• カテゴリ 定期祈祷会メッセージ の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

メッセージ - 定期祈祷会メッセージカテゴリのエントリ

バラム - 異端をもたらす者 - の性質と、その最後(民数記22-25章)
Youtube動画
メッセージ音声

_____________

民数記22:6 どうぞ今きてわたしのためにこの民をのろってください。彼らはわたしよりも強いのです。そうしてくだされば、われわれは彼らを撃って、この国から追い払うことができるかもしれません。あなたが祝福する者は祝福され、あなたがのろう者はのろわれることをわたしは知っています」。

バラムはユーフラテス河畔の著名な預言者で、彼が祝福する者は祝福され、呪う者は呪われると言われている程だった。
彼はモアブの王から、エジプトから出てきたイスラエルの民を呪うようにと、金銀を積まれる。

民数記22:7 モアブの長老たちとミデアンの長老たちは占いの礼物を手にして出発し、バラムのもとへ行って、バラクの言葉を告げた。
 22:8 バラムは彼らに言った、「今夜ここに泊まりなさい。主がわたしに告げられるとおりに、あなたがたに返答しましょう」。それでモアブのつかさたちはバラムのもとにとどまった。
・・・
 22:12 神はバラムに言われた、「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである」。

主の答えは、イスラエルの民は祝福されている、だから呪ってはならない、彼らと一緒に行ってはならない、であった。
それでバラムは彼らを帰らせ、一緒には行かなかった。
しかしである。

 22:15 バラクはまた前の者よりも身分の高いつかさたちを前よりも多くつかわした。
 22:16 彼らはバラムのところへ行って言った、「チッポルの子バラクはこう申します、『どんな妨げをも顧みず、どうぞわたしのところへおいでください。
 22:17 わたしはあなたを大いに優遇します。そしてあなたがわたしに言われる事はなんでもいたします。どうぞきてわたしのためにこの民をのろってください』」。

バラクから再度、より高い地位の人々が遣わされ、さらに好条件・好待遇が約束された。
これに対し、バラムの心に、富に対する迷いが生じる。

 22:18 しかし、バラムはバラクの家来たちに答えた、「たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を越えては何もすることができません。
 22:19 それで、どうぞ、あなたがたも今夜ここにとどまって、主がこの上、わたしになんと仰せられるかを確かめさせてください」。

彼は「その家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、事の大小を問わず、わたしの神、主の言葉を越えては何もすることができません。」と一見美しい事を言って置きながら、「主がこの上、わたしになんと仰せられるかを確かめさせてください」と、筋が通らない事を言っている。
既に主の御心は、最初に示されている。
「あなたは彼らと一緒に行ってはならない。またその民をのろってはならない。彼らは祝福された者だからである」。と。
彼の心に、迷いが生じたのだ。

2ペテロ2:15 彼らは正しい道からはずれて迷いに陥り、ベオルの子バラムの道に従った。バラムは不義の実を愛し、
 2:16 そのために、自分のあやまちに対するとがめを受けた。ものを言わないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂気じみたふるまいをはばんだのである。

バラムは、バラクから示された不義の報酬に、目がくらんだのだ。
神に聞き従っている「祝福された人」を呪う、その引き換えに得る報酬は、不義の報酬であり、新約では、そのような不義の報酬を愛したバラムを、狂気の預言者と呼んでいる。

民数記22:20 夜になり、神はバラムに臨んで言われた、「この人々はあなたを招きにきたのだから、立ってこの人々と一緒に行きなさい。ただしわたしが告げることだけを行わなければならない」。

神はバラムに「行きなさい」と言われた。
人があくまで汚れた欲望へ行こう行こうとするなら、神は敢えてその人をそのまま汚れへと引き渡される。
神は、好きこのんで人を頑なにしたり、滅びの器に定めたりするお方ではない(エゼ18:23)。
むしろ神は、人を救おうとする故に、一人子を世に与え、その大切な一人子を身代わりの十字架につける程の愛をもって憐れまれたのだ。
その尊い愛さえ退け、あくまで欲望のままに歩む事によって、キリストを、あるいはキリスト者を、十字架につけようとする者は、神は、そのままその人を汚れへと「引き渡し」、滅びへと導かれるのだ。

 22:21 明くる朝起きてバラムは、ろばにくらをおき、モアブのつかさたちと一緒に行った。
 22:22 しかるに神は彼が行ったために怒りを発せられ、主の使は彼を妨げようとして、道に立ちふさがっていた。

バラムがろばに乗ってイスラエルを呪いに行く途上、目の前に御使いが抜き身の剣を手に待ち構えていたのだが、バラムには見えなかった。
「金への欲望」で目が塞がれていたためだ。
彼を乗せたろばは、剣を持った御使いを見てその場にうずくまってしまったが、バラムはあくまで進めさせようと、ろばを打った。

その時、主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使いが抜き身の剣を持って道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。
『主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。』(民数記22:32)
御使いは、ろばを擁護した。結局この著名な預言者は、ろばの信仰によって命拾いしたのだ。
情けない話だが、お金への欲望は、どんな有力な預言者といえど、ろばさえ分かるような滅びへの道さえ分からなくしてしまうのだ。

民数記22:34 バラムは主の使に言った、「わたしは罪を犯しました。あなたがわたしをとどめようとして、道に立ちふさがっておられるのを、わたしは知りませんでした。それで今、もし、お気に召さないのであれば、わたしは帰りましょう」。
 22:35 主の使はバラムに言った、「この人々と一緒に行きなさい。ただし、わたしが告げることのみを述べなければならない」。こうしてバラムはバラクのつかさたちと一緒に行った。

バラムは行くのだが、バラクの意とは反し、バラムはイスラエルを呪うのではなく、三度も祝福した様が、民数記23-24章に書いてある。

民数記24:10 そこでバラクはバラムにむかって怒りを発し、手を打ち鳴らした。そしてバラクはバラムに言った、「敵をのろうために招いたのに、あなたはかえって三度までも彼らを祝福した。
 24:11 それで今あなたは急いで自分のところへ帰ってください。わたしはあなたを大いに優遇しようと思った。しかし、主はその優遇をあなたに得させないようにされました」。
 24:12 バラムはバラクに言った、「わたしはあなたがつかわされた使者たちに言ったではありませんか、
 24:13 『たといバラクがその家に満ちるほどの金銀をわたしに与えようとも、主の言葉を越えて心のままに善も悪も行うことはできません。わたしは主の言われることを述べるだけです』。
 24:14 わたしは今わたしの民のところへ帰って行きます。それでわたしはこの民が後の日にあなたの民にどんなことをするかをお知らせしましょう」。

新約では狂気の預言者と呼ばれたバラムは、この後、なんと、遠い将来イスラエルから出るキリストの預言をする。

24:17 わたしは彼を見る、しかし今ではない。わたしは彼を望み見る、しかし近くではない。ヤコブから一つの星が出、/イスラエルから一本のつえが起り、/モアブのこめかみと、/セツのすべての子らの脳天を撃つであろう。
 24:18 敵のエドムは領地となり、/セイルもまた領地となるであろう。そしてイスラエルは勝利を得るであろう。
 24:19 権を執る者がヤコブから出、/生き残った者を町から断ち滅ぼすであろう」。
・・・
 24:25 こうしてバラムは立ち上がって、自分のところへ帰っていった。バラクもまた立ち去った。

このまま読むなら、バラムはバラクと喧嘩別れしたかのように見える。
バラムは御心の通りに、そして、主から戒められていた通りに、イスラエルを呪わず、祝福した。
この時点、バラムには何ら問題は見いだせず、むしろ、立派に役割を果たしたように見える。

では、彼はなぜ新約では「気違い預言者」として記されたのか。
それは、イスラエルの陣営の素晴らしさを見、神の霊に促されて、イスラエルの神の力強さ、麗しさを語り、主の偉大な御力を経験しておきながら、それでもなお不義な報酬を愛し、堕落へと走ったからだ。

