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メッセージ - 定期祈祷会メッセージカテゴリのエントリ

イエス様の十字架を負ったクレネ人シモンのその後(マルコ15:21)
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訴える者に対し黙秘した事によって訴える者を救ったイエス様(ルカ23:1-25)
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ゲッセマネの園でイエス様を十字架へと渡した全ての人々(マタイ26:36-56)
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26:36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
26:37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。

イエス様は悲しみという感情を起こされた。
もし子供が親に見捨てられるとするなら、子は大きな悲しみを覚えるが、イエス様は御父から、それも、世の始まる以前から御父と親しい愛の交わりをしておられた、その御父から捨てられ、呪われ、悪しき者達の罪を負い、神と人から見捨てられるのだ。
それは、血の汗を滴らせる、私達には計り知れない大きな大きな悲しみである。

26:38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
26:39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

ゲッセマネ、それは「油絞り」という意味である。
この、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」という祈りこそ、聖霊の油がしたたる祈りである。
いつも油の用意をしている5人の賢いおとめは、花婿が来た時、すぐに花婿と共に婚宴へと行く事が出来たが、愚かな5人の花嫁は油の用意が無かったため、油を買いに行っている間に婚宴の席は閉じられてしまい、花婿へと嫁いで行く機会を永遠にロスしてしまった。(マタイ25:1-13)

油したたる祈りとは、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」という祈りである。
いかに多くの人が、「みこころのままにではなく、わたしの思いどおりになさって下さい」という、逆の祈りをし、油の蓄えをするべき機会をロスしてしまっているだろう。

26:40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。「心(プネウマ:霊)」は熱しているが、肉体が弱いのである」。

イエス様は血の汗をしたたらせて悲しみ苦しみもだえて祈っている傍ら、弟子達は、居眠りしていた。
「誘惑」するものがあったからだ。居眠りへの誘惑、肉の誘惑、世の誘惑が。
イエス様の願いは、一緒に目を覚まして祈っている事だったのに、イエス様一人に祈らせて、自分は眠ってしまう。

26:42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。
26:43 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。

祈るべき時に、目が重い、それを「よくある、仕方ないよね」で済ますべきではない。
イエス様はパッションをもって、この時代のために、国々のために、執り成しておられる。
居眠りへの誘惑、肉の誘惑、世の誘惑に陥らないように、目をさまして、イエス様と共に祈るべきなのだ。

26:44 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。
26:45 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。

イエス様は、弟子達が眠っているのを見て、再びただ一人、血の汗したたる悲しみもだえる祈りへと戻り、そして戻って来たら、弟子達はまた居眠りをしている。
そして、時間が来てしまった。
居眠りをしているならやがて、イエス様が連れて行かれ、目の前からいなくなってしまう時間が来てしまうのだ。

何事にも、時期がある。
祈るべき時期、油を蓄えるべき時期、しかしその時期を無駄に、眠りをして費やしてしまうなら、その時期を無駄遣いしてしまった将来を刈り取る事になってしまう。
しかしその時期を、しっかり為すべき事を為して過ごすなら、豊かな報いがある。

26:46 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。

イエス様は、弟子達を行かせた。そして弟子達は結果的に、イエス様を置いて、行ってしまう。
イエス様は弟子達の誰一人として失われる者がいないように、行かせたのだ。

26:47 そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。
26:48 イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。
26:49 彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。

ユダは金を受け取り、意図的に、イエス様を売り渡した。
そして、その志とは裏腹に、イエス様に対し「いかがですか(カリオー:お元気で)」という挨拶言葉と、接吻という親しい挨拶した。
普通そこまでされたなら、怒りに燃えて罪定めして裁いてしまっても仕方無いものであるが、イエス様はそうしなかった。

26:50 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。
原意は、「友(仲間、同労者)よ、このためにあなたはここにいるのですか?(来たのですか?)」である。
イエス様は一切、断罪の言葉を発しなかった。ただ、その後の成り行きはユダに任せた。
ユダはその後、悔い改めて立ち返る自由意志の余地をイエス様は残された。しかしユダはその後、その自由意志を用いて、自分で首をくくってしまった。

26:51 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。
26:52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。
26:53 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。
26:54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。

