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メッセージ - 定期祈祷会メッセージカテゴリのエントリ

聖霊に息吹かれた初代教会の有様(使徒2:37-42)
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使徒2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
2:38 すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。
2:39 この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。
2:40 ペテロは、ほかになお多くの言葉であかしをなし、人々に「この曲った時代から救われよ」と言って勧めた。
2:41 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。
2:42 そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。

マルコ4:14 種まきは御言をまくのである。

1コリント5:6 あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

使徒4:23 ふたりはゆるされてから、仲間の者たちのところに帰って、祭司長たちや長老たちが言ったいっさいのことを報告した。
4:24 一同はこれを聞くと、口をそろえて、神にむかい声をあげて言った、「天と地と海と、その中のすべてのものとの造りぬしなる主よ。
4:25 あなたは、わたしたちの先祖、あなたの僕ダビデの口をとおして、聖霊によって、こう仰せになりました、/『なぜ、異邦人らは、騒ぎ立ち、/もろもろの民は、むなしいことを図り、
4:26 地上の王たちは、立ちかまえ、/支配者たちは、党を組んで、/主とそのキリストとに逆らったのか』。
4:27 まことに、ヘロデとポンテオ・ピラトとは、異邦人らやイスラエルの民と一緒になって、この都に集まり、あなたから油を注がれた聖なる僕イエスに逆らい、
4:28 み手とみ旨とによって、あらかじめ定められていたことを、なし遂げたのです。
4:29 主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。
4:30 そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。
4:31 彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされて、大胆に神の言を語り出した。

エペソ6:17 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。

邪悪な時代の中に輝く、尊厳ある(ハイルな)男と女(ルツ4:1-8)
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ルツ記3章は、いわばルツの「婚活」の場面であるが、その「婚活」は、現代の婚活とは、全く逆のアプローチである。
現代の婚活は、いかに自分が提示する条件に合った、自分好みの相手を見つけ、折り合いをつけ、あるいは妥協しつつ結婚するか、という、いわば自分主体の活動であるが、このルツとボアズという栄光の家系の婚活は、全くその逆で、自分好み・自分主体は一切なく、信仰の先輩のアドバイス主体、そして、御言葉主体である。

ルツは自分の好む事を退け、御言葉に適った相手であるボアズへ求婚したゆえに、ボアズから「しっかりした女(エシェット・ハイル:尊厳ある女 箴言31:10、12:4)」と言われる栄誉を受けた。
ボアズもまた、御言葉主体に歩んだゆえ、尊厳ある有力な男(イシュ・ギボル・ハイル:ルツ記2:1)として、当時、名を馳せた。

邪悪な価値観がはびこる士師記の時勢において、しっかりした信仰を育み、ダビデへと、そしてキリストへとつなぐ栄光の家系の基を築いた「エシェットな(尊厳ある)」男女、ボアズ・ルツのあり方を学びたい。

4:1 ボアズは町の門のところへ上っていって、そこにすわった。すると、さきにボアズが言った親戚の人が通り過ぎようとしたので、ボアズはその人に言った、「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください」。彼はきてすわった。

ボアズはルツの願いを叶える手続きをするために、町の門の所へ行った。
当時、町の門の所は、重要な取引や裁判などが行われる場所である。

日本語の聖書では「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください」と訳されているが、原文は、「そこの君、こちらに来て、そこに座りなさい」というように、目上の人が目下の人に指示するような感じである。
だから、ボアズはその親戚より目上で、しかも彼は町の長老10人を呼んで座らせる程の有力者だった事が伺える。

4:2 ボアズはまた町の長老十人を招いて言った、「ここにおすわりください」。彼らがすわった時、
4:3 ボアズは親戚の人に言った、「モアブの地から帰ってきたナオミは、われわれの親族エリメレクの地所を売ろうとしています。

ボアズは人々の前で、堂々と手順を踏んだ。
有力者たる人のたしなみは、正当な手順を踏みつつ、人々の前で堂々と物事を行う人である。

物事には、手順がある。集団で物事を行う手順、契約を結ぶ手順、男女関係における手順など。
そうした手順を、正当に踏んで行うなら、誰にも非難されるところは無く、人々から祝福を受けつつ人生を送るのだが、為すべき手順を面倒くさがったり、ないがしろにするような人は、いつまでも人から認められなかったり、重要な事が任せられなかったりする。

