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メッセージ - 黙示録(2回目)カテゴリのエントリ

黙示録の7つの災い - 封印、ラッパ、鉢 - の読み解き方(黙示録6章)
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黙示録は6章以降、16章に至るまで、「災い」と見られる記事が続く。
いわゆる「7つの封印の災い」、「7つのラッパによる災い」、「7つの鉢による災い」と呼ばれるものである。
啓示録が「怖い」と思われている原因の1つにもなっているが、これらは「災い」とみなすべきではない。正しくは「審判」である。
「審判」は、ある人には災いかもしれないが、ある人には救いだ。
モーセの時代、ユダヤ人を奴隷として搾取し苦しめていたエジプト人にとって、神の「審判」は「災い」であったが、神の民であるユダヤ人にとっては、むしろ「救い」であった。
それと同じ事が、世の終わりでも起きる。

『小羊がその七つの封印の一つを解いた時、わたしが見ていると、四つの生き物の一つが、雷のような声で「きたれ」と呼ぶのを聞いた。』(黙示録6:1)
全能の父なる神から全権威を授与された小羊キリストが、いよいよ、神の元で封じられていた巻物の封印をはがして行く。
そして、太古より立てられていた神の計画の全貌が、次々と明らかにされて行く。

その中には、悪魔サタンとそれに属する者共への究極的な裁きが含まれている。
そのため、悪魔サタンは、この黙示録を最も嫌い、教会から、またキリスト者達から、この書を遠ざけさせて来た。
人を搾取し、苦しめて来た悪魔サタンとそれに属する者達には主の審判は「災い」であるが、イエス・キリストを救い主としてあおいで神の民とされた人達には「救い」である。

これら「封印」、「ラッパ」、「鉢」による7つの災い(審判)は、一体何を意味するのか。
また、どうすれば、このいわゆる「災い」をまぬがれる事ができるのか。
それらを巡って、古くから、多くの人々によって色々な解釈が為されて来た。
また、異端達はこれを利用して「自分達だけがその真意を知っている」「この”災い”から逃れるには自分達の所に来るべきだ」と、多くの人々を惑わし、取り込んで来た。
一体これらの事柄は、どのように読み解いていくべきなのだろう。

ご存知の通り、「黙示録」を書いたのは、使徒ヨハネである。
そしてヨハネはユダヤ人であり、ヘブル的思考に従って、これを書いている。
だから、黙示録を読み解くには、ヘブル思考から外れては内容が理解できない。

ユダヤ人達は、物事を表現したり弁証したりする時、キアズムと呼ばれる論理構造に従って説明する「くせ」があり、聖書は旧約も新約も「キアズム」の独特の「反復表現」や「平行表現」で満ちている。
例えば、
「わがしもべイスラエルよ、わたしの選んだヤコブ、わが友アブラハムの子孫よ」(イザヤ41:8)
と言う呼びかけは、「イスラエル」も、「ヤコブ」も、「アブラハムの子孫」も、全部、同じくイスラエルの民を表しているのだが、3点方向から確実に伝えようとしているわけであり、また、イエス様の有名な命令、
『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 』(マタイ7:7-8)
も、3点の異なる命令形動詞がまず与えられ、それら命令に従順する者に与えられる報償が、「求める→得る」「探す→見出す」「叩く→あけてもらえる」と、7節と8節の間で平行的に示されている。
日本語を用いる私達が、聖書を読む時、このような反復表現や平行表現は、少々「くどい」「難解だ」と実感する事があるだろうが、これは、より正しく論理的に物事を伝えるためのものである。

「キアズム構造」を読み解く上で真っ先に注目すべきは、「動詞」である。
黙示録6章から16章までを、「封印」「ラッパ」「鉢」の3点から成るキアズムとして見る場合、それぞれで7度、繰り返して用いられる動詞がある。
それはそれぞれ、「(封印を)はがす」、「(ラッパを)吹く」、「(鉢を)ぶちまける」である。
これら、3つの「動詞」に着目するなら、言いたい事が何であるのかが見えてくる。

最初の動詞、封印「はがす(アノイゴー)」は、それまで覆われていたものをはがし、隠れていたものが公衆の目にさらされた、という事である。
映画でいうなら、ある監督が秘密裏に制作していた映画の予告サイトが、ある時点にテレビやネット上に現れたようなものだ。
予告編は全容はなんとなく分かるけれど、詳細は知らされないので、その実体は映画が封切られてみなくては分からない。

次の動詞は、「吹く(サルピゾー)」である。
ラッパを吹く事は、ユダヤ人にとって、「これから何事か起きるぞ」「何々をしなさい」というサインとして古くから用いられて来た。(民数記10章)
映画でいうなら、映画のサイトやテレビなどで「本日いよいよ公開!」と表示されるようなものである。

最後の動詞、鉢を「ぶちまける(エッケオー)」は、液体や金銀を「注ぎ出す、流し出す、外へ流す」意味であり、前の二つの動詞に比べればより実体的な行動を伴った動詞である。

つまり、「アノイゴー」→「サルピゾー」→「エッケオー」は、映画の全容が予告編で知らされ、いよいよ「本日公開」のサインがあり、いよいよ各映画館でフィルムが動き出し、映像が流れ出した、というようなものである。
封印を「はがす(アノイゴー)」事は、終わりに起こるべき事を公開する事であり、隠れた物事をオープンして行ったのが、8章1節までの記事である。
次に、ラッパを「吹く(サルピゾー)」事は、今まで予告されて来た物事がいよいよ封切られるというサインが示された事を意味し、いよいよ「終わりの始まり」が始まった事の警告が10章7節までの記事である。
そして鉢が「ぶちまけられる」事は、ついに、審判の実体が次々と遂行されて行く事を意味する。

6章の、封印をはがされた時点では、審判の「実体」は起きておらず、「これからこんな事が起こるぞ」という「予告篇」である。
その証拠として、第五の封印が解かれた時(6:9-11)、これから殉教するべき人がまだ残されている事が「予告」されているだけで、何らかの災害は、何も起きてはいない。
また、第六の封印が解かれた時(6:12-17)、天は巻物が巻かれるように消えてしまった事が記されているが、もしこの事が実体として起きてしまったなら、もはや全ての事がジ・エンドとなり、そのまま21章の新天新地へと内容が飛んで行かなくてはならないはずなのに、まだ7章以降へと地上の物事が続いて行く。
これらの事が、封印を「はがす」事はまだ審判の実体ではなく「予告編」である事の証拠である。

このような視点をもって、6章以降の事柄をこれから見て行きたい。

天権授与式(黙示録5:6-14)
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『わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。』(黙示録5:6)
なぜ「ほふられた」小羊が「立つ」事ができるのか。それは、よみがえって、生きているからだ。
この小羊は、一切の罪や汚れの無い、世の罪を取り除く神の小羊であり(ヨハネ1章)、七つの目すなわち七つの霊によって、全世界の物事をくまなく見ておられる。
神の霊は、私達の立つのも伏すのも見ておられ、心の内も、私達の出生も生い立ちも、全部探り尽くしておられる。(詩篇139篇)