イエス様は確かに、12軍団(1軍団(レギオン)は6000人、12軍団は72000人)以上の天の軍勢を従えて、裏切るものも、捕らえに来た者も、全部滅ぼす事が出来た。
しかしそんな事はしなかった。
聖書の言葉が、成就するために、すなわち、人の救いが成就するように。

26:55 そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。
26:56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。

こうして、弟子達は全員、イエス様を捨ててしまった。
ある弟子は、金銀をもらって心定めてイエス様を裏切り、ある弟子は、祈るべき時に祈らず、眠る事によって。
そして人は、皆、イエス様を十字架へと運んでしまった。
イザヤ53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

しかしイエス様は、誰をも罪定めせず、また、天の軍団を従えて滅ぼす事もせず、御心を行うように、人を救うようにと心さだめ、わざと捕らえられ、十字架への道を歩まれた。

十字架、復活、聖霊抜きには何も出来ない主の弟子(ルカ22:14-34)
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22:14 時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。
22:15 イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。
22:16 あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。

いわゆる「最後の晩餐」は、単なる最後の食事ではない。
それは「過越の食事」であり、小羊の犠牲がともなったものである。
主が、神の民を、奴隷状態から脱出させて下さった事、死の災いを免れさせてくださった事を覚えて、それを行うようにと、「代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない」として、イスラエルの民が奴隷の国エジプトから脱出する前夜に制定された。(出エジプト記12章)
イエス様こそ、まことの犠牲の小羊である。イエス様の血によって滅びの災いを免れた。

22:17 そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。
22:18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。
22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
22:20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。

有名な、聖餐制定の場面である。ここで重要な事は「わたしを記念して」である。
教会は、イエス様中心の交わりである。
それゆえ、教会という交わりの中で、イエス様を覚えない飲み食い、すなわち、イエス様抜きの消費目的で教会のものを消費するなら、自分自身にさばきを招いていしまう。
1コリント11:28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。
11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
11:31 しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。

主のみからだをわきまえない飲み食いが、弱い者になってしまったり、病人になってしまったり、あるいは死んでしまう事の元となる。
私達はこの事をよく気をつけるべきである。

22:24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
22:25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。
22:27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。

この晩餐の時、誰が一番えらいか、という議論も弟子達の間で沸き起こった。
それに対してイエス様は、「指導する人は仕える者のようになるべきである」と言われた。
事実、イエス様のほうの側から、それをして下さったし、さらに、そのようにする人には、大きな報いがある事をもしっかりと宣言された。

22:28 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。
22:29 それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、
22:30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。

さらにイエス様は、弟子達の高ぶる心を砕く事実を宣言される。

22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

イエス様はご存知だった。サタンは神に「願って」、弟子達をふるいにかける事を許可した事を。
サタンは神に「許可」得なくては、人には何も出来ない。
しかし許可されてしまったので、後に弟子達はイエス様を見捨て、散り散りに逃げてしまう。
それを見越して、イエス様は、信仰がなくならないように、あらかじめ祈って下さった。

22:33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
22:34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が泣くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。

ペテロも弟子達も、いきがって、強い事、いさましい事を主張した。
マタイ26:35 ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
しかし、人の声の張り上げや主張は、実に、もろいものである。
イエス様はシモン、シモン、と言われた。
シモンは、彼の父ヨナがつけた名前であり(バルヨナシモン:ヨナの子シモン)、ペテロ(岩)はイエス様がつけた名前である。
主の十字架と復活ぬきには、何も出来ない。主の執り成し抜きには、何も出来ないのだ。

ルカ22:60 ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。
22:61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。
22:62 そして外へ出て、激しく泣いた。

十字架の主、復活の主、聖霊を与えて下さる主が無いままでは、主の働き人にはなれない。
自分のイエス様抜きの弱さを徹底的に知り、泣いて、ただ主を求める事こそ、主の働き人としての歩みの始まりである。

十字架を前に明かされていく人の心(ヨハネ11:1-11)
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受難週が始まった。イエス様の受難を前に、人々の三者三様の現れ方がある。

12:1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
ラザロはひと度、死んだが、イエス様によみがえらせてもらった。
しかも、死んでから4日後、もう遺体となって臭いを発してしまった時に。その時、大勢の人達がいた。
ラザロは生き返らせてもらった場面のみならず、ラザロが死んだ場面に居合わせた人や、葬儀に出席した人も含めるなら、ラザロがイエス様に生き返らせてもらった事を証言した人は大勢いただろう。

