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メッセージ - 定期祈祷会メッセージカテゴリのエントリ

宇宙よりも広い主イエス様の愛と憐れみ(ヨハネ21:1-25)
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イエス様はあらかじめ復活すると言っていたのにそれを信じ切れない弟子達に、聖霊の息を吹きかけ「わたしもあたながたを遣わします」と言って任命して下さり、信じ切れないトマスに、傷んだ葦を折る事をしない、優しく麗しい対応で信仰を建て直して下さった。
イエス様はなおも、御言葉どおりに出来ない弟子達に現れて、彼らを愛憐れみに満ちたあらわれによって、建て直して下さる。

21:1 そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。
21:2 シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。
21:3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。

ペテロは漁に「行く」と言ったが、その「行く」はフパゴー、戻るとか離脱する事の意味である。
ペテロはせっかくイエス様から主の働き人の任命を受けたのに、そこから離れて、以前プロフェッショナルとして仕事していた「漁」に戻る、と他の弟子達に言ったところ、他の弟子達も「いっしょに行く」と言った。
しかし、何も獲れない。

ペテロは漁のプロフェッショナルだったので、魚が穫れる時間、わざわざ夜に魚を捕りに行ったのに、一匹も獲れなかった。
それは、奇跡である。
奇跡とは何も、自分の願った通りの事とは限らない。自分が願った事が100%閉ざされるという奇跡もある。
そのような「望ましくない奇跡」は、主の御旨とは100%逆方向を願って進む時に起きてしまうのだ。

それでもあきらめないで、主の御旨でない事を続けて行くなら、ますます「何も獲れない」「居心地が悪くなる」「気まずくなっていく」事の泥沼へと、どんどんはまり込んでいってしまう。
イエス様は、そんな泥沼に沈んていく者達に、優しく現れて下さる。

21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
自分の思い通りに行く事に物事をもって行こうとしがみつき、奮闘してしまう時、イエス様が見えなくなってしまう。


21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
ここのイエス様の言葉は、英語の「Don't you」のような、「**が無いのだろう?」という、「無い」事が前提の問いかけである。
弟子達は、無い、と答えるしか無かった。
それはそうである。なぜなら、魚も湖も全てを主権をもって支配しておられるのはイエス様だから。
イエス様は、主の御旨でない主のしもべの「編み投げ」に対しては、100%、何も獲れない、という奇跡で答えられる。

21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
彼らは、そのお言葉どおり従ったら、これまた逆転奇跡が起きた。
主のしもべは、御旨でない事を行うなら、ただただ虚しい奇跡しか起きないが、御言葉に従うなら、豊かな実りある奇跡が起きる。
弟子ヨハネは、イエス様のそのご性質を思い出した。

21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
ペテロは、裸だった。
イエス様がせっかく救いの衣を着せ、聖霊の「縄」によって縛って、人間を捕る漁師としての働きに召したというのに、それを脱ぎ捨てて、以前の自分の「漁師」としての帯びを再び締めて、はだかで立ち振る舞っていた。それをペテロは気づき、上着をまとって海に飛び込んだ。
この「飛び込んだ」と訳されている言葉は、直訳するなら「自らを水の中に投げた」である。
イエス様に着せられた衣を脱いで、裸で立ち振る舞っている事に気づいた時は、この、ペテロのような対応を私達もするべきである。
再び主に着せられた衣をまとい、自らは水の中へと投げ込んで、そしてイエス様のほうへ泳いで行くのみである。

21:8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
これが、イエス様の麗しい性質である。彼はくすぶる灯芯を消す事なく、傷んだ葦を折る事もなく、ただ、バックスライドしてしまった弟子達を、温かい炭火焼きのパンと魚で迎えて下さる。

21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
3つめの奇跡である。それは、あんなにも立派な魚が大漁に捕れたのに、網が破けなかった。
魚たちも、弟子達に捕らえられるように、網が破けないように、配慮するのだ。それもまた、イエス様の主権である。

21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。
イエス様は、自ら来て、弟子達のために食べ物を与えて下さった。
しかも、私達主の働き人が、主の御言葉どおりに行って得たものさえも用いて。