彼がここで立っている「立ち位置」は重要だ。
そこは、御座と長老たちの間、すなわち、神と人との間である。
彼はひと度、完全なるいけにえとなって、十字架上でほふられ、なだめのそなえものとして神に捧げられた。
だからこそ神はなだめられ、彼の後ろにつく全ての人々は、神との間に和解が成立しているのだ。
このまことの小羊キリストを自分自身の救い主とし、神と自分との間に彼を置く人はすべて、彼の故に神との間に和解が成立し、神の子とされ、天国の民とされるのだ。
人は本来、天国という聖なる、あまりにも素晴らしい所に到底入る事のできない、入ってはならない、罪を犯した存在だ。それなのに、入ることができている。
だから天国に入った全ての人は、いや、人間のみならず、全被造物は、ほふられてなだめの供え物となって下さった小羊に感謝してもし尽くせず、賛美してもし尽くせないのだ。

『小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を「受けとった(ランバノー)」。』(黙示録5:7)
ランバノーの意味は、「受ける」「引き継ぐ」などの意味もある。
この場面は、ほふられた小羊が、全能の父なる神から全ての権威が委譲された「天権授与式」とも言える。
彼は、全宇宙・全被造物に対してとても重要な、その巻物を受け取る事によって、全能なる神の権威を行使する事が委ねられ、そして彼はその巻物の封印を次々に解いていく。
そして、原初より隠されていた全被造物の重要な秘密が、一つまた一つと解き明かされて行き、ずっと滞っていた全被造物の深刻な問題の一つ一つが、解決へと向けて流れ出して行く。

『巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。』(黙示録5:8)
金の鉢の中に入っているもの、それは「聖徒達の祈りである」と書いてある。
つまり、キリストにあって聖徒とされた人達の「祈り」は、香として天に立ち昇り、それらは御使の手によって金の鉢の中に蓄えられている。
『また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。』(黙示録8:3-4)

神様を知らない人が「祈り」の姿を見るなら、目を閉じた人の、独り言のつぶやきのように見えるかもしれない。
しかし、キリストにあって聖なる者とされた私達・一人ひとりの祈りは、御使いの手を通し、天の神の御座の前へと、御使の手を通して立ち上って行き、積み重ねれられ、力を発揮するものだと認識すべきである。
世においては、税金を払っても、全然民意が反映されないまま、不正な者の懐へと消えて行くような事は、ある。
しかし天において、祈りにおいては、そのような事は一切無い。王であられる主は、義なるお方であり、天には不正な者が入れないからだ。

『御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。』(黙示録8:5-6)
祈りが金の鉢を満たした時、御心の成就が遂行されて行く。
祈りとは、天の神の御胸の遂行に参加するものであり、天権行使に、私達も関わる事ができる手段であるのだ。

小羊が巻物を受け取った瞬間、全礼拝者の礼拝の対象は、小羊へと集中する。
『彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。』(黙示録5:9-10)
彼ら(四つの生き物と長老たち)は、「新しい歌」を歌った。
彼らは前章でも、全能の神様に冠を投げ出して賛美したが、今度は、「新しい歌」を、小羊に向かって賛美している。
イエス様は、ほふられて下さった。そして、その流された血によって、私達・キリストにある聖徒達を「買い戻して」下さった。
そして贖われた聖徒達は天国民となり、祭司となり、地上を支配するのである。

人が支配者となる事。この事は、神様が世を創られ人間を創られた当初から、神様が意図されていた。
その事への、正統な復帰である。
なぜなら聖書の最初の書、最初の章に書かれている。
『神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。』(創世記1:26-28)


人は堕落して以来、全被造物は、神の荷姿から離れた人間たちの、恐怖政治にうめいている状態だった。
本来、人が罪を犯したから、人が断絶されるべきであるはずが、小羊が、神と人との間に立ち、身代わりにほふられた。
そして、贖われた聖徒達は王となり、祭司となり、神に属する民としての、正統な支配が戻ってきたのだ。
もはや、神の荷姿からかけはなれてしまった人間による不当な支配、恐怖政治に、悩まされる事は無い。
だから、全被造物は、その全ての解決をして下さった小羊に賛美するのだ。

幾万幾千の御使い達も、賛美を捧げているる。
『さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。』(黙示録5:11-14)

このように天上では、贖われた人々、4つの生き物、そして、幾千万もの御使い達がおり、彼らは皆、小羊を賛美し、礼拝している。
ダビデが詩篇150で書いたように、全て造られし者が、色々な楽器を用いて賛美を捧げている。
ダビデはまさに、天上の礼拝の「型」を、地上で演じていたのだ。

小羊に賛美が集中する時、父なる神は、栄光をお受けになる。
ちょうど子供が運動会で一等賞を取った時、それを見ている親も栄光を受けるように。
『キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。』(ピリピ2:6-11)

キリストにあって聖徒とされた私達は、天においてどのような王国を治めるのかは分からない。
しかし私達は天を目指し、地上で任されている日々の「小さなこと」を、忠実に守り行うべきである。

太古より封じられてきた秘密を解くお方(黙示録5:1-5)
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ヨハネはまたさらに、天で隠されていた秘密を見せられる。
『わたしはまた、御座にいますかたの右の手に、巻物があるのを見た。その内側にも外側にも字が書いてあって、七つの封印で封じてあった。また、ひとりの強い御使が、大声で、「その巻物を開き、封印をとくのにふさわしい者は、だれか」と呼ばわっているのを見た。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開いて、それを見ることのできる者は、ひとりもいなかった。巻物を開いてそれを見るのにふさわしい者が見当らないので、わたしは激しく泣いていた。』(黙示録5:1-4)

太古より、全能の父なる神によって計画され、人知れず、長らく封じられて来た秘密がある。
ヨハネに、この天上の幻が見せられた時点で、人類史上初めて、その封じられてきた秘密が「あった」という事が、明らかにされたのだ。

終わりの時代になれば、なる程、多くの人々は、知識を求め、色々と探り調べる事になる。(ダニエル12:4)
事実、今も聖書の秘密について、多くの人々が色々な説を起こし、諸説や議論が咲き乱れているが、私達はそうした事どもに参加する必要は無いし、してはならない。
私達は主がダニエルに言った言葉に注目すべきである。

『わたしはこれを聞いたけれども悟れなかった。わたしは言った、「わが主よ、これらの事の結末はどんなでしょうか」。彼は言った、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい。この言葉は終りの時まで秘し、かつ封じておかれます。多くの者は、自分を清め、自分を白くし、かつ練られるでしょう。しかし、悪い者は悪い事をおこない、ひとりも悟ることはないが、賢い者は悟るでしょう。・・・しかし、終りまであなたの道を行きなさい。あなたは休みに入り、定められた日の終りに立って、あなたの分を受けるでしょう」。』(ダニエル12:8-13)
あの、主から愛されたダニエル、知恵深いダニエルさえ悟れずに主に聞いた秘密に対し、主は「それは封じておかれる」「あなたの道を行きなさい」と答えられた。
私達もダニエルのように、「いつ」とか「どんな時」とか、知る必要はない。(使徒1:7)
それよりも、主から与えられた道のりを、イエス様が来られる日まで、走り尽くすべきなのだ。そうして、走るべき道のりを終えた後に、受けるべき報いがある。