12:9 大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
大勢の人が、イエス様を見に来た。それは物見的な目的できた人もおれば、イエス様がまことのメシヤであると信じて来た人もいただろう。
主の為された素晴らしい奇跡を見て信じる人もいれば、見ても経験してもなお心頑なにして信じず、それどころか、殺そう、と考える人もまたいる。

12:10 そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。
12:11 それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。
祭司長達は、イエス様のみならず、なんと、せっかく命を主からいただいたラザロをも殺そうと相談した。
その理由は、彼のために多くの人が自分たちの所から離れて行ってしまったからだ。
いのちを息吹くのも、取り去るのも、支配しておられるのは神である、という事を、祭司なら知っているはずだ。
それなのに、それを認めないどころか、せっかく息吹いて下さったいのちを、再び取り去ろうとする。
道理としては全く合っていない事だが、しかし自分の事で頭がいっぱいな人は、そのような霊的・社会的道理が分からないものである。
このように、イエス様を十字架につけて殺したい、その恩恵を受けた人さえも殺したい、と願い者も出てくる。
殺すことは、サタンの熱情であり、生かすことは、イエス様の熱情である。

12:2 イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
12:3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
マリヤは、自分の持っている最高のものを、イエス様に捧げたいと願う心があった。
とても高価なナルドの香油である。イスカリオテのユダはそれを300デナリ、300日分の労働賃金相当と値積もりした。
それほどの高価な香油を、惜しみなくイエス様の足に注ぎ、それを髪でぬぐった。
髪は、女の冠である。まさに全てを注ぎ、冠を捧げる礼拝である。
しかしそれをけちつける者がいた。

12:4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
12:5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
ユダは、言葉とは裏腹の心をもっていた。彼はマリヤが捧げた香油を、捧げものとして見ず、一部を自分の懐に入るべき300デナリのお金、として見ていた。
全ての人の心を見透かしておられるイエス様は、この場面をどう対応したか。

12:7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
12:8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。

イエス様は、マリヤが「わたしの葬りの日のために、それをとっておいた」という事を、知っておられた。
つまりイエス様は、マリヤの心も、ユダの心も、私達の心も全部、ご存知である、という事である。
奉仕や礼拝する心の動機も、感情の動きも、また、そのためにどれほどの期間準備し、どれほどの志を持っていたのかも。
イエス様はマリヤがずっと前から、イエス様の葬りのために、ナルドを買い、とっておき、そしてこの葬りが間近なタイミングをも計って、この時に香油の壺を割ってイエス様に捧げ尽くした、という、その全ての「冠を捧げる礼拝」を、見ておられたのだ。

もしこの時、イエス様がユダのあさましい志を怒り、指摘してしまっていたら、その香り高い礼拝が台無しになってしまっていただろう。
イエス様は、マリヤが何日も前から尊い心を持って備えた礼拝を、そのように汚す事なく、そして、ユダの志を公に明かす事なく、ただ、マリヤがどんなに準備し、どんな志をもって備えたのか、それを公にし、それを、永遠の記念とした。
なんと美しい対応だろうか。
イエス様はユダに対しても、あの裏切りのくちづけをした時まで、ユダに「友よ」と呼びかけ、滅びに走ってほしくない、立ち返って救いを得なさい、という愛の姿勢を貫かれた。

イエス様は、ユダのあさましい志を一切おおっぴらにはしなかった。その代わり、マリヤの隠れた高貴な礼拝の志を明らかにされた。
なんと、私達のような人間と違う、高貴な性質だろう。
人は、人のあさましい志にフォーカスし、スキャンダラスに報じたいと願い、また、そのような事を見聞きしたと願う心があるからこそ、全ての国にそのようなニュースを売るビジネスが成り立っているのだ。

十字架を前に、イエス様はますます高貴なお方である事が明かされ、そして人の愚かさが、また、礼拝者の志が明らかにされていく。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
主の御用のために解き放たれるろばの子(ルカ19:29-35)
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きよい器をこそ用いて下さる主(ダニエル6章)
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6:3 ダニエルは彼のうちにあるすぐれた霊のゆえに、他のすべての総監および総督たちにまさっていたので、王は彼を立てて全国を治めさせようとした。
6:4 そこで総監および総督らは、国事についてダニエルを訴えるべき口実を得ようとしたが、訴えるべきなんの口実も、なんのとがをも見いだすことができなかった。それは彼が忠信な人であって、その身になんのあやまちも、とがも見いだされなかったからである。

