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メッセージ - 1列王記カテゴリのエントリ

イスラエル最悪の王の性質は「どっちつかず」(1列王記20:1-12)
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主は、それまで人々を主に立ち返らせるために、大いなる御業をイスラエルに示されたが、それにも関わらず、頑として主に立ち返らなかった。
そこで主は、立ち返らない者達を、これから「剣で殺す」事を宣言をされたが、主はすぐにはしない。
なお悔い改めて立ち返るチャンスを与えるために、主こそ力強い方、憐れみ深い方である事を、さらに示される。

この20章においては、主はエリヤ以外の預言者をアハブに遣わして取り扱われる。
アハブの預言者に対する態度は、エリヤに対してとは違い、一見好意的なもののように見える。
結局、彼は主に従いたいのか従いたくないのか、主の預言者を殺したいのかそうでないのか、はっきりしない立場を続けているが、この20章を見ると、もっと分かって来る。
アハブは誰に足してもNOを言わない、「どっちつかず」の性質であるかが。

何に対してもNOを言わない。それは一見、やさしくて平和的であるかのように、無害であるかのように見えるが、実をいうとそれは、熱いか冷たいかのどちらかより遥かに有害な性質だ。
事実、どっちつかずであった彼は、イスラエル史上最悪の王として数えられてしまっているし、また、どっちつかずだったポンテオ・ピラトも、イエス様を苦しめた者として数えられてしまっている。
誰にも反対しない、NOと言わない自分を「やさしい」「人格者だ」と自己評価している人は、実は、その煮え切らない態度が、自分の人生に多くの災いをもたらし、自分の家族や配下の人達から嫌われている原因であると、知るべきである。

シリヤの王ベン・ハダデは、大軍を率いてイスラエルを取り囲んだ時、イスラエルは干魃のため、無能な王の故に弱体化してしまっており、軍隊はほとんどいなかった。
そのような状況で、アハブ王は、シリヤの王から好き放題な事を言われる。
『スリヤの王ベネハダデはその軍勢をことごとく集めた。三十二人の王が彼と共におり、また馬と戦車もあった。彼は上ってサマリヤを囲み、これを攻めた。また彼は町に使者をつかわし、イスラエルの王アハブに言った、「ベネハダデはこう申します、『あなたの金銀はわたしのもの、またあなたの妻たちと子供たちの最も美しい者もわたしのものです』」。』(1列王記20:1-3)

神の民が、随分となめられたものであるが、アハブは、主にも、預言者にも、家来にさえも相談せずに即答してしまう。
『イスラエルの王は答えた、「王、わが主よ、仰せのとおり、わたしと、わたしの持ち物は皆あなたのものです」。』(1列王記20:4)

これは、脅して来る者に対しては最悪の答え方である。
脅して来る者、偽り者に対し、一番してはならないのは、「おおせのとおりです」と同意してしまう事だ。
悪しき者の脅しや偽り事に「同意」してしまうなら、相手はもっと図に乗って、さらに過酷な要求を突き付けて来るからだ。

自分は無理な要求を飲みました、頑張りました、そんな頑張ったわたしに免じて、優しく扱って下さい、などと考えるのは、妄想である。
脅しを仕掛けて来る者には、そんな思考パターンは、全く無い。
むしろ、もっと脅せばもっと搾り取れるだろう、と、さらに脅しの手を強めて来るのだ。
右の頬を打つ人には他の頬をも向けてやりなさい、という「主の御言葉に信仰をもって従う」事と、御言葉への信仰が全く捨て去られた人が「恐怖心から無抵抗になる」のとは、雲泥の差があるのだ。

『使者は再びきて言った、「ベネハダデはこう申します、『わたしはさきに人をつかわして、あなたの金銀、妻子を引きわたせと言いました。しかし、あすの今ごろ、しもべたちをあなたにつかわします。彼らはあなたの家と、あなたの家来の家を探って、すべて彼らの気にいる物を手に入れて奪い去るでしょう』」。』(1列王記20:5-6)
この通り、要求はもっと過酷になってしまった。
最初は、奪われるものはアハブの持ちものに限定されていたのに、今度は、アハブのみならず、家来の全部の家を自由に出入りして何でも奪い放題していい事になってしまった。

悪霊が人に入る時も、同じ原理である。
思いをガードせずに、空中に漂っているあの空想やこの空想を、両手放しで受け入れる事は、危険である。
空中は悪しき霊が座す所であり(エペソ2:2)、思いを開いて、漂っているあの霊この霊を受け入れてしまうなら、もっとたちの悪い者共に、ずかずか入り込まれてしまい、聞きたくもない霊の声が聞こえるようになり、ひどくなると、思いの中が悪霊どもの声々に圧殺され、突然笑い出したり、突然泣き出したり、意味不明な所作をいきなりし出したり、人の神経を逆撫でする絶妙なポイントをついて来たりして、どんどん人々から敬遠されてしまうのだ。
そのような人の性質は「無抵抗」「なんでも受け入れる」である。

だから、霊においても、実生活においても、ノーガードでいてはならない。
真理の帯で引き締め、正義の胸当で胸を守り、平和の福音を足に履き、信仰のたてを手に取って悪しき者の放つ火の矢を消し、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取って悪しき者を攻撃するのだ。(エペソ6:14-17)
そして、絶えず祈り、御霊によって祈り、霊において目覚めておくべきだ。(同18節)

何もかも悪霊に束縛され、奪われ、人々から疎外されてしまった人が唯一、救われる方法は、「その人自身の意志で」イエス様に助けを求めに行く事である。
レギオンという大勢の悪霊は、なぜ鎖を引きちぎる程の脚の力をもってイエス様から逃げる事をしないで、わざわざイエス様の所へと足を進め、自ら追い出されるために行ったのか。
悪霊どもとしては、追い出されたくはなかったであろう。しかし「本人自身が、意思をもってイエス様の所に行く」事の足だけは、どんなに強力な悪霊が、何千匹がかりで阻止しようとも、それを止める事は出来ないのだ。(マルコ5章)

『そこでイスラエルの王は国の長老をことごとく召して言った、「よく注意して、この人が無理な事を求めているのを知りなさい。彼は人をつかわして、わたしの妻子と金銀を求めたが、わたしはそれを拒まなかった」。』(1列王記20:7)
アハブは相手の要求が過酷になった時、イスラエルの神にではなく、家来に相談した。
あんなにも、ありありと、イスラエルの神・主のわざを見ておきながら、主に帰らず、国をこんなにも弱体化させたまま何も出来ないでいる、というのに。

『すべての長老および民は皆彼に言った、「聞いてはなりません。承諾してはなりません」。それで彼はベネハダデの使者に言った、「王、わが主に告げなさい。『あなたが初めに要求されたことは皆いたしましょう。しかし今度の事はできません』」。使者は去って復命した。』(1列王記20:8-9)
ここまでで、アハブは、シリヤの王に対しても、家来に対しても、全部「イエス」の回答しか返していない。
最初、シリヤに対して「イエス」で答えたが、家来と相談した時、シリヤに対して「ノー」をしなさいという勧めを、アハブは「イエス」し、結果、アハブはシリヤに「ノー」を突きつける事となった。
このように、複数の、相反する人達に対して全部「イエス」で返すなら、おのずと必ず誰かを裏切る事になり、激しい怒りを買って、相手からも身内からも信用されなくなって行く。

『ベネハダデは彼に人をつかわして言った、「もしサマリヤのちりが、わたしに従うすべての民の手を満たすに足りるならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。』(1列王記20:10)
つまり、自分の軍勢の人数は、サマリヤの砂粒の数よりも多いぞ、という脅しである。

『イスラエルの王は答えた、「『武具を帯びる者は、それを脱ぐ者のように誇ってはならない』と告げなさい」。』(1列王記20:11)
武具を帯びる者とは、これから戦いをしようとする者、それを脱ぐ者は、戦いで勝敗が決まった者の事である。つまりアハブが言いたいのは、まだ戦ってもいないのに勝ち誇ったような事を言うな、という事である。

『ベネハダデは仮小屋で、王たちと酒を飲んでいたが、この事を聞いて、その家来たちに言った、「戦いの備えをせよ」。彼らは町にむかって戦いの備えをした。』(1列王記20:12)
こうして、戦いの火蓋が切って落とされるが、アラムの軍勢は「地に満ちていた」のに対し、イスラエルの軍勢は「二つの群れのやぎのよう」であった。(27節)
軍勢の数で比べるなら、イスラエルに勝ち目は無い。

