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メッセージ - 黙示録(2回目)カテゴリのエントリ

ペルガモ教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録2:12-17)
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七つの教会の内の第三番目、ペルガモ教会への書き送りは、次の構造となっている。

1,一次受信者の指定
『ペルガモにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(2:12)

2,語られるキリストの姿
『鋭いもろ刃のつるぎを持っているかたが、次のように言われる。』(2:12)

3,賞賛と激励
『わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。』(2:13)

4,叱責と警告
『しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。同じように、あなたがたの中には、ニコライ宗の教を奉じている者もいる。』(2:14-15)

5,勧めの宣言
『だから、悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。』(2:16)

6,勝利者に約束されている報い
『勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある。』(2:17)

7,二次受信者への命令
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(2:17)


ペルガモの王は、当時世界一の蔵書を誇ったアレクサンドリア図書館を上回る図書館を建てようと画策して、文献の収集に務めた所、エジプトからパピルス紙の輸出を禁じられてしまったため、代わりに、羊皮紙による写本の文献を収集するようになった。
以降、ペルガモは、「羊皮紙」の代名詞的な都市となる。(羊皮紙のイタリア語:pergamena、スペイン語:pergamino、ポルトガル語:pergaminho、英語:parchment)。

このペルガモ教会の使いに向けたメッセージの、重要なキーワードは、「剣」である。
『鋭いもろ刃のつるぎを持っているかたが、次のように言われる。』(12節)
『主が、悔い改めない人と、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦う。』(16節)
これら2節で並行して言われている事は、主は剣をもって戦われる、という事の宣言である。

『わたしはあなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの座がある。あなたは、わたしの名を堅く持ちつづけ、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住んでいるあなたがたの所で殺された時でさえ、わたしに対する信仰を捨てなかった。』(黙示録2:13)
ペルガモは、学術・文化が発達し、かつ、偶像崇拝も盛んな都市であった。アクロポリス遺跡からは、ゼウス祭壇やアテナ神殿の遺跡も発掘されている。
このように、学術・文化・偶像崇拝も盛んな所は、サタンも働きやすいもので、主も、「そこにはサタンの座がある」と言われた。

そのような所で、イエスこそ唯一の救い主であると告白し続ける事は、困難であった。
実際、ペルガモ教会の牧者であったアンテパスは、金属製の牛の像の中で、焼き殺されたという。
そんな激しい状況の中でも、ペルガモ教会の聖徒たちは、信仰を捨てなかった。

『しかし、あなたに対して責むべきことが、少しばかりある。あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。同じように、あなたがたの中には、ニコライ宗の教を奉じている者もいる。』(黙示録2:14-15)
非難されている点は、バラムの教えを奉じている(クラテオー:握りしめている)者が、このペルガモ教会の中にいる、という点だ。
あのような激しい迫害の中でも信仰を貫き通したというのに、なぜ非難されてしまうか。
それは、バラムの教え(即ちニコライ宗の教え)は、せっかくの素晴らしい信仰を台無しにしてしまうからであり、いかに素晴らしい信仰の行いと忍耐の実績ある者であっても、看過してはならないからだ。

「バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせた」
その事は、民数記22-25章に記されている。
イスラエルの民がエジプトを出て荒野を進んでいた時、イスラエルを恐れ敵意を燃やすモアブの王・バラクは、有名で有力な預言者・バラムに大金を積み、イスラエルを呪わせようとしたのだが、バラムは主から呪うのを禁じられて、どうしても呪えず、かえって祝福する事となり、バラクの意図とは真逆の事をする事となった。
『こうしてバラムは立ち上がって、自分のところへ帰っていった。バラクもまた立ち去った。』(民数記24:25)
しかしバラムは、バラクから金銀を受け取らずにそのまま去った、のではなかった。
主はここまではっきりイスラエルを愛しておられる事を、モアブに対し、またバラムに対し明らかに示されたというのに、バラムはなおもイスラエルを陥れようと画策する。

『イスラエルはシッテムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらな事をし始めた。その娘たちが神々に犠牲をささげる時に民を招くと、民は一緒にそれを食べ、娘たちの神々を拝んだ。・・・ その疫病で死んだ者は二万四千人であった。』(民数記25:1-2、9節)
この、モアブの娘達とみだらな事をさせ、イスラエルの心を、主から分裂させるようバラクに入れ知恵した者が、バラムである。

敵であるサタンは、城を直接攻撃では落とせないとなると、城内の人の心を惑わして、城主とその僕達とを仲違いさせる戦法を取ってくる。
すなわち、人を誘惑し、堕落させ、そうして主の怒りを引き起こさせ、神が人を滅ぼすよう仕向ける戦法である。
このように、誘惑によって人を堕落させ、滅びへと導くサタンの戦法は、アダムの時から、バラムの時代も、ペルガモ教会の時代でも、そして、現代でも続けられている。

バラムは、あんなにも鮮やかに主の御心が示されたのに、すなわち、主は徹底してイスラエルを祝福しようとしておられる事を知り、体験した、というのに、どうして尚もイスラエルを陥れようとしたのか。
それは、彼は「不義の報酬を愛した」からだ。(2ペテロ2:15)
主の御胸よりも、不義の報酬を愛するような心は、預言者としては「狂気の沙汰」(同16節)である。
彼は、主の御心よりも、金銀の報酬のほうを選び、そちらを握りしめてしまったのだ。

バラムは神に言い訳しただろうか。
「私は確かに、あなたの言いつけどおり、イスラエルは呪いませんでした。でも、イスラエルを堕落させてはならないとは、お言いつけにはなりませんでしたよね?」と。
しかし主には、そのような詭弁は、通用しない。
彼はそのすぐ後、ミデヤン人の間にいる所を、剣で殺された。(民数記31:6-9)
モーセが生きている間に殺されたのであるから、彼が神の民を売ってまで得た不正な報酬を楽めた期間は、一年も無かったようである。
これが、ひと度主の素晴らしさを味わっておきながら、なお不義の報酬を愛し、堕落してしまった者の末路である。(ヘブル10:26-29)

人は、外的な攻撃にはよく対抗し、心して戦ったり祈ったりするものだが、気持よくさせる誘惑に対しては、誘惑に会わせないよう祈ったり対抗して戦ったりする事には、疎いようである。
神の民の二万四千人が倒れてしまった原因が、バラムのたった一人の、不義の報酬を愛する心に拠った、という事に、私達はよく心するべきである。
アンテパスがあんなに酷い殺され方で殉教しても、ますます信仰を貫いた、あの立派なペルガモ教会を主が容赦なく叱責され、しかもその理由が、バラムの教えを奉ずる者がいる、という点であったのを、私達はよく心に留めるべきである。

