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メッセージ - 定期祈祷会メッセージカテゴリのエントリ

神の戦いが成就する条件は、余計な言葉を発しない事(ヨシュア6:8-11)
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神の民をさばきの火で精錬し、残された宝の民を喜び楽しんで下さる主(ゼパニヤ書)
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ゼパニヤ書といえば、3章後半の慰めに満ちた言葉が有名であろう。
しかしゼパニヤ書の前半は、表向きは礼拝者でありながらその実は主を主とせず別物を彼らの主としている者達へのさばきが示されており(1章)、また、主を知らない異邦の者達で主の民を脅かし圧迫する者達へのさばきが示されており(2章)、主に聞かず反逆と暴力に満ちた者達へのさばきが示されている(3章前半)。

主の民といっても、良い麦と毒麦が混合されたような状況であるが、主は、必ず良い人には良い報いを、悪人には悪い報いを、報いてくださる。
その中で、さばきを免れる人は、1章では7節、2章では3節、3章では7−8節の行いをする人達だろう。

ゼパニヤ1:7 主なる神の前に沈黙せよ。主の日は近づき、主はすでに犠牲を備え、その招いた者を聖別されたからである。
ゼパニヤ2:3 すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。
ゼパニヤ3:7 わたしは言った、『これは必ずわたしを恐れ、懲らしめを受ける。これはわたしが命じたすべての事を見失わない』と。しかし彼らはしきりに自分の行状を乱した」。
3:8 主は言われる、「それゆえ、あなたがたは、わたしが立って、証言する日を待て。わたしの決意は諸国民をよせ集め、もろもろの国を集めて、わが憤り、わが激しい怒りを/ことごとくその上に注ぐことであって、全地は、ねたむわたしの怒りの火に/焼き滅ぼされるからである。
 

その事を経て、火の中をくぐって助け出されたような人達に対する、慰めに満ちた預言が、次の言葉なのだ。

ゼパニヤ3:11 その日には、あなたはわたしにそむいたすべてのわざのゆえに、はずかしめられることはない。その時わたしはあなたのうちから、高ぶって誇る者どもを除くゆえ、あなたは重ねてわが聖なる山で、高ぶることはない。
3:12 わたしは柔和にしてへりくだる民を、あなたのうちに残す。彼らは主の名を避け所とする。
3:13 イスラエルの残りの者は不義を行わず、偽りを言わず、その口には欺きの舌を見ない。それゆえ、彼らは食を得て伏し、彼らをおびやかす者はいない」。
3:14 シオンの娘よ、喜び歌え。イスラエルよ、喜び呼ばわれ。エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。
3:15 主はあなたを訴える者を取り去り、あなたの敵を追い払われた。イスラエルの王なる主はあなたのうちにいます。あなたはもはや災を恐れることはない。
3:16 その日、人々はエルサレムに向かって言う、「シオンよ、恐れるな。あなたの手を弱々しくたれるな。
3:17 あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。
3:18 「わたしはあなたから悩みを取り去る。あなたは恥を受けることはない。
3:19 見よ、その時あなたをしえたげる者を/わたしはことごとく処分し、足なえを救い、追いやられた者を集め、彼らの恥を誉にかえ、全地にほめられるようにする。
3:20 その時、わたしはあなたがたを連れかえる。わたしがあなたがたを集めるとき、わたしがあなたがたの目の前に、あなたがたの幸福を回復するとき、地のすべての民の中で、あなたがたに名を得させ、誉を得させる」と/主は言われる。
 

ベツレヘム - パンの家(ルカ2:15-16)
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ルカ2:15 御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。
2:16 そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。

この羊飼い達は、ただの羊飼いではなかった。
御使いは、

ルカ2:11 きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。

と言ったのである。ダビデの町といえばエルサレムなのだが、しかし救い主がお生まれになる所は、預言書ミカに記されている通り、ダビデの生まれ故郷、ベツレヘムである。

ミカ5:2 しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちから/わたしのために出る。その出るのは昔から、いにしえの日からである。

