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メッセージ - 2列王記カテゴリのエントリ

邪悪な女を迎え入れて以来、災い続きのイスラエル(2列王記8:16-29)
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8:16 イスラエルの王アハブの子ヨラムの第五年に、ユダの王ヨシャパテの子ヨラムが位についた。
8:17 彼は王となったとき三十二歳で、八年の間エルサレムで世を治めた。
8:18 彼はアハブの家がしたようにイスラエルの王たちの道に歩んだ。アハブの娘が彼の妻であったからである。彼は主の目の前に悪をおこなったが、
8:19 主はしもべダビデのためにユダを滅ぼすことを好まれなかった。すなわち主は彼とその子孫に常にともしびを与えると、彼に約束されたからである。

ヨシャパテは素晴らしい信仰の持ち主であったのに、悪と手を組んでしまったゆえに、イスラエルに災いをもたらしてしまう。

彼は自分の息子の嫁として、アハブとイゼベルの間に生まれた娘、アタルヤを迎え、息子に嫁がせてしまった。これが後に、イスラエルにとんでもない災いをもたらしてしまう。

このアタルヤは、後に、ダビデの子孫を根絶やしにしようと、一人を除いて皆殺しにしてしまう。そして彼女自ら女王となって、暫くイスラエルを治める事になる。

とにかくこの時点、彼女は、夫であるヨラム王をそそのかし、主の目に悪と見られる事を行い、また彼女の息子も悪の道に歩むように育ててしまう。

8:18 彼はアハブの家がしたようにイスラエルの王たちの道に歩んだ。

イスラエルの王達の道、それは偶像礼拝の道であるが、異邦の女をめとった事によって自分の国に災いをもたらしてしまった、という点でも同じであろう。

神の宮と偶像とに、何の一致も無いはず。友達づきあいが悪ければ本人も悪くなり、ひとつとなるべき伴侶が悪いと、自分自身のみならず自分の子々孫々に至るまで災いをもたらしてしまうのである。

 

8:20 ヨラムの世にエドムがそむいてユダの支配を脱し、みずから王を立てたので、
8:21 ヨラムはすべての戦車を従えてザイルにわたって行き、その戦車の指揮官たちと共に、夜のうちに立ちあがって、彼を包囲しているエドムびとを撃った。しかしヨラムの軍隊は天幕に逃げ帰った。
8:22 エドムはこのようにそむいてユダの支配を脱し、今日に至っている。リブナもまた同時にそむいた。

主から離れると、自分自身から権威がなくなり、自分の配下にいた者が力を持つようになり、敵が力を持つようになる。事は、申命記28章に書いてある通りである。

8:23 ヨラムのその他の事績および彼がしたすべての事は、ユダの歴代志の書にしるされているではないか。
8:24 ヨラムはその先祖たちと共に眠って、ダビデの町にその先祖たちと共に葬られ、その子アハジヤが代って王となった。
8:25 イスラエルの王アハブの子ヨラムの第十二年にユダの王ヨラムの子アハジヤが位についた。
8:26 アハジヤは王となったとき二十二歳で、エルサレムで一年世を治めた。その母は名をアタリヤと言って、イスラエルの王オムリの孫娘であった。
8:27 アハジヤはまたアハブの家の道に歩み、アハブの家がしたように主の目の前に悪をおこなった。彼はアハブの家の婿であったからである。

ヨラムの子アハズヤの治世は、わずか一年であった。主を敬わない世代がはびこりその勢いを増し加えようとするなら、主が許されない。なぜなら、主は主を敬わず偶像に走る者には呪いを3第4代に、しかし主を恐れ敬う者には恵みを千代に施されるお方だからである。

この時、南ユダ王国は、ただ主のダビデに対する恵みの故に首がつながっている状態だった。

8:28 彼はアハブの子ヨラムと共に行って、スリヤの王ハザエルとラモテ・ギレアデで戦ったが、スリヤびとらはヨラムに傷を負わせた。
8:29 ヨラム王はそのスリヤの王ハザエルと戦うときにラマでスリヤびとに負わされた傷をいやすため、エズレルに帰ったが、ユダの王ヨラムの子アハジヤはアハブの子ヨラムが病んでいたので、エズレルに下って彼をおとずれた。

ユダの王アハズヤが北イスラエル王国に下っていったのは、主が懲らしめの杖を振り下ろすためである。主は、立ち返らせようとして、懲らしめを送られる事があるが、それは正しい道に立ち返らせるためである。

結局、南ユダ王国は、このイゼベルの娘、異邦の女を王家の嫁として迎えてしまって以来、ただ災いにつぐ災いの時代に突入してしまう。北イスラエル王国も、イゼベルを迎えて以来、そうだった。ノアの洪水も、神を知らない女との結婚が原因でもたらされてしまった。ソロモンも、そうだった。