4:4 それでわたしはそのことをあなたに知らせて、ここにすわっている人々と、民の長老たちの前で、それを買いなさいと、あなたに言おうと思いました。もし、あなたが、それをあがなおうと思われるならば、あがなってください。しかし、あなたがそれをあがなわないならば、わたしにそう言って知らせてください。それをあがなう人は、あなたのほかにはなく、わたしはあなたの次ですから」。彼は言った、「わたしがあがないましょう」。

もし、このボアズよりも買い戻しの責任が重い親類、名前が無いので仮にAさんとすると、このAさんの存在をルツはもともと知らず、またAさんもルツを知らなかっただろう。
もし彼が買い戻すとなると、ルツ・ボアズ・ナオミが願っていた結果とは、かなり違ってしまう。
しかしボアズは、淡々と律法の決まり事を、そのとおり言う。

4:5 そこでボアズは言った、「あなたがナオミの手からその地所を買う時には、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買って、死んだ者の名を起してその嗣業を伝えなければなりません」。
4:6 その親戚の人は言った、「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます。あなたがわたしに代って、自分であがなってください。わたしはあがなうことができませんから」。

その人は、ルツをも買い戻さなくてはならない、と聞いた途端、及び腰になった。なぜなら、「そんなことをすれば自分の嗣業(相続地)をそこない」かねないからである。
買戻しの話とは、買戻す側にとっては、デメリットしか無いような話である。
なぜなら、落ちぶれてしまった親類の畑を買い戻す時、その畑は自分のものとはならないし、死んでしまった人の妻をめとって、その最初に生まれた男子に死んでしまった親類の名を継がせ、さらに、その買い戻した畑は、買い戻した人のものにはならずに、その子のものとなる。
そして、もし、男子が一人しか生まれないとするなら、Aさんが心配する通り、自分の相続地をそこなう事になりかねないのだ。
それで彼は、「わたしはあがなうことができませんから」と言ったのだ。

神の民の間において、すなわち、現代の私達・教会の中において、絶えてしまいそうな兄弟姉妹を支えるのは、栄誉ある働きである。
しかし、支えるためには力量や富、そして、精神的ゆとりが必要である。
それが無い人が、心に憂いを覚えつつ、やせ我慢して、本当はしたくないのだけれども、心に鞭打って、助けのわざをしようとするのは、健全ではない。
このAさんのように、より助ける力のある人へとゆずるのが、全ての人にとって、良いのである。

4:7 むかしイスラエルでは、物をあがなう事と、権利の譲渡について、万事を決定する時のならわしはこうであった。すなわち、その人は、自分のくつを脱いで、相手の人に渡した。これがイスラエルでの証明の方法であった。
4:8 そこで親戚の人がボアズにむかい「あなたが自分であがないなさい」と言って、そのくつを脱いだので、

足のくつを脱いで、相手に渡す。それは、自分が足の下に置く権利を相手に明け渡す象徴的な行為である。
Aさんは、それをボアズへと渡した。
こうして、当初の彼らの願いどおりの事が、公の門前で、成就した。

イエス様こそ、私達を真に買い戻す力のある御方である。
人間の男性は、せっかく家を支えようとして、愛をもって、家族のために心身を捧げる素晴らしい夫であるとしても、弱さや病、死によって、完全に支えきれない事がつきものである。
しかし、イエス様は、死がなく、罪もなく、完全に私達を支えて下さる、まことの大祭司である。

ヘブル7:22 このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。
7:23 かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。
7:24 しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。
7:25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。
7:26 このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。
7:27 彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。
7:28 律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。

私達はたとえ不完全な人間であったとしても、このボアズとルツのように、邪悪な時代の中にあっても尊厳ある(ハイルな)男、女となる事を目指し、キリストにあって家を建て、仕事を建て、この闇の時代において有力者となって行くものでありたい。

聖霊の力:罪について、義について、さばきについてその過ちを認めさせる(ヨハネ16:7-11)
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私達を助けてくださる「助け主」聖霊は、いかにして与えられ、いかなる助けをして下さるのか。

ヨハネ16:7 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
16:8 それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。

聖霊が来る時、その人に罪について、義について、さばきについて、その三方面から、その過ちを認めさせる。
つまり、聖霊が無い人は、罪の自覚も知らず、義のあこがれも無く、地獄のさばきの恐ろしさも無いのだ。

イエス様はこれら3つについて、一つ一つ説明しておられる。

ヨハネ16:9 罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。

罪の本質、それは、イエス・キリストを信じない事である。
人は、罪有る、滅びるべき存在であるが、イエス様はそこから贖い救って下さるお方だ。

ヨハネ8:23 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは下から出た者だが、わたしは上からきた者である。あなたがたはこの世の者であるが、わたしはこの世の者ではない。
8:24 だからわたしは、あなたがたは自分の罪のうちに死ぬであろうと、言ったのである。もしわたしがそういう者であることをあなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになるからである」。