『だから、悔い改めなさい。そうしないと、わたしはすぐにあなたのところに行き、わたしの口のつるぎをもって彼らと戦おう。耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(黙示録2:16-17)
ペルガモ教会のアンゲロス(メッセンジャー)に対してなされたこの勧めは、この手紙の二次受信者である「私達」に対しても、向けられている。
すなわち、不品行や偶像崇拝を勧めて来るような、あるいは御胸よりも不義の報酬のほうを愛するような「狂気の沙汰の預言者」の性質が、私達の中に見いだされるとするなら、速やかに悔い改めるべきなのだ。
そうでないと、主の口から出る剣によって、切り分けられてしまう。
主の口から出る御言葉の剣は、私達の心の内を露わにし、霊と魂の分かれ目をも刺し貫き、バラムの教えに奉じる者と清純な神の民との間を切りわけられる。

もし私達が群れの牧者であるとするなら、私達の群れの中の、ある人が、主ご自身の剣によって滅ぼされてしまうとするなら、どうして耐えられるだろうか。
あのバラムの時代、主の災いの剣を止めさせたのは、大祭司ピネハスの決して妥協しない果敢な行いであったし、ダビデの時代、主の災いの剣を止めさせたのは、ダビデの、自分の民を思いやる悔い改めの告白だった。
私達もピネハスのように、主のひどい災いが降る前に、その災いの元を断ち切るべきであり、群れの誰一人として滅びへと導かれないよう、牧者として守るべきなのだ。

『勝利を得る者には、隠されているマナを与えよう。また、白い石を与えよう。この石の上には、これを受ける者のほかだれも知らない新しい名が書いてある』。』(黙示録2:17)
勝利者には、二つの「隠された」報酬が、約束されている。
その一つは、隠れたマナである。マナは、エジプトから脱出した神の民が、40年、荒野で主から与えられた食物だった。
もう一つの報酬は、白い石が与えられる事だ。そこには、それを受ける者以外は誰も知らない、新しい名が記されているのだ。

私達も、主への真実を貫き通し、悔い改めによって勝利するなら、世の人、他の人にはとうて味わえない、主からの霊的・肉的な養いがあるのだ。
このような、他の誰も味わえない隠された喜びに預かる「勝利者」として歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

スミルナ教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録2:8-11)
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七つの教会の内の第二番目、スミルナ教会への書き送りは、次の構造となっている。

1,一次受信者の指定
『スミルナにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(2:8a)

2,語られるキリストの姿
『初めであり、終りである者、死んだことはあるが生き返った者が、次のように言われる。』(8b)

3,賞賛と激励
『わたしは、あなたの苦難や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。』(2:9)

4,叱責と警告
なし

5,勧めの宣言
『あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。』(2:10)

6,勝利者に約束されている報い
『死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。・・・勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない』。』(2:10-11)

7,二次受信者への命令
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(11)


スミルナという都市は、古来より繁栄を謳歌した港湾都市であったが、そんな中にあってスミルナ教会は、貧しかった。
貧しさや不足を覚えているという困難ばかりでなく、外から迫り来る困難もあった。
主は、そんなスミルナ教会にメッセージを伝えられる。
『わたしは、あなたの苦難(エルゴン:行い)や、貧しさを知っている(しかし実際は、あなたは富んでいるのだ)。』(黙示録2:9)

主は、彼らのそうした状況を「知って(オイダー)」おられる。
オイダー。すなわち、感覚的・主観的・感情的な面において「知って」おり、労苦や忍耐の時に流した涙、その時痛かった心の痛みも、全部、知っておられる。
そんな痛み、苦しみの中にあっても、あなた方はよく忠実に仕えている、そして、それは実際は富んでいる事だと、主は語りかけておられるのだ。

この地上では、イエス様を信じている故に、あるいは、イエス様の働きをしている故に、苦しみを受ける、という事が起こりうる。
しかしそのような、主の故に困難や迫害を受ける時、実はそれは「富んで」いるのだという事を、そして、そのような人々は、実はよく知られており、羨望の眼差しで見られているという事を、私達も意識すべきである。
『わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。』(2コリント6:8-10)
『わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。』(マタイ5:11-12)

スミルナ教会に対しては、主からの叱責は、無い。
これと非常に対照的な教会が、ラオデキヤ教会である。
ラオデキヤ教会には、主からの賞賛は無く、ただ叱責しか無い。彼らに対して主は「自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」と評価している。(3:17)
スミルナに対する評価とは真逆だ。
このように、人が外見で見る評価と、主の心を見る評価とは、違うものだ。

『また、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられていることも、わたしは知っている。』(黙示録2:9)
スミルナの牧者は、自称ユダヤ人から、すなわち、自分達こそ神の民であると主張していながら、実はサタンの衆である者達から「そしられ(ブラスフェミア)」ていた。(2:9)
ブラスフェミアは「神聖冒涜」の意味である。
現代でも、自称クリスチャンではあっても実体はサタンの実(嘘、争い、反逆など)を結んでいる者がいるが、そのような者が、主に忠実を尽くしている聖徒達を、そしるという事は「神聖冒涜」をしていると主から見られるのだ。

『あなたの受けようとする苦しみを恐れてはならない。見よ、悪魔が、あなたがたのうちのある者をためすために、獄に入れようとしている。あなたがたは十日の間、苦難にあうであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう。』(2:10)
神を愛し、それ故受けてしまう苦難に対しても耐え、忍びとおす聖徒達に対して約束されている報酬は、いのちの冠である。
『試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。』(ヤコブ1:12、1コリント9:25)

スミルナ教会の牧者は、ポルカルポスという人物で、彼は、使徒ヨハネの弟子である。
ヨハネは弟子である彼に、この黙示録という手紙を通して、主から受けた事を、そのまま彼に対して書いた形になる。
主は、あなたの苦しみや迫害を知っておられる、しかし、あなたは実際は富んでいる・・・。
苦しみを恐れてはいけない、死に至るまで忠実であれ。そうするなら、決して朽ちる事のない、いのちの冠を主から受ける、と。

ポルカルポスは、師匠であるヨハネからのこの手紙を、どう読んだだろう。
彼は、実際、死に至るまで忠実だった。
AD155年、ポルカルポスは、フィラデルフィア教会の聖徒達11人と一緒に火あぶりで殉教した。
そして彼を失ったスミルナ教会の聖徒達は、彼が殉教したその所に、殉教記念教会を建てたという。
彼は死に至るまで忠実だった。それゆえ、受けたのだ。いのちの冠を。