羊飼い達は、御言葉にいつもなじみ、御言葉を理解していた。そして、忠実だった。忠実に羊達を守り、忠実に御使いから告げられた事をすぐさま実行し、急いで行ったのだ。
それに引き換え、エルサレムにいた人達、ヘロデの王宮にいた人達はどうであったか。
王宮の中の人達は、祭司や学者以外、ミカ書を知らなかったし、メシヤであられるお方がどこでお生まれになるのか、知りもしなかったし、知ったとしても恐れ惑い、あるいは殺そうとした。
ヘロデ王は下心をもって博士たちに調べて報告するよう言ったが、結局そのたくらみは主がご存知であり、博士たちにスルーされ、幼子にもスルーされ、怒ってその地方の赤ちゃんを大勢殺すような暴挙に出たが、そのすぐ後に死んだ。

このように、御言葉を常に慕い求め、主から語られた事をすぐに実行する人は、彼らが赤ちゃんであるイエス様と出会い、その胸に抱っこして、胸の中にお迎えする事ができたように、イエス様と出会い、イエス様が胸の内に宿るという幸いに与る事が出来る。

ベツレヘム、その名前の意味は、パンの家であり、パンといえば、御言葉である。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉による、と書いてある。
そして、まことのパンは、イエス様である。(ヨハネ6章)
この、パンの家を求めて行く人は、御言葉なるイエス様と出会う事が出来る。
しかし、このパンの家から離れていった人には、ろくな事が起きなかった。(士師記17:8、士師記19:1、ルツ記1:1-5)

異邦の国を離れ、御言葉のパンの家ベツレヘムへと入ったルツは、ボアズの畑へ導かれ、多くのパンを得たのみならず、王の王たる家系へと嫁ぐ幸いにあずかった。
私達も、御言葉のパンがたくさんある”ベツレヘム”、すなわち御言葉を求め、行くなら、羊飼いのように、博士のように、ルツのように、王の王であられるイエス様を胸に収める恵みにあずかる事が出来るのだ。

敵の手を通して広い所へ導いておられた主(創世記26章)
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26:1 アブラハムの時にあった初めのききんのほか、またききんがその国にあったので、イサクはゲラルにいるペリシテびとの王アビメレクの所へ行った。
26:2 その時、主は彼に現れて言われた、「エジプトへ下ってはならない。わたしがあなたに示す地にとどまりなさい。
26:3 あなたがこの地にとどまるなら、わたしはあなたと共にいて、あなたを祝福し、これらの国をことごとくあなたと、あなたの子孫とに与え、わたしがあなたの父アブラハムに誓った誓いを果そう。

イサクの場合、アブラハムと逆で、父の家に「とどまる」事が、祝福の約束だった。
アブラハムの場合は、偶像礼拝と汚れに満ちた父の家から離れる事が神の領域へと進み行く事だったが、そのような信仰の父の家で生まれたイサクの場合は、信仰の家にとどまる事が祝福の源であるからだ。

26:4 またわたしはあなたの子孫を増して天の星のようにし、あなたの子孫にこれらの地をみな与えよう。そして地のすべての国民はあなたの子孫によって祝福をえるであろう。
26:5 アブラハムがわたしの言葉にしたがってわたしのさとしと、いましめと、さだめと、おきてとを守ったからである」。

イサクは、父アブラハムによって、祭壇の上で捧げられた時、父の信仰に同意し、既に自分を捧げていたのだ。
その時、父アブラハムはおよそ125歳、イサクはおよそ25歳、腕力では当然父をしのいでいたはずなのに、父に縛られるままに縛られ、父が刀を振り上げた時さえ、抵抗しなかったからである。

26:6 こうしてイサクはゲラルに住んだ。
26:7 その所の人々が彼の妻のことを尋ねたとき、「彼女はわたしの妹です」と彼は言った。リベカは美しかったので、その所の人々がリベカのゆえに自分を殺すかもしれないと思って、「わたしの妻です」と言うのを恐れたからである。

イサクはこの時、世の中の権威者と罪深い者の力を恐れ、このように偽った行動を取ってしまったが、主は、弱い信仰者をフォローし、その誤った道から正して下さるお方である。
主がフォローしてくださってもなお正しい道に戻らない事を続けるなら、列王記に記されている歴代の王達のように、災いにつぐ災いにまみれてしまう。

26:12 イサクはその地に種をまいて、その年に百倍の収穫を得た。このように主が彼を祝福されたので、
26:13 彼は富み、またますます栄えて非常に裕福になり、
26:14 羊の群れ、牛の群れ及び多くのしもべを持つようになったので、ペリシテびとは彼をねたんだ。

ペリシテ人からすれば、この、たまたま異国から流れてきたイサクの一家が、それまで自分が味わったことのない祝福、種を蒔けば100倍の実りを結ぶような有様を見て、妬みの心に満たされたのだ。そこで、嫌がらせをする。

