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メッセージ - 定期祈祷会メッセージカテゴリのエントリ

枯れた骨は生き返るだろうか?(エゼキエル37:1-10)
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いのちが流れ出て行くために(エゼキエル37-47章)
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※メッセージテキストは後程アップします。
(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

37:1 主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。
37:2 彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。
37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。

日本には1500年代、福音が入り、多くの人々が福音に触れたが、やがて彼らは迫害され、多くの殉教者の血が流された。
果たして、切り殺され、干からびてしまった骨々は生き返る事が出来るだろうか?
主こそ、ご存知である。

37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。

干からびてしまった骨に対しても、御言葉を語ると、変化が起きる。

37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
37:7 わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。
37:8 わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。

主は、死んだような状態から生き返らせて下さる事をされる。かつては骨のような状態から人並みの状態にまで戻されたキリスト者は大勢いるし、そのように求めている人は多い。
しかし、「神の息」が無い状態では、マネキンのように死んだも同然の、「行い」の無い信仰状態である。
だから神の息、神のルアッハ、神の霊が必要である。

37:9 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。
37:10 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆(Force, Army)となった。

主の霊が入るなら、自分の足で立てなかった者も立ち、暗闇の王国、サタンの座をも、大胆に攻撃し勝ち取る大いなる軍隊になる事が可能なのだ。

主の息、それは、全地を覆っている。
創世記1:2の、あの暗闇と混沌の中で、主の霊はめんどりがひなを覆うように覆っていた。

ヨブ38:7 かの時には明けの星は相共に歌い、/神の子たちはみな喜び呼ばわった。
38:8 海の水が流れいで、胎内からわき出たとき、/だれが戸をもって、これを閉じこめたか。
38:9 あの時、わたしは雲をもって衣とし、/黒雲をもってむつきとし、

天地が創造された時、海の水が胎内から破水して出た時、それを主は乱雑に広がらないよう閉じ込め、主の霊によって覆い、むつき(ハトラー)によって守り囲っていた。
混沌の中においても、主の霊が覆い、守っておられるのだ。この日本を、世界を、切り殺された骨々を。

混沌と死の大地にいのちの潤いの水が流れだし、いのちの水が全地を覆うようになるために、どうすれば良いか。
続くエゼキエル書の箇所に、その答えがある。

40:1 われわれが捕え移されてから二十五年、都が打ち破られて後十四年、その年の初めの月の十日、その日に主の手がわたしに臨み、わたしをかの所に携えて行った。
40:2 すなわち神は幻のうちに、わたしをイスラエルの地に携えて行って、非常に高い山の上におろされた。その山の上に、わたしと相対して、一つの町のような建物があった。

エゼキエルは、バビロン捕囚下のイスラエルの民に、主の言葉を伝える預言者として用いられた。
この時代、ソロモンが建てた豪華絢爛な神殿は、イスラエルが代々犯して来た罪の故に、異邦人に破壊され尽くした後だった。神殿が打ち壊されてから十四年後、彼は、主が見せられた幻の内に、非常に高い山の上に建てられた、人のものならぬ神殿へと上げられた。

『神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。 ・・・その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。』(3-5節)
この、主の使いが持つ測りは、世の測りとは違う。人が使い慣らされたはかりに、一手幅、加えられたものだ。
人手に依らない神の宮、それは、人の常識、人の習慣的な計りでは、計る事は禁じられている。それに、一手幅加えた測りを用いるように御使いに言われた。

ヘブライ語で、ユッドには、手の意味がある。
ユッド ヘー、バブ、ヘー、これがエホバの御名であるが、そこからユッド(手)を除くとハバー、息を吹き込む、成る、という意味である。
手、イエス様の十字架で釘打たれた手、それを加えられる時、
הוה:"havah {haw-vaw'}"; a primitive root (compare 'avah, hayah) supposed to mean properly, to breathe; to be (in the sense of existence) -- be, X have.息、に、手、すなわち、イエス様の十字架で釘打たれた手、それを加えられる時、ユッド ヘー、バブ、ヘー、エホバの御名が完成し、主のわざが完成するのだ。

エゼキエル40章以降、この、人のはかりに、手幅が加えられた、人のものならぬ測りざおを用いて、主が示された新しい神殿、すなわち罪ある人間が建てたものではない神殿を、主の測りで測って行く内に、次々と、色々な示しや預言が与えられて行く。
そして、神殿の入り口に連れ戻されると、水が神殿の敷居の下から流れ出していた。