『勝利を得る者は、第二の死によって滅ぼされることはない。』(2:11)
迫害者は、キリスト者を「第一の死(心臓が停止する等の死)」へ引導する事はできても、第二の死に導く事は出来ない。それをするのは、審判者なる主である。
第二の死とは、火と硫黄の永遠に燃えている池であるが(20:14、21:8)、主イエスにあって勝利する人には、第ニの死には一切関わりは無い。
『そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。』(ルカ12:4-5)

主は、知っておられる。
主イエス様を信じている、という事が理由で受けた、一つ一つの苦しみ、迫害を、そして流して来た涙を。
あの時あの人からあのような事を言われたのも、あのような扱いを受けたのも、それでも、イエス様を貫いたあの忍耐も、主は、全部知っておられ、そのような聖徒に対しては「実は富んでいる」と評価して下さる。

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(2:11)
私達も、この世にあっては艱難ある。しかし主は世に勝利されたお方。
この世における信仰者としての道のりを勇敢に走りぬき、この地上の肉体が尽きる時に至るまで、主に対する忠実を貫く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

エペソ教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録2:1-7)
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ヨハネはこの預言の書を「朗読」し「聞き」「心に留める」べき事を指示した。(1:3)
この預言の書は既に完成したメッセージであり、これ以上付け加えたり減らしたりしてはならない事も、主によって宣言されている。(22:18-19)
それ故、この書について、人が何か考えだした解釈の中に縛り込む事に対して、私達は警戒しなくてはならない。
特に黙示録は、今までの歴史で、異端と呼ばれる者達が「普通のキリスト教会では解き明かせなかった謎を、自分達は解き明かした」と公言し、自分達に都合の良いように解釈を付け加え、人々を恐怖で煽りたて、救いはあたかも自分達にしか無いかのように導き、また他の教会や群れはあたかも無能であるかのように人々を引き込み支配した事も多々あったからだ。

しかしながら、この手紙はギリシヤ語で生活する1世紀のアジヤの人々に対しては分かりやすく記されてはいるとしても、21世紀の現代日本に生きる私達は、そのまま読んでも理解しにくい所がある。
例えば、日本語はギリシヤ語と違って、冠詞は無いし、時制や単数複数の指定もあいまいで、当時の彼らが当然のごとく理解できていたニュアンスを、私達はそのままでは理解できないし、また、例えば「ニコライ派」という言葉にしても、当時の彼らにはすぐに思い当たった言葉であっても、21世紀の私達には、説明無しにはわからない。
このような、時代や言葉の翻訳を経る事によって、本来的な意味やニュアンスが薄れてしまったり、風化してしまった点については、21世紀を生きるアンゲロス達(牧師など伝達者達)は、それら本来的な意味やニュアンスを掘り起こし、人々に説明する必要性は、あるだろう。この預言の言葉は「減らしてはならない」とも命じられているからだ。
その程度の手助けはするにしても、この書を本当に理解させて下さる御方は、御霊である事には変わりは無いし、人間の解釈が御言葉を上回るような事は、あってはならない。

『エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『右の手に七つの星を「持つ(ホ・クラトーン)」者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。』(黙示録2:1)
主はその右の手に、七つの星を「ホ・クラトーン」しているのを、ヨハネは見た。
この「ホ」は冠詞で、「クラトーン」は、ぎゅっと握りしめる事の動詞である。
動詞には普通、冠詞はつけないものだが、ヨハネがわざわざ「ぎゅっと握りしめている」動詞に冠詞を付けたのは、ここを強調したかったからだろう。

星とは教会のアンゲロス達、すなわちメッセンジャーや牧者達であり、燭台はエクレシア達(主にある集い:教会)の事である事を、主は既に解き明かして下さった。
つまり主は星たち、すなわちアンゲロス達(メッセンジャー達、働き人達や牧者たち)を、情熱の感情を持ちつつ、世の終わりに至るまでぎゅっと握って離さない事を、ヨハネは強調したかったのである。

また、ここの「歩く(ペリパテオー)」は、ゆっくりじっくり歩き回る、生きる、過ごす、といった意味のある言葉である。
つまり主は、7つの金の燭台の只中、すなわち、主にあるエクレシア達の”ただ中”で、聖徒達と共に歩み、共に生きて下さるお方だ。
その御方が、言われる。

『わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。』(黙示録2:2-3)
主は、「知って(エイドー)」おられる。このエイドー(オイダーの接続法)は、感覚的・主観的・感情的な面において「知っている」という意味である。
まことに主は、エクレシアの間を行きめぐり、聖徒達の心の奥底も、内に隠れた心や動機の機微も、労苦や忍耐の時に流した涙も、全て知っておられる。

『しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。』(黙示録2:4)
エペソ教会の牧者(アンゲロス)に対する叱責は、「初めの愛から離れてしまった」事であるが、ここの「離れる(アフィエミー)」は、無視する、見捨てる、離れる、捨て去る等の意味がある。

『そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。』(黙示録2:5)
主は、初めの愛を捨ててしまったメッセンジャー達、働き人達に「悔い改めて初めのわざを行いなさい」と言われた。
「行い(エルゴン)」をしなさい、と。
ヤコブも言う。行い(エルゴン)の無い信仰は、死体である、と。
もしそれをしないなら、燭台を、すなわちエクレシア(集会)を、あなたの所から取り上げてしまう、と。
だから主は、あなたがた・メッセンジャー達、牧者たちよ、最初の行いを為し、最初の愛を思い出しなさい、と叱責し忠告しておられる。
私達にも、もし主のメッセージを届けるべき相手、御言葉を届けるべき相手、養うべき相手がいるとするなら、すなわちアンゲロスであるなら、はじめの愛を忘れず、初めの行いをキープし続けるべきだ。

それでも、自分からそれを捨て去ってしまうとするなら、主の警告を受ける事になる。
最初の行いに戻りなさい、そうでないと、あなたの目の前にいる集会、あなたが養っている羊達は、いつまでもあなた方の前にいるとは限りませんよ、と。

『しかし、こういうことはある。あなたはニコライ宗の人々のわざ(エルゴン:行い)を憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。』(エペソ2:6)
ニコライ派とは、当時の異端である。
彼らは、偶像に供えた物を飲食し、不品行を勧める「バラムの教え」に似たもののようである。(2:14)

現代でも、キリスト者の不当な飲み食いや不品行を許容し、あるいは勧めるような、現代版の「ニコライ派」がいるが、彼らのように、神を敬っているとは言いつつもその実はそうでないような「わざ(エルゴン:行い)」は、憎むべきである。
なぜなら、主もそれを憎んでおられるからだ。

