。

ヨブは再び、こんな事なら生まれて来ないほうが良かった、あるいは生まれてそのまますぐに墓に運ばれたほうが良かった、と言った。
こんな正しい者が、こんな苦しい目に遭わせられるような不条理を提供されるなら、生きていないほうがましだ、という方向に行ってしまう所に、苦しみはずっと継続してしまう。

このようにヨブは、感情的になるにつれ、隠れていた自己義がどんどん吐き出されて行く。
自分は正しい、神は不当だ、とする事は当然間違いであるが、それでも彼は、神様と深く、個人的に関わろうとしている。
それも、神様の胸ぐらを掴んで、どうしてですか!とせんばかりの勢いであるが、神様は、そこまでして「関わろう」とする人を、待っていましたとばかり答えて下さり、間違った方向性を但し、さらに祝福の器へと造り変えてくださる。
主が、祝福をつかみとるために相撲までふきかけて来たヤコブを、イスラエルへと変えたように。

夫婦関係は、喧嘩している内はまだ安泰であるが、もし、相手が浮気しても何も感じない・喧嘩もしないとしたら、深刻である。
同じように、霊的に最も深刻な状態とは、神様と関わろうとしない、神様に対する無関心な状態である。

神と人との間で執り成す仲保者がいない事を嘆くヨブ(ヨブ記9章)
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9章と10章は、シュアハ人ビルダデに対するヨブの答えであるのだが、9章の途中から、ヨブの神に対する訴えへと変わって行く。

9:1 ヨブは答えて言った、
9:2 「まことにわたしは、その事の/そのとおりであることを知っている。しかし人はどうして神の前に正しくありえようか。

ヨブはビルダデに反論していない。
神は悪者を滅ぼすが、悔い改めて神に立ち返るなら神は祝福を回復して下さるという事には反論の余地はない。
しかしヨブにとって問題なのは、どうしてこんなにも、自分に見合わないと思える程の災いにあわなければならないのか、という事である
もし災いに見合った罪を犯していたのであれば、まだ納得が行くが、しかし、こんなにも酷い災いに見合うような悪い事を、ヨブ自身は見つけられないからこそ、「一体何故に!」と叫び続けているのである。

そして、神の力強さ、全知全能さを、ヨブは4節から11節まで告白し、そんな力強すぎる神について、次のように言う。

9:3 よし彼と争おうとしても、/千に一つも答えることができない。
・・・
9:12 見よ、彼が奪い去られるのに、/だれが彼をはばむことができるか。だれが彼にむかって『あなたは何をするのか』と/言うことができるか。

さらに、ヨブは、このような神に何か物申しても無駄だ、たちまちにその全能なる御腕で、こんな私の訴えはいとも簡単にへし折られてしまうのだ、という独白をする。

9:14 どうしてわたしは彼に答え、/言葉を選んで、彼と議論することができよう。
9:15 たといわたしは正しくても答えることができない。わたしを責められる者に/あわれみを請わなければならない。
9:16 たといわたしが呼ばわり、/彼がわたしに答えられても、/わたしの声に耳を傾けられたとは信じない。
9:17 彼は大風をもってわたしを撃ち砕き、/ゆえなく、わたしに多くの傷を負わせ、
9:18 わたしに息をつかせず、/苦い物をもってわたしを満たされる。
9:19 力の争いであるならば、彼を見よ、/さばきの事であるならば、/だれが彼を呼び出すことができよう。
9:20 たといわたしは正しくても、/わたしの口はわたしを罪ある者とする。たといわたしは罪がなくても、/彼はわたしを曲った者とする。
9:21 わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。わたしは自分の命をいとう。

結局、神はわたしのちっぽけな訴えなんて聞いてくれないのだ、自分が何を叫んでも神様は御心のまましか行わないのだ、訴えても無駄だ、という無気力にヨブは覆われている。

9:22 皆同一である。それゆえ、わたしは言う、/『彼は罪のない者と、悪しき者とを/共に滅ぼされるのだ』と。

世間の多くの人が、この言葉に共感する。
神様は聞いてくれない、罪のない者も、悪しき者と一緒に滅ぼされる、と。
いや、違う。神は訴えを聞かれ、そのとおりであるかどうか計るために見に来られ、そして正当に審判する。

ソドムとゴモラは、不品行がはびこり、性的な錯乱がまかり通り、不当に抑圧されている者が多く、神の御前に悪を積み上げている町であった。
『主は言われた。「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。わたしは降って行き、彼らの行跡が、果たして、わたしに届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう。」』(創世記18:20-21)
神は全能なるお方なのだから、わざわざ人の姿を取って、その通りかどうかを見に行く必要は無いはずである。
しかし、主がわざわざ人の姿を取り、主みずから足で行って目で見、耳で聞き、そこの住人が実際に乱暴した様を実体験したのであるなら、その報いとして滅ぼされても、誰も何の文句も言えないはずである。