21:15 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
21:16 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
ここではイエス様は「愛するか」と2度、聞いてきたが、その愛は、ギリシア語ではアガパオー、すなわち、自らを捧げ尽くす完全な愛で愛せるか、と聞いて来たのである。
しかしペテロは、完全に愛し尽くす愛の「アガパオー」では答えられず、「フィレオー(好きである、慕っている)」という愛で答えた。
そのやり取りが、二度繰り返された。

21:17 イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
イエス様は三度目の質問では「アガパオー」で質問して来てはいない。三度目は、あなたはわたしを「フィレオー」するのか?と問いかけてきたのだ。
イエス様の側から、完全な愛で愛し尽くす事の出来ない人間の側にレベルを合わせて、降りてきて下さったのだ。
あたかも大人が、自分の弱さに泣いている子供の目線に降りて来てなだめるかのように。
ペテロは、3度目にイエス様が「フィレオーするのか?」と降りて来てくださったので、悲しくなったのだ。

ペテロのように、自分の弱さに悲しみ、イエス様がそんな弱い自分に降りてきて下さった事に心触れられる事が、肝心である。
この、悲しむ心を忘れて、ただただイエス様に炭火を焼かせてばかりいるとしたら、それは恩知らずの性質である。

21:18 よくよくあなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう」。
21:19 これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。
未熟な働き人は、自分でビジョンを思い描き、自分の好きな帯びを締めて、自分の好きな所へ行くものだ。ペテロはまさに、そうだった。
しかし、熟練した働き人は、自分の思い描く事や、自分の好きな帯を捨てて、聖霊の帯に縛られて、主が示される所へと行くものである。
使徒パウロが、聖霊に縛られて、殉教を覚悟してエルサレムへ行ったように。
主の働き人とは、みな、そのようである。

21:20 ペテロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのを見た。この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、「主よ、あなたを裏切る者は、だれなのですか」と尋ねた人である。
21:21 ペテロはこの弟子を見て、イエスに言った、「主よ、この人はどうなのですか」。
21:22 イエスは彼に言われた、「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。
主から、あなたのミニストリーはこれだ、と示されても、どうしても「あの人はどうなのですか」「どうして自分ばかりこうなのですか」と、他人を指差して比較しがちである。
しかし主の答えは、「あなたは、わたしに従ってきなさい」である。
私達は、あの人がどう、この人がどう、ではなく、ただ主だけを見、主の言葉に従って行けば良いのである。

21:23 こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。
他の弟子達は、主の言葉に自分勝手な解釈を混ぜ込んで、この弟子(ヨハネ)は死なない、と、うわさ話を広めたが、しかしヨハネは、100%主が言った言葉を違えず、「主が言われたのはこうだ」と言った。
私達も、主の言葉に自分の思い込みを混ぜ込む人に対しては、主の言葉を100%そのまま語れば良いのだ。

21:24 これらの事についてあかしをし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている。
21:25 イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。
確かにイエス様がなさった驚くべき事、素晴らしい事を書き記して行くなら、世界さえもその書を入れる事は出来ないが、しかし何よりイエス様のなさった事は、愛に満ちている。
ヨハネ福音書は「愛の書」と良く言われている。
イエス様の愛、それこそ、語れば語る程に、世界さえも入れる事が出来ないのだ。
イエス様の愛は、宇宙よりも大きく広い。それをこそ私達は御言葉から読み解き、主の愛と憐れみに満たされ、主の働き人として成長して行くべきである。

恐れる弟子達に現れて下さった復活の主(ヨハネ20:19-31)
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マグダラのマリヤから学ぶイエス様に真っ先に出会える人の性質(ヨハネ20:1-18)
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20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
マグダラのマリヤ、彼女はイエス様に真っ先に出会う特権にあずかった。
それは、彼女が誰よりもイエス様を慕い求めていたからである。
「マグダラ」はガリラヤ湖の南西の町で、その出身であったためにマグダラのマリヤと呼ばれているが、「マグダラ」はヘブライ語ではミグドール、「見張り台」という意味である。
彼女はまさにその名の通り、イエス様にずっとついて行って、ガリラヤ伝道中にもいつもついて行った。(ルカ8:1-8)。
イエス様が十字架につけられた場面でもすぐそばにおり(ヨハネ19:25)、イエス様が息を引き取った時も、墓から降ろされて墓に葬られる場面も、ずっとその場を去らずに見守り(マルコ15:47、ルカ23:55)、安息日が明けた明け方の時に早速またイエス様の墓に行った彼女である。