勝利者に対して約束されている報いは、次の事である。
『勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。』(黙示録2:7b)
ここで主は、エデン(楽園)にあったいのちの木への回復を約束しておられる。
だから私達も、勝利者となるために、最初の愛を捨てる事が無いように、もしも主からの叱責を受けたとしたなら、速やかに主の言葉に従順し、はじめの愛に即した行いをし続けるべきだ。
この事は、この肉体のいのちが尽きるまで続けるべき事であり、そうして、いのちの木へと至る幸いへ、あずかる事が出来るのだ。

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(黙示録2:7a)
私達はこのエペソ教会の使者に言われた言葉に聞き、御霊によって訓戒を得て、主の働き人として最初の愛、最初の行いをキープし続け、その幸いにあずかる者でありたい。

黙示録2-3章概要(黙示録2:1-7)
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黙示録の最初には「アジヤにある七つの教会へ」と記されているが(1:4,11)、2章と3章は、7つの教会の使いに対する個々のメッセージであり、それぞれ、およそ次の構造に従って語られている。

1,一次受信者の指定
例:「エペソにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。」(2:1a)

2,語られるキリストの姿
例:「『右の手に七つの星を持つ者、七つの金の燭台の間を歩く者が、次のように言われる。」(2:1b)

3,賞賛と激励
例:『わたしは、あなたのわざと労苦と忍耐とを知っている。また、あなたが、悪い者たちをゆるしておくことができず、使徒と自称してはいるが、その実、使徒でない者たちをためしてみて、にせ者であると見抜いたことも、知っている。あなたは忍耐をし続け、わたしの名のために忍びとおして、弱り果てることがなかった。』(2:2-3)

4,叱責と警告
例:『しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。』(2:4)

5,勧めの宣言
例:『そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。』(2:5)

6,勝利者に約束されている報い
例:『勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。』(2:7b)

7,二次受信者への命令
例:『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(2:7a)

なお、必ずこの番号順になるとは限らないし、また、賞賛だけあって叱責が無い場合や(スミルナ、フィラデルフィア)、その逆で、叱責だけあって賞賛が無い場合もある。(ラオデキヤ)

この、黙示録という手紙の宛先は、各教会の牧者や説教者、メッセンジャーである事は、以前見た。
この手紙を受け取った各教会の聖徒達は、礼拝の時間、説教者がこの預言のことばを単に朗読し、会衆達は、単に耳を傾けた。

原初の教会の礼拝形式は、主イエスを信じる人々が主日、一つ所に集い、この巻物の書簡を神の言葉として、そのまま朗読し、人々はそれに耳を傾けてアーメンするというとても単純明快なもので、いわゆる「説教」は無いため、言葉の解釈の違いから来る分裂などは無く、各教会の聖徒達は、朗読された御言葉を聞いて、記されていた内容を守り行う歩みを主に捧げるという「礼拝」によって、祝福の実体を経験していた。(「読むだけで開かれるヨハネの啓示録」キム・ヒョンジュン博士著)
まさに「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。」と記されてある通りである。(1:3)

さて、この手紙の第一の受信者は、エペソ、スミルナなど、アジヤ地方の7つの教会の牧者やメッセンジャー達であったが(2:1,8,12,18,3:1,7,14)、彼ら以外にも、この手紙が読み聞かされるべき人、すなわち、”二次受信者”が存在する、という事は、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」と、7度も繰り返されている事からもわかる。(2:7, 11,17,29,3:6,13,22)
それら二次受信者とは「耳のある者(原意:聞くための耳(単数形))」の全てであり、すなわち、現代を生きるエクレシアである私達・キリスト者達も、この手紙が宛てられた「二次受信者」に含まれているのである。

手紙の一次受信者であるアジヤ地方の教会の牧者達に対しては、彼らそれぞれの生き方や状況、信仰の状態を直接的に評価し、賞賛し、叱責する内容の手紙であったわけだから、彼らはその内容が最も染み渡り、最も適用された事は、事実であろう。
しかし現在、私達がこの手紙の二次受信者へと加えられているからには、私達も、各々置かれた時代や環境、それぞれの信仰や状態に応じた、主からの賞賛や叱責、勧めや報いの言葉を頂くものである。
どんな国、時代、状況の兄弟姉妹であれ、主の言葉を守り御名を否まなかった聖徒達には、フィラデルフィア教会への賞賛があるであろうし、生ぬるい信仰の人には、ラオデキヤ教会への叱責や訓戒があるだろうし、迫害下にある兄弟姉妹には、スミルナ教会への励ましと力づけの言葉を、聖霊より、それぞれいただくであろう。
それはまったく「”御霊が”諸教会に言うことを聞くがよい」と、繰り返し命令されている通りである。

私達は御言葉を読む時、読んだ一人ひとりの心を聖霊様が照らして下さる、その光によってこそ導かれるべきであり、決して、人間が構築した「解釈」という縛りに、御言葉を閉じ込めてはならないのだ。
たとえその解釈が、何世紀に渡る伝統的なものであっても、あるいは、今が旬の有名な先生由来のものであっても。
なぜなら、次のように書かれてあるからだ。
『こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、「人々が聖霊に感じ、神によって語ったもの」だからである。』(2ペテロ1:19-21)
『この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。』(黙示録22:18-19)

私達がこの預言の言葉を読み上げる時、聖霊様が直接、おのおのに御言葉を悟らせ、理解させる働きをして下さる、という約束がある。
それならば、御言葉が宣言される時、牧者も信徒たちも、宣言している人も、聞いている人も、今、聖霊様が働き、悟らせて下さる事を信じて、聖霊様のわざが豊かに為される事を祈り求めた上で朗読し、また聞くべきなのだ。

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この黙示録メッセージは、無断複写・転載を禁じます。

秘められたサインを解き明かして下さる主(黙示録1:17-20)
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ヨハネは、主の日(主日:日曜日)に、霊にあって主の御声を聞き、主が開示して下さった幻を見せられた。
その中に現れた主の有様は、圧倒的「聖」であり、圧倒的に清くあられた。
『わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。』(黙示録1:17-18a)

自分の内に、罪ややましい所がある人は、権威のある人、正しく聖なる人と相対する時、恐れおののくものである。
主は圧倒的に聖であられ、何の過ちも無いお方であり、その聖なる御顔を向けられるなら、その人は、はなはだ恐れ、倒れ伏すしか無い。
あの屈強なローマ兵もそうであったし(マタイ28:4)、使徒ヨハネも、預言者イザヤも、エゼキエルやダニエルも、皆、そうであった。