民数記25章は、イスラエルの民が異邦の女と不品行の罪を犯したために主の罰を受ける事が記されているのだが、イスラエルをつまづかせ、不品行へと導いたのが、この、バラムである。
『あなたがたの中には、現にバラムの教を奉じている者がある。バラムは、バラクに教え込み、イスラエルの子らの前に、つまずきになるものを置かせて、偶像にささげたものを食べさせ、また不品行をさせたのである。』(黙示録2:14)

バラムは、バラクから報酬を受け取らずにそのまま去ったのではなかった。
イスラエルが主と良好な関係を結んでいる限りは、呪えないから、その代替として、イスラエルを不品行へと導き、神の怒りを引き起こさせて、イスラエルに災いをもたらすように仕向けて、そうして、バラクから報酬を受け取ったのだ。

バラムは神に言い訳しただろうか。
「私は確かに、あなたの言いつけどおり、イスラエルは呪いませんでした。でも、イスラエルを堕落させてはならないとは、お言いつけにはなりませんでしたよね?」と。
主には、そのような詭弁は、通用しない。
彼はそのすぐ後、ミデヤン人の間にいる所を、剣で殺された。(民数記31:6-9)
モーセが生きている間に、であるから、彼が得た不正な報酬を楽しんだ期間は、一年も無かったようである。
これが、ひと度主の素晴らしさを味わっておきながら、なお不義の報酬を愛し、堕落してしまった者の末路である。

バラムのように、多くの人々に偽りをそそのかす偽預言者には、剣が待ち受けている。
バラムについて黙示録に記されている箇所は、ペルガモの教会に対しての言葉であったが、ペルガモの教会に対して現れた主は、「鋭いもろ刃のつるぎを持っているかた」だった。
不義の報酬を愛するゆえに、無垢な信徒を異端に導き、滅びへと導く者を待ち受けているものは、剣である。

私達はバラクのように、不義の報酬を愛する者ではなく、純粋に主を愛し、神の民に汚れを導入するような者を取り除くピネハスのような者(民数記25章)でありたい。

「上り」の歩みと「下り」の歩み(コロサイ3:1-4)
Youtube動画
メッセージ音声

______________

3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

私達はキリストと共によみがえらされた。よみがえった、という事は、ひとたび既に死んだものである。
生まれながらの肉欲に溺れた生き方に対し、罪に対し、世に対して。
そして、私達のいのちの本質は、もうこの地上ではなく、天国に、キリストと共に神に隠されている。

電車に上り線と下り線があり、都に近づく方面を上り、遠ざかる方面を下りと言うが、私達は天の都へといつも向かう者であるべきだ。
キリストに召し出されて御言葉を聞いた者が全員約束の地に入れるという訳ではないからだ。
地上の歩みは、ちょうど出エジプトした民が荒野を通って約束の地カナンを目指すようなもので、約束を見上げつつ約束の地へ入る事ができる者もおれば、過去を思いエジプトを懐かしみ、結局荒野で屍をさらす者もいる。
多くの民が荒野で滅んだのは、今の時代を生きる私達への警告である事は、ヘブル人への手紙3-4章を見れば明らかである。

ヘブル3:12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
 3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
 3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
 3:15 それについて、こう言われている、/「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
 3:16 すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。
 3:17 また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。
 3:18 また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。
 3:19 こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
 4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
 4:3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、/「わたしが怒って、/彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、/誓ったように」/と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。

イサクはひと度、ゲラルという世に「下って(ヤラド)」しまった。パンがなくなったためだ。
「下」は世であり、そこは一見食料に満ち、美しく栄えているように見えても、破滅への誘惑に満ちており、降った人は、家族や財産を、あるいは命を失い、散々な目で帰って来た例が、聖書に多数ある。
世に下ると、世の流儀の生き方をしなくてはらなくなり、嘘や罪を増し加えなくてはならない。

イサクは最終的に、ベエル・シェバへ「上った」。
「上る」はヘブライ語で「アラー」、上に向かう、あるいは「捧げる」事の意味があり、これが派生して「全焼のいけにえ(オラー)」となる。

創世記22:2  神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭(オラー)としてささげ(アラー)なさい」

私達は上にあるものを求める歩み、すなわち、「神に捧げられた歩み」をすべきである。
それをして行くなら、決して荒野に骨を埋める事がなく、約束の地に入ってそこで産んで増えて行く事が出来る。

ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

しかしもし下るなら、エリメレク一家のように、あるいはエルサレムからエリコへ下った人のように(ルカ10:30)、散々な目に遭って何もかも奪われ、あるいは死んでしまう。
出エジプトした民の大部分は、約束の地を見上げる歩みではなく、かつてのエジプトをなつかしむ歩み(下の歩み)をし、約束の地に入れず、荒野で骨を埋めてしまった。

だから、言われている。
ヘブル3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
 3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
 3:15 それについて、こう言われている、/「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。

主から国々の富をわざとふるい落とされるような人になるためのコツ(ルツ記2:8-20)
Youtube動画
メッセージ音声

______________

成功したい人は、成功者に見習え、という事は良く聞く事である。
私達は聖書の中から、霊的成功者の行動パターンを良く研究し、それにならい、また、霊的失敗者の行動パターンも研究し、それを遠ざける事により、霊的成功者を目指して行くべきである。
今回、霊的成功者であるルツから学びたい。

2:8 ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。
2:9 人々が刈りとっている畑に目をとめて、そのあとについて行きなさい。わたしは若者たちに命じて、あなたのじゃまをしないようにと、言っておいたではありませんか。あなたがかわく時には水がめのところへ行って、若者たちのくんだのを飲みなさい」。

イスラエルからは忌み嫌われるはずの異邦のモアブの女ルツは、どうしてこのような、ボアズから幸いな言葉を得る事が出来たか。
その第一の理由は、神である主を彼女の助けとして宣言したからである。

ルツ1:16 しかしルツは言った、「あなたを捨て、あなたを離れて帰ることをわたしに勧めないでください。わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です。
1:17 あなたの死なれる所でわたしも死んで、そのかたわらに葬られます。もし死に別れでなく、わたしがあなたと別れるならば、主よ、どうぞわたしをいくえにも罰してください」。

第二に、彼女は神の民であるしゅうとのナオミに真実を尽くしたからである。
ナオミは、社会的にはホームレスのような地位に転落してしまった、にもかかわらずである。
神の民の、最も小さい者のひとりにした事は、主に対してした事であり、たとえ水一杯でもその報いに漏れる者はいない。

2:10 彼女は地に伏して拝し、彼に言った、「どうしてあなたは、わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか」。
2:11 ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。
2:12 どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」。

ボアズはルツを、イスラエルの神、主の翼の下に身を寄せようとしてきた、と評価した。
その通りである。そして、全能者の翼の下に身を避けて来た人の幸いは、詩篇91篇にある。
詩篇91:1 いと高き者のもとにある/隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は
91:2 主に言うであろう、「わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神」と。
91:3 主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。
91:4 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。
91:5 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
91:6 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。
91:7 たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない。
91:8 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、

2:13 彼女は言った、「わが主よ、まことにありがとうございます。わたしはあなたのはしためのひとりにも及ばないのに、あなたはこんなにわたしを慰め、はしためにねんごろに語られました」。

第三に、彼女のこの慎ましさが、彼女を幸いにした。
クリスチャンの中には、イエス様はやさしいお方、赦してくださるお方だ、という事で、平気で主に対して失礼な事をしたり、高ぶった態度をとったりする人もいるが、そのような態度では祝福が降りてくるはずが無い。
私達もルツのように、主を敬い、感謝し、自分を低くする者には、次のボアズの行動のような祝福を、主は注いで下さる。

2:14 食事の時、ボアズは彼女に言った、「ここへきて、パンを食べ、あなたの食べる物を酢に浸しなさい」。彼女が刈る人々のかたわらにすわったので、ボアズは焼麦を彼女に与えた。彼女は飽きるほど食べて残した。