26:15 またペリシテびとは彼の父アブラハムの時に、父のしもべたちが掘ったすべての井戸をふさぎ、土で埋めた。
26:16 アビメレクはイサクに言った、「あなたはわれわれよりも、はるかに強くなられたから、われわれの所を去ってください」。

水の少ないこの地方では、井戸はいのちそのものである。
それを、わざわざ重労働をして、ふさぐ。
神の民がする事はただいのちのわざであるが、主を知らない者がする事は、ただ、破壊である。

26:17 イサクはそこを去り、ゲラルの谷に天幕を張ってその所に住んだ。
26:18 そしてイサクは父アブラハムの時に人々の掘った水の井戸を再び掘った。アブラハムの死後、ペリシテびとがふさいだからである。イサクは父がつけた名にしたがってそれらに名をつけた。
26:19 しかしイサクのしもべたちが谷の中を掘って、そこにわき出る水の井戸を見つけたとき、
26:20 ゲラルの羊飼たちは、「この水はわれわれのものだ」と言って、イサクの羊飼たちと争ったので、イサクはその井戸の名をエセクと名づけた。彼らが彼と争ったからである。

彼は、ペリシテ人から祝福を妬まれて、父アブラハムが掘った井戸を塞がれ、アビメレクからも「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」と言われ、事実上、追い出されてしまった。(16節)
アビメレクは父アブラハムと平和条約を交わしたが、それに対する明らかな違反をしたのであり、イサクは、その強くなった武力をもって争っても、あるいは法的弁論によっても争う事が出来、そしていずれの方法を取ったにしても、勝てたはずである。
しかし彼は、そういう事は一切せず、大人しくその場所から移ってしまう。

26:21 彼らはまた一つの井戸を掘ったが、これをも争ったので、名をシテナ(敵意)と名づけた。

一度ならず二度も争いを仕掛けられた、となれば、明確な敵意があったと言えるだろう。
しかし彼は、手荒な事はせず、下手な争いごとに巻き込まれるような事を避けて、それらの井戸はくれてやり、黙って立ち去った。
これは、弱さとは言わない。
真に強い人とは、こちらに力があり、相手の方が弱いにもかかわらず、あえて武力や弁論などに頼らず、ただ神の御言葉ゆえに、相手にゆずってやる事のできる御言葉への従順と心の広さを持っている人の事である。

26:22 イサクはそこから移ってまた一つの井戸を掘ったが、彼らはこれを争わなかったので、その名をレホボテ(広い場所)と名づけて言った、「いま主がわれわれの場所を広げられたから、われわれはこの地にふえるであろう」。

やる事なす事があまりに祝福されるイサクに、ついに敵の側も恐れたのだ。それでイサクと争う事をあきらめ、ついには敵の側からイサクに平和条約を結びに来る。(26-31節)
真に怖い人とは、柔和な人である。
しょっちゅう怒っている人は、ある程度、ここまでしたら相手はこの声色で、この強面で来る、というのが想像できるが、柔和な人は、それが想像できないために、かえって恐れを抱かれるものであるし、何より柔和な人は、神様に祝福され、そして彼に良くない事をするなら、いつも神様が仕返しをして、彼は何をしても栄えるからである。

26:23 彼はそこからベエルシバに上った。
26:24 その夜、主は彼に現れて言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神である。あなたは恐れてはならない。わたしはあなたと共におって、あなたを祝福し、わたしのしもべアブラハムのゆえにあなたの子孫を増すであろう」。
26:25 それで彼はその所に祭壇を築いて、主の名を呼び、そこに天幕を張った。またイサクのしもべたちはそこに一つの井戸を掘った。

イサクは、広々とした所へと導かれた。
一見すると、敵の手によっていいようにされたかのように見えていても、実は主は、彼にもっと広い所を相続させ、そこに住むようにと、敢えてイサクが奪われるままにして導かれた、と言える。

ダビデもまた、主が「広い所」へと導かれた事を、詩篇18篇で詠んでいる。
「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ/大水の中から引き上げてくださる。敵は力があり/わたしを憎む者は勝ち誇っているが/なお、主はわたしを救い出される。
彼らが攻め寄せる災いの日/主はわたしの支えとなり、わたしを”広い所”に導き出し、助けとなり/喜び迎えてくださる。」(詩篇18:17-21)