なぜイエス様を信じない事が、罪になるのか。
それは、罪の対極である義についての説明を見ればわかる。

ヨハネ16:10 義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。

イエス様が御父の元に行き、イエス様をもはや地上において見なくなる。なぜそれが「義」なのか。

ヘブル10:10 この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。
 10:11 こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。
 10:12 しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、
 10:13 それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。
 10:14 彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。

キリストはただ一度、御父にいけにえとして捧げられた。
全焼のいけにえは、その全身を焼き尽くして地上には何も残らず、その煙が香ばしいかおりとなって御父の元に立ち上って行くが、同じようにキリストはただ一度、御父の元に香ばしいかおりとなって昇られた。
それによって御父はなだめられ、そして今、御父の元で私達の事をとりなしておられる。
だから、イエス様が御父の元に行って、イエス様がもはや地上において見えなくなる事が、「義」とされる事なのだ。

ヨハネ16:11 さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。

さばきの本質、それは、この世を支配する者が、さばかれる事である。
この世を支配する者・サタンは、昔、エデンの園において人を支配し、神の言葉の支配から人々を奪って、サタンの罪の力・死の力によって、全ての人はサタンの支配下に入ってしまった。

ルカ 4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて
 4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
 4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
 4:8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

私達もイエス様にならい、御言葉を受け入れ、イエス様の支配下に入って行くなら、私達もイエス様とともに、サタンを踏み砕く側に入るのである。

創世記 3:14 主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。
 3:15 わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。

助け主・聖霊が降るなら、罪について、義について、さばきについて、知らされる。
私達は行く先々で、人々の心を刺し、罪と死とサタンの支配から脱却させ、キリストへと導くために、聖霊に満たされて出ていく必要があるのだ。

説教において必要なもの:聖霊の促しと、御言葉と、イエスのあかし(使徒2:14-36)
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弟子達は「異なる舌(ヘテロス・グロッサ)」が与えられ、口が全く変わってしまった。
彼らは確かに、他国人にも分かる言葉が与えられたが、彼らの言葉を聞いた、複数の言語を話す人達が一様にその言葉を聞いた時の感想は、彼らは「神の大きなみわざを語った」という事だった。
弟子達120名が、それぞれ別の言葉で話したのに、一致している事は、神の大きなみわざを語った事である。
これらの事は、人間技では有り得ない。
しかし、そのようなしるしが見せられても、自分になっとくの行く説明を自分でつけようとして、しかも、けちをつける者も出てくる。

使徒2:13  しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。

そこでペテロは、十一人の者と共に、聖霊に「押し出され(ヒステミー)」、駆り立てられて、語り出す。
聖霊のわざは、いかんともしがたい衝動に駆られて語り、また行動するものだが、聖霊に押し出された言葉には、必ず、イエス・キリストの証があり、イエス・キリストを栄光化する言葉であう。
またそのわざには、必ず、イエス・キリストのご性質が現れる。
次のように書かれてあるからである。

ヨハネ16:13  けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
Joh 16:14  御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
Joh 16:15  父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。

1ヨハネ4:1  愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。
1Jn 4:2  あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、
1Jn 4:3  イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。

ペテロは言った。
使徒2:15 今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。

そもそも、起こった出来事を見れば酒を飲んでではない事は明らかである。
彼らは風の大音響のために集まったのだし、色々な国の言葉を一瞬で身に付ける事も出来ないし、神様のおおいなるみわざは酔っ払って話せる事ではない。

ペテロはこの大きな奇跡よりも、むしろ、ナザレ人イエスというお方について、時間を割いて丁寧にメッセージし出す。
聖霊の特徴、それは、イエスのあかしである。
ペテロは、ヨエル書の言葉を引用し、この出来事は預言の成就であると宣言する。(16-21節)
それに続き、ペテロは、ナザレ人イエス・キリストについての説教に入る。
教会の説教には必ず、御言葉の引用とイエスのあかしが必要だが、その力の根源は、聖霊が促すものである。

2:22 イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざ(デュナミス)と奇跡(テラス)としるし(セメイオン)とにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。

ペテロが語っている相手の人達は、祭りに集っていた人達である。
彼らが前回エルサレムに来た時は、過越祭であり、ちょうどその最中にイエス様は十字架につけられたので、彼らは、イエス様見ていたのだ。
イエス様は、数々の力あるわざ(デュナミス)と奇跡(テラス)としるし(セメイオン)、これら三つを通し、神から遣わされたお方である事を、示された。

