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メッセージ - 2歴代誌カテゴリのエントリ

イスラエルを分断するために主から用いられたヤロブアム(2歴代誌10:1-2)
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10:1 レハベアムはシケムへ行った。すべてのイスラエルびとが彼を王にしようとシケムへ行ったからである。
10:2 ネバテの子ヤラベアムは、ソロモンを避けてエジプトにのがれていたが、これを聞いてエジプトから帰ったので、

王権はソロモンからその子レハブアムへ移った。
この、レハブアムの時代にイスラエルは重大な転換点を迎える。すなわち、南北王国への分断である。
そのために主に用いられた重要な器が、ネバテの子ヤロブアムである。
今回はこのヤロブアムについて見ていきたい。

彼がどういうわけで用いられたのかについては、列王記のほうに記されている。


『ゼレダのエフライムびとネバテの子ヤラベアムはソロモンの家来であったが、その母の名はゼルヤといって寡婦であった。彼もまたその手をあげて王に敵した。彼が手をあげて、王に敵した事情はこうである。ソロモンはミロを築き、父ダビデの町の破れ口をふさいでいた。ヤラベアムは非常に手腕のある人であったが、ソロモンはこの若者がよく働くのを見て、彼にヨセフの家のすべての強制労働の監督をさせた。』(1列王記11:26-28)

エフライムは、イスラエルが特に祝福したヨセフの子孫であり、北イスラエル王国の代表的な民族であるが、そのヨセフ一族の監督として立てられたヤロブアムを、主は、イスラエルを分断する者として用いるため、預言者アヒヤを彼に遣わされた。
彼は「手腕家」と記されている。政治的にも、人望的にも優れた人だったのだろう、だからこそ人々から選ばれたのだ。
そして彼に、主は、ダビデに並べて語っているからには、きっと彼は主に聞き従って大成するポテンシャルを持った人であったのだろう、それで主に選ばれたのだ。

『そのころ、ヤラベアムがエルサレムを出たとき、シロびとである預言者アヒヤが道で彼に会った。アヒヤは新しい着物を着ていた。そして彼らふたりだけが野にいた。』(1列王記11:29)
彼らは野原で二人だけの状況で、誰も彼らの会話を聞いていないが、アヒヤはそこで、象徴的な言葉を与える。

『アヒヤは着ている着物をつかんで、それを十二切れに裂き、ヤラベアムに言った、「あなたは十切れを取りなさい。イスラエルの神、主はこう言われる、『見よ、わたしは国をソロモンの手から裂き離して、あなたに十部族を与えよう。(ただし彼はわたしのしもべダビデのために、またわたしがイスラエルのすべての部族のうちから選んだ町エルサレムのために、一つの部族をもつであろう)。』(1列王記11:30-32)

外套を引き裂く事は、王権が引き裂かれる事を暗示する。
かつて、サウル王が主の御言葉を二度目に退けた時、サムエルはサウルに愛想を尽かし、出て行こうとしたが、その時サウルはサムエルを引き留めようとして上着のすそを掴んで、引き裂いたが、その時、サムエルは言った。
「主はきょう、あなたからイスラエルの王国を裂き、もっと良いあなたの隣人に与えられた。」(1サムエル15:28)
結局、王権はサウルの元を離れ、ダビデのものとなった。(1サムエル記24:4)

主に特別な油注がれた人が、主から警告が与えられてもそれを退け、御心にそぐわない事をあくまで続けるなら、その人はちょうどサウルやソロモンのような事が起こってしまう。
すなわち、与えられている支配権は主によって取り上げられ、別の人がそれを得るのだ。

『それは彼がわたしを捨てて、シドンびとの女神アシタロテと、モアブの神ケモシと、アンモンの人々の神ミルコムを拝み、父ダビデのように、わたしの道に歩んで、わたしの目にかなう事を行い、わたしの定めと、おきてを守ることをしなかったからである。』(1列王記11:33)

モアブの神ケモシュは、自分の子供を火で焼いて捧げるような邪教の偶像神である。
ソロモンはそのような神々に平伏すような愚かな事を行い、二度の警告にも聞き従わず、その道を進んでしまった。

『しかし、わたしは国をことごとくは彼の手から取らない。わたしが選んだ、わたしのしもべダビデが、わたしの命令と定めとを守ったので、わたしは彼のためにソロモンを一生の間、君としよう。そして、わたしはその子の手から国を取って、その十部族をあなたに与える。その子には一つの部族を与えて、わたしの名を置くために選んだ町エルサレムで、わたしのしもべダビデに、わたしの前に常に一つのともしびを保たせるであろう。』(1列王記11:34-36)

彼が生きている間にその分断が起きなかったのは、決してソロモンに何か良い分がかったからではない。
ソロモンは、サウルの場合と違い、彼の父・ダビデが示した忠実の故に、また、主の御名が置かれたエルサレムの故に、生きている間は王権は取り上げられなかったのだ。

主はヤロブアムに、王として統治するに、自由裁量を与えられる。
『わたしがあなたを選び、「あなたはすべて心の望むところを治めて(KJV: thou shalt reign according to all that thy soul desireth)」、イスラエルの上に王となるであろう。』(1列王記11:37)

このように、主が特別な任に召しだされる人に、主は、それを遂行するに必要な能力(賜物)と、全て必要な手はずの整えと、そして「自由裁量」が与えられ、それに従って、御旨を遂行していくものだ。
しかし、その自由裁量の中で、与えられた能力や手はずを、主のためではなく、自分の欲望を満たすためにのみ用いて事を為し続けるなら、主から特別扱いされているだけに、ペナルティもまた大きい。それは、ヤロブアムがこの後、どう歩み、どうなってしまうのかを見て行くと、よくわかる。

続く言葉は、驚くべき言葉である。
『もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば、わたしはあなたと共にいて、わたしがダビデのために建てたように、あなたのために堅固な家を建てて、イスラエルをあなたに与えよう。わたしはこのためにダビデの子孫を苦しめる。しかし永久にではない』」。』(1列王記11:38-39)
なんと主は、このヤロブアムに、ダビデのように、長く続く堅固な家を立てる、と、ダビデに準じるような約束を与えられている。

ヤロブアムには、これ程の約束が与えられている、というのに、彼の名を知らないクリスチャンは、多いと思う。
なぜなら、彼の家は、たったの二代で断たれてしまったからだ。
なぜなら彼は、祝福の条件である次の言葉、「もし、あなたが、わたしの命じるすべての事を聞いて、わたしの道に歩み、わたしの目にかなう事を行い、わたしのしもべダビデがしたように、わたしの定めと戒めとを守るならば」、という点を全く守らず、警告を受けても改めなかったからだ。
もしヤロブアムが主の命令に聞き従い、主の目にかなう事を行っていたのなら、ヤロブアムの名は、ダビデに次ぐ栄光の名前になっていた可能性も有り得たわけであり、もし、ダビデが戒めを受けてもなお心頑なにし罪を犯し続けていたなら、彼の名はここまで大きくはならなかったのだ。
彼にしても、ソロモンにしても、そしてダビデにしても、主を恐れ敬い、主の御言葉に従って歩むという「祝福の条件」を満たす人に、主は大いに報いて祝福を下さるが、もしその逆の道を歩むなら、その人には約束の祝福は成就しないばかりか、悲惨な目に遭ってしまう。

私達にも全く同様である。
主から素晴らしい祝福の約束をいただき、預言の御言葉をいただいているにもかかわらず、主を軽んじ、御言葉に反して身勝手な道を歩み続けるなら、主はそのことについて警告を与えられる。
それでも聞かないなら、与えようとしていた祝福は取り上げられ、それでも悔い改めないなら、聖書の中でそのように歩んだ人達と、同じ末路になってしまう。
一体、幾人の人達が、主から素晴らしい召命をいただいておきながら、不従順によって、その特別な地位を奪われ、歴史の闇へと消えて行ってしまったのだろう。

『ソロモンはヤラベアムを殺そうとしたが、ヤラベアムは立ってエジプトにのがれ、エジプト王シシャクのところへ行って、ソロモンの死ぬまでエジプトにいた。』(1列王記11:40)
ソロモンは、主に対して不実だった自分を悔い改める事なく、また、その結果もたらされた「新展開」を素直に受け入れず、ヤロブアムを抹殺しようとしたのだ。
しかし、彼の計らいは叶わなかった。

主の御旨に従わない悪い王が、主の御旨に適う新しい王が誕生したのを聞いた時、悪い王は、その新しい王をあらゆる権力を行使して殺そうとするも叶わず、彼にはエジプトへ逃げられてしまう。
どこかで聞いたことのある話である。
そう、イエス様が誕生された時、ちょうど同じ事が起きた。

当時、ユダヤを治めていた悪い王・ヘロデは、ユダヤの新しい王が誕生したうわさを聞いた時、その赤子を殺害しようとしたが、主はその子をエジプトへ逃れさせ、ヘロデ王が死ぬまで、エジプトでかくまわれた。(マタイ2章)
ソロモンがヘロデ王と同じ行動を取ったのは、情けない話であるが、主がひと度「成す」と定められた事には、いかに強い王が権力を駆使して抹殺しようとしても、無駄なのだ。

これを境に、イスラエルの歴史は暗転する。
王国は北と南に分裂し、悪い王と良い王の交錯する混乱した時代へと突入する。
そして、その中で一貫して貫かれている法則は、主に従う王は栄え、主に従わない王は災いに満ちている、という点だ。

人はみな、罪があり、間違った方向へ行く事もある。
そんな自分の罪を悲しみ、悔い改めて主に立ち返る人に対して、主は憐れみ深く赦して下さるが、指摘された自分の罪を悲しまずに、むしろ楽しみ、主から戒められても、なお改めないなら、災いに満ちてしまう。

