• カテゴリ 定期祈祷会メッセージ の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 定期祈祷会メッセージカテゴリのエントリ

復活の主が現れた最初の主日礼拝(ヨハネ20:1-23)
Youtube動画
メッセージ音声

____________

20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。

週の初めの日、それは日曜日である。
ユダヤ人にとっては、働いていはならない「安息日」が明けた「朝早くまだ暗いうち」であるので、マグダラのマリヤは誰よりも初めに、一番に、イエス様のために動き出した。
しかしそれは、復活の主に真っ先に会うためではなく、真っ先に、イエス様の遺体に防腐措置を施すためであった。

20:2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。
20:4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、
20:5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
20:6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、
20:7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
20:8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。
20:9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。

イエス様の遺体はあいにく、墓には無い。
イエス様があらかじめ言っておられたように、三日目によみがえったからである。
しかし彼女も、弟子達も、この時その事を信じられなかったし、イエス様があらかじめ言っておられた事を思い出しもしなかった。

20:10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、

弟子達はユダヤ人を恐れていたので、すぐに帰って行ったが、マリヤは相変わらず残っていた。
このように、真っ先に(たとえ遺体であろうと)イエス様に会いに行こうとし、またいかに間違えた概念でイエス様を見ていたとしても、それでもイエス様を真っ先に求める魂に、イエス様は現れてくださる。

20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。

彼女は、さっき弟子達が出てきたばかりの、密室であったはずの墓に、突然、白い衣を着た二人の御使が現れるという「非日常」を、全く驚かなかった。
それ程、彼女の心は、悲しみに塞がれていたのであろう。
バラムは、ろばが人間の言葉をしゃべるという「非日常」に全く驚かず普通にろばと会話したが、彼の場合は、金銭欲に眼と心が塞がれていたからだった。
このように、心がある思いで塞がれてしまうと、主が語られた言葉を理解できず、主の現れに気づかず、また、目の前に不思議が起きても全然心が動かされないものだ。
しかし主は、そんな、主を慕い求める「とんちんかん」な魂に、やさしくご自身を示して下さる。

20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。

彼女は、やっとイエス様だと気付いた。そして「ラボニ」(わたしの先生)と言った。
主は、慕い求める魂に、個人的に現れて下さる。公に、一斉に、ではなく、本当に主を慕い求める人に、あるいは慕い求める集団が集まっている所に。
そして彼らは主と出会い、主に対して「わたしの主」「わたしの神」「わたしの先生」と、わたしのものとして主を呼ぶようになるのだ。

20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。

主は、閉ざしている彼らに現れた。
復活のイエス様は、全て、主を慕っている人の中に入って来て「安かれ(エイレーネー:平和, 和合, 安全, 健康, ヘブル語のシャロームに相当)」と言われる。たとえその人が弱く、脅え、出入りを固く閉ざしていても。

シャロームという言葉はユダヤ人の挨拶言葉で、広範な意味があり、祝福の総称とも言える。
シャロームは、平安の意味の挨拶言葉であると、よく知られているが、平和である事、安息である事を願う言葉であり、経済や子宝の繁栄、健やかである事、その他、全ての面で満ち足り、充足し、満足し、知恵に満たされ、あらゆる悪や、災いから救われ、敵や悪に対し勝利する事を、願い求める言葉でもある。

20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

これが、最初の「主日礼拝」である。これ以降、主は、主日(日曜日)に現れ、弟子達も主日を主と出会う日として集うようになっていった。
主日、御言葉なるイエス様が信じる者の口から発せられると、聞く一人ひとりに主は現れ、聖霊の息吹によって息吹かれ、主に遣わされた者として世に出て行き、さらにキリストのいのちを増やして行く者となって行くのである。

一つとなって完全なものとされて行くように(2コリント13:11-13)
Youtube動画
メッセージ音声

____________

パウロはコリントの教会を愛していた故に、コリントへの手紙を二度も書いた。
愛とは優しさだけではなく、時には厳しさも伴う。手紙の中には時には手厳しく戒める場面もあったが、しかし手紙の最後は、結局、愛に満ちた祝祷で終わっている。
紛れも無い愛によって、愛していたからだ。

13:11 最後に、兄弟たちよ。いつも喜びなさい。全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。

「いつも喜んでいなさい。」これはギリシア語流の挨拶言葉ではあるが、それは私達に対する命令でもある。
「全き者となりなさい。互に励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。」
パウロはコリントのみならず、他の教会たちにも同じ事を勧めている。

エペソ4:11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
4:12 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
4:13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。