2:23 このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。
2:24 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。

そのイエス様を、あなた方が、十字架につけたのだとペテロは歯に衣着せずに宣言し、そして、その復活された事を宣言する。

2:25 ダビデはイエスについてこう言っている、/『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、/わたしの右にいて下さるからである。
2:26 それゆえ、わたしの心は楽しみ、/わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、/あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない/であろう。
2:28 あなたは、いのちの道をわたしに示し、/み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであ/ろう』。
2:29 兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。
2:30 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、
2:31 キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。

すなわち、ダビデが言っていた「あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、/あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない/であろう。」という言葉は、ダビデ自身がダビデの事を語ったのではない、事実彼は死んだ、だからこの事は、ダビデが「主」と告白したお方、すなわち、イエス様の事を語ったのだ、と論破したのだ。

2:32 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。
2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。

ペテロは「あなたがたが現に見聞きしているとおり」と言った。
現に見ている出来事なのだから、彼らには弁解の余地は無い。
ヨエル書からこの出来事の説明がつき、ダビデの詩編から主キリストの復活を論破し、そして目の前に起きたこのしるし、それらをつきつけて、そしてダメ押しをする。

2:36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。

あなた方が、十字架につけた。
確かに、これを聞いていた群衆の中には、イエス様を十字架につけろと叫んだ人達もいただろう。
しかし実は、21世紀を生きる「わたしたち」も、イエス様を十字架につけたのだ。
私達人間には全て罪があり、そして彼は、私達の罪のゆえに刺し通されたからだ。(イザヤ53章)

2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。

聖霊に押し出された人のメッセージは、人の心を刺す。
そして悔い改めへと導く。

伝道とは、メッセージとは、人が良く考えだして語るものにあらず、聖霊に押し出されて語るからこそ、力があり、人をゆり動かし、心を刺し、そして造り変えるパワー(デュナミス)があるのだ。
私達も、主の働きのために、聖霊を求めるべきである。

聖霊に満たされた人の特徴:ことばが清い(使徒2:1-14)
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昨日のペンテコステ礼拝に続き、聖霊の働きについて、今回は特に、その聖霊の特徴である「舌」「ことば」がきよく変えられる事について、見ていきたい。

使徒2:1 五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
2:3 また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

「他国の言葉」はヘテロス・グロッサ、すなわち原意は「異なる舌」である。
炎のような舌でもって言葉が造り変えられる。彼らは、どのような言葉を語ったのか。

2:5 さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、
2:6 この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。
2:7 そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。
2:8 それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。

彼らはなんと、諸々の言語の言葉を、明瞭に、意味が伝わるように、語りだした。
その語った内容は、何だったか。

2:9 わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、
2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、
2:11 ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。

彼らは、色々な国語で、「神の大きな働き」を述べたのだ。
聖霊充満の人の特徴は、神の大きな働きを伝える事、そしてその大きな目的は、イエス様があらかじめ約束された通り「イエス・キリストの証人となる」事である。

それにしてもどうして、世界中に言語がこうも沢山あるのだろう。
それは、バベルの塔の事件ゆえだ。

創世記11:1 全地は同じ発音、同じ言葉であった。
11:2 時に人々は東に移り、シナルの地に平野を得て、そこに住んだ。
11:3 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
11:4 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

この町の王は、ニムロデである。彼は主に敵対して逆らう者だった。
創世記10:8 クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。
10:9 彼は主の「前に(before, against)」力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。

人々の上に君臨し、高くなろうとする性質、それはサタンの性質そのものである。(イザヤ14:12-15)
このように、ニムロデが君臨し、多くの人々を従えて神に敵対する者だったため、主が特別に手を下された。

創世記11:5 時に主は下って、人の子たちの建てる町と塔とを見て、
11:6 言われた、「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。
11:7 さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。
11:8 こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
11:9 これによってその町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を乱されたからである。主はそこから彼らを全地のおもてに散らされた。

主は「われわれ」と言われた。
つまり、父・子・御霊なる神が、一致して人に敵対し、人の言葉を混乱させ、高ぶって神に敵対できなくさせたのである。

そして時いたり、神はアブラハムを召して一つの民族とし、そうして起こしたイスラエル民族に、あのペンテコステと同じ日、シナイ山においてトーラーを、神の御言葉を授けられた。
それにより、人には神のことば・神の基準には、決して従えないような「罪」がある事が分かり、そうして、救われるお方を求めるようになる。