私達はダビデのように、素直に悔い改める性質でありたい。
彼はそのような性質だったからこそ、大いなる栄誉が与えられたのだ。

力、女、金 vs 御言葉 - 王たる者が求めてははらぬものと求めるべきもの(2歴代誌9:13-31)
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前回の箇所では、シェバの女王が来訪し、ソロモンに与えられた知恵と栄誉、イスラエル栄えている有様を目の当たりにして息をのんだ。
今回の箇所でも、ソロモンがいかに栄華を極めていたかが記されている。

9:13 さて一年の間にソロモンの所にはいって来た金の目方は六百六十六タラントであった。
9:14 このほかに貿易商および商人の携えて来たものがあった。またアラビヤのすべての王たちおよび国の代官たちも金銀をソロモンに携えてきた。
9:15 ソロモン王は延金の大盾二百を造った。その大盾にはおのおの六百シケルの延金を用いた。
9:16 また延金の小盾三百を造った。小盾にはおのおの三百シケルの金を用いた。王はこれらをレバノンの森の家に置いた。

毎年、外国から膨大な金がもたらされ、ソロモンはそれを用いて宮殿をきらびやかに飾る。
盾は武具であるが、純金は重く、また金属として柔らかいので、戦闘では役に立たない。
だから、これらは武器庫にではなく、宮殿のきらびやかさを示す「飾り」として置かれた。

9:17 王はまた大きな象牙の玉座を造り、純金でこれをおおった。

象牙は今も貴重であるが、それが純金で覆われた王座にソロモンは座して執務を行った。

9:18 その玉座には六つの段があり、また金の足台があって共に玉座につらなり、その座する所の両方に、ひじかけがあって、ひじかけのわきに二つのししが立っていた。
9:19 また十二のししが六つの段のおのおのの両側に立っていた。このような物はどこの国でも造られたことがなかった。
9:20 ソロモン王が飲むときに用いた器はみな金であった。またレバノンの森の家の器もみな純金であって、銀はソロモンの世には尊ばれなかった。
9:21 これは王の船がヒラムのしもべたちを乗せてタルシシへ行き、三年ごとに一度、そのタルシシの船が金、銀、象牙、さる、くじゃくを載せて来たからである。

ソロモンの時代、いかに金が、国々の珍しい動物が集められて来たか、いかに栄光ある時代であったかが伺える。
かつてどの国にも造られた事の無かったような贅を凝らした王座に座し、金の器物が惜しみなく大量に使用された宮殿に住み、どの国も、かつてなかった程のごちそうが毎日宮殿で振る舞われ、そのような豪勢な暮らしをしていた。

9:22 このようにソロモン王は富と知恵において、地のすべての王にまさっていたので、
9:23 地のすべての王は神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとしてソロモンに謁見を求めた。
9:24 人々はおのおの贈り物を携えてきた。すなわち銀の器、金の器、衣服、没薬、香料、馬、騾馬など年々定まっていた。

国々の王達が、全世界より、陸路からも海路からも栄光を携え上って来る。。。まさに啓示録22章のような有りさまではある。確かに主の道を歩む者に、神はそのような祝福を与えて下さるが、結局それは彼の信仰が正しい形で貫き通されたからではなく、父ダビデの信仰の「七光り」であった。

神の国とその義とをまず第一に求めれば、必要なものは、加えて、全て与えられ、自然と富も栄光も追いかけてくるのだが、しかし彼は、途中からそれが逆転してしまった。
すなわち彼はいつしか、富や栄光を優先して追いかけるようになり、神の国とその義を追い求める道を捨て去ってしまった。
そのような者は、富や栄光を追いかけても、それらに逃げられてしまうようになる。
彼は人生の後半、贅沢な暮らしを続けるために、人々に重税を課した。(2歴代誌10:4)
統治の初期は、食料も富もふんだんに追いかけてきたイスラエルだったのに、いつしかソロモンが信仰を離れてから、それらは途絶えてしまったのだ。

9:25 ソロモンは馬と戦車のために馬屋四千と騎兵一万二千を持ち、これを戦車の町に置き、またエルサレムの王のもとに置いた。
9:26 彼はユフラテ川からペリシテびとの地と、エジプトの境に至るまでのすべての王を治めた。
9:27 王はまた銀を石のようにエルサレムに多くし、香柏を平野のいちじく桑のように多くした。
9:28 また人々はエジプトおよび諸国から馬をソロモンのために輸入した。

ソロモンはエジプトから馬を大量に輸入した。
モーセは、神をおそれる国の王たるものが、してはならない事を、3つ示している。

申命記17:16 王となる人は「自分のために(KJV: to himself)」馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。
17:17 また妻を(KJV: to himself)多く持って心を、迷わしてはならない。また「自分のために(KJV: to himself)」金銀を多くたくわえてはならない。

王たる者が集めてはならないものは、すなわち、力と、女と、金である。
馬は、戦争で用いる動物であり、当時の軍事力の指標であるが、神は馬の力を喜ばれない。
なぜ馬を多く得るために「再び」「エジプトへの道を帰ってはならない」と主は言われたのか。

エジプトはかつて、イスラエルの子・ヨセフによって、世界一の強国となったにもかかわらず、後には、イスラエルの民を奴隷として搾取し、それによって得た富をイスラエルには還元せず、ただ自分のために蓄えた。
エジプトは、馬や戦車などの軍事的強制力でもって他人を抑え、奴隷として搾取し、さらには、イスラエルの民が増えて脅威となったならもっと過酷な労働を課して減らそうとし、それでもだめなら、男子が生まれたらナイル川に捨ててまで、減らそうとした国である。

そのように、馬を増やして強制力を強くする事や、自分のために金銀を増やす事は、エジプトの流儀であり、そのような流儀に「戻って」はならないのだ。
これは、クリスチャンも同じである。
人々を強制力で縛り、搾取し、自分のために富を蓄える事は「世のやり方に戻る事」であり、そこに戻るとするなら、主がエジプトを撃って神の民を救われたように、主は、そのような事をする者達を撃ち、搾取されてあえいで苦しんできた人々を、救って下さるのだ。
だから「その道に帰ってはならない」と言われたのだ。

神を主とする国の王たる者は、軍事力を積み上げる事に、やっきになってはならない。
ダビデも自国の兵力を数えるという罪を犯し、イスラエルに災いを招いてしまった。力を頼みとする者は、おごり高ぶったり、神をないがしろにしかねないのだ。

また、してはならない事の二つ目は、妻を多く持つ事である。
それによって心迷うからであり、また、主は元々、人を男と女とに創造され、「ふたりは一体となる」と言われた通り、多くの伴侶を持つのは、本来あるべき姿ではないのだ。
実際、聖書を見ると、多くの妻を持っている家庭は必ずと言っていい程、争いがあり、子育てに失敗している。

してはならない事の三つ目は、金銀を多く蓄える事である。
『金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。』(1テモテ6:9-10)

力、女、金。それらを追求するのは、世の男の常であり、多く持つ事がステータスであるが、しかし、神の民は、それらを第一に追求するものではない。
神の民は、御言葉をこそ追い求めるものであり、神の国とその義を求めるなら、それらのものは、ついてくるものである。
モーセは、王たる者が求めてはならない三つのものを示した後、求めるべきものを以下のように示した。

申命記17:18 彼が国の王位につくようになったら、レビびとである祭司の保管する書物から、この律法の写しを一つの書物に書きしるさせ、
17:19 世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない。
17:20 そうすれば彼の心が同胞を見くだして、高ぶることなく、また戒めを離れて、右にも左にも曲ることなく、その子孫と共にイスラエルにおいて、長くその位にとどまることができるであろう。

そう、王たる者は、御言葉をこそ第一に目を留め、そこから右にも左にも離れること無く統治して行くべきなのだ。

9:29 ソロモンのそのほかの始終の行為は、預言者ナタンの書と、シロびとアヒヤの預言と、先見者イドがネバテの子ヤラベアムについて述べた黙示のなかに、しるされているではないか。
9:30 ソロモンはエルサレムで四十年の間イスラエルの全地を治めた。
9:31 ソロモンはその先祖たちと共に眠って、父ダビデの町に葬られ、その子レハベアムが代って王となった。

こうして、ソロモンの統治は、40年で終わった。
もし彼が主の道に歩んでいたなら、その日数は増し加えられていたのに、そうではなかったのは、彼の本心が、主から離れてしまったからだ。

『このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。』(1列王記11:11:9-11)

主はソロモンに立ち返るようにと、2回、現れた。
王国の分裂を止めるために、神はたった2回しか現れなかったのか、と思う人がいるかもしれないが、主は「これがあなたの本心」と言われた。そう、主は本心をご存知であるので、ある人には10回でも20回でも現れてその人が滅びに向かうのを止めることはあるだろう。
しかしソロモンの「本心」は、2回でも20回でも変わらないものだと主はご存知だったのだ。

私達は、ソロモンの道に歩むべきではない。
彼は、してはならないと言われていた事を止めず、戒められても、もう改心する余地が心の中に残っていなかった。
私達はソロモンのように、力や異性、お金を第一に追いかけるものではなく、王族の祭司らしく神の国とその義を第一に求めるべきであり、そして御言葉にのみこそ目をとどめ続けるべきだ。
そしてもし、道を誤っている事が主から示されたなら、ダビデのようにすぐに悔い改め、方向性を御言葉へと修正するべきだ。
そうするなら、必要なものは全て「加えて」与えられ、