しかし主は、主のしもべヨハネに右の手を置き、「恐れるな」と言って下さった。
ヨハネは、自分のことを「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネ」と言った。(1:9)
私達も、ヨハネと同じような、主にある兄弟姉妹であり、イエスの苦難と御国と忍耐とに共にあずかっている者であるなら、恐れる事は無い。主が右の手を置いて、恐れるな、と語りかけて下さるから。
それは、何と幸いな事だろう。

「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。』(黙示録1:17-18a)
主は、この世が始まる以前から、この世の終わりの後さえ、永遠に生きておられる方だ。
そのような永遠なるお方が、私達の主であり、王であり、そして「恐れるな」と言葉をかけて下さる。これこそ、私達がどんな事にも恐れる必要が無い根拠である。

『わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。』(黙示録1:18b)
原文テキスト(Textus Receptus)には、この直後に「アーメン」が挿入されている。
イエス様は確かに、一度、死んだ。しかし、よみがえって、永遠に生きておられる。イエス様はこの事を「アーメン」と言って、「これは確かな事である」という印を押されたのだ。

『そして、死と黄泉とのかぎを持っている。』(黙示録1:18c)
イエス様は、死をも、支配しておられる。
主は、私達のこの肉体のいのちが終わる日も、雀の一羽が地に落ちる日時さえ、支配しておられる。
そして主は、やがて、最後の敵である死をも滅ぼされる。(1コリント15:26)
だから、キリスト者は、死を恐れる必要が無いのだ。

今、この地上で、私達はまだしばし「死」と付き合わなくてはならない。
それは、死とは一切関わりが無いはずのイエス様さえ、人として降りて来られ、人間の死にわざわざ”付き合って”くださったからだ。
この世には、まだまだ救われるべき多くの命たち、死に束縛されながら、そこから解放されたいと切望している人達がまだ多くおり、彼らを救い出すべき務め、すなわち、死に勝利されたイエス・キリストの福音を伝える務めが、まだ残されているからだ。
それを私達が、完遂した後、終わりの日が来る。

『そこで、あなたの「見たこと(エイドー)」、「現在のこと(エイスィ)」、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。』(1:19)
「エイドー」には、「見た」の他に、知った、分かった、という意味があり、また「エイスィ」はBE動詞で、すなわち「在る」という意味だ。
主はヨハネに、あなたは幻で見せられた事、すなわち、今真理として在る事、そして、将来必定的に起こるべき事を、見たままを記せ、と命じられた。
だから、この啓示録、すなわち、ヨハネが主から示され、見た事をそのまま書き留めたこの書は、完成された預言の言葉であり、これに付け加えたり、減らしたりしてはならないのだ。(22:19)

黙示録は、誰かに解釈してもらわなければ理解できないサインが多くある。
そしてそれは、人には解釈できないし、解釈する事は、許されてもいない。

『ダニエルは王に答えて言った。「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。』(ダニエル2:27-28)
ダニエルが仕えたバビロンの王・ネブカデネザル王に、主が見せられた秘密は、どんな呪法者も、知恵者も解き明かせなかったばかりか、王自身さえ、その夢の内容を自分で言えなかった。
同じように、神である主が見せられた謎を解き明かせるのは、ただ、ほふられた小羊、神の御子、キリストのみである。
黙示録においては、主はサインを与えられられる。しかし、そのサインの秘密を明かす「啓示」も、主はセットで与えて下さるのだ。
そして、その主が与えて下さった解釈こそ正しいものであり、それに対して付け加えたり減らしたりしてはならない。
主はこの啓示録の最初に、サインと、その解釈を、ペアで示された。

主はまず、ヨハネに、7つの金の燭台を見せられそしてその燭台の真ん中を歩まれるお方は、7つの星を右手に握っておられた。
この事は、いったいどういう事か。
それを、主ご自身が、20節で明確に解き明かして下さっている。
『あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。』(黙示録1:20)

ここで、主の右手に「握りしめられた」(2:1)星は、7つの教会の御使である、と、主は明かしている。
「御使い」の原語アンゲロス(エンジェルの元)には、確かに、あの翼がはえた、神々しい天的な使いを意味する事もあるにはあるが、元々は、メッセージを運ぶ者としてのメッセンジャー、頼りを届ける者の意味だ。
つまり、牧師や宣教師、その他、主の意図を取り次いで人に伝える人も、立派にアンゲロスなのだ。

2章以降では、アジヤの7つの教会に、「**にある教会の御使いに書き送れ」と記されているが、ここのアンゲロスは、あの天的な存在の天使ではなく、各教会に遣わされる僕者や説教者、メッセンジャーの事である。
なぜなら、この手紙は、アジアの各教会に、人間の説教者、指導者がもたらし、それぞれの教会で朗読したのであって、天使が各教会に現れてメッセージを伝えたのではないからだ。

黙示録の最初には、この預言の言葉を朗読する者(単数)と、それを聞く人々、守り行う人々は幸いだ、と、記されている。(3節)
つまり、牧師や指導者など、この言葉を朗読する「アンゲロス」を、主は、星として、右の手の中にクラット(しっかり掴んで)して下さるのだ。
私達が御言葉を伝えるアンゲロスとなる時、主が握りしめておられ、離さない。
それは何と心強い事であろうか。
だから私達は、御言葉を伝える時、忠実である事が求められるのだ。

今のこの終わりの時代、私達はこの書を閉じるべきでなく、むしろ朗読し、またそれを聞き、心に留めるべきだ。
これを伝え、主からクラットされる幸いの内に、働いて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

圧倒的聖、圧倒的力をもって現れた主(黙示録1:9-16)
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『あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国(バシレイア)と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。』(黙示録1:9)
ヨハネは、彼自身がこの手紙の著者である事をあかしし、そして自分を「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネ」と自らを紹介している。
ヨハネは言う。
自分も、あなた方と同じ、主にある兄弟であり、あなた方と同じように、イエスの「苦難」と「御国」と「忍耐」とに、一緒にあずかっている者だ、と。

確かに、キリストにあって真実に生きようとする人は、「苦難」に遭ったり「忍耐」しなくてはならない事があるが、しかしそれらは、キリストの「御国(バシレイア:支配領域)の範囲内であり、キリストにあっての苦難や忍耐は、決して失望に終わる事が無い。
『わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。』(ローマ5:2-5)

ヨハネ自身もまた、「神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」
パトモス島は流刑の島である。
今いまし、昔いまし、やがてきたるべき全能なる神は、愛するその聖徒を、流刑地に行かないよう守る事も、脱出させる事も、簡単にお出来になる。
しかし神が、御使をヨハネへと遣わしたのは、彼を流刑地から出して自由にするためではなく、彼を、主との親密な交わりの内に導き入れ、すぐにも起るべき事を啓示するためであり、そして、同じ苦しみにある兄弟姉妹たちに、この慰めと励ましと勧めと訓戒に満ちた手紙を、書かせるためであろう。