そして時至って、「ことば」なるお方・キリストが、人となって世に降りて来られた。
そして、このお方を信じ、そのの血によって贖われた人々は、あの聖霊降臨日、炎の分かれた舌に息吹かれ、舌が変えられ、国々の言葉の壁を超えて神の栄光を語り告げるようになったのだ。

使徒2:14 そこで、ペテロが十一人の者と共に立ちあがり、声をあげて人々に語りかけた。「ユダヤの人たち、ならびにエルサレムに住むすべてのかたがた、どうか、この事を知っていただきたい。わたしの言うことに耳を傾けていただきたい。

ペテロは十一人の者と共に「立ちあがり」と書いてあるが、ここはヒステミー(押し出す)の受動態が使われているので、「押し出された」「立ち上がらされた」である。
聖霊は、人を駆り立て、押し出す。
聖霊に押し出された主の働き人は、無理やり、嫌々ながら、するのではない。
押し出されて、せざるを得ないのである。

ペテロはペンテコステ以前は、くちびるが回って過ちを犯す人だった。
変貌山においても、あの、鶏が啼いた晩においても。
しかし彼のくちびるは、変えられた。ちょうどイザヤがそうだったように。

イザヤ6:5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。
6:6 この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、わたしのところに飛んできて、
6:7 わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。
6:8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

イザヤは祭壇の炭火で、くちびるが清められた。
そして、御言葉を伝えるに値する者となり、主から使わされた。
あの、かつてはくちびるが回って過ちを犯してしまっていたペテロも、聖なる炎でくちびるが清められた。その日、彼は押し出されて説教し、その結果、3000人もの人が救われた。

聖霊によって、くちびるが清められないなら、大いに用いられる事はない。
有名人になればなる程、くちびるに気をつけなくてはならないように。

主はこの時代、くちびるがきよい、用いられるべき器が、少ない、と嘆いておられるのではなかろうか。
だから私達は、用いられるように、と祈るよりも前に、まず、自分の口が人を傷つけたり行ってはならない言葉を滑らしたり、という口が、聖なる火で焼かれ、イザヤのように、ペテロのように清められるよう、祈り求めるべきだ。

買い戻しの権利のあるお方(ゴエル)の衣の内に入って行け(ルツ記3:6-11)
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ルツ記3:6 こうして彼女は打ち場に下り、すべてしゅうとめが命じたとおりにした。
3:7 ボアズは飲み食いして、心をたのしませたあとで、麦を積んである場所のかたわらへ行って寝た。そこで彼女はひそかに行き、ボアズの足の所をまくって、そこに寝た。
3:8 夜中になって、その人は驚き、起きかえって見ると、ひとりの女が足のところに寝ていたので、
3:9 「あなたはだれですか」と言うと、彼女は答えた、「わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは最も近い親戚です」。
3:10 ボアズは言った、「娘よ、どうぞ、主があなたを祝福されるように。あなたは貧富にかかわらず若い人に従い行くことはせず、あなたが最後に示したこの親切は、さきに示した親切にまさっています。
3:11 それで、娘よ、あなたは恐れるにおよびません。あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう。わたしの町の人々は皆、あなたがりっぱな女であることを知っているからです。

ルカ10:39 この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。

ヨハネ15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。

イザヤ41:10 恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。
41:11 見よ、あなたにむかって怒る者はみな、はじて、あわてふためき、あなたと争う者は滅びて無に帰する。
41:12 あなたは、あなたと争う者を尋ねても見いださず、あなたと戦う者は全く消えうせる。
41:13 あなたの神、主なるわたしは/あなたの右の手をとってあなたに言う、「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。
41:14 主は言われる、「虫にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。

ヘブル4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

大祭司のしるし - 人には模造すら出来ない死からの復活(民数記17:1-10)
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主日のメッセージにおいて、契約の箱(アーク)の中には十戒の石版、マナの入った壺、アロンの杖の3つが入っていた事を学んだが、今回はアロンの杖がどのようにして成り立ったのかを見、祭司のしるしとは何かを見ていきたい。

まず、アロンの杖がどうしてしるしとして必要となったのか、前の章を見る必要がある。
16章ではコラの起こした事件が記されている。コラは人々を扇動し、モーセとアロンが人々の上に立って特別な地位にある事に不満を持ち、有力者250人と共にモーセ達に逆らった。
あなた方だけが特別に立っているのはおかしい、神は主の民全てを聖なる者としたではないか、と、権威に挑戦したのだが、神がそんな彼らに返したのは、誰が見ても恐ろしい、はっきりとしたさばきであった。
地面がぱっくりと口を空け、コラも、その天幕もろとも、地面へと飲み込まれて行ったのだ。
そして一緒に逆らった250人は、主の元から火が来て、彼らは焼きつくされたのだ。
それでも人々は、モーセとアロンに不平不満をぶちまけた故に、その時の神罰では、一万四千七百人が死んだ。