この詩篇18篇は、彼がサウル王から救われた時に詠んだ詩篇であるが、彼は、自分のいのちを付け狙うサウル王を、自らの手で殺せるチャンスが2回も訪れたのに、自分の手でなす事はせず、正しく裁いて下さる主に全てお委ねした。
彼もイサクのように柔和な対処をしたため、主が彼の敵を裁いてくださり、結局枯れは王位を受け継ぎ、祝福され、栄えたのだ。

まさにイエス様が言われた通りである。
「柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。」(マタイ5:5)

万軍の主の熱心(イザヤ9:6-7)
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「万軍の主の熱心」は、人の救いへと向けられている。

イザヤ9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
 9:7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。”万軍の主の熱心”がこれをなされるのである。

熱心。それは無感情の逆であり、主は激情をもって、人を愛し、人を救おうとされるが、その究極形が、ひとりのみどりご・キリストである。

イザヤ37:30 あなたに与えるしるしはこれである。すなわち、ことしは落ち穂から生えた物を食べ、二年目には、またその落ち穂から生えた物を食べ、三年目には種をまき、刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。
 37:31 ユダの家の、のがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶ。
 37:32 すなわち残る者はエルサレムから出、のがれる物はシオンの山から出る。万軍の主の熱心がこれをなし遂げられる。

この箇所は、ヒゼキヤが、主に熱心に救いを求めた結果、主が答えて下さった場面である。
主は、熱心に「救って下さい」と主に呼びかける人に対しては、熱心をもって答えてくださる。

イザヤ59:16 主は人のないのを見られ、仲に立つ者のないのをあやしまれた。それゆえ、ご自分のかいなをもって、勝利を得、その義をもって、おのれをささえられた。
 59:17 主は義を胸当としてまとい、救のかぶとをその頭にいただき、報復の衣をまとって着物とし、熱心を外套として身を包まれた。

イザヤ59章は、主の前に罪を犯して歩んで来た者が、自分の罪を告白して悔い改めた人に対する、主の熱心が表れている。

 59:18 主は彼らの行いにしたがって報いをなし、あだにむかって怒り、敵にむかって報いをなし、海沿いの国々にむかって報いをされる。
 59:19 こうして、人々は西の方から主の名を恐れ、日の出る方からその栄光を恐れる。主は、せき止めた川を、そのいぶきで押し流すように、こられるからである。
 59:20 主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。

「とがを離れる者に」という所が鍵である。
自分の罪、とがを悔い改めて、そこから離れようとする人に、主は熱心をもって現れ、救わせてくださる。

新約において主の熱心はどこに現れるか。
それはまさにイエス様の十字架であり、十字架の場面全体が、主の熱心そのものである。

使徒1:3 イエスは苦難(KJV: passion)を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。

イエス様は、命がけのpassionをもって、私達を救おうとされ、そして、十字架という実体を伴った行動をもって、その愛をあらわしてくださった。

そうであるからには、私達も主に対して熱心であるべきである。
主に対しては熱く、罪やサタンに対しては冷酷に。そうではない生ぬるい信仰であるなら、主の口から吐き出されてしまう。(黙示録3:15-16)

雪よりも白くなるために(イザヤ1:2-20)
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1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
1:19 もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
1:20 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。

この有名な促しを、主がなされたそもそもの原因は、イスラエルの中の罪に、特に、イスラエルの「恩知らずさ」の指摘から、イザヤ書は始まった。

1:2 天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主が次のように語られたから、「わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。
1:3 牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない」。
1:4 ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖者をあなどり、これをうとんじ遠ざかった。

牛やろばさえも、主人への恩を知っている、というのに、神の民は、主への恩をすっかり忘れてしまって、主への感謝もなく、ただ、主から与えられた食物を食べるだけで、主を敬わない。
牛やろば以下になってしまった神の民に対し、主は4節で「ああ」と嘆いている。

1:11 主は言われる、「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。
1:12 あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。
1:13 あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること――わたしは不義と聖会とに耐えられない。

主を敬う心もなく恩を知らない者が礼拝に来るのは、単に礼拝の場を踏みにじっているにすぎない。
そこで、主の前に喜ばれるものになるために、言われた。

キリスト教といえば、赦しの宗教だと何となく知られている。
確かに、罪の赦しがキリスト教にはあるが、それは無条件のものではない。主の元に行く、という事が必要だ。
「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。」まずは主と論じあう事から、罪の赦しが始まる。
その論じ合いとは、まず、自分の側に罪があるのを主の御前に認める事と、それを隠さず主に申し上げる事から始まる。