ヨハネのように、主にあるしもべであるなら、神の御言葉と、イエスのあかしとの故に、望ましくない所へと連れて行かれる事は、確かにある。
「時」が近ければ近いほど、そうである。
しかし、起きるべき物事の全てにおいて、そして、聖徒達がたどる道々の行く先々において、全能の神のバシレイアは行き届いており、どんな所においても、主と親密に交わりをし、主から啓示をいただき、主にある兄弟姉妹たちを励ましたり示しを与えたりする事も可能である事を示すために、主は敢えて、ヨハネをパトモスに置いたのではなかろうか。

『ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパ(サルピンクス:ラッパ,信号や命令を伝える為に鋭い音で鳴らすもの)のような大きな声がするのを聞いた。』(黙示録1:10)
ここで言う「主の日」は、いわゆる日曜日の事である。
主は主日に現れ、栄光を表される。
主の日に、人が主に礼拝する心をもって主に向かうなら、そこがパトモスであっても、バビロンであっても、牢屋であっても、そこは主の栄光と臨在が現れる場所となり、主の啓示を得る場所となる。

主は、流刑の島にいるヨハネの所に、その偉大な権威と御力と栄光をもって現れた。
『その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。』(黙示録1:11)
このラッパのような大きな声の主は、「初めであり、終りであり、また、一度死んだが、永遠に生きている者」、すなわち、イエス・キリストである。

『そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。』(黙示録1:12)
ヨハネが先ず見えたものは、七つの金の「燭台(ルキニーア:ランプを置くための台)」であった。
この燭台は、主ご自身があとで解き明かすが、教会をあらわしている。

その頭と髪の毛は、雪のような白い羊毛に似ており、燃える炎のような目があった。
このようなお方は、ダニエル書にも出て来た。
『わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。』(ダニエル7:9-10)

一切のしみも汚れも無い、圧倒的に清く聖なるお方の、その燃える炎のような眼差しで、見られるとするなら、いかにダニエルであれ、使徒ヨハネであれ、甚だ恐れおののくものである。
この、誰も近寄れない、圧倒的聖なるご性質が、イエス様の本性である。
私達は主イエス様を、優しく、親しみやすいお方であるという印象を、福音書から受けるかもしれない。
福音書における主は、罪人や取税人、遊女、子供たちが、安心して近寄って来られる雰囲気があった。

またローマ兵は、イエス様にむちを打ち、つばきをかけ、あざけりつつ十字架につけたが、それでも主は罵り返したり、おどしたりする事をせず、死に至るまでも従順に従われたが、実は、圧倒的に力強く、聖なるお方である。
事実、ローマ兵は、イエス様の復活の朝、御使いを見ただけで震えおののき、死人のようになった。
その御使いの軍団にさえ号令をかけ、従わせるのが、同じイエス様なのだ。

『その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。』(黙示録1:15-16)
かつて、罪深い女がイエス様の足元に伏し、涙でイエス様の足を濡らして髪の毛で拭い、何度も口づけしながら香油を塗ったが、その御足は、今や光り輝くしんちゅうのような有様であった。
その声は、大水のとどろきのよう、そして口からは鋭い両刃の剣が出ていた。
かつて、主は、かの罪深い女を、その言葉によって赦し、解放した。
しかし、この度のイエス様は、ヨハネがかつて3年半の間寝食を共にした、あの人間イエス様とは、かけ離れた存在として現れている。

主が再び来られる時、このような、圧倒的に強く、聖なる光に輝いたお方として来られるが、主を愛し慕っている主にある兄弟姉妹たちは、恐れる事は無い。
主は、倒れて死人のようになった、私達と同じ兄弟・ヨハネに対し、「恐れるな」と言って、手を置いてくださった。

主が再び来られるのは、再び十字架にかかられて罪に歩む人を赦すために来られるのではなく、主を待ち望んでいる人々を救い、正当なさばきを行われるためである。
今はまだ、恵みの時、救いの時である。
救いの門は開かれており、主の憐れみ、主の赦しを求めて来る聖徒を受け入れて下さる。

しかし、やがてその恵みの期間が、閉じられる時が来る。
ちょうどノアの時代、方舟の扉が開かれていているうちは、改まった時代へと生きながらえるチャンスが与えられてはいても、一旦、方舟の扉が主によって閉じられてしまえば、もはや、救いと滅びは明確に二分化してしまったように。

私達は「時が近い」事をおぼえつつ、この、救いの門が開かれている内に、人々に福音を伝えるべきであり、そして、救われたのであるなら、この書に記されている事に心を留め、「時」に備えて整えるべきである。

黙示録は恐るべき書であるか?(黙示録1:4-8)
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この書・黙示録の出所元は、神であり、この書が与えられた目的は、キリストのしもべ達(すなわち、私達も含めたイエスキリストを信じる全時代・全民族・全国語の聖徒達)に対して、すぐにでも起こるべき事を開示するために書かれたものであり、そしてまた、この書は集会の中で朗読されるのを前提とした書かれ方である事が、1章1節から3節までの所で分かる。
主はこの書の中で、「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」と、7回も言われた。
そうであるからには、黙示録という書は、全時代・全人類の人が耳を傾けるべき書であるのだ。

『ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、』(黙示録1:4)
『今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。』(黙示録1:8)
アルファは、ギリシヤ語アルファベットの最初の語であり、オメガは最後の語である。
つまり主イエスキリストは、昔も今も、これから後も、全「時」を超越しておられる御方であり、また、空間も超越しておられる御方である事が宣言されている。
全てのものは「ことば」によって造られており、そして主キリストは「ことば」のはじめなる御方、終わりなる御方、そして、永遠なる御方である。

この書の最初期の段階で、キリストの時空超越性が宣言されているが、同じように、この書を読んで行くに際しても、時間的・空間的概念に囚われてはならないのだ。
もしこの書を、普通の書のように、順番どおり時系列そのままで読み解いていこうとするなら、途中で混乱を来してしまう事は必至だろう。
なにしろ、ある時は太古の事が記されているかと思えば、突然、未来起こるであろう事に話が移ったり、また、ある時所では地上の事が記されているかと思えば、突然、天上の事に話題が移ったりするのだから。
だからこの書を読み進めて行く場合は、この記事は昔の事を言っているのか、今の事を言っているのか、未来の事なのか、あるいは、地上の事を言っているのか、それとも天上の事を言っているのか、といった事を、常に注意しておく必要がある。