このような状態で、策も根拠も無く、ただ流されるままに戦いの火蓋が切って落とされてしまったが、主は、そんな無策・無謀・流されるまま危機に陥って行ったイスラエルに救いの手を差し伸べられる。
なぜなら、主こそ力があり憐れみ深く頼りがいのある神である事を、人々に示されるためだ。

立ち直ったエリヤのその後のミニストリー(1列王記19:14-21)
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主に反逆する時代のイスラエルにおいて、3年半を通じた、目を見張るような主のしるしが、エリヤを通して行われ、人々は「主こそ神です」と叫び、信仰のリバイバルが起きた、かのように見えたが、たった一人の女・イゼベルによって、台無しにされてしまった。
エリヤは気落ちし、死を願うまでになってしまったが、主は彼を取り扱い、再び立てるようにしてくださる。

『エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀であなたの預言者たちを殺したからです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。』(1列王記19:13-14)
主は、先にしたのと全く同じ質問をし、エリヤもまた、全く同じ答えを返した。
このやり取りは、一見ちぐはぐで、会話が成り立っていないように見えるが、はっきりしている事は、エリヤはこの時、主と「心の通う交わり」をしているという事である。
エリヤはこの交わりを続ける内に、着実に癒やされている。

交わりとは、必ずしも、言葉のつじつまの合うやり取りをしなければならない、というものではない。
エリヤは主との交わりの中、主の圧倒的な臨在と、力と、そして力強き御腕の守りにかくまわれている内に、彼のあらゆる鬱憤は吐き出され、癒やされて行った。
ちょうど小さな子供が、親の胸の中で激しく感情をぶつけ、自分で何を言っているかわからない事を叫びながらぶつかって行く内に、徐々に落ち着き、やがては、圧倒的に強く大きな親の胸の中で眠りに落ち込んで行くように。

ヨブも、同じ経験をした。
主は、ヨブの激しい問いかけには一切答えず、ただ主の圧倒的な臨在と御業とを見せた。
そうしてヨブは、全能の主を悟り、全ての事が可能である主を深く知るに至った。
それでヨブが悔い改め自分を低くした、その時、あらゆる問題は、問題ではなくなり、彼は以前にも増して二倍の祝福が与えられた。

主はエリヤの心を回復させ、そして、彼が為すべき事を教えられる。
『主は彼に言われた、「あなたの道を帰って行って、ダマスコの荒野におもむき、ダマスコに着いて、ハザエルに油を注ぎ、スリヤの王としなさい。またニムシの子エヒウに油を注いでイスラエルの王としなさい。またアベルメホラのシャパテの子エリシャに油を注いで、あなたに代って預言者としなさい。ハザエルのつるぎをのがれる者をエヒウが殺し、エヒウのつるぎをのがれる者をエリシャが殺すであろう。』(1列王記19:15-17)

エリヤは決して一人ではない。
エリヤはこれから、彼の後継者であるエリシャを得、そしてエリヤは地上での役割が終えると、天に挙げられていく。
ダマスコのハザエルを王とするのは、エリヤではない。エリヤが天に挙げられた後、エリシャが王としたのだ。(2列王記8章)
また、さらにその後、エリシャの「預言者のともがら」の一人が、ニムシの子エフーに油を注ぐ。(2列王記9章)

「預言者のともがら」は、リビングバイブルでは、「預言者学校の生徒」と訳されている。(2列王記2:3-5章)
エリヤが最初、絶望したように、預言者は殺され断たれてしまうのではない。
エリヤはこれから、エリシャという後継者を得、預言者学校を立ち上げ、多くの預言者達が育って行くのだ。
主の真実は、人に押しとどめられるものではなく、決して途絶える事は無い。

今後、エリヤを通して油注がれる人達に与えられる役割は、「つるぎで殺す」事である。
主は今まで、人が悔い改めて立ち返るようにと、目に見えて偉大なしるしを起こされたが、それでも人々は悔い改めなかった。
エリヤはそれで絶望したものだが、主は、頑固なまでに悔い改めなかった者達に対しては、今度は「殺す」ミニストリーを働き人に与えられる。

主は既に、「憐れみ」「立ち返り」のわざを、長らく人々に示された。
ありありとしたしるしを見、憐れみを体験しておきながら、それでもなお主を拒み、立ち返らないとなれば、もはや、憐れみのわざではなく、主は「殺しのわざ」に入ってしまう。
それは、全ての人に対して、そうである。
キリストは人の罪をその身に負うために「一度だけ」ご自身を捧げられるために、この世に降りて来られ、贖いを成し遂げられた。
そして将来、主が再び来られるのは、主の現れを待ち望んでいる人たちの救いためにであり、決して、堕落と反逆の道を楽しむ事を止めない人々をもう一度赦すためではない。
『キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。』(ヘブル9:28)

『また、わたしはイスラエルのうちに七千人を残すであろう。皆バアルにひざをかがめず、それに口づけしない者である」。』(1列王記19:18)
主は確かに、主の民を残しておられる。どんなに不従順の背信の世代の中にあっても。
主の恵みの時間は、なお与えられている。
アハブもイゼベルも、すぐに殺されるわけではない。
こんなアハブやイゼベルにさえも、悔い改めて立ち返る期間が、まだまだ与えられているのだ。
主は、悪者が死ぬのを望まれない。
悪事を止めて、主に立ち返る事を望まれるけれども、人がどうしてもそれを止めないとするなら、もはや、その人には滅びしか残されていない。

こうしてエリヤは、主との交わりの内に立ち直って、早速主から命じれられた通り行うために出て行く。
『さてエリヤはそこを去って行って、シャパテの子エリシャに会った。彼は十二くびきの牛を前に行かせ、自分は十二番目のくびきと共にいて耕していた。エリヤは彼のかたわらを通り過ぎて外套を彼の上にかけた。
エリシャは牛を捨て、エリヤのあとに走ってきて言った、「わたしの父母に口づけさせてください。そして後あなたに従いましょう」。エリヤは彼に言った、「行ってきなさい。わたしはあなたに何をしましたか」。エリシャは彼を離れて帰り、ひとくびきの牛を取って殺し、牛のくびきを燃やしてその肉を煮、それを民に与えて食べさせ、立って行ってエリヤに従い、彼に仕えた。』(1列王記19:19-21)

エリシャがエリヤから外套をかけられた時、彼は一瞬で、霊において、悟ったようである。
これは、主の働きへの召命である、と。

彼はエリヤからは一言も言われてはいなかったけれども、自分がそれまでしてきた仕事の道具を壊し、それを用いて父母に最後のもてなしをし、その後、エリヤに従って行った。
主の働きのために召しだされる時、言葉では言われなくても、霊において急き立てられるものがあり、それまでの仕事や家族は全て捨て置いてでも主に従って行かなくては、と思うものだ。

エリシャはそれまで、牛の一番後ろで働く勤勉な者であったが、その彼の勤勉さは、召し出された後もそうだった。
彼が、エリヤから離れまいとする気概は、どの預言者よりも強く、彼はエリヤが天にあげられたその瞬間まで、エリヤから離れなかった。
それで彼は将来、エリヤの2倍の霊が与えられる。
世の仕事という小さい事に忠実であるなら、主から、大きな事にも忠実であるとされ、主からさらに大きな役割が与えられるのだ。

エリヤよ、あなたはここで何をしているのか(1列王記19:9-13)
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傷心のエリヤは、個人的に主と向き合う必要があった。
彼の心は、あまりに落ち込み過ぎて、もはや、働く事どころか、主の前に行く事すらできなくなっていた。
そこで主は、彼に御使いを送り、焼いたパンと水を与えて元気づけて、彼を主の御前に進み出る事ができるようにさせて下さった。

『その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。』(1列王記19:9)
主は、エリヤが何をしているのかご存知であったが、敢えて聞かれた。
それは、その人自身の口から、今の自分の状態や考えを表明させ、主と交わりをさせるためである。

『彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。』(1列王記19:10)
「ただわたしだけが残りました」というのは、正しくはない。
オバデヤは主の預言者百人をかくまっていたし、イゼベルの言葉に習わず信仰を保ち続けている信仰者は、何人か残っていたはずだ。

エリヤはきっと、言葉どおりではなく、感じている「気持ち」を言ったのだろう。
確かにエリヤがして来た事、また負ってきた苦労を考えるに、そして、それら全てをイゼベルに覆えらされてしまった様を見るに、彼が絶望感を感じるのは無理もない。