ダニエルは3つの帝国で総理大臣を務め上げた。それはただ単に運が良かったという事ではなく、彼自身が自らを清く保ったからである。
どれ程清く保ったか。それは、彼を訴えようとする者たちが、彼についてあら捜ししても、訴えるべき口実も怠慢の一切、見出だせなかった程である。
神は、きよい器をこそ用いられる。人でさえ、汚物がついた皿やコップは用いない。
たとえ、黄金で造られていようとも、それに汚物がついているなら、たとえ土の器であっても清い器をこそ用いる。
同様に神も、私達という器を清く保ち続ける者をこそ用いられる。

清くするとは、以下の事である。
レビ記19:2 「イスラエルの人々の全会衆に言いなさい、『あなたがたの神、主なるわたしは、聖であるから、あなたがたも聖でなければならない。
これはイエス様も言われた事である。
もちろん私達が自分の力で自らを聖にする事は出来ないが、自らを清くする努力をし、ダニエルのように聖霊を送って下さり、聖別して下さる。
具体的な行動としては、以下である。
レビ記19:3 あなたがたは、おのおのその母とその父とをおそれなければならない。またわたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。
 19:4 むなしい神々に心を寄せてはならない。また自分のために神々を鋳て造ってはならない。わたしはあなたがたの神、主である。
ダニエルは汚れた食物を取らず、しかし従うべき権威に従い、そして主を礼拝する事を固く守っていた。
だから、「ダニエルは彼のうちにあるすぐれた霊のゆえに、他のすべての総監および総督たちにまさっていた」(6:3)のだ。

6:5 そこでその人々は言った、「われわれはダニエルの神の律法に関して、彼を訴える口実を得るのでなければ、ついに彼を訴えることはできまい」と。
6:6 こうして総監と総督らは、王のもとに集まってきて、王に言った、「ダリヨス王よ、どうかとこしえに生きながらえられますように。
6:7 国の総監、長官および総督、参議および知事らは、相はかって、王が一つのおきてを立て、一つの禁令を定められるよう求めることになりました。王よ、それはこうです。すなわち今から三十日の間は、ただあなたにのみ願い事をさせ、もしあなたをおいて、神または人にこれをなす者があれば、すべてその者を、ししの穴に投げ入れるというのです。
6:8 それで王よ、その禁令を定め、その文書に署名して、メデアとペルシャの変ることのない法律のごとく、これを変えることのできないようにしてください」。
6:9 そこでダリヨス王は、その禁令の文書に署名した。

ダニエル一人を陥れるために、「国の総監、長官および総督、参議および知事らは、相はかって、王が一つのおきてを立て、一つの禁令を定められるよう求め」たのだ。
その総勢は、125名と言われている。
そしてダリヨス王は、それに署名してしまった。メディア・ペルシャの法は、ひと度定められたら取り消す事は出来ない。

6:10 ダニエルは、その文書の署名されたことを知って家に帰り、二階のへやの、エルサレムに向かって窓の開かれた所で、以前からおこなっていたように、一日に三度ずつ、ひざをかがめて神の前に祈り、かつ感謝した。

ダニエルはそれが定められた事を「知った(ヤダー)」。
すなわち、その内容がいかなるものか、破ったらどうなるか、メディアペルシャの法がいかなる者か、全て「知った」上で、それでも主に礼拝を捧げたのだ。
彼は総理大臣という公務についていたが、実は、そのさらに上の公務、すなわち、イスラエルのために祈るという天の公務を忠実に優先したのだ。
課長と社長が互いに相反する事を命じてくるなら、当然、社長の命令を優先すべきであるように、私達も、世の法と天の法が互いに相反するなら、天の法のほうを優先させるべきなのだ。
私達も、この国のため、時代のために祈るという「天の公務」を忠実に果たすべきである。

6:11 そこでその人々は集まってきて、ダニエルがその神の前に祈り、かつ求めていることを見たので、
6:12 彼らは王の前にきて、王の禁令について奏上して言った

ダニエルはこそこそと祈る事はせず、堂々と、窓を明けて、声に出して祈ったのだ。
訴える者達は、これ幸いとばかりに王様に訴え、そしてダニエルをライオンの穴に投げ込む事に成功した。