『また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。』(黙示録1:5-6)
ヨハネはここで、最初の祝祷をしているが、祝福の源なる御方は、誰であるか。
それは、「忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリスト」である。
そう、イエス・キリストは、忠実な証人である。
彼は、父のふところにおられたひとり子なる神であり、その彼が、地上に降りて来られ、神を証したのだ。(ヨハネ1:18)

また彼は、死人の中から最初に生まれたお方、いわば長男である。
最初の人はアダムであるが、彼は死を全人類にもたらしたゆえ、彼の子孫である人は皆、死と呪いの「負債」の中に生きる以外にない。
しかし、最後のアダムであるキリストは、生かす霊となられた。(1コリント15:45)
キリストは私達をこよなく愛され、罪の中に死んでいた私達を生かすために、十字架上で血を流して下さり、『その血によってわたしたちを罪から解放し、わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さった。』(黙示録1:6)

私達は、キリストにあって、王とされ、祭司とされた・・・なんという素晴らしい特権であろう!
この事は、次の御言葉をもっても保証されている。
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり、以前は、あわれみを受けたことのない者であったが、いまは、あわれみを受けた者となっている。』(1ペテロ2:9-10)
確かに私達には、キリストにあって、王族の祭司としての素晴らしい特権が与えられてはいるが、同時に、そのための務めや責任、そして、それに相応しい立ち居振る舞いも求められている事を、忘れてはならない。

『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。』(黙示録1:7)
日本語は「雲に乗って来る」と訳されているが、正確には「雲と共に」、あるいは、「雲に囲まれて」である。
つまり、孫悟空のように筋斗雲のような雲に乗って来るという意味ではなく、栄光の雲、すなわち、圧倒的栄光の内に降臨されるのだ。

その時、「ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見る」と書いてあるが、彼を突き刺した者とは、何も、あのゴルゴダの丘でイエス様を突き刺したローマ兵に限定されるものではない。
イエス様を十字架に突き刺す者とは一体どういう人か、ヘブル書に書いてある。
『いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。』(ヘブル6:4-6)

イエス様はゴルゴダの丘で、執り成しの祈りをして下さった
『そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。』(ルカ23:34a)
ここの「言われた」は直接法未完了形であり、すなわちイエス様は、そのとき、ずっと「言い続けて」おられたのだ。
イエス様は今も、「知らずに」イエス様を突き刺しているような人のために、執り成し続けておられ、そして全ての人がイエス様に立ち返る事を、望んでおられる。

無知のため、知らないがために、イエス様を十字架につけたり、キリスト者を迫害する人であるなら、あわれみを受けるチャンスがある。
パウロは言っている。
『わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。その上、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスにある信仰と愛とに伴い、ますます増し加わってきた。』(1テモテ1:13-14)

しかし、「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった」のに、その後、敢えてイエス様の尊い贖いを脇に押しのけ、好きこのんで堕落の方向に行くとするなら、その者は、キリストを再び十字架に突き刺し、キリストの尊い贖いの血を汚す者である。
そのような者は、キリストが栄光を帯びて来られる時、胸を打って嘆く者達の側となってしまう。

キリストは人の罪をその身に負うために「一度だけ」ご自身を捧げられるために、この世に降りて来られ、そして贖いを成し遂げられた。
そして二度目、将来来られるのは、主の現れを待ち望んでいる人たちの救いために来られるのであって、好きこのんで堕落の道を楽しむ人々のために再び十字架にかかるためではないのだ。次のように書いてある通りである。
『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。』(ヘブル9:28)

黙示録は怖い書、というイメージがあるかもしれない。
しかし、黙示録を怖がるべきは「さばきに値する人」、すなわち、キリストに敢えて反抗する者達であって、神を愛する人、その名を信じる人は、怖がる事は一切ない。
確かにキリストにあって歩む人は、迫害を受けたり、試練を受けたり、忍耐しなくてはならない事はあるだろう。
しかし、主の御名の中にある人は、誰一人、永遠の滅びに至る者はない。(ヨハネ17:12)

また私達は、耐えられないような試練に遭うのではないか、酷い迫害に耐えられるだろうか、と恐れたり心配したりする必要も、一切ない。
次の言葉にある通りである。
「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。」(1コリント10:13)
「だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ6:34)

この書は、キリストに贖われて尚、好き好んで罪を犯し続けている者達には、恐れるべき書物であろ。
しかし、主イエス様を愛し、救いを待ち望んでいる人にとって、恐れるべき書ではない。
むしろ、主の来られる時のために、自らを整えるための書であり、約束されている栄光の報いを望み見て、楽しみにしつつ今を整える書とすべきである。

黙示録は誰に対して書かれ、どのように接するべきか(黙示録1:1-3)
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『イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。』(黙示録1:1-2)

この書の出所元を、原文の順番どおりに辿っていくなら、ヨハネ←キリスト←神、である。
すなわち、この書の啓示(隠された事柄の公開)は、まず、神がキリストへと与えられた。すなわち、すぐにでも起こるべき事を、「その(キリストの)しもべ達」に示すために。
そしてキリストは、彼の御使いをキリストの僕・ヨハネへと使わし、ヨハネはそのキリストから与えられた啓示を、この書に書き記したのである。

この書は、ヨハネが書き記した「手紙」である。
何について書かれた手紙であるか。それは、すぐにも起こるべき事を「キリストのしもべ達」に示すために、だ。
宛先はアジアにある諸教会で、実際、アジアの諸教会で回覧されたが、しかしこの書の出所元は「神」であり、そして神の目的は、「すぐにも起るべきことをその(キリストの)僕たちに示すため」である。
そうであるからには、この手紙は何も、エペソやスミルナと言った当時のアジア地方にある教会にだけ向けられたものとは言わず、全てのキリストのしもべ達、すなわち、私達を含む、全てのキリスト者に向けても書かれたものである。

主はこの書で、7度も言っている。「耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。」と(2:7,11,17,29,3:6,13,22)
だから、耳がついている人は全て、聞くべきなのだ。(当然、これを読んでいる皆さんも)
全て、主にあるエクレシア(教会)である私達は、聖霊が、諸々のエクレシア達に対して言われたこれらの言葉に、耳を傾けるべきである。
だから啓示録(黙示録)は、私達から遠く離してはならない書物だ。

これを書いたヨハネは、自分を「(キリストの)しもべ」と告白している。
そして、ヨハネに諸々の啓示を明かした主の使いも、自分はキリストのしもべであると告白した。
『そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。』(19:10)