ヨハネは、この巻物を開いて封印を解ける者が誰もいない事で、激しく泣いた。
それは、この巻物を解く事は、とても切実な事だったからである。
天上の、地上の、地の下の全存在にとって、とても切実な。
もし、これが解かれないままであるなら、天上・地上・地下において封じられていた諸々の問題は、解決されないまま置かれ、神が定めた「完成」には至らないままになってしまう。

ところが、ダニエルの時には明かされなかった諸々の秘密は、黙示録で次々と明らかにされて行く。
なぜなら、「勝利され、封印を解く事ができるお方」があらわれたからだ。

『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』(黙示録5:1-5)
ここの「勝利(ニカオ)」のギリシア語は、直接法アオリスト形能動態という、特殊な時制が使われている。
それはすなわち、この「勝利」は、過去のある時点において「完結」され、全問題は「解決済み」となり、その勝利以降、その効力は今に至るまでのみならず、これから後もずっと続いていく事だ。
その、決定的勝利をした時点は、「ほふられた時」、すなわち、十字架である。
ユダ族から出たしし(ライオン)、勝利された「ダビデの根」、それはまさしく、イエス・キリストである。

勝利した彼には、全能の父なる神から全権が委譲され、次々と封印を解いて行くのだが、その都度、はるか昔に神によって用意されていたスケジュールが動き出し、隠されていた秘密が露わにされていく。
アダム以降、人類が抱え持ってしまった深刻な問題、天においても地においても、地の下においても、誰にも解決できなかった諸々の問題は、この、ほふられて勝利した小羊キリストによって、どんどん解決されて行くのだ。

御座の前にいる四つの生き物(黙示録4:6-11)
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前回、御座の周りに、二十四人の長老が座についていた事を見たが、さらに御座のそば近くには、特別な生き物がいた。
『御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。』(黙示録4:6-8a)
「御座のそば近くそのまわり」を直訳するなら「御座の真ん中には、また、御座の周り」である。
御座の四辺のそれぞれ真ん中に、彼らが位置した、という事であろうか。
いずれにせよ、この生き物達は、主の御座からとても近い位置にいるようである。

ここに登場する四つの生き物と似たものが、旧約エゼキエル書にも登場する。
『顔の形は、おのおのその前方に人の顔をもっていた。四つの者は右の方に、ししの顔をもち、四つの者は左の方に牛の顔をもち、また四つの者は後ろの方に、わしの顔をもっていた。彼らの顔はこのようであった。その翼は高く伸ばされ、その二つは互に連なり、他の二つをもってからだをおおっていた。・・・四つの輪には輪縁と輻とがあり、その輪縁の周囲は目をもって満たされていた。』(エゼキエル1:10)

エゼキエルはさらに、「位(キセェ:御座)のようなもの」を見たが、それも、ヨハネが見た御座の特徴とよく共通している。
『生きものの頭の上に水晶のように輝く大空の形があって、彼らの頭の上に広がっている。大空の下にはまっすぐに伸ばした翼があり、たがいに相連なり、生きものはおのおの二つの翼をもって、からだをおおっている。・・・彼らの頭の上の大空の上に、サファイヤのような位の形があった。またその位の形の上に、人の姿のような形があった。・・・
そしてその腰とみえる所の上の方に、火の形のような光る青銅の色のものが、これを囲んでいるのを見た。わたしはその腰とみえる所の下の方に、火のようなものを見た。そして彼のまわりに輝きがあった。そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。主の栄光の形のさまは、このようであった。』(エゼキエル1:22-28)
御座、水晶、にじ、宝石、いずれもヨハネが見たものと一致している。

それにしても、彼らの表現を元に「この情景の絵を書きなさい」と言われるなら、百人百様の絵が完成するであろう。
人の日常では到底無いような、普通の言葉ではとても表現できないような天的な有様を見せられた事には間違いないが、とにかく、両方に共通している事は、この4つの生き物は御座のすぐ近くにいるものであり、それらは「人、しし、牛、わし」の性質が現れており、翼があり、目でいっぱい満ちており、また、彼らがいる御座の周囲には、水晶に似たガラスの海のようなものがあって、宝石のような輝きがあり、虹のような栄光の輝きがある、という点は、共通している。

エゼキエルは最初、この4つの生き物が何であるのかを知らなかったが、後に、それが「ケルビム」である事を知った。(エゼキエル10:20)
ではケルビムとは何者で、どういう生き物なのか。
ケルビムが、聖書で最初に登場するのは、かなり初期で、創世記3章に現れる。
アダムとエバが、禁断の実を取って食べてしまった故に、楽園(エデン)から追い出されてしまった時、もはや人が楽園の中から「いのちの木」を食べて永遠に生きないようにするために、”(全方向に)回転する炎の剣”をもって楽園をガードする者として登場する。(創世記3:24)

その次に出て来るのは、出エジプト記である。
イスラエル民族が主から与えられた最も聖なる「契約の箱」を、その翼で覆う者として「ケルビム」を造るよう、主はモーセに命じられた。
また、契約の箱が安置された聖所の幕屋の、最も内側は、ケルビムが織り込まれた幕によって覆われていた。
『その所でわたしはあなたに会い、贖罪所の上から、あかしの箱の上にある二つのケルビムの間から、イスラエルの人々のために、わたしが命じようとするもろもろの事を、あなたに語るであろう。』(出エジプト記25:22)

主は、ケルビムの間から命じ、語られると言われた。
この、ケルビムに覆われたあかしの箱は、いわば、主の命令が発せられる「御座」のようである。
実際、主は「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神」と表現され(詩篇80:1、99:1、イザヤ37:16)、また、ケルブ(ケルビムの単数形)は、主の乗り物としての役割もあるようである。(詩篇18:10)
以上の事から、ケルビムは、常に主のすぐそばに常に侍り、聖と俗とを区切る者として、聖なる所を守る者として、また、主を運ぶ者としての共通点がある。

ケルビムは、創世記では回転する炎の剣を持っており、エゼキエル書でも、車輪と呼ばれる輪の間に火を持っていた。(エゼキエル10:6)
しかし、黙示録に登場する彼らには、それは無い。
ヨハネが見ている「天」は、もはや「楽園(パラダイス)の中」であるため、回転する炎の剣も必要ないのであろう。

エゼキエルとヨハネは、それぞれ、立ち位置も視点も、主から託された働きも違う。
エゼキエルの場合、「彼に霊が入った」のだが、ヨハネの場合、「彼が霊の中に入れられた」のだ。(エゼキエル2:1-2、黙示録4:1)
エゼキエルは、地上からはるか上方を見上げて幻を見ていたのに対し、ヨハネは天に「上って」、天そのものから、これらの幻を見せられている。
エゼキエルは「御座のようなもの」と表現したが、ヨハネは、はっきり「御座」と言った。
エゼキエルは、反逆の家にさばきを伝えるために、これらを見せられたのに対し、ヨハネは、天上の隠されていた事、神がこれからご計画しておられる事を、公に示すために、これらの事を見せられ、それを書き記すように命じられた。
だからヨハネは、今までの預言者には無かったような経験をしており、彼は天をはっきり見せられているのである。