彼らがもたらした偶像礼拝は、その後ずっとイスラエルの歴史に尾を引き、ついにはバビロン捕囚の憂き目に遭ってしまった。それでも主の憐みにより、70年の後に帰って来たというのに、すぐまた異邦の女をめとって、同じ過ちを繰り返しそうになった。そこをエズラが改革を断行し、異邦の女や御言葉を知らない子供を国から追い出した。それは身を切るような辛さであったろうが、そこから暫くの平和な時代が始まった。
主は、私達が滅びに至らないよう、「災い」という囲いを用意して、祝福への門を開いておられる。

私達は本当に、結婚したり連合したりすべき相手には気をつけるべきである。

邪悪な者達が災いを受ける時代の中にあっても主に守られる聖徒達(2列王記8:1-6)
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2列王記8:1 エリシャはかつて、その子を生きかえらせてやった女に言ったことがある。「あなたは、ここを立って、あなたの家族と共に行き、寄留しようと思う所に寄留しなさい。主がききんを呼び下されたので、七年の間それがこの地に臨むから」。

イスラエルになぜききんが起きるか。それは主を畏れ敬わない王達およびその臣下たちだからである。主はエリシャを通して、数々の国を揺るがすような危機も、そして憐れみの奇跡をも起こされたのに、その時代は主を敬うという事をしなかった。

しかし主は、そんな時代でも、主を畏れ敬う心を持っている人には、飢えないように、また、その持ち物が一切奪われる事のないようにされる。

かつて子を生き返らせてもらったこの女は、主の預言者の言うことをそのまま聞き従う従順があった。果たして私達は、これからききんがあるから外国に行って住みなさい、という主からの一言に、すぐに従順できるだろうか。

エリシャは「寄留しようと思う所に寄留しなさい」と言ったが、主は、主を畏れ敬う人が行く所のききんを留める事も可能なお方である。

彼女は預言者から言われ、すぐに立ったので、その災いを免れた。イエス様の育ての親ヨセフも、御使いからエジプトへ逃げなさいと警告を受けた時、すぐに乳児を抱えた妻と共にエジプトへ行く信仰があったからこそ、彼はイエス様の育ての親として選ばれたのだ。

 

8:2 そこで女は立って神の人の言葉のようにし、その家族と共に行ってペリシテびとの地に七年寄留した。
8:3 七年たって後、女はペリシテびとの地から帰ってきて、自分の家と畑のために王に訴えようと出ていった。

7年間家を明けていたら、その家と畑はどうやら国のものになっていたようである。彼女は訴えなくてはならなかった。

8:4 時に王は神の人のしもべゲハジにむかって「エリシャがしたもろもろの大きな事をわたしに話してください」と言って、彼と物語っていた。

ゲハジはこの時らい病にかかっていたはずだが、それでも王は、エリシャの成したことを彼から聞きたがった。

王は、エリシャが成した大きな事は聞きたがっても、主がなさる大きな事は認めようとしかった。どの時代でもいるが、偉大な預言者や魔術師の為す不思議は見たがっても、主を畏れ敬う心なく、ただしるしだけを求める者には、主は、悔い改めを促す災いしか起こされない。

王にその思いを起こしたのは、主であった。王の心にこの思いが起こったタイミングは、かの女にとって非常に良いタイミングだった。

 

8:5 すなわちエリシャが死人を生きかえらせた事を、ゲハジが王と物語っていたとき、その子を生きかえらせてもらった女が、自分の家と畑のために王に訴えてきたので、ゲハジは言った、「わが主、王よ、これがその女です。またこれがその子で、エリシャが生きかえらせたのです」。8:6 王がその女に尋ねると、彼女は王に話したので、王は彼女のためにひとりの役人に命じて言った、「すべて彼女に属する物、ならびに彼女がこの地を去った日から今までのその畑の産物をことごとく彼女に返しなさい」。

このように、王の所管となっていた土地が返された。

主は、主を敬う人々には、ききんの時代でも、また、王が好き勝手に土地を取り上げるような時代であっても、主の御言葉に聞き従って歩む者にはこのように助ける事のできるお方である。それは、どの時代でもそうである。

エリヤの時代も、そうだった。

1列王記17:15 彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。
17:16 主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。

そして現代、終末の困難な時代においても、主の御言葉を忍耐して守り行う人には、主は全世界に臨もうとしている試練の時代でも主に守られる保証があるのだ。

黙示録3:8 わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。3:9 見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。3:10 忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。

怠け者は周りがごちそうを食べているのを見ても、自分は食べられない(2列王記7:9-20)
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7:9 そして彼らは互に言った、「われわれのしている事はよくない。きょうは良いおとずれのある日であるのに、黙っていて、夜明けまで待つならば、われわれは罰をこうむるであろう。さあ、われわれは行って王の家族に告げよう」。7:10 そこで彼らは来て、町の門を守る者を呼んで言った、「わたしたちがスリヤびとの陣営に行って見ると、そこにはだれの姿も見えず、また人声もなく、ただ、馬とろばがつないであり、天幕はそのままでした」。7:11 そこで門を守る者は呼ばわって、それを王の家族のうちに知らせた。