47:1 そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。
47:2 彼は北の門の道から、わたしを連れ出し、外をまわって、東に向かう外の門に行かせた。見よ、水は南の方から流れ出ていた。
47:3 その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。

人のものならぬ主の建てた神殿を、主の測りに従って測って行くなら、いのちを潤す水が流れ出して来る。
まことの神殿は、イエス様であり(ヨハネ2:21)、この神殿を、主の示す物差し、すなわち御言葉によって正しく測り、寸法もきっちり正しく調べて行くなら、行く程、いのちの水、潤す水が内から流れ出して行くのだ。

47:4 彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。
47:6 彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。
47:7 わたしが帰ってくると、見よ、川の岸のこなたかなたに、はなはだ多くの木があった。

流れ出したいのちの流れを、主の測りで測る毎に、その潤す水、いのちの水は、どんどんかさが増していく。最初は足首ほどから、次にひざ程、次に腰ほどに、そして、渡る事にできない川にまで至る。
『彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。』(6節) 私達も、流したら流しっぱなしではなく、結果、どんな実を結んだか、見に戻るべきだ。

47:8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
47:9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
47:10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。

水は、神殿の聖所から流れ出ている。まことの神殿はイエスキリストであり、私達もイエス様を信じる時、「腹(コイリア:下腹、子宮、知情意の座)」の奥底から、生ける水が川々となって流れ出るようになる。(ヨハ7:38)
その”水”が入るなら、その水は良くなるため、生き物が群がるようになり、非常に多くの魚がいるようになる。
この水が流れこむなら、死海さえいのちが多くなり、海岸には漁師達が住むようになり、網を引く場所となる。
死海のようだったサマリヤの女も、イエス様を受けた時、いのちが湧き出し、いのちが群がるようになった。

『ただし、その「沢(ビツサァー:沼地、湿地帯)」と「沼(ゲベー:貯水池、プール)」とは清められないで、塩地のままで残る。』(11節)
水が流れず留まっている所、人為的に水を貯めこむような所は、良くならず、塩のまま残ってしまう。どんなに良質の御言葉が流れて来ても、どんなにイエス様の魅力を教えられても、ただ受けるばかり・頂くばかりで、流し出さないなら、塩のまま残り、死海のように、いのちがいなくなってしまう。
御言葉のいのちが流れこんで来たなら、それが口まで溢れているなら、留めて置いてはならない。御言葉も、ただ暗記するだけで、宛先が明確でないなら、宛先不明の手紙のように、どこぞに落ちてしまうのだ。


47:12 川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。

毎月実が成る・・・一体どれだけ多産で、いのちに溢れているのだろうか。
私達の内に、キリストという、生ける水のいのちの泉を据えるなら、御霊の実は何も頑張らずとも、自然と、絶える事なく、実らせ続けるものである。そしてそれは自分ばかりでなく、周囲も潤し、癒やすものとなる。
人の建てた神殿を、人の物差しで測っても、ただ疲れるしか無いが、人のものならぬ、主の建てた神殿・イエス様を、主の物差しである御言葉に従って測って行くなら、いのちを潤す水がどんどん流れ出して来る。
この、いのちの源・イエス様を御言葉で正しく測り、泉を湧き出させ、湧き出る水を測って、ますます流し出し、多くのいのちと実りを獲得して行く時、主のいのちの水を流し出す者となり、ついには全地を主のくださる潤いの水が、「腹(コイリア:下腹、子宮、知情意の座)」の奥底から、生ける水が川々となって流れ出るようになる。(ヨハ7:38)

ハバクク2:14 海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。

この言葉が成っている事を、信じるだろうか?
アーメン、今、いかに混沌に見えるような現状でも、主の霊は覆っており、そして私達が主の与えてくださったはかりで計る時、いのちの水が流れていき、いのちが実体化して行くのだ。
なぜなら、福音の伝達は、人間の、伝道の愚かさによって成就して行くようにと、主が定められたからだ。