黙示録においては、その生き物は主の御座のすぐ近くで、絶え間なく主を誉め讃えている。
『この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」』(黙示録4:8)
彼らの賛美の内容は、客観的な主のご性質そのものを叫んで賛美している。
それに対し長老たちは、より人間味ある、気持ちが篭められた賛美を捧げている。

『二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。』(黙示録4:9-11)
長老たちは「平伏す」「自分の冠を御座の前に投げ出す」という行為と共に、「われらの主なる神」と、自分と主との関係を明白にして、気持ちを込めて主をほめ讃えている。

天上で生息しているものは、全て「賛美」する。人も、生き物も、御使も。
ダビデはイエス・キリストの雛形であるが、彼は命じている。
「息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。」(詩篇150:6)
「主が造られたすべての物よ、そのまつりごとの下にあるすべての所で、主をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。」(詩篇103:21)
特に、詩篇148篇では、人や生き物のみならず、天使も、日も、月も、星も、天も、天上の水も、その他、ありとあらゆるものに対して「主をほめたたえよ」と命じている。

全て造られたものは、本来、主をほめたたえるものであるはずが、人間の罪の結果、虚無に服してしまった。それで被造物は、うめきつつ、神の子のあらわれを待っている。(ローマ8章)
私達、キリストにあって贖われた聖徒は、神の子であり、神に賛美と栄光を捧げる者である。
全被造物は、そのあらわれを待っていたのだ。

賛美は、聖徒達の口にふさわしい。大いに主をほめたたえて「天の前味わい」をし、地上において神の子としての使命を全うする皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

公開された天国 - 天上公開メッセージ(黙示録4:1-5)
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前章までは、アジアにある7つの教会のメッセンジャーに対し、それぞれへの賞賛や叱責、勧めなどが送られたが、この章から、新たな展開となる。
4−5章では、天という所はどのような所で、誰が存在し、何が為されているのかが記されている。
ここはいわば、「天上公開メッセージ」である。

『その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。』(黙示録4:1)
ヨハネは、開いた天の門を見せられ、「上って来なさい」と主から招かれた。
この「開いた(アノイゴー)」は、完了形受動態が使われており、すなわち、それまで開かれていなかった所が開かれ、それまでは未公開だった事が初めて公開された、という事である。

その後、黙示録では、天の情景が次々と公開されて行くが、天がここまでおおっぴらに公開された記事は、旧新約聖書を通しも、かつて無かった。
まさに、天の「すっぱ抜き(ラテン語:revelatio、英語:Revelation)」である。
天が全ての人に公開されたからには、天国は、もはや秘密の国ではない。

『すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。』(黙示録4:2)
ここで、「(御霊に)感じた」と訳された言葉は、ギリシア語で「エゲノメーン(ギノーマイの直接法アオリスト形)」、すなわち「生成する、(今まで無かった所に)生じる」の意味であり、直訳的には「霊の中に生じた」である。
ヨハネは「上って来なさい」とは言われたものの、自分の足で上って行ったのではなく、かの声に呼びかけられた次の瞬間、霊の中にあって、見せられている幻の中に”いた”のだ。

『その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。』(黙示録4:3)
御座は、全能なる神が、全宇宙を統治する場であり、世の全ての事共をさばき、摂理する所である。
この「御座(スロノス)」という語は、新約聖書全部で61回登場するが、その内、46回は黙示録で登場する、「天」という場において、とても重要な語である。

主の座される所には、宝石のような輝きがある。
『また、モーセに言われた、「あなたはアロン、ナダブ、アビウおよびイスラエルの七十人の長老たちと共に、主のもとにのぼってきなさい。そしてあなたがたは遠く離れて礼拝しなさい。ただモーセひとりが主に近づき、他の者は近づいてはならない。また、民も彼と共にのぼってはならない」。』(出エジプト記24:1-2)
出エジプトの時代は、ただモーセだけが、主のもとに登って行く事が許された。
しかし、モーセが主の元にのぼって行き、主から告げられた言葉を伝え、そして犠牲の血を彼らに注ぎかけたところ、彼らも主の元にのぼって行く事ができた。(同3-9節)

『そして、彼らがイスラエルの神を見ると、その足の下にはサファイアの敷石のごとき物があり、澄み渡るおおぞらのようであった。神はイスラエルの人々の指導者たちを手にかけられなかったので、彼らは神を見て、飲み食いした。』(出エジプト記24:10-11)
主の足もとには、サファイアの敷石のごときものがあったのは、エゼキエル書1章や、黙示録の記述に似ている。
主の、その宝石の輝きのような栄光は、そのあまりに「聖なる」様に恐れをなすものであるが、主の御前出た長老七十人は、大丈夫だった。
しかも、神を見て飲み食いしたというのだ。なぜか。それは、「血の注ぎかけ」を受けていたからである。
私達も、神と人との唯一の執り成し手であられるイエス様が、その血を携えて御父の元に登り、犠牲となって下さった事によって、大胆に恵みの御座に近づく事が出来、天の食卓において飲み食いする事が許されるのだ。

『また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。』(出エジプト記4:4-5)
この二十四人の長老は、誰であるのか。
21章において、新しいエルサレムを取り囲む城壁の12の門には、イスラエル十二部族の名前が書いてあり、12の土台石には小羊の十二使徒の十二の名が書いてあるため、主の御座を囲んでいるこの二十四人は、彼らであろう。

黙示録(啓示録)においては、天が次々と開かれていく。
私達はそれを、自分とは関係のない空想話を解釈しようとするかのようではなく、将来、私達が実際に入る新居を楽しみながら見るように読んでいきたい。

ラオデキヤ教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:14-22)
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七つの教会の内の第七番目、ラオデキヤ教会への書き送りは、次の構造となっている。

1,一次受信者の指定
『ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(3:14)

2,語られるキリストの姿
『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。』(3:14)

3,賞賛と激励
なし

4,叱責と警告
『あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。』(3:17)

5,勧めの宣言
『このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。』(3:16-18)

6,勝利者に約束されている報い
『勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。』(3:21)

7,二次受信者への命令22
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:22)


主は、ヨハネに7つの教会のメッセンジャー達に対して手紙を送りなさい、と命じられたが、その最後・7つ目の教会が、ラオデキヤ教会である。
この教会には、主からの賞賛は一切無く、ただ、叱責しか無い。
それは7教会中、このラオデキヤだけである。

ラオデキヤは当時、金融都市で、医療を学ぶ所もあり、フルギヤの目薬工場を直営する富裕な地域だった。
また、ラオデキヤから8キロ離れたヒエラポリスという都市には、パムッカレ(トルコ語で「綿の宮殿」の意味)という有名な温泉があり、各地から多くの人が治療目的で訪れて、温泉を楽しむ所だった。