教会とは一人ではないし、信仰生活も決して一人では有り得ない。
共々がそれぞれに与えられた賜物を用い、互いに励まし合い、勧めあい、そして愛の結びの帯びによって一つとなってこそ、完全なものへと近づいて行くのである。

4:14 こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、
4:15 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。
4:16 また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。

そして、共に一つとなるからには、互いに親密に交わりを持つべきであり、その交わりには、御霊による一致が必要である。

2コリント13:12 きよい接吻をもって互にあいさつをかわしなさい。聖徒たち一同が、あなたがたによろしく。

祝福の挨拶をしあう所には、祝福が豊かにある。
ボアズの家庭と職場は、まさにそうだった。

ルツ2:4 その時ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。

ボアズの時代は士師記の荒んだ時代であり、また彼の母は元々カナンの遊女であったラハブだった。
そのような事情の家庭で、どうして彼は素晴らしい信仰をもった有力者として成長できたのだろうか。
やはり、誰よりも主を愛する愛と、一致と、そして祝福の挨拶に満ちた家庭だったからであろう。
くちびるから祝福の挨拶をし合うこと、すなわち、きよい接吻をもって互いに挨拶をかわす事によって、実際に祝福がその家庭に、また職場に宿るのである。

パウロは最後に祝祷している。

13:13 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。

三位一体の主をパウロは宣言している。
三つにいまし、一つである。その三つの位格の内には愛の交わりがあり、三つでありながら、一つとなる。
それと同じように、キリストにある私達は多数いても、愛の交わりにより、イエスキリストのより、御霊により、この一つの中へと加えられていくのである。

世界を動かすような重要な人々を「あなたに与えた」(使徒27章)
Youtube動画
メッセージ音声

______________

27:1 さて、わたしたちが、舟でイタリヤに行くことが決まった時、パウロとそのほか数人の囚人とは、近衛隊の百卒長ユリアスに託された。
27:2 そしてわたしたちは、アジヤ沿岸の各所に寄港することになっているアドラミテオの舟に乗り込んで、出帆した。テサロニケのマケドニヤ人アリスタルコも同行した。
27:3 次の日、シドンに入港したが、ユリアスは、パウロを親切に取り扱い、友人をおとずれてかんたいを受けることを、許した。

パウロはカイサルに上訴したため、ローマへと連行される途上にあった。
身分は、囚人。
最も蔑まれる立場にあるが、しかしこの章が終わる頃にはその立場は逆転する。

27:4 それからわたしたちは、ここから船出したが、逆風にあったので、クプロの島かげを航行し、
27:5 キリキヤとパンフリヤの沖を過ぎて、ルキヤのミラに入港した。
27:6 そこに、イタリヤ行きのアレキサンドリヤの舟があったので、百卒長は、わたしたちをその舟に乗り込ませた。

このアリキサンドリヤの舟、多くの商品が積まれ、多くの軍人や船乗り、ビジネスマン、社長など、当時の世界を動かすような人々276人が乗っていた。
彼らはこの章で、皆、パウロのものとなる。

27:7 幾日ものあいだ、舟の進みがおそくて、わたしたちは、かろうじてクニドの沖合にきたが、風がわたしたちの行く手をはばむので、サルモネの沖、クレテの島かげを航行し、
27:8 その岸に沿って進み、かろうじて「良き港」と呼ばれる所に着いた。その近くにラサヤの町があった。

舟が遅い、それはビジネスマンからすればイライラするものかもしれない。しかし実は、これを起こされたのは神である。

27:9 長い時が経過し、断食期も過ぎてしまい、すでに航海が危険な季節になったので、パウロは人々に警告して言った、
27:10 「皆さん、わたしの見るところでは、この航海では、積荷や船体ばかりでなく、われわれの生命にも、危害と大きな損失が及ぶであろう」。
27:11 しかし百卒長は、パウロの意見よりも、船長や船主の方を信頼した。

パウロは根拠なく言ったのではない。パウロ自身既に沢山の航海を経験し、冬の地中海がどんなに恐ろしいか知っていたし、何より主からの導きをいつも得ていた。
しかし世の人は、もうかりたいから、さっさと仕事を済ませたいから、あるいは、もっと楽しい港で冬を過ごしたいから、そういった心を多数の人々が持っていたので、パウロの意見はこの時弾かれてしまう。

27:12 なお、この港は冬を過ごすのに適しないので、大多数の者は、ここから出て、できればなんとかして、南西と北西とに面しているクレテのピニクス港に行って、そこで冬を過ごしたいと主張した。
27:13 時に、南風が静かに吹いてきたので、彼らは、この時とばかりにいかりを上げて、クレテの岸に沿って航行した。
27:14 すると間もなく、ユーラクロンと呼ばれる暴風が、島から吹きおろしてきた。