ダビデは罪を指摘された時、正しく告白した。
詩篇51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
 51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
 51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
 51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

人は、罪を犯す。
けれども、もし犯したとしても、主の前に低くなる心を持ち、自分の罪を悲しんで、主に立ち返ろうとして「主と共に歩む」人こそ、主の民なのだ。

口達者な偽りの口に勝つ方法(詩篇12:1-8)
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【指揮者によって。第八調。賛歌。ダビデの詩。】
12:1 主よ、お助けください。神を敬う人は絶え、忠信な者は人の子らのなかから消えうせました。
12:2 人はみなその隣り人に偽りを語り、へつらいのくちびると、ふたごころとをもって語る。

世の中においては、口達者な者の意図が通る事が多々ある。たとえ、その言葉が偽りであっても。
二心を持っていても、へつらいの口でもって覆い隠して、まかりとおらせる。
ダビデはその事についての憂いを、主に持って行く。

12:3 主はすべてのへつらいのくちびると、大きな事を語る舌とを断たれるように。

神様のなさる事は何でも良い。
しかしその反対、何をしても、悪い事ばかりたくらむ者がいる。

55:10 彼らは昼も夜も町の城壁の上を歩きめぐり、町のうちには害悪と悩みとがあります。
55:11 また滅ぼす事が町のうちにあり、しえたげと欺きとはその市場を/離れることがありません。

ダビデは、そのような者達について祈っている。

55:9 主よ、彼らのはかりごとを打ち破ってください。彼らの舌を混乱させてください。わたしは町のうちに暴力と争いとを見るからです。

バベルの塔のように、その悪巧みをする者達の結束が、混乱させられ、散り散りになるように祈る祈りは効果的である。

12:4 彼らは言う、「わたしたちは舌をもって勝を得よう、わたしたちのくちびるはわたしたちのものだ、だれがわたしたちの主人であるか」と。

言葉の人でない人が、口達者な者に立ち向かうすべはない。
モーセも口達者ではなかった。しかしいかにしてモーセは、その者達に勝利しつづけたか。
それは毎回、主にひれ伏す事によって、であった。

12:5 主は言われる、「貧しい者がかすめられ、乏しい者が嘆くゆえに、わたしはいま立ちあがって、彼らをその慕い求める安全な所に置こう」と。
12:6 主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。

主の純粋な御言葉に平服し、従う事、それこそ、要塞をも打ち破るほどに力のある武器である。

2コリント10:4 わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、
10:5 神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、
10:6 そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。

12:6 主のことばは清き言葉である。地に設けた炉で練り、七たびきよめた銀のようである。

御言葉は、私という土の器の中で巡らされ、精錬されて行く時、さらにさらに尊いものとなって行く。
ある人が御言葉を差し出しても、全然力が無いのに、別の人が同じ御言葉を差し出すと、とてつもなく力があるような事があるのは、その人自身という「土の炉」で何度も試され、咀嚼し、噛み締め、味わったか、そうしなかったかの違いによる。
悪魔サタンさえ、御言葉を差し出す。しかし悪魔に属する者達は、御言葉をただ人を殺す道具としてしか使っておらず、全然思い巡らしていないし、従ってもいないのだ。

悪魔サタンの言葉に勝つ方法、その設けられた要塞を打ち破る唯一の武器は、純粋な御言葉に対する従順なのだ。

実体の無い空虚な「偶像(エリィル)」に警戒せよ(エペソ6:10-18)
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6:10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
6:11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
6:13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

パウロは霊的に武装するように命じている。
もしキリスト者が、もはや悪霊から何も攻撃を受けない、とするなら、パウロはわざわざこんな命令はしなかったはずだ。
実際、教会にかよっているクリスチャンであっても、悪霊から影響される事もあるから、だから目をさまして、武装する必要があるのだ。

悪霊はキリスト者に触れる事が出来ない、と言う人の根拠として、次の御言葉がある。

1ヨハネ5:18 すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。

神から生まれた(受動態なので「生まれさせられた」)、という点が、大事である。
逆に言うなら、神を抜きに御言葉を抜きに人間力だけで生きている人には、悪しき者からは触られ放題という事だ。
ヨハネは次のように続けているからだ。