イエス様もまた、ずっと一人ぼっちで絶望状態の人を訪ね、声をかけられた。
『そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。』(ヨハネ5:5-8)
彼は、イエス様から「よくなりたいか」と声をかけられた時、よくなりたい、と答えるのではなく、「わたしを***してくれる人がいません」と、さびしさを打ち明けた。

彼の周りにいた人々は、彼を差し置いてどんどん病気が治ってその場所を卒業して行く。
でも自分には、自分を助けてくれる人が誰もいないまま、38年もずっとこのまま。
イエス様は、彼の切々とした言葉に対し、「ああ、大変でしたね」といった、同情の言葉は、一切かけない。
その代わりにイエス様は、非常に単純明快な、彼の全てを癒やすために為すべき具体的な「御言葉」をかけられる。
『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。』(ヨハネ5:8-9)
この人の解決は、あっという間だった。
それは、御言葉の通りに行なった時だった。
御言葉の通り行う時、どんなに根強くしぶとい問題でも、解決するパワーが生まれる。

結局、主イエス様の言葉どおりに行う事こそ、全ての問題の解決の源なのだが、それを抜きにして感傷に浸り続けたり、イエス様でないものに解決や同情を求め続けても、解決は何年経っても見えない。
イエス様は、何を為すべきかを、御言葉をもって告げられる。
そして人は、その主から言われた事を、実行するのかどうか。そこが大事である。

 『主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。』(1列王記19:11-13)
主が通り過ぎられた時、とても激しい出来事が起きた。岩や山をも砕く風は、どれほど激しいものだろう。
もし、か弱い人間がそこにいたなら、岩とともに砕かれていただろうし、火に焼かれてしまっていただろう。
しかしエリヤは、岩のほら穴の中に匿われ、守られていた。

主は元々、激しく力強いお方である。
主がそこを通られただけで、岩も山も砕かれてしまう風が起こるのだから、不信仰で頑なな者共をたちまちにして滅ぼす事は、いともたやすいはずである。
しかし主は、憐れみにより、すぐに滅ぼし尽くすという事は、されない。
むしろ主は、邪悪な時代の中で、人を害する滅びの風が吹きつけないよう、御使いを遣わして守っておられる。(黙示録7:1-3)
悪い時代は、あざける者達が、自分の欲望に従って好き勝手な事をしている。
しかし今の天と地は、主の「ことば」によって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれている。(2ペテロ3:1-7)
なぜ、主はすぐにさばきをなされないか。それは、主は忍耐深くあられ、一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからだ。(同9節)
『しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。・・・しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。愛する者たちよ。それだから、この日を待っているあなたがたは、しみもなくきずもなく、安らかな心で、神のみまえに出られるように励みなさい。』(2ペテロ3:10-14)

人は、遅い、と思う。
なぜこんな邪悪な人々の、放埒なふるまいを、主は許しておられるのだろう、と。
もし主が号令をかけられるなら、たちまちにして悪者共を滅ぼし、全世界・全宇宙を刷新する事がお出来になる。
しかし主は、一人も滅びることを望まれず、一人でも立ち返る事を望まれ、忍耐して待っておられ、さばきを先延ばしにしておられるのだ。
そして主は、主に忠実な働き人をあらゆる攻撃や災いから守り、かくまい、折れてしまった心をやさしく包み、癒やし、立ち直らせて下さる。

エリヤが見た時、主は風の中におられず、地震の中にも、その後の火の中にも、主はおられなかった。
ただ、火の後、静かな、細い、主のことばを聞いた。
その時、彼は外套で顔を覆った。
主の働き人を建て上げるのも、癒やすのも、そして、新天新地を創るのも、結局全て「主のことば」によるのだ。

主は、声をかけられる。
エリヤよ、ここで何をしているのか、と。

主は、私達にも促しを与えられる。
今、どこにいるのか。
そこで、何をしているのか。
よくなりたいか。

私達は主の言葉を受け、そのことばを信じてその通りにするなら、天地を創られた主のことばが癒やし、立て直し、働きへ再び召し出されて行くのだ。

偉大な預言者エリヤをたった一言で萎えさせたイゼベル(1列王記19:1-8)
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『アハブはエリヤのしたすべての事、また彼がすべての預言者を刀で殺したことをイゼベルに告げたので、イゼベルは使者をエリヤにつかわして言った、「もしわたしが、あすの今ごろ、あなたの命をあの人々のひとりの命のようにしていないならば、神々がどんなにでも、わたしを罰してくださるように」。』(1列王記19:1-2)

いつも尻に敷いている夫・アハブ王の口から聞いたエリヤのわざ、すなわち、主の偉大な御業は、残念ながら彼女の心に響かなかった。
アハブがイゼベルに言ったのは「エリヤのしたすべての事」と、「彼がすべての預言者を刀で殺した事」の二点であったが、彼女は、エリヤを通して働かれた主の御業については一切、触れなかった。
彼女が抱え込んで来た、無能なバアルやアシェラの預言者が、この3年半、いかに「何の益ももたらさなかったのか」についても、また、バアルによっては何も起きず、ただ主の御名によって火が降り、再び恵みの雨が再び戻り、そして主の雨の恩恵に与れた事についても、一切触れず、ただ、彼女が抱えてきた預言者達が殺された事に怒り心頭し、エリヤを殺してやる、と、直情的・非論理的で、全く道理を外した行動に出た。

イゼベルは、兵隊をいきなりエリヤに送って捕らえ殺すような事は、しなかった。
エリヤは、もしも兵隊に囲まれても、うまく立ち回っただろう。実際、後にエリヤを囲もうとした兵士達には火が下され、全員焼け死んでしまった事が二度あった。(2列王記1章)
しかしイゼベルは、軍隊を送るよりも、はるかに効果的に、預言者の心を萎えさせる事に成功した。

エリヤは長年、主に熱心に仕え、忍耐をもって御言葉を伝え、悔い改めを促し、そしてようやく主のわざが人々の前に起こされ、人々は「主こそ神です」と叫び、ようやく雨が戻って来た、というのに、たった一人の女、それも、その場に参加せず、イスラエルのために努力する事も一切しなかった女、それも、感情的で、短絡的で、非論理的な一人の女の叫びによって、してきた事全部がひっくり返されてしまう。
御言葉を伝える主の働き人にとって、どれ程心萎えてしまう瞬間だろう。
努力せず、現場に参加せず、実際に働いて来た人々の長い間の努力を、直情的・非論理的に一瞬にしてひっくり返してしまうような権威者が一人でもいるなら、その集団には、前進は望めない。どんなミニストリーでも、会社でも。

主は、イゼベルを速やかに処罰する事をされない。なぜなら主は、あのイゼベルにさえ、悔い改めの機会を与えられるからだ。
しかし、それでもなお行いを改めないなら、その最後は、とても無残なものとなってしまう。
『あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。』(黙示録2:20-22)

イゼベルのように、無残な最後へと至ってしまう者の特徴は、主の力ある御業が示されても、なお自分が欲する事を頑として曲げず、悔い改めず、ただ自分の思い通りに行かなかった事を怒り、逆に主の働き人を殺そうとするような者だ。
主は、イゼベルについては速やかには扱わない。
しかし主の民、主のしもべに対しては、倒れてしまわないように速やかに助けの手を延べられる。

『そこでエリヤは恐れて、自分の命を救うために立って逃げ、ユダに属するベエルシバへ行って、しもべをそこに残し、自分は一日の道のりほど荒野にはいって行って、れだまの木の下に座し、自分の死を求めて言った、「主よ、もはや、じゅうぶんです。今わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません」。』(1列王記19:3-4)
ベエル・シェバは、そこからおよそ130キロ南、ユダの領地である。
エリヤは国外へと逃亡し、死を願うまでになってしまった。
イゼベルの言葉は、なんと功を奏した事だろう。

ベエル・シェバはアブラハムゆかりの地であり、また、彼がこれから行こうとしているシナイ山は、モーセゆかりの地である。
彼は、信仰の先祖達を意識したようである。
彼は「わたしは先祖にまさる者ではありません」と言ったが、あいにく、自分という人間を評価するのは、自分ではないし、誰か他の人間でもない。
それは、主である。

エリヤは新旧約にも登場する、預言者の代表格として、イエス様と共に、変貌山で現れた。
彼は自分の死を願ったが、あいにくエリヤは、死を味わった事が無い者として聖書に記されている。
一時的な感情の荒波の内に、絶望感に満たされ、一時はマイナスな祈りをしたとしても、全て人の心の傷も弱さも全部ご存知である主は、その一時の言葉どおりに受け取る事はなさらない。
主は、主に熱心な働き人が傷心の時には、必要な助けを差し伸べる。