人々は静かな南風を、好機だ、と思って舟を進めたが、しかしそれはすぐに暴風へと変わり、舟はどんどん陸地から離れて行ってしまった。
このユーラクロンという言葉、不思議な言葉である。ギリシア語とラテン語の組み合わせで、元々存在しない言葉である。
歴史で唯一、この場面にしかない風。なぜ著者ルカは存在しない言葉をつくったのか?
理由は、この風は「主であるわたしが起こした」からだ。
主のしもべが行く所、全て、主が太陽を、風を、軍隊を動かし、道は開かれるのだ。
必要であるなら主はいつでも満たす。
主は風の方向を変え、ラテン語とギリシア語を合成し、ギリシア、ラテン系列の人々へとに福音を伝えるために、ユーラクロンを起こしたのだ。

27:18 わたしたちは、暴風にひどく悩まされつづけたので、次の日に、人々は積荷を捨てはじめ、
27:19 三日目には、船具までも、てずから投げすてた。

金に目がない商人たちが二日で商品を捨て、三日目には船員が大事にしている船具を捨てる。
それ程その三日間は、一瞬一瞬が命が深刻な事態だったのだ。

27:20 幾日ものあいだ、太陽も星も見えず、暴風は激しく吹きすさぶので、わたしたちの助かる最後の望みもなくなった。
27:21 みんなの者は、長いあいだ食事もしないでいたが、その時、パウロが彼らの中に立って言った、「皆さん、あなたがたが、わたしの忠告を聞きいれて、クレテから出なかったら、このような危害や損失を被らなくてすんだはずであった。
27:22 だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。
27:23 昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使が、わたしのそばに立って言った、
27:24 『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』。
27:25 だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。
27:26 われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」。

パウロは舟に乗った時点では人々から蔑まれた、一回の囚人に過ぎなかったが、しかしこの舟の中で彼は主にあって地位を得て行った。
そして、御声を聞いた。「たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている」と。
主は、私達にも、世界を動かすような人々を与えて下さる。
そのためにはユーラクロンが吹くかもしれない。
それでも主に聞く姿勢をいつも保ち続けるなら、私達は与えられるのだ。
必要な人々が、経済が、機会が。

2サムエル記5:23 そこで、ダビデが主に伺ったところ、主は仰せられた。「上って行くな。彼らのうしろに回って行き、バルサム樹の林の前から彼らに向かえ。
5:24 バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは攻め上れ。そのとき、主はすでに、ペリシテ人の陣営を打つために、あなたより先に出ているから。」
5:25 ダビデは、主が彼に命じたとおりにし、ゲバからゲゼルに至るまでのペリシテ人を打った。
 

労苦は無駄に終わる事は決して無い - 農夫の希望(1コリント15:58)
Youtube動画
メッセージ音声

______________

1コリント15:58 だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。

黙示録13:10 とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。

エペソ4:7 しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。
4:8 そこで、こう言われている、/「彼は高いところに上った時、/とりこを捕えて引き行き、/人々に賜物を分け与えた」。

ガラテヤ6:7 まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。
6:8 すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。
6:9 わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。
6:10 だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。

霊において「こじき」である者の幸い(マルコ10:46-52)
Youtube動画
メッセージ音声

_____________

マルコ10:46 それから、彼らはエリコにきた。そしてイエスが弟子たちや大ぜいの群衆と共にエリコから出かけられたとき、テマイの子、バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞いて、彼は「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出した。
10:48 多くの人々は彼をしかって黙らせようとしたが、彼はますます激しく叫びつづけた、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」。

こじきである事は霊の世界においては、とても重要な性質である。その人が、神の国すなわち神の支配を受ける事ができる。
マタイ5:3 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
ここは原意は、霊においてこじきである者は、幸いである、という事だ。

10:49 イエスは立ちどまって、「彼を呼べ」と命じられた。そこで、人々はその盲人を呼んで言った、「喜べ、立て、おまえを呼んでおられる」。
10:50 そこで彼は上着を脱ぎ捨て、踊りあがってイエスのもとにきた。
10:51 イエスは彼にむかって言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。その盲人は言った、「先生、見えるようになることです」。
10:52 そこでイエスは言われた、「行け、あなたの信仰があなたを救った」。すると彼は、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。

マタイ20:32 イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。
20:33 彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。
20:34 イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
 