おくびょう者は帰れ(申命記20:1-9)
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ジェホバ・メカディシケム(詩篇23:5)
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主の御言葉を伝える人が、畏れ敬う心を持って準備し、そして講壇に立つ時、主からの特別な油注ぎが与えられるのを感じるはずである。
それは、御言葉が伝えられ、主の栄光がその集いにいる一人一人に注がれるためであり、主の栄光が大いなるものとされるためだ。
講壇に立てば誰でもメッセージが与えられるというものではない。日頃、主の御前で整えられた心が必要である。
信仰は登る。恵みは降る。その二つが合う時、奇跡が起きる。もし、私達が上らせる信仰が少ないなら、恵みも少なく、上らせる信仰が多いなら、降る恵みも、多いものだ。

今回の箇所では、主の御前で、そして敵の面前で、主からの恵みをいただく人の幸いが書いてある。

詩篇23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。

詩篇23篇には主エホバのご性質が8つ隠されているが、そのうちの8つ目、「ジェホバ・メカディシケム」が、この5節に込められている。
ジェホバ・メカディシケム。その意味は、「聖別する主」であり、「わたしのこうべに油をそそがれる」がそれに当たる。

主は、油を注いで下さる。それも、敵の面前で。
主を敬わない敵と、主を敬う私達の間をご覧になる時、主は、主を敬う私達のほうに御顔を向け、敵の面前で宴を設けてくださり、そして、油を注いで下さる。

この幸いを呼びこむために必要な事は、主を羊飼いとすること、主を敬う事だ。
ちょうど、主がアベルの捧げものに目を留めて、アベルとその捧げものに敬意を表したように。
主への敬いも主への正しい態度もなく、単に捧げものを持ってきただけのカインの捧げものには、主は目もくれず、一切の敬意も表さなかった事を、覚えておかなくてはならない。

このジェホバ・メカディシケムが出てくる聖書の箇所は、出エジプト記である。

出エジプト記31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしが「あなたがたを聖別する主(ジェホバ・メカディシケム)」であることを、知らせるためのものである。
ジェホバ・メカディシケム。それは、安息日を守る人、すなわち、主を礼拝すべき日にしっかり礼拝し、世の事どもをしない、そのような人を、主は聖別して下さる。
そうであるからには、私達自身が、主に喜ばれる礼拝者である事の努力をし続けるべきである。
カインの性質を捨て、アベルのように最良のものを、最良の形で捧げようと、主を愛する心を持っている人にこそ、主は、目を留めて下さるのだ。
主は、全地を見渡し、その心が全く主とひとつになっている人を探しておられるからである。

続く節には、次のように記されている。
 31:14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。

なんと、安息日を聖としない人は、殺されなくてはならない、とまで記されている。主が「聖とせよ」「安息せよ」と命じられたのに、聖とせず、安息しないで、世の仕事、世の飲み食いを好んで続ける限り、主の聖、主の安息には、入れてもらえないのだ。
私達には、永遠の安息の地、天国が備えられている。だから、天を覚えて日々生きるべきだ。そうでなく、世のことばかりに捕われて、礼拝するべき日を軽んじ、主を覚えないなら、どうして天国に相応しい者になれるだろう。

ジェホバ・メカディシケム、この言葉が与えられる前の所では、主は特別な任命を、名指しして、定めている。
31:1 主はモーセに言われた、
31:2 「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、
31:3 これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、
31:4 工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、
31:5 また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。
31:6 見よ、わたしはまたダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブを彼と共ならせ、そしてすべて賢い者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものを、ことごとく彼らに造らせるであろう。
31:7 すなわち会見の幕屋、あかしの箱、その上にある贖罪所、幕屋のもろもろの器、
31:8 机とその器、純金の燭台と、そのもろもろの器、香の祭壇、
31:9 燔祭の祭壇とそのもろもろの器、洗盤とその台、
31:10 編物の服、すなわち祭司の務をするための祭司アロンの聖なる服、およびその子たちの服、
31:11 注ぎ油、聖所のための香ばしい香などを、すべてわたしがあなたに命じたように造らせるであろう」。

このように、主は人に知恵を与え、匠の技を与え、指導力や金銀や、その他必要なものを全て備える。
その特別な知恵が与えられた人には、「これをつくって欲しい」と言われた時、頭の中で「これとこれが必要だ」「ここにはこの材料を使おう」「ここはこのように組み立てよう」と、瞬時にイメージが組み上がり、そして精巧に動かす手が与えられるのだ。
その理由は、共にキリストのからだを建て上げるためであり、まさに、主が特別な油注ぎを与える故である。
ちょうど、ベザレルとアホリアブに、主を礼拝する所、幕屋建造のために知恵と啓示の霊を与えられたように。