ここの教会に対し、主はご自身を「アァメンたる者、忠実な、まことの証人」と紹介される。
アーメンも、忠実も、まこと(真実)も、いずれも同じ意味である。
ヘブル語のアマン(アーメン)には、忠実、真実の意味があり、「アーメン」は全てのクリスチャンの信仰告白の言葉となった。
イエス様はまことに、全ての聖徒達が「アーメン」と信仰告白する対象であられるお方、忠実また真実なるお方、神に造られた全ての根源なるお方である。

『わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。』(黙示録3:15-16)
物質的に恵まれ、自分の事を「富んだ者」と言ってはいるが、主は「なまぬるい」と評価された。
そして主は言われる。なまぬるいよりは、むしろ、冷たいか熱いかであってほしい、と。

なお、ヒエラポリスからラオデキヤへと流れてくる温泉水は、ラオデキヤに到達する頃にはなまぬるくなっており、この水で体を洗うと、皮膚病になった、と言われている。
熱いでもなく、冷たいでもない。それは逆に、体をむしばんでしまうのだ。

熱い事、熱心な事は、結構である。
冷たい事も、「なまぬるい」よりはまだましだ。
「愛」の反対言葉は「憎しみ」ではなく、「無関心」だと言われている。
親子関係や男女関係において、憎しみがある内は、まだ良い。それは、相手に対して関心がある、という事の裏返しだからだ。
しかしもし、相手に対して何の感情も関心も抱かないとするなら、その親子関係・男女関係は、致命的な段階に来ている。
ましてや主との関係なら、なおさらだ。

信仰者にとって致命的なのは、主に対する無感覚、無関心、距離を置いた「事なかれ」的ななまぬさであり、そのような人は、主から遠く離れた者である。
日本には現在、キリスト教への迫害は無く、あらゆる宗教に対して寛容で、経済的にもある程度富んだ国である。
一見すると、迫害下にある国々よりはましに見えるが、霊的に見るなら致命的だ。
事実、過去多くの宣教師たちがこの国に派遣されているにも関わらず、日本のクリスチャン人口は、今だに1%にも満たない。
この、真理に対する熱さも冷たさもない「なまぬるさ」が、重要な原因の一つであろう。

『あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。』(黙示録3:17)
彼らは確かに物質的には富んでいたかもしれない。
それで「自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もない」と自分で自分を評価しているが、主は逆に、彼らに5つのマイナスな事柄を、すなわち、「みじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者」と指摘している。
そして、それを脱却するために、3つのものを「買いなさい」と指示されている。

『そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。』(黙示録3:18)
この「買う(アゴラゾー)」は、買い戻す事の意味もあり、十字架上で主が血の値をもって私達を「買い戻し」て下さった単語であり(1コリント7:23,30)、買い戻されて赦された私達・信仰者には重要かつ基本的な事をあらわす単語でもある。
ここでは「買い戻し」を3度並行させているが、この、同意的な言葉を並行的に繰り返す事によって強調するのは、ヘブル的キアズム構造の強調表現である。
主は、強調される。
なまぬるさからの脱却は「値をもって、買い戻す」事によるものだ、と。

まず買い戻すべきは、「火で精錬された金」であるが、火で精錬された金について、1ペテロに書いてある。
『そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。』(1ペテロ1:6)
ここでは、様々な試練によってためされた信仰が、「火で精錬された金」と平行して書かれているが、まず買い戻すべきは「信仰」、それも、試練によって試され純化された信仰である。

また、次に買い戻すべきは、「裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣」だ。
この白い衣については、長老の一人がヨハネに説明している。
「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。」(黙示録7:14)
また、主は言われた。
「見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。」(黙示録16:15)
主はいつ来られるか、分からない。
しかし主のしもべが、罪を犯しても、主の贖いの血潮で洗わないままに、あい変わらず罪の飲み食いのどんちゃん騒ぎをし続けているなら、その者は裸の恥をさらしたままである
主のしもべは、罪のけがれがついたなら、その日が暮れない内に小羊の血潮で洗い、きよい状態を保ち続けるべきなのだ。

3つめの買い戻すべきものは、「見えるようになるため、目にぬる目薬」である。
イエス様ご自身が目薬を塗って下さった記事が、ヨハネ9章に記されている。
『イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。』(ヨハネ9:6-7)
「顔にドロを塗る」「顔につばきをかける」、いずれも屈辱を受ける事の表現だが、「見える」ためには敢えてそのような経験を「買い求める」事も、必要だろう。
主から直接、目にドロを塗られる時、その人が「遣わされた者」の所に行って、洗うなら、目からウロコが落ち、それまで見えなかったものが見えるようになり、働き人として整えられるのだ。(使徒9:18)

『すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。』(黙示録3:19)
主は、愛すれば愛するほどに、しかったり、懲らしめたりする。(申命記8:5、ヘブル12:5-11)
主は、ラオデキヤの人を愛しておられるからこそ、このような厳しい事を言われる。
だからメッセンジャーは、このラオデキヤの箇所を、憎い人を裁断するための道具として用いてはならない。
むしろ過ちに陥っている人には、その人が倒れてしまわないように、愛をもって戒め、諭し、立ち返らせるべきだ。

『見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし(デイプネオー:夕食あるいは宴会をする)、彼もまたわたしと食を共にするであろう。』(黙示録3:20)
なんとラオデキヤでは、イエス様は、扉の外におられる。
「ラオデキヤ」は「ラオス+ディケー:民衆の義、民衆の判決」の意味があるが、人が裁き、人が自分の義を主張するなら、イエス様は戸の外に追いやられてしまっている。

イエス様は、彼らの中に入ろうとして、戸を叩く。
もしイエス様が叩くのを聞いて、扉を開き、彼を受け入れるなら、イエス様は入ってきて、共に食事(デイプネオー:夕食あるいは宴会)ができる。
しかしもし、民衆の議論や義の中で喧々諤々したまま、イエス様の叩く音を無視するなら、イエス様は去って行ってしまう。(雅歌5:6)

『勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。』(黙示録3:21)
主は「わたしと共にわたしの座につかせよう。」と言われた。
だから、イエス様抜きにして、勝利を得てもいないのに、自分が勝手に王の座・裁きの座に着こうとするのは不当であり、そこから引きずり降ろされてしまう。
主が座に招いてくださり、そしてそこに主が着かせて下さる。それを待つべきなのだ。

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』(黙示録3:22)
主は、これらの事を、私達にも語っておられる。
もし私達の中に、ラオデキヤに対して主が叱責されたような事があるなら悔い改め、買い戻すべきものを、主から買うべきである。

フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:7-13)
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七つの教会の内の第六番目、フィラデルフィア教会への書き送りは、次の構造となっている。

1,一次受信者の指定
『ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(3:7)

2,語られるキリストの姿
『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。』(3:7)

3,賞賛と激励
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。
見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(3:8-10)

4,叱責と警告
なし

5,勧めの宣言
『わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。』(3:11)

6,勝利者に約束されている報い
『勝利を得る者を、わたしの神の聖所における柱にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(3:12)

7,二次受信者への命令13
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:13)


フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対しては、スミルナ教会と同様、主からの叱責が無い。
そして今回の箇所には、キリスト者であるなら必読とも言える事が、すなわち、全世界に来るべき試練の時でも主から守られるための秘訣が、書いてある。