「しあわせなイスラエル」とは(申命記33:26-29)
Youtube動画
メッセージ音声

_____________

申命記はモーセの告別メッセージであるが、その最後、モーセのイスラエルに対する感想を述べる。
そしてメッセージを終えたモーセは、ピスガの山に上り、イスラエルが受け継ぐ約束の地を望み見て、そのたましいは神に帰る。

申命記33:26 「エシュルンよ、神に並ぶ者はほかにない。あなたを助けるために天に乗り、/威光をもって空を通られる。

エシュルンとはヤーシャル(まっすぐにする、正しく考える)が元となった言葉だ。
イスラエルは荒野を紆余曲折しっぱなしであったが、イスラエルのアイデンティティは、御前をまっすぐに歩むもの、正しく考える者である。
そのように歩むエシュルンは、次の幸いがある。

33:27 とこしえにいます神はあなたのすみかであり、/下には永遠の腕がある。敵をあなたの前から追い払って、/『滅ぼせ』と言われた。

モーセは続いて、主を住まいとし、主に包まれ守られるイスラエルの幸いを言っている。
それはあたかも、花嫁が花婿の左腕を掴み、男性に腕枕され、その右手で包まれるようである。

雅歌2:3 わが愛する者の若人たちの中にあるのは、林の木の中にりんごの木があるようです。わたしは大きな喜びをもって、彼の陰にすわった。彼の与える実はわたしの口に甘かった。
2:4 彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。
2:5 干ぶどうをもって、わたしに力をつけ、りんごをもって、わたしに元気をつけてください。わたしは愛のために病みわずらっているのです。
2:6 どうか、彼の左の手がわたしの頭の下にあり、右の手がわたしを抱いてくれるように。

私達はキリストの花嫁、宿るべきはキリストの胸、腕の中である。
そこが私達の住まいである。
地上では、アパートやマンションなど色々なところを転々として住む。イスラエルの民も、荒野を転々と住んだが、真の住まいは、主の覆いの下だ。

申命記33:28 イスラエルは安らかに住み、/ヤコブの泉は穀物とぶどう酒の地に、/ひとりいるであろう。また天は露をくだすであろう。
33:29 イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、/主に救われた民があるであろうか。主はあなたを助ける盾、/あなたの威光のつるぎ、/あなたの敵はあなたにへつらい服し、/あなたは彼らの高き所を踏み進むであろう」。

モーセの告別メッセージの最後、それは、「イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、/主に救われた民があるであろうか。」という感嘆の言葉だった。
イスラエルは、しあわせである。
真のイスラエルとは誰か。
英語の辞書では、Israel = "God prevails",”he will rule as God”とあり、またガラテヤ6:16によると、「神のイスラエル」とは、割礼を受けた人の事ではなく、十字架によって世と分離し、新しく創造された事の基準に従って進み行く人の事である事が書いてある。

キリストの十字架の死と復活をいつもこの身と心に帯び、神に頼り、神に宿る者こそ、しあわせなイスラエルなのだ。

詩篇91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
 

バラム - 異端をもたらす者 - の性質と、その最後(民数記22-25章)
Youtube動画
メッセージ音声

_____________

民数記22:6 どうぞ今きてわたしのためにこの民をのろってください。彼らはわたしよりも強いのです。そうしてくだされば、われわれは彼らを撃って、この国から追い払うことができるかもしれません。あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることをわたしは知っています」。

バラムはユーフラテス河畔の著名な預言者で、彼が祝福する者は祝福され、呪う者は呪われると言われている程だった。
彼はモアブの王から、エジプトから出てきたイスラエルの民を呪うようにと、金銀を積まれる。

民数記22:7 モアブの長老たちとミデアンの長老たちは占いの礼物を手にして出発し、バラムのもとへ行って、バラクの言葉を告げた。
 22:8 バラムは彼らに言った、「今夜ここに泊まりなさい。主がわたしに告げられるとおりに、あなたがたに返答しましょう」。それでモアブのつかさたちはバラムのもとにとどまった。
・・・
 22:12 神はバラムに言われた、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである」。

主の答えは、イスラエルの民は祝福されている、だから呪ってはならない、彼らと一緒に行ってはならない、であった。
それでバラムは彼らを帰らせ、一緒には行かなかった。
しかしである。

 22:15 バラクはまた前の者よりも身分の高いつかさたちを前よりも多くつかわした。
 22:16 彼らはバラムのところへ行って言った、「チッポルの子バラクはこう申します、『どんな妨げをも顧みず、どうぞわたしのところへおいでください。
 22:17 わたしはあなたを大いに優遇します。そしてあなたがわたしに言われる事はなんでもいたします。どうぞきてわたしのためにこの民をのろってください』」。