そして主は、なさろうとする事をアブラハムに打ち明けられた。
なぜなら主は、いかに罪人であっても、滅ぼす事は望んでおられず、彼らが悪の道から離れて生きることを望まれるお方であり(エゼキエル18:23)、人を滅ぼさないようにと、ご自身に執り成してくれる人が立つのを、主は望んでおられるからだ。

アブラハムは、主がソドムとゴモラに行き、その罪が非常に大きいかどうかを確かめに行く、という事を聞いて意を決し、主の前に立ち、申し上げた。
「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。」(創世記18:24)
主の答えは、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」(26節)だった。
そこを発端に、主とアブラハムとの交渉がはじまり、アブラハムは「では45人なら」と食い下がり、さらには40人、30人と詰めて行き、最終的には、ソドムにいる義人がたとえ10人であっても、町は滅ぼさない、という約束を漕ぎ着けるまでに至った。

主は、見て、聞かれるお方である。
そして、人の祈り、執り成し、交渉に、応じて下さるお方である。
ヨブ記9章の瞬間的には、主に聞かれていないかのように見えても、全体で見るなら、主は聞かれただけでなく主は恵み深く憐れみ深いという事を示された。

多くの人は、この、瞬間的な事だけを見て「神は不当だ」と攻撃材料にするが、そのような人は、その後にどうなったか、という事を飛ばしてしまっている。
書いてある。

ホセア6:1 「さあ、わたしたちは主に帰ろう。主はわたしたちをかき裂かれたが、またいやし、わたしたちを打たれたが、また包んでくださるからだ。
6:2 主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。
6:3 わたしたちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。主はあしたの光のように必ず現れいで、冬の雨のように、わたしたちに臨み、春の雨のように地を潤される」。

神は、打って終わりではない。再び包んで、いやし、以前よりも素晴らしい状態へして下さる。
ユダヤでは先の雨と後の雨によって土地は潤され作物が大いに育つが、それ以外の大部分のシーズンは、乾季である。カラカラである。
しかし主は、このユダヤの地に冬の雨と春の雨を降らせ、それによって、ぶどうやオリーブがよく育つのだ。

ヨブ記9章は、瞬間風速的に、カラカラの真っ最中である。
しかしヨブ記全体で見ると、いや、聖書全体で見ると、主は恵み深いお方である事がわかるのだ。
神は、カラカラにして、それで滅ぼすお方ではない。その後に雨を降らせ、潤し、先の状態よりも遥かに優れた状態にして下さる。
逆にサタンは、不当な道に導いて、潤し、不当な道を行けばもっと潤うと思わせて、砂漠のどまんなかへ導いて干からびさせるのである。

ヨブは友人達への返答から、いつしか独白へと移り、そして、神様への問いかけへと移っていく。

9:27 たといわたしは『わが嘆きを忘れ、/憂い顔をかえて元気よくなろう』と言っても、
9:28 わたしはわがもろもろの苦しみを恐れる。あなたがわたしを罪なき者とされないことを/わたしは知っているからだ。
9:29 わたしは罪ある者とされている。どうして、いたずらに労する必要があるか。
9:30 たといわたしは雪で身を洗い、/灰汁で手を清めても、
9:31 あなたはわたしを、みぞの中に投げ込まれるので、/わたしの着物も、わたしをいとうようになる。

ヨブは、「どうせわたしは罪ある者とされている。どうして、いたずらに労する必要があるか。」と、善を行う事も無駄なのではないか、自分がいかに自分をきよめようとしても、主の前にはただただ罪ある者、と、どうせされてしまうのだ、と、恐れている。
これを、不条理だ、と人は思う。しかし、神は、そんな不条理はしないお方である事を聖書は語っている。(後述)

9:32 神はわたしのように人ではないゆえ、/わたしは彼に答えることができない。われわれは共にさばきに臨むことができない。
9:33 われわれの間には、/われわれふたりの上に手を置くべき仲裁者がない。

ヨブは、このような偉大すぎる神を前に、どんなに頑張っても罪とされてしまう人間との間に仲介する者が、とりなす者がいない、と嘆いている。
しかし神は、そんな人間に、完全な仲介者を送って下さった。
イエス・キリストである。

2テモテ2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。

多くの人が誤解している。
神は天でふんぞり返って地を見下ろし、罪有る人間のもがき苦しみに何もしないでただ罪定めしている、と。
違う。
神であられるお方は、ご自分の御座を降り、天から降りて来られ、人となり、人として生き、人としての弱さ、悲しさ、苦しさを舐め尽くされ、悪魔の誘惑を受けられ、それに御言葉によって勝利し、私達に悪魔に勝利する方法を示して下さった。

ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
5:1 大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。
5:2 彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができる。