主はご自身を「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者」(7節)と紹介された。
実に主は、死とハデスの鍵を持っておられ(1:18)、また「ダビデの鍵」をもっておられる。

かつてヒゼキヤ王の時代、主は、主人に恥をもたらす宮廷執事シェブナを権威の座から降ろし、その代わりに、宮内長官エルヤキムをその座に据え、彼の肩に「ダビデの鍵」を与える、と言われた。(イザヤ22:22)
しかし、ダビデの子孫の「人間」の統治は不完全であり、やがては引き抜かれてしまう事も、主はその時預言しておられた。(同25節)
事実、バビロン捕囚以降、ソロモン以降に続く血筋は、イスラエルの王権から絶たれてしまった。(エレミヤ22:30)
ソロモン以降、歴代の王たちは、主を怒らせ続けて来たからだ。

イエス様は、”処女”マリヤから生まれた故に、ソロモン以降の血を継ぐマリヤの夫・ヨセフの血は、受け継いでいない。(マタイ1章)
しかし、イエス様を産んだ処女マリヤは、ダビデの血を受け継いでおり、なおかつ、ソロモン以降の血は、受け継いでいない。(ルカ3章)
彼女は歴代の王族の血筋ではなくとも、ヨセフに嫁いだ事によって、法的には王族へと迎え入れられた形になる。
つまり、イエス様は法的に王族であり、かつ、歴代の王族のいわば”汚れた”血筋ではない、いわば、完全で純血なる王族ダビデの子孫なのである。

彼が開くなら、それは誰にも閉じる事は出来ず、また、彼が閉じるなら、それは誰にも決して開ける事が出来ないのだ。
主はその約束を、フィラデルフィア教会のメッセンジャーに対して為された。
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。』(黙示録3:8)

彼らには、少ししか力がない、という。
つまり、主からの賞賛と保護を受けるには、力の大小は関係無い、という事であり、むしろ、「主の言葉を守り」「主の御名を否まない」事こそ大事である。
門を開いて下さるのも、閉ざして下さるのも、主であり、自分の力で開けたり閉めたりするものではない。
ただ、主の言葉を守り、主の御名を否まない聖徒達に、主が彼らの歩むべき道を、くぐるべき門を、開いたり、閉ざしたりして、導いて下さるのだ。

『見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。』(黙示録3:9)
自称ユダヤ人、すなわち、自分達は神に属する、神に選ばれた者達だ、と言いつつも、実はサタンの会堂に属しているような「偽兄弟」「偽クリスチャン」は、どの時代にもいる。
力が無い人であるなら、そのような者達に、自力で対抗したり、論破したりは、できないかもしれない。
しかし主ご自身が、弱い彼らを弁護し、主ご自身がそのサタンの会衆の者達を、彼らの前にひれ伏させ、その者達に「わたしが愛しているのは彼らだ」と知らしめて下さるというのだ。

『忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に「住む(カトイケオー)」者たちをためすために、全「世界(オイコウメネー)」に臨もうとしている「試錬(パイラスモス)」の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(黙示録3:10)
ここの「住む(カトイケオー)」とは、一時的に住む事の意味ではなく、「永住する、定住する」の意味であり、また、「世界」(オイコウメネー)は、特に人が居住している地、つまり、人の支配(特にローマの)が及ぶ所の意味である。

つまり、行政が高度に発達し、人による支配が行き届いた都市などを目指して、永住・定住しようとしている人は、要注意である。
そこには、「試錬(パイラスモス:試験のための誘惑)」が臨もうとしているからだ。

人の栄えを目指して、人の上に成り上がろうとする者は、所詮、バベルの塔を構築する一員となっている過ぎず、最終的には、築きあげて来たものは皆、崩されてしまう事になる。
信仰の父・アブラハムが、この地上では、自分の墓地以外は何も土地を得ず、ずっと天幕生活を貫いたように、私達もこの地上では旅人、寄留者として歩み、天の故郷を目指して歩む者である。
『信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。・・・
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。』(ヘブル11:8-16)

そのような聖徒達には、主からの密かな養いと喜びがある。
イエス様がお生まれになった時、羊飼い達は、皇帝アウグストの住民登録を受ける価値も無い、いわば、オイコウメネーの外の人達だったが、彼らには、救い主キリストがお生まれになった事を天の軍勢の賛美と共に告げ知らされ、その現場を見に行けるという、密かな、そしてとてつもない幸いを得る事ができた。

終わりの時代、誰も耐えられないような試練の時代でも、主から守られる秘訣がある事は、私達キリスト者には大きな慰めである。
その秘訣とは、「わたし(イエス様)の言葉を守り、わたし(イエス様)の名を否まな」い事である(8節)。そして、力は少しばかりしか無くても良いのだ。

『わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。勝利を得る者を、わたしの神の聖所における「柱(ストゥーロス)」にしよう。彼は決して二度と外へ出ることはない。そして彼の上に、わたしの神の御名と、わたしの神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。』(黙示録3:11-12)
柱(ストゥーロス)には、「最重要人物」の意味もある。
神の聖所において、重要人物として立てられる事も名誉であるが、何よりも、主の聖所の主の臨在の中で、永遠に主の御そば近くで生きられる事は、どれ程の幸いであろう。

勝利を得る者達の上に、主は「名を書き記そう」と約束しておられる。
その名とは、「神の名」と、「神の都すなわち天から下ってくる新しいエルサレムの名」と、「主の新しい名」である。(12節)

自分の持ち物に、自分の名前を書く事によって「これは自分のもの」と周り宣言するように、主は私達の上に、ご自身の名を書きつけて、私達は「主に属するもの」「主のものだ」と明記して下さる。
21章には、天から下ってくる新しいエルサレム、すなわち、小羊キリストの妻である花嫁の記述があるが、勝利者には、その「新しいエルサレム(小羊キリストの妻)」の名も、記されるというのだ。
勝利を得る者は、なんと幸いな事だろうか!
「勝利者」とは、この地上で最後までイエス様のわざを”継続的に”守り続ける人である。(黙示録2:26)

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(黙示録3:13)
これらの事は、現代を生きる私達に対しても語っている。
私達も、勝利者として、これらの素晴らしい特権にあずかれる者でありたい。

サルデス教会のメッセンジャーに対する書き送り(黙示録3:1-6)
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七つの教会の内の第五番目、サルデス教会への書き送りは、次の構造となっている。

1,一次受信者の指定
『サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(3:1)

2,語られるキリストの姿
『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。』(3:1)

3,賞賛と激励
『しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。』(3:4)

4,叱責と警告
『わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。』(3:1)

5,勧めの宣言
『3:2 目をさましていて、死にかけている残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。
3:3 だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。』(2:25)

6,勝利者に約束されている報い
『彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。』(3:4-5)

7,二次受信者への命令
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:6)