ボアズは、食べ物を酢に浸して渡してくれた。それは、特別な親愛の表現である。
イエス様は最後の晩餐の席で、裏切り者は誰かと弟子達に問われた時、それは自分がパン切れを浸して渡す人だと言ってから、イスカリオテのユダにパンを渡した。
状況的に、ユダが裏切り者だと示しているのは明白なはずなのに、弟子達はなぜか「祭りに必要な物を買いなさい」とか、「貧しい人に何か施すように」とか、ユダに言われたのだと思った。(ヨハネ13章)
きっとその時のイエス様の所作は、裏切り者を示す行為だとは到底思えない程、ユダへの親愛の情に満ちていたからであろう。
主は、裏切り者にさえこのような親愛の情を示してくださった。

2:15 そして彼女がまた穂を拾おうと立ちあがったとき、ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。
2:16 また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」。

ボアズはさらに、わざと穂を抜き落として、それを拾わせてくれた。
ハガイ書において、主は国々を揺り動かして国々の宝物をイスラエルにもたらす、と言われたが、それはハガイの時代、主に対して失礼な態度を捨て去り、主を礼拝する礎を据えたからだ。(ハガイ2章)

2:17 こうして彼女は夕暮まで畑で落ち穂を拾った。そして拾った穂を打つと、大麦は一エパほどあった。
2:18 彼女はそれを携えて町にはいり、しゅうとめにその拾ったものを見せ、かつ食べ飽きて、残して持ちかえったものを取り出して与えた。
2:19 しゅうとめは彼女に言った、「あなたは、きょう、どこで穂を拾いましたか。どこで働きましたか。あなたをそのように顧みてくださったかたに、どうか祝福があるように」。そこで彼女は自分がだれの所で働いたかを、しゅうとめに告げて、「わたしが、きょう働いたのはボアズという名の人の所です」と言った。
2:20 ナオミは嫁に言った、「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主が、どうぞその人を祝福されますように」。ナオミはまた彼女に言った、「その人はわたしたちの縁者で、最も近い親戚のひとりです」。

ルツが、自分のみならず、養うべき家族をも、満たして下さる恵みにあずかれたのは、彼女の慎ましい性質の故である。
私達も主に対して身を低くし、感謝し、主を敬うなら、国々を揺り動かし、わざと恵みをふるい落として下さるのだ。

あらゆる病、貧困、死、全てサタンに属するものを打ち砕く主(ヨハネ11:20)
Youtube動画
メッセージ音声

_____________

11:20 マルタはイエスがこられたと聞いて、出迎えに行ったが、マリヤは家ですわっていた。
11:21 マルタはイエスに言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう。
11:22 しかし、あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを、わたしは今でも存じています」。
11:23 イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。
11:24 マルタは言った、「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。
11:25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
11:26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
11:27 マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。

マルタは、イエス様が生ける神の御子、キリストである事を信仰告白した。
信じる者に、主はその栄光を豊かにあらわしてくださる。
それも、死をよみがえらせるしるしである。

11:28 マルタはこう言ってから、帰って姉妹のマリヤを呼び、「先生がおいでになって、あなたを呼んでおられます」と小声で言った。
11:29 これを聞いたマリヤはすぐに立ち上がって、イエスのもとに行った。
11:30 イエスはまだ村に、はいってこられず、マルタがお迎えしたその場所におられた。
11:31 マリヤと一緒に家にいて彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、彼女は墓に泣きに行くのであろうと思い、そのあとからついて行った。
11:32 マリヤは、イエスのおられる所に行ってお目にかかり、その足もとにひれ伏して言った、「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょう」。
11:33 イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、
11:34 「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。
11:37 しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。
11:38 イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。

イエス様は、涙を流された。それは、ラザロが死んで悲しいからではない。
イエス様はラザロが死んだ、という事を、はっきりとおっしゃった。確かにイエス様が、ラザロが生きている間にラザロの所に会いに来て、病をいやす事はおできになったが、この度は、意図的に、死んだ後に来られたのだ。
なぜ、敢えてそのようにするのか。この病の苦しみ、死ぬほどの苦しみに遭わせないでくだされば良いのに、と人は思う。
しかし、それを敢えてされた理由は、次の言葉に示されている。

11:4 「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。
・・・
11:14 するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。
11:15 そして、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、あなたがたが信じるようになるためである。では、彼のところに行こう」。
全ての病、死、それら、サタンに由来するものは、主を信じる時、神の栄光・イエス様の栄光へと変換されるのだ。

イエス様が涙を流されたのは、「彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんに」なられたからだ。
人が病に、死に、サタンにいいようにされ、為す術もなく、ただ泣くしかない状況に。
イエス様は人に涙を流させる全てのものに対して憤りを覚え、人の目から涙を拭い去って下さる。

11:39 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。
11:40 イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。

腐っている死体が入った墓の墓石を取り除くのは誰もしたくはない事だが、しかし主はよみがえりであり、いのちである。
私達も、イエス様がよみがえりであり、いのちである事を信じ、取り除きたくない墓石を、取り除くなら、主の栄光を見ることができる。

11:41 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
11:42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。

イエス様のこの祈りは、プライベートな、神との一対一の祈りではない。
人々が信じるために、あえて祈ったのである。

11:43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
11:44 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。
11:45 マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。

多くの人々が、イエス様を信じた。
全ての奇跡は、イエス様の栄光のためにであり、そして、イエス様こそが、人の死の縄目を砕いてくださるお方であると信じるようになるためである。
そう、イエス様はあらゆる病、貧困、死、全てサタンに属するものを、打ち砕いて、私達の涙を拭い去り、永遠のいのちを与えて下さるお方である。

ことばのとどろきの中でも守られ恩恵を受ける人(ハガイ2:6-9)
Youtube動画
メッセージ音声

_____________

ハガイ2:6 万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、かわいた地とを震う。
2:7 わたしはまた万国民を震う。万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる。
2:8 銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。
2:9 主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」。

ヘブル12:18 あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、
12:19 また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。
12:20 そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触れたら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。
12:21 その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。
12:22 しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、
12:23 天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、
12:24 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。

出エジプト記12:12 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。
12:13 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
12:14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。

詩篇114:1 イスラエルがエジプトをいで、ヤコブの家が異言の民を離れたとき、
114:2 ユダは主の聖所となり、イスラエルは主の所領となった。
114:3 海はこれを見て逃げ、ヨルダンはうしろに退き、
114:4 山は雄羊のように踊り、小山は小羊のように踊った。
114:5 海よ、おまえはどうして逃げるのか、ヨルダンよ、おまえはどうしてうしろに退くのか。
114:6 山よ、おまえたちはどうして雄羊のように踊るのか、小山よ、おまえたちはどうして小羊のように踊るのか。
114:7 地よ、主のみ前におののけ、ヤコブの神のみ前におののけ。
114:8 主は岩を池に変らせ、石を泉に変らせられた。

ヘブル12:25 あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。
12:26 あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
12:27 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。
12:28 このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。
12:29 わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。

出エジプト記19:16 三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッパの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。
19:17 モーセが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。
19:18 シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に下られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。
19:19 ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーセは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた。
19:20 主はシナイ山の頂に下られた。そして主がモーセを山の頂に召されたので、モーセは登った。
19:21 主はモーセに言われた、「下って行って民を戒めなさい。民が押し破って、主のところにきて、見ようとし、多くのものが死ぬことのないようにするためである。
19:22 主に近づく祭司たちにもまた、その身をきよめさせなさい。主が彼らを打つことのないようにするためである」。
19:23 モーセは主に言った、「民はシナイ山に登ることはできないでしょう。あなたがわたしたちを戒めて『山のまわりに境を設け、それをきよめよ』と言われたからです」。
19:24 主は彼に言われた、「行け、下れ。そしてあなたはアロンと共に登ってきなさい。ただし、祭司たちと民とが、押し破って主のところに登ることのないようにしなさい。主が彼らを打つことのないようにするためである」。
19:25 モーセは民の所に下って行って彼らに告げた。

出エジプト記のキアズムは、最初は民の叫びが主の耳に届いた所から始まり、その終わりは、礼拝場所すなわち幕屋建設が完了し、栄光の雲が満ち溢れた所で終わる。
その間に、ほふられた子羊の血による贖いがあり、また、シナイ山における主の顕現がある。
黒雲の闇の中、あちらこちらで稲妻と角笛が鳴り響き、山の上に主が火の中に降りて来られた様にイスラエルの民は震えおののいたが、自らを血潮で清める者は、恐れる必要はない。しかし、不遜にも御言葉を破り、きよめも資格も無い者が超えて来るなら、その者は裁きに耐えられない。