バラクから再度、より高い地位の人々が遣わされ、さらに好条件・好待遇が約束された。
これに対し、バラムの心に、富に対する迷いが生じる。

 22:18 しかし、バラムはバラクの家来たちに答えた、「たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を越えては何もすることができません。
 22:19 それで、どうぞ、あなたがたも今夜ここにとどまって、主がこの上、わたしになんと仰せられるかを確かめさせてください」。

彼は「その家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を越えては何もすることができません。」と一見美しい事を言って置きながら、「主がこの上、わたしになんと仰せられるかを確かめさせてください」と、筋が通らない事を言っている。
既に主の御心は、最初に示されている。
「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである」。と。
彼の心に、迷いが生じたのだ。

2ペテロ2:15 彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、
 2:16 そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。

バラムは、バラクから示された不義の報酬に、目がくらんだのだ。
神に聞き従っている「祝福された人」を呪う、その引き換えに得る報酬は、不義の報酬であり、新約では、そのような不義の報酬を愛したバラムを、狂気の預言者と呼んでいる。

民数記22:20 夜になり、神はバラムに臨んで言われた、「この人々はあなたを招きにきたのだから、立ってこの人々と一緒に行きなさい。ただしわたしが告げることだけを行わなければならない」。

神はバラムに「行きなさい」と言われた。
人があくまで汚れた欲望へ行こう行こうとするなら、神は敢えてその人をそのまま汚れへと引き渡される。
神は、好きこのんで人を頑なにしたり、滅びの器に定めたりするお方ではない(エゼ18:23)。
むしろ神は、人を救おうとする故に、一人子を世に与え、その大切な一人子を身代わりの十字架につける程の愛をもって憐れまれたのだ。
その尊い愛さえ退け、あくまで欲望のままに歩む事によって、キリストを、あるいはキリスト者を、十字架につけようとする者は、神は、そのままその人を汚れへと「引き渡し」、滅びへと導かれるのだ。

 22:21 明くる朝起きてバラムは、ろばにくらをおき、モアブのつかさたちと一緒に行った。
 22:22 しかるに神は彼が行ったために怒りを発せられ、主の使は彼を妨げようとして、道に立ちふさがっていた。

バラムがろばに乗ってイスラエルを呪いに行く途上、目の前に御使いが抜き身の剣を手に待ち構えていたのだが、バラムには見えなかった。
「金への欲望」で目が塞がれていたためだ。
彼を乗せたろばは、剣を持った御使いを見てその場にうずくまってしまったが、バラムはあくまで進めさせようと、ろばを打った。

その時、主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を持って道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。
『主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。』(民数記22:32)
御使いは、ろばを擁護した。結局この著名な預言者は、ろばの信仰によって命拾いしたのだ。
情けない話だが、お金への欲望は、どんな有力な預言者といえど、ろばさえ分かるような滅びへの道さえ分からなくしてしまうのだ。

民数記22:34 バラムは主の使に言った、「わたしは罪を犯しました。あなたがわたしをとどめようとして、道に立ちふさがっておられるのを、わたしは知りませんでした。それで今、もし、お気に召さないのであれば、わたしは帰りましょう」。
 22:35 主の使はバラムに言った、「この人々と一緒に行きなさい。ただし、わたしが告げることのみを述べなければならない」。こうしてバラムはバラクのつかさたちと一緒に行った。

バラムは行くのだが、バラクの意とは反し、バラムはイスラエルを呪うのではなく、三度も祝福した様が、民数記23-24章に書いてある。

民数記24:10 そこでバラクはバラムにむかって怒りを発し、手を打ち鳴らした。そしてバラクはバラムに言った、「敵をのろうために招いたのに、あなたはかえって三度までも彼らを祝福した。
 24:11 それで今あなたは急いで自分のところへ帰ってください。わたしはあなたを大いに優遇しようと思った。しかし、主はその優遇をあなたに得させないようにされました」。
 24:12 バラムはバラクに言った、「わたしはあなたがつかわされた使者たちに言ったではありませんか、
 24:13 『たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、主の言葉を越えて心のままに善も悪も行うことはできません。わたしは主の言われることを述べるだけです』。
 24:14 わたしは今わたしの民のところへ帰って行きます。それでわたしはこの民が後の日にあなたの民にどんなことをするかをお知らせしましょう」。