神の子キリストは、罪が無いお方であられるのに、人の身代わりとなって罪を負われ、死が無いお方であられるのに、人の死を身代わりに負って、死んでくださり、そして、復活によって、罪と死を打ち砕き、勝利して下さった。
このキリストを主として信じる者に、キリストと同じ立ち位置、すなわち神の子としての立ち位置を与え、パラダイスへの道を開き、永遠のいのちを与えて下さったのだ。

キリストにあってこそ、私達はヨブが感じたような疎外感を感じる必要は一切無いのである。

ビルダデによる最初の弁論 - 単純な格言では片付けようがない問題(ヨブ記8章)
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8章はヨブに対するシュアハ人ビルダデによる答弁である。

8:1 時にシュヒびとビルダデが答えて言った、
8:2 「いつまであなたは、そのような事を言うのか。あなたの口の言葉は荒い風ではないか。
8:3 神は公義を曲げられるであろうか。全能者は正義を曲げられるであろうか。

ビルダデの口から出た真っ先の言葉は、ヨブの言葉は荒い風のようだ、いつまでそのような事を言うのか、という、責め立てる言葉だったが、ヨブ自身、自分の言葉は風のようであると自覚しており、その理由は、望みが絶えたからであり、霊のもだえと魂の苦しみゆえに口を制御できない、と、既に言っていた。(6:26,7:11)
だからヨブに対しそのように言うのは、風邪をひいた人に対して、なぜそのように荒く咳をするのか、と言うようなものである。
さらに彼は、歯に衣着せずに言う。

8:4 あなたの子たちが彼に罪を犯したので、/彼らをそのとがの手に渡されたのだ。

口語訳や新共同訳では、明確に、ヨブの子達が神に罪を犯したゆえに災いが起きた、と言っているが、KJVや新改訳では「”もし”、あなたの子らが神に罪を犯し」と訳している。
ここの「もし」は、「見よ!」とも訳せる語「イム」であるゆえ訳が分かれているのだが、いずれにせよ彼は子達にかかった災いを子達の犯した罪と関連づけ、ヨブはそれに対し何の反対もしていない所を見ると、やはりヨブ自身、子達が神に対して何らかの罪を犯したからだ、という自覚があるのだろう。

8:5 あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6 あなたがもし清く、正しくあるならば、/彼は必ずあなたのために立って、/あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
8:7 あなたの初めは小さくあっても、/あなたの終りは非常に大きくなるであろう。

確かにその通りなのだが、ヨブは既に神に激しく求め祈っている。
ヨブ自身には、神に激しく求めて祈った記憶が明確にあるのに、なお、「あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば」と言われても、ただ気分を害する以外にないし、本人自身、清く正しく歩んで来たという記憶しかないのに「あなたがもし清く、正しくあるならば」と言われても、全く心に届かないし、「あなたの初めは小さくあっても、/あなたの終りは非常に大きくなるであろう」と言われても、何の慰めにもならない。

8:8 先の代の人に問うてみよ、/先祖たちの尋ねきわめた事を学べ。
8:9 われわれはただ、きのうからあった者で、/何も知らない、/われわれの世にある日は、影のようなものである。
8:10 彼らはあなたに教え、あなたに語り、/その悟りから言葉を出さないであろうか。

エリファズは自分が体験した神秘体験を元にヨブを諭したが、ビルダデは先人の知恵を元に諭す。
11-19節は、神を忘れる者・神を信じない者は実にもろく、くもの巣によりかかっているようなものだ、いかに生い茂っていたとしてもすぐに枯れてしまうものだ、という、一連の格言を披露し、そうして次のように結論づける。

8:20 見よ、神は全き人を捨てられない。また悪を行う者の手を支持されない。
8:21 彼は笑いをもってあなたの口を満たし、/喜びの声をもってあなたのくちびるを満たされる。
8:22 あなたを憎む者は恥を着せられ、/悪しき者の天幕はなくなる」。

シュアハ人ビルダデの答弁は、単純に正論で、ヨブも「まことに、そのとおりであることを私は知っている。」と答えている。(9:2)
しかしヨブが直面している問題は、そんなに単純ではないのだ。
ヨブ自身、道を外した記憶も、悪を行った記憶も無く、なにより、神ご自身から「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」(2:3)と言われる程なのだから、「罪を犯したらすなわち災いが、きよく歩んだならすなわち幸いが」という単純な論理をヨブに押し付けられても、全くあさってに聞こえただろう。
ヨブは単純に思い出せるような罪を犯していないのに、こんなにも酷い災いに遭ってしまっている事、そして、その意味が見いだせない事こそ、切実な問題なのだ。

人は、罪を犯した、犯していない、で世の諸々を片付けようとする。
イエス様の弟子だって、そうだった。しかし、イエス様の答えは、人の思い込みと論法とは別次元のものである。