結論。
主の御言葉を守り行う人、イエス様の血潮の守りの内にいる人は、ハガイ書の言葉の通り、全世界が揺り動かされる時、揺り動かされる側ではなく、揺り動かしによってもらされる良いものを受ける側である。

ハガイ2:6 万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、かわいた地とを震う。
2:7 わたしはまた万国民を震う。万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる。
2:8 銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。
2:9 主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」。

しかし、主の御言葉を破る者、イエス様の贖いを軽んじる者は、揺り動かされ、その裁きに耐えられない者である。

あの方は盛んになり、わたしは衰えなくてはならない(ヨハネ3:22-36)
Youtube動画
メッセージ音声

____________

ヨハネ3:25 ところが、ヨハネの弟子たちとひとりのユダヤ人との間に、きよめのことで争論が起った。
3:26 そこで彼らはヨハネのところにきて言った、「先生、ごらん下さい。ヨルダンの向こうであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」。

ヨハネは何のためにバプテスマを授けていたか。それは、あの方すなわちキリストへと人々を導くためである。
キリストよりも自分を栄光化するために、「自分はキリストへと導く偉大な者だ」と大々的にアピールする過ちに陥る人がいるが、それは間違いである。キリストこそ、栄光を受け取るべきであり、私は彼を前にするなら低くならなくてはならない。

2コリント3:5 もちろん、自分自身で事を定める力が自分にある、と言うのではない。わたしたちのこうした力は、神からきている。
3:6 神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。
3:7 もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、
3:8 まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。

ヨハネ3:27 ヨハネは答えて言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。
3:28 『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である。

人がいま持っている能力、地位、性格、経済などは、全て、天から与えられたものである。
自分で努力して稼いだ、と思っていても、その健全な手足や知能、育てられた養育環境、影響を受けた人々、全て配置して下さったのは、神である。
だから何事かをした、と思って誇る事は出来ない。
バプテスマのヨハネは、生まれながら、いや、その父母が産まれるずっと前の、マラキの時代から既にその役割が天から与えられている。(マラキ4:5-6)
そしてヨハネの役割は、人を、キリストへと導く事である。

3:29 花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。こうして、この喜びはわたしに満ち足りている。

ヨハネは自分を、花婿の友人の立ち位置になぞらえた。
花婿とはキリストである。
では、花嫁とは誰か?
キリストを信じた者達、すなわち、私達教会である。
だからヨハネは、キリストと、キリスト者達を見て、言った。

ヨハネ3:30 彼は必ず栄え、わたしは衰える。

私達キリスト者は、花嫁としてキリストに愛され、大切にされ、ますます清められている。

エペソ5:26 キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。

そして、キリストへと導いたバプテスマのヨハネよりも、偉大な者である。
ルカ7:28 あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。

主の宮の栄光とは(ハガイ2:3-9)
Youtube動画
メッセージ音声

_____________

ハガイ2:6 万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、かわいた地とを震う。
2:7 わたしはまた万国民を震う。万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる。
2:8 銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。
2:9 主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」。

この御言葉は天声教会開拓の根拠となった御言葉である。
「わたしは栄光をこの家に満たす」と、万軍の主は言われたが、教会の栄光とは何だろうか。

ハガイの時代は、バビロン捕囚の後、イスラエルの民がエルサレムに戻って来たが、しかし彼らは神殿が廃墟のままにしておいて、むしろ、自分の家を、生活を、経済を良くしようと走り回っていた。
しかし彼らは、働けど働けど暮らしは決して楽にはならなかった。
その理由は明白である。

ハガイ1:4 「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。
1:5 それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。
1:6 あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。
1:7 万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。
1:8 山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。
1:9 あなたがたは多くを望んだが、見よ、それは少なかった。あなたがたが家に持ってきたとき、わたしはそれを吹き払った。これは何ゆえであるかと、万軍の主は言われる。これはわたしの家が荒れはてているのに、あなたがたは、おのおの自分の家の事だけに、忙しくしている。
1:10 それゆえ、あなたがたの上の天は露をさし止め、地はその産物をさし止めた。
1:11 また、わたしは地にも、山にも、穀物にも、新しい酒にも、油にも、地に生じるものにも、人間にも、家畜にも、手で作るすべての作物にも、ひでりを呼び寄せた」。

主を礼拝する事をおろそかにすると、当然のように、生活は慌ただしく実り少なく、貧しくなる。
だから神の国とその義をまず第一に求めるべきだ。そうすれば、生活の必要は追ってついてくる。
ハガイの言葉を恐れ、主の宮の再建にとりかかった人々が建てた神殿は、かつてのソロモン神殿を見て知っている老人たちには、あまりにおそまつに見えたのだろう。
以前を知っている老人たちはそれを見て泣いた。(エズラ3:12)
しかし、ハガイは言う。

2:3 『あなたがた残りの者のうち、以前の栄光に輝く主の家を見た者はだれか。あなたがたは今、この状態をどう思うか。これはあなたがたの目には、無にひとしいではないか。

しかし万軍の主は言われる。「主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きい」と。(ハガイ2:9)

神殿の栄光とは、一体何だろう。
教会の栄光とは、一体何だろう。
豪華さや高価な器物といった面での栄光は去ってしまった事で人々は泣いたが、神殿や教会とはそもそも、主を礼拝をする所であり、建物や器物など人・モノ・仕組みの素晴らしさを見物しに来る所ではない。
神殿や教会の栄光とは、礼拝されるべきお方・主の栄光であって、栄光の主を仰ぎ、ひれ伏す所なのだ。
豪奢な神殿があった列王記・歴代誌の時代と、神殿よりも粗末な幕屋で礼拝していたモーセやヨシュア、ダビデの時代と、どちらが主の栄光に輝いていただろう。きっと誰もが後者だと答えるだろう。
ダビデは神殿を建てたくても建てられなかったが、ソロモンはそれを建て、そればかりでなく諸々の事業を拡張し、邸宅を建て、畑や庭園や男女の奴隷、多くのそばめを得たが、結局、むなしさだけが残った。
結局、主の栄光は、人々の主に対する愛と、心の純粋さと、主への従順や服従の内にこそ現れるのだ。

主が人に求められるのは、霊とまことによる礼拝だ。

ヨハネ4:21 イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。

サマリヤの女は、礼拝についてイエス様に質問した。どこで礼拝をするべきか。
イエス様は、礼拝は、場所ではない事を言われる。

4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。
4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

霊とまこと(真理)すなわち、聖霊と御言葉によって礼拝をする礼拝者を、主は求めておられ、いっさいの事を教えて下さるお方は、メシヤなるキリストだ。

4:25 女はイエスに言った、「わたしは、キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています。そのかたがこられたならば、わたしたちに、いっさいのことを知らせて下さるでしょう」。
4:26 イエスは女に言われた、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」。

ハガイ2:6 万軍の主はこう言われる、しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、かわいた地とを震う。
2:7 わたしはまた万国民を震う。万国民の財宝は、はいって来て、わたしは栄光をこの家に満たすと、万軍の主は言われる。
2:8 銀はわたしのもの、金もわたしのものであると、万軍の主は言われる。
2:9 主の家の後の栄光は、前の栄光よりも大きいと、万軍の主は言われる。わたしはこの所に繁栄を与えると、万軍の主は言われる』」。

人がひとたび主へと捧げるなら、主は天を、地を震わせ、栄光の富をふるい落として戻してくださる。
そしてその栄光は、以前のものよりもはるかに勝ったものなのだ。

神の国から万全の報酬と保障を得ている主の働き人(2テモテ2:1-8)
Youtube動画
メッセージ音声

____________
2テモテ2:1 そこで、わたしの子よ。あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい。
2:2 そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、ゆだねなさい。
2:3 キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。
2:4 兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。
2:5 また、競技をするにしても、規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。
2:6 労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。
2:7 わたしの言うことを、よく考えてみなさい。主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。
2:8 ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。