『彼はれだまの木の下に伏して眠ったが、天の使が彼にさわり、「起きて食べなさい」と言ったので、起きて見ると、頭のそばに、焼け石の上で焼いたパン一個と、一びんの水があった。彼は食べ、かつ飲んでまた寝た。』(1列王記19:5-6)
主が御使を通してエリヤに送ってくださったものは、彼の願った死ではなく、パンと水だった。

心打ちひしがれ、主の慰めも、人の慰めも耳に入らない傷心の人には、どんな言葉よりも、ただ焼いたパンをそっと差し出すほうが、遥かに慰められるものだ。
イエス様も、傷心の弟子達に、同じ事をされる。
十字架のイエス様を前に、逃げ出してしまった弟子達は、イエス様が復活した後、手をこまねいて昔の仕事である漁に戻った事があった。
イエス様はそんな弟子達に現れ、一切、叱責する事なく、ただ、炭火で焼いた魚とパンを差し出された。(ヨハネ21:9-13)

主のために働いて来たのに、弱さの故にあやまちを犯してしまった、傷心の弟子達に、主は現れ、自ら焼いて下さった魚とパンを、そっと差し出された。
また主は、熱心に働いた末に心折られ、死を願うほど疲れ切ってしまったエリヤに、主は御使いを遣わし、焼いたパンを与えてくださった。
主はそのようなお方である。
そして、それらの主からの直接的な養いは、主のために労して働く「働き人」の特権である。

『主の使は再びきて、彼にさわって言った、「起きて食べなさい。道が遠くて耐えられないでしょうから」。彼は起きて食べ、かつ飲み、その食物で力づいて四十日四十夜行って、神の山ホレブに着いた。』(1列王記19:7-8)
御使いが二度目にパンと水をエリヤに与えた時、「道が遠くて耐えられないでしょうから(NKJV: the journey is too great for you)」と言った。
あなたにはまだまだ、行くべき道がある、だからこれを食べて、元気づけて、行きなさい、と。

エリヤは、それを主からいただくと、四十日四十夜行って、神の山ホレブに向かった。
主が与えてくださるパンは、ただ日毎の空腹を満たすためのもののみならず、人間業ではとうて出来ないような主の働きをするに足りる元気を与えてくださるためでもあり、それを頂くなら、どんな険しく長い道程でも、進み行く事ができるのだ。

エリヤは、神の山ホレブに到着し、主の御前に立つ。
主と出会い、祈るためだ。
主は私達が弱り果て、心萎えてしまった時でも、主は直接的な食物を与え、再び主の前に立てるようにしてくださる。

この時代、主の働きをする人は、心へし折られてしまいそうな事柄が沢山あるが、それら全ての中にあっても、エリヤのように主に養われ、強められ、神と人との前で凛々しく働く力が与えられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

イスラエルに注いだ3年半ぶりの大雨(1列王記18:36-46)
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バアルの預言者達と、主の預言者エリヤとの戦いは、本人同士の戦いではなく、彼らの背後の神同士の戦いだった。
私達も、人生の戦いの場面で、自分対相手という戦いからは降りて、天地を創られた主を背後につけて戦っていただく事のほうが、断然得である。
いかに、こちらがたった一人で弱くあっても、そして、相手がどんなに大人数で、歴戦の強者で権力や財産があったとしても、主につく側が勝利するのだ。

バアルの預言者達は、朝から踊ったり血を流し合ったりしてまで、バアルを呼び求めたものの、何も答える者は無かった。
それなのにエリヤは、たった一回の祈りで、事を終わらせる。
『夕の供え物をささげる時になって、預言者エリヤは近寄って言った、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせてください。主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください」。
そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。』(1列王記18:36-38)

主こそ生きておられ、力強き神である事が証明された瞬間だ。
エリヤは、主に定められた時、主の御名を置いた祭壇を築き直し、主に呼ばわって祈った。
主の御旨に適った時、方法、言葉で祈るなら、主は一発でその祈りを聞かれるが、主の御旨に叶っていないものは、何度祈っても、踊り狂って血を流しても、無意味なのだ。

この、3年半も天から雨が降らないという、大掛かりな「しるし」は、何のために起きたか。
それは、人々が主を信じるようになるために他ならない。
人々が主を信じるようになるために、主は、人に望ましくない事を送られる事がある。
それを起こされる目的は、その人を罰して滅ぼすためではなく、その人を永遠に救うためであり、彼がどんなにむなしいものを求めていたのか、彼がどんなに主の前に失礼を犯して来たか、彼がどんなに無力であるのかを、とことん味わわせた後、主へと立ち返らせるためだ。

エリヤが祈った結果、天から火が降ってきて、主の前に置かれたいけにえだけでなく、水さえもその火は焼きつくしてしまった。
これ以上、主が生きておられる事の明確なしるしはない。これを見、また聞いておきながら主に立ち返らず、心頑なにするなら、そのような者は、もう救いようがない。
だから私達も、もし主のしるしを求めるとするなら、気をつけるべきである。

『民は皆見て、ひれ伏して言った、「主が神である。主が神である」。エリヤは彼らに言った、「バアルの預言者を捕えよ。そのひとりも逃がしてはならない」。そこで彼らを捕えたので、エリヤは彼らをキション川に連れくだって、そこで彼らを殺した。』(1列王記18:39-40)
バアルやアシェラの預言者達が除かれた後、恵みの雨が戻って来る。
イスラエルに不信仰を助長させていた者達がいなくなると、恵みの雨が降るのと同じように、私達の生活を主の御前で堕落させるような、有害無益な習慣や言葉が除かれるなら、恵みの雨が近づいて来る。

『エリヤはアハブに言った、「大雨の音がするから、上って行って、食い飲みしなさい」。』(1列王記18:41)
エリヤには聞こえた。雨の音が。
私達も、主の前に、あるいは御言葉を前に、明らかに取り除くべき事を、取り除くなら、それまで何年も降っていなかった恵みの雨音が、聞こえてくるようになるのだ。
そして、その雨が実体となるまでは、なお祈りと行動を続けるべきである。

『アハブは食い飲みするために上っていった。しかしエリヤはカルメルの頂に登り、地に伏して顔をひざの間に入れていたが、彼はしもべに言った、「上っていって海の方を見なさい」。彼は上っていって、見て、「何もありません」と言ったので、エリヤは「もう一度行きなさい」と言って七度に及んだ。七度目にしもべは言った、「海から人の手ほどの小さな雲が起っています」。エリヤは言った、「上っていって、『雨にとどめられないように車を整えて下れ』とアハブに言いなさい」。』(1列王記18:42-44)
エリヤは最後まで、祈りの手を緩めなかった。
私達も、主から確信が与えられても、なお行動し、祈り続けるべきなのだ。
望みをもって為して行く事を続けるなら、最初は手のひら程の小さな雲であっても、やがては恵みの大雨となる。

『すると間もなく、雲と風が起り、空が黒くなって大雨が降ってきた。アハブは車に乗ってエズレルへ行った。また主の手がエリヤに臨んだので、彼は腰をからげ、エズレルの入口までアハブの前に走っていった。』(1列王記18:45-46)
こうして、3年半ぶりに、イスラエルに大雨が降り注いだ。
それまで人々は主を軽んじ、無視していた。
しかしこのききんの3年半、主が遣わされたエリヤの言葉を人々はもはや無視できず、彼を「イスラエルに災いをもたらすもの」と言っていたものだが、結局これら一連の事を通して、イスラエルに災いをもたらしていたのは、実は自分たちであった、自分たちこそ、まことの神である主を退け、主に失礼な態度を取り、自分こそ災いを招いていた元であった事が、否応なく示された。
私達も、災いを招いていた原因が、実は自分の主に対する不従順であったという事は無いだろうか。
私達自身が悔い改め、心をつくし行いをもって立ち返るなら、恵みの雨が戻ってくるのだ。

エリヤは、祈ると天が閉じ、再び祈ると天が開いたが、彼は私達と同じ人間である。
私達も主にあって歩み、主が定められた通りに礼拝し、主に捧げ、祈るなら、主は雨を降らせて下さる。

この干魃のような時代の中、エリヤのように、この時代に対し霊的潤いをもたらす事に大いに用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

無意味なパフォーマンスをするバアルの預言者達と、人々に捧げものをさせたエリヤ(1列王記18:22-35)
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バアルの預言者たちをイゼベルは飼っていたが、結局、長いききんの間、「豊穣の神バアル」はイスラエルに何の豊穣をもたらしてはくれなかった。
エリヤは人々に、主につくのか、それともバアルにつくのかをはっきりさせよ、と言ったが、人々は何も答えられなかった。
そこでエリヤは、具体的な提案を示す。

『エリヤは民に言った、「わたしはただひとり残った主の預言者です。しかしバアルの預言者は四百五十人あります。われわれに二頭の牛をください。そして一頭の牛を彼らに選ばせ、それを切り裂いて、たきぎの上に載せ、それに火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の牛を整え、それをたきぎの上に載せて火をつけずにおきましょう。こうしてあなたがたはあなたがたの神の名を呼びなさい。わたしは主の名を呼びましょう。そして火をもって答える神を神としましょう」。民は皆答えて「それがよかろう」と言った。』(1列王記18:22-24)
人々は「どの神を信じるのか」という言葉には何も答えなかったが、具体的にこれこれの事をして、このようにされる神こそまことの神である、と、具体的に示さると、人々からは「それがよい」と答えがあった。
言葉だけで分からない人々には、行動としるしが必要である。

こうして、聖書の中でも名場面の1つである「エリヤとバアルの預言者との戦い」が始まる。
それは、実に不思議な戦いである。
肉弾戦や兵器による戦いではなく、舌戦でも心理戦でもない。人数は一切関係無く、対戦相手と対面すらしない。
戦いの方法は、ただ自分の神に呼ばわり、その神に動いて頂く、というものである。
そしてそれは、私達が、世に対し、サタンに対して戦う方法でもある。(エペソ6:12-18)
『わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。』(エペソ6:12)

『そこでエリヤはバアルの預言者たちに言った、「あなたがたは大ぜいだから初めに一頭の牛を選んで、それを整え、あなたがたの神の名を呼びなさい。ただし火をつけてはなりません」。彼らは与えられた牛を取って整え、朝から昼までバアルの名を呼んで「バアルよ、答えてください」と言った。しかしなんの声もなく、また答える者もなかったので、彼らは自分たちの造った祭壇のまわりに踊った。』(1列王記18:25-26)
バアルの預言者達は、先にバアルを呼び出す事を始めたが、何をどう呼びかけても、何の答えもなかった。
彼らはついに、踊り回り始めるのだが、それでも答える者が何もいない。
朝からずっと見物していた人々は、きっとしびれを切らして来た事だろう。

『昼になってエリヤは彼らをあざけって言った、「彼は神だから、大声をあげて呼びなさい。彼は考えにふけっているのか、よそへ行ったのか、旅に出たのか、または眠っていて起されなければならないのか」。そこで彼らは大声に呼ばわり、彼らのならわしに従って、刀とやりで身を傷つけ、血をその身に流すに至った。こうして昼が過ぎても彼らはなお叫び続けて、夕の供え物をささげる時にまで及んだ。しかしなんの声もなく、答える者もなく、また顧みる者もなかった。』(1列王記18:27-29)
エリヤのほうは、自分の神である主に祈り求めたような行動は、一切していない。
なぜなら、「主に定められた時」ではなかったからだ。
身勝手な時に、身勝手な方法で、身勝手な熱心に基づいて行なう礼拝は、全く無駄なのだ。

バアルの預言者達は、叫び踊っていたばかりでなく、互いを刃物で傷つけ、血を流すまでになった。
何百人もの人々が踊り狂いながら、刃物で血を流し合う。
なかなかの壮観だったろう。
見ていた人々は、今度こそ、何か起こるのではないか、という気がしたかもしれない。
しかし、「何もおきない」という事実が厳然と残るのみで、人々のバアルに対する期待は失望に変わり、やがて怒りへと変わっていく。
そうこうしている内に、主が定められた「夕暮れの捧げ物」の時刻が近づき、そして、エリヤが動き出す。

『その時エリヤはすべての民にむかって「わたしに近寄りなさい」と言ったので、民は皆彼に近寄った。彼はこわれている主の祭壇を繕った。』(1列王記18:30)
主の御名は今までずっと軽んじられっぱなしで、その時、主の祭壇は壊れたままだった。
祭壇も、主の家も、礼拝の場である。
生活を良い方に立て直したいのなら、まず、礼拝の立て直しから始めるべきである。

その人の中で、主を礼拝する「祭壇」が壊れたままなら、働いても働いても、なお暮らしは楽にならない状態なのだ。
『「主の家はこのように荒れはてているのに、あなたがたは、みずから板で張った家に住んでいる時であろうか。それで今、万軍の主はこう言われる、あなたがたは自分のなすべきことをよく考えるがよい。あなたがたは多くまいても、取入れは少なく、食べても、飽きることはない。飲んでも、満たされない。着ても、暖まらない。賃銀を得ても、これを破れた袋に入れているようなものである。
万軍の主はこう言われる、あなたがたは、自分のなすべきことを考えるがよい。山に登り、木を持ってきて主の家を建てよ。そうすればわたしはこれを喜び、かつ栄光のうちに現れると主は言われる。』(ハガイ1:4-8)
礼拝の立て直しを始めるなら、その時から主が動いて下さり、実生活の立て直しが始まるが、礼拝が壊されたまま放置しているなら、どんなに血を流すほどの熱心があっても、バアルの踊りと同じように、何も起きないのだ。

『そしてエリヤは昔、主の言葉がヤコブに臨んで、「イスラエルをあなたの名とせよ」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取り、』(1列王記18:31)
十二の石を取る事は、モーセも、ヨシュアも行なった。(出エジプト記24:4,ヨシュア記4章)
これは、エホバであられる主にあって為している事のあかしとして行なっているのだ。
私達も、どなたを神としているのか、その所在を明らかにしておく必要がある。
一体、今、どなたを礼拝しているのか。「どの神」にあって、今、この事を行っているのかを。

『その石で主の名によって祭壇を築き、祭壇の周囲に種二セヤをいれるほどの大きさの、みぞを作った。また、たきぎを並べ、牛を切り裂いてたきぎの上に載せて言った、「四つのかめに水を満たし、それを燔祭とたきぎの上に注げ」。』(1列王記18:32-33)
雨が降らない時期の水は、とても貴重であるが、エリヤは、それを主の祭壇に注げ、と、人々に言う。
水を注いだら、火がつくのがもっと困難になってしまうばかりでなく、貴重なものを注ぐわけだから、ちょっとやそっとの覚悟では出来ないが、人々はそれをした。
エリヤはさらに、それを2度せよ、3度せよ、と言った。
こうして、イスラエル部族の数と同じ、合計十二杯の水が祭壇に注がれた。

全く、バアルの預言者とは違った方法だ。
バアルの預言者達は、朝から熱心に騒ぎ立てながら祈ったのに、エリヤは、定められた時が近づくまで行動を起こさなかった。
バアルの預言者達は、派手なパフォーマンスをして人々にエンターテイメント性を感じさせる事を行なったのに対し、エリヤは人々を楽しませる事は一切せず、むしろ、貴重な水を主の祭壇に注がるという「捧げもの」をさせた。
礼拝とは、人間のエンターテイメントではない。人がサービスを受けるものではない。
礼拝とはサーヴィス、すなわち、仕える事や捧げる事を意味するものであり、主をエンターテインさせる(喜ばせる、もてなす)事である。

このように、人の側が主を敬い、主に捧げる行動をとる時、主は物事を動かされる。

指名手配されていたエリヤ、アハブ王と異教の預言者達850人を動かす(1列王記18:16-21)
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いよいよ3年半の沈黙を破って、エリヤが動き出す。

『オバデヤは行ってアハブに会い、彼に告げたので、アハブはエリヤに会おうとして行った。アハブはエリヤを見たとき、彼に言った、「イスラエルを悩ます者よ、あなたはここにいるのですか」。彼は答えた、「わたしがイスラエルを悩ますのではありません。あなたと、あなたの父の家が悩ましたのです。あなたがたが主の命令を捨て、バアルに従ったためです。』(1列王記18:16-18)
アハブは、エリヤがイスラエルを煩わせる者だ、と言ったが、真逆だ。
主は、何百年も前から、あらかじめ宣告しておられた。
何をすれば雨が降り、何をすれば、雨が降らなくなってしまうのかを。

『もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。
あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。おそらく主はあなたがたにむかい怒りを発して、天を閉ざされるであろう。そのため雨は降らず、地は産物を出さず、あなたがたは主が賜わる良い地から、すみやかに滅びうせるであろう。』(申命記11:13-16)

この申命記の箇所は、メーズーザーと呼ばれ、イスラエル人の家ならどこでも家の柱にこの言葉が打ち付けられているほど、重要かつ有名な御言葉である。
何百年も前から既にあらかじめ主から言われていたというのに、彼らはそれを無視し、自分勝手に迷い出て、その身に災いを招いたのだ
アハブは、家畜を生かすための草を探しに行ったが、そんな事よりも、家畜のために野に草を生えさせて下さる主こそ、求めるべきだったのだ。
私達も、人生にききんや干魃、敵ののさばりによって、苦しめられているとしたら、まずは自分の胸に手を置き、主の言葉を軽んじていないかどうか、点検すべきだ。

『それで今、人をつかわしてイスラエルのすべての人およびバアルの預言者四百五十人、ならびにアシラの預言者四百人、イゼベルの食卓で食事する者たちをカルメル山に集めて、わたしの所にこさせなさい」。そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、預言者たちをカルメル山に集めた。』(1列王記18:19-20)
イゼベルはなんと、計850人もの偶像に仕える者たちを、国費で居候させ、ききんの時代の貴重な食料を、彼らにやって、飲み食いさせていたのだ。
イスラエルはまさに、イゼベルという一匹の狐によって好き放題荒らされ、その代わり、人々は飢えさせられている状況だったのだ。

ここで興味深いのは、王も、異教の預言者850人も、人々も、皆、エリヤの指示通りに動いた事だ。
3年半もの指名手配して徹底的に探し、ようやく目の前に現れたエリヤなのに。
アハブはどうして彼を見つけ次第、拘束する事なく、彼の言った通りに動いたのか。
それは、エリヤの側に、万軍の主がついておられるからである。

主の側につくたった一人の預言者が、偶像礼拝の者達の場を支配する。
世の中は、そういうものである。
主の御言葉によって創られたこの世は、主の御言葉に従う信仰者一人に対し、恐れをなし、従うのだ。

『そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。』(1列王記18:21)
預言者は訴える。
あなたは、主を神とするのか、それとも、そうでないものを神とするのか。
表明せよ、とのエリヤの叫びに、人々の反応は「沈黙」で返した。
本当に情けない状況である。

神である主こそ万軍の主、力ある神である。
そう聖書に書いてあるのに、現実を見るとあたかも現実のほうが主である神より力を持っているかのように錯覚し、あたかも、聖書に書いてある事のほうが机上の空論であるかのように思えてしまう人は、多い。
なぜなら、主は目に見えないお方であり、このお方にあって歩むには、信仰を働かせる必要があるからだ。

信仰生活は、この世から天の霊的世界へと歩み続けるようなもので、足を使わずにいるならどんどん弱って歩けなくなってしまうように、信仰も、働かせないでいるなら、どんどん弱って、信仰の歩みができなくなってしまう。
信仰生活は、永遠へと通じる霊的生活であるが、目に見える現実に対し信仰を働かせず、自分の肉体や知識をやりくりして生きる「肉的生活」では、自分の力ではどうにもする事もできない現実に対して、対処する術がない。
しかし、信仰を用いて主に委ねるなら、どんな現実も問題も、対処可能だ。なぜなら主は、この現実世界を創造され、全権をもって支配しておられるからだ。
『するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」』(マルコ9:23)
『よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。』(マルコ11:23)

人は、信仰を働かせて御言葉に自分自身を従わせるより、信仰を働かせないで世の諸々をぼんやりながめているほうが、肉的に楽である。
しかし、そのように霊的になまけてばかりいるなら、いざ、自分の目の前に現実の山が立ちはだかった時、何も対処できないままに飲まれてしまう。
『わたしはなまけ者の畑のそばと、知恵のない人のぶどう畑のそばを通ってみたが、いばらが一面に生え、あざみがその地面をおおい、その石がきはくずれていた。わたしはこれをみて心をとどめ、これを見て教訓を得た。「しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む」。それゆえ、貧しさは盗びとのように、あなたに来、乏しさは、つわもののように、あなたに来る。』(箴言24:30-34)
私達の人生という畑は、夫婦関係が、親子関係が、経済状況といった「石がき」は、崩れ果てていないだろうか。
崩れた防護壁の隙間から、きつねが出入りし放題になって汚されてしまったり、大事なものが奪われ放題にされてしまっていないだろうか。
当時のイスラエルは、まさにその状態だった。
長らく信仰の石垣がくずれたまま放置し、イゼベルというきつねがやりたい放題し、主の預言者が殺され、異教の神々に貴重な食料が食べられっぱなしで何も出来ない、情けない時代だった。
そして当時の人々は、主があらかじめ言っておられた御言葉さえ分からず、よろめいていた。

そのような、霊的虚弱状態にある人々に、主はエリヤを送り、奇跡をもってご自身が生きておられる事を示される。
奇跡は、御言葉だけで信じられない、弱い人々のために、起こされる。
それは、主が生きて働いておられる事を示すためだ。
それ故、御言葉に聞こうとせず、奇跡ばかり求める人は、健全な食生活を怠って、モルヒネばかり求める人のようだ。
私達は、特効薬ばかり求めるのではなく、日々、健全な御言葉の食事を噛み締め、味わい続けるべきなのだ。
『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである。』(ヨハネ20:29)

教会が誕生したばかりの時代、聖徒たちは、主の「言葉」だけでは信じ切れない人々が、信じられるようなるために、しるしと奇跡を行わせてください、と祈り求めた。
『主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばしていやしをなし、聖なる僕イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい」。』(使徒4:29-30)
信じない世代の中において、私達も、求めるべきである。
「聖なる僕、イエスの名によって、しるしと奇跡とを行わせて下さい。」と。
僕とは、気が向いた時だけ従う者ではなく、いつでも、自分がどんな思考を持っていようとも、いつでも御言葉に従う者だ。

この時代、主のしもべとして、信仰を混ぜた御言葉を口から発し、エリヤのように、不信仰な時代の人々を信仰へと突き動かして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

オバデヤ - 干魃で主に呪われてなお行状を改めない王に仕える信仰者(1列王記18:1-15)
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『多くの日を経て、三年目に主の言葉がエリヤに臨んだ、「行って、あなたの身をアハブに示しなさい。わたしは雨を地に降らせる」。』(1列王記18:1)
主は、不従順なイスラエルに対する審判として、干魃の日々を送られたが、その日々に、終わりを告げられる。
アハブやイゼベルは、この審判を通して悔い改めたかというと、そうではなかった。
なぜその状況で、主は再び雨を降らせて下さるか。
イスラエルには、わずかながらでも主を恐れる人々が残っているが、もし彼らが、霊的にも物質的にもききんの状況があまりに長く続くなら、耐える事は出来ないだろう。
そんな彼らを憐れまれる故であろうし、また、主を軽んじていた者たちに対して、主こそ天地を支配しておられる神である事を知らせるためでもあろう。
イゼベルも、アハブも、そして多くのバアル神(元々はカナンの豊穰神)を信仰するイスラエルの民も、この干魃がやむように祈ったであろうが、まことの神である主を差し置いてそのような偶像の神々に頼る事は、全く愚かである事を、この事を通して思い知らされるのである。

『エリヤはその身をアハブに示そうとして行った。その時、サマリヤにききんが激しかった。アハブは家づかさオバデヤを召した。(オバデヤは深く主を恐れる人で、イゼベルが主の預言者を断ち滅ぼした時、オバデヤは百人の預言者を救い出して五十人ずつほら穴に隠し、パンと水をもって彼らを養った)。』(1列王記18:2-4)
イゼベルは、主の預言者たちを虐殺していた。
神の国であるはずのイスラエルが、国家権力によって主のしもべ達を組織的に虐殺するのは、未だかつて無かった事だ。
イゼベルがいかに邪悪な者であるかを物語っている。

北イスラエル王国では、今まで主を恐れ敬う王が一人もいなかったが(またその後も無いのだが)、そんな中、オバデヤのような主を恐れ敬う高官が存在する事も、特筆すべき事だ。
そのような人達が残っている限り、主は、彼らが耐え切れないような世の中にならない内に手を打って下さる。

『アハブはオバデヤに言った、「国中のすべての水の源と、すべての川に行ってみるがよい。馬と騾馬を生かしておくための草があるかもしれない。そうすれば、われわれは家畜をいくぶんでも失わずにすむであろう」。彼らは行き巡る地をふたりで分け、アハブはひとりでこの道を行き、オバデヤはひとりで他の道を行った。』(1列王記18:5-6)
アハブ王は自ら、馬や騾馬を生かすための草を探しに行った。

馬は、戦争で用いる動物で、毎日たくさんの草を食べる。
長い干魃によって苦しんでいる人を生かすためでなく、戦争の動物である馬を生かす目的で、水源や川を査察しに行く所を見るに、彼は、軍事力を強化するためには平気で国民からむしり取り、人民が飢えて死んでもかまわないような王なのだろう。

『オバデヤが道を進んでいた時、エリヤが彼に会った。彼はエリヤを認めて伏して言った、「わが主エリヤよ、あなたはここにおられるのですか」。エリヤは彼に言った、「そうです。行って、あなたの主人に、エリヤはここにいると告げなさい」。』(1列王記18:7-8)
オバデヤは、自らエリヤを「わが主人」と呼んだが、エリヤは彼に、アハブの事を「あなたの主人」と言った。
オバデヤはとてもアハブを恐れているからだ。

『彼は言った、「わたしにどんな罪があって、あなたはしもべをアハブの手にわたして殺そうとされるのですか。』(1列王記18:9)
唐突な反応である。
このように、「えっなんで突然そういう話になるの?」とびっくりするような反応をしてくる人は、圧迫と不安の中を長らく過ごして来た人である事が多い。
彼は高官であっても、アハブにいつ殺されるか分からない恐怖の中を、長らく過ごして来た。

『あなたの神、主は生きておられます。わたしの主人があなたを尋ねるために、人をつかわさない民はなく、国もありません。そしてエリヤはいないと言う時は、その国、その民に、あなたが見つからないという誓いをさせるのです。あなたは今『行って、エリヤはここにいると主人に告げよ』と言われます。しかしわたしがあなたを離れて行くと、主の霊はあなたを、わたしの知らない所へ連れて行くでしょう。わたしが行ってアハブに告げ、彼があなたを見つけることができなければ、彼はわたしを殺すでしょう。』(1列王記18:10-12)
アハブは、エリヤを見つけ出すために、そこまで徹底して来たのだ。
このような時勢の中において、オバデヤは主の預言者100人をかくまうという良い事をしたのだが、彼は、起きてもいない事柄を悪い方へと先回りして考え、いらない恐れに満たされてしまっている。

『しかし、しもべは幼い時から主を恐れている者です。イゼベルが主の預言者を殺した時に、わたしがした事、すなわち、わたしが主の預言者のうち百人を五十人ずつほら穴に隠して、パンと水をもって養った事を、わが主は聞かれませんでしたか。ところが今あなたは『行って、エリヤはここにいると主人に告げよ』と言われます。そのようなことをすれば彼はわたしを殺すでしょう」。』(1列王記18:12-14)
彼はさらに、聞かれてもいない事を、すなわち、今まで自分がして来た良い事を並べ立てる。
これは、いつ下されるか知れない罰が極力減らされるようにと、恐怖政治の下で身に染みてしまった行動パターンなのかもしれない。

主へのあかしをたてる人々を次々と虐殺して行く王の元、主への信仰をかろうじて保ちながら怯えつつ暮らして行くと、心がしなえてしまうものである。
オバデヤは信仰を振り絞って主の預言者100を守り、養ったが、そろそろ限界が来ていたようだ。
主は、そんなわずかな人々を救うために立ち上がり、事を行われる。

『エリヤは言った、「わたしの仕える万軍の主は生きておられる。わたしは必ず、きょう、わたしの身を彼に示すであろう」。』(1列王記18:15)
オバデヤに比べ、エリヤはなんと心強いだろう。
邪悪な時勢では、世の中で高い地位に上って恐々と信仰生活する人よりは、多少貧しくとも、信仰によって世から離れ、主御自身から直接養われている人のほうが、強いのだ。

この終わりの時代、アハブの治世下のように、信仰生活を送るのが困難な時代になって来るかもしれない。
天地を創られた主を無視し、偶像礼拝を推し進めるような国、人を生かす事よりも軍備強化に力を入れるような時勢になるとしても、主への誠実を守り、信仰によって主に養われ、エリヤのように強く凛々しい主の尊い働き人として、大いに用いられていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主は与え、取られ、また与える。主を信じるようになるために。(1列王記17:17-24)
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『これらの事の後、その家の主婦であるこの女の男の子が病気になった。その病気はたいそう重く、息が絶えたので、彼女はエリヤに言った、「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」。』(1列王記17:17-18)

ききんの時代、最後の食料をささげて預言者を養ったやもめは、尽きる事がなくなったその食料によって、自身も、息子も、生きながらえていた。
それなのに、子は病気になって死んでしまった。
生かすための奇跡が起きていた所に、死がおとずれてしまう。
彼女のみならず、私達も「なぜ」と思う。

なぜこのような事が起きるのか。
イエス様の言葉にヒントがある。

『姉妹たちは人をイエスのもとにつかわして、「主よ、ただ今、あなたが愛しておられる者が病気をしています」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた、「この病気は死ぬほどのものではない。それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」。イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。ラザロが病気であることを聞いてから、なおふつか、そのおられた所に滞在された。』(ヨハネ11:3-6)
イエス様は、愛しておられるラザロが病気であると聞いたのに、すぐに癒やしには行かず、あえて、なお数日滞在された。
それでラザロは、イエス様が行かないままに死んでしまうのだが、イエス様はなぜ敢えてそのままにしておかれたのか。
その答えは、以下である。
「それは神の栄光のため、また、神の子がそれによって栄光を受けるためのものである。」

主は、人の病や死、その悲しみを、何の感覚もなくただ見過ごしにされているわけではない。
主は、人が死に束縛され、死の悲しみに打ちひしがれている様を見て涙を流し、霊に憤りを覚えられる。(ヨハネ11:35)
主は「死」に勝利し、罪と死から救い出すお方である。
それを人々に知らしめるために、あえて、ラザロが死ぬ事をお許しになったのだ。

『イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。マルタはイエスに言った、「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の御子であると信じております」。』(同25-27節)
イエス様こそ、よみがえりであり、命である。
これは文字通り「死ぬほど重要」な真理であり、これを人に伝えるため、敢えて主はラザロが死ぬ事を許されたのであり、やもめの子が死ぬ事もお許しになられたのだ。

人はたとえ、奇跡的に食料が与えられて生きながらえても、また、たとえ死んだ状態から生き返らせてもらったとしても、結局、死ぬ。
この、人が誰も逃れられない「死」の根本原因は、罪である。
『罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。』(ローマ6:23)
やもめはエリヤに「わたしの罪を思い出させるためですか」と問うたが、人はまさにこの「罪」と「死」の問題を取り扱うべきであり、その事を教えるため、主は敢えて、あのような事を起こされる。

『エリヤは彼女に言った、「子をわたしによこしなさい」。そして彼女のふところから子供を取り、自分のいる屋上のへやへかかえて上り、自分の寝台に寝かせ、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、あなたはわたしが宿っている家のやもめにさえ災をくだして、子供を殺されるのですか」。そして三度その子供の上に身を伸ばし、主に呼ばわって言った、「わが神、主よ、この子供の魂をもとに帰らせてください」。』(1列王記17:19-21)
彼女は、その子が病の間も、死んだ後も、その子をずっと「ふところ」に抱えていた。
彼女は息子が死んで、ようやくふところからその子を手放し、エリヤへと渡した。

自分にはどうにもならない、この問題に対処できるまでの信仰が無い、というような場合は、エリヤのような信仰の先輩に持って行き、祈ってもらうのが一番である。
『信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。』(ヤコブ5:15-18)
それ故、聖徒の交わりは大切だ。自分よりも信仰のある人、自分よりも義人である人に、祈ってもらう事ができるのだから。
『預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。』(マタイ10:41)

『主はエリヤの声を聞きいれられたので、その子供の魂はもとに帰って、彼は生きかえった。エリヤはその子供を取って屋上のへやから家の中につれて降り、その母にわたして言った、「ごらんなさい。あなたの子は生きかえりました」。』(1列王記17:22)
主は、エリヤの祈りに答えて下さった。
エリヤは必死に祈って、三度その子の上に伏せって、ようやく祈りに答えられたが、イエス様がラザロをよみがえらせる時はエリヤのようでなく確信に満ち満ちており、ただ、祈りを聞いて下さった事への感謝と、権威ある「命令」だけがあった。
『人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれたすると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。』(ヨハネ11:39-44)
エリヤのような信仰の先輩を頼りとする事は、確かに有用だが、最も有用な事は、完全なる主、イエス・キリストに直接お願いする事である。

奇跡的に生かされていたのに、奪われ、そして再び、主にあって取り戻す。
これら一連の事が起きるのは、神が遣わされた者は一体誰であるのかを、人々が真に知って彼を信じるため、そして、神の栄光が現れるためである。

『女はエリヤに言った、「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました」。』(1列王記17:24)
彼女はこの一連の事を通して、さらに深く知った。
エリヤこそ、まことに神から遣わされた人であり、彼をとおして為された事は、主のものである事を。

主は、私達が「信じるため」にも、色々な事を起こされる。
『わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたのために喜ぶ。それは、”あなたがたが信じるようになるため”である。』(同15節)
『イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、”イエスを信じた”。』(同45節)
『イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。”見ないで信ずる者は、さいわいである”」。』(ヨハネ20:29)
信じる者こそ、幸いである!

やもめへと遣わされたエリヤと、エリヤを養うよう命じられたやもめ(1列王記17:7-16)
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メッセージ音声

不従順なイスラエルへの審判として、主から干魃が送られた時、エリヤは主の命令によって、ケリテ川のほとりに住み、そこでカラスによって養われていた。

『しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。その時、主の言葉が彼に臨んで言った、「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。』(1列王記17:7-9)
シドンといえば、イスラエルに災いをもたらした、あの邪悪な女・イゼベルの出身地である。
しかし、シドンには邪悪な者しかいない訳ではなかった。エリヤを養うようにと、主から命令を受けたやもめもいたのだ。

『そこで彼は立ってザレパテへ行ったが、町の門に着いたとき、ひとりのやもめ女が、その所でたきぎを拾っていた。彼はその女に声をかけて言った、「器に水を少し持ってきて、わたしに飲ませてください」。彼女が行って、それを持ってこようとした時、彼は彼女を呼んで言った、「手に一口のパンを持ってきてください」。
彼女は言った、「あなたの神、主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ、かめに一握りの粉と、びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ二、三本を拾い、うちへ帰って、わたしと子供のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」。』(1列王記17:10-12)
彼女は、当時の人々の罪の結果のとばっちりを受け、最後のわずかな食料を食べて、彼女も、彼女の子も、死のうとしていた。
そして、その最後の料理するために、薪拾いをしている最中、彼女は偉大な預言者から声をかけられる・・・。

本当に不思議である。
どう見ても、彼女は誰かを養う能力も資力も無い。
なぜ預言者を養うはずのやもめが、こんなにも貧しく、追いつめられているのか。
なぜエリヤが遣わされる先が、イスラエルの誰か、ではなく、シドンのこのやもめなのか。
イエス様はその故郷において、この第一列王記を引用し、メッセージしている。

『「よく言っておく。預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。』(ルカ4:24-26)
イエス様は「預言者は故郷では歓迎されない」事を伝えるために、イエス様はこの箇所を引用した。
つまり、エリヤの時代、イスラエルにも沢山、やもめはいたものの、この偉大な預言者エリヤを歓迎するやもめはイスラエルの中において、一人もいなかったという事だ。

不信仰な時代、預言者を誰も受け入れようとせず、むしろエリヤは指名手配が出されているような状態で、彼を見つけたなら、即アハブ王に報告するよう命令が出されているような状況であった。
それでエリヤは、イスラエルの誰にも遣わされる事なく、異邦の国・サレプタのやもめへ「遣わされた」のだろう。

主はサレプタの「やもめ女に命じてあなたを養わせよう」とエリヤに言ったが、どうも彼女は、主から命じられたような感じではない。
もし彼女が、主から命じられたという意識があったなら、エリヤを見るなり「お待ちしておりました、さあどうぞこちらへ」と言いそうなものだが、そうではないし、それどころか、彼女にはその能力も持ち物も無い。

主は、当人にその意識があるにしろ無いにしろ、資力があるにしろ無いにしろ、その人の心に、その人の信仰に応じたミニストリーを「命じる」事がある。
なぜなら主は、全世界を見わたし、一人一人の生活の中における主への従順やこころざしを常日頃ご覧になっておられ、それぞれに対し、この時代のこの時、この事をするようにという志を立てさせて下さるのだ。
『あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。』(ピリピ2:13)
その時、たとえ主から命じられた「記憶」は無くても、持ち物や時間、お金が無くても、これこれの主の働きをしなくては、という意識が湧き上がり、その使命感に突き動かされて行く。
そうして信仰によって突き動かされて行った時、必要な志も、持ち物も、時間も、お金も、主が用意して行くものである。
サレプタのやもめには、日頃の信仰や従順から、信仰によって預言者を養う素地が出来上がっていたのであり、決して、宝くじに偶然当選するかのように、ききんの時代に生き残れる事に選ばれたのではなかったのだ。

エリヤが彼女に一口のパンを求めた時、彼女は「あなたの神、主(エホバ)は生きておられます」と言った。
この言葉は、「これから私が言う事は偽りなき真実です」という意味の、イスラエル風の独特の言い回しではあるが、ともかく彼女はエホバなる主の御名を用いている。
つまり彼女は、元々、主を敬う信仰の持ち主だったのであり、だからこそ主はエリヤに彼女の所へ行くように示されたのだ。

『エリヤは彼女に言った、「恐れるにはおよばない。行って、あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず、それでわたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。その後、あなたと、あなたの子供のために作りなさい。『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」。』(1列王記17:13-14)
ある人がここを読むと、エリヤは、とても「人でなし」な事を言っていると見なす。
やもめと子供の最後の食料を、まず自分に差し出せ、と。もしそれでエリヤが食べて終わりなら、それほど酷い話はない。
しかし、信仰ある人は「主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」という言葉に、大きな希望を見出す。
自分も、子も、そして預言者も、主からの直接の養いを受けるのだ、と。
その希望の根拠は、『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』という、イスラエルの神、主の言葉だ。
エリヤの言葉を、非道いと取るか、それとも希望に取るか。
それは、その人の信仰次第である。

彼女はエリヤを通した主の言葉に、ただ、行いをもって答えた。
『彼女は行って、エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。主がエリヤによって言われた言葉のように、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかった。』(1列王記17:15-16)
主の偉大な栄光が、ここに現れた。
それは、彼女が主の言葉の通りにしたからだ。
主の偉大な栄光が現れるためにはどうすればいいか。それは単純に、主の御言葉どおりに行動する事であり、それ以上でも以下でもない。
こうして彼女は、エリヤの言葉どおり実行した事で、本当に粉は尽きず、油も尽きず、自身も、子供も、預言者も、ききんの間それによって養われた。

牧師を何年かしていると、彼女のように、最後の粉や油を差し出されるような事がある。
その時、彼らのその状況と心を見るに、人情としては、とても受け取れるような心境にはなれない。
ダビデが、三勇士が命がけで持ってきた水を、自分が飲む事は出来ず、そのまま主へ注いだように(2サムエル記23:17)、ただ主に差し出して「主よ、絶対彼らを養って下さい」と、深く祈る以外には無い。
エリヤはカラスの手で養われていたが、そのように、一人ひっそり養われているほうが、よほど心苦しい思いをしなくて済む、と思った事もあるが、それは間違いであった。

主は、信仰ある彼女が、飢えて死なないようにするために、彼女のために預言者を「遣わされた」のだ。(ルカ4:24-26)
そして預言者からすれば、主は預言者を養うために、彼女を主から命を受けたミニスターとして用意されたのだ。(1列王記17:9)
双方とも、はじめはその事が分からなくても、双方が御言葉どおり行った時、はじめてその事が分かるのだ。
これらの事は、信仰ある兄弟姉妹、共々、主への感謝が増し加わるためであり、互いに与え合う事によって、全てのものを惜しみなく分け与えて下さる方への感謝が、それぞれが捧げる事を通して、増し加わっていき、互いに豊かになって行くためである。
もし、カラスがただ必要を運んで来るだけでは、主の栄光も、信仰者達が受けるべき冠も、決して味わえないままだ。

『神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。「彼は貧しい人たちに散らして与えた。その義は永遠に続くであろう」/と書いてあるとおりである。種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。
こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。』(2コリント9:8-12)

主に心から捧げる人には、主はこのようにして、決して尽きない主の栄光を見る事が出来、そしてききんの時代にあっても、物質的な養いを受ける事が出来る。
この、霊的ききんとも呼べる時代、働き人を養い、あるいは養われ、こうして双方とも主からの豊かな養いを受け、栄光をあらわす皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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