ヨハネ9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。

それは神の栄光あらわれるため。
これが、イエス様の答えである。
そうである。ヨブ記前半から中盤は、ただだれが罪を犯した、犯していない、の激しい応酬で、何の益も生み出さなかったが、後半は、神の圧倒的な栄光で満ち満ちている。

人のあらゆる弱さ、災い、そして犯して来た罪さえ、全部、神の栄光へと変えて下さる私達の主イエス様こそ、偉大なお方である。

人生最大の苦難が、人生最大の主との交わりを招く(ヨブ記7章)
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6章では、ヨブは友人たちに対して物申していたが、7章では、その対象は神へと移って行く。

7:1 地上の人には、/激しい労務があるではないか。またその日は雇人の日のようではないか。
7:2 奴隷が夕暮を慕うように、/雇人がその賃銀を望むように、
7:3 わたしは、むなしい月を持たせられ、/悩みの夜を与えられる。
7:4 わたしは寝るときに言う、『いつ起きるだろうか』と。しかし夜は長く、暁までころびまわる。
7:5 わたしの肉はうじと土くれとをまとい、/わたしの皮は固まっては、またくずれる。
7:6 わたしの日は機のひよりも速く、/望みをもたずに消え去る。

ヨブにとって特に辛いのは、夜だった。
絶え間ないかゆみの故に、夜も安らかに休む事が出来ず、体中を土器のかけらで掻きむしって、肉はうじに覆われ、転げまわるので土くれに覆われており、体中から噴き出る浸出液や膿などが固まっては崩れ、固まっては崩れる状態だったのだ。
全財産を失い、身体もこのような状態となり、もはや望みが尽きたヨブは、ただ死を願うのだが、しかし死ぬことさえ主は許してくれない。
それでこの7章は、神様に対する「なぜ」「どうして」で満ちている。

7:7 記憶せよ、わたしの命は息にすぎないことを。わたしの目は再び幸を見ることがない。
7:8 わたしを見る者の目は、/かさねてわたしを見ることがなく、/あなたがわたしに目を向けられても、/わたしはいない。
7:9 雲が消えて、なくなるように、/陰府に下る者は上がって来ることがない。
7:10 彼は再びその家に帰らず、/彼の所も、もはや彼を認めない。

記憶せよ、と訳されている語は、ザカール(覚える,思い起こす)の命令形で、NKJVは「Oh, remember」、新共同訳では「忘れないでください」である。
神様に対する叫びである。思い出して下さい、自分は息にすぎないことを、と。

7:11 それゆえ、わたしはわが口をおさえず、/わたしの霊のもだえによって語り、/わたしの魂の苦しさによって嘆く。
7:12 わたしは海であるのか、龍であるのか、/あなたはわたしの上に見張りを置かれる。
7:13 『わたしの床はわたしを慰め、/わたしの寝床はわが嘆きを軽くする』と/わたしが言うとき、
7:14 あなたは夢をもってわたしを驚かし、/幻をもってわたしを恐れさせられる。
7:15 それゆえ、わたしは息の止まることを願い、/わが骨よりもむしろ死を選ぶ。
7:16 わたしは命をいとう。わたしは長く生きることを望まない。わたしに構わないでください。わたしの日は息にすぎないのだから。

ヨブは、ひっきりなしに主の責め苦によって苦しめられている気がしていた。
ヨブの苦しみを願ったのは神ではなくサタンで、その財産に手を出したのも、その皮膚を夜昼となく手を出したのもサタンだったが、許可されたのは、神だった。
ヨブはきっと、今までの人生でこれほどの事は無かったというほどに、神を意識し、神を考え、神との交わりを求めて行った事だろう。

神はなぜ苦しめるのか。その理由は聖書の色々な箇所に記されているのだが、今回は申命記に書いてある事を注目したい。

申命記8:2 あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。
8:3 それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。
・・・
8:16 先祖たちも知らなかったマナを荒野であなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試みて、ついにはあなたをさいわいにするためであった。
8:17 あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』と言ってはならない。
8:18 あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。

主が人を苦しめる理由は、「心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るため」、また、「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。」
さらには、その苦しみの後に主との交わりをもっと深くし、さらに豊かに与えられる物質的祝福を、さらに神の栄光のために用いていくためである。
ヨブはこの苦しみによって、最も恐れていたものは物質的な祝福(パン)が取り上げられる事だった事があらわにされ(3:25)、そして最終的には、人はパンだけで生きるのではなく、神の口から語られた御言葉によって生きる事を、知るに至った。

ヨブは、神を離れるのでなく、むしろ神に近づいて行き、彼は神に対し「口をおさえず、/わたしの霊のもだえによって語り、/わたしの魂の苦しさによって嘆」いた。
感謝を捧げるためであろうと、文句を言うためであろうと、ともかく「神に近づく事」こそ、大事なのだ。