なぜ彼女は誰よりもイエス様の近くにいて、イエス様を見守る人になったか。
彼女は七つの悪霊をもっていたがイエス様に追い出していただいて(ルカ8:2)、以前の罪深い生活から救っていただいた。
多くを赦され、多くを救っていただいた人は、イエス様を多く愛するものである。

ルカ7:44 それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。
7:45 あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。
7:46 あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。
7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
7:48 そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。

マグダラのマリヤは、多くを救っていただいた故に、より多くイエス様を愛した。
それだから彼女は、イエスが十字架にかけられた時も、イエスが息を引き取る場面も、イエス様が墓に葬られる場面もそこにいて、そして、イエス様が墓からよみがえってから一番最初に出会う事も出来たのである。

20:10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
20:11a しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。

ペテロとヨハネの二人の弟子は、イエス様の遺体が墓からなくなっているのを確認したら家に帰っていったが、マリヤはなおもそこに留まって、泣いていた。
イエス様を慕い求めていたからだ。

20:11b そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。

墓の中に、二人の白い衣を着た御使いがすわっている。ペテロとヨハネが墓の中に入ったさっきまで、いなかったはずなのに。
尋常な場面ではないのに、彼女は普通に対応している。
親しい人が死んで、その遺体が無くなってしまうような大きな悲しみの中では、ちょっとやそっとの尋常でない場面に出くわしても、その悲しみのほうが大きくて、それどころではなくなってしまうものである。
彼女は大きな悲しみによって、心が塞がれていた。しかし、そんなイエス様を慕い求める彼女、心が悲しみで塞がれている彼女に、イエス様ご自身が直接あらわれてくださる。

20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。

彼女はイエス様に名指しで声をかけていただく事が出来た。
彼女は、二人の御使いに「わたしの主」と言ったし、またラッブーニというヘブライ語は「わたしの先生」という意味である。
彼女はイエス様を「わたしの主」「わたしの先生」と、イエス様を「わたしの」と呼んでいた。

イエス様に真っ先に出会う特権にあずかったマグダラのマリヤ。
彼女の性質から、イエス様にすぐ出会える人の性質が分かる。
イエス様に速やかに出会える人とは、彼女のように、多くを赦していただいたなら、多くを愛する人。
いつもイエス様に目を向け、何があってもイエス様について行き、イエス様が死んで、もう絶望的だと思っても、なおイエス様を探し求め、イエス様を「わたしの主」と呼ぶ性質こそ、イエス様から真っ先に声をかけていただき、真っ先にイエス様に出会える性質である。

頑なに握りしめられた心を燃え立たせ開かせる言葉(ルカ24:13-35)
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24:13 この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、
24:14 このいっさいの出来事について互に語り合っていた。
24:15 語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。

イエス様の十字架からの復活以降、イエス様の現れは、現代の私達と全く同じ現れ方をしている事が、福音書の後半部分から知ることが出来る。
すなわちイエス様は、四六時中肉体をとって肉体に縛られているのではなく、時間空間に縛られず、ただ、二人また三人でイエス様の名の元に集まってイエス様の話をしている所に、あるいは、心からイエス様を慕い求める魂のところに現れて下さる。
イエス様は、この二人の弟子がイエス様の話をしている所に現れて下さった。
しかし、イエス様が目の前に現れたからといって、必ずしもそれがイエス様だと分かる訳ではないようである。

24:16 しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。

目がさえぎられて、と訳されている原語ギリシア語はクラテオー、握りしめるとか、力づくで思いのままにするという意味である。
彼らは自分の目を、自分の思い込みや、心の欲するまま、肉の欲するままの状態で、固く握りしめられていたのだ。
イエス様が目の前に現れても、それがイエス様だと気づかない理由、それは、心が握りしめられたままの状態である事だ。

24:17 イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。
24:18 そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。
24:19a 「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。

きっと、この場面を映像にしたら、とても滑稽ではなかろうか。
イエス様を目の前にして、イエス様に話しかけられて、悲しそうな顔つきになっており、何の話かと聞かれると、目の前にイエス様ご自身を見て話しているというのに、「ナザレのイエスのことです」と言うのだから。
彼らは、暗い顔つき、悲しい顔つきであった。その理由は、イエス様を目の前にしても、人間の言葉や噂話をし、そして、イエス様があらかじめおっしゃっておられた事がそのとおりになったというのに、また証人もいるのに、なお、自分で自分の心を固く握りしめつづけていたからだ。