シバの女王の来訪(2歴代誌9:1-12)
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9:1 シバの女王はソロモンの名声を聞いたので、難問をもってソロモンを試みようと、非常に多くの従者を連れ、香料と非常にたくさんの金と宝石とをらくだに負わせて、エルサレムのソロモンのもとに来て、その心にあることをことごとく彼に告げた。
9:2 ソロモンは彼女のすべての問に答えた。ソロモンが知らないで彼女に説明のできないことは一つもなかった。

シバの女王の来訪の場面は多くの芸術家が題材にした。
栄華を極めたソロモンに、南の女王が栄光を携え来て、栄華を競う様には華やかさを感じるものであるが、大事なお方は、主を敬う人々に栄華を与える事のできるお方、主である。
いかにダビデの子として愛され、主に約束され、栄華を極めた者であっても、全ての祝福の源である主に背き、他の神々に向かってしまうとするなら、その転落もまた早い。

9:3 シバの女王はソロモンの知恵と、彼が建てた家を見、
9:4 またその食卓の食物と、列座の家来たちと、その侍臣たちの伺候振りと彼らの服装、および彼の給仕たちとその服装、ならびに彼が主の宮でささげる燔祭を見て、全く気を奪われてしまった。

私達もソロモンのように祝福され、主を知らない人が祝福されている様を見て主を誉め称える事を目指すべきである。
息子や娘の服装や言葉遣い、立ち居振る舞いにおいても、そして、私達が礼拝するその礼拝においても、主の栄光が豊かにあらわれ、そうして世の人々に対し大いに証ができるようになるために、自らを整え、御言葉をもって歩み、子供達を御言葉によって教育するのだ。

マタイ5:14 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

9:5 彼女は王に言った、「わたしが国であなたの事と、あなたの知恵について聞いたうわさは真実でした。
9:6 しかしわたしは来て目に見るまでは、そのうわさを信じませんでしたが、今見ると、あなたの知恵の大いなることはその半分もわたしに知らされませんでした。あなたはわたしの聞いたうわさにまさっています。
9:7 あなたの奥方たちはさいわいです。常にあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くこのあなたの家来たちはさいわいです。
9:8 あなたの神、主はほむべきかな。主はあなたを喜び、あなたをその位につかせ、あなたの神、主のために王とされました。あなたの神はイスラエルを愛して、とこしえにこれを堅くするために、あなたをその王とされ、公道と正義を行われるのです」。

彼女は「あなたの神、主はほむべきかな」と、主の御名を褒め称えるに至った。
まことに、主に祝福された人は、その祝福された様を通して、主を知らない人が、主に立ち返るのだ。

9:9 そして彼女は金百二十タラント、および非常に多くの香料と宝石とを王に贈った。シバの女王がソロモンに贈ったような香料は、いまだかつてなかった。
9:10 オフルから金を携えて来たヒラムのしもべたちとソロモンのしもべたちはまた、びゃくだんの木と宝石をも携えて来た。
9:11 王はそのびゃくだんの木で、主の宮と王の家とに階段を造り、また歌うたう者のために琴と立琴を造った。このようなものはかつてユダの地で見たことがなかった。
9:12 ソロモン王は、シェバの女王が贈った物に報いたほかに、彼女の望みにまかせて、すべてその求めるものを贈った。そして彼女はその家来たちと共に自分の国へ帰って行った。

彼女はソロモンと多くの贈り物を交換し、そして多くの知恵を得て、満足の内に帰って行ったであろう。
彼女が持ち帰った、何より素晴らしい知識は、主の栄光である。

彼女は、「あなたの奥方たちはさいわいです。常にあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くこのあなたの家来たちはさいわいです。」と言ったが、永遠の観点から見て、果たして幸いなのは、ソロモンだろうか。それとも彼女だろうか。
彼女のほうである。
イエス様は彼女について言及している。

ルカ11:31 南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果からはるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。

彼女は、知恵を聞くために遠くから旅して来た者であるので、さばきの日、イエス様の言葉を聞いて信じなかった者達をさばく側にまわる、とイエス様は言われた。
聞いて信じる者は、幸いであるが、引き換えソロモンは、後半人生、ただただ空しいという言葉が口癖になってしまった事が、伝道者の書から伺える。

伝道者の書1:1 ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。
1:2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
1:3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。

この世界観は、世界の多くの宗教や哲学に通じるものであるが、これがまさに、まことの神抜きに知恵だけを膨張させた者が行き着く先なのだ。
なんでソロモンは、そうなってしまったのか。

伝道者の書2:3 わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。

つまり、主から与えられた知恵だけでは飽き足らず、愚かさも身につけようとしたのだ。
彼は、欲望や富を追求する事に対してのみならず、知恵を追求するにおいて貪欲でありすぎた故、その「貪欲」に飲み込まれてしまったのだ。

いかに人類最もIQが高いソロモンと言えども、貪欲に妥協してそれを追求してしまったら、その誘惑に勝つことは出来なかった。とするなら、ましてや、私達などが貪欲を追求したりするら、勝てるわけが無いのだ。
だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲は、私達の内に生かして置く事なく、殺してしまうに限る。

新約でソロモンについてもう一箇所、言及されているのは、「栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。」という所である。(マタイ6:29、ルカ12:27)
結局大事なのは、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、ソロモンよりも美しく装わせて下さる主であり、ソロモンよりもさらに優れた御方、主イエス様を信じる事である。

霊的に陰りはじめたソロモンの統治(2歴代誌8:1-18)
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8:1 ソロモンは二十年を経て、主の家と自分の家とを建て終った。

神殿と王宮は、建てるのに20年かかったが、建て終わったの時、彼の治世は24−5年目に入っており、残す治世は、15−6年ほどである。
彼の霊的状況は、既に陰りを見せていたようである。

8:2 またソロモンはヒラムから送られた町々を建て直して、そこにイスラエルの人々を住ませた。

ヒラムから送られた町々とは、元々はソロモンが神殿建設のために労をおってくれたヒラムに対する報酬として与えた町々であるが、ヒラムはそれをソロモンに送り返した時の様が、列王記に記されている。

『ソロモンは二十年を経て二つの家すなわち主の宮と王の宮殿とを建て終った時、ツロの王ヒラムがソロモンの望みに任せて香柏と、いとすぎと、金とを供給したので、ソロモン王はガリラヤの地の町二十をヒラムに与えた。しかしヒラムがツロから来て、ソロモンが彼に与えた町々を見たとき、それらは彼の気にいらなかったので、彼は、「兄弟よ、あなたがくださったこれらの町々は、いったいなんですか」と言った。それで、そこは今日までカブルの地と呼ばれている。ヒラムはかつて金百二十タラントを王に贈った。』(1列王記9:10-14)

ソロモンは、神殿建築の大きな功労者であり、長年親交の深かったツロの王・ヒラムに対し、彼のその労に対するお礼として、「無に等しい(カブル)」と称されるような町々を贈った。
偉大な知恵と、広い心と、多くの富が与えられたはずなのに。

そもそも、イスラエルの土地を、異邦の国に賞与として与える事は、律法に反する事であり、ヒラムの気に入る・気に入らない以前の問題である。
『地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。』(レビ記25:23)
どんなにつまらない地であったとしても、それを異邦人に渡すなど、もっての他なのだ。

他にも、彼が御言葉に妥協したり、違反している点を、幾つか見いだす事が出来る。

8:3 ソロモンはまたハマテ・ゾバを攻めて、これを取った。
8:4 彼はまた荒野にタデモルを建て、もろもろの倉の町をハマテに建てた。
8:5 また城壁、門、貫の木のある堅固な町、上ベテホロンと下ベテホロンを建てた。
8:6 ソロモンはまたバアラテと自分のもっていたすべての倉の町と、すべての戦車の町と、騎兵の町、ならびにエルサレム、レバノンおよび自分の治める全地方に建てようと望んだものを、ことごとく建てた。

この1節から6節までの所に「建てる」という動詞が6回出て来、そさらに6節の「望んだ」とは男性が女性を思慕する感情と同じ表現である。
ソロモンはすなわち、戦車や騎兵の町々を建てる事に、異性に執着するがごとくに熱心に励んだのだ。

8:7 すべてイスラエルの子孫でないヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの残った民、
8:8 その地にあって彼らのあとに残ったその子孫、すなわちイスラエルの子孫が滅ぼし尽さなかった民に、ソロモンは強制徴募をおこなって今日に及んでいる。
8:9 しかし、イスラエルの人々をソロモンはその工事のためには、ひとりも奴隷としなかった。彼らは兵士となり、将校となり、戦車と、騎兵の長となった。
8:10 これらはソロモン王のおもな官吏で、二百五十人あり、民を治めた。

これらの「ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの残った民」は、本来、聖絶すべき者達として定められている。(出エジプト記34:11-12、申命記7:1-3)
しかしソロモンは妥協し、強制労働として働かせた。
たばこを止める人はライターをも捨てなければ、そのライターが後のち災いをもたらすように、これらの者達は、後々にイスラエルに災いする事になってしまう。

8:11 ソロモンはパロの娘をダビデの町から連れ上って、彼女のために建てた家に入れて言った、「主の箱を迎えた所は神聖であるから、わたしの妻はイスラエルの王ダビデの家に住んではならない」。

ソロモンは、エジプトから迎えた正妻を神殿の近くに住まわせなかったが、しかしエジプトの王女である彼女を正妻としてしまっている事には代わりはない。
なぜ彼女を正妻としたのか。それだけエジプトと交流を持って、エジプトの馬や戦車を集めたかったのだろうか。ともかく、それもまた律法に適っていない事である。
申命記17:16 王となる人は自分のために馬を多く獲ようとしてはならない。また馬を多く獲るために民をエジプトに帰らせてはならない。主はあなたがたにむかって、『この後かさねてこの道に帰ってはならない』と仰せられたからである。
17:17 また妻を多く持って心を、迷わしてはならない。また自分のために金銀を多くたくわえてはならない。