7:17 人は何者なので、あなたはこれを大きなもの(ガダル:引き上げる、尊ぶ)とし、/これにみ心をとめ、
7:18 朝ごとに、これを尋ね、/絶え間なく、これを試みられるのか。

ここは詩篇8篇に似ている。

詩篇8:3 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
8:4 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
8:5 ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、

ダビデは、天の万象の偉大さ精巧さを見るに、それに引き換え、人間とは何者なのだろう、と、主を褒め称えた。
それに対し、ヨブは、自分にこんなにも目を留め、絶え間なく試みられるのはどういう事か、と、真逆のスタートポイントから、同じ言葉へと行き当たった。
共通して行き当たっている事は、神は、人を、特別扱いしておられる、という事である。
ヨブは実際、「人は何者なので、あなたはこれを大きなもの(ガダル:引き上げる、尊ぶ)とし」、と言った。
ヨブは、ひっきりなしに来る責め苦の中にも、神の特別扱いを感じたのだ。
今まさに、神の特別扱いの真っ最中なのだ、と。

7:19 いつまで、あなたはわたしに目を離さず、/つばをのむまも、わたしを捨てておかれないのか。
7:20 人を監視される者よ、わたしが罪を犯したとて、/あなたに何をなしえようか。なにゆえ、わたしをあなたの的とし、/わたしをあなたの重荷とされるのか。
7:21 なにゆえ、わたしのとがをゆるさず、/わたしの不義を除かれないのか。わたしはいま土の中に横たわる。あなたがわたしを尋ねられても、/わたしはいないでしょう」。

ヨブは今回の箇所で、なぜ、どうして、と、何度も主に問いかけた。
結局、主に求め続け、問い続け、そうして主と関わり続ける事こそ大事であり、その向こう側に、以前に遥かに勝る幸いが待っているのだ。
こんな困難の中でも、主を捨て去る事なく、主にとどまり続け、問い続けてきたヨブの「なぜ」の答え、それは、新約に書かれてある通りである。

ヤコブ5:10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
5:11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。
 

ヘセド(慈しみ)が枯れてしまっている言葉に絶望したヨブ(ヨブ記6章)
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テマン人エリファズの諭しに対する、ヨブの答えが、6章と7章である。

6:1 ヨブは答えて言った、
6:2 「どうかわたしの憤りが正しく量られ、/同時にわたしの災も、はかりにかけられるように。
6:3 そうすれば、これは海の砂よりも重いに相違ない。それゆえ、わたしの言葉が軽率であったのだ。
6:4 全能者の矢が、わたしのうちにあり、/わたしの霊はその毒を飲み、/神の恐るべき軍勢が、わたしを襲い攻めている。

エリファズに対するヨブの真っ先の答えは、今自分に計り与えられている災いや苦悶の重さがどれほどであるか、計られるように、という事だった。
絶望と苛立ちの荒波に揉まれているヨブの思いとすれば、それが海の砂よりも重いに違いない、という思いから出てきた言葉であろう。
ヨブは、自分の言葉が軽率であったと自覚している。
「軽率」と訳された語「ルアー」の語根は、「早口で話す」あるいは「抑制なしに話す」という意味がある
しかし、理性を保とうとしているヨブの友人達からすれば、彼の抑制なしの言葉や、「これは海の砂よりも重い」という感覚的な言葉は、格好の攻撃材料になり、もっとヨブを苦しめるだろう。
私達は、理性的であると同時に、理性を失っている人の導き方の心得も得られるよう、聖霊に求めるべきだ。

6:5 野ろばは、青草のあるのに鳴くであろうか。牛は飼葉の上でうなるであろうか。
ヨブが今鳴いたりうなったりしているのは、理由なしではない。

6:6 味のない物は塩がなくて食べられようか。すべりひゆのしるは味があろうか。
6:7 わたしの食欲はこれに触れることを拒む。これは、わたしのきらう食物のようだ。

「すべりひゆのしる」はヘブライ語でリィル、意味の特定は難しいが、どろどろしたもので、聖書では2回した使われておらず、ここの他で使われているのは、ダビデが気違いを装った時、彼の口から出した”よだれ”で、この語が使われている。
エリファズの口から出た言葉は、まさに気違いが発したよだれのよう、そして塩気が無い言葉で、ヨブとしては到底、受け入れられないものだったのだ。

6:8 どうかわたしの求めるものが獲られるように。どうか神がわたしの望むものをくださるように。
6:9 どうか神がわたしを打ち滅ぼすことをよしとし、/み手を伸べてわたしを断たれるように。
6:10 そうすれば、わたしはなお慰めを得、/激しい苦しみの中にあっても喜ぶであろう。わたしは聖なる者の言葉を/否んだことがないからだ。