ヨハネ6:63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
人間の言葉は何の益ももたらさず、また、心を固くし思い込みを握りしめる者達の議論は、顔つきを暗く、悲しげにする以外に無い。
そして、いかにイエス様が目の前に現れていようとも、それに気づかないままなのだ。

結局、人を生かすのは、人間の言葉(ダバル)ではない。ただ、神の言葉(ダバル)である。
人間のダバルは、こねくり回せばこねくり回す程、顔つきは暗く、悲しげになって行く。
ただ、神の言葉のみが、人にいのちを息吹く。

24:19b あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、
24:20 祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。
24:21 わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです。

これらの出来事は事実で、確かに心暗くする事であっただろう。
しかし、次に続く言葉は、暗い心に光をもたらす事であるはずである。

24:22 ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、
24:23 イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。
24:24 それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした」。

イエス様が三日目によみがえる事は、あらかじめイエス様が何度も語っていた事だったし、実際、イエス様が生きておられるという証言を聞き、そして墓もからっぽだった事を聞いても、彼らは嬉しがるのではなく、なお、心暗く頑なな状態である。
そんな者、心をあくまで頑なにしている者を対処する事が出来るものは、霊とたましいの間を貫く御言葉の剣のみである。

24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。
24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。
24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。

イエス様は、「ほら、目の前にわたしがいるではないか」と言えば一発で済むと思えるような場面で、それをしなかった。
かえってイエス様が話された言葉は、モーセや全ての預言者、すなわち、聖書全体であった。
これは現代の私達も、頑なで恐れる暗い心を開放する唯一の方法である。
私達も、イエス様が目の前にいる、見なさい、と言う必要は無い。御言葉、それを示す事が、イエス様を示す事である。

24:28 それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。
24:29 そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。
24:30 一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、
24:31 彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。
24:32 彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。

弟子達に、イエス様だと分かったタイミングは、イエス様がパンを裂いて、それをお渡しになった時だった。
聖餐において、裂かれたパンは、十字架上で裂かれたイエス様の肉体を意味する。
見えない目が開かれるために、また、聞けない耳が開かれるためには、十字架のイエス様を渡す事である。

弟子達の心は、道道、御言葉を聞いている内に燃え立たされていた。
皆さんも、頑なに握りしめられ聞く耳を持たない人の心を燃え立たせたいだろうか。それには、御言葉を語る事である。
相手の心が開くまで、時間がかかるかもしれない。弟子達でさえ、時間がかかった。
しかし、それまでイエス様についての御言葉を語り続けるなら、やがて心燃え立たせられ、開かれていなかった心が開かれて行くのである。

24:33 そして、すぐに立ってエルサレムに帰って見ると、十一弟子とその仲間が集まっていて、
24:34 「主は、ほんとうによみがえって、シモンに現れなさった」と言っていた。
24:35 そこでふたりの者は、途中であったことや、パンをおさきになる様子でイエスだとわかったことなどを話した。

弟子達は、せっかく11キロの道のりを歩いて目的地に到着したのに、また、日も既に暮れたのに、なお戻って、イエス様が生きておられる事、現れて下さった事を証した。
御言葉によって心開かれ、心燃やされ、イエス様に出会ったなら、どんな労苦おも惜しまずに、イエス様を伝えずにはいられなくなるのだ。

金曜徹夜祈祷会 受難礼拝
(マタイ27:33-56, 詩篇22篇、マルコ15:22-41、イザヤ52:13-53章、ルカ23:33-49、出エジプト記12:3-14、ヨハネ19:23-30、黙示録5:1-14)
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イエス様の十字架を負ったクレネ人シモンのその後(マルコ15:21)
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訴える者に対し黙秘した事によって訴える者を救ったイエス様(ルカ23:1-25)
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ゲッセマネの園でイエス様を十字架へと渡した全ての人々(マタイ26:36-56)
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26:36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
26:37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。

イエス様は悲しみという感情を起こされた。
もし子供が親に見捨てられるとするなら、子は大きな悲しみを覚えるが、イエス様は御父から、それも、世の始まる以前から御父と親しい愛の交わりをしておられた、その御父から捨てられ、呪われ、悪しき者達の罪を負い、神と人から見捨てられるのだ。
それは、血の汗を滴らせる、私達には計り知れない大きな大きな悲しみである。