新約では狂気の預言者と呼ばれたバラムは、この後、なんと、遠い将来イスラエルから出るキリストの預言をする。

24:17 わたしは彼を見る、しかし今ではない。わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。ヤコブから一つの星が出、/イスラエルから一本のつえが起り、/モアブのこめかみと、/セツのすべての子らの脳天を撃つであろう。
 24:18 敵のエドムは領地となり、/セイルもまた領地となるであろう。そしてイスラエルは勝利を得るであろう。
 24:19 権を執る者がヤコブから出、/生き残った者を町から断ち滅ぼすであろう」。
・・・
 24:25 こうしてバラムは立ち上がって、自分のところへ帰っていった。バラクもまた立ち去った。

このまま読むなら、バラムはバラクと喧嘩別れしたかのように見える。
バラムは御心の通りに、そして、主から戒められていた通りに、イスラエルを呪わず、祝福した。
この時点、バラムには何ら問題は見いだせず、むしろ、立派に役割を果たしたように見える。

では、彼はなぜ新約では「気違い預言者」として記されたのか。
それは、イスラエルの陣営の素晴らしさを見、神の霊に促されて、イスラエルの神の力強さ、麗しさを語り、主の偉大な御力を経験しておきながら、それでもなお不義な報酬を愛し、堕落へと走ったからだ。

民数記25章は、イスラエルの民が異邦の女と不品行の罪を犯したために主の罰を受ける事が記されているのだが、イスラエルをつまづかせ、不品行へと導いたのが、この、バラムである。
『あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。』(黙示録2:14)

バラムは、バラクから報酬を受け取らずにそのまま去ったのではなかった。
イスラエルが主と良好な関係を結んでいる限りは、呪えないから、その代替として、イスラエルを不品行へと導き、神の怒りを引き起こさせて、イスラエルに災いをもたらすように仕向けて、そうして、バラクから報酬を受け取ったのだ。

バラムは神に言い訳しただろうか。
「私は確かに、あなたの言いつけどおり、イスラエルは呪いませんでした。でも、イスラエルを堕落させてはならないとは、お言いつけにはなりませんでしたよね?」と。
主には、そのような詭弁は、通用しない。
彼はそのすぐ後、ミデヤン人の間にいる所を、剣で殺された。(民数記31:6-9)
モーセが生きている間に、であるから、彼が得た不正な報酬を楽しんだ期間は、一年も無かったようである。
これが、ひと度主の素晴らしさを味わっておきながら、なお不義の報酬を愛し、堕落してしまった者の末路である。

バラムのように、多くの人々に偽りをそそのかす偽預言者には、剣が待ち受けている。
バラムについて黙示録に記されている箇所は、ペルガモの教会に対しての言葉であったが、ペルガモの教会に対して現れた主は、「鋭いもろ刃のつるぎを持っているかた」だった。
不義の報酬を愛するゆえに、無垢な信徒を異端に導き、滅びへと導く者を待ち受けているものは、剣である。

私達はバラクのように、不義の報酬を愛する者ではなく、純粋に主を愛し、神の民に汚れを導入するような者を取り除くピネハスのような者(民数記25章)でありたい。

「上り」の歩みと「下り」の歩み(コロサイ3:1-4)
Youtube動画
メッセージ音声

______________

3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

私達はキリストと共によみがえらされた。よみがえった、という事は、ひとたび既に死んだものである。
生まれながらの肉欲に溺れた生き方に対し、罪に対し、世に対して。
そして、私達のいのちの本質は、もうこの地上ではなく、天国に、キリストと共に神に隠されている。

電車に上り線と下り線があり、都に近づく方面を上り、遠ざかる方面を下りと言うが、私達は天の都へといつも向かう者であるべきだ。
キリストに召し出されて御言葉を聞いた者が全員約束の地に入れるという訳ではないからだ。
地上の歩みは、ちょうど出エジプトした民が荒野を通って約束の地カナンを目指すようなもので、約束を見上げつつ約束の地へ入る事ができる者もおれば、過去を思いエジプトを懐かしみ、結局荒野で屍をさらす者もいる。
多くの民が荒野で滅んだのは、今の時代を生きる私達への警告である事は、ヘブル人への手紙3-4章を見れば明らかである。

ヘブル3:12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
 3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
 3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
 3:15 それについて、こう言われている、/「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
 3:16 すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。
 3:17 また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。
 3:18 また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。
 3:19 こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
 4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
 4:3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、/「わたしが怒って、/彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、/誓ったように」/と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。

イサクはひと度、ゲラルという世に「下って(ヤラド)」しまった。パンがなくなったためだ。
「下」は世であり、そこは一見食料に満ち、美しく栄えているように見えても、破滅への誘惑に満ちており、降った人は、家族や財産を、あるいは命を失い、散々な目で帰って来た例が、聖書に多数ある。
世に下ると、世の流儀の生き方をしなくてはらなくなり、嘘や罪を増し加えなくてはならない。