ヨブは再び死を願っているが、3章と違う所は、その叫びの中に、神との関わりがある所だ。
彼は、主ご自身に打たれる事が慰めだ、と言っている。

なお、10節で「わたしは聖なる者の言葉を/否んだことがないからだ。」と言っているが、これはヨブ自身、罪を犯したことは無い、と主張しているのではない。
彼は全能者を前に、自分は罪ある者であることを自覚している。(7:20-21)
ただ、彼は本当に、聖なる方の言葉を、自ら意図して否んだ記憶は無く、ただ、御前に忠実に仕えようとして来た事しか思い当たらないのだ。
それは本当である。実際2章では、主がサタンに対し、ヨブがくちびるで罪を犯さなかった事を賞賛している。

6:11 わたしにどんな力があって、/なお待たねばならないのか。わたしにどんな終りがあるので、/なお耐え忍ばねばならないのか。
6:12 わたしの力は石の力のようであるのか。わたしの肉は青銅のようであるのか。
6:13 まことに、わたしのうちに助けはなく、/救われる望みは、わたしから追いやられた。

ヨブの友人達とすれば、ヨブを助け慰めるために来たので、この言葉は心外に聞こえたかもしれない。
しかしヨブからすれば、友人達は助けにならず、「忍耐しなくてはならない対象」でしかなかった。
なぜならヨブが求めていたものは、正論による諭しではなく、もっと別のものだったからである。

6:14 その友に対するいつくしみをさし控える者は、/全能者を恐れることをすてる。

ヨブは友から、いつくしみ(ヘセド)と求めていたのだ。
主はヘセドに満ちたお方、慈しみ深いお方である。忍耐があり、赦しがある。
だから罪と弱さを持つ人間は、その慈しみにより、救われる余地があるのである。
もし慈しみが無いなら、全能者を前に、絶望する以外に無く、その人は「何をしても無駄だ」と自暴自棄になってしまう。

6:15 わが兄弟たちは谷川のように、/過ぎ去る出水のように欺く。
6:16 これは氷のために黒くなり、/そのうちに雪が隠れる。
6:17 これは暖かになると消え去り、/暑くなるとその所からなくなる。
6:18 隊商はその道を転じ、/むなしい所へ行って滅びる。
6:19 テマの隊商はこれを望み、/シバの旅びとはこれを慕う。
6:20 彼らはこれにたよったために失望し、/そこに来てみて、あわてる。
6:21 あなたがたは今わたしにはこのような者となった。あなたがたはわたしの災難を見て恐れた。

ヨブは、友人達が、川のように、出水のように欺いた、と言った。
隊商や旅人が荒野を旅する時、川を、水を慕い求め、熱い中を来たのに、来てみると、水はひからびて無かったのを発見し、失望してあわてるごとくに、ヨブは、友人達に対し、ヘセドの慈しみを期待したのに、それは友人達には無く、ひからびていたので、ヨブはとても失望したのだ。
私達が、教会の交わりにおいて必要な事が、ヘブル書に書いてある。

ヘブル13:1 兄弟愛を続けなさい。
13:2 旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。
13:3 獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。

兄弟愛はギリシア語でフィラデルフィアと言う。主は黙示録3章において、フィラデルフィアの教会は来るべき患難の時代でも保たれる事を示している。
そしてフィラデルフィア教会には、一切、叱責は無い。
私達は患難の時、兄弟愛を保ち、また、罪に病に災いに繋がれている人達を、自分も一緒につながれている心持ちで思いやるべきであり、また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめるべきなのだ。

ヨブはさらに強固に自分の正当性を主張する。

6:22 わたしは言ったことがあるか、『わたしに与えよ』と、/あるいは『あなたがたの財産のうちから/わたしのために、まいないを贈れ』と、
6:23 あるいは『あだの手からわたしを救い出せ』と、/あるいは『しえたげる者の手から/わたしをあがなえ』と。
6:24 わたしに教えよ、そうすればわたしは黙るであろう。わたしの誤っている所をわたしに悟らせよ。

ヨブの友人は、ヨブの状況を詳しく知らずに来た。それなのに、ヨブの罪を指摘し、悔い改めるように勧めた。
しかしヨブとしては、どの罪を犯したのか一切の心当たりは無く、実際にしていないのだ。
ヨブの友人は、神を敬うように、神の素晴らしさを説いた。
しかしヨブとしては、神が素晴らしいお方である事は百も承知なのだ。

悔い改めは、罪の自覚があって初めて出来るものであり、謝罪も、自分が悪いことをしたという自覚が必要である。
自覚が無い人に、いくら促しても、ただただ逆効果なのだ。
だから、自覚が無い人には、その人が神様と直接出会う事を求める事が最も有効である。
ヨブが後に、神と直接出会って、悔い改めたように。