26:38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
26:39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。

ゲッセマネ、それは「油絞り」という意味である。
この、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」という祈りこそ、聖霊の油がしたたる祈りである。
いつも油の用意をしている5人の賢いおとめは、花婿が来た時、すぐに花婿と共に婚宴へと行く事が出来たが、愚かな5人の花嫁は油の用意が無かったため、油を買いに行っている間に婚宴の席は閉じられてしまい、花婿へと嫁いで行く機会を永遠にロスしてしまった。(マタイ25:1-13)

油したたる祈りとは、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」という祈りである。
いかに多くの人が、「みこころのままにではなく、わたしの思いどおりになさって下さい」という、逆の祈りをし、油の蓄えをするべき機会をロスしてしまっているだろう。

26:40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。「心(プネウマ:霊)」は熱しているが、肉体が弱いのである」。

イエス様は血の汗をしたたらせて悲しみ苦しみもだえて祈っている傍ら、弟子達は、居眠りしていた。
「誘惑」するものがあったからだ。居眠りへの誘惑、肉の誘惑、世の誘惑が。
イエス様の願いは、一緒に目を覚まして祈っている事だったのに、イエス様一人に祈らせて、自分は眠ってしまう。

26:42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。
26:43 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。

祈るべき時に、目が重い、それを「よくある、仕方ないよね」で済ますべきではない。
イエス様はパッションをもって、この時代のために、国々のために、執り成しておられる。
居眠りへの誘惑、肉の誘惑、世の誘惑に陥らないように、目をさまして、イエス様と共に祈るべきなのだ。

26:44 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。
26:45 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。

イエス様は、弟子達が眠っているのを見て、再びただ一人、血の汗したたる悲しみもだえる祈りへと戻り、そして戻って来たら、弟子達はまた居眠りをしている。
そして、時間が来てしまった。
居眠りをしているならやがて、イエス様が連れて行かれ、目の前からいなくなってしまう時間が来てしまうのだ。

何事にも、時期がある。
祈るべき時期、油を蓄えるべき時期、しかしその時期を無駄に、眠りをして費やしてしまうなら、その時期を無駄遣いしてしまった将来を刈り取る事になってしまう。
しかしその時期を、しっかり為すべき事を為して過ごすなら、豊かな報いがある。

26:46 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。

イエス様は、弟子達を行かせた。そして弟子達は結果的に、イエス様を置いて、行ってしまう。
イエス様は弟子達の誰一人として失われる者がいないように、行かせたのだ。

26:47 そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。
26:48 イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。
26:49 彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。

ユダは金を受け取り、意図的に、イエス様を売り渡した。
そして、その志とは裏腹に、イエス様に対し「いかがですか(カリオー:お元気で)」という挨拶言葉と、接吻という親しい挨拶した。
普通そこまでされたなら、怒りに燃えて罪定めして裁いてしまっても仕方無いものであるが、イエス様はそうしなかった。

26:50 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。
原意は、「友(仲間、同労者)よ、このためにあなたはここにいるのですか?(来たのですか?)」である。
イエス様は一切、断罪の言葉を発しなかった。ただ、その後の成り行きはユダに任せた。
ユダはその後、悔い改めて立ち返る自由意志の余地をイエス様は残された。しかしユダはその後、その自由意志を用いて、自分で首をくくってしまった。

26:51 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。
26:52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。
26:53 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。
26:54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。

イエス様は確かに、12軍団(1軍団(レギオン)は6000人、12軍団は72000人)以上の天の軍勢を従えて、裏切るものも、捕らえに来た者も、全部滅ぼす事が出来た。
しかしそんな事はしなかった。
聖書の言葉が、成就するために、すなわち、人の救いが成就するように。

26:55 そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。
26:56 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。

こうして、弟子達は全員、イエス様を捨ててしまった。
ある弟子は、金銀をもらって心定めてイエス様を裏切り、ある弟子は、祈るべき時に祈らず、眠る事によって。
そして人は、皆、イエス様を十字架へと運んでしまった。
イザヤ53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