1コリント9:3 わたしの批判者たちに対する弁明は、これである。
9:4 わたしたちには、飲み食いをする権利がないのか。
9:5 わたしたちには、ほかの使徒たちや主の兄弟たちやケパのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのか。
9:6 それとも、わたしとバルナバとだけには、労働をせずにいる権利がないのか。
9:7 いったい、自分で費用を出して軍隊に加わる者があろうか。ぶどう畑を作っていて、その実を食べない者があろうか。また、羊を飼っていて、その乳を飲まない者があろうか。
9:8 わたしは、人間の考えでこう言うのではない。律法もまた、そのように言っているではないか。
9:9 すなわち、モーセの律法に、「穀物をこなしている牛に、くつこをかけてはならない」と書いてある。神は、牛のことを心にかけておられるのだろうか。
9:10 それとも、もっぱら、わたしたちのために言っておられるのか。もちろん、それはわたしたちのためにしるされたのである。すなわち、耕す者は望みをもって耕し、穀物をこなす者は、その分け前をもらう望みをもってこなすのである。
9:11 もしわたしたちが、あなたがたのために霊のものをまいたのなら、肉のものをあなたがたから刈りとるのは、行き過ぎだろうか。
9:12 もしほかの人々が、あなたがたに対するこの権利にあずかっているとすれば、わたしたちはなおさらのことではないか。しかしわたしたちは、この権利を利用せず、かえってキリストの福音の妨げにならないようにと、すべてのことを忍んでいる。
9:13 あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。
9:14 それと同様に、主は、福音を宣べ伝えている者たちが福音によって生活すべきことを、定められたのである。


2コリント5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
5:18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。
5:19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
5:20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。
5:21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

2列王記4:1 預言者のともがらの、ひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのふたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。
4:2 エリシャは彼女に言った、「あなたのために何をしましょうか。あなたの家にどんな物があるか、言いなさい」。彼女は言った、「一びんの油のほかは、はしための家に何もありません」。
4:3 彼は言った、「ほかへ行って、隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。
4:4 そして内にはいって、あなたの子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、そのすべての器に油をついで、いっぱいになったとき、一つずつそれを取りのけておきなさい」。
4:5 彼女は彼を離れて去り、子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、子供たちの持って来る器に油をついだ。
4:6 油が満ちたとき、彼女は子供に「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。
4:7 そこで彼女は神の人のところにきて告げたので、彼は言った、「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供たちはその残りで暮すことができます」。

マタイ6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

金曜徹夜祈祷会 礼拝説教メッセージ
物事がはっきりと見えるようになるために(エペソ1:17-23)
Youtube動画
メッセージ音声

______________
心に黒雲がかかっているような時は無いだろうか。
人と話している時に、話している言葉が理解できなかったり、あさってな事をしてしまって、人に指摘されてしまったり、注意された事が心に残らず、また同じ事をしてしまったり、心にもやがかかっていて現実感が無い。

特に、聖書は霊的書物である。ある人は、読んでみるとものすごく心が引き込まれたり、ある人が読むと、まったくもって理解できなかったり、ある人はとても不愉快になったり。
聖書は剣であり、闇と光を切り分け、信じる人には永遠のいのちへの道だが、信じない人には、裁きに両断される剣となる。
特に、この聖書を読む時、理解できなくて、曲解し、あさってな理解をしてしまう。
かつての使徒パウロがそうだった。パリサイ人として聖書を曲解して理解し、神の御子キリストにある人達を迫害してしまった。目と心に、覆いがかかっていたのである。

2コリント3:12-18、心に黒くもがかかってしまっている場面がある。
 3:12 こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、
 3:13 そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
 3:14 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
 3:15 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。

ここの状況は、ユダヤ人が、覆いがかかっていて、状況が理解できない状況である。
何によってそれは取り除かれるのか。それは、キリストによって、と書いてある。キリストが鍵なのである。
16節に、どうすれば心の覆いが取り除かれるかが書いてある。

 3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。

主に向くなら、その覆いが取り除かれる。
だから私達の側が、自由意志を用いて、主に心を向ける、という選択を取って、そう行動する。
そこまでするなら、その覆いは取り除かれるのだ。キリストによって。
さらに書いてある。

 3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
 3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

つまり、私達の側が、自由意志を用いて、主に心を向ける、という選択を取って、そう行動する時、働くのは御霊である。私達が主に向く時、その覆いを除いてくださるのは、キリストであり、そしてその働きをするのは、御霊である。

覆いが取りのけられる時、主の栄光がクリアになって、主の栄光の光を見ることが出来る。
主に向くなら、主の栄光を反射させ、人々に主の栄光を届ける事ができるのだ。
そのためには、まず私達が主に向く。そして、心の覆いを取り除く事だ。

そういうわけで、私達は、御霊によって心が晴れやかになるための祈りが必要である。
それが、エペソ1章17節からの祈りが有効なのである。
 1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ(神の認識をもたらす知恵と啓示の御霊)、

黒雲を取り除かれるのは御霊であるが、この、知恵と啓示の御霊が与えラえっるように。
知恵と啓示の御霊が無い状況であるなら、とんちんかんな事をする。覆いに覆われて、自分の中に閉じこもっているから。
ミズを犯してしまう時、自分に黒雲がかかっていないかチェックすべき。その時、17-19節の祈りをする時である。

神様に対する正しい認識ができない人は、あさってな神様像をもって、霊的あさってな事をしてしまう。

 1:18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
 1:19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

確かに、心の目がはっきり見えるようになったら、ビジネスや人間関係がうまく行くようになる。
しかし最も大事なことは、
「神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるか」
つまり、神に対する認識がはっきり見えるように、という事をこそ、真っ先に求めるべきである。
そして、神様の認識で、物事を見なさい、という事である。

知恵と啓示の御霊は、なぜ必要か。それが与えられたら、神の認識で人を見、事を判断でき、そうして、人がなぜその事をするのか、どういう弱さ、傷、本質をもって、そうするのかがわかる様になっていくから。

私達の目がはっきり見えるようにならなければ、霊的な事柄が一切できない。だから、働き人には必須の祈りである。
ただ、人の状態がわかる、までは良いかもしれがいが、ではその人をどう導いて行けば良いかわからない、という所が、問題である。
確かに人の心がわかるとか、ビジネスがうまくいくための知恵と啓示の霊を求める事も重要だが、なにより、”キリストの認識”が与えられるように求める事が、より本質である。

マタイ7:3-5
 7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
 7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

病や悪霊、過去の傷にとらわれている人、その人達の状況はある程度わかるかもしれない。
ただ、分かったとしても、対処の仕方が分からないとするなら、頭ごなしに叱ったり、根拠のない慰め言葉で塗りつぶしたり、あさってな対応をしてしまう。
まず、自分自身の目の中に、梁がある、それを取り除くなら、兄弟姉妹をいやす事ができるのだ。
だから、まず自分自身を改善させる事が必要である。
それはどうやって取り除かれるものか。
それは、キリストによって取り除かれるものである。だからこそ、エペソ1章の、知恵と啓示の御霊を祈り求める事が重要なのだ。
イエス様の認識をもって、兄弟姉妹の目のちりを取り除く、病、悪霊を追い出す事ができるのだ。

そして、それが与えられたなら、人をいやし改善できるのみならず、自分自身がどのような立ち位置にあるのか、どれほど素晴らしい立ち位置で、イエス様がどれほど素晴らしいお方か、それを知り、感動し、健全になっていくのだ。

主が私達を通して働かれる力が、どれほど偉大であるのか、続く箇所に書いてある。
日本にもアメリカにも、色々な国に、色々な権威がある。しかし、それら全てを凌駕してあまりある力強い権威が、なんと、私達の内にいますキリストにあるのだ。

 1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
 1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