こうして、主が立てた権威に逆らう事がいかに恐ろしいかが示されたのだが、主は、もはやこのような事が無いように、と、アロンが大祭司であると誰もが文句言えないような「しるし」を与えられる。それが、17章である。

民数記17:1 主はモーセに言われた、
17:2 「イスラエルの人々に告げて、彼らのうちから、おのおのの父祖の家にしたがって、つえ一本ずつを取りなさい。すなわち、そのすべてのつかさたちから、父祖の家にしたがって、つえ十二本を取り、その人々の名を、おのおのそのつえに書きしるし、
17:3 レビのつえにはアロンの名を書きしるしなさい。父祖の家のかしらは、おのおののつえ一本を出すのだからである。
17:4 そして、これらのつえを、わたしがあなたがたに会う会見の幕屋の中の、あかしの箱の前に置きなさい。
17:5 わたしの選んだ人のつえには、芽が出るであろう。こうして、わたしはイスラエルの人々が、あなたがたにむかって、つぶやくのをやめさせるであろう」。

杖は、生物的な木としては死んだ物である。それが生き返る。
この、「死からの復活」を「しるし」とし、アロンこそ、神が直接任命した大祭司である事を人々に示すのだ。
死からの復活こそ、まさしく、「神がした」という権威のしるしである。

17:6 モーセが、このようにイスラエルの人々に語ったので、つかさたちはみな、その父祖の家にしたがって、おのおの、つえ一本ずつを彼に渡した。そのつえは合わせて十二本。アロンのつえも、そのつえのうちにあった。
17:7 モーセは、それらのつえを、あかしの幕屋の中の、主の前に置いた。
17:8 その翌日、モーセが、あかしの幕屋にはいって見ると、レビの家のために出したアロンのつえは芽をふき、つぼみを出し、花が咲いて、あめんどうの実を結んでいた。

果たして、モーセとアロンが一晩掛けて、精巧に、本物のアーモンドそっくりの模造品をこしらえたのだろうか?
偽の命は、すぐにばれてしまう。生命の模造は、現代の技術をもってしても、出来ない。
人は、いのちを造り出す事はできないし、模造すらも出来ないのだから、まして人は、死んだいのちをよみがえらせる事など、できないのだ。
古くから人類はそれを願い、研究し、努力して来たが、未だにそれには至っていない。

いのち。
それは、まごうことなき神の作品であり、死からの復活こそ、神の認証のあかしである。

神が最も顕著に示した「死と復活のしるし」は、イエス・キリストの十字架である。
彼は、十字架という木の死から復活した。
そういう訳で、彼キリストこそ、まごう事なきまことの大祭司であると、神は示された。
そのしるしを見せられても、なお否定する者には、弁解の余地なくさばきが待っている。
ちょうど荒野の民が、この17章のしるしを見てもなお逆らい、逆らった者達が、ことごとく倒れていったように。

アーモンドはヘブライ語でシャケィド、「見張る(シャケァド)」と同じ子音である。
エレミヤ書においても、主は、預言者エレミヤに「アーモンドの杖(マケル・シャケィド)」を幻で見せた。

エレミヤ1:11  主の言葉がまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「あめんどうの枝(マケル・シャケィド:アーモンドの杖)を見ます」。
1:12  主はわたしに言われた、「あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張っている(シャケァド)のだ」。

主は、アーモンドであるアロンの杖を通して、示しておられる。
主は私達を見張っておられ、そして、主ご自身が、御言葉を行おうと、見張っておられるという事を。
主の御言葉の成就は、イエス・キリストの十字架と復活を通して行われた。
そして、この死と復活の木、十字架を仰ぎ見、彼こそまことの大祭司とする者は全て、キリストが復活したように復活し、それでも彼を否む者は、荒野の民のように滅んで行くのだ。

父・子・御霊なる神が3方向から私達を愛で取り囲み守っておられ、トーブ(善)へと導いて下さる(ローマ8:26-39)
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御父は、私達のために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡されたほど、私達を愛してくださった。
8:32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。

御子キリストは、私達の代わりに死んで身代わりの犠牲になって下さる程に私達を愛し、よみがえり、神の右の座に着き、私達のためにとりなしていてくださる。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。