しかしイエス様は、誰をも罪定めせず、また、天の軍団を従えて滅ぼす事もせず、御心を行うように、人を救うようにと心さだめ、わざと捕らえられ、十字架への道を歩まれた。

十字架、復活、聖霊抜きには何も出来ない主の弟子(ルカ22:14-34)
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22:14 時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。
22:15 イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。
22:16 あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。

いわゆる「最後の晩餐」は、単なる最後の食事ではない。
それは「過越の食事」であり、小羊の犠牲がともなったものである。
主が、神の民を、奴隷状態から脱出させて下さった事、死の災いを免れさせてくださった事を覚えて、それを行うようにと、「代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない」として、イスラエルの民が奴隷の国エジプトから脱出する前夜に制定された。(出エジプト記12章)
イエス様こそ、まことの犠牲の小羊である。イエス様の血によって滅びの災いを免れた。

22:17 そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、互に分けて飲め。
22:18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。
22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
22:20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。

有名な、聖餐制定の場面である。ここで重要な事は「わたしを記念して」である。
教会は、イエス様中心の交わりである。
それゆえ、教会という交わりの中で、イエス様を覚えない飲み食い、すなわち、イエス様抜きの消費目的で教会のものを消費するなら、自分自身にさばきを招いていしまう。
1コリント11:28 だれでもまず自分を吟味し、それからパンを食べ杯を飲むべきである。
11:29 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
11:30 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。
11:31 しかし、自分をよくわきまえておくならば、わたしたちはさばかれることはないであろう。

主のみからだをわきまえない飲み食いが、弱い者になってしまったり、病人になってしまったり、あるいは死んでしまう事の元となる。
私達はこの事をよく気をつけるべきである。

22:24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
22:25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。
22:27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。

この晩餐の時、誰が一番えらいか、という議論も弟子達の間で沸き起こった。
それに対してイエス様は、「指導する人は仕える者のようになるべきである」と言われた。
事実、イエス様のほうの側から、それをして下さったし、さらに、そのようにする人には、大きな報いがある事をもしっかりと宣言された。

22:28 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。
22:29 それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、
22:30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。

さらにイエス様は、弟子達の高ぶる心を砕く事実を宣言される。

22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。

イエス様はご存知だった。サタンは神に「願って」、弟子達をふるいにかける事を許可した事を。
サタンは神に「許可」得なくては、人には何も出来ない。
しかし許可されてしまったので、後に弟子達はイエス様を見捨て、散り散りに逃げてしまう。
それを見越して、イエス様は、信仰がなくならないように、あらかじめ祈って下さった。

22:33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
22:34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が泣くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。

ペテロも弟子達も、いきがって、強い事、いさましい事を主張した。
マタイ26:35 ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
しかし、人の声の張り上げや主張は、実に、もろいものである。
イエス様はシモン、シモン、と言われた。
シモンは、彼の父ヨナがつけた名前であり(バルヨナシモン:ヨナの子シモン)、ペテロ(岩)はイエス様がつけた名前である。
主の十字架と復活ぬきには、何も出来ない。主の執り成し抜きには、何も出来ないのだ。

ルカ22:60 ペテロは言った、「あなたの言っていることは、わたしにわからない」。すると、彼がまだ言い終らぬうちに、たちまち、鶏が鳴いた。
22:61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏がなく前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。
22:62 そして外へ出て、激しく泣いた。

十字架の主、復活の主、聖霊を与えて下さる主が無いままでは、主の働き人にはなれない。
自分のイエス様抜きの弱さを徹底的に知り、泣いて、ただ主を求める事こそ、主の働き人としての歩みの始まりである。

十字架を前に明かされていく人の心(ヨハネ11:1-11)
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受難週が始まった。イエス様の受難を前に、人々の三者三様の現れ方がある。

12:1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
ラザロはひと度、死んだが、イエス様によみがえらせてもらった。
しかも、死んでから4日後、もう遺体となって臭いを発してしまった時に。その時、大勢の人達がいた。
ラザロは生き返らせてもらった場面のみならず、ラザロが死んだ場面に居合わせた人や、葬儀に出席した人も含めるなら、ラザロがイエス様に生き返らせてもらった事を証言した人は大勢いただろう。