5:19 また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。

ヨハネは認めている。全世界は悪しき者の支配下にある事を。
そしてキリスト者は、体はその悪しき世界の中で生きているものの、その中にあっても守られる根拠を次のように続けている。

5:20 さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。

キリスト者は、体は、悪しき世界の中で生きているものの、真理なるお方キリストにあって真理の中に生きており、永遠の命が与えられ、彼によって守られているのだ。
そして最後、ヨハネは警告している。

5:21 子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。(原意:自分自身を偶像から守りなさい。アーメン。)

なぜヨハネは最後に偶像から守りなさいと警告しているか。それがとても大事だからである。
「偶像」はヘブライ語では色々な言い方があるが、その内の一つに「エリィル」がある。
エリィルは「偶像」の他に、「空しいもの」「意味の無いもの」、特に占い師が作った実体的な意味の無い空しいものを現す。
無益・無駄なイメージ、英語のアイドルであり、現代の映像やゲーム、ファンタジーは、視覚・聴覚などあらゆる感覚に訴えて夢中にさせ、それに時間、お金、エネルギーを集中させ、尊い人生の時間を奪っていく。まさにエリィルではなかろうか。

レビ26:1 あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。
26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。

レビ記26章も申命記28章同様、祝福と呪いの箇所だが、ここの特徴は、最初に「あなたがたは自分のために、偶像(エリィル:無駄・無益)を造ってはならない」「わたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない」 という命令で始まる。
祝福と呪いの大元は、主の御言葉と共に歩み、それを守り行うかどうか(3,14節)、そして、その根本となる事が、「自分のために偶像(エリィル)を造ってはならない」である。
そうした魅力的なもの、夢中になる類のもので「自分のために造る」なら、神との関係がおろそかになり、続く2節の安息日や聖所での礼拝を敬わなくなって行く。
だからエリィルという実態のない空虚なもの、生産性の無い、そして夢中になるものに対し、ヨハネが警告し、パウロが警告し、そしてレビでも警戒しているわけだ。
私達は真実な事、有意義な、生産性のある事にこそ目を留めるべきであり、その最たるものは、御言葉である。

2テモテ4:1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
4:2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。

まさに今、健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれている時代である。
ゲームも映像もより洗練され、依存性を増しており、多くの若者たちから貴重な若い時と才能を奪っている。サタンの思う壺である。
だから今の時代、実態ある御言葉教育こそ緊急に必要だ。

悪霊が追い出されたとしても、もしその人が空虚なものへ明け渡したままでいては、悪霊に入りたい放題入られてしまう。

マタイ12:43 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。
12:44 そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。
12:45 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。

主はこの、汚れた霊に入りたい放題入られ住み憑かれてしまう話を話されたのは、元々、しるしを要求する者達への警告としてだった。

12:38 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。
12:39 すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。
12:40 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。

私達も、ヨナのしるし、すなわち、主の死と、三日目の復活と、そして異邦人の救いという「ヨナのしるし」のみを追求するべきであり、メディアやゲームなど、夢中にさせ、実態のないものには警戒すべきだ。
そして若者たちには、真に実りある御言葉教育を施して、彼らに祝福された人生という未来を提供してあげるべきだ。

種を蒔くべきシーズンと場所(マタイ13:1-23)
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13:3 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
13:4 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
13:5 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
13:6 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
13:8 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13:9 耳のある者は聞くがよい」。

主はたとえ話の最後に、耳のある者は聞け、と言われた。
信仰は、御言葉を聞く事から始まるが、しかし、聞いたからと言って、実を結ぶとは限らない。
聞いても、分からない・悟る事ができないとするなら、弟子達のように、イエス様の所に言って、追求するべきである。

13:10 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
13:11 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
13:12 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。

つまり、御言葉を聞くだけの所にとどまる人は多くても、それを追求し、悟るに至るまでは、少ないのである。

13:18 そこで、種まきの譬を聞きなさい。
13:19 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
13:20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
13:21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
13:22 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
13:23 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。

4タイプの土地、すなわち、人、がいる。
彼らに共通している事は、みんな、御言葉を「聞いた」事だった。(19,20,22,23節)
しかし、実を結ばせられたのは、唯一「御言を聞いて悟る人」だけだった。
悟る(スニーエミー)とは、一緒に結合するという意味もある。
だから私達は、御言葉を聞いたなら、その御言葉を結合し、自分自身と一体化させ、御言葉の通りを行う必要がある。
そういう人が、多くの実を結ぶ人である。