キリストの御名は、内閣権威、大統領権威よりもはるかに上の権威である。
安倍首相のハンコが押された文書は、どの省庁でも、通るが、私達は、なんと、イエス様の名前を用いてハンコを押すのと同じように、その御方の御名によって祈る特権が、与えられているのだ。
ただし、私達がその与えられた御名を、みだりに用いてはならない。イエス様の御名は、神の働きのために行使していくべきものである。
イエス様の御名は、肉欲のためでなく、公務のために、悪霊を追い出し、奇跡を行ったりするべきもので、決して、それらできるゆえに有名になろうとしたり、お金持ちになろうとしたり、するとするなら、それは公務員の公費横領のように、霊的横領になってしまう。
この与えられた特権と力は、御国の公務のために用いるべきなのだ。
かの日、イエス様に、あなたの名によって悪霊を追い出し、奇跡を行ったではありませんか、と言っても、わたしはあなたを知らない、不法をなす者、わたしから離れよ、と言われてしまう。
だから神の国の公務員として、アンバサダーとして、イエス様の御名を用いるべきで,天国の公務に則った動機によってイエス様の御名を用いる時にこそ、この莫大な力が働くのだ。

 1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
 1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

北朝鮮最高指導者の権威は、たとえこの地上のあの領域で権威が通ったとしても、来るべき天国では通らないが、キリストの権威は、この地上でも、かの世でも、いっさいの上にその権威が通るのである。
そしてさらに。

 1:23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

教会はキリストのからだである。そして、その上にキリストがおられるから、イエス様の権威を持つことができる。
逆に、イエス様の認識を持たないなら、キリストのからだとしての機能は無いのだ。
信仰の先人たちは、イエス様の認識を持っていた、ために、それぞれ与えられた賜物を駆使して、キリストのからだの建て上げをした。
ある人は、イエス様の認識に沿って、お金持ちになって、教会の働きを助けた。
ある人は、大いなる政治家となって奴隷解放をした。

だから私達は、もしイエス様の認識がなければ、私達はイエス様のからだにはなれない。
知恵と啓示の御霊はなぜ必要か。それは、イエス様の認識を持つために必要。かしらなるイエス様の認識を持った
このイエス様の認識をもって動く、という事なら、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満たして下さるのだ!ありえない事である。
キリストの権威を帯びて、キリストの御旨をなすために、キリストの御名を用いて宣言するなら、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたの権威において、それが行使されるのだ!それが、教会、エクレシアに与えられているのだ!

エクレシア、それは召し出された者たち。人々。その私達が、キリストのからだであり、ある人には同じ御霊から預言が、ある人には同じ御霊から、施しのできるお金が、与えられ、それぞれが同じキリストの認識に沿って行動する時、それぞれの賜物を行使して、それぞれがキリストの事業、この国を神の国へと変えていく事業に参加するのだ。

エデンにおいて、
まだ人が罪を犯す前、神様から与えられた事業、すなわち、エデンをメンテナンスするという働きを、忠実に行っていた。その時、いっさいのものを、いっさいのものによって満たす方の満ちておられる共同体の中で、健全に、アダムとエバは働いていた。
しかし、神から独立した、神のようになれるという”善悪を知る種”が、彼らの内に埋め込まれてしまった。その時から、神の国の事業に参加する参加者という立ち位置から脱退し、おのおのが独立した、”リトル神”になって、身勝手な善悪判断によって、おのおのが独立的に身勝手な事をし初めた。
だから、被造物はめちゃくちゃになってしまったのだ。
だから、私達が再び本来の人間の状態になるためには、エクレシアである教会につながり、もはや自分の善悪判断によって「リトル神」である事を捨て去って、まことの神にあって教会に参加し、共に与えられた賜物に応じて、おのおのの仕事をする時に、教会はキリストのからだとなって、いっさいのものを、いっさいのものによって満たす方の満ちておられるところのパワーをもって、行使できるのである。
それが、教会に与えられた特権なのだ。

 1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
 1:23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

私達の内にいますキリストが、どれほど偉大なお方であり、どれほど素晴らしい事業に参加しているのか、認識できますように。

いっさいのものをキリストの足の下に!
まだ罪を犯していない人類に対して与えられた祝福は、
 1:28 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

この、支配せよ、治めよ、とは「足の下で踏む」という意味もある。
だからもし、サタン、ヘビが足の下に、ニョロニョロと来たなら、足の下で踏む!という事を、私達がしなければならない。もしそれをしないで、サタンとの会話にはまってしまったら、エデンがめちゃくちゃにされたあげく、追い出されてしまう。
踏まないとするなら、キリストの認識に無い事になってしまう。
キリストは今も、踏み続けているのだ。神にさからうものは踏み続け、キリストの体で有り続けるべきなのだ。

私達に与えられている特権がどれほど素晴らしいものか。全てにまさる名である。この世でも、かの世でも。
私達がその御国の事業に参加する時、イエス様の御名によって権威を行使しようとするなら、それは受理されて天に届けられる。
しかしもし、身勝手な肉欲の善悪判断に基いてイエス様の御名を行使しようとするなら、受理されない。
だから、御国の事業に参加する、神の国の全権大使として、神の国から遣わされた戦士として、それをなしていくべきである。
もし兵士が、力づくで弱い人からお金を巻き上げるような事をするなら、そのような者は解雇されてしまう。
バプテスマのヨハネが同じ事を言っていた。兵士に対しても、取税人に対しても。
自分の役割を悪用して、奪い取るということを止める、それをすることが、自分の目から梁を取り除く事。
もしそれをしないなら、自分と同じ罪をしている人から、目のちりを取り除く事が出来ない。

梁とははるかに回数を重ねてたくさん過ちをした人。罪を増し加えて、太くなった。
梁は、家をささえる頑丈な横木。それを取り除いていない状態で、私達は、神の認識に立つことはできない。
罪の性質によって自分を支えている梁を、取り除かなくてはならない。

まとめ。今日のメインは、17節から19節の祈り。
1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
 1:18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
 1:19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

この祈りをメインの祈りとするべき。
目がはっきり見えるようになるために、梁が取り除かれ、人をいやすのみならず、まず自分自身が癒され、神がいかに素晴らしいお方であるのかをますます認識し、神の認識に立って、神の国の事業に参加し、イエス様の御名を行使する時、その力が発揮され、みなさんの人生が変えられ、人の人生をキリストにあって変える事のできる主の働き人となっていくみなさんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

ベエル・シェバを受け継いだイサク出生の秘密(創世記18章9-15)
Youtube動画
メッセージ音声

18:9 彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。
18:10 そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。
18:11 さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。
18:13 主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。
18:14 主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。
18:15 サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。

<祈り>
私達に笑いを与えて下さる主を誉め称えます。いかに恐れまどいがあろうとも、また、現実の問題の山に押しつぶされそうでも、それでもあなたは私達を笑いへと導き、喜びのエデンへと導いて下さる事を感謝します。
この時間も私達にまことの笑いへと導いてくださるように。世の笑いでなく真の笑いへ、決して廃れる事の無い喜びへと導いてください。語るしもべ、聞く一人ひとりを整え、主の語られる事を余す所なく受け止めるこの時でありますように。これからの全てを期待し、我らの主イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

<メッセージ>
ベエル・シェバという事で今年は始まった。ベエル・シェバを受け継いだのはイサクだった。
イサクの名前の意味は、「彼は笑う」。イツァハクという発音だが、その元となる言葉はツァハァク、「笑い」
ツァディ、ヘット、クフ、の3文字。冷笑とか苦笑い、嘲り笑いなどの意味がある。真理ではない側の笑い。
そんなのありえないよ、というような笑いである。

サラは、笑った、とある。
ここは、どういう場面か。その時サラは89歳、アブラハムは99歳。
来年のいまごろ、サラには男の子が生まれている、という約束を、この場面の少し前にいただいていた。
17章では、アブラムが99歳の時、神が「全能の神(エル・シャダイ)」として現れて、あなたを大いなる国民とする、そして、あなたの名を「アブラハム(多くの人々の父)」とする、と変えられ、また、サライも「サラ」と名前が変わった。

 17:15 神はまたアブラハムに言われた、「あなたの妻サライは、もはや名をサライといわず、名をサラと言いなさい。
 17:16 わたしは彼女を祝福し、また彼女によって、あなたにひとりの男の子を授けよう。わたしは彼女を祝福し、彼女を国々の民の母としよう。彼女から、もろもろの民の王たちが出るであろう」。
 17:17 アブラハムはひれ伏して笑い、心の中で言った、「百歳の者にどうして子が生れよう。サラはまた九十歳にもなって、どうして産むことができようか」。