ネヘミヤは、異邦の女と結婚し交わる事を忌まわしい事として徹底的に排除したのは、ソロモンのゆえである。

ネヘミヤ13:23 そのころまた、わたしはアシドド、アンモン、モアブの女をめとったユダヤ人を見た。
13:24 彼らの子供の半分はアシドドの言葉を語って、ユダヤの言葉を語ることができず、おのおのその母親の出た民の言葉を語った。
13:25 わたしは彼らを責め、またののしり、そのうちの数人を撃って、その毛を抜き、神の名をさして誓わせて言った、「あなたがたは彼らのむすこに自分の娘を与えてはならない。またあなたがたのむすこ、またはあなたがた自身のために彼らの娘をめとってはならない。
13:26 イスラエルの王ソロモンはこれらのことによって罪を犯したではないか。彼のような王は多くの国民のうちにもなく、神に愛せられた者である。神は彼をイスラエル全国の王とせられた。ところが異邦の女たちは彼に罪を犯させた。

12節から16節までは、ソロモンが主の宮において定められた規定どおりに祭司につとめを守らせた様が記されている。
8:16 このようにソロモンは、主の宮の基をすえた日からこれをなし終えたときまで、その工事の準備をことごとくなしたので、主の宮は完成した。
(NKJV: By this time all of Solomon's projects had been completed. From the laying of the foundation of the Lord's Temple to its completion, all the work had been successful.)

ダビデの用意したものをもって神殿が完成するまで、は、そのわざは「完全(シャレーム)」だった。
しかし、ソロモンの統治の後半以降は、残念ながらそうではなかった。

8:17 それからソロモンはエドムの地の海べにあるエジオン・ゲベルおよびエロテへ行った。
8:18 時にヒラムはそのしもべどもの手によって船団を彼に送り、また海の事になれたしもべどもをつかわしたので、彼らはソロモンのしもべらと共にオフルへ行き、そこから金四百五十タラントを取って、これをソロモン王のもとに携えてきた。

彼は、金銀を蓄える事や事業に、そして女に執心し、御言葉から離れていってしまった。
神の言葉から離れた世の栄華の追求は、ただ、むなしさしか残らない。(伝道者の書2:3-11)

それへと誘う誘惑は、最初はほんな小さなものだったかもしれない。
しかし、それを取り扱わないでいるなら、どんどん滅びへと傾いていってしまい、さらに放置しているなら、ついには真っ逆さまに倒れてしまう。

1コリント5:6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

盛大な奉献式と、主の側の応答(2歴代誌7:4-22)
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ソロモンによる奉献の祈りと民への祝福は終わり、主は天からの火をもってソロモンの祈りに答えられ、その後、盛大な奉献の祝いに入る。

7:4 そして王と民は皆主の前に犠牲をささげた。
7:5 ソロモン王のささげた犠牲は、牛二万二千頭、羊十二万頭であった。こうして王と民は皆神の宮をささげた。
・・・
7:7 ソロモンはまた主の宮の前にある庭の中を聖別し、その所で、燔祭と酬恩祭のあぶらをささげた。これはソロモンが造った青銅の祭壇が、その燔祭と素祭とあぶらとを載せるに足りなかったからである。

捧げられたいけにえは、牛二万二千頭、羊十二万頭という、ものすごい数である。
それだけのいけにえを捧げる事のできたソロモンの富んでいる様や、太っ腹さは目を見張るものがあるが、それだけの「いのち」が犠牲となった事に思いを馳せるべきである。
なぜ、「いのちの犠牲」が発生しなくてはならないのか。
それは、主は、人の罪の「つぐない」として、罪による死の「身代わり」として、血の値を要求されるからだ。
それによって、神との和解を成立させるためだ。

私達は、尊い犠牲となっていのちを捧げられた、神の小羊イエス・キリストを覚えるべきである。
この、捧げられたいのちについて、主に対する感謝と恐れ敬いが無い「いけにえ」は、ただ命を粗末にするだけの殺戮ショーにすぎない。

イエス様は、私達の罪を赦すため、私達の「死」を身代わりとして負うために、そして、私達と神との和解を成就させて下さるために、自ら犠牲となって十字架の上で捧げられた。
私達はこの主イエス・キリストをこそ愛し、彼と共に歩み続けるべきである。

7:10 七月二十三日に至ってソロモンは民をその天幕に帰らせた。皆主がダビデ、ソロモンおよびその民イスラエルに施された恵みのために喜び、かつ心に楽しんで去った。

犠牲のいのちが捧げられ、罪の赦しと神との和解を得られた結果、大きな喜びが湧き上がる。
この時、まことに喜びと祝福の絶頂の時期であるが、大事なのは多大ないけにえを捧げる事よりも、主に対する誠実をキープし続け、主と共に歩み続ける事だ。
『わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもって/そのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。
人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。』(ミカ6:6-8)

主は、祈りを聞かれた事を示すために火を天から降して答えられたが、さらに、夢を通しても答えられた。

7:12 時に主は夜ソロモンに現れて言われた、「わたしはあなたの祈を聞き、この所をわたしのために選んで、犠牲をささげる家とした。
7:13 わたしが天を閉じて雨をなくし、またはわたしがいなごに命じて地の物を食わせ、または疫病を民の中に送るとき、
7:14 わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。

主は、この神殿で祈る祈りに答える、という事よりも先に、「天を閉じて雨をなくし、またはわたしがいなごに命じて地の物を食わせ、または疫病を民の中に送る」、災いが起きた場合についてのほうを先に示された事は、注目に値する。
ききんや疫病は、人の側が主の御声に聞き従わない場合に送られる災いであるが、主は人の成り立ちをご存知である。この時点でこそ、人は神殿を奉献したばかりで喜び楽しんでいるが、人の心の冷めやすさを、ご存知だったのだ。
それで主は先に釘をさされたのである。

7:15 今この所にささげられる祈にわたしの目を開き、耳を傾ける。
7:16 今わたしはわたしの名をながくここにとどめるために、この宮を選び、かつ聖別した。わたしの目とわたしの心は常にここにある。

主の目がいつもこの神殿に注がれ、主の心がいつもそこに置かれている。それは何と素晴らしい事だろうか。
その神殿はイスラエルの栄誉であり、ソロモンとしても何より誇りに思える事であろうが、しかし、主の目がいつも注がれている、という事は、逆に迂闊な事はできないという事でもある。
監視カメラを前に盗みを働く事ができないように、本来、人は常に目を注がれておられる神を御前に罪を行うなどできないはずである。
しかし、神は見えないお方であるゆえに、目に見える物事に従って歩む人は、神の存在を忘れ、平然と罪を犯してしまいがちなのだ。
私達は、ひとり子イエス・キリストを犠牲として私達に与えられた、愛と憐れみ、赦しに満ちた全能の神の眼差しをこそ、意識するべきである。

続いて主は、祝福とのろいの宣言をしておられる。

7:17 あなたがもし父ダビデの歩んだようにわたしの前に歩み、わたしが命じたとおりにすべて行って、わたしの定めとおきてとを守るならば、
7:18 わたしはあなたの父ダビデに契約して『イスラエルを治める人はあなたに欠けることがない』と言ったとおりに、あなたの王の位を堅くする。

祝福の条件は、「歩み、行う、守る」の三つの動詞である。
主の前に歩む事、主の命じられた通りを行う事、主の定めとおきてを守る、という事をする限りでは、ソロモンの子孫はイスラエルを治める事が続く。
主は、神の民に祝福を与え、大いなる者とする事によって、異邦人に栄光を表されるのだ。

7:19 しかし、あなたがたがもし翻って、わたしがあなたがたの前に置いた定めと戒めとを捨て、行って他の神々に仕え、それを拝むならば、
7:20 わたしはあなたがたをわたしの与えた地から抜き去り、またわたしの名のために聖別したこの宮をわたしの前から投げ捨てて、もろもろの民のうちにことわざとし、笑い草とする。

ここにも、3つの事が出てくる。すなわち、主に「そむいて従わず」「戒めと定めとを守らず」「他の神々に行って、それに仕え、それを拝む」なら、主が御名を置かれたあの特別な神殿さえも、投げ捨ててしまう。
残念ながら、実際にその事が起きてしまい、ソロモン神殿はとうの昔に破壊されてしまった。
彼らが主に「そむいて従わず」「戒めと定めとを守らず」「他の神々に行って、それに仕え、それを拝む」からだ。
それは私達にしても、同様である。もし私達がそのように主に対して不誠実を続けるなら、私達もそうなってしまう。

7:21 またこの宮は高いけれども、ついには、そのかたわらを過ぎる者は皆驚いて、『何ゆえ主はこの地と、この宮とにこのようにされたのか』と言うであろう。
7:22 その時、人々は答えて『彼らはその先祖たちをエジプトの地から導き出した彼らの神、主を捨てて、他の神々につき従い、それを拝み、それに仕えたために、主はこのすべての災を彼らの上に下したのである』と言うであろう」。

主は、神の民イスラエルに祝福を与える事を通して、異邦人に栄光を表された。
しかし、もし、御声に聞き従わないという事であるなら、彼らに降される大きな災いを通しても、主は異邦人に栄光をあらわされる。
どちらにしても、ただ主の栄光はあらわれるのだが、主は、人が罪を犯して災いに遭う事を望んではおられない。むしろ祝福され、いのちを獲得する事を望んでおられる。

主は、真実なお方である。
私達は、肉に対して種を蒔くなら肉から滅びを刈り取るが、霊に蒔くならいのちを刈り取る事を、気をつけていなくてはならない。
『わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。』(申命記30:19-20)