6:25 正しい言葉はいかに力のある(マラツ:痛いという意味もある)ものか。しかしあなたがたの戒めは何を戒めるのか。

正しい言葉は力があるが、ヘセドが無いとしたら、それはただ痛いだけで癒やしがない。
私達は、愛と憐れみに満ちた主の霊に導かれ、知恵が与えられ、恵みによって人を癒やす事を学ばなくてはならない。
箴言12:18 つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人をいやす。

6:26 あなたがたは言葉を戒めうると思うのか。望みの絶えた者の語ることは風のようなものだ。

ヨブがここで言っているように、絶望した者の言葉は、あらしのようである。
言葉の一つ一つを分析して論理的に戒めても、あらしに向かって戒めるようなもので、全く効き目はない。
むしろヨブは、もっと頑なに自己正当化してしまう。

6:27 あなたがたは、みなしごのためにくじをひき、/あなたがたの友をさえ売り買いするであろう。
6:28 今、どうぞわたしを見られよ、/わたしはあなたがたの顔に向かって偽らない。
6:29 どうぞ、思いなおせ、まちがってはならない。さらに思いなおせ、/わたしの義は、なおわたしのうちにある。
6:30 わたしの舌に不義があるか。わたしの口は災を/わきまえることができぬであろうか。

私達は兄弟愛をもって、また、ヘセドの恵みをもって、兄弟姉妹を滅びから救い出す者でありたい。
それは人間の知恵によらず、ただ、御霊に導かれてこそ出来るものである。

人をさらに傷つけてしまう”正論に酔った人の箴言”(ヨブ記5章)
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エリファズは、ヨブが罪を犯したという事を前提とし、その報いとして、こんなにも酷い災いが起きているのだ、という論法で、格言や不思議体験を披露したが、しかしあいにく前提がそもそも違っている。
洋服のボタンが、いかにゴージャスな金銀宝石で出来ていても、最初のボタンをかけ間違えて行くなら、みっともなさのゴージャスになってしまうのと同じように、どんなに正しい格言や深淵な不思議を披露しても、前提を誤っていれば、その全部が虚しくなってしまい、そしてエリファズの言葉が正しければ正しい程、ヨブを深く傷つけて行く。
ヨブが自分の生まれた日を呪う言葉を噴出させたが事に対し、エリファズは続けて言う。

5:1 試みに呼んでみよ、/だれかあなたに答える者があるか。どの聖者にあなたは頼もうとするのか。
5:2 確かに、憤りは愚かな者を殺し、/ねたみはあさはかな者を死なせる。

ここで彼は、どんなに憤りやねたみの心で呼んでも無駄だ、という一般論を言っているが、暗にヨブの3章の叫びは憤りやねたみが根底にあるのだ、そして、それは無駄だ、とほのめかしている。
思いやって余りあるヨブの状況に対し、それは酷く聞こえると思えるが、エリファズはさらに酷な言葉で突き刺す。

5:3 わたしは愚かな者の根を張るのを見た、/しかしわたしは、にわかにそのすみかをのろった。
5:4 その子らは安きを得ず(直訳:安全から遠くなり)、/町の門でしえたげられ(ダカー:打たれる、押しつぶされる)ても、これを救う者がない。

エリファズは、自分は愚かな者を呪ったら、その愚か者の子供達からは、安全が離れて行き、裁判が行われる町の門の所で打たれ誰も弁護しない、と言ったが、しかし「子供達の上に門が倒れてそれに押しつぶされてしまった」とも取れる言葉で、諭した。
暗にヨブを愚か者にしており、しかもヨブは、全ての子供達が、家が倒れてその下敷きとなり失ってしまったのである。
そんな彼に、この格言を用いるのは、甚だ酷ではなかろうか。
私達は、あなたにあんなに災いが起きたのは、罪を犯したからだ、愚か者だからだ、などと、”先走ったさばき”をしてはならない。
1コリント4:5 だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。

5:5 その収穫は飢えた人が食べ、/いばらの中からさえ、これを奪う。また、かわいた者はその財産をあえぎ求める。
5:6 苦しみは、ちりから起るものでなく、/悩みは土から生じるものでない。
5:7 人が生れて悩みを受けるのは、/火の子が上に飛ぶにひとしい。

エリファズは再び因果応報を言う。
悪いことをしたら、悪いことが起きる。
それはどんな宗教でも言っているし、聖書でも言う所であるが、しかし災いと見える事が起きる原因が、必ずしも、本人が悪いことをしたからだ、とは、限らない。
ヨブの場合はそうだったし、特に神がそれをするのは、子として特別に扱われるからであり、より優れた者へと鍛えるためだと書いてある。

ヘブル12:5 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、/「わたしの子よ、/主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
12:6 主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。
12:7 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
12:8 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
12:9 その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。
12:10 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
12:11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。