御霊は弱い私達を助け、言いようのない深いうめきによって私達のためにとりなして下さる。
8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

このように、父、子、聖霊なる神が、3方向から私たちを愛の囲いで取り囲み、執り成し守っていて下さる。

そういう訳で、世のいかなる者が私達に敵対し、悪を企んでも、主はそれを益(アガトン:善=トーブ)へと創り変えて下さるのである。
8:28 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益(アガトン)となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
8:29 神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。

ヨセフの兄たちはヨセフに悪を企んで奴隷として売り飛ばそうとしたが、神はその絶対的な悪を、ヤコブ家族70人を救うための善に変えてくださった。
彼は正直で、柔和で、怒らず、つぶやかず、何事も神を第一にし、自分を低くする性質だったので、神に愛され、どんな人がどんな不当に扱おうと、彼は神の特別扱いを受け、結局彼がする事は全て祝福された。

『あなた方はわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを「良きに変らせて(ハシャバ・レトバー)」、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。』(創世記50:20)
ここが創世記の結論であり、全歴史の結論である。
ここのハシャブは「織り込む、染み込む」の意味で、トーブは「良し」という意味である。たとえ何者かが私達の人生に悪を企み、罪の奴隷や絶望の牢へ投げ込もうとも、神のトーブがそこに織り込まれ染み込まれる。
ヨセフの兄達が弟ヨセフを奴隷に売った事は、ひどい悪である。しかし神はその悪を用い、売った兄や、父さえエジプトのゴシェンの地で養い、一つの国家へと仕立てて行くという、絶大なトーブに変えてくださった。
神の名は「有りて在る」であり、創造の6日に6回トーブを宣言された方だ。いかにサタンの企みにより、奴隷にさせられても、そこにトーブを「在らせ」、織り込ませ、癒やし、忘れさせ、引き上げ、栄えさせて下さる。

そうであるからには、世の何者が私達に敵対できるだろうか。
世の何者も、この愛から引き離す者は、無い。

8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

太陽と月が一日停止したきっかけ(ヨシュア記10:1-15)
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主の働き人に貧しい思いをさせず豊かに養って下さる主(2列王記4章)
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主は、主の働き人を決して貧しい思いのままにされないお方である。
第二列王記4章は、まことに主の働き人に対する保障がどのようなものであるのかという事例に満ちている。

4:1 預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。

彼女の夫は、負債を負ってでも主の預言者につかえていたが、そんな彼が死んでしまった。
残された彼女と子供達は、奴隷に売られる他は無いような状況であるが、しかし彼女は預言者の所にその問題を持って行った。
主は、主を恐れる人を、その家族をも養って下さる。
エリシャの言葉どおりにしたら、唯一の財産であった油が、多く満たされた。

4:7 そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。

神の必要の満たしは、ちょびちょびではない。たっぷり、である。
ただし、それには私達の側の器次第である。
彼女は望みをもって、たくさん、器を借りたからこそ、たくさん、得た。

8節から17節には、主の預言者に良くしてあげた不妊の女性に、子供が与えられる奇跡が記されているが、しかしその子が死んでしまった。
せっかく子供が生まれ、まだ小さく、かわいいさかりなのに死んでしまう。母親としては悲しみの極みである。なんで、この子は生まれ、そして死ななくてはならなかったのか、と。

 4:21 母は上がっていって、これを神の人の寝台の上に置き、戸を閉じて出てきた。
 4:22 そして夫を呼んで言った、「どうぞ、しもべひとりと、ろば一頭をわたしにかしてください。急いで神の人の所へ行って、また帰ってきます」。
 4:23 夫は言った、「どうしてきょう彼の所へ行こうとするのか。きょうは、ついたちでもなく、安息日でもない」。彼女は言った、「よろしいのです」。 4:24 そして彼女はろばにくらを置いて、しもべに言った、「速く駆けさせなさい。わたしが命じる時でなければ、歩調をゆるめてはなりません」。

子どもの父親すなわち彼女の夫は、神の人の所に会いに行くのは、ただ安息日や礼拝の日だけだ、と思っていたようだ。しかも、子供に何か良からぬ事があったのか、という察知する心遣いもないようである。