神殿に向かって祈る時、聞いてください(2歴代誌6:22-7:3)
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続いてソロモンは、「これこれの人が、この状況で、この神殿にて祈る時、その祈りを聞いて下さい」という祈りを、7パターンに分けて祈っている。

その一番目は、人と人との間で何かトラブルがあって、この神殿に来て主の御前に持ち込んで来た場合、主がそのさばきを正統に裁いてください、というものである。

6:22 もし人がその隣り人に対して罪を犯し、誓いをすることを求められるとき、来てこの宮で、あなたの祭壇の前に誓うならば、
6:23 あなたは天から聞いて、行い、あなたのしもべらをさばき、悪人に報いをなして、その行いの報いをそのこうべに帰し、義人を義として、その義にしたがってその人に報いてください。

人は、正しくさばくという事が難しい。人は、他人の心に秘めている事や動機までも探り出す事ができないからだ。
しかし主は全てをご存知であり、正当に公平に裁いて下さるお方であり、主の民がこの神殿に持ってくるさばきを、全てを見透かしておられる主が正しく裁いてください、と、ソロモンは祈っている。

2番目の場合は、敵に打ち負かされてしまった時、この神殿に来て、祈り願う場合である。

6:24 もしあなたの民イスラエルが、あなたに対して罪を犯したために、敵の前に敗れた時、あなたに立ち返って、あなたの名をあがめ、この宮であなたの前に祈り願うならば、
6:25 あなたは天から聞き、あなたの民イスラエルの罪をゆるして、あなたが彼らとその先祖に与えられた地に彼らを帰らせてください。

ソロモンは、「主に対して罪を犯す」事と「敗北する」事とは一体であるとみなしている。
神の民は、主に罪を犯したまま勝利に勝利を重ねる、という事は、ありえない。
エリコに大勝利したヨシュアは、アイという小さな町での敗北を大いに憂慮し、主に切に祈り求めた結果、主は、イスラエルの民の、たった一人が犯した罪を指摘され、それを取り除くように言われた。
神の民が罪を犯したまま、それを放置する時、主はその事を気づかせ、悔い改めて主に立ち返らせるために、敢えて、敗北させられる。
小さな敗北の時に大いに憂慮して主に導きを求めたヨシュアは、さすがなのである。
私達も、人生で敗北が重なる時は、自分自身に目を向け、自分の中に敗北の原因となっているような主に対する罪、主の御前に取り扱っていない罪があるのではないかと探るべきであり、それを取り除くべきなのだ。

3番目のケースは、干ばつの時に主に祈り求める場合である。

6:26 もし彼らがあなたに罪を犯したために、天が閉ざされて、雨がなく、あなたが彼らを苦しめられるとき、彼らがこの所に向かって祈り、あなたの名をあがめ、その罪を離れるならば、
6:27 あなたは天にあって聞き、あなたのしもべ、あなたの民イスラエルの罪をゆるして、彼らに歩むべき良い道を教え、あなたの民に嗣業として賜わった地に雨を降らせてください。

「約束の地」は、「乳と蜜の流れる地」と呼ばれてはいるが、同時にそこは、主の御前に罪を犯したままそれを残している人に対しては、一切雨が降らない地と化してしまう。
『もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。・・・またあなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。主は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。』(申命記28:16-24)

私達も、人生の中であたかも天が閉ざされ、恵みの雨が一切降らないように感じる場合、やはり、自分の中に主の御前に取り扱われていない罪があるかないかを疑うべきである。

4番目は、色々な災いのケースが記されている。

6:28 もし国にききんがあるか、もしくは疫病、立ち枯れ、腐り穂、いなご、青虫があるか、または敵のために町の門の中に攻め囲まれることがあるか、どんな災害、どんな病気があっても、
6:29 もし、ひとりか、あるいはあなたの民イスラエルが皆おのおのその心の悩みを知って、この宮に向かい、手を伸べるならば、どんな祈、どんな願いでも、
6:30 あなたはそのすみかである天から聞いてゆるし、おのおのの人に、その心を知っておられるゆえ、そのすべての道にしたがって報いてください。ただあなただけがすべての人の心を知っておられるからです。
6:31 あなたがわれわれの先祖たちに賜わった地に、彼らの生きながらえる日の間、常にあなたを恐れさせ、あなたの道に歩ませてください。

このケースでは特段、人々が特に「罪を犯した」とは明記されていないが、「あなたはそのすみかである天から聞いてゆるし、おのおのの人に、その心を知っておられるゆえ、そのすべての道にしたがって報いてください」と祈っている所が鍵である。
主は全ての人の志をご存知であり、人の中の隠れている動機も、罪も、改めなくてはならない事に応じて、報いを与えて下さるお方だ。
人は他人の心を知らないし、他人も自分の心を知らないが、主は、それぞれに相応しい応報を受けさせる。
そして本人自身が自分の改めるべき事を知らされ、主に告白して立ち返り、告白して祈るなら、主は赦し、報いて下さる。

5番目のケースは、異邦人が主の宮に向かって祈る場合である。

6:32 またあなたの民イスラエルの者でなく、他国人で、あなたの大いなる名と、強い手と、伸べた腕のために遠い国から来て、この宮に向かって祈るならば、
6:33 あなたは、あなたのすみかである天から聞き、すべて他国人があなたに呼び求めるようにしてください。そうすれば地のすべての民はあなたの民イスラエルのように、あなたの名を知り、あなたを恐れ、またわたしが建てたこの宮が、あなたの名によって呼ばれることを知るにいたるでしょう。

主の神殿はイスラエル人だけのものではなく、異邦人も主を礼拝する場所でもある。
神は元々、全人類を救うために、一人の人アブラハムを選び、彼を通して全人類を救わせようとされた。
それは、イスラエル人の先祖・アブラハムが、主から呼びだされた時に、主が既に約束されていた通りである。(創世記12:1-3)

続いて、6番目のケースは、イスラエル人が敵と戦う時に、主に向かって祈る場合である。

6:34 あなたの民が敵と戦うために、あなたがつかわされる道によって出るとき、もし彼らがあなたの選ばれたこの町と、わたしがあなたの名のために建てたこの宮に向かってあなたに祈るならば、
6:35 あなたは天から彼らの祈と願いとを聞いて彼らをお助けください。

私達も、礼拝したくてもどうしても社会に出て仕事をしなくてはならない時、戦いをしなくてはならない時がある。
しかしそれでも、その戦いの先で主に向かって祈るなら、その場面におられる主が祈りを聞いてくださり、勝利を与えて下さるのだ。
主は何も、神殿にいつも居れる人だけの主ではない。
神殿にいつも居て、だらだら過ごして、何もしない人よりは、主に依り頼んで戦いに出る人のほうがよほど、主の御業の働かれる事を多く見ることが出来るのだ。

ソロモンが神殿で祈る人のために祈りの最後、7番目のケースは、イスラエルがもし将来、罪を犯し続けて敵に打ち負かされ、捕囚されて行った場合、捕囚先からこの神殿に向かって祈ったなら、その祈りを聞いて下さい、というものである。

主はもっと昔、イスラエルと契約を結ばれた当初の、モーセの時代から既に、イスラエルがもし主の御声に聞き従わず、懲らしめの災いを受けても、なお身勝手なふるまいを続けるなら、災いの「最終形態」として、敵国に捕囚されてしまう、という事を、あらかじめ警告しておられた。(レビ記26章、申命記28章)
残念ながら、イスラエルはその災いの最終形態にまで行ってしまった。
彼らは主に逆らい続け、預言者を通して主の警告を何度も何度も受けても、頑なに自分勝手なふるまいを改めず、主に逆らい続けたからである。

6:36 彼らがあなたに対して罪を犯すことがあって、――罪を犯さない人はないゆえ、――あなたが彼らを怒って、敵にわたし、敵が彼らを捕虜として遠い地あるいは近い地に引いて行くとき、
6:37 もし、彼らが捕われて行った地で、みずから省みて悔い、その捕われの地であなたに願い、『われわれは罪を犯し、よこしまな事をし、悪を行いました』と言い、
6:38 その捕われの地で心をつくし、精神をつくしてあなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた地、あなたが選ばれた町、わたしがあなたの名のために建てたこの宮に向かって祈るならば、
6:39 あなたのすみかである天から、彼らの祈と願いとを聞いて彼らを助け、あなたに向かって罪を犯したあなたの民をおゆるしください。

捕囚として連行されて行ってしまった時代、捕囚先の地で、この事を忠実に実践し続けた人がいた。
預言者ダニエルである。
『ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。』(ダニエル6:10)
この時、「署名された文書」とは、どの神にでも、何か願い事をする者があるなら、その者はライオンの穴に投げ入れてしまう、という法律である。(同7節)
それは、他の高官達がダニエルを陥れるためにわざわざ定めたものだった。
ダニエルは、この法律が定められたのを知りながら、家に帰ると、いつも通り日に三度、神殿のほうに向かって主に礼拝する事を止めなかった。
窓を閉めれば誰にも見つからずに礼拝できたであろうに、それもせず、いつも通り堂々と主に祈願し感謝を捧げたのだ。
それでダニエルは、ライオンの穴に陥れられてしまったのだが、主はダニエルを守り、ライオンは一切ダニエルを害する事が出来なかった。
結局、ダニエルの信じる神の栄光と、ダニエル自身の栄光とがますます上がり、逆にダニエルを陥れようとした者たち全員、ライオンの穴に投げ込まれ、その者達は穴の底に落ち込む前に、ことごとくライオンに噛み殺されたのだ。(ダニエル6章)

ダニエルの他、多くの人々の祈りを主は聞いてくださり、実際に彼らをあわれみ、捕囚先から返して下さった。(エズラ1章)