なんとアブラハムも当初、笑った。100歳の者に、90歳の者に、子供が生まれようか、と。
しかし神は「エル・シャダイ」、全能の神として現れて下さった。全能なのである。100歳の者に、90歳の者に、子供が生まれる?人間の常識からすれば、笑い、ツァハァクしか生まれない。ありえない、と。
しかし神は、本気で、サラから男の子を生まれさせよう、とはるか前から決めている。

その13年前、サラは自分を決定的に貶める事を自らしてしまう。
アブラハムは、妻の声に従って、奴隷女ハガルをあてがわれ、男の子を産んだことにしよう、と。神様の約束がなかなか果たされないのを、待ちきれず、自分の考えや世の流儀に従って行った結果、サラに待っていたのは、とてつもない惨めさ、であった。
確かにハガルを通してすぐに男の子が生まれた。自分は何十年も生まれなかったのに、ハガルとくっつけたら、すぐさま生まれ、致命的な恥を被った。それ以降、アブラハムの家の中での注目は、ハガルとの間に生まれたイシュマエルへと移り、サラはどんどん家の中で軽んじられるようになって行った。
だから既にこの時、虚しさしかなかった。自分には子供がいないまま、女の道も閉ざされてしまった。その現実、自分は取り残され、この体では、この人生ではもう手遅れとなって久しい。そして彼女の心は、もう自分の人生には、何の喜びもない、という、ぼんやりとした倦怠感から来る、「あきらめ」が分厚い層をなして覆っていた。

そこで18章、主は、サラのあきらめによって覆われた心に手を加えるため、3人の人として現れる。
アブラハムはこの3人を見ると、すぐに接待した。彼らが主とその御使いだとは知らずに。
しかし途中から、この3人は只者ではない、という事が分かってくる。

18:9 彼らはアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。

彼ら、初対面の旅人だったはずだし、サラという名前も、ついこの間、神様によって変えられたばかりだった。
それを知っているこの3人は何者か、と、びっくりしただろう。サラも、この3人がなぜ新しい神様から与えられた名前を知っている、何者だろう、と、びっくりしていい所ではあるが、しかし彼女は「どうでもいい感」がある。心が倦怠感やあきらめで満ちているなら、あまりびっくりしない。

あきらめに閉じ込められてしまって現実を生きていない人の特徴。
ぼんやりしている人を驚かせようとするのは、難しい。場の皆が、ある事で笑いこけたり、あるいは悲しんだりしている場面でも、ぼーっとして、自分の思い込みに自分の全部が行ってしまっているので、目の前の現場で起きている事が全然分からない。
サラは、傷ついていた。ハガルの事で。イシュマエルが生まれてから、葛藤もすごかった。だから、サラ自身、現実の世界を見ないで、どうでも良いという事で行きていたかもしれない。
だから、主が手を加えずをえなかった。そんなサラの心の状態で、イサクを与えるわけにはいかなかった。
現実感が無いまま、母の役割を与えるわけにはいかなかった。だから、主がいざ、約束していたものを与えようとする直前に、人の側が整えられていなかったら、主は急激にその人に手を加え、活を入れる。
現実感がない人を笑わせるのは、至難の業である。

思いが何か捕らえられていると、面白いこと、悲しいことに、なかなか心が震えない。あまりに蔑まれる事、軽んじられる事が続いていると、防衛本能が働いて、喜びとか笑い、怒り、悲しみが、なくなってしまう。サラにはそういう所があったのかもしれない。
只者ではない3人が現れるのだが、サラは、あまり現実感が無い。

再三の主から約束を思い出させられても、心のあきらめを払拭させないサラ。
18:10 そのひとりが言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生れているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。
18:11 さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。
18:12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。

ここの笑いが、ツァハァク。そして、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」サラは、心の中で笑うしかなかった。自分の名前を知っていて、神様の約束、来年の今頃、男の子が生まれる、という事を、なんとこの人達は知っている、と。
ああ、不思議な人達ですね、神様から遣わされた人達なのかしら、くらいの気持ちでいて、でも、その内容に対してはツァハァクした。
彼女は、約束した言葉が、なかなか信じられなかった。17章からこの場面に至るまでも、神様は、何度も「サラが」「サラが」と繰り返し言っているのに、彼女の心の中は、惨めな現実で塗りつぶされた13年のゆえに、神様の言葉に全く現実感を持てなかった。神様は、アブラハムには約束された、すると、ハガルを通して得た、でもわたしはその喜びの範囲外だ、と。

女の力が衰えてしまったというサラの「現実」から、「真実」へとサラを引きずり出す主。
サラは、ハガルに、何もかも負かされていた。若さにしても、産む力にしても、人を惹き付ける力にしても、そうした「女力」のあらゆる面で。自分はただ衰退して行くという現実、それに対するあきらめに、埋もれつくされてしまった心に、主は手を加えられる。

18:12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。

サラが、この言葉を心に思ったとたん。彼女は、現実から、真実へと引きずり出される。
空想から現実に引きずり出されるというのはあるかもしれないが、主がなさるのは、現実から真実へと引きずり出される。

18:13 主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。
18:14 主にとって不可能なことがありましょうか。来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生れているでしょう」。

まことに主ははっきりと、サラに、男の子ができる、とはっきりと宣言している。

18:15 サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。

ここでやっとサラは、信じた。だから、恐ろしくなったのだ。なぜ恐ろしいか、相手は、与える、と言っているのに、自分は、ありえない、と笑ったから。彼女、自分が心につぶやいた事、彼らの見えない後ろの物陰で密かに笑った事も、全部、筒抜けであった主に対し、恐れを抱いた。彼らは、叱っている。。。
一瞬にして、目の前におられるお方は主だと本当に分かって、今までぼんやりと主の前に失礼な事を心でつぶやき、笑うという失礼な事を行って来た、主がそれにいかって、もう、与えると言っておられた事を差し止めてしまったらどうしよう、と、恐れたのかもしれない。

ここにおいて「笑う」という言葉が何度も出てくる。前の章でも、アブラハムがサラに男の子が生まれると聴いて笑った。え、あの妻サラが?と。サラは、ぱっとしない存在になってから久しかったのだろう。
けれども主の御旨は前からずっと、アブラハムとサラの夫婦だったのだ。サラから生まれる、という事こそが、肝心だった。

だから主は、サラが母になるために、整えをしておられたのだ。
今まで90年ちかく、子供がいない女性として生きてきた。サラはずっと子供が生まれない状態で生きてきた、諦めていた、そのところを、主は、真実へと彼女を引きずり込んできた。
真実とは何か。神の言葉、それが、真実である。
現実とは、神の言葉ではない、廃れるべき、目の前で展開されている物事の映像であり、聞こえてくるものである。
しかし主は、決して廃れる事の無い御言葉、真実へと引きずり込まれる。
そして永遠に廃れる事のない御言葉とは、私達への約束であり、あの時のアブラハムとサラ夫婦に対する約束とは、彼らには子供が生まれて、産んで増えて地に満ち、砂粒ほどの、空の星々ほどの数へと増えていく。
それがあの時の主の約束であり、主はサラを現実から真実へと引きずり込み、たとえ90歳であろうと子供が確かに生まれるという確約へと彼女の心を持って行った。

主がサラの心に手を加えられ、サラが現実でなく真実を見るようになって以降、多くの変化が起こる。
まず、女としての力が戻ってくる。
サラには生理が途絶えていたが、それが止まって久しくなっていたのが、再び通うようになったのだろう。
さらにその後、ペリシテの王アビメレクとの事件が起こる。(20章)
このアビメレクの所にアブラハム・サラの夫婦が行った所、サラがあまりに美しいゆえに、夫であるアブラハムは殺されて妻サラが奪われてしまわないか、と、恐れた程、サラは美しくなったのだ。
美しさも取り戻した。あらゆる女としての力を、取り戻して行ったのだ。
現実に目を奪われていた頃は、家の中で疎んじられるぱっとしない女だったのが、ぱっとする女どころか、女としての力がどんどん増し加わっていったのだ。
20:2を見ると、アビメレクが自らサラを召し入れてしまっている。真理に目覚めるなら、女としての力が戻ってくる。よその王様が見初めてしまうほど。90歳近くの女性が、美しいゆえに、略奪結婚されてしまう程。