6:18 こうして王はその宮殿に帰ったが、その夜は食をとらず、また、そばめたちを召し寄せず、全く眠ることもしなかった。
6:19 こうして王は朝まだき起きて、ししの穴へ急いで行ったが、
6:20 ダニエルのいる穴に近づいたとき、悲しげな声をあげて呼ばわり、ダニエルに言った、「生ける神のしもべダニエルよ、あなたが常に仕えている神はあなたを救って、ししの害を免れさせることができたか」。
6:21 ダニエルは王に言った、「王よ、どうか、とこしえに生きながらえられますように。
6:22 わたしの神はその使をおくって、ししの口を閉ざされたので、ししはわたしを害しませんでした。これはわたしに罪のないことが、神の前に認められたからです。王よ、わたしはあなたの前にも、何も悪い事をしなかったのです」。
6:23 そこで王は大いに喜び、ダニエルを穴の中から出せと命じたので、ダニエルは穴の中から出されたが、その身になんの害をも受けていなかった。これは彼が自分の神を頼みとしていたからである。

ダニエルは、守られた。多くのライオン達がダニエルを食い尽くそうとしても、御使いがライオンの口をふさいでいたからだ。
きよい器であるなら、神が守りをも保証して下さるのだ。
王は、ダニエルが神に信頼し歩んでいる様を見て、非常に喜んだ。そして、主を恐れた。
私達も、きよい、尊い器として用いられていくなら、あらゆる良い事に用いられ、間に合う者とされるのだ。

6:24 王はまた命令を下して、ダニエルをあしざまに訴えた人々を引いてこさせ、彼らをその妻子と共に、ししの穴に投げ入れさせた。彼らが穴の底に達しないうちに、ししは彼らにとびかかって、その骨までもかみ砕いた。
6:25 そこでダリヨス王は全世界に住む諸民、諸族、諸国語の者に詔を書きおくって言った、「どうか、あなたがたに平安が増すように。
6:26 わたしは命令を出す。わが国のすべての州の人は、皆ダニエルの神を、おののき恐れなければならない。彼は生ける神であって、とこしえに変ることなく、その国は滅びず、その主権は終りまで続く。
6:27 彼は救を施し、助けをなし、天においても、地においても、しるしと奇跡とをおこない、ダニエルを救って、ししの力をのがれさせたかたである」。

ダニエルは、たった一人で、国の法令を変えてしまった。
ダニエルが社会や法令を変える努力をしたのではない。彼はただ、聖である事、きよい事を保っただけである。
礼拝を第一とし、権威に忠実であり、自らを汚れへと持って行かなかっただけで、神は御心を成し遂げられるのだ。

6:28 こうして、このダニエルはダリヨスの世と、ペルシャ人クロスの世において栄えた。

このように、きよい器であるなら、主が栄えさせ、敵を蹴散らしてくださる。
私達は何かと、栄えるように、守られるように、敵が蹴散らされるように、用いられるように、権威やお金が与えられるようにと求めがちだが、まず私達自身、きよくなる事を努力しなくてはならない。
自らをきよく保つなら、それらは神が保証して下さる。

御霊の導きとその保護下に入れ(ローマ8:12-16)
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足の下で踏んだ土地を自分のものとするための必要条件(創世記13:11-18)
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創世記13:11 そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。
13:13 ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。
13:14 ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。
13:15 すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。
13:16 わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。
13:17 あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。
13:18 アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。

主がアブラハムに、具体的に、この地を約束の地として与える、と約束して下さった箇所である。
そこを実際にアブラハムが目で見、そこを縦横無尽に歩きまわり、足の裏で踏んで、自分と自分の先祖のものにしたのは、最後の血縁である甥のロトと別れた後であった。
ロトはアブラハムと違い、自分の目で見、自分で評価し、自分の行きたい所に行く者だった。
ロトはソドムという主の目にはなはだ悪い者達が住んでいる場所を、「主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。」と評価した。
肉の欲に目がくらむと、ソドムさえも主の園と同価に見てしまうのが、肉に従って歩む人間である。
そのロトとの決別がきっかけで、アブラハムは「足の下で踏みゆく所はことごとく与える」という幸いにあずかる事が出来た。