5:8 しかし、わたしであるならば、神に求め、/神に、わたしの事をまかせる。

エリファズはここでも、ヨブは神に求めていない事・神にまかせていない事を前提に物申しているが、ヨブは災いに遭った当初に最高の賛美で主をほめたたえ、
彼の妻から「神をのろって死になさい。」と言われても、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」と答えたのだ。
とうの昔に、神に求め、神にまかせているのに、なお、この事が起きている彼に「わたしであるならば、神に求め、/神に、わたしの事をまかせる」と言うエリファズの言葉は、なんと空しく響くだろう。

続いてエリファズは、神はいかなるお方であるのかを語っている。

5:9 彼は大いなる事をされるかたで、測り知れない、/その不思議なみわざは数えがたい。
5:10 彼は地に雨を降らせ、野に水を送られる。
5:11 彼は低い者を高くあげ、/悲しむ者を引き上げて、安全にされる。
5:12 彼は悪賢い者の計りごとを敗られる。それで何事もその手になし遂げることはできない。
5:13 彼は賢い者を、彼ら自身の悪巧みによって捕え、/曲った者の計りごとをくつがえされる。
5:14 彼らは昼も、やみに会い、/真昼にも、夜のように手探りする。
5:15 彼は貧しい者を彼らの口のつるぎから救い、/また強い者の手から救われる。
5:16 それゆえ乏しい者に望みがあり、/不義はその口を閉じる。

たしかに主はそのようなお方だ。
しかし、あのように酷い、ボタンをかけ間違えた諭しを言ったエリファズの口から出たこの言葉は、どんなに虚しく響いただろう。

5:17 見よ、神に戒められる人はさいわいだ。それゆえ全能者の懲らしめを軽んじてはならない。
5:18 彼は傷つけ、また包み、/撃ち、またその手をもっていやされる。
5:19 彼はあなたを六つの悩みから救い、/七つのうちでも、災はあなたに触れることがない。
5:20 ききんの時には、あなたをあがなって、/死を免れさせ、/いくさの時には、つるぎの力を免れさせられる。
5:21 あなたは舌をもってむち打たれる時にも、/おおい隠され、/滅びが来る時でも、恐れることはない。
5:22 あなたは滅びと、ききんとを笑い、/地の獣をも恐れることはない。
5:23 あなたは野の石と契約を結び、/野の獣はあなたと和らぐからである。
5:24 あなたは自分の天幕の安全なことを知り、/自分の家畜のおりを見回っても、欠けた物がなく、
5:25 また、あなたの子孫の多くなり、/そのすえが地の草のようになるのを知るであろう。
5:26 あなたは高齢に達して墓に入る、/あたかも麦束をその季節になって/打ち場に運びあげるようになるであろう。

確かに主に懲らしめられる人は、このように幸いだ。間違ってはいない。
しかし、どんなに素晴らしい主のご性質をとなえても、本人の状況を無視し、かつ酷く本人の傷を抉る言葉を言った後では、その内容は全く響かない。
むしろ主を呪う者へと、その人を導いてしまう。

5:27 見よ、われわれの尋ねきわめた所はこのとおりだ。あなたはこれを聞いて、みずから知るがよい」。

エリファズはこの弁論のはじめに「わたしの見た所によれば」と言い、そして最後に「われわれの尋ねきわめた所」と言った。
結局エリファズは、主エホバに根拠を持たず、わたしの見解を述べたものだ。
その内容が、どんなに正しく、御言葉と一致していたとしても、神の霊なき人間の知恵は、人をゆっくり破滅させる以外に無い。
あたかも、医者が、手術するために肺を切開し、その手術法も、技術も、全く完璧であったにもかかわらず、あいにく病巣は肺にはなかった、というようなものだ。
ただ主の御霊だけが、人の真の病巣を照らし出し、御霊による神の御言葉だけがそれを取り除き、人を生かし、悪魔を切り刻むのである。
後に、このやり取りをじっと聞いていた若者エリフが言った通りである。

32:7 わたしは思った、『日を重ねた者が語るべきだ、/年を積んだ者が知恵を教えるべきだ』と。
32:8 しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。
32:9 老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。

主は後に、エリファズに対して言っている。

ヨブ42:7  主はこれらの言葉をヨブに語られて後、テマンびとエリパズに言われた、「わたしの怒りはあなたとあなたのふたりの友に向かって燃える。あなたがたが、わたしのしもべヨブのように正しい事をわたしについて述べなかったからである。

そう、神の霊によらず、人間の知恵に依った正論、自分に酔った格言は、人を傷つけ、いかに御言葉を引用したとしてもそれは「正しい事をわたしについて述べなかった」と言われてしまうのだ。

箴言26:9 愚かな者の口に箴言があるのは、酔った者が、とげのあるつえを手で振り上げるようだ。

だから私達は、特に、人を伝道をする時、気をつけるべきである。

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