以上のように、色々なケースでソロモンは祈った。
申命記28章に、祝福のコツと呪いのコツ、および、その祝福と呪いの詳細な内訳が記されているが、結局、ききんや干ばつ、疫病、敵のはびこる事によって苦しむのは、人の側が主の御声に聞き従わず、御言葉を守り行わないゆえである事が、あらかじめ記されている。

申命記28:15 しかし、あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。
28:16 あなたは町のうちでものろわれ、畑でものろわれ、
28:17 あなたのかごも、こねばちものろわれ、
28:18 あなたの身から生れるもの、地に産する物、牛の子、羊の子ものろわれるであろう。
28:19 あなたは、はいるにものろわれ、出るにものろわれるであろう。
28:20 主はあなたが手をくだすすべての働きにのろいと、混乱と、懲らしめとを送られ、あなたはついに滅び、すみやかにうせ果てるであろう。これはあなたが悪をおこなってわたしを捨てたからである。
28:21 主は疫病をあなたの身につかせ、あなたが行って取る地から、ついにあなたを断ち滅ぼされるであろう。
28:22 主はまた肺病と熱病と炎症と間けつ熱と、かんばつと、立ち枯れと、腐り穂とをもってあなたを撃たれるであろう。これらのものはあなたを追い、ついにあなたを滅ぼすであろう。
28:23 あなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となるであろう。
28:24 主はあなたの地の雨を、ちりと、ほこりに変らせ、それが天からあなたの上にくだって、ついにあなたを滅ぼすであろう。
28:25 主はあなたを敵の前で敗れさせられるであろう。あなたは一つの道から彼らを攻めて行くが、彼らの前で七つの道から逃げ去るであろう。そしてあなたは地のもろもろの国に恐るべき見せしめとなるであろう。

こうしてソロモンは、祈りの総括に入る。

6:40 わが神よ、どうぞ、この所でささげる祈にあなたの目を開き、あなたの耳を傾けてください。

ソロモンの祈りの総括は、「この所で捧げる祈りに、目を開き耳を傾けてください。」に尽きる。
かの時代は、神殿において祈る祈りに主は耳を傾けられたが、今や神殿は無い。
主イエスキリストの御名を信じる信仰によって、私達一人ひとりが、神殿である。
そして私達が、主イエス・キリストの御名によって祈る時、主は耳を傾けてくださる。

6:41 主なる神よ、今あなたと、あなたの力の箱が/立って、あなたの安息所におはいりください。主なる神よ、どうぞあなたの祭司たちに/救の衣を着せ、/あなたの聖徒たちに恵みを喜ばせてください。
6:42 主なる神よ、どうぞあなたの油そそがれた者の顔を/退けないでください。あなたのしもべダビデに示されたいつくしみを/覚えて下さい」。

主は、このソロモンの祈りに「答えた」というしるしを、ありありと示して下さる。

7:1 ソロモンが祈り終ったとき、天から火が下って燔祭と犠牲を焼き、主の栄光が宮に満ちた。
7:2 主の栄光が主の宮に満ちたので、祭司たちは主の宮に、はいることができなかった。
7:3 イスラエルの人々はみな火が下ったのを見、また主の栄光が宮に臨んだのを見て、敷石の上で地にひれ伏して拝し、主に感謝して言った、/「主は恵みふかく、/そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」。

主は火を降し、一瞬にしていけにえを焼きつくした事により、ソロモンの祈りを「受け入れた」と示して下さった。
事実、主はソロモンが祈った通りに、何百年、幾世代も真実・誠実に答えてくださった。
しかし人の側は、その何百年・幾世代、主に対し不真実を働き、不誠実だった。にもかかわらず、人が主に立ち返って神殿に向かって祈った時に、答えてくださった。
まことに人々が賛美した通りである。
「主は恵みふかく、/そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」。

ソロモンによる感謝の祈り(2歴代誌6:1-21)
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神殿建設が完成し、しかるべきものがしかるべき所に配置され、そして主への捧げものと賛美とが捧げられた時、主の宮は主の栄光の雲によって満ちた事が前章において示された。
この章は、ソロモンによる感謝の祈りと、神殿奉献の祈りである。

6:1 そこでソロモンは言った、/「主はみずから濃き雲の中に住まおうと言われた。
6:2 しかしわたしはあなたのために高き家、/とこしえのみすまいを建てた」。

この言葉は、続く祈りを端的にあらわしている。
すなわち、ソロモンは主のために「家」を立てたが、しかし主が住まわれる所は、そこではない、という事を。

6:3 そして王は顔をふり向けてイスラエルの全会衆を祝福した。その時イスラエルの全会衆は立っていた。
6:4 彼は言った、「イスラエルの神、主はほむべきかな。主は口をもってわが父ダビデに約束されたことを、その手をもってなし遂げられた。すなわち主は言われた、
6:5 『わが民をエジプトの地から導き出した日から、わたしはわが名を置くべき家を建てるために、イスラエルのもろもろの部族のうちから、どの町をも選んだことがなく、また他のだれをもわが民イスラエルの君として選んだことがない。
6:6 わが名を置くために、ただエルサレムだけを選び、またわが民イスラエルを治めさせるために、ただダビデだけを選んだ』。

ソロモンは真っ先に主を誉め称えた。
主の祈りもそうであるが、祈りとは人間が神様に願い事をだらだら並べるものではなく、人格ある主との会話であり、真っ先に発するべきは、主への賛美と感謝である。
ソロモンは、この主の宮は「誰が」「誰を通して」「どこに」という事を表明する。
すなわち主の宮は、ダビデとソロモンの共同作品などではなく、主ご自身が、ダビデを通して、エルサレムに、建てた、という事を表明した。

6:7 イスラエルの神、主の名のために家を建てることは、父ダビデの心にあった。
6:8 しかし主は父ダビデに言われた、『わたしの名のために家を建てることはあなたの心にあった。あなたの心にこの事のあったのは結構である。
6:9 しかしあなたはその家を建ててはならない。あなたの腰から出るあなたの子がわたしの名のために家を建てるであろう』。
6:10 そして主はそう言われた言葉を行われた。すなわちわたしは父ダビデに代って立ち、主が言われたように、イスラエルの位に座し、イスラエルの神、主の名のために家を建てた。
6:11 わたしはまた、主がイスラエルの人々と結ばれた主の契約を入れた箱をそこに納めた」。

ここで強調されている事は、真実であられる主は、約束された言葉を真実に、忠実に行われた、という事だ。
主は、聖書のはじめから終わりまで、世界の始まる前から、ただの一度も約束を自ら破った事は無い。
人間は、聖書のはじめから終わりまで、何度も何度も約束を破ったが、神は真実なるお方である。

6:12 ソロモンはイスラエルの全会衆の前、主の祭壇の前に立って、手を伸べた。
6:13 ソロモンはさきに長さ五キュビト、幅五キュビト、高さ三キュビトの青銅の台を造って、庭のまん中にすえて置いたので、彼はその上に立ち、イスラエルの全会衆の前でひざをかがめ、その手を天に伸べて、
6:14 言った、「イスラエルの神、主よ、天にも地にも、あなたのような神はありません。あなたは契約を守られ、心をつくしてあなたの前に歩むあなたのしもべらに、いつくしみを施し、
6:15 あなたのしもべ、わたしの父ダビデに約束されたことを守られました。あなたが口をもって約束されたことを、手をもってなし遂げられたことは、今日見るとおりであります。

ここからの祈りは、神殿奉献の祈りであり、もし人が、これこれの状況でこの神殿にて祈るなら、答えて下さい、という祈りが続く。

6:16 それゆえ、イスラエルの神、主よ、あなたのしもべ、わたしの父ダビデに、あなたが約束して、『おまえがわたしの前に歩んだように、おまえの子孫がその道を慎んで、わたしのおきてに歩むならば、おまえにはイスラエルの位に座する人がわたしの前に欠けることはない』と言われたことを、ダビデのためにお守りください。
6:17 それゆえ、イスラエルの神、主よ、どうぞ、あなたのしもべダビデに言われた言葉を確認してください。

ソロモンは、主の言われた約束の言葉を盾にとって祈っている。
私達も、決して変わらない主の言葉を信じ、盾にとって祈るなら、主は答えてくださる。
ただし、ここでソロモンが祈っている通り、「おまえがわたしの前に歩んだように、おまえの子孫がその道を慎んで、わたしのおきてに歩むならば」という前提ありきで、それを守ったなら、「おまえにはイスラエルの位に座する人がわたしの前に欠けることはない」という主の真実を主はあらわして下さる。

6:18 しかし神は、はたして人と共に地上に住まわれるでしょうか。見よ、天も、いと高き天もあなたをいれることはできません。わたしの建てたこの家などなおさらです。

私達は、上を見上げれば空や宇宙があるが、その「天」があり、さらにその向こうに「天の天」と言われる所、天国と地獄がある。
それら全部ひっくるめても、主をお入れする事はできない。主はそれよりも大きなお方だ。
ましてや、人が造った家に、主は住まわれるだろうか、そんな事はない、と、ソロモンは告白している。

6:19 しかしわが神、主よ、しもべの祈と願いを顧みて、しもべがあなたの前にささげる叫びと祈をお聞きください。
6:20 どうぞ、あなたの目を昼も夜もこの家に、すなわち、あなたの名をそこに置くと言われた所に向かってお開きください。どうぞ、しもべがこの所に向かってささげる祈をお聞きください。
6:21 どうぞ、しもべと、あなたの民イスラエルがこの所に向かって祈る時に、その願いをお聞きください。あなたのすみかである天から聞き、聞いておゆるしください。