母親になるためには、さらに整えられなくてはならなかった。
18章では、諦めきっていた心に手が加えられたが、20章では、子供が生まれる事が、神の栄光になるために、彼らのそれまでの立場、「兄妹」という「偽りの表明」が正されなくてはならなかった。
100歳と90歳の夫婦の間に子供が生まれる、これは神の栄光になる。しかし、100歳と90歳の兄と妹との間に子供が生まれる、これは、ケモノにしか聞こえない。
だからまず、その嘘偽りの口癖を、取り扱う必要があった。夫婦だった、その夫婦の間に子供が生まれた、となれば、主はまことに素晴らしい、という証が成り立つ。だから、イサクが生まれるまでの間、主が色々な整えをされたのだ。
主の約束が与えられてからの一年間、色々な主の取り扱いを通して、サラの母としての整えと、神の民としての整えが成されて行き、ついに21章、子供が生まれる。

 21:1 主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。
 21:2 サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
 21:3 アブラハムは生れた子、サラが産んだ男の子の名をイサクと名づけた。
 21:4 アブラハムは神が命じられたように八日目にその子イサクに割礼を施した。
 21:5 アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった。
 21:6 そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。
 21:7 また言った、「サラが子に乳を飲ませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それなのに、わたしは彼が年とってから、子を産んだ」。

サラの心が平安な喜びと笑いで満ちているのがわかる。
彼女は子供を産んだのみならず、乳をあげた。色々な面で、彼女に女としての力が戻ってきたのだ。
だからこそ、現実が絶望へと導こうと襲いかかってくる時、現実逃避へと逃げ込むのではなく、真理の御言葉を取るべきなのだ。そうするなら、女としての力、男としての力も、戻ってくる。
主が、喜び、笑い、をもたらして下さる。

主の御旨は、喜ぶこと。いつも

1テサロニケ5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

神は元々、人を喜ばせたい。神は人を喜ばせたいから、人を創られる前にエデンを造った。
実はヘブライ語を見ると、創世記18:12に、エデンが出て来る。

創世記18:12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、わたしに楽しみなどありえようか」。

この「楽しみ」が、エデンである。
サラは、老いぼれてしまった私に何のエデンがあるだろうか、と言ったが、しかし神の御旨は、人をエデンへ置く事。だから主は人を創られると、人をエデンへと置かれたのだ。
エデンで喜びの夫婦関係を築かせ、喜びの自然環境との関係を築かせるために、エデンすなわち喜びの園を、あらかじめ設けておられたのだ。
サラは、エデンがなくなってしまっている、何のエデンがあるだろうか、と思っていたが、主は彼女に、エデンをつくってくださった。憐れみである。ただ神様の約束があったゆえに、サラは喜びが帰ってきた。

だから私達は、神に望みを置くべき。
そして、現実と真実が互いに対立する時、真実のほうを取るべき。
時に、現実があまりにひどすぎて、心の中がどんより曇ってしまう時、垢が溜まってしまったかのような時は、サラにして下さったように、主が手を加えて、真理へと引き戻してくださる事がある。
それを、私にも下さい!と祈るのだ。あまりに蔑まれる事が続いて、現実逃避が続き、どんより曇ってしまったこの心に、主よ、手を加えて、私にイサクを取り戻してください、エデンへと導いてください、と。

ヘブライ語で、ツァハァクと言うが、そこにヘブライ語の文字ユッドが加えられると、イツァハァク、イサクへとなる。ヘブライ語のユッドは、手の意味がある。つまり、嘲り笑い、冷笑のツァハァクに、主の手が加えられると、イサクへと変わり、それは決して奪われる事のない、真理の笑いとなった。
今、インターネット上では、嘲笑で満ちているが、そこに主が手を加えられるなら、決して廃れることのない真実の笑いへとなる。だから、真理の御言葉を取るべきなのだ。

21:6 そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。
ここは、KJVから訳すと、神はわたしを、笑うようにさせてくださいました、聞く者は、わたしとともに笑うでしょう。

神は、人を、笑うようにさせてくださり、聞く人は一緒に笑うようにさせて下さる。
89歳の女性に、生理が再び戻って来て、美しくなって、実際美しさゆえに略奪結婚される程になり、そして90歳になって子供を産んだ。乳が出るようになって、赤ちゃんに飲ませた。90歳になって、女としての力が戻ってきた。これは、喜びの笑いがこみ上げてくるものだ。まさしく主はそうだ、私達をも、笑うようにさせてくださる。

1テサロニケ5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

喜ぶ事を、神様は望んでおられる。それ故神様は、人をエデンへと置かれた。
サラはエデンから離れてしまっていた。自分勝手にしてしまったあの事この事のゆえに。エバもそうだった。
だから真理の言葉、神の言葉へ従っていくべきなのだ。そうするなら、神は、笑いへと導いて下さる。


喜びから外されてしまうコツは、神の言葉から離れる事。
詩篇126篇もそうである。
都もうでの歌
詩篇126:1 主がシオンの繁栄を回復されたとき、われらは夢みる者のようであった。
126:2 その時われらの口は笑いで満たされ、われらの舌は喜びの声で満たされた。その時「主は彼らのために大いなる事をなされた」と/言った者が、もろもろの国民の中にあった。
126:3 主はわれらのために大いなる事をなされたので、われらは喜んだ。
126:4 主よ、どうか、われらの繁栄を、ネゲブの川のように回復してください。
126:5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

なぜシオンは囚われ人になったか。それはイスラエルの側が、神の言葉から離れ、好き勝手な事をしていたゆえに、バビロン捕囚の憂き目に遭っていた。それで笑いが取り除かれ、エデンから追い出されてバビロンへと連行されていた。そこを、主が憐れみを施してくださり、帰してくださった。真理の言葉に返るからだ。

126:5 涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。
126:6 種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。

真理の中へと入っていくという、努力の種をまいていくべきなのだ。
そうするなら、喜びの刈り取りが待っている。
現実を見るに、まことに絶望しか見えない、希望が見えない、お金や食べ物がない、そのような所から、主は人を喜びへと帰してくださる。
種を巻いていくなら、束をかかえて喜びながら帰ってくる。

真理に、御言葉に、種を蒔いて行く。するなら、主は笑いで、喜びで満たしてくださる。
だからこの一年、御言葉に種を蒔こう。真理に種を蒔こう。真理と現実が対決する時、真理のほうを取るなら、やがて喜び笑いで満ち溢れながら大いに刈り取りができる。
種まきの収穫で喜び溢れながらこれからを過ごしていく皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

メインメニュー
礼拝ライブ中継

礼拝ライブ中継!

礼拝ライブ中継!

過去の礼拝映像も視聴できます

メッセージ
Twitter
このページを紹介!

 
 
 
礼拝週報
携帯メールで毎日メッセージを購読!無料!

以下コードを読み込み、空メールを送信すれば登録できます。

パソコン/ウィルコム/スマートフォンで受信:以下にメールアドレスを入力下さい。

メルマガ購読・解除
日々のバイブルメッセージ
   
バックナンバー
powered by まぐまぐトップページへ
Podcast

以下画像をitunesへドラッグすれば、更新が自動的にPodcast配信されるようになります。

※2016/1/1より以前に登録された方は、再度、以下Podcast画像をitunesへドラッグする必要があります。

 主日礼拝ポッドキャスト

定期祈祷会ポッドキャスト

その他音声 ポッドキャスト

天声モバイルサイト!

検索
Copyright ©横浜天声キリスト教会
All Rights Reserved.
 〒231-0058 神奈川県横浜市中区弥生町2-17 ストークタワー大通公園-201
TEL/FAX:045-326-6211

ephes_03-tensei@ yahoo.co.jp
© 2010 Powered by XOOPS Cube 2.1
Welcome Guest