イサクは最終的に、ベエル・シェバへ「上った」。
「上る」はヘブライ語で「アラー」、上に向かう、あるいは「捧げる」事の意味があり、これが派生して「全焼のいけにえ(オラー)」となる。

創世記22:2  神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭(オラー)としてささげ(アラー)なさい」

私達は上にあるものを求める歩み、すなわち、「神に捧げられた歩み」をすべきである。
それをして行くなら、決して荒野に骨を埋める事がなく、約束の地に入ってそこで産んで増えて行く事が出来る。

ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

しかしもし下るなら、エリメレク一家のように、あるいはエルサレムからエリコへ下った人のように(ルカ10:30)、散々な目に遭って何もかも奪われ、あるいは死んでしまう。
出エジプトした民の大部分は、約束の地を見上げる歩みではなく、かつてのエジプトをなつかしむ歩み(下の歩み)をし、約束の地に入れず、荒野で骨を埋めてしまった。

だから、言われている。
ヘブル3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
 3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
 3:15 それについて、こう言われている、/「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。

主から国々の富をわざとふるい落とされるような人になるためのコツ(ルツ記2:8-20)
Youtube動画
メッセージ音声

______________

成功したい人は、成功者に見習え、という事は良く聞く事である。
私達は聖書の中から、霊的成功者の行動パターンを良く研究し、それにならい、また、霊的失敗者の行動パターンも研究し、それを遠ざける事により、霊的成功者を目指して行くべきである。
今回、霊的成功者であるルツから学びたい。

2:8 ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。
2:9 人々が刈りとっている畑に目をとめて、そのあとについて行きなさい。わたしは若者たちに命じて、あなたのじゃまをしないようにと、言っておいたではありませんか。あなたがかわく時には水がめのところへ行って、若者たちのくんだのを飲みなさい」。

イスラエルからは忌み嫌われるはずの異邦のモアブの女ルツは、どうしてこのような、ボアズから幸いな言葉を得る事が出来たか。
その第一の理由は、神である主を彼女の助けとして宣言したからである。

ルツ1:16 しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。
1:17 あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください」。

第二に、彼女は神の民であるしゅうとのナオミに真実を尽くしたからである。
ナオミは、社会的にはホームレスのような地位に転落してしまった、にもかかわらずである。
神の民の、最も小さい者のひとりにした事は、主に対してした事であり、たとえ水一杯でもその報いに漏れる者はいない。

2:10 彼女は地に伏して拝し、彼に言った、「どうしてあなたは、わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか」。
2:11 ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。
2:12 どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」。

ボアズはルツを、イスラエルの神、主の翼の下に身を寄せようとしてきた、と評価した。
その通りである。そして、全能者の翼の下に身を避けて来た人の幸いは、詩篇91篇にある。
詩篇91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、

2:13 彼女は言った、「わが主よ、まことにありがとうございます。わたしはあなたのはしためのひとりにも及ばないのに、あなたはこんなにわたしを慰め、はしためにねんごろに語られました」。

第三に、彼女のこの慎ましさが、彼女を幸いにした。
クリスチャンの中には、イエス様はやさしいお方、赦してくださるお方だ、という事で、平気で主に対して失礼な事をしたり、高ぶった態度をとったりする人もいるが、そのような態度では祝福が降りてくるはずが無い。
私達もルツのように、主を敬い、感謝し、自分を低くする者には、次のボアズの行動のような祝福を、主は注いで下さる。

2:14 食事の時、ボアズは彼女に言った、「ここへきて、パンを食べ、あなたの食べる物を酢に浸しなさい」。彼女が刈る人々のかたわらにすわったので、ボアズは焼麦を彼女に与えた。彼女は飽きるほど食べて残した。

ボアズは、食べ物を酢に浸して渡してくれた。それは、特別な親愛の表現である。
イエス様は最後の晩餐の席で、裏切り者は誰かと弟子達に問われた時、それは自分がパン切れを浸して渡す人だと言ってから、イスカリオテのユダにパンを渡した。
状況的に、ユダが裏切り者だと示しているのは明白なはずなのに、弟子達はなぜか「祭りに必要な物を買いなさい」とか、「貧しい人に何か施すように」とか、ユダに言われたのだと思った。(ヨハネ13章)
きっとその時のイエス様の所作は、裏切り者を示す行為だとは到底思えない程、ユダへの親愛の情に満ちていたからであろう。
主は、裏切り者にさえこのような親愛の情を示してくださった。