今までの教会たちと違い、主はサルデス教会に対して、賞賛の前に叱責を与えておられる。
『サルデスにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『神の七つの霊と七つの星とを持つかたが、次のように言われる。わたしはあなたのわざを知っている。すなわち、あなたは、生きているというのは名だけで、実は死んでいる。目をさましていて、死にかけている(ready to die)残りの者たちを力づけなさい。わたしは、あなたのわざが、わたしの神のみまえに完全であるとは見ていない。』(黙示録3:1-2)
主はサルデスに対し、あなたは、生きているとは「名ばかり(オノマー:名、名声、評判)」で、実は死んでいる、と評価された。

ヤコブは、行いのない信仰は死んだものである、と言ったが、それとは別に、主の御前に「死んだ行い」というものもある。それはすなわち、信仰に由来しない行いである。
『義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た。しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、つまずきの石につまずいたのである。』(ローマ9:30-32)

『だから、あなたが、どのようにして受けたか、また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。』(黙示録3:3)
人は考察する。主はいつ来られるのだろう、と。
実際、主が再臨されるタイミングについては色々な説が提唱され、そのうち、どの説に自分が属するか、という事によって、世界の教会は分断され互いに論争している。
しかし、その現状こそ、死んだ行いであると知るべきである。
なぜなら主は、『その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。』と言っておられるのだから(マタイ24:36-37)。
誰も知らない、御使たちもまた子も知らない、ただ父だけが知っておられる、と主がわざわざ言われた「その日その時」を知ろうとするなぞ、傲慢である。
知る良しもない事は、知らないままにして置き、私達はむしろ、主がいつ来られても大丈夫なように、目をさまして備えておくべきだ。

主は言われた。
『主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。
もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。』(マタイ24:45-51)
主はいつ来られるかわからないが、盗人のように来る、という事は、確かである。その日その時を、人は知らない。
だから私達は、主人であるイエス様がいつ来られても良いように、無毛な議論に酔ったり、それでしもべ仲間を打ち叩いたりする事は止め、霊においてしっかりと目を覚まして、任されている聖徒達に、時に応じた御言葉の食物を食べさせるべきなのだ。

主は黙示録16章でも言われている。
『見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。』(黙示録16:15)
主がこの事を言われたのは、最後の災いである第七の鉢をぶちまける直前、かえるのような三つの汚れた霊、すなわち、しるしを行う悪霊どもが、全世界の王たちを惑わして、ハルマゲドンに召集する事を示している所に、挿入的に語られている。
終わりの時、私達は、しるしを行う悪霊に惑わされたり、酔わされたりする事なく、目を覚まし続け、「神の七つの霊と七つの星とを持つ」主から目を離さず、御言葉に目を留め続けるべきなのだ。

『しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。』(黙示録3:4-5)
サルデスに対する賞賛は、メッセージの後半に少しだけ挿入されている。
それは「その衣を汚さない人が、数人(オリゴス:少し)」しかいなかったからだろうか。
黙示録において主から与えられる「白い衣」とは、殉教者に与えられる慰めの衣であり(6:11)、大きな患難を通って来た全世界の人達が、小羊の血で洗ったものである。(7:14)
そして、小羊キリストの婚姻のために、自らを整えた花嫁に対して、主は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許されている。
「この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」(19:8)

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。』(3:6)
私達は、この時代において、聖霊が語られることに耳を傾け、心に留め、そして行うべきである。
結局、正しい行い(それも、信仰に基づいた御言葉に適った行い)をし続ける者にこそ、勝利者に与えられるべき「白い衣」が与えられるのだ。

テアテラ教会のメッセンジャーに対する書き送り 2(黙示録2:12-17)
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このテアテラへの手紙で頻繁に登場するキーワードは、「行い(エルゴン)」である。
主は、彼の愛と信仰と奉仕と忍耐と、そして、その「わざ(エルゴン)」が、初めよりもまさっている事を賞賛しており、主は良い事につけ、悪い事につけ、行いに応じて報われるお方だ。

『見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざ(エルゴン)から離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざ(エルゴン)に応じて報いよう。』(2:22-23)
ここの「女の子供たち」とは、イゼベルの血統的な子孫ではなく、彼女と同じように預言者だと自称して主のしもべに近づいて惑わし、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせる者の事であろう。なぜなら主は、これを「耳のある者」全てに警告しておられるからだ。
主は、全世界の人々の心を探り極める御方である。(23節)

主は、世界中どの教会においても、イゼベルのような心に企みある者を主は見透かしておられる。たとえその者が、どんなに巧妙に人をそそのかしたとしても。
そしてその者達が、その行いを悔い改めないなら、聖徒の交わりに出入り出来なくなるように死の床へと投げ込まされ、また、彼女のわざ(エルゴン)を悔い改めない者も、大きな艱難の中に投げ入れられてしまうのだ。
「わたしは、あなたがたひとりびとりのわざ(エルゴン)に応じて報いよう。」と言われた主は、その事を為される。

『また、テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。』(黙示録2:24)
この、イゼベルの教えを受ける者は、すなわち、サタンの「深み」を「知(ギノスコー:体験する、性的に交わる)」る事になる。
しかし主は、サタンの深みを知っておらず交わってもいないテアテラの残りの人達には、イゼベルが受ける災いの巻き添えに遭わせるような事はされない。

『ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。』(黙示録2:25)
この「持っているもの」とは、19節で主から賞賛を受けた、以下の「行い」であろう。
『わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。』(黙示録2:19)
主は、これらを最後まで固く保っていなさい、と命じられる。

『勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。』(黙示録2:26)
この教会において、勝利者に約束されている報いの記述の中には、「勝利者とは何者か」の定義が挿入されている。
それは他の教会には無い独特な点である。

勝利者とは、すなわち、「わたし(イエス様)のわざ(エルゴン)を最後(テロス)まで持ち続ける者」だ。
「最後(テロス)まで」とは、いつまでか。それは、25節からの続きとして見るなら、「イエス様が再臨される時」まで、すなわち「この世の時の終わりまで」、である。
つまり「勝利者」とは、この世界においてイエス様のわざを”継続的に”守り続ける人の事である。
そのような「勝利者」には、主は、次の報いを約束しておられる。

『彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。』(黙示録2:27)
これと同じ表現が、詩篇2篇にある。

そこでは、諸国の民や王たちが相共に集い、主とその油注がれた方に逆らって、その絆を壊し捨て去ろうと言っている様が記されている。
天に座しておられる主は、それをあざけり笑い、激しい怒りをもって彼らを恐れ惑わせ、そして言われる。
『わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。わたしに求めよ、わたしはもろもろの国を/嗣業としておまえに与え、地のはてまでもおまえの所有として与える。おまえは鉄のつえをもって彼らを打ち破り、陶工の作る器物のように彼らを/打ち砕くであろう」と。』(詩篇2:7-9)

ここの「油注がれたお方」は、すなわち「キリスト(意味:油注がれた者)」を指しているであろうが、今回の黙示録の箇所では、なんと、キリストに独占的に与えられた特権である「鉄の王杖をもって支配する権威」が、勝利した者達にも与えられる事が約束されているのだ。
主のわざを忠実に守り行った人に対しては、報いとして、王権が与えられる、という約束は、イエス様がたとえ話の中でも示して下さった通りである。(ルカ19章)