良い知らせを福音という。福音の良い知らせを、夜の開けるまで、義の太陽が登る時まで、黙っているならば、災いである。

パウロは、自分は伝えなければ災いだ、と言った。自分は全ての人に負債を負っている、だから、伝えずにはいられないのだ、と。

福音とはそういうものである。自分だけが見つけて、いい思いをして、そのまま宝を自分のものとし、自分だけが食べて満ち足りる。主は何故に食べて満ち足らせて下さるか。それは、私達のみならず、全ての人が主の栄光を見、主の素晴らしさを味わうためである。

今回の災いは、イスラエルが主を敬わない、期待しない事ゆえであるが、主はただ簡単に滅ぼし尽くす事をせず、このように何度も何度も立ち返らせるきっかけをつくり、彼らが主に帰るようにさせているのだ。

彼らはアラムという滅ぼすものが主によって消え失せさせられた事によって救われるよき知らせを携えて行ったが、私達はサタンという滅ぼす者から救われ、サタンの抱えていた宝を存分に手に入れ、満ち足りている。それを携えて行かず、黙っているならば、災いなのだ。

 

7:12 王は夜のうちに起きて、家来たちに言った、「スリヤびとがわれわれに対して図っている事をあなたがたに告げよう。彼らは、われわれの飢えているのを知って、陣営を出て野に隠れ、『イスラエルびとが町を出たら、いけどりにして、町に押し入ろう』と考えているのだ」。

王にこの喜びの知らせが告げられると、王はそれを信じたかもしれないが悪い方に取った。あらかじめエリシャから翌日には食べ物が安値で取引される事を告げられていたにもかかわらず。

彼は主エホバの恵みをことごとく悪い方に取って行った。モアブの時には勝手に戦争を起こそうとして、戦いがまだ起こる前から命の危険にさらされた時も、勝手に主を悪いように言い、それでも恵みが注がれてもなお立ち返らず、エリシャを通してシリヤの軍隊をいつでも殺せる状態になった時にはエリシャを「父」と呼んでいたのに、いざ、危機に陥るとエリシャを(伺いに行くのではなく)殺しに行った。

まことに、主に信頼しない、霊的な「怠け者」である。

Pro 26:13  なまけ者は、「道にししがいる、ちまたにししがいる」という。
Pro 26:14  戸がちょうつがいによって回るように、なまけ者はその寝床で寝返りをする。
Pro 26:15  なまけ者は手を皿に入れても、それを口に持ってゆくことをいとう。
Pro 26:16  なまけ者は自分の目に、良く答えることのできる七人の者よりも、自らを知恵ありとする。

まさにこの箴言の通り、彼は「ちまたには獅子がいる」と言って自分の不信仰な「なまけ場所」でごろごろし、ごちそうが目の前に置かれたと言われてもそれを口に持って行こうとせず、自分を知恵ある者と思い込んで、良い知らせを告げに来た人に、余計な見解を混ぜ込んだ。

このように、霊的なまけ者は、福音を聞いても、自分がおいしい思いをせず、周りをもおいしい思いをさせないようにするものだ。

 

7:13 家来のひとりが答えて言った、「人々に、ここに残っている馬のうち五頭を連れてこさせてください。ここに残っているこれらの人々は、すでに滅びうせたイスラエルの全群衆と同じ運命にあうのですから。わたしたちは人をやってうかがわせましょう」。7:14 そこで彼らはふたりの騎兵を選んだ。王はそれをつかわし、「行って見よ」と言って、スリヤびとの軍勢のあとをつけさせたので、7:15 彼らはそのあとを追ってヨルダンまで行ったが、道にはすべて、スリヤびとがあわてて逃げる時に捨てていった衣服と武器が散らばっていた。その使者は帰ってきて、これを王に告げた。

この家来は、徹底的マイナス思考の王を動かすために、どのみち死ぬのだから、だめもとで行ってみましょう、と進言せざるを得なかった。そこで王は、「何もしない」という座から立ち、とりあえず「行って見よ」と命令を下すようになった。そして、行ってみたら、本当にその通りだった。

こうして公に、本当にシリヤはいなくなったのだ、と分かり、そうして人々に知らされた。


7:16 そこで民が出ていって、スリヤびとの陣営をかすめたので、麦粉一セアは一シケルで売られ、大麦二セアは一シケルで売られ、主の言葉のとおりになった。
7:17 王は自分がその人の手によりかかっていた、あの副官を立てて門を管理させたが、民は門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。すなわち、王が神の人のところに下ってきた時、神の人が言ったとおりであった。
7:18 これは神の人が王にむかって、「あすの今ごろ、サマリヤの門で大麦二セアを一シケルで売り、麦粉一セアを一シケルで売るようになるであろう」と言ったときに、
7:19 その副官が神の人に答えて、「たとい主が天に窓を開かれても、そんな事がありえようか」と言ったからである。そのとき神の人は「あなたは自分の目をもってそれを見るであろう。しかしそれを食べることはなかろう」と言ったが、
7:20 これはそのとおり彼に臨んだ。すなわち民が門で彼を踏みつけたので彼は死んだ。