たとえ死んだという事を知らなかったにしても、子どもはあんなに頭が痛かったのだから、神の人のところに癒やしてもらいに行くのだろうか、という発想も沸かない不信仰な彼とは一切会話はせず、議論する事もなく、急いで神の人エリシャの所に向かう。
彼女は一切の事を秘め、ただ直接、エリシャの所に行って、この事を解決してもらおうと思っていた。
4:32 エリシャが家にはいって見ると、子供は死んで、寝台の上に横たわっていたので、
 4:33 彼ははいって戸を閉じ、彼らふたりだけ内にいて主に祈った。
 4:34 そしてエリシャが上がって子供の上に伏し、自分の口を子供の口の上に、自分の目を子供の目の上に、自分の両手を子供の両手の上にあて、その身を子供の上に伸ばしたとき、子供のからだは暖かになった。

エリシャ、ずいぶん大胆な行動に出たものだ。
律法では、死体に触れる事は、汚れを受ける事であり、1週間がかりできよめの儀式を行わなければ、きよめられないという、やっかいな事だった。
それでもエリシャは、ここまでした。エリシャに相当の覚悟がなければできない事だ。
まさに「祈りと断食」である。

4:35 こうしてエリシャは再び起きあがって、家の中をあちらこちらと歩み、また上がって、その身を子供の上に伸ばすと、子供は七たびくしゃみをして目を開いた。

死んでいた子どもが、生き返った。これは、当時の周囲の人々にインパクトを与える事だろう。

4:36 エリシャはただちにゲハジを呼んで、「あのシュネムの女を呼べ」と言ったので、彼女を呼んだ。彼女がはいってくるとエリシャは言った、「あなたの子供をつれて行きなさい」。
 4:37 彼女ははいってきて、エリシャの足もとに伏し、地に身をかがめた。そしてその子供を取りあげて出ていった。
彼女はこのように良くしていただいた。

彼女は、旅人をもてなし預言者に良くする信仰があったから、そして、問題が起きたら誰よりも何よりも、主の預言者に持っていく信仰があったから、このような幸いを受け、また彼女はその後にもこの事ゆえに幸いを得る。

4:38 エリシャはギルガルに帰ったが、その地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前に座していたので、エリシャはそのしもべに言った、「大きなかまをすえて、預言者のともがらのために野菜の煮物をつくりなさい」。
 4:39 彼らのうちのひとりが畑に出ていって青物をつんだが、つる草のあるのを見て、その野うりを一包つんできて、煮物のかまの中に切り込んだ。彼らはそれが何であるかを知らなかったからである。
 4:40 やがてこれを盛って人々に食べさせようとしたが、彼らがその煮物を食べようとした時、叫んで、「ああ神の人よ、かまの中に、たべると死ぬものがはいっています」と言って、食べることができなかったので、
 4:41 エリシャは「それでは粉を持って来なさい」と言って、それをかまに投げ入れ、「盛って人々に食べさせなさい」と言った。かまの中には、なんの毒物もなくなった。

ききんの時である。食料がとても貴重な時であるが、この時、一人の預言者が、その貴重な食料の入ったなべに無知のゆえに毒を入れてしまい、人々の口に持って行かせてしまった。
主に在る兄弟姉妹の口に入るものを作る時にはよくよく注意すべきではあるが、彼は無知であった。
これがもとでその集会の全員が死んでしまう危機であったが、主を信じる人、神の国の働き人には、毒を受けても害を受けないという保証が与えられている。(マルコ16:17)

彼は、無知であったかもしれない。主の働き人一同をあわや全滅させて下さるという、大きなミスを犯したかもしれないが、しかし主はききんの時代でも、働き人のミスを覆ってあまりある事をして下さるお方である。

4:42 その時、バアル・シャリシャから人がきて、初穂のパンと、大麦のパン二十個と、新穀一袋とを神の人のもとに持ってきたので、エリシャは「人々に与えて食べさせなさい」と言ったが、
 4:43 その召使は言った、「どうしてこれを百人の前に供えるのですか」。しかし彼は言った、「人々に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、『彼らは食べてなお余すであろう』」。
 4:44 そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった。

これもイエス様の奇跡を思い起こさせる。
イエス様はわずか5つのパンを2引きの魚で、5000人をも養った。そのイエス様の奇跡が与えられるのは、イエス様に望みを追って集まった群衆である。
イエス様は、憐れまれる。無計画にではあってもイエス様を慕って集う人々に対し。
そして、彼らの”無計画”ゆえに手持ちの食料も持ってこなかったという報いを、そのまま「自己責任だ」などと言う事なく、むしろ、イエス様がみずから彼らを心配してくださり、しっかりと保証を与えられた。

そして、主の保証の仕方は同じである。
主は、主を慕い求める者を満腹させ、道足らせるばかりでなく、主の働き人の分もちゃんとたっぷり整えて下さるのだ。

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