12:9 大ぜいのユダヤ人たちが、そこにイエスのおられるのを知って、押しよせてきた。それはイエスに会うためだけではなく、イエスが死人のなかから、よみがえらせたラザロを見るためでもあった。
大勢の人が、イエス様を見に来た。それは物見的な目的できた人もおれば、イエス様がまことのメシヤであると信じて来た人もいただろう。
主の為された素晴らしい奇跡を見て信じる人もいれば、見ても経験してもなお心頑なにして信じず、それどころか、殺そう、と考える人もまたいる。

12:10 そこで祭司長たちは、ラザロも殺そうと相談した。
12:11 それは、ラザロのことで、多くのユダヤ人が彼らを離れ去って、イエスを信じるに至ったからである。
祭司長達は、イエス様のみならず、なんと、せっかく命を主からいただいたラザロをも殺そうと相談した。
その理由は、彼のために多くの人が自分たちの所から離れて行ってしまったからだ。
いのちを息吹くのも、取り去るのも、支配しておられるのは神である、という事を、祭司なら知っているはずだ。
それなのに、それを認めないどころか、せっかく息吹いて下さったいのちを、再び取り去ろうとする。
道理としては全く合っていない事だが、しかし自分の事で頭がいっぱいな人は、そのような霊的・社会的道理が分からないものである。
このように、イエス様を十字架につけて殺したい、その恩恵を受けた人さえも殺したい、と願い者も出てくる。
殺すことは、サタンの熱情であり、生かすことは、イエス様の熱情である。

12:2 イエスのためにそこで夕食の用意がされ、マルタは給仕をしていた。イエスと一緒に食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。
12:3 その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった。
マリヤは、自分の持っている最高のものを、イエス様に捧げたいと願う心があった。
とても高価なナルドの香油である。イスカリオテのユダはそれを300デナリ、300日分の労働賃金相当と値積もりした。
それほどの高価な香油を、惜しみなくイエス様の足に注ぎ、それを髪でぬぐった。
髪は、女の冠である。まさに全てを注ぎ、冠を捧げる礼拝である。
しかしそれをけちつける者がいた。

12:4 弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った、
12:5 「なぜこの香油を三百デナリに売って、貧しい人たちに、施さなかったのか」。
12:6 彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
ユダは、言葉とは裏腹の心をもっていた。彼はマリヤが捧げた香油を、捧げものとして見ず、一部を自分の懐に入るべき300デナリのお金、として見ていた。
全ての人の心を見透かしておられるイエス様は、この場面をどう対応したか。

12:7 イエスは言われた、「この女のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それをとっておいたのだから。
12:8 貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいるが、わたしはいつも共にいるわけではない」。

イエス様は、マリヤが「わたしの葬りの日のために、それをとっておいた」という事を、知っておられた。
つまりイエス様は、マリヤの心も、ユダの心も、私達の心も全部、ご存知である、という事である。
奉仕や礼拝する心の動機も、感情の動きも、また、そのためにどれほどの期間準備し、どれほどの志を持っていたのかも。
イエス様はマリヤがずっと前から、イエス様の葬りのために、ナルドを買い、とっておき、そしてこの葬りが間近なタイミングをも計って、この時に香油の壺を割ってイエス様に捧げ尽くした、という、その全ての「冠を捧げる礼拝」を、見ておられたのだ。

もしこの時、イエス様がユダのあさましい志を怒り、指摘してしまっていたら、その香り高い礼拝が台無しになってしまっていただろう。
イエス様は、マリヤが何日も前から尊い心を持って備えた礼拝を、そのように汚す事なく、そして、ユダの志を公に明かす事なく、ただ、マリヤがどんなに準備し、どんな志をもって備えたのか、それを公にし、それを、永遠の記念とした。
なんと美しい対応だろうか。
イエス様はユダに対しても、あの裏切りのくちづけをした時まで、ユダに「友よ」と呼びかけ、滅びに走ってほしくない、立ち返って救いを得なさい、という愛の姿勢を貫かれた。

イエス様は、ユダのあさましい志を一切おおっぴらにはしなかった。その代わり、マリヤの隠れた高貴な礼拝の志を明らかにされた。
なんと、私達のような人間と違う、高貴な性質だろう。
人は、人のあさましい志にフォーカスし、スキャンダラスに報じたいと願い、また、そのような事を見聞きしたと願う心があるからこそ、全ての国にそのようなニュースを売るビジネスが成り立っているのだ。

十字架を前に、イエス様はますます高貴なお方である事が明かされ、そして人の愚かさが、また、礼拝者の志が明らかにされていく。

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