「聖別」には、二つの意味がある。
一つは「委任する」、すなわち、主が、あなたには、これこれの事をする者として任命した、という事である。
主からの任命があるなら、知恵と力とわざが泉のように湧き上がり、疲れない。しかし、油注ぎもないのに、また任命もないのに、その仕事に勝手なあこがれをもって、しようとすると、何も思い浮かばず、また力も沸かない、ただ苦痛な日々を送るしかない。
逆に、任命が与えられたのにそれをしないとするのも、同じくただ苦痛な日々を送るしかない。

「聖別」の意味の 二つ目は、「聖とする」である。
聖別とは、簡単に言えば「分離」であり、けがれた者からきよい者へ、悪どい者から良い者へ、俗なる者から聖なる者へ、主から遠かった者が、主に近い方向性で、どんどん分離して行くのだ。

これら、「委任」と「聖とする」が合わさって、「職分」が与えられるのだ。
ちょうど、大祭司アロンに職分が与えられたように。

1コリント12:4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。
12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。
12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
12:10 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

エペソ4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

大祭司アロンには、特別に「聖」とされたしるしが与えられた。
出エジプト記28:36 あなたはまた純金の板を造り、印の彫刻のように、その上に『主に聖なる者』と刻み、
28:37 これを青ひもで帽子に付け、それが帽子の前の方に来るようにしなければならない。
28:38 これはアロンの額にあり、そしてアロンはイスラエルの人々がささげる聖なる物、すなわち彼らのもろもろの聖なる供え物についての罪の責めを負うであろう。これは主の前にそれらの受けいれられるため、常にアロンの額になければならない。

主が、特別に任命されたからには、自らを聖とするのが、主に呼び出された者の分であり、もし、牧会者が「聖」という立ち位置に立っているなら、聖徒は祝福される。
「神よ、この病人に手を置けば癒やされますように」という事を願うよりも、むしろ「わたしが聖化されたものである」という事を追求するべきなのだ。

神が用いられる器は、聖潔。きよい器でなければ、聖霊は働かない。
たとえ過去どんな罪を犯していても、現在、「今、あなたは聖を歩んでいますか??」という志の内に歩む事が重要だ。
今、聖である歩みを、実行していかなくてはいけない。今を大事に生きる人にこそ、主が働くからだ。
罪は、悔い改め、常習犯的な罪を、今、やめる、それを続けて行く事の繰り返しである。

祭司がきよければ、その祈りは聞かれる。だから、きよくなるために、たゆまず努力する。それが、聖霊充満の秘訣である

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる。(1サムエル記30:1-20)
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目をさましていなさい(マタイ24:40-51)
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主はわが旗、主はともにおられる(詩篇23:4)
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ダビデは、詩篇23篇の中に、主エホバの御名を凝縮した。
23:4 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
この節の中に、二つの主のご性質があり、二つの御名が隠されている。
そのうちの一つは、「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」に隠された御名、ジェホバ・ニシ(Jehovah Nissi:主はわが旗)、もう一つは、「あなたがわたしと共におられるからです。」の中に隠された御名、ジェホバ・シャンマ(Jehovah Shammah:主は共におられる)である。

ジェホバ・ニシ(主はわが旗)という主の御名は、出エジプト記17:15に出てくる。
その前後は、どういう場面か。

17:8 ときにアマレクがきて、イスラエルとレピデムで戦った。
イスラエルが奴隷の国エジプトを出た直後、アマレクが襲いかかってきた。
彼らはイスラエルの中でも、行軍に疲れて弱って後ろの方にいる人達を狙って襲いかかってきたのだ。
彼らアマレクの性質を一言で言うなら、弱い者いじめ、である。

17:9 モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。
17:10 ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。
これはすなわち、モーセは丘の上で祈りの手をあげ、実戦部隊として戦うヨシュアを祝福する、という事である。
私達も、祈りの武器は、鉄でできたものではなく御言葉の剣であり、その手段は肉弾戦ではなく祈りである事が、エペソ6章に書かれてある。
モーセは祈りの重要性をよく認識していたのだ。

17:11 モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。
背後で祝福の手を上げて祈る祈りが、戦いを左右した。
祈りがどれほど、重要であるか、この記事から分かる。アロンとフルはその重要性に気づき、モーセを助ける働きをする。