2:15 そして彼女がまた穂を拾おうと立ちあがったとき、ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。
2:16 また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」。

ボアズはさらに、わざと穂を抜き落として、それを拾わせてくれた。
ハガイ書において、主は国々を揺り動かして国々の宝物をイスラエルにもたらす、と言われたが、それはハガイの時代、主に対して失礼な態度を捨て去り、主を礼拝する礎を据えたからだ。(ハガイ2章)

2:17 こうして彼女は夕暮まで畑で落ち穂を拾った。そして拾った穂を打つと、大麦は一エパほどあった。
2:18 彼女はそれを携えて町にはいり、しゅうとめにその拾ったものを見せ、かつ食べ飽きて、残して持ちかえったものを取り出して与えた。
2:19 しゅうとめは彼女に言った、「あなたは、きょう、どこで穂を拾いましたか。どこで働きましたか。あなたをそのように顧みてくださったかたに、どうか祝福があるように」。そこで彼女は自分がだれの所で働いたかを、しゅうとめに告げて、「わたしが、きょう働いたのはボアズという名の人の所です」と言った。
2:20 ナオミは嫁に言った、「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主が、どうぞその人を祝福されますように」。ナオミはまた彼女に言った、「その人はわたしたちの縁者で、最も近い親戚のひとりです」。

ルツが、自分のみならず、養うべき家族をも、満たして下さる恵みにあずかれたのは、彼女の慎ましい性質の故である。
私達も主に対して身を低くし、感謝し、主を敬うなら、国々を揺り動かし、わざと恵みをふるい落として下さるのだ。

あらゆる病、貧困、死、全てサタンに属するものを打ち砕く主(ヨハネ11:20)
Youtube動画
メッセージ音声

_____________

11:20 マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。
11:22 しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」。
11:23 イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。
11:24 マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。
11:25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
11:26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
11:27 マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。

マルタは、イエス様が生ける神の御子、キリストである事を信仰告白した。
信じる者に、主はその栄光を豊かにあらわしてくださる。
それも、死をよみがえらせるしるしである。

11:28 マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と小声で言った。
11:29 これを聞いたマリヤはすぐに立ち上がって、イエスのもとに行った。
11:30 イエスはまだ村に、はいってこられず、マルタがお迎えしたその場所におられた。
11:31 マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った。
11:32 マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。
11:33 イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、
11:34 「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。
11:37 しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。
11:38 イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。

イエス様は、涙を流された。それは、ラザロが死んで悲しいからではない。
イエス様はラザロが死んだ、という事を、はっきりとおっしゃった。確かにイエス様が、ラザロが生きている間にラザロの所に会いに来て、病をいやす事はおできになったが、この度は、意図的に、死んだ後に来られたのだ。
なぜ、敢えてそのようにするのか。この病の苦しみ、死ぬほどの苦しみに遭わせないでくだされば良いのに、と人は思う。
しかし、それを敢えてされた理由は、次の言葉に示されている。

11:4 「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。
・・・
11:14 するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。
11:15 そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである。では、彼のところに行こう」。
全ての病、死、それら、サタンに由来するものは、主を信じる時、神の栄光・イエス様の栄光へと変換されるのだ。

イエス様が涙を流されたのは、「彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんに」なられたからだ。
人が病に、死に、サタンにいいようにされ、為す術もなく、ただ泣くしかない状況に。
イエス様は人に涙を流させる全てのものに対して憤りを覚え、人の目から涙を拭い去って下さる。

11:39 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。
11:40 イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。

腐っている死体が入った墓の墓石を取り除くのは誰もしたくはない事だが、しかし主はよみがえりであり、いのちである。
私達も、イエス様がよみがえりであり、いのちである事を信じ、取り除きたくない墓石を、取り除くなら、主の栄光を見ることができる。

11:41 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
11:42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。

イエス様のこの祈りは、プライベートな、神との一対一の祈りではない。
人々が信じるために、あえて祈ったのである。

11:43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
11:44 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。
11:45 マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。

多くの人々が、イエス様を信じた。
全ての奇跡は、イエス様の栄光のためにであり、そして、イエス様こそが、人の死の縄目を砕いてくださるお方であると信じるようになるためである。
そう、イエス様はあらゆる病、貧困、死、全てサタンに属するものを、打ち砕いて、私達の涙を拭い去り、永遠のいのちを与えて下さるお方である。

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
Twitter
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2016/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

天声モバイルサイト!

検索
Copyright ©横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2010 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest