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メッセージ - 1列王記カテゴリのエントリ

ソロモンの中に密かに入り込んでいた滅びの種(1列王記3:1-4)
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『ソロモン王はエジプトの王パロと縁を結び、パロの娘をめとってダビデの町に連れてきて、自分の家と、主の宮と、エルサレムの周囲の城壁を建て終るまでそこにおらせた。』(1列王記3:1)

前章では、王国における不穏分子が全て除かれ、ソロモン王国が確立した事が記されてあった。
そしてこの3章以降、ソロモン王がさらに栄えて行く様が記されているのだが、それに先立って、彼はエジプトの王・パロの娘と結婚した事が記されている。
実はこの事は、これからのソロモンの将来を暗示する象徴的な出来事である。

ソロモン王は、その生涯において、多くの輝かしい実績を残した。
神殿建設もそうであるし、知恵と富と栄誉がふんだんに与えられ栄華を極めた点においては、世の誰にも勝っていたが、しかし彼はイスラエルに偶像礼拝を導入した”悪い王”として、その生涯は終わってしまった。
一体何が、彼をそんなに悪くしてしまったのか。
それはずばり、異邦の女との結婚である。

エルサレムを再建した偉大な指導者・ネヘミヤは言っている。l
『あなたがたの娘を彼らの息子にとつがせてはならない。また、あなたがたの息子、あるいは、あなたがた自身が、彼らの娘をめとってはならない。イスラエルの王ソロモンは、このことによって罪を犯したではないか。多くの国々のうちで彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、外国の女たちが彼に罪を犯させてしまった。だから、あなたがたが外国の女をめとって、私たちの神に対して不信の罪を犯し、このような大きな悪を行なっていることを聞き流しにできようか。」』(ネヘミヤ13:25-27)

結婚とは、男と女ふたりの人が、一つのからだとなる事である。
だから、主を信じて神の国の価値観で生きるようになった人と、世の価値観で生きる人とが、結婚する事は、ひっきりなしに自分を打ち叩いく器官を体内に組み入れてしまうような事なのだ。

聖書では、女に惑わされて、してはならない事をしてしまい、その身に呪いを招いてしまった事例を沢山見る事が出来る。
最初の人アダムしかり、洪水前の神の子達しかり、サムソンも、アハブも、そしてソロモンも、皆、女によってその身を滅ぼしてしまった。
男性はそれ程、女性から影響を受けやすいものだという事を知るべきであり、女性もまた、男性の信仰と祈りを煩わせないよう気をつけるべきだ。

『そのころまで主の名のために建てた宮がなかったので、民は高き所で犠牲をささげていた。ソロモンは主を愛し、父ダビデの定めに歩んだが、ただ彼は高き所で犠牲をささげ、香をたいた。ある日、王はギベオンへ行って、そこで犠牲をささげようとした。それが主要な高き所であったからである。ソロモンは一千の燔祭をその祭壇にささげた。』(1列王記3:2-4)
ここに出てきた「高き所」というキーワードは、列王記や歴代誌では頻繁に出てくる。
高き所(バーマー)とは、「礼拝する場所」ではあるが、まことの神を礼拝する場所とは限らない。

元々、カナン地方では、山や丘の小高い所や、木の茂った所などに、この「高き所」を築き、そこで偶像礼拝をしていたが、主はモーセを通じ、それらを壊すよう命令していた。
『これは、あなたの父祖の神、主が、あなたに与えて所有させようとしておられる地で、あなたがたが生きるかぎり、守り行なわなければならないおきてと定めである。あなたがたが所有する異邦の民が、その神々に仕えた場所は、高い山の上であっても、丘の上であっても、また青々と茂ったどの木の下であっても、それをことごとく必ず破壊しなければならない。彼らの祭壇をこわし、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を火で焼き、彼らの神々の彫像を粉砕して、それらの名をその場所から消し去りなさい。』(申命記12:1-3)

ヨシュアの時代、それらはことごとく破壊され取り除かれたはずだった。
しかし、イスラエルが次第に土着の者達と連合して行く内に、偶像礼拝がはびこるようになってしまった。
士師記の暗黒時代を経て後、サムエルの時代に宗教改革が為されて偶像は撤廃され、高き所は、主を礼拝する場所となった。(1サムエル記9-10章)
しかし、列王記・歴代誌の中で時代が降って行く内に、「高き所」は次第に偶像礼拝の場所としての意合いが強くなって行き、主を礼拝する場所との区別がつきにくくなって行く。

主は礼拝について、律法で何と言っているか。
『あなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、あなたがたの神、主が、御名を住まわせるために選ぶ場所へ、私があなたがたに命じるすべての物を持って行かなければならない。あなたがたの全焼のいけにえとそのほかのいけにえ、十分の一と、あなたがたの奉納物、それにあなたがたが主に誓う最良の誓願のささげ物とである。』(申命記12:10-11)
『全焼のいけにえを、かって気ままな場所でささげないように気をつけなさい。ただ主があなたの部族の一つのうちに選ぶその場所で、あなたの全焼のいけにえをささげ、その所で私が命じるすべてのことをしなければならない。』(同13-15節)
つまり、本来は主が定められた場所・以外では、気ままに礼拝をしてはならないものであった。
それなのに、ソロモンの時代もそれ以降も、”高き所”はずっと取り除かれないままだった。
本来なら高き所での礼拝は違法だったが、イスラエルの信仰がまだ未熟な時や、まだ不安定だった時は、主の憐れみによって赦されていた。
しかし、各問題が平定され、成熟した時、それらを自ら取り除く事を、主はずっと待っておられたのだ。
しかし高き所がようやく取り除かれたのは、13代目の王・ヒゼキヤ王の時代だった。

今や、イエス様がまことの小羊としてただ一度捧げられた事によって、もはや犠牲としての動物を捧げる礼拝は必要なくなり、どこか神殿などの特別な場所に行く必要は無く、霊と真理によって主を礼拝する時代となった。
今や私達が取り除くべき「高き所」とは、私達が過去に行っていた良くない行いや、忌むべき世のならわしという「高き所」である。
「高き所」での礼拝は、一見良いもののように見えても所詮は主の御言葉から外した礼拝であり、すぐに偶像礼拝へと転換してしまったように、私達も、御言葉に従っていない「一見良いもの」は取り除くべきである。
それは、過去の忌むべき行いかもしれないし、あるいは世の価値観との連合や結婚かもしれない。
それらは、いきなり止める事は出来ないかもしれないが、主の憐れみはいつも注がれており、それを取り除く事ができるまでに成熟した時、取り除くものである。

そのように純粋に主に喜ばれる道を歩み、成熟して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

平和の都、平和の王から離れてしまったシメイ(1列王記2:36-46)
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ソロモンは続いて、シメイへの対処を行う。
シメイは、ダビデがアブシャロムに追われて本当に困っていた時、ダビデ一行にさかんに呪いの言葉を浴びせ、石を投げつけながら、一行の傍をついて行った。
しかし、ダビデがアブシャロムに勝利し、これからダビデが栄える事が確定した時には、真っ先にダビデの元に駆けつけて、平伏して謝罪し、命を拾った者だ。

彼は、ダビデ王にこの上なく失礼な事をしたのに、それでもダビデ王が彼を赦したのは、もし、真っ先にダビデ一行を迎えに出て謝罪したこの者を殺していたのなら、それまでアブシャロムの側についてダビデに反していた大くのイスラエル人たちは、恐怖し、ダビデにますます心を閉ざし、さらに反乱分子が沸き起こっていた事だろう。
しかし、ダビデ王が示したその大きな憐れみの故に、多くのイスラエルはダビデ王に心を開くようになった。

そういうわけでシメイはあの時、殺されずに済んだのだが、まことに彼のように、権威に対して心に一物をかかえ、口先三寸と世渡り上手さでのし上がっているような者は、王国の中では、危険分子である。
実際彼は、ベニヤミンの中では有力者で、影響力のある人だった。
ダビデ王の治世の時は、彼にはどうする事も出来なかったが、やはり彼は野放しにして置くわけには行かないので、ダビデは特にソロモンに命じたのだろう。

ソロモンも分かっていた。シメイを、ベニヤミン人達の中で野放しにしていたら危ないと。
『また王は人をつかわし、シメイを召して言った、「あなたはエルサレムのうちに、自分のために家を建てて、そこに住み、そこからどこへも出てはならない。あなたが出て、キデロン川を渡る日には必ず殺されることを、しかと知らなければならない。あなたの血はあなたのこうべに帰すであろう」。シメイは王に言った、「お言葉は結構です。王、わが主の仰せられるとおりに、しもべはいたしましょう」。こうしてシメイは久しくエルサレムに住んだ。』(1列王記2:36-39)
ソロモン王は彼に、あなたには不穏な事を企む疑いがあるから、この都から出てはならない、もし出ないなら命は安全である、しかしもし出るなら、あなたの命は無い、と言って、こうして彼を首都エルサレムで監視下に置いた。
彼は約束したとおり、三年間はおとなしくエルサレムから出ずにいて無事だったが、しかしその後、約束を破る。

『ところが三年の後、シメイのふたりの奴隷が、ガテの王マアカの子アキシのところへ逃げ去った。人々がシメイに告げて、「ごらんなさい、あなたの奴隷はガテにいます」と言ったので、シメイは立って、ろばにくらを置き、ガテのアキシのところへ行って、その奴隷を尋ねた。すなわちシメイは行ってその奴隷をガテから連れてきたが、』(1列王記2:39-40)シメイがエルサレムを出た理由は、奴隷が逃げたので、直々に連れ戻すため、であった。
別段、緊急でも重要な用事でもない。
彼には他にも多くのしもべがいただろうに、それでも彼が直々に連れ戻しに行ったのは、彼は三年もエルサレムから出ずにいたのだから遠出して気晴らしがしたかったのかもしれないし、あるいは、3年も何事も無く無事だったのだから、そろそろ大丈夫だろう、くらいに思ったのかもしれない。
ともかく、ソロモンの命令を軽んじて、約束を破った事には変わりない。

『シメイがエルサレムからガテへ行って帰ったことがソロモン王に聞えたので、王は人をつかわし、シメイを召して言った、「わたしはあなたに主をさして誓わせ、かつおごそかにあなたを戒めて、『あなたが出て、どこかへ行く日には、必ず殺されることを、しかと知らなければならない』と言ったではないか。そしてあなたは、わたしに『お言葉は結構です。従います』と言った。ところで、あなたはなぜ主に対する誓いと、わたしが命じた命令を守らなかったのか」。』(1列王記2:41-43)
シメイは、主にかけて、誓っていたのだ。エルサレムから出ません、と。
彼はダビデ王から憐れみを受けたし、ソロモン王からも、命を保つ道、すなわち、エルサレムから出ない、という約束を主にかけてしていたのに、たかだか二人の奴隷の逃亡を赦さないゆえに、出てしまい、こうして彼は弁解の余地がなくなってしまった。

ところで、エルサレムの名前は「平和(シャローム)の町」あるいは「平和の土台」を意味する。また、ソロモンの名前も、シャロームに由来する。
シメイは本来、殺されてもいいような罪を犯したのに、憐れみを受け、平和の王の都、平和の土台から出てはならない、という救いの道を示されていたのに、二人の奴隷を赦さなかったゆえに出てしまい、もはや、弁解の余地がなくなってしまった。
この事は、現代の私達も大いに気をつけるべき事である。
私達も、主に対して、決して払い切る事の出来ない罪の負債を負っているというのに、主の大きな憐れみによって、赦され、負債は免除された。
そして、平和の王であるキリストから離れず、平和の領域に留まっているなら、裁かれる事は無く、守られているのに、しかし、他人を赦さず、自ら裁き、この平和の領域から敢えて出てしまうなら、もはや憐れみの余地は無いのだ。(マタイ18:23-35)

『王はまたシメイに言った、「あなたは自分の心に、あなたがわたしの父ダビデにしたもろもろの悪を知っている。主はあなたの悪をあなたのこうべに報いられるであろう。しかしソロモン王は祝福をうけ、ダビデの位は永久に主の前に堅く立つであろう」。王がエホヤダの子ベナヤに命じたので、彼は出ていってシメイを撃ち殺した。』(1列王記2:44-46)
彼は、憐れみと赦しに富んだ王・ダビデのやさしさにつけ込んで、悪いことを赦してもらった。
そしてソロモンの時にも、エルサレムの中に留まっていれば安全だった、それでも彼は自分から出てしまった事によって、それをふいにしてしまった。
こうしていよいよ彼は、死刑という罰を受けてしまった。
私達も、何度でも許されると思って主を軽んじ、自分の思い通りに物事を押し通そうとするようなシムイの心を、取り除くべきである。

『こうして国はソロモンの手に堅く立った。』(1列王記2:46)
ソロモンはこうしてダビデ王の遺言を全うし、不穏分子を王国内から全て取り除いた。
そうしていよいよ、ソロモン王国は確立する。

ソロモン王は、聖書全体を見ると、あまり良い王ではないが、しかしこの時点、彼の将来は「良し」にも「悪し」にも開けていた。
この事は現時点の私達も、同じである。
私達の将来が良しになるか、それとも悪しになるか、それは日々の選択にかかっており、日々、平和の王キリストの支配から離れず、平和の土台から離れないなら、確実に、平安で安全な将来が待っている。

新王国の中からふるい分けられた毒麦(1列王記2:26-35)
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アドニヤは、相変わらず自分が王になる企みを持ち続けていたという事が発覚し、死という報いを受けたが、彼に与していたアビヤタルとヨアブにも、その彼に与した罪が問われる事となった。
彼らは長年ダビデ王に仕え、ダビデ王の治世では大いに活躍して来たのに、ダビデを捨ててアドニヤについてしまった故に、その長年仕えて来た実績も、また活躍して来た功績も、全て無駄となってしまった。

『王はまた祭司アビヤタルに言った、「あなたの領地アナトテへ行きなさい。あなたは死に当る者ですが、さきにわたしの父ダビデの前に神、主の箱をかつぎ、またすべてわたしの父が受けた苦しみを、あなたも共に苦しんだので、わたしは、きょうは、あなたを殺しません」。そしてソロモンはアビヤタルを主の祭司職から追放した。こうして主がシロでエリの家について言われた主の言葉が成就した。こうして主がシロでエリの家について言われた主の言葉が成就した。・・・王はまた祭司ザドクをアビヤタルに代らせた。』(1列王記2:26-27、35)
アビヤタルの先祖をたどると、あの劣悪な祭司のホフニとピネハス、そして彼らの父・エリの子孫である。
エリの子孫が祭司職から罷免される事は、実は、サムエルがまだ幼子だった時代から預言されていた事であった。

当時、エリの子ホフニとピネハスは、人々の主への尊い捧げ物を横領して自分の私服を肥やし、また、主に仕える女性達と、ふしだらな事をしていた。
それらの事で主を怒らせ、主は、預言者を遣わして彼らを戒めたのに、行状を一向に改めず、エリもまた、彼らに口先で戒めはしても、そのまま祭司職に留まらせ、こうして、神と人との前に罪を犯させ続けた。
そこで主は、彼らに、明確な警告を与えられた。
『見よ、日が来るであろう。その日、わたしはあなたの力と、あなたの父の家の力を断ち、あなたの家に年老いた者をなくするであろう。そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。あなたの家には永久に年老いた者がいなくなるであろう。・・・そしてあなたの家で生き残っている人々はみなきて、彼に一枚の銀と一個のパンを請い求め、「どうぞ、わたしを祭司の職の一つに任じ、一口のパンでも食べることができるようにしてください」と言うであろう。』(1サムエル記2:31-36)
彼らは、この警告を受けても、行状を改めなかった故に、その警告の通りになってしまう。

『しかしあなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。またあなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬであろう。あなたのふたりの子ホフニとピネハスの身に起ることが、あなたのためにそのしるしとなるであろう。すなわちそのふたりは共に同じ日に死ぬであろう。』(1サムエル記2:33-34)
この言葉の通り、エリも、二人の息子ホフニとピネハスも、同じ日に、死んでしまう。(1サムエル記4章)
彼ら全員の死が、ピネハスの妻に知らされた時、生まれた子は「イカボデ(「栄光無し」の意)」と名付けられ(同4:19)、そしてイカボテの兄・アヒトブが、後の祭司職を継ぐ事になる。
しかし、そのアヒトブの子・アヒメレクの代になると、エリの子孫の祭司たち85人は、サウル王により剣で虐殺され(同22章)、こうして、「あなたの家に生れ出るものは、みなつるぎに死ぬ」という預言が成就した。

この時、一人だけダビデの所に逃れて来たのが、今回、ソロモン王によって罷免された、アヒメレクの子・アビアタルである。
アビヤタルは、ダビデ王の時代、ダビデと苦楽を共にし、大祭司に任じられたのだが、結局、彼も最後までダビデに忠誠を尽くさなかった故、この度、罷免されてしまったのだ。
こうして、大祭司の一族は、エリの一族から、ツァドクの一族へと切り替わったわけである。
こうして、「あなたの一族のひとりを、わたしの祭壇から断たないであろう。彼は残されてその目を泣きはらし、心を痛めるであろう。」「そのとき、あなたは災のうちにあって、イスラエルに与えられるもろもろの繁栄を、ねたみ見るであろう。」という、昔に預言されていた事も、成就したのだ。

実を言うと、祭司の一族が、エリ一族からツァドク一族へと切り替わった事は、本来あるべき姿に戻った事である。
その「本来あるべき姿」とは、もっと昔、モーセの時代に定められた事だった。

この度、罷免されたアビヤタルの父祖・エリは、アロンの四男・イタマルの子孫であるが、民数記25章によると、正当な大祭司の職を継ぐ子孫とされるべきは、アロンの三男、エルアザルの子・ピネハスの子孫であるべきだった。
彼らの父祖・エルアザルの子ピネハスは、主に熱心であり、イスラエルが異邦の女と淫らな事をしていた時、それを排除して主の賞賛を受け、彼の子孫は永遠に祭司職となる、という約束を主からいただいた。(民数記25:10-13)

今回ソロモンに任命されたツァドクこそ、実は、このエルアザルの子ピネハスの子孫である。(エズラ7:1-5)
ツァドクの子孫は後に、イスラエル人が迷って主から離れた時も、主の聖所の任務を忠実に果たした、という、主の賞賛をいただき(エゼキエル44:15)、それ故、彼らは主の近くで主に仕え、祭壇のつとめが許された。
さらに、ツァドクから生まれた後の子孫には、バビロン捕囚から帰還した時の偉大な指導者・エズラがいる。(エズラ7:1-5)
彼らの父祖・ピネハスといい、この度のツァドクといい、エズラといい、この一族は、主に対する熱心と義を貫き通す、素晴らしい祭司一族なのだ。

エリの家は、確かに祭司という栄誉を得ていた。
しかし彼らは、主に対しまた職務に対し忠実でなかった故に、祭司職から降ろされてしまった。
この事は、私達キリスト者も、心に留めるべきである。なぜなら、私達キリストを信じる者たちも、キリストにあって祭司職を得ているからだ。
主は、石ころからでもアブラハムの子孫を起こす事がおできになる方であり、悔い改めに相応しい実を結ばずに、罪の苦い実ばかり結んでいるとするなら、もみがらのように投げ捨てられ、焼かれてしまうのだ。
祭司職を軽んじているなら、それが取り上げられ、その職は、別の者へと移ってしまうのだ。(使徒1:20)


さて、続いてヨアブについてである。
『さてこの知らせがヨアブに達したので、ヨアブは主の幕屋にのがれて、祭壇の角をつかんだ。ヨアブはアブサロムを支持しなかったけれども、アドニヤを支持したからである。』(1列王記2:28)

ヨアブはダビデ王の存命中、イスラエルにおいて、軍事的な面で最も活躍した、有能な軍団長であった。
しかし彼は日頃、主君ダビデを軽んじ、王の命令を度々無視し、また、罪なき血を流してきた。
そしてダビデ王の治世の終わりに、彼は、ダビデ王の推すソロモンではなく、アドニヤのほうに組した事により、いよいよ彼もさばきを受ける時が来た。

ヨアブは、アドニヤが処罰された事を聞くと、祭壇に入ってその角をつかむという、アドニヤが最初に憐れみを受けた時と、全く同じ事をした。
アドニヤは最初、それを行った時は放免されたが、ヨアブはどうだったか。

『ソロモン王はエホヤダの子ベナヤをつかわし、「行って彼を撃て」と言った。ベナヤは主の幕屋へ行って彼に言った、「王はあなたに、出て来るようにと申されます」。しかし彼は言った、「いや、わたしはここで死にます」。ベナヤは王に復命して言った、「ヨアブはこう申しました。またわたしにこう答えました」。そこで王はベナヤに言った、「彼が言うようにし、彼を撃ち殺して葬り、ヨアブがゆえなく流した血のとがをわたしと、わたしの父の家から除き去りなさい。』(1列王記2:29-31)
ヨアブは、赦されなかった。なぜなら彼は、平和な時に、罪なき血をゆえなく流して来たからである。
『主はまたヨアブが血を流した行為を、彼自身のこうべに報いられるであろう。これは彼が自分よりも正しいすぐれたふたりの人、すなわちイスラエルの軍の長ネルの子アブネルと、ユダの軍の長エテルの子アマサを、つるぎをもって撃ち殺し、わたしの父ダビデのあずかり知らない事をしたからである。それゆえ、彼らの血は永遠にヨアブのこうべと、その子孫のこうべに帰すであろう。しかしダビデと、その子孫と、その家と、その位とには、主から賜わる平安が永久にあるであろう」。』(1列王記2:32-33)

彼は本当は、もっと昔に処罰されるべきだった。
なぜなら律法には、罪なき血を流す者は、たとえ祭壇に逃げ込んだとしても、必ず殺されなくてはならない、と記されているからである。
『人を撃って死なせた者は、必ず殺されなければならない。しかし、人がたくむことをしないのに、神が彼の手に人をわたされることのある時は、わたしはあなたのために一つの所を定めよう。彼はその所へのがれることができる。しかし人がもし、ことさらにその隣人を欺いて殺す時は、その者をわたしの祭壇からでも、捕えて行って殺さなければならない。』(出エジプト記21:12-14)
誤って人を殺してしまった人には、のがれの町に逃れて、復讐者から守られるという保護策が主から与えられているが、意図的に故なく人を殺すような者に与えられるような保護策は、ない。

『そこでエホヤダの子ベナヤは上っていって、彼を撃ち殺した。彼は荒野にある自分の家に葬られた。王はエホヤダの子ベナヤを、ヨアブに代って軍の長とした。王はまた祭司ザドクをアビヤタルに代らせた。』(1列王記2:34-35)
こうして、ダビデ王に長年仕え、ダビデ王と共に生きて活躍した二人の重要人物は、一方は罷免され、一方は殺されてしまった。

私達も気をつけなくてはならない。
いかに、主の働き人として重要なポストにいようとも、また、それがいかに長年で、いかに活躍の実績があろうとも、やがては心の内が露わにされる時が来る。
その日、主の倉に入れられる側に入るか、それとも、外に投げ出されてしまうのか、それは、日頃の表に出ない「心の内に秘めた忠実さ」に左右される、という事を、よく心に留めておくべきである。

男性ではなく女性をターゲットに惑わす悪しき者の常套手段(1列王記2:13-25)
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偉大な王・ダビデが死んだ。
そこで、アドニヤがまたしても、良からぬ企みを起こす。
『さて、ハギテの子アドニヤがソロモンの母バテシバのところへきたので、バテシバは言った、「あなたは穏やかな事のためにきたのですか」。彼は言った、「穏やかな事のためです」。』(1列王記2:13)

アドニヤは、ソロモンの母、バテ・シェバの所に来た。
彼が来た時、彼女は真っ先に「あなたは穏やかな事のためにきたのですか」と問うたが、そんな質問は、誰にでもするようなものではない。
彼女が真っ先にそんな質問をしなければならなかった事が、アドニヤがいかに普段から平和とは反対の人物であったかを物語っている。

『彼はまた言った、「あなたに申しあげる事があります」。バテシバは言った、「言いなさい」。彼は言った、「ごぞんじのように、国はわたしのもので、イスラエルの人は皆わたしが王になるものと期待していました。しかし国は転じて、わたしの兄弟のものとなりました。彼のものとなったのは、主から出たことです。』(1列王記2:14-15)
彼は何か、とてつもなく身の程知らずな勘違いをしている。

主が定められたダビデの正統な跡継ぎである王は、ソロモンだった。
それなのに彼はそれを無視し、自分が王になろうと、しゃしゃり出たが、結局、ダビデ王も、世間も彼にはつかなかった。

彼は「イスラエルの人は皆わたしが王になるものと期待していました。」と言っているが、ソロモンが王になった時、群衆の歓声は地が割れんばかりになり、アドニヤについていた人々は皆、震え上がって、彼を独り残し離れて行き、彼自身も、神殿の角を握り締めてまでして赦しを乞い願ったのを、彼はすっぽり忘れてしまったのだろうか。
本当なら彼は、反逆罪で殺されても不思議でない所を、ソロモンに憐れみを受け、命拾いした身であった。
それでもなお、「ごぞんじのように」「国はわたしのもので」と言って、あたかも自分が王になる事が当然であるかのように、そして現状、自分の弟が王になっている事が不当であるかのような物言いをしている。
高ぶる者は、悔い改めが無い故に、周囲や場の空気が読めず、また、過去に起きた事を忘れ去って、どうしても自分を滅ぼしてしまうための行動を取ってしまうものである。

彼は、懲らしめを受けずにちやほやされながら育っているので、全世界は自分の思い通りに動く、という、根拠の無い錯覚が、彼の不動の世界観となって、疑わないのだ。
しかし悲しい事に、自分に自信が無い人や、気が弱い人は、その者の言葉がどんなに勘違い甚だしくても、美貌と自信と勢いをもって確信犯的に畳み掛けれてしまうなら、飲まれてしまうものだ。
バテ・シェバは元々は一平民であり、また、スキャンダラスな形である日突然ダビデ王家に入ってきたため、彼女は王家の中でも肩身が狭かっただろうし、アドニヤはそんな彼女をやり込める自信はあっただろう。

『今わたしはあなたに一つのお願いがあります。断らないでください」。バテシバは彼に言った、「言いなさい」。彼は言った、「どうかソロモン王に請うて、――王はあなたに断るようなことはないでしょうから――。』(1列王記2:16-17)
アドニヤは、母バテ・シェバの願い事なら、ソロモンは断らない、と、確信犯的に言っている。
彼は、ソロモンに自分の願い事を通すには、まずは、ソロモンが言うことを聞いてくれる女・バテ・シェバを落とす事が近道だ、と、踏んでいたわけである。
そしてバテ・シェバなら、自分の美しい外見と、勢いと、確信に満ちた言葉で押すなら、落とすのはたやすい、と。

男を落とすために、まずは、彼の大切な女性から落とす・・・どこかで聞いた話である。
そう、この手法は、エデンの園の時以来、サタンが人を堕落させるために用いてきた、古典的常套手段である。

男性は、女性が、「蛇(サタン)」に由来するものを持ってきた時、アダムのように、それをそのまま受け取って食べてしまってはならず、そのような時には主にある不動の立場に立ち、御言葉に基いて、正しい方向へと、女性をリードして行くべきである。
もしかすると、女性は時に、蛇(サタン)が投げて来た負の思い、激浪のような感情に翻弄された状態で、突然男性の前に現れるかもしれない。
そのような状態の女性に、深夜、突然起こされてしまうかもしれないし、仕事中に突然そのような状態の女性から、電話がかかってくるかもしれない。
そのような時、男性はそれを「彼女由来のもの」として、そのまま「食べて」しまってはならない。
それでは、背後にいる「蛇(サタン)」の思う壺である。
もしそれを彼女の手から「食べて」しまうなら、アダムとエバのように、責任のなすり合いといがみ合いの末、男女ともども「失楽園」してしまう。

男性は、女性がそのようになってしまった場合、その向こう側で操る「蛇(サタン)」のたくらみを見抜いて、女性を責めるのではなく、サタンを責めるべきだ。
そうして、家庭の中に、男女関係の中のエデン(喜び、楽しみ、の意)を守らなくてはならない。
ちょうど、ソロモンがバテ・シェバを責めるのではなく、彼女を通して背後で操ろうとしたアドニヤを責めるように。

アドニヤがバテ・シェバに言った内容は、次のものだった。
『シュナミびとアビシャグをわたしに与えて妻にさせてください。』(1列王記2:17)
これは一見すると、害がないかのように思える。
バテ・シェバはよく分からずに、この言葉をそのままソロモンの所に持って行く。

バテ・シェバはソロモンに願う。
『「あなたに一つの小さいお願いがあります。お断りにならないでください」。王は彼女に言った、「母上よ、あなたの願いを言ってください。わたしは断らないでしょう」。彼女は言った、「どうぞ、シュナミびとアビシャグをあなたの兄弟アドニヤに与えて、妻にさせてください」。ソロモン王は答えて母に言った、「どうしてアドニヤのためにシュナミびとアビシャグを求められるのですか。彼のためには国をも求めなさい。彼はわたしの兄で、彼の味方には祭司アビヤタルとゼルヤの子ヨアブがいるのですから」。』(1列王記2:20-22)
ソロモンは、バテ・シェバには見抜けなかったアドニヤの企みを、全て見ぬいた。

アビシャグを妻として求める裏には、どんな意図があるか。
アビシャグといえば、父ダビデの老いた体を温めるために、ダビデに侍らせられた女で、ダビデは彼女と肉体関係は持っていなくても、ダビデと床を共にしていた女性である。
その女性を妻とするなら、自分はダビデの女性をめとっている者だ、ひいては、ダビデの王位を継ぐに相応しい者だ、と主張する取っ掛かりを得られる事になる。

もっとも、そんな事をした所で、ソロモン王権には全く傷はつかないであろう。しかし問題は、事の大小ではなく、アドニヤの心がどこに向かっているか、である。
「ごぞんじのように」「国はわたしのもので」「イスラエルの人は皆わたしが王になるものと期待していました。」「しかし国は転じて、わたしの兄弟のものとなりました。」などと言って、母・バテ・シェバにその願いを持ってきた以上、もはや彼が王になろうとして、王権転覆の志を今だに持ち続けていた事は、確定的である。
これは、小さな事であっても、決して野放しにしていてはならない。

『そしてソロモン王は主をさして誓って言った、「もしアドニヤがこの言葉によって自分の命を失うのでなければ、どんなにでもわたしを罰してください。わたしを立てて、父ダビデの位にのぼらせ、主が約束されたように、わたしに一家を与えてくださった主は生きておられる。アドニヤはきょう殺されなければならない」。ソロモン王はエホヤダの子ベナヤをつかわしたので、彼はアドニヤを撃って殺した。』(1列王記2:23-25)
このように、彼は殺されてしまった。ひと度憐れみを受けたのに、それでもなお恩を仇で返すような者だったからだ。

私達は、高慢は滅びに先立つ(箴言16:18)事を、よく心に止めておかなくてはならない。
そして私達も、ソロモンのような、見分ける知恵と啓示の霊が与えられるように、求めるべきである。
人が何かたくらみを持って来た時、それを見抜けるように。
そして、惑わされてしまっている人の背後に働くサタンの意図を見破り、その人ではなくサタンをイエスの名によって処罰する者でありたい。

ダビデの死と、そしてダビデの永遠の将来(1列王記2:1-12)
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『ダビデの死ぬ日が近づいたので、彼はその子ソロモンに命じて言った、』(1列王記2:1)

ダビデは死を目前に、彼の後継の王であるソロモンに、個人的な指示をする。
その内容は、ソロモンが成功するためのアドバイスと、そして、ある人達をどう扱うべきかの指示であった。

『「わたしは世のすべての人の行く道を行こうとしている。あなたは強く、男らしくなければならない。あなたの神、主のさとしを守り、その道に歩み、その定めと戒めと、おきてとあかしとを、モーセの律法にしるされているとおりに守らなければならない。そうすれば、あなたがするすべての事と、あなたの向かうすべての所で、あなたは栄えるであろう。』(1列王記2:2-3)
まずは、強くあって男らしくせよ(原意:男である事を示せ)と命じている。
それも、神である主のさとし(charge)を守り、その道に歩み、その定め(statutes)と戒め(commandments)と、おきて(judgments)とあかし(testimonies)とを、モーセの律法に従って守れ、と。
これが全ての事、全て所において成功し、栄える秘訣であるからだ。

強さ、男らしさは、御言葉あっての男らしさでなくてはならない。主を恐れる事と御言葉なき「男らしさ」は、野蛮に過ぎない。
かつては野蛮と言われていた国でも、御言葉の福音が入った後は、野蛮さが抜け、秩序的な文明国になって行った例は、世界に沢山ある。(北欧のバイキングなど)
だから私達も、御言葉に基づいて、勇気と力を発揮すべきであり、それを除外した勇気と力は、単なる蛮勇に過ぎないのだ。

『また主がさきにわたしについて語って『もしおまえの子たちが、その道を慎み、心をつくし、精神をつくして真実をもって、わたしの前に歩むならば、おまえに次いでイスラエルの位にのぼる人が、欠けることはなかろう』と言われた言葉を確実にされるであろう。』(1列王記2:4)
主はかつてダビデに、彼の王権は、決して取り去られない、という事を、約束された。(2サムエル記7章)
しかし結論から言えば、王権は確かにダビデからは取り除かれなかったが、ソロモンは人生の後半、父ダビデの命令を守らず、主から離れ、偶像礼拝をし、堕落してしまったため、ソロモンの子孫からは、王権が取り上げられてしまった。
実は、イエス・キリストは、ダビデの血は継いでいても、ソロモンの血は継いでいないのだ。これはどういう事か。

マタイ一章の系図は、ダビデ王族としてのイエスキリストの系図で、ダビデからソロモンが生まれ、その後、しばらく王権は続くが、バビロン捕囚以降、王は立たなくなってしまい、そうしてイエス・キリストの時代まで続いている。
イエス様は、聖霊によってみごもり、処女マリヤから生まれているため、「養父」ヨセフの血を継いでいない。それは、「継いではならない」理由があるからだ。

系図の中、マタイ1:11に、エコニヤの名があるが、彼とその前の王達は、あまりに悪い事をし続けたため、主は以下のように預言している。
「この人を、子なき人として、またその一生のうち、栄えることのない人として記録せよ。その子孫のうち、ひとりも栄えて、ダビデの位にすわり、ユダを治めるものが再び起らないからである。」(エレミヤ22:30)
実際、エコニヤ以降に王は出なかった。

では、イエス様は王族ではないのか?ダビデの子ではないのだろうか?いいや、ダビデの子であり王族である。
実は、ルカの福音書三章に、もう一つの系図がある。
この系図は、マリヤの家系の系図であり、マタイ一章のヨセフ系図では、ダビデの子はソロモンであるが、ルカのマリヤ系図では、ダビデの子はナタン(バテ・シェバの子でソロモンの兄:1歴代3:5)となっており、それ以降のマタイとルカの系図は、分岐している。
つまり、イエスの母マリヤは、歴代の王族の家系ではないものの、れっきとしたダビデの子孫であり、そして、悪に染まった王族の血を、継いでもいない。
つまりイエス様は、法的にはヨセフの子、すなわち、法的には歴代の王族の子であり、そして血筋としては、ソロモン以降の悪しき王達の血を継がない、「純粋なダビデの子孫」なのである。
まことに主は、いかなる歴史を通じても、そしていかに人々が不真実であっても、それでも真実な方であり、正確に義を遂行されるお方である。

ダビデは続いて、ソロモンに、人間の「仕分け」を命じる。

『またあなたはゼルヤの子ヨアブがわたしにした事、すなわち彼がイスラエルのふたりの軍の長ネルの子アブネルと、エテルの子アマサにした事を知っている。彼はこのふたりを殺して、戦争で流した地を太平の時に報い、罪のない者の血をわたしの腰のまわりの帯と、わたしの足のくつにつけた。それゆえ、あなたの知恵にしたがって事を行い、彼のしらがを安らかに陰府に下らせてはならない。』(1列王記2:5)
ヨアブは度々、自分のやりたい事と、自分のキャリアの保身のために、主君・ダビデの命令に背いて、罪なき人々の血を流し、平和を流血で染めた。
だから彼は、どんなに功績を立てても、ダビデの三十勇士には名が記されなかったし、そして軍団長の地位から降ろされるのだ。

神の国においても同じである。
どんなに功績を上げても、まことの主君・イエス・キリストを軽んじて、不従順を重ね、主の御旨でない者を担ぎ上げてしまうなら、特別な地位から降ろされ、御国のリストから除外され、抹殺されてしまうのだ。

『ただしギレアデびとバルジライの子らには恵みを施し、彼らをあなたの食卓で食事する人々のうちに加えなさい。彼らはわたしがあなたの兄弟アブサロムを避けて逃げた時、わたしを迎えてくれたからである。』(1列王記2:7)
バルジライは、ダビデがアブシャロムのクーデターによって都を追われて本当に困っていた時、バルジライは彼の富を活用し、ダビデと数千人はいる彼の部下たちを助け、クーデターが解決するまで、彼らを養った。
それでダビデは、彼の子孫たちに良くしてやりなさい、と命じたのだ。
私達も、イエス様が真に栄光を受けていない今、むしろこの時代、軽んじられているようなイエス様とそのしもべたちを助けるなら、後には永遠につづく報いが待っているのだ。

『またバホリムのベニヤミンびとゲラの子シメイがあなたと共にいる。彼はわたしがマハナイムへ行った時、激しいのろいの言葉をもってわたしをのろった。しかし彼がヨルダンへ下ってきて、わたしを迎えたので、わたしは主をさして彼に誓い、『わたしはつるぎをもってあなたを殺さない』と言った。しかし彼を罪のない者としてはならない。あなたは知恵のある人であるから、彼になすべき事を知っている。あなたは彼のしらがを血に染めて陰府に下らせなければならない」。』(1列王記2:8-9)
シメイは、ダビデがアブシャロムに追われて本当に困っていた時、ダビデ一行に、さかんに呪いの言葉を浴びせかけ、石を投げつけながら同行した者であったが、ダビデが勝利した時、真っ先にダビデの元に駆けつけて謝罪し、命を拾った者である。
彼は、とてつもなく無礼な事をダビデにしたが、絶妙のタイミングで絶妙の事をしたため、赦され、命は救われたのだ。
しかし彼のような者は、表に出ない所でどんな陰口を流すか分かったものではないし、いつ手のひらを返して裏切るか分からない。

まことに彼は、口先と行動力で上手に世渡りしている者であるが、ダビデが最後にこの指示をしたという事は、やはりシメイは、表向きはダビデを恐れているものの、心の底からダビデを敬う事をして来なかったのを、ダビデは見抜いていたのだろう。
事実シメイは、後の王ソロモンの命令を破り、それが元で、彼自身の破滅を招く事となる。

『ダビデはその先祖と共に眠って、ダビデの町に葬られた。ダビデがイスラエルを治めた日数は四十年であった。すなわちヘブロンで七年、エルサレムで三十三年、王であった。このようにしてソロモンは父ダビデの位に座し、国は堅く定まった。』(1列王記2:10-12)
こうして、1サムエル記から長らく活躍して来たダビデもまた、先祖の列に加えられ、葬られた。
しかし、あまり悲しいものではない。
彼は永遠に滅んだのではなく、必ず復活し、全ての聖徒達と共に、天の王国を共に継ぐのだから。

ダビデは歌っている。
『わたしは常に主をわたしの前に置く。主がわたしの右にいますゆえ、わたしは動かされることはない。このゆえに、わたしの心は楽しみ、わたしの魂は喜ぶ。わたしの身もまた安らかである。
あなたはわたしを陰府に捨ておかれず、あなたの聖者に墓を見させられないからである。あなたはいのちの道をわたしに示される。あなたの前には満ちあふれる喜びがあり、あなたの右には、とこしえにもろもろの楽しみがある。』(詩篇16:8-11)

私達も、死とよみに打ち勝たれた私達の主、イエス・キリストを、自分の前に置くなら、主は私達をよみに捨て置かせず、墓を見させない。
この、死に勝利された主にあって、私達もよみがえらされ、わしのように若くされるのである。

『主はあなたのすべての不義をゆるし、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを墓からあがないいだし、いつくしみと、あわれみとをあなたにこうむらせ、あなたの生きながらえるかぎり、良き物をもってあなたを飽き足らせられる。こうしてあなたは若返って、わしのように新たになる。』(詩篇103:3-5)
まことに主にある者は、老いるにも、死ぬにも、そして復活するにも、栄光に満ちているのだ。

真の王が王座につく時(1列王記1:41-53)
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『アドニヤおよび彼と共にいた客たちは皆食事を終ったとき、これを聞いた。ヨアブはラッパの音を聞いて言った、「町の中のあの騒ぎは何か」。』(1列王記1:41)
アドニヤが勝手に王を名乗った事に対する、ダビデ達の対応は、素早かった。
ソロモンを王とし、それを公にする一連の手続きは、アドニヤが”王”となった事を祝う宴会が終わるまでに、全て、完了していた。

ソロモンが王となった事は、ダビデに仕えて来た人々にとっては、喜びの良き知らせであったが、アドニヤ達に対しては、そうではなかった。
『彼の言葉のなお終らないうちに、そこへ祭司アビヤタルの子ヨナタンがきたので、アドニヤは彼に言った、「はいりなさい。あなたは勇敢な人で、よい知らせを持ってきたのでしょう」。ヨナタンは答えてアドニヤに言った、「いいえ、主君ダビデ王はソロモンを王とせられました。』(1列王記1:42-43)
真に王となるべきお方が、王となる時、「グッドニュース(福音)」と取る人達もいれば、「悪いニュース」と取る人達もいる。
悪いニュースとなってしまう人達は、アドニヤのように、真の王たるお方を差し置いて、自分が王にのし上がろうとしていた人であり、また、ヨアブのように、真の王が王になってもらっては不都合なので、別の者を王に仕立てあげようとしていた人達である。

イエス様という”まことの王”が王座につく時、まさにこの二分化が起る。
ソロモンが王座についた時、群衆の間で喜びのどよめきが沸き起こったように、その時、イエス様が王座につかれる事を待ち望んでいる人達の間で、大きな喜びの歓声が沸き起こる。
『わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。』(黙示録19:6-7)

そしてその時、キリストを軽んじ、ないがしろにし、ことに、彼にはいなくなってもらいたいと、突き刺した者達は、嘆く。
『見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。』(黙示録1:7)

『王は祭司ザドクと預言者ナタンおよびエホヤダの子ベナヤ、ならびにケレテびとと、ペレテびとをソロモンと共につかわされたので、彼らはソロモンを王の騾馬に乗せて行き、祭司ザドクと預言者ナタンはギホンで彼に油を注いで王としました。そして彼らがそこから喜んで上って来るので、町が騒がしいのです。あなたが聞いた声はそれなのです。』(1列王記1:44-45)
ソロモン王は、父ダビデの直接の指示で王の騾馬に乗せてもらった。しかし、アドニヤにそれは無かった。
ソロモン王には、王としての正統な油注ぎ(任職)があったが、しかしアドニヤには無かった。

『こうしてソロモンは王の位に座し、かつ王の家来たちがきて、主君ダビデ王に祝いを述べて、『願わくは、あなたの神がソロモンの名をあなたの名よりも高くし、彼の位をあなたの位よりも大きくされますように』と言いました。』(1列王記1:46-47)
ダビデの家来たちはことごとく、息子ソロモンが王になった事を、自分から祝儀をのべに行った。
それに対し、アドニヤについた人達は、ただずっとアドニヤが振る舞ったごちそうを飲み食いし、そのどんちゃん騒ぎに付き合っていただけだった。

正統でない違法な、イリーガルなものは、一時的には流行るかもしれないが、その”どんちゃん騒ぎ”は、長続きしないものである。
この世の、偽りの王のどんちゃん騒ぎも、永遠の観点で見るなら、アドニヤの宴会のように、ほんの一瞬で消えてしまうものである。

『そして王は床の上で拝されました。王はまたこう言われました、『イスラエルの神、主はほむべきかな。主はきょう、わたしの位に座するひとりの子を与えて、これをわたしに見せてくださった』と」。』(1列王記1:47-48)
ダビデは感無量の内に、主への喜びと感謝が湧き上がったのだろう、ヤコブがしたように、床の上で、主に礼拝を捧げた。
イエス様も、ご自身の激しい苦しみによって生み出した信仰の子孫たちが栄えて行く様を見て、満足される。(イザヤ53:10-12)

『その時アドニヤと共にいた客はみな驚き、立っておのおの自分の道に去って行った。そしてアドニヤはソロモンを恐れ、立って行って祭壇の角をつかんだ。ある人がこれをソロモンに告げて言った、「アドニヤはソロモンを恐れ、今彼は祭壇の角をつかんで、『どうぞ、ソロモン王がきょう、つるぎをもってしもべを殺さないとわたしに誓ってくださるように』と言っています」。』(1列王記1:49-51)
アドニヤと彼に追従した人達は、ソロモンが王になった事を聞いて、震え上がり、みんなアドニヤの周りから去って行って、ただアドニヤが残された。

彼は祭壇の角をつかんだが、祭壇の角は、罪を赦すのためのいけにえの血が塗られる部分である。(レビ4:7)
彼は自分の驕り高ぶり故に、身の危険を感じた土壇場で、祭壇の角という、宗教的ご利益のありそうな所につかまって、赦しを乞うた。

彼は生涯、罪のためのいけにえを捧げるために、祭壇に行った事は何度かあったであろう。
しかし彼は、普段から主を恐れるような人ではなかった。
もし彼が、本当に主を恐れていれば、ダビデやソロモンを差し置いて王になろうなどと、御心に反した行動は取らなかっただろう。
彼は普段は主を軽んじ、いよいよ困った時、この「赦しの儀式」が行われる祭壇の角をつかみ、神の民の憐れみにすがって助かろうとしたのである。

確かに主は憐れみ深い方であり、神の民も”優しい”ものである。
彼は土壇場になってそれを「利用」したが、私達自身も、このアドニヤの性質を、取り扱うべきである。
困った時だけ、主の祭壇に入って赦しを求めたり、聖徒の良心を利用するような性質を。

『ソロモンは言った、「もし彼がよい人となるならば、その髪の毛ひとすじも地に落ちることはなかろう。しかし彼のうちに悪のあることがわかるならば、彼は死ななければならない」。ソロモンは人をつかわして彼を祭壇からつれて下らせた。彼がきてソロモンを拝したので、ソロモンは彼に「家に帰りなさい」と言った。』(1列王記1:52-53)
よく、悪い事をした人が捕らえられた時、「もうしません」「赦して下さい」という言葉を発するが、その人が「もうしない事」は、後になって分かる事で、もし本当にその後、悔い改めに相応しい実を結ぶなら、その人は助かる。
しかし、もしその後、再び悪い所が見いだされるようなら、もう、弁解の余地は無い。
私達も、その人の言葉で判断するのではなく、その人がその後に結ぶ「実」によって見分けるべきであり、その後どのように為すべきかは、実を見て判断すべきだ。

ソロモンはこの時点ではアドニヤを放免したが、アドニヤがこの後、どのような実を結ぶかが、査定される事となる。
私達も、この世では色々な罪を犯しても、主に立ち返るなら、赦され、罪は放免されるが、もしそれでもなお「好きこのんで」「率先して」悪い実を結び続けるようなら、もはや弁解の余地は残されていない。(ヘブル10:26)

ソロモン王の即位(1列王記1:28-40)
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ダビデは、4男アドニヤが勝手に王を名乗った事を、妻バテ・シェバから聞かされ、そして預言者ナタンから聞かされた。
ダビデのその後の対処と行動は早かった。

『ダビデ王は答えて言った、「バテシバをわたしのところに呼びなさい」。彼女は王の前にはいってきて、王の前に立った。すると王は誓って言った、「わたしの命をすべての苦難から救われた主は生きておられる。わたしがイスラエルの神、主をさしてあなたに誓い、『あなたの子ソロモンがわたしに次いで王となり、わたしに代って、わたしの位に座するであろう』と言ったように、わたしはきょう、そのようにしよう」。』(1列王記1:28-30)
この「**の主は生きておられる」という語り出しは、これから自分が宣言する事は、生きておられる主の御前で宣言する事であり、確かな事である、という、ユダヤ流の宣言文句である。

ダビデは主を、「わたしの命をすべての苦難から救われた主」と呼んだ。
主は、ダビデが若く清い信仰だった時も、サウルの手から救ってくださったし、彼が高慢になり、姦淫と殺人の罪を犯し、諸々の災いが降りかかった時さえも、主は、彼の助けと憐れみを求める呼び声に応じて、救って下さった。
この度の出来事も、イスラエル王国を分断しかねない危機ではあったが、ダビデは彼をあらゆる災いからも救って下さった彼の主にかけて、誓った。
きょう、ソロモンを王とするための手続きをしよう、と。

『王は彼らに言った、「あなたがたの主君の家来たちを連れ、わが子ソロモンをわたしの騾馬に乗せ、彼を導いてギホンに下り、その所で祭司ザドクと預言者ナタンは彼に油を注いでイスラエルの王としなさい。そしてラッパを吹いて、『ソロモン王万歳』と言いなさい。それから、あなたがたは彼に従って上ってきなさい。彼はきて、わたしの位に座し、わたしに代って王となるであろう。わたしは彼を立ててイスラエルとユダの上に主君とする」。』(1列王記1:33-35)
ダビデはまず、ソロモンを王の騾馬に乗せなさいと指示した。
王が、自分の乗る乗り物を降りて、別の人をそこに乗せる事は、王の栄誉をその人に与える事である。(創世記41:43、エステル記6:8)

私達の主イエス様も、自ら乗るべき乗り物を降り、悪しき者に傷つけられ全てを奪われ行き倒れになってしまったような私達を、乗せて下さり、安全な所へと導いて下さった。(ルカ10:29-37)
罪過の中に死んでいた私たちを、ただ恵みによりキリストと共に生かし、共によみがえらせ、共に天の所に座らせて下さった。(エペソ2:5-6)
そして私達をキリストにあって王国とし、共に治める者として下さった。(黙示録5:10)
ダビデは年老いた故に、王座を降りて、ソロモンへと王権を譲ったが、私達の主イエス様は、決して死ぬという事が無く、永遠に王の王であり、私達はキリストと共なる共同相続人である。

『そこで祭司ザドクと預言者ナタンおよびエホヤダの子ベナヤ、ならびにケレテびとと、ペレテびとは下って行って、ソロモンをダビデ王の騾馬に乗せ、彼をギホンに導いて行った。祭司ザドクは幕屋から油の角を取ってきて、ソロモンに油を注いだ。そしてラッパを吹き鳴らし、民は皆「ソロモン王万歳」と言った。民はみな彼に従って上り、笛を吹いて大いに喜び祝った。地は彼らの声で裂けるばかりであった。』(1列王記1:38-40)
この時点で、イスラエルの王権はダビデから離れ、その子・ソロモンへと引き継がれた。

アドニヤは、父ダビデ王の許可もなく、油注ぎという王としての任職もなく、ただの「名乗り上げ」と「既成事実化」によって王になろうとしたが、それに対し、ソロモンは父ダビデ王直接の認可の下、王としての任職の油を公に注がれ、正当な手続きを経て、王となった。
そして、一緒にいた民の喜びの叫びとどよめきは、地が張り裂けんばかりにまでなった。

まことに、アドニヤが自称・王として受けた栄光は、ソロモンが正統に受けた真の栄光に比べれば、全く取るに足りない。
悪しき者は、公にではなく、こそこそと非合法な方法を弄し、分不相応な「王権」を得ようとして罪に罪を重ねる。
私達はそのような、不当に非合法に得なくてはならないニセモノを掴まされてはならない。

私達は御言葉に沿って歩み、主の示された道を正当な手続きを経つつ歩んでいくなら、主は、最高に栄誉あるゴールへと導いて下さる。
いかに、報われないような日々が長く続くとしても、主は、ちょうど良い時に引き上げて下さるのだ。
ソロモンは、王になる事が主にあって決まっていたのに、なかなか王にはしてもらえなかったが、不穏分子が現れたちょうどその時、王として引き上げられた。

ダビデは詩篇で歌っている。
『あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。』(詩篇23:5-6)

ソロモンは敵の前で油を注がれ、宴を設けられた。
どうして、よりによって敵が生え出てきた時に、と思うかもしれない。
しかし実は、逆に、隠れていた不穏分子がこの時現れてくれたおかげで、新しい治世にあたって、それを取り除く助けとなったのだ。

今の時代、麦と毒麦が共に同じ畑に育つようなものである。
麦と毒麦は一見、見分けがつかないが、成長して実った段階でその違いがあらわになる。
主は、その時まで、待っておられるのだ。(マタイ13:24-43)

こうして、無事、バテ・シェバの子・ソロモンは王となったが、もしバテ・シェバが預言者の言葉に従順していなかったなら、この事は起きなかった。
もし従順していなかったならば、王権は不相応な者に奪われ、本人たちは反逆者として命を落としていただろう。

私達も、御言葉によって、すばらしい地位と祝福は約束されている。
しかし、悪しき者が侵入して来ても、何も対処しないとするなら、せっかく与えられた素晴らしい地位も、祝福も奪われ、最後にはいのちを落としてしまうのだ。

永遠の祝福は、今、私達がキリストの言葉に従順するかどうかにかかっている。
聖霊の導きとキリストの御言葉に従順し、いのちを救い、永遠に祝福される皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

不法な侵犯者を放置するなかれ(1列王記1:11-27)
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『時にナタンはソロモンの母バテシバに言った、「ハギテの子アドニヤが王となったのをお聞きになりませんでしたか。われわれの主ダビデはそれをごぞんじないのです。』(1列王記1:11)
アドニヤは、次に王となるべきソロモンを出しぬいて、そして、現在王として立てられている父・ダビデには何も知らせないまま、勝手に「へびの石」のかたわらに人々を招いて、自分が王であると宣言して、勝手に記念の祝会を開いた。
まったく、あの古い「へび」・サタンと同じやり口である。

サタンはおごり高ぶって、多くの御使い達や人間たちをそそのかし、自分の所に引き寄せ、自らは神の座す高みへと勝手に領域侵犯し、いと高き者のようになろうとした。
『黎明の子、明けの明星よ、あなたは天から落ちてしまった。もろもろの国を倒した者よ、あなたは切られて地に倒れてしまった。あなたはさきに心のうちに言った、『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう』。しかしあなたは陰府に落され、穴の奥底に入れられる。』(イザヤ14:1-15)

そこで、預言者ナタンは、ソロモンの母・バテ・シェバに助言して言う。
『それでいま、あなたに計りごとを授けて、あなたの命と、あなたの子ソロモンの命を救うようにいたしましょう。』(1列王記1:12)

そう、権威の座に勝手に不法侵入して来る者に、何の措置も取らずに放置する事は、自分の「命を救わない」事なのだ。
キリストにあって王族の祭司とされた私達に対し、勝手に領域侵犯して来る悪しき者は、放置していておいてはならず、すみやかに対処すべきだ。

どのように対処すれば良いか。
それは、祈りによって聖霊様の警告に耳を傾け、そして、不思議な助言者・キリストの「御言葉」に対処法を求め、それに従う事によって、である。
ちょうど、預言者ナタンが、バテ・シェバに警告と助言を与え、それに従ったように。

『あなたはすぐダビデ王のところへ行って、『王わが主よ、あなたは、はしために誓って、おまえの子ソロモンが、わたしに次いで王となり、わたしの位に座するであろうと言われたではありませんか。そうであるのに、どうしてアドニヤが王となったのですか』と言いなさい。あなたがなお王と話しておられる間に、わたしもまた、あなたのあとから、はいって行って、あなたの言葉を確認しましょう」。』(1列王記1:13-14)
預言者ナタンがバテ・シェバに助言した内容は、ダビデが彼女にかつて約束してくれた言葉を盾に取り、それとはそぐわない現実が今まかり通ろうとしている現実を訴えるように、というものだった。
私達も、この要領で、まことのダビデである主キリストに、御言葉の約束を盾にとって訴えるべきだ。
すなわち、真実が正しく行使されていない現状を。
悪しき者が勝手に偽りの表明をし、立ってはならない権威の座に、立とうとしている事を。

ソロモンが王となって、神の宮を建築する事は、ソロモンが生まれる前から既に主にあって約束された事である。(1歴代誌22:6-9)
その彼が生まれた時、彼は預言者ナタンから「エディデヤ(主に愛される者)」とうい名前までいただいている。(2サムエル記12:25)
アブラハムの正統な家系は、肉の力によって生まれたイシュマエルにではなく、約束によって生まれたイサクが受け継いだように、権威は人間のはかりごとや力づくによって成り上がるのではなく、主の約束によって与えられるものである。

私達キリスト者は、御言葉により、すばらしい約束が与えられている。
『神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。』(エペソ1:3-5)
『わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。』(1ヨハネ3:1-2)
『あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。』(1ペテロ2:9)
私達は、この与えられている素晴らしい特権を、領域侵犯して来る者に手放したりしてはならないし、また、俗悪なエサウのように、一杯のなくなる食物と引き換えに売り渡したりしてはならない。

『そこでバテシバは寝室にはいって王の所へ行った。(王は非常に老いて、シュナミびとアビシャグが王に仕えていた)。』(1列王記1:15)
アビシャグは若く美しく、いつも王のそばにいて仕えてはいたが、彼女は王妃ではない。
しかしバテ・シェバは王妃であり、ダビデの所に大胆に進み出て、おりに叶った助けをいつでも願い出る事が自由に出来る。
私達もキリストに救われ神の子とされた者として、またキリストの花嫁として、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づく事が出来るのだ。

『彼女は王に言った、「わが主よ、あなたは、あなたの神、主をさして、はしために誓い、『おまえの子ソロモンがわたしに次いで王となり、わたしの位に座するであろう』と言われました。そうであるのに、ごらんなさい、今アドニヤが王となりました。王わが主よ、あなたはそれをごぞんじないのです。彼は牛と肥えた家畜と羊をたくさんほふって、王の子たち、および祭司アビヤタルと、軍の長ヨアブを招きましたが、あなたのしもべソロモンは招きませんでした。」・・・バテシバがなお王と話しているうちに、預言者ナタンがはいってきた。』(1列王記1:17-21)
バテ・シェバは、預言者から受けた助言の通り、ダビデが過去にしてくれた誓いを盾に、王に願い出た。
すると、ナタンはあらかじめ言っていた通りにダビデ王の元に進み出て、彼女の言葉をフォローし、裏付けして助けてくれた。

私達も、聖霊の導きに従って行動をすれば、聖霊様はフォローし、裏付けして下さる。
しかし、導きに従って行動しないなら、そのバックアップは無い。
もし今、世の何者かが私達に与えられている大いなる特権を侵害し、キリストにある自由と栄光と富を侵犯して来る者がいるなら、私達は聖霊の導きに従って、主に訴え、祈り、主が示して下さる対処方法に従って、速やかに行動すべきである。

勝手に王になろうとしたアドニヤ(1列王記1:1-10)
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第二サムエル記では大いに活躍していたダビデだが、彼も年老いた。
ダビデがと共に活躍してきた同世代の人々は、徐々に退いてゆき、ダビデ治世下の比較的安定した時代に育った新しい世代が、王国の主力を担うようになって来た。
第一列王記は、そのような時期から始まる。

『ダビデ王は年がすすんで老い、夜着を着せても暖まらなかったので、その家来たちは彼に言った、「王わが主のために、ひとりの若いおとめを捜し求めて王にはべらせ、王の付添いとし、あなたのふところに寝て、王わが主を暖めさせましょう」。そして彼らはあまねくイスラエルの領土に美しいおとめを捜し求めて、シュナミびとアビシャグを得、王のもとに連れてきた。おとめは非常に美しく、王の付添いとなって王に仕えたが、王は彼女を知ることがなかった。』(1列王記1:1-4)
ダビデはかつて姦淫の罪を犯し、それが元で殺人の罪を呼び、その罪の刈り取りの故に、サムエル記の半分以上を、主の懲らしめと苦々しい災いの記事で埋め尽くす事となってしまった。
これを過ぎたダビデは、もはや性的な面において潔白を貫くようになったのだろう。

いずれにせよこの情報、すなわち、ダビデの衰た体を温めるためにイスラエル中から若いおとめを探し、ダビデに召した事は、ダビデはもう衰えてしまったという事を広く知らせる事となっただろう。
長らく統治して来た強力な王が衰えたとなると、野心ある者が現れ、動乱が起こりやすくなるのは歴史の常である。

『さてハギテの子アドニヤは高ぶって、「わたしは王となろう」と言い、自分のために戦車と騎兵および自分の前に駆ける者五十人を備えた。彼の父は彼が生れてこのかた一度も「なぜ、そのような事をするのか」と言って彼をたしなめたことがなかった。アドニヤもまた非常に姿の良い人であって、アブサロムの次に生れた者である。』(1列王記1:5-6)
ハギテの子アドニヤはダビデ王の4男である。長男アムノンと3男アブシャロムは既に死に、次男キレアブ(歴代誌ではダニエル、その母はアビガイル)は、その名前以外は一切登場しないため、この時既に他界したか、あるいは王権からは遠ざかってひっそり暮らしていたかであろう。

アドニヤは、次の王として最も有力視されていたようだが、ダビデは予め、バテ・シェバの子ソロモンに王位を継がせる事を約束していた。(1列王記1;13,17)
しかし、そのソロモンが若く力が無い(1歴代誌22:5)となると、人々は、目に見えて頼りになりそうな方を選んでしまうものだ。

アドニヤは、父ダビデから一度も「たしなめ(アツァブ:彫刻する、痛い思いをする)」られたことがなかった、と記されている。
子を懲らさないで育てると、確かに親は後に苦しむ事になるが、何よりも、それは子を滅びへと導いてしまう事になる。(箴言13:24)
『むちと叱責とは知恵を与える。わがままにさせた子は、母に恥を見させる。悪者がふえると、そむきの罪も増す。しかし正しい者は彼らの滅びを見る。あなたの子を懲らせ。そうすれば、彼はあなたを安らかにし、あなたの心に喜びを与える。』(箴言29:15-17)
現にアドニヤは、たしなめられた事が無かった故に、傲慢となり、その傲慢が彼自身を滅ぼす事となってしまう。

『彼がゼルヤの子ヨアブと祭司アビヤタルとに相談したので、彼らはアドニヤに従って彼を助けた。しかし祭司ザドクと、エホヤダの子ベナヤと、預言者ナタンおよびシメイとレイ、ならびにダビデの勇士たちはアドニヤに従わなかった。』(1列王記1:7-8)
ヨアブとアビヤタルは、アドニヤが王になる事を支持している。

ヨアブといえば、あの有能な軍団長ではあるが、多くの罪のない人の血を流し、その上に彼のキャリアは成り立っていた。
また何度もダビデの命令を超え、度々ダビデを悩ませて来た者である。
祭司アビヤタルは、ダビデが若き時、サウル王から逃げていた時代から、ダビデに仕えて来た祭司であったのに、ダビデが年老いて衰えた時、ダビデへの忠誠から離れてしまったようだ。
しかし、ダビデと共に戦って来た勇士達など、ダビデに忠誠を尽くした人達もいた。
こうして王国は一時、アドニヤをかつぐ者と、ダビデにつく者とに分かれた。

アドニヤと、彼についた人達は、結局、主の御心に従うのではなく、また、主のしもべ・ダビデに忠誠を尽くすのでもなく、自分の思いどおりに物事を動かしたかったようだ。
ダビデは既に年老いている、それなのに次に王になる人を明らかにしないまま、美しいおとめに介護してもらっているような状況だ、彼にはおとなしく余生を過ごしてもらって、これからは、自分達の思う通りにイスラエルを動かしていこう、といったように。

私達は、物事が中々進まない時こそ、主の約束はどうであったかを思い起こすべきであり、何が主の御胸であるのかを主に伺うべきだ。
物事が中々思うように進まないと、外見の良さや力強そうなものが現れると、それに飛びついてしまがちであるが、性急に飛びついてしまった人達は、後に恥を見る事になる。

『アドニヤはエンロゲルのほとりにある「へびの石」のかたわらで、羊と牛と肥えた家畜をほふって、王の子である自分の兄弟たち、および王の家来であるユダの人々をことごとく招いた。しかし預言者ナタンと、ベナヤと、勇士たちと、自分の兄弟ソロモンとは招かなかった。』(1列王記1:9-10)
アドニヤは勝手に、王になったと言ってセレモニーを開き、そこには「都合のわるい人達」は誘わなかった。
それは彼の心に、後ろ暗い所があったからに他ならないが、このセレモニーの致命的な欠陥は、最も大事な人、すなわち、父であり、長年の王であるダビデに何も通達せずに、この事を行ってしまった事だ。
もしかすると、老獪なヨアブは「ダビデには内緒で行いなさい」とアドバイスしたのかもしれない。
一度、盛大に「アドニヤが王である」というセレモニーを開き、既成事実をつくってしまえば、勢いづいて、あとは民衆がついて来るだろう、と。

しかし、いかに人間が「流れ」をつくって既成事実を作っても、主の御胸でない偽りごとは、成就しない。
ただ主の御胸だけが成るものであり、そのような勝手な事を企てる人には、ただ、彼を不利訴える罪状のみが、既成事実として残ってしまうのだ。

第一列王記概要(1列王記1:1)
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講解説教は、第一列王記に入る。
元々、サムエル記と列王記は共に一つの書だったが、ギリシャ語聖書の70人訳聖書の時に分割され、第一・第二サムエル記を「王国の第1・2」と、列王記は「王国の第3・4」とされている。

列王記は、歴代の王達の歴史であり、その間のおよそ400年のイスラエルの歴史である。
王権がダビデからソロモンへと継承される場面に始まり、このソロモン王以降に続く王達とイスラエルの歴史が、バビロン捕囚に至るまでのおよそ四百年の間の出来事が、記されている。

ダビデ王の子、ソロモン王の子、レハブアム王以降、イスラエルは南北に分断されてしまう。
この分断された王国は、それぞれ、北イスラエル王国、南ユダ王国と呼ばれ、それぞれの国に、王が立っては消え、それぞれの歴史を刻んで行くが、北イスラエルには合計十九人、南ユダには合計二十人の王達の歩みが、第一・第二列王記に記されている。
そして、それぞれの王の治世の記録には、必ず、その王が神に従った「良い王」であったか、それとも従わない「悪い王」であったか、そして、その統治は何年であったかが、記されている。

これら、王たちの歩み方を読み進めていくと、あるパターンをすぐに見出す事が出来る。
すなわち、王が神に従う人なら、その王が統治する時代は祝福され、栄えるが、王が主に従わないなら、その時代は呪われ、衰退する、というパターンであり、それは絶対的なものだ。

このイスラエルの歴史は、私達の人生という歴史にも、全く当てはまる。
私達はある意味、自分自身という人生の「王」ではあるが、自分の人生の「王」である自分が、主に従うなら、必ずその自分は祝福され、栄えるが、主に従わないなら、必ず衰退する。
だから、私達がこの書を読み進めていく時、私達も何をしたら祝福され、何をしたら呪われるのか、その祝福と呪いのパターンを読み解くべきである。

第一列王記は、1章から11章までは、ダビデの子ソロモンの活躍が記されている。
彼は神に従って歩んでいた間は祝福され、素晴らしい知恵が与えられ、世のあらゆる富と栄光を集めた。

彼はエルサレム神殿を建築し、豪華絢爛な宮殿も建てた。
彼は箴言を編纂し、伝道者の書、雅歌書もしたため、また彼には、合計千人もの正妻と妾がいた。
このように、イスラエルの誰よりも栄華を極めた彼だが、その栄華が極まった時、彼は驕り高ぶり、主を忘れ、主の道から離れてしまった。

彼は異教の妻にそそのかされ、偶像礼拝を導入し、イスラエル内に異邦の神々の神殿をつくり、主から警告が与えられたにも関わらず、主の目に悪とされる事を止めず、ついには呪いが確定してしまい、彼の子の代以降、イスラエル王国は分断されてしまう。
12章から16章までが、その分断された王国の歴史が記されている。

『このようにソロモンの心が転じて、イスラエルの神、主を離れたため、主は彼を怒られた。すなわち主がかつて二度彼に現れ、この事について彼に、他の神々に従ってはならないと命じられたのに、彼は主の命じられたことを守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに言われた、「これがあなたの本心であり、わたしが命じた契約と定めとを守らなかったので、わたしは必ずあなたから国を裂き離して、それをあなたの家来に与える。
しかしあなたの父ダビデのために、あなたの世にはそれをしないが、あなたの子の手からそれを裂き離す。』(1列王記11:12)
こうしてイスラエルは、北イスラエル王国、南ユダ王国に分断されてしまい、それぞれにおいて、悪い王と良い王が入れ替わり立ち代わり支配して行く荒んだ時代へと突入してしまう。

17章から最後の22章までは、イスラエル史上、最悪の王とも言われるアハブ王の統治の出来事が記されているが、この暗黒の時代、偉大な預言者・エリヤが現れる。
彼は、霊的に堕落し主から離れてしまったイスラエルを、主へと立ち返らせようと努力するのだが、アハブの妻イゼベルの故に、イスラエルは中々主に立ち返らない。
結局、エリヤの時代は主に立ち返らなかったが、それでも主の御心はイスラエルから離れず、イスラエルは見捨てられなかった。
主の主権は、時を超えても世代を超えても変わらず、主の憐れみのご計画は、必ず成就する。

結局、この列王記の歴史を通じて分かる事は、時代と王国を支配しているのは人間の王ではなく、主である、という事だ。
17章以降、イスラエルの国の主導権は王ではなく、預言者であるかのような感じを受けるが、しかし預言者エリヤも我々と同じ人間であり、王も、預言者も、結局主に任命され、主の御心を果たす役割が与えられているに過ぎない。
全てを支配しておられるのは、王の王、主なのだ。

主がイスラエルの歴史の初期に与えられた十戒の次のことばは、この一連の時代を、如実にあらわしている。
『あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。』(出エジプト記20:3-6)

列王記の数百年は、徹底して、この法則に従って動いていた。
これは私達の人生も全く同じである。
人は結局、主と共に歩み、御言葉に従って歩む以外に、祝福と幸いの道は無いのだ。

この列王記から、祝福のパターンと呪いのパターンを学び、祝福と栄光の王道を歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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