同じ事が繰り返されているが、主が繰り返されている事は大事な事である。

不信仰なこの副官が死んだという事、これと似た事は聖書で繰り返されている。

出エジプトの民のうち、不信仰な者はモーセに斥候を送らせて探らせた。

ヨシュアとカレブは希望の良い報告をもたらしたが、人々は悪いと見て、「行ったら殺される」とマイナス思考し、主を期待せず、エジプトに帰ろう、と言い出した。

彼らは、ごちそうは目の前の置かれてもそれを食べる事ができなかったあの副官のように、自分の子供たちは良い地で良い食べものを食べられても、不信仰で主に対しマイナス思考の者達は、荒野で死んでいってしまった。

これは戒めである。私達は、主に期待し、大いにごちそうにあずかり、悪魔サタンに勝利した主の勝利にあずかるものでありたい。

主の預言者学校を囲む火の馬、火の戦車(2列王記6:8-23)
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働き人に貧しい思いをさせない主(2列王記6:1-7)
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不正の富を欲しがる人は、不正の富に絡む呪いも同時に来る事を覚悟すべきである(2列王記5:15-27)
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5:15 彼はすべての従者を連れて神の人のもとに帰ってきて、その前に立って言った、「わたしは今、イスラエルのほか、全地のどこにも神のおられないことを知りました。それゆえ、どうぞ、しもべの贈り物を受けてください」。

ナアマンはすぐにエリシャの元に帰ってきて、お礼をし、イスラエルの神である主に栄光をささげた。このような素養が彼にあったからこそ、主が「らい病の人の癒やし」を行われたのは、イスラエルのどの人でもなく、彼だったのだろう。

イエス様の時代も、らい病10人がイエス様の言葉どおり行なった結果癒されたのに、イエス様の所に帰ってこなかったイスラエル人9人がいたが、しかし一人の異邦人は栄光を主に捧げるためにイエス様の所に帰ってきた。

5:16 エリシャは言った、「わたしの仕える主は生きておられる。わたしは何も受けません」。彼はしいて受けさせようとしたが、それを拒んだ。
主の働き人が報酬を受けるのは当然ではあるが、エリシャは頑なに拒んだ。

パウロもそうだった。パウロの場合は、人々にしっかり働くよう示すためだったが、エリシャには、彼から報酬を受け取ってはならない何らかの理由があったようである。

5:17 そこでナアマンは言った、「もしお受けにならないのであれば、どうぞ騾馬に二駄の土をしもべにください。これから後しもべは、他の神には燔祭も犠牲もささげず、ただ主にのみささげます。
5:18 どうぞ主がこの事を、しもべにおゆるしくださるように。すなわち、わたしの主君がリンモンの宮にはいって、そこで礼拝するとき、わたしの手によりかかることがあり、またわたしもリンモンの宮で身をかがめることがありましょう。わたしがリンモンの宮で身をかがめる時、どうぞ主がその事を、しもべにおゆるしくださるように」。5:19 エリシャは彼に言った、「安んじて行きなさい」。ナアマンがエリシャを離れて少し行ったとき、

厳格に律法に照らすとするなら、イスラエルの土を持ち帰ってシリヤで主を礼拝する事はナンセンスであるし、また偶像の宮で身をかがめる事も、違法な事である。なぜエリシャは彼に「安んじて行きなさい」と言ったのか。

エリシャは、自分は主君に仕える故に偶像の宮で身をかがめなくてはならない、と、正直に告白したナアマンに、偶像礼拝して良いのだよ、とは言わず、安心して(シャローム)帰りなさい、と答えた所がミソである。

偶像礼拝も、主の定められた場所以外で礼拝する事も、律法では罪である事は確かであるが、御前に正直に罪を告白するなら、主は真実で正しいお方だから、その罪を赦してくださる。

ナアマンは、主を信じて救われたばかりである。そんな彼に、いきなり律法の高度な事をするように、主は求めない。

主はむしろ、その人にやっとともったった「くすぶる灯芯」を消す事をせず、徐々に成長させて下さり、彼が主と共に日々歩んで行くなら、一歩一歩、主は霊的な高みへと成長させてくださるのだ。

ナアマンの立場は異邦の王に仕える将軍であり、そして、彼の場合は神の国イスラエルに亡命するよりも、むしろ自国に留まって、その癒された体を人々に見せて、彼が体験した主のすばらしさを伝える事こそ、主の栄光となる。

悪霊の軍団レギオンをイエス様に追い出していただいた人も、本当はイエス様について行きたかったがイエス様はそれをお許しにならず、そこに留まって主がいかに素晴らしい事をして下さったかを伝えるように言われた。