パウロは福音伝道という「種まき」の名人だった。
彼には、聞いたなら、すぐに行うたしなみがあった。

使徒16:6 それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。
16:7 そして、ムシヤのあたりにきてから、ビテニヤに進んで行こうとしたところ、イエスの御霊がこれを許さなかった。
16:8 それで、ムシヤを通過して、トロアスに下って行った。

自分が良い事だ、と思っていても、しかしそれが御霊によって禁じられる事がある。
たとえ、御言葉の種まきという尊い働きであったとしても。
その時、私達が為すべき事は、自分の慣れ親しんだ方法や自分の固定概念を捨てて、御霊の声に従う事である。

16:9 ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。

パウロは、聖霊の導く所へすぐに行った。
主の御胸は、この時、アジヤではなく、マケドニアだったのだ。
その時、パウロ自身も、またマケドニアの人達も、将来起こる事、すなわち、マケドニアをはじめ、ヨーロッパが福音化して行く、という事を知らなかった。
しかし、全ての人の心を知っておられる父なる神の御思いは、多くのマケドニアの人達の、救われたいと願う嘆願を、パウロに、ひとりのマケドニア人として、あらわしてくださった。
それでパウロはすぐに行動した。御言葉の種を、マケドニアに蒔いた。その結果、多くの人達が御言葉を聞いて、悟り、救いへと導かれた。

私達は、自分の思い込みで頑なに留まったりしてはならない。
心地よい所、なれた所に留まりたい、見ず知らずの所に行きたくない、という思いを捨てて、主が御霊を通して導かれる所へと行かなくてはならない。
それでこそ、多くの人達の命を救うのだ。

神の国は人が地に種を蒔くようなもので(マルコ4:26-29)
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イエス様はよく「神の国のたとえ話」をされた。

マルコ4:26  また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
Mar 4:27  夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
Mar 4:28  地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。
Mar 4:29  実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

神の国とはバシレイア・トゥー・テウー、神の支配領域である。
種は、人はどのようにして育つのかは知らないが、しかし特定の条件下になれば、ひとりでに芽が出て育って行くものである。
神の国もまた、人手によるのでなく、以下の御言葉のように、神の支配によって物事が為されていくものである。

申命記 11:10 あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。
 11:11 しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。
 11:12 その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。

マルコ4:26の「種」はスポロス、すなわち「蒔かれた状態の種」であるが、その他にも、人を援助できる資力という意味もある。
人を助けたり御霊の実を結ばせたり、神の国を成長させるためには、「蒔かれた種」である事が大切である。
太陽と雨の恵みを受けていれば何の苦労も無く自然すぎるほど自然に実を結ぶものである。
神から産まれた人は、神の種が宿っているから罪を犯さない。(1ヨハネ3:9.10)
罪も犯したとしても、神の種が宿っているなら、罪を犯し続けるということはできないのは、神の種が宿ってから、罪を犯し続けると苦しくなるのである。
それに対し、悪魔の子達は罪を犯し続けても何とも無く、正しい生活を続けられない。たとえ神を信じると言っていても、兄弟を訴え続けたり、分裂を促したりしているようでは、神の種が宿っているとは言えない。

蒔かれた状態となるのは、種自身の死を意味する。
それは人の目には絶望のように見えても、その死からいのちの何倍もの実りがはじまる。

使徒8:1  サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
ここの「散らされた」はディアスパイロー、すなわち「あちこちに」「種が蒔かれる」事である。
神が、キリスト者を各地に蒔かれたのである。その結果、御言葉の種が広がり、キリストのいのちが爆発的に広がっていった。

神が蒔かれたなら、光なるキリストに照らされてひとりでに育ち、以下の御霊の実を豊かに結ぶ。
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
 5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

イエス様は主の祈りにおいて、神の統治が為されるようにと祈るように教えられた。
マタイ6:10  御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

結局、神の統治は人にとって最善・幸いなのだ。

申命記11:8 ゆえに、わたしが、きょう、あなたがたに命じる戒めを、ことごとく守らなければならない。そうすればあなたがたは強くなり、渡って行って取ろうとする地にはいって、それを取ることができ、
 11:9 かつ、主が先祖たちに誓って彼らとその子孫とに与えようと言われた地、乳と蜜の流れる国において、長く生きることができるであろう。
 11:10 あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。
 11:11 しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。
 11:12 その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
 

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