『わたしはまた、彼に明けの明星を与える。』(黙示録2:28)
明けの明星とは何だろうか。それは22章で、主ご自身が解き明かしておられる。
『わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である。』(黙示録22:16)
明けの明星とは、イエス様ご自身だ。なんと、勝利者には、鉄の支配権威と同時に、イエス様ご自身をも与えられるのだ。

結局私達は、この地上においては、御言葉なるイエス様を握りしめ続けておれば良いのだ。
たとえ、すぐには分からなくても、やがては、御言葉ご自身であられる主が、明けの明星となって、心の中を明るく照らして下さるからだ。
『こうして、預言の言葉は、わたしたちにいっそう確実なものになった。あなたがたも、夜が明け、明星がのぼって、あなたがたの心の中を照すまで、この預言の言葉を暗やみに輝くともしびとして、それに目をとめているがよい。聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを、まず第一に知るべきである。なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。』(2ペテロ1:19-21)

『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』』(黙示録2:29)
私達もまた、御霊が言われる事に聞き従い、この地上においては、愛と信仰と奉仕と忍耐とに基づいたわざ(エルゴン)を為し、それを手放さずに歩むべきだ。
それには報いがあるからであり、その報いとは、鉄の王権が与えられる事と、イエス様ご自身が私達のものとなるという事である。

テアテラ教会のメッセンジャーに対する書き送り 1(黙示録2:18-21)
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七つの教会の内の第四番目、テアテラ教会への書き送りは、次の構造となっている。

1,一次受信者の指定
『テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。』(2:18)

2,語られるキリストの姿
『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。』(2:18)

3,賞賛と激励
『わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。』(2:19)


4,叱責と警告
叱責:『しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。』(2:14-15)
警告:『見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。』(2:22-23)

5,勧めの宣言
『ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。』(2:25)

6,勝利者に約束されている報い
『勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。わたしはまた、彼に明けの明星を与える。』(2:26-28)

7,二次受信者への命令
『耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。』(2:29)


テアテラ教会のメッセンジャーに対する主の現れは、「燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子」であった。
ヨハネは「人の子のような方」と表現したが、主は自らを「神の子」と明言しておられる。
そしてその主は、テアテラ教会のメッセンジャーの事をも知っておられ、彼の愛と信仰と奉仕と忍耐とを、そして、そのわざ(エルゴン)は初めのよりもまさっている事も、知っておられる。(黙示録2:19)

『しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。』(黙示録2:20a)
イゼベルと言えば、イスラエル最悪の王・アハブの妻である。
この一人の女が、王である夫を、ひいてはイスラエル全体を偶像崇拝へと導き、主の怒りを引き起こさせて、3年半もの間イスラエルに雨が降らないようにした。
そしてその3年半の終わりに、主に遣わされた預言者エリヤは、アハブ王とイスラエル全体を前に、しるしと奇跡をもってイスラエルの神、主こそ力ある神である事を鮮やかに示した。
しかしイゼベルは、悔い改めるどころか、エリヤのした事を怒り、殺そうとする。
エリヤはそれで意気消沈し、死をも願ったが、主は彼を養い、立ち直らせられた。
しかし主は、イゼベルに対しては無残な死を下された。
それらの事が、第一列王記に記されている。

「あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている」、ここの「なすがまま(エアオー)」は、放ったらかしにする、放置したままにする、あるいは、看過したり我慢してはならない類の悪しき事でも、対決せず我慢し続ける事(KJV:suffer)である。
そういった「我慢」は、忍耐でも美徳でもない。むしろ、主から非難されてしまう事だ。

『この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。』(黙示録2:20b)
不品行(ポルネオー)とは、売春婦と関係を持ったり、不道徳な性関係を結んだりする事の意味だ。
また、偶像にささげたものを食べる事について、パウロは言っている。
『人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。』(1コリント10:20-22)

つまり、イゼベルと称されている偽預言者は、主のしもべ達を教えて惑わし、偶像にささげたものを食べさせて悪霊と交わらせ、不品行を行わせる事によって汚れた者と一体化させ、主のねたみを引き起こすようにさせているのだ。
『あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。』(1コリント6:15-17)
このような事については、なすがままにしたり、我慢したりしては決してならない。

『わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。』(黙示録2:21)
イゼベルは、主の預言者エリヤを通して行われたしるしを通して悔い改めの機会が与えられたが、彼女はそれを蹴り、かえってエリヤを殺そうとした。
結局イゼベルは、高い所から突き落とされ、血は飛び散り、死体は犬に食われ、頭蓋骨と両足と両方の手首しか残らないという、凄惨な終わりとなった。(2列王記9章)

主の僕を惑わし、不品行を行わせ、悔い改めの機会を蹴ったテアテラのイゼベルに対して、主はどのようにされるか。
『見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。』(黙示録2:22)
主は、イゼベルのような者は、死に至る病によって床へと縛り付け、もはや出歩きして、不品行したり、誰かを惑わしたりできない状態へと投げ込まれる。
そればかりでなく、この誘惑する偽預言者イゼベルの不品行に同意し、悔い改めず、相変わらず姦淫を行う者に対しては、主は「大きな患難の中に投げ入れる」と言っている。

主は、悔い改めの機会を与えられる。
今までこの人が、偽預言だと分からなかった、無知ゆえについて行ってしまい、自らを汚してしまった、けれども、御言葉に照らし、また結んでいる実を見たら、実は偽預言者だと分かった、そのような場合は、すみやかに今までの行いを悔い改め、離れるべきだ。
離れて悔い改めるなら、災いは及ばない。
しかし、悔い改めの機会が与えられて、なお御言葉のモラルに反する事をし続けるなら、主はその者を大きな艱難に投げ込まれてしまう。

エペソは偽使徒を見ぬき、憎み、許しておかなかったが、テアテラは、なすがままにして、放置し、我慢した。
そこを、主から非難を受けている。
イゼベルの時代、エリヤが警告を与えたように、私達もイゼベルのような者に警告をしないとするなら、主はそのしもべを非難されてしまうのだ。
それ故、教会の中においてそのような事をするものがあるなら、容認してはならない。
イスラエルの王アハブは、主の民を過ちに導くイゼベルを放置した結果、イスラエル全体を偶像崇拝という霊的不品行へと導き、3年半もの間、雨が降らない災いへと導いてしまった。
現代も、イゼベルの性質の者をなすがままにしておくと、教会全体が霊的な干魃、霊的な飢饉状態で、渇き切ったものにされてしまう。

今の時代、イゼベルのような偽預言者が、人々を霊的姦淫へ促し、惑わしている。
例えば、イエス・キリスト以外にも救いはあるのだとか、他の神々を礼拝する事も実はまことの神を礼拝している事になるのだとか、復活も奇跡も地獄も無いのだとか、そうした誤った教えを吹聴し、それに惑わされ、一切霊的な潤いが無く飢え渇いている人々が、実に多い。

エリヤのように、正確に主の御言葉を語り、断固としてそれを貫き、伝え、そして信じる者に伴われるしるし(マルコ16:17-18)をもって主にあって有用に用いられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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