この啓示を証した主の使いも、これを書き記したヨハネも、皆、イエス様をあかしする「しもべ仲間」であり、「イエスのあかしこそ預言の霊」なのだ。
だから私達も彼らと同じように、イエスキリストをあかしする者、それ以上でも以下でもない、ただ、キリストのしもべである事に留意しているべきである。
そう、私達はいつも、イエスのあかしを保つべきなのだ。

『この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。』(黙示録1:3)
この書を学ぶ事がなぜ重要か。それは、「時(カイロス)」が近いからだと記してある。
カイロスとは一定の期間、時機、シーズンを表す言葉であり、これからこの書で明らかにされていく、諸々のシーズンが近いのだ。
すなわち、敵が活躍する事が許される期間、苦難の期間、その敵がさばかれる時機、そして、それらの後に来る聖徒達に栄光が与えられる時。
それらが「近い」から、この書を朗読し、それに聞き、守り行う人達は、幸いなのだ。

この3節には、3つの動詞が出てくる。
すなわち、「朗読し」「聞き」「(書かれてある事を)守り行う」事。
「朗読する」は単数形であり、「聞く」「守り行う」は、複数形である。
つまり、僕者など単数の「語る人」が朗読する、それを会衆が聞く、そして会衆も語る人も、共に「守り行う」。その事を念頭に置いて、ヨハネは書いているのである。
だから、これは教会向けの書なのだ。

啓示録(黙示録)は、「朗読される(読まれる)」べきであり、それに余計な解釈を加えてはならない。
パウロは言っている。
『この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回ってくる手紙を読んでください。』(コロサイ4:16)

ただ、読むだけ。
それが当時の説教スタイルでありメッセージなのだ。
ヨシヤ王の時代、祭司ヒルキヤが神殿の掃除をしていた時、神殿の中で見つかった律法の書、すなわち、御言葉を「読み上げる」と、人々はただそれだけで恐れおののき、悔い改めた。(2列王記22章)
また、預言者ヨナも、主から与えられたシンプルなメッセージ、「四十日を経たらニネベは滅びる」と、ただ言って回っただけで、王から奴隷まで12万以上の人々が、40日も経ずして、ことごとく悔い改めた。
ただ神の御言葉を読むだけ。口から語り出すだけ。それだけの所に、大きな力が発せられるのだ。

黙示録に限らず、聖書は、余計な解釈を加えずに、単に読む書物であり、口からそのまま言葉として発すべきものである。
だから、黙示録も「読」めば、御霊が教えて下さるものであり、如何なる時代の如何なる状況の下にある人に対しても、時に応じた示唆や諭し、叱責や慰めなどが、与えられるものである。

私達は難しく考えず、ただ、御言葉を書かれてある通りに受け止めていきたい。

黙示録と向き合うにあたり(黙示録1:1-3)
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メッセージ音声

ヨハネの黙示録。
聖書の一番最後の書物であり、最も「難解」と言われて来た書であり、おそらく最も議論や解釈の分裂などがなされて来たであろう、色々な意味で特別な書である。

黙示録は、ギリシア語では「アポカルプシス」、この言葉がこの書の一番最初に登場する単語、なおかつ、その言葉は全黙示録22章を端的に表現している言葉でもある。
この言葉を分解すると、
「アポ」(はがす)+「カルプシス(覆っている)」
すなわち、「覆われていたものを露わにする」意味がある。
なお、黙示録の英語「Revelation」は、ラテン語の「revelatio(暴露、すっぱ抜き)」に由来する。

日本語の「黙示録」という訳し方は、あまり良い訳し方ではない。
なぜなら、日本語の「黙示」は、「,呂辰りと言わず、暗黙のうちに意志や考えを示すこと」と、「▲罐瀬箒機Εリスト教で、神が人に隠されていた真理や神の意志を啓示すること」の、互いに相反する、2つの意味を持っており(大辞林 第三版)、そして一般的に黙示録を言う場合、特に,琉嫐9腓い強く打ち出されてしまっているからである。
だから「啓示録」と訳す方がむしろ正しいのだが、いかんせん、一部の異端が既に「啓示」「啓示録」の言葉を採用してしまっているため、この言葉を用いると、誤解されてしまうきらいが無きにしもあらずであるのが、悩ましい所だ。

確かに多くの人々は、黙示録について、何か難しそうで、怖そうな、そして、迂闊にタッチできないようなイメージを持っている。
現に、何十年も存続している教会であっても、黙示録からは一度もメッセージした事が無いケースも多いようだ。

黙示録が難しい、と思う理由の一つとして、黙示録には、暗喩(シンボル)が多い事があげられるだろう。例えば、7つの封印やラッパや鉢による裁き、あるいは14万4千の聖徒達や、象徴的な数字666など。
そして、それらの記事を巡って、多くの解釈が生まれ、「自分達こそ、あの14万4千人である」「自分達こそ、あの二人の証人である」などと主張する異端も、多く生まれてきた。

これらの多くの議論や騒動、分裂や戦いなどの故に、歴史上、何度も煙たがられ、避けられて来た黙示録ではあるが、主は次のように言っておられる。
『この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。』(黙示録22:10)
主がそう言われたからには、この書は封じて置くべきではない。
もし上記のような理由によって、黙示録を否定的に考え、封じられてしまっているとしたら、それは、サタンの企みが、成功してしまっている事になる。

もし私達の中に、この書についてメッセージしたり読み解いたり「しないほうが無難だ」という考えがあるとするなら、それをこそ払拭すべきだ。
主が『この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。』と言われたのだから。

アポカルプシスは、覆いが剥がされた、隠されていたものが暴露されてすっぱ抜かれた、という意味があり、世の初めから隠され封印されていた事を、主が、一つ一つ剥がし、明らかにして行く書である。
実際、主はヨハネに直接的に見せて下さった幻や象徴の意味を、直接的に解き明かして下さった箇所は、この書の中に多くある。(1:20、17:7,11など)
主が明示して下さった事については、根拠なき解釈を加えたりはせず(例えば、14万4千は私達を意味するとか、主の御前に立つ二人の証人は何処どこの教団である、等)、主が直接説明された事、書かれてある事は、そのまま受け止めていきたい。
また、その場で直接的な説明がされていない場合は、今までして来た通り「聖書の解釈は聖書から」のスタンスに立ち、主が何をそこで言われているのかを、探って行きたい。
御言葉は、全て「連れ合い」があるもので、その互いの御言葉を知る事によって、旧約の預言が新約で成就した事の確証を得たり、あるいはその逆をも知る事が出来るのだ。
『あなたがたは主の書をつまびらかに/たずねて、これを読め。これらのものは一つも欠けることなく、また一つもその連れ合いを欠くものはない。これは主の口がこれを命じ、その霊が彼らを集められたからである。』(イザヤ34:16)

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