ソロモンは、この宮で祈る祈りに聞いて下さい、と祈っている。
主はその通り、この宮で祈る人々の祈りを聞いて下さった。
しかし、主は人が建てた建物に住むのではない。むしろ、人の心が主に向いているかどうかこそ肝心である。
主は、主に心を捧げていないのに、みだりに契約の箱を持ちだした人々を打たれたし、また後の時代、ソロモンの子孫たちがあまりに主に失礼なことを長らく続けた故に、この神殿さえも主は異邦人の手を通して破壊された。

結局大切なのは、建物やモノではなく、人の内にあるもの、である。
ヨハネ4:21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
4:22 あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。救はユダヤ人から来るからである。
4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。
 

主の臨在があらわれるために整えるべき必要なもの(2歴代誌5:1-14)
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今回の箇所で、いよいよソロモンの神殿が完成する。
しかし、ただ建物だけの「神殿もどき」には、主のご臨在は起こらない。
その中身がかんじんである。
この5章は、そのかんじんの中身は何であるのかを豊かに示している。

5:1 こうしてソロモンは主の宮のためにしたすべての工事を終った。そしてソロモンは父ダビデがささげた物、すなわち金銀およびもろもろの器物を携えて行って神の宮の宝蔵に納めた。

まずは主を礼拝する上で必要な祭具や、ダビデのように主に真心から捧げられたものが運びいられられる。
そして、最もかんじんなものは、契約の箱、主と人との、契約のしるしである。

5:2 ソロモンは主の契約の箱をダビデの町シオンからかつぎ上ろうとして、イスラエルの長老たちと、すべての部族のかしらたちと、イスラエルの人々の氏族の長たちをエルサレムに召し集めた。
5:3 イスラエルの人々は皆七月の祭に王のもとに集まった。
5:4 イスラエルの長老たちが皆きたので、レビびとたちは箱を取り上げた。
5:5 彼らは箱と、会見の幕屋と、幕屋にあるすべて聖なる器をかつぎ上った。すなわち祭司とレビびとがこれらの物をかつぎ上った。

契約の箱は神殿の中で最も大切なものである事に違いは無いが、しかし、主に捧げる心なしでは、たとえ契約の箱があったとしても、何にもならない。(1サムエル記4章)
人の側の「主を愛する心」こそ、最も重要なものである。

5:10 箱の内には二枚の板のほか何もなかった。これはイスラエルの人々がエジプトから出て来たとき、主が彼らと契約を結ばれ、モーセがホレブでそれを納めたものである。

この時代、箱の中には「二枚の板」の他には、何もなかった。
しかし新約の使徒は、幻の中で、箱の中に、さらにもう二つのものがあった事を記している。

ヘブル9:3 また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。
9:4 そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、
さらにもう二つのものとは、マナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえである。
モーセの時代、契約の箱の所には、マナの壺と、アロンの杖を置くように、主に命じられている。

出エジプト記16:32 モーセは言った、「主の命じられることはこうである、『それを一オメルあなたがたの子孫のためにたくわえておきなさい。それはわたしが、あなたがたをエジプトの地から導き出した時、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らに見させるためである』と」。
16:33 そしてモーセはアロンに言った「一つのつぼを取り、マナ一オメルをその中に入れ、それを主の前に置いて、子孫のためにたくわえなさい」。
16:34 そこで主がモーセに命じられたように、アロンはそれをあかしの箱の前に置いてたくわえた。

主は、主の民がエジプトから出た時、荒野でも飢え死にしないように、パンをもって養って下さった事を、子々孫々へと「覚える」ようにと、マナを入れた壺を置きなさい、と言われていた。
しかし、ソロモンの時代にはそれはなかった。

新約の今、私達は主イエス様の御からだであられるまことのパンにあずかる事が出来る。そして、主の御からだが十字架上で裂かれた事を「覚える」ようにと、聖餐を制定された。(1コリント11:23-24)

また、アロンのつえについては、以下の記述がある。

民数記17:7 モーセは、それらのつえを、あかしの幕屋の中の、主の前に置いた。
17:8 その翌日、モーセが、あかしの幕屋にはいって見ると、レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた。
17:9 モーセがそれらのつえを、ことごとく主の前から、イスラエルのすべての人の所に持ち出したので、彼らは見て、おのおの自分のつえを取った。
17:10 主はモーセに言われた、「アロンのつえを、あかしの箱の前に持ち帰り、そこに保存して、そむく者どものために、しるしとしなさい。こうして、彼らのわたしに対するつぶやきをやめさせ、彼らの死ぬのをまぬかれさせなければならない」。
17:11 モーセはそのようにして、主が彼に命じられたとおりに行った。

ここでも主は、アロンのつえを、あかしの箱の前に保存し、「そむく者どものためにしるしとしなさい」と言われている。
その理由は、「彼らのわたしに対するつぶやきをやめさせ、彼らの死ぬのをまぬかれさせなければならない」からである。
杖、という、既に命としては死んだ木が、たった一晩で生き返る事などありえない事である。
人は、いのちの真似事はしても、いのちそのものを息吹く事は出来ない。まさに、死とよみがえりという復活の主のわざの証明、そして、永遠に祭司である事のあかしである。

こうして、マナの壺とアロンの杖は契約の箱に保存され、主がいのちの養いをして下さる事と、主は死からいのちを息吹いて下さるというあかしが、契約の箱に置かれて主のご性質をいつまでも覚えて生きるはずだったが、ソロモンの時代には、ただ石の板しか無かった。
これらが無いゆえに、ソロモンの生きているその時代以降、信仰は萎えて行ってしまった。

ただ御言葉だけでは、人は離れてしまう。
しかし新約の今、御言葉と共に、命の養いがあり、死からの復活のしるしがある。
そして新約における贖い、主イエス様による贖いは、何度も捧げられなければならない不完全なものではなく、永遠のものである。

ヘブル9:11 しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、
9:12 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。

主の宮において、これらの命の養いが入り、人が自らを清め、主を誉め称える賛美があふれる時、主の栄光の臨在があらわれる。

5:11 そして祭司たちが聖所から出たとき(ここにいた祭司たちは皆、その組の順にかかわらず身を清めた。
5:12 またレビびとの歌うたう者、すなわちアサフ、ヘマン、エドトンおよび彼らの子たちと兄弟たちはみな亜麻布を着、シンバルと、立琴と、琴をとって祭壇の東に立ち、百二十人の祭司は彼らと一緒に立ってラッパを吹いた。
5:13 ラッパ吹く者と歌うたう者とは、ひとりのように声を合わせて主をほめ、感謝した)、そして彼らがラッパと、シンバルとその他の楽器をもって声をふりあげ、主をほめて/「主は恵みあり、/そのあわれみはとこしえに絶えることがない」/と言ったとき、雲はその宮すなわち主の宮に満ちた。
5:14 祭司たちは雲のゆえに立って勤めをすることができなかった。主の栄光が神の宮に満ちたからである。

モーセの時代においても、彼ら一同が主から与えられた御言葉の通りを行った時、主の栄光の雲が現れた。

出エジプト記40:33 このようにしてモーセはその工事を終えた。
40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
40:35 モーセは会見の幕屋に、はいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。

モーセの時代、主の栄光の雲が現れたのは、『モーセはそのように行った。すなわち主が彼に命じられたように行った。』(出エジプト記40:16)からである。
今も、主の御言葉どおりに行い、主に栄光を捧げるなら、主の栄光の臨在が、私達という神殿に満ちる。
その時、人々が私達を見る時、主が確かに生きておられる、という、主の栄光を見るのであり、それがまことのあかしである。

きよくある事が要求される祭司のつとめ(2歴代誌4:1-22)
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ついで、ソロモンが神殿において主の前で祭司たちが諸々のつとめをするためのものを造らせた記事が記されている。

4:1 ソロモンはまた青銅の祭壇を造った。その長さ二十キュビト、幅二十キュビト、高さ十キュビトである。

祭壇もまた、モーセの時代の寸法と比べると、さらに大きくなっている。(出エジプト記27章)
あの時代よりも、さらにイスラエルの人々の数が多くなったため、彼らが主に捧げる祭壇のサイズも、かつてのサイズでは間に合わないのだろう。
実際、これからこの祭壇で、おびただしい数のいけにえが捧げられて行く。

4:2 彼はまた海を鋳て造った。縁から縁まで十キュビトであって、周囲は円形をなし、高さ五キュビトで、その周囲は綱をもって測ると三十キュビトあった。
4:3 海の下には三十キュビトの周囲をめぐるひさごの形があって、海の周囲を囲んでいた。そのひさごは二並びで、海を鋳る時に鋳たものである。
4:4 その海は十二の牛の上に置かれ、その三つは北に向かい、三つは西に向かい、三つは南に向かい、三つは東に向かっていた。海はその上に置かれ、牛のうしろはみな内に向かっていた。
4:5 海の厚さは手の幅で、その縁は杯の縁のように、ゆりの花に似せて造られた。海には水を三千バテ入れることができた。

「海」という器の高さは五キュビト、180cmの成人男性がばんざいした程の高さで、厚さは、手のひらほど。
また1バテは23リットルなので、46000リットルの水がその「海」に入ったという事は、20000リットルのタンクローリー3台以上分である。
これは全部、青銅製である。青銅の器としては、かなりの大きさだ。
これら、神殿の調度品のために用いられた青銅の分量は、はなはだ多かったため、ソロモンは分量を計らなかったし、ずっと後、エルサレムがバビロンによって陥落した時、神殿の柱や「海」をカルデヤ人は破壊してバビロンへ運び去ったが、その青銅の分量はあまりに膨大だったため、彼らも計る事をしなかった。(2列王記25:13-16)
4:6 彼はまた物を洗うために洗盤十個を造って、五個を南側に、五個を北側に置いた。その中で燔祭に用いるものを洗った。しかし海は祭司がその中で身を洗うためであった。

旋盤はいけにえを洗うため、そして海は祭司がその中で身を洗うためのものだった。

主がモーセに幕屋建設を命じた時、祭司が聖なる所で務めに入る前には、水で洗いきよめるよう命じており、そのために、洗盤を造るよう指示されている。
『あなたはまた洗うために洗盤と、その台を青銅で造り、それを会見の幕屋と祭壇との間に置いて、その中に水を入れ、アロンとその子たちは、それで手と足とを洗わなければならない。彼らは会見の幕屋にはいる時、水で洗って、死なないようにしなければならない。また祭壇に近づいて、その務をなし、火祭を主にささげる時にも、そうしなければならない。すなわち、その手、その足を洗って、死なないようにしなければならない。これは彼とその子孫の代々にわたる永久の定めでなければならない」。』(出エジプト記30:18-21)
祭司が祭壇での務めをする前に、手足を水で洗い浄める事は、「永遠のおきて」として定められている。
だからソロモンも、祭司たちのために、これらのものを造らせたのだ。

祭司たちが務めの前に水で洗い浄める理由は、「死なないため」だと主は言っている。
祭壇や幕屋での奉仕は、それ程までに聖なる務めであり、清めないまま聖なる奉仕をする事は、主の怒りを招く事である。

今、私達も、主の務めを為すにあたって、かの祭司たちのように、清められた状態であるべきである。
1コリント6:9 それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、
6:10 貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。
6:11 あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。

私達がキリストに繋がっていないのなら、主の御前に何も出来ないし、しようとしてはならない。
だから信仰が無い人が、いくら楽器の演奏が巧みだからと言って奏楽奉仕に任じてはならないし、会計やマネジメント力があるからと言って、教会運営を任せたりしてはならない。
正しい信仰、すなわち、いつもイエス様を前に畏れ敬ってへりくだり、自らをきよくしようと志す者であるべきであり、そうしない者、世の汚れをきよい所へ持ち込む者は、死の危険がつきまとう。

詩篇24:3 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。
24:4 手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者こそ、その人である。
24:5 このような人は主から祝福をうけ、その救の神から義をうける。
24:6 これこそ主を慕う者のやから、ヤコブの神の、み顔を求める者のやからである。〔セラ

さらに聖所には諸々の祭具が置かれる。

4:19 こうしてソロモンは神の宮のすべての器物を造った。すなわち金の祭壇と、供えのパンを載せる机、
4:20 また定めのように本殿の前で火をともす純金の燭台と、そのともしび皿を造った。
4:21 その花、ともしび皿、心かきは精金であった。
4:22 また心切りばさみ、鉢、香の杯、心取り皿は純金であった。また宮の戸、すなわち至聖所の内部の戸および拝殿の戸のひじつぼは金であった。

主の前にはいつもパンが備えられ、ともしびが灯され続けるべき事が記されている。

現代の私達も、常に、自分自身を神に受け入れられる、きよい、生きた備えものとして捧げる者であり、いつも御言葉のパンを備え、いつも祈りのともしびを、聖霊の油をもってともし続ける者である。
そして御前に出る時には、かつての祭司たちが、汚れた状態で出たら死ぬかもしれないという恐れをもって出たように、私達も恐れ敬う心をもって御前に進み出るべきである。

神殿の構成(2歴代誌3:1-17)
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ソロモンはいよいよ神殿の建設に着手するが、その場所が興味深い。

3:1 ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた。そこは父ダビデに主が現れられた所、すなわちエブスびとオルナンの打ち場にダビデが備えた所である。

主の宮が立てられた山は、モリアの山であると書かれてある。そこはすなわち、彼らの大先祖であるアブラハムが、彼の息子イサクを捧げた、あのモリヤ山である。(創世記22:2)
すなわち全イスラエルは、イサクの腰の中にいた時、このモリヤの山で、既に捧げられたのである。
そして時代が降り、そこが神の民が主に礼拝を捧げる所となるのである。

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」(ローマ12:1)
礼拝はすなわち自分自身を捧げる事であり、そして、神と交わりを持つ場が、神殿であるが、今、私達自身が神殿であり、ゆくゆくは天国という永遠の礼拝の場の前身なのだ。

3:2 ソロモンが宮を建て始めたのは、その治世の四年の二月であった。
3:3 ソロモンの建てた神の宮の基の寸法は次のとおりである。すなわち昔の尺度によれば長さ六十キュビト、幅二十キュビト、
3:4 宮の前の廊は宮の幅に従って長さ二十キュビト高さ百二十キュビトで、その内部は純金でおおった。
3:5 またその拝殿はいとすぎの板で張り、精金をもってこれをおおい、その上にしゅろと鎖の形を施した。
3:6 また宝石をはめ込んで宮を飾った。その金はパルワイムの金であった。

神殿は尊い杉材で張られ、純金で覆われた。とても豪華絢爛であるが、その材料はほぼ、異邦の国からもたらされたものである。
現代、キリストにある私達異邦人は、生ける神の神殿であり、そして永遠の神殿である天国もまた、色々な国から集められた、誰にも数えきれないほどの大勢の群衆によって構成されている。
主は、ユダヤ人のみならず異邦人の手を通しても、栄光を表され、神の家を建て上げさせて下さるのだ。

3:7 彼はまた金をもってその宮、すなわち、梁、敷居、壁および戸をおおい、壁の上にケルビムを彫りつけた。
3:8 彼はまた至聖所を造った。その長さは宮の長さにしたがって二十キュビト、幅も二十キュビトである。彼は精金六百タラントをもってこれをおおった。

至聖所、すなわち神と人とが出会う場、地上に降りてきた天国は、20キュビト四方の立方体である。
以前モーセの時代に立てられた幕屋の至聖所は、その2分の1の10キュビト四方の立方体(出エジプト記26:15-37)であったが、黙示録に現れる新エルサレムにいたっては、12000スタディオンの立方体(1スタディオン=185m、1辺が約2400km)であり、その中には神殿はなく、都そのものが、主の栄光と臨在に満ちた至聖所である。(黙示録21章)
主のご計画が成就して行くごとに、隠されていた物事が露わにされて行き、全ての時が満ち、全てが成就した時、神の栄光は誰の目にも明らかなほど巨大に、公にあらわれるのである。

3:10 彼は至聖所に木を刻んだケルビムの像を二つ造り、これを金でおおった。
3:11 ケルビムの翼の長さは合わせて二十キュビトあった。すなわち一つのケルブの一つの翼は五キュビトで、宮の壁に届き、ほかの翼も五キュビトで、他のケルブの翼に届き、
3:12 他のケルブの一つの翼も五キュビトで、宮の壁に届き、ほかの翼も五キュビトで、先のケルブの翼に接していた。
3:13 これらのケルビムの翼は広げると二十キュビトあった。かれらは共に足で立ち、その顔は拝殿に向かっていた。
3:14 ソロモンはまた青糸、紫糸、緋糸および亜麻糸で垂幕を造り、その上にケルビムの縫い取りを施した。

至聖所の中にはケルビムがあり、翼でもって契約の箱を覆っている。
アダムとエバの堕落以降、人はエデンの園への道がケルビムと回る炎の剣によって遮られてしまったが、至聖所への道も、ケルビムの織物によって遮られている。
しかしキリストが十字架でさばかれた時、この幕は真っ二つに裂かれ、もはや聖所と至聖所を隔てる壁は打ち壊された。

『あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。』(エペソ2:13-16)

3:15 彼は宮の前に柱を二本造った。その高さは三十五キュビト、おのおのの柱の頂に五キュビトの柱頭を造った。
3:16 彼は首飾のような鎖を造って、柱の頂につけ、ざくろ百を造ってその鎖の上につけた。
3:17 彼はこの柱を神殿の前に、一本を南の方に、一本を北の方に立て、南の方のをヤキンと名づけ、北の方のをボアズと名づけた。

ヤキンは「主が設立する」、ボアズは「力のうちに」の意味がある。
これら、特別な名前がつけられた柱は、神殿を支える重要な部分だった。

教会にも、柱と見られる人がいる。使徒パウロは言っている。
『そして、かの「重だった人たち」からは――彼らがどんな人であったにしても、それは、わたしには全く問題ではない。神は人を分け隔てなさらないのだから――事実、かの「重だった人たち」は、わたしに何も加えることをしなかった。・・・”柱”として重んじられているヤコブとケパとヨハネとは、わたしとバルナバとに、交わりの手を差し伸べた。そこで、わたしたちは異邦人に行き、彼らは割礼の者に行くことになったのである。』(ガラテヤ2:6-9)

初代教会では、イエス様の12弟子だったヤコブやケパ(シモン・ペテロ)、ヨハネが「柱」として重んじられていたが、しかし「ヤキンとボアズ」の二本だけでは神殿を支えられず、他の柱も必要であるように、人とは完全なものではなく、柱となっている彼らを支える人もまた、必要だ。
パウロは、柱とされていたケパが非難すべき事をした時は、叱責によって彼を支えた。(同11-14節)

私達も、”聖所における柱”になれる事が黙示録に書いてある。
『勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:12)

勝利を得る者、聖所の柱となって新しい名が記される人とは、どのような人か。それはすぐ直前に書いてある。

『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。・・・忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(黙示録3:8-10)

主の言葉を忍耐して守り、主の御名を否まない人、そのような人は、勝利し、聖所の柱として用いられ、主の御そば近くから離れる事なく仕える事が出来、そして、世に来るべき試練の時に、主によって守られるのだ。

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