主はまず、御言葉による約束を与えて下さる。
イスラエルの民には既に500年以上前に、彼らの先祖アブラハムに与えられた神の約束がある。その地を既に与えた、と。
私たちにも既に、聖書という、2000年前に与えられた約束の御言葉がある。
神様の約束が与えられたなら、それに対する私たち人間が為すべき評価はただ一つ、「アーメン」、すなわち、そのとおりになります、そのとおりに実行します、それが唯一の正しい神様の御言葉に対する応答である。

私たちも、以前の考え方、肉に従って評価するくせとは決別しなければ、「足の下で踏みゆく所はことごとく与える」という幸いにあずかる事はできない。
アブラハムの子孫のイスラエルの民は、エジプトを出たのち、すぐにこのアブラハムに約束された地に入れるはずだった。
しかし、ロトのような目で見て判断する者達ゆえに、40年、荒野で放浪する事になってしまった。
そのきっかけをつくったのは、ヨシュアとカレブと共に約束の地を探って来た斥候たちであった。

その斥候たちは、実際にかの地を偵察し、その地を見、足の裏で踏み、その地のものを食べ体験して来た。

民数記13:27 彼らはモーセに言った、「わたしたちはあなたが、つかわした地へ行きました。そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。
13:28 しかし、その地に住む民は強く、その町々は堅固で非常に大きく、わたしたちはそこにアナクの子孫がいるのを見ました。
13:29 またネゲブの地には、アマレクびとが住み、山地にはヘテびと、エブスびと、アモリびとが住み、海べとヨルダンの岸べには、カナンびとが住んでいます」。

以上の3節には、人の評価や感情は一切入っていない。客観的な状況報告である。
その客観的事実に対し、人はどう「評価」するか。それによって、生死の明暗が別れる。

13:30 そのとき、カレブはモーセの前で、民をしずめて言った、「わたしたちはすぐにのぼって、攻め取りましょう。わたしたちは必ず勝つことができます」。

カレブは、確かに他の斥候達と一緒に、あの巨大な、力強く戦いに長けたアナク人達を見てきた。その者達が守っている城壁の町々も見てきた。
しかし、カレブの評価は「必ず勝てる」であった。
彼は神がエジプトに対して為された10の災いと、そして紅海の水を割り、イスラエルの民は渡らせ、エジプトの軍隊は水に飲み込ませた様も見た。
その神様と、あのアナク人達を見比べて、必ず勝てる、と評価したのである。

13:31 しかし、彼とともにのぼって行った人々は言った、「わたしたちはその民のところへ攻めのぼることはできません。彼らはわたしたちよりも強いからです」。
13:32 そして彼らはその探った地のことを、イスラエルの人々に悪く言いふらして言った、「わたしたちが行き巡って探った地は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。
13:33 わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」。

彼らは、主が約束して下さった地を、悪くいいふらした。
そこは良い地であったのに、なぜ悪く言いふらすのか。それは、自分の思い通りに人々を操りたいためであろうが、主の約束を、主の与えてくださるものを、悪くいいふらすのは、何と災いを招く事だろう。

彼らの評価はカレブとは真逆、「攻め上ることはできない」であった。
彼らは自分と相手を比較し、そこに主は存在せず、彼らをエジプトから導き出し、荒野で食べさせて下さった主を、度外視していたのだ。
主を無視する。それはなんと主に対して失礼な、神の民として、いかに災いな性質だろう。
しかし自分と相手だけを見、そこに私たちの主、万軍の主の存在を度外視して物事を評価し、恐れ、できない、と、御言葉とは真逆の方面に行く時、主を無視してしまっているのだ。

私たちはそのような性質は、切り離し、決別しなくてはならない。
アブラハムがロトと決別してから、主に約束の地を見せられ、歩かされたように、私たちもそのような性質とは決別しなくては、約束の地を手に入れる事はできないのだ。

カレブは斥候としてあの地を探ってから、実際にその地を手に入れるまで、45年、待たなくてはならなかった。
その年月の間に、かの、不信仰な世代が死に絶える期間が必要だったからだが、それでも45年、彼の信仰も体も衰える事はなく、ついに、彼はあの日、希望に胸をふくまらせて足の下で踏みしめたヘブロンの地を見事に自分のものとし、彼の子々孫々にそこを受け継がせた。
私たちもロトのような性質とは決別し、信仰をもって御言葉を握りしめ行くべきだ。

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