17:12 しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。
17:13 ヨシュアは、つるぎにかけてアマレクとその民を打ち敗った。

祈りもまた重要な戦いであり、助けが必要だ。
ヨシュア、アロン、フル、モーセ、がそれぞれの役割があり、牧会の戦い方には、それぞれ役割があるのだ。

17:14 主はモーセに言われた、「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう」。
17:15 モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。
17:16 そしてモーセは言った、/「主の旗にむかって手を上げる、/主は世々アマレクと戦われる」。

ここに、主はわが旗、という主の御名が出てきた。
それは『主の御座の上の手』のことであると書いてある。つまり、私達が祈りの手を上げて祈る時、その手が主の旗となり、そこに神の国の影響が、神の統治が、その場所に及ぶようになるという事なのだ。
戦いにおいて勝利した時、はじめてその土地に降り立った時など、そこに自分の旗を立てて、そこは自分たちのもの、自分達の統治権が及ぶ所、と宣言するのと同じである。
だから私達が、自分の子供のために、家族のために、あるいは会社のために、祈りの手を上げる時、そこに神の国の統治権を呼び起こす事が出来るのだ。それはなんと素晴らしい事だろう。

さてもう、「あなたがわたしと共におられるからです。」の中に隠された御名、ジェホバ・シャンマ(Jehovah Shammah:主は共におられる)についてである。
このジェホバ・シャンマという具体的な名は、エゼキエル書に登場する。
エゼキエル48:35 町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。
主が共におられる。その言葉は、聖書の他の所にも、至る所に登場する。

28:10 さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、
28:11 一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。

この場面は、イスラエル民族の父祖ヤコブが、兄エサウの祝福をだまし取ったゆえに、兄から命を狙われる事となり、たった一人、おじのラバンの所へ逃避行する途中の旅路である。

28:12 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。
28:13 そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。
28:15 わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。

この主の言葉、わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る、と言っておられる。
ここも、ジェホバ・シャンマのご性質が良く表れている場面である。
わたしがともにいる、だから、恐れる事はない、と。ダビデも告白した。ヤコブも、イザヤも、主が共にいるから恐れない、と告白した。
私達も同じである。特に私達には、インマヌエル(主が共におられる)であられる主イエス様がおられる。

イエス様はこのヤコブの場面と同じ事を言った。
ヨハネ1:51 また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
このヤコブのはしごは、とても不思議で、普通、はしごは地から天に向けてかけられるものだが、逆に、天から地に向けてかけられている。
まさしくイエス様、インマヌエルなる主は、天から降りてこられ、私達が天に上れるように、はしごをかけて下さった。
だから私達は、イエス様を通してのみ、天国に行けるのである。

28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
28:17 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。
28:18 ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、
28:19 その所の名をベテルと名づけた。その町の名は初めはルズといった。

兄から命を狙われ、そこから逃げる旅路で心細くあるヤコブ自身、主がともにおられる、という事で、その地をベテル(神の家)と呼んだ。
この体験が、ヤコブにとって、信仰のはじまりだった。

28:20 ヤコブは誓いを立てて言った、「神がわたしと共にいまし、わたしの行くこの道でわたしを守り、食べるパンと着る着物を賜い、
28:21 安らかに父の家に帰らせてくださるなら、主をわたしの神といたしましょう。
28:22 またわたしが柱に立てたこの石を神の家といたしましょう。そしてあなたがくださるすべての物の十分の一を、わたしは必ずあなたにささげます」。

後に彼がベテルで礼拝を捧げた時、彼は一人ではなく、二人の妻と二人の妾、そして12人の子供たちが彼とともにあった。
彼は確かに主から祝福を受け、日毎のパンや着物に困る事が全くないほどまでに富ませ、無事に帰らせてくださったにもかかわらず、すぐに礼拝をささげなかったゆえに、娘ディナに不幸な事が起きたり、息子達がとんでもない事をしたりして、色々紆余曲折があったものの、主からの促しにより、このベテルに戻って礼拝を捧げた時、諸国の間で、彼に対する恐れが芽生えた。(創世記35章)

私達も、主がいかなるお方であるのかを宣言し、この人生に、また自分の家族や仕事に対して、祝福を宣言するものでありたい。

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