それぞれに対し、それぞれのミニストリーが違うのだ。

 

5:20 神の人エリシャのしもべゲハジは言った、「主人はこのスリヤびとナアマンをいたわって、彼が携えてきた物を受けなかった。主は生きておられる。わたしは彼のあとを追いかけて、彼から少し、物を受けよう」。
5:21 そしてゲハジはナアマンのあとを追ったが、ナアマンは自分のあとから彼が走ってくるのを見て、車から降り、彼を迎えて、「変った事があるのですか」と言うと、
5:22 彼は言った、「無事です。主人がわたしをつかわして言わせます、『ただいまエフライムの山地から、預言者のともがらのふたりの若者が、わたしのもとに来ましたので、どうぞ彼らに銀一タラントと晴れ着二着を与えてください』」。
5:23 ナアマンは、「どうぞ二タラントを受けてください」と言って彼にしい、銀二タラントを二つの袋に入れ、晴れ着二着を添えて、自分のふたりのしもべに渡したので、彼らはそれを負ってゲハジの先に立って進んだが、
5:24 彼は丘にきたとき、それを彼らの手から受け取って家のうちにおさめ、人々を送りかえしたので、彼らは去った。
5:25 彼がはいって主人の前に立つと、エリシャは彼に言った、「ゲハジよ、どこへ行ってきたのか」。彼は言った、「しもべはどこへも行きません」。
5:26 エリシャは言った、「あの人が車をはなれて、あなたを迎えたとき、わたしの心はあなたと一緒にそこにいたではないか。今は金を受け、着物を受け、オリブ畑、ぶどう畑、羊、牛、しもべ、はしためを受ける時であろうか。
5:27 それゆえ、ナアマンのらい病はあなたに着き、ながくあなたの子孫に及ぶであろう」。彼がエリシャの前を出ていくとき、らい病が発して雪のように白くなっていた。

異邦人であるナアマンは御前に正直に告白してシャロームの内に出ていった。

しかし神の人に仕える、主のしもべであるはずのゲハジは、うそを言い、ナアマンがそれまで負っていたらい病という重荷を背負ってしまった。 

ナアマンは、主の御前に捨てるべきプライドを捨て、滅ぼすべきらい病をきよめて頂いた。

ゲハジはその逆で、主人にうそをついてまで、ナアマンの持っている富をよこどりした。彼はその富を用いて、オリブ畑、ぶどう畑、羊、牛、しもべ、はしためを得ようとしたようだ。主のしもべとして働く事を差し置いて。

しかし、もし世の富を手に入れようとするなら、同時に、世の富につきまとう呪いも手に入ってしまう事を、忘れてはならない。

Luk 16:13  どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。

1テモテ6:9  富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。
1Ti 6:10  金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。
1Ti 6:11  しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。

 

御言葉の通り行うなら(2列王記5:1-14)
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 5:1 スリヤ王の軍勢の長ナアマンはその主君に重んじられた有力な人であった。主がかつて彼を用いてスリヤに勝利を得させられたからである。彼は大勇士であったが、らい病をわずらっていた。 5:2 さきにスリヤびとが略奪隊を組んで出てきたとき、イスラエルの地からひとりの少女を捕えて行った。彼女はナアマンの妻に仕えたが、 5:3 その女主人にむかって、「ああ、御主人がサマリヤにいる預言者と共におられたらよかったでしょうに。彼はそのらい病をいやしたことでしょう」と言ったので、 5:4 ナアマンは行って、その主君に、「イスラエルの地からきた娘がこういう事を言いました」と告げると、 5:5 スリヤ王は言った、「それでは行きなさい。わたしはイスラエルの王に手紙を書きましょう」。そこで彼は銀十タラントと、金六千シケルと、晴れ着十着を携えて行った。

ナアマンというシリヤ(アラム)の将軍は、主(エホバ)の特別な力添えにより大活躍し、王に重んじられるようになった。

主がイスラエルのみならず、アラムにも栄光をあらわすために、ナアマンを器として用いられたのである。

そのために用いられたのは、たまたま、イスラエルから捕らえて来た一人の名も無き少女だった。

彼女は、イスラエルには主エホバの預言者がいる、彼はらい病をさえも癒やしてくれるだろう、と信仰の宣言をした。

もし、ナアマン将軍という有名人が、らい病だったのが癒やされて帰って来るなら、シリヤの国に、主の栄光が大いに表される。

この一人の名も知れぬ少女の信仰が、将軍を動かし、王の耳にイスラエルには預言者がいるという事を知らせ、そして、主の栄光をその国に轟かせる事になる。

5:6 彼がイスラエルの王に持って行った手紙には、「この手紙があなたにとどいたならば、わたしの家来ナアマンを、あなたにつかわしたことと御承知ください。あなたに彼のらい病をいやしていただくためです」とあった。 5:7 イスラエルの王はその手紙を読んだ時、衣を裂いて言った、「わたしは殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。どうしてこの人は、らい病人をわたしにつかわして、それをいやせと言うのか。あなたがたは、彼がわたしに争いをしかけているのを知って警戒するがよい」。

シリヤの王の手紙には、ナアマンを預言者に癒やすようにさせて下さい、とは書いておらず、ただ、「あなたに」「彼のらい病をいやしていただくためです」とだけ書いてあった。

シリヤの王は、イスラエルの王にらい病の人を送れば、そのまま彼を預言者に取り次いで、らい病をきよめてもらえるのだろう、と思っていたのだろうか、非常にシンプルな手紙を書いた。

ところがあいにく、イスラエルの王には、病人が送られてきたらそのまま預言者に取り次ぐ、という発想が欠如していた。

イスラエルの王は、「わたしは神であろうか」と、自分の力、自分の知恵でなんとかさせるための事と思い込み、服を引き裂いた。らい病を癒し清める事は、人には不可能な事だ。だから、できない難題を吹きかけて因縁をつけて来たのだ、などと、物事を悪いほうに考えて行く思考の持ち主だった。それは3章でモアブとの一件の時から、全く変わっていない。

そこで、神の人・エリシャ自ら動く。

5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王がその衣を裂いたことを聞き、王に人をつかわして言った、「どうしてあなたは衣を裂いたのですか。彼をわたしのもとにこさせなさい。そうすれば彼はイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう」。 5:9 そこでナアマンは馬と車とを従えてきて、エリシャの家の入口に立った。 5:10 するとエリシャは彼に使者をつかわして言った、「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」。

ナアマンは、王から重く用いられている将軍である。一国の貴賓として、うやうやしく応対される事に慣れていたかもしれないが、主の預言者エリシャは、神の国の言葉を取り次ぐ自分達が「上」であり、あなた方が、主の言葉どおり実行すべきだ、という姿勢を貫く。

エリシャは、せっかくナアマンが自分の所に出向いてきてくれたのに、家から出る事もせず、一人の若造を遣わして、これこれをしなさい、と指示した。

5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った、「わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、らい病をいやすのだろうと思った。5:12 ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか」。こうして彼は身をめぐらし、怒って去った。5:13 その時、しもべたちは彼に近よって言った、「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」。

ナアマンは、怒った。自分の思い描き通りでない、と。ナアマンは、自分の国の川のほうがイスラエルの川よりも優れているではないか、そちらのほうが清められる力があるではないか、と言った。その人から癒される事を遠ざけているものは、人のプライドや高ぶり、思い込みである。

ナアマンは、エリシャが自ら出てきて、手を動かしてくれるのではないか、と思っていた。

人は、自分がきよくなるために、自分が考案した仕方を貫こうとする。ある人は滝に打たれる修行をして心を清めようとするが、どんな川、どんな水も、人の汚れはきよくせられない。ただ、主の御言葉の水の洗いでのみ、清められるのだ。

プライドは、自分が「上」であろうとさせる。しかし「上の立場」であるのは自分ではなく主の言葉であり、そして、癒やしを与えて下さる主イエス様である。主の御前にひれふし従順する時、癒される力が働く。

主は確かに人が清められ癒やされてほしいと願っておられるが、主の癒しの方法は、人それぞれに対し違う。

マタイ 8:2 すると、そのとき、ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。 8:3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病は直ちにきよめられた。

このらい病人の場合は、イエス様がみずから手をのばし、動かして言葉をかけ、癒やされた。

らい病人は、もし「みこころでしたら(If you are willing)」清められます、と言い、そしてイエス様もまた、それを「willing」と答えた。

彼の場合は、ナアマンと違い、イエス様自ら御手を動かされた。イエス様の前にひれ伏したからだ。

イエス様のみこころは、人が癒されきよくされる事だが、その仕方は、人それぞれの霊性や状況によって違う。

  5:14 そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。

ナアマンの場合、ひれ伏す心は無かった。しかし彼の心はどうあれ、たとえ嫌々ながらであったとしても言葉に従ったから、癒やされたのだ。

そして彼の心は、それ以来、がらっと変化する。次回にそれを見ていきたい。

主を慕ってついてくる人々に与えられる保証(2列王記4:38-44)
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 4:38 エリシャはギルガルに帰ったが、その地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前に座していたので、エリシャはそのしもべに言った、「大きなかまをすえて、預言者のともがらのために野菜の煮物をつくりなさい」。
 4:39 彼らのうちのひとりが畑に出ていって青物をつんだが、つる草のあるのを見て、その野うりを一包つんできて、煮物のかまの中に切り込んだ。彼らはそれが何であるかを知らなかったからである。
 4:40 やがてこれを盛って人々に食べさせようとしたが、彼らがその煮物を食べようとした時、叫んで、「ああ神の人よ、かまの中に、たべると死ぬものがはいっています」と言って、食べることができなかったので、
 4:41 エリシャは「それでは粉を持って来なさい」と言って、それをかまに投げ入れ、「盛って人々に食べさせなさい」と言った。かまの中には、なんの毒物もなくなった。

ききんの時である。食料がとても貴重な時であるが、この時、一人の預言者が、その貴重な食料の入ったなべに無知のゆえに毒を入れてしまい、人々の口に持って行かせてしまった。

主に在る兄弟姉妹の口に入るものを作る時にはよくよく注意すべきではあるが、彼は鞭であった。

彼は預言者のともがら達から非難を浴びたかもしれない。

これがもとでその集会の全員が死んでしまう危機であったが、主を信じる人、神の国の働き人には、保証が与えられている。

マルコ16:17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。

私達は御言葉に望みを置きつつ、生きる特権があたえられている。

パウロも、毒蛇にかまれても死なず、かえってそのしるしをもって、現地の人々を救いへと導いた。

この信仰のうすい、毒に満ちているこの国において「信じる者には・・・毒を受けても害を受けない」というしるしは、信じる私たちにとって大きな希望である。

4:42 その時、バアル・シャリシャから人がきて、初穂のパンと、大麦のパン二十個と、新穀一袋とを神の人のもとに持ってきたので、エリシャは「人々に与えて食べさせなさい」と言ったが、

 4:43 その召使は言った、「どうしてこれを百人の前に供えるのですか」。しかし彼は言った、「人々に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、『彼らは食べてなお余すであろう』」。
 4:44 そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった。

この事も、イエス様の奇跡を思い起こさせる。

イエス様はわずか5つのパンを2引きの魚で、5000人をも養った。そのイエス様の奇跡が与えられるのは、イエス様に望みを置いて集まった群衆である。

6:34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。

イエス様は、憐れまれる。無計画にではあってもイエス様を慕って集う人々に対し。

そして彼らの無計画ゆえに手持ちの食料も持ってこなかったという報いを、そのまま「自己責任だ」などと言う事なく、むしろ、イエス様がみずから彼らを心配してくださり、しっかりと保証を与えられた。

 6:35 ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。
 6:36 みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。
 6:37 イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。

弟子達が言った事は、エリシャの弟子が心配して言った事と似ている。

そして、主の保証の仕方は同じである。

 6:38 するとイエスは言われた。「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。
 6:39 そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。
 6:40 人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。
 6:41 それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。
 6:42 みんなの者は食べて満腹した。
 6:43 そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
 6:44 パンを食べた者は男五千人であった。

主は、主を慕い求める者を満腹させ、道足らせるばかりでなく、主の働き人の分もちゃんとたっぷり整えて下さるのだ。

私達はこの事を信じるだろうか?信じる者には、その通りになるのである。

主に直接伺いに行き、主の直接の奇跡を得たシュネムの女(2列王記4:18-37)
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 4:18 その子が成長して、ある日、刈入れびとの所へ出ていって、父のもとへ行ったが、
 4:19 父にむかって「頭が、頭が」と言ったので、父はしもべに「彼を母のもとへ背負っていきなさい」と言った。
 4:20 彼を背負って母のもとへ行くと、昼まで母のひざの上にすわっていたが、ついに死んだ。

せっかく子供が生まれ、まだ小さく、かわいいさかりなのに死んでしまう。母親としては悲しみの極みである。なんで、この子は生まれ、そして死ななくてはならなかったのか、と。

 4:21 母は上がっていって、これを神の人の寝台の上に置き、戸を閉じて出てきた。
 4:22 そして夫を呼んで言った、「どうぞ、しもべひとりと、ろば一頭をわたしにかしてください。急いで神の人の所へ行って、また帰ってきます」。
 4:23 夫は言った、「どうしてきょう彼の所へ行こうとするのか。きょうは、ついたちでもなく、安息日でもない」。彼女は言った、「よろしいのです」。 4:24 そして彼女はろばにくらを置いて、しもべに言った、「速く駆けさせなさい。わたしが命じる時でなければ、歩調をゆるめてはなりません」。

子どもの父親すなわち彼女の夫は、神の人の所に会いに行くのは、ただ安息日や礼拝の日だけだ、と思っていたようだ。しかも、子供に何か良からぬ事があったのか、という察知する心遣いもないようである。

たとえ死んだという事を知らなかったにしても、子どもはあんなに頭が痛かったのだから、神の人のところに癒やしてもらいに行くのだろうか、という発想も沸かない不信仰な彼とは一切会話はせず、議論する事もなく、急いで神の人エリシャの所に向かう。


 4:25 こうして彼女は出発してカルメル山へ行き、神の人の所へ行った。神の人は彼女の近づいてくるのを見て、しもべゲハジに言った、「向こうから、あのシュネムの女が来る。
 4:26 すぐ走って行って、彼女を迎えて言いなさい、『あなたは無事ですか。あなたの夫は無事ですか。あなたの子供は無事ですか』」。彼女は答えた、「無事です」。

「無事」と訳された語、シャロームというヘブライ語は、平安です、という意味のあいさつではあるが、子供は「無事」ではない。彼女は、不信仰な父親はスルーし、ゲハジにもとりあえずシャロームと応え、ともかく彼女は、一切の事を秘め、直接エリシャの所に行ってこの事を解決してもらおうと思っていたようだ。


 4:27 ところが彼女は山にきて、神の人の所へくるとエリシャの足にすがりついた。ゲハジが彼女を追いのけようと近よった時、神の人は言った、「かまわずにおきなさい。彼女は心に苦しみがあるのだから。主はそれを隠して、まだわたしにお告げにならないのだ」。

ゲハジは彼女の尋常ではない行動だけを見て、振り払おうとした。

しかしエリシャは、彼女は何のために通常でない時期にここに来たのか、そして、どうしてこんな尋常ではない行動を取るのかを知ろうとした。彼女は、この事は誰にも告げず、ただ、彼女の胸に秘めており、また、エリシャにも神から何も告げられていない状態だった。


 4:28 そこで彼女は言った、「わたしがあなたに子を求めましたか。わたしを欺かないでくださいと言ったではありませんか」。

エリシャは彼女のその言葉から、はじめて分かった。彼女が来た理由は、子供の問題だった、という事を。

彼女の言葉の「内容」だけ見ると、恩知らず、不信仰、に見えるかもしれない。

しかし、幼い息子が、つい今しがた死んでしまった状況下にある女性から発せられる言葉を、文字通りそのまま受け止めて、ゲハジのように彼女を引き離そうとすようでは、神の国の働き人として失格である。

ともかく彼女は、真っ先に預言者の所に問題を持って行く信仰は、あったのだ。

4:29 エリシャはゲハジに言った、「腰をひきからげ、わたしのつえを手に持って行きなさい。だれに会っても、あいさつしてはならない。またあなたにあいさつする者があっても、それに答えてはならない。わたしのつえを子供の顔の上に置きなさい」。

エリシャがここまで具体的な指示をゲハジにしたからには、主から「そうしなさい」と示されたのだろう。

4:30 子供の母は言った、「主は生きておられます。あなたも生きておられます。わたしはあなたを離れません」。そこでエリシャはついに立ちあがって彼女のあとについて行った。
 4:31 ゲハジは彼らの先に行って、つえを子供の顔の上に置いたが、なんの声もなく、生きかえったしるしもなかったので、帰ってきてエリシャに会い、彼に告げて「子供はまだ目をさましません」と言った。

言われた通りにしても何も起きない。果たしてエリシャの預言の力が衰えたのだろうか?そうではない。このような場合は、預言が与えられた人の側の信仰に問題がある場合が多い。

ゲハジは、信仰に問題があった。彼女をすぐに振り払おうとしたし、さらにこの後、彼は、彼自身の欲深さと偽りの行動ゆえに、呪いを被ることになる。

イエス様の時代も、弟子たちには悪霊を追い出せなかった事があったが、その時イエス様は「信仰が無いからである」「この種のものは祈りと断食によってでなければ追い出せない」と言われた。(マタイ17:14-21)

エリシャの弟子ゲハジが、杖を顔に置いただけでは、癒やされなかった。そこで彼の主人エリシャは、祈りに入る。

4:32 エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、
 4:33 彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。
 4:34 そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。

二人だけ、つまりエリシャと子供だけ、である。イエス様も、ヤイロの娘の生き返らせる奇跡を行った時、不信仰な者は外に出した。主の御言葉が語られても、何も起きないような状況なら、不信仰な者は外に出すのである。

それにしてもエリシャ、「子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ば」すという大胆な行動に出たものだ。

律法では、死体に触れる事は、汚れを受ける事であり、1週間がかりできよめの儀式を行わなければ、きよめられないという、やっかいな事だった。それでもエリシャは、ここまでした。エリシャに相当の覚悟がなければできない事だ。

まさに「祈りと断食」である。

4:35 こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。

死んでいた子どもが、生き返った。これは、当時の周囲の人々にインパクトを与える事だろう。

4:36 エリシャはただちにゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼べ」と言ったので、彼女を呼んだ。彼女がはいってくるとエリシャは言った、「あなたの子供をつれて行きなさい」。
 4:37 彼女ははいってきて、エリシャの足もとに伏し、地に身をかがめた。そしてその子供を取りあげて出ていった。
彼女はこのように良くしていただいた。

彼女は、旅人をもてなし預言者に良くする信仰があったから、そして、問題が起きたら誰よりも何よりも、主の預言者に持っていく信仰があったから、このような幸いを受け、また彼女はその後にもこの事ゆえに幸いを得る。

私達も、全ての問題をまことの預言者・イエス様に直接持っていく信仰があるなら、このような幸いを受けるのだ。

主の働きをした人にはその家族も保証を受けられる(2列王記4:1-7)
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