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メッセージ - 1列王記カテゴリのエントリ

全く同一である列王記のパターンと、私達の人生のパターン(1列王記22:41-53)
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第一列王記の講解説教は、いよいよ今回で終わる。
と言っても、原典ヘブル語聖書には元々、「第一」や「第二」の区切りは無かったので、この「第一」の終わりの内容も、何か物語の終わりを飾るに相応しいストーリー的な盛り上がりが特にあるわけではないし、第二列王記の始まりも、「第一」の続きがすぐに始まる。
そしてこの第一列王記の終わりは、アハブと同時代を生きたヨシャパテ王の歩みと、アハブの子・アハズヤの歩みの簡潔な説明によって終わる。

『アサの子ヨシャパテはイスラエルの王アハブの第四年にユダの王となった。ヨシャパテは王となった時、三十五歳であったが、エルサレムで二十五年世を治めた。その母の名はアズバといい、シルヒの娘であった。』(1列王記22:41-42)
ヨシャパテ王については、第二歴代誌のほうがもっと詳細に記されている。

『ヨシャパテは父アサのすべての道に歩み、それを離れることなく、主の目にかなう事をした。ただし高き所は除かなかったので、民はなお高き所で犠牲をささげ、香をたいた。』(1列王記22:43)
イスラエルにおける礼拝は、本来、エルサレムの神殿でのみ行うべきものであったが、長い歴史の中で、イスラエル各地にある「高き所」でもずっと行われてきた。
この「高き所」は元々、異邦の民が築き上げた礼拝所で、全て粉砕されなくてはならない事はモーセをとして命じられていた。(申命記12:1-3)
しかしこの高き所は、後の時代にもずっと残りり続けていた。
良い王と悪い王とが交錯する長い歴史の中で、律法の知識が廃れ、イスラエルの民は何が礼拝の基準であるのかが分からないままに行なってしまっていたのを、主は杓子定規に裁く事はせず、むしろ彼らを憐れんで下さった。

『ヨシャパテはまたイスラエルの王と、よしみを結んだ。ヨシャパテのその他の事績と、彼があらわした勲功およびその戦争については、ユダの王の歴代志の書にしるされているではないか。彼は父アサの世になお残っていた神殿男娼たちを国のうちから追い払った。』(1列王記22:44-46)
神殿男娼は、彼の父アサの時代にも追い出したはずであったが(1列王記15:9-12)、それは徹底されていなかったのだろう。
ヨシャパテは、それを追い出した。
このようにヨシャパテは、主の目に良い事を行なって祝福されたが、第二歴代誌を見ると、彼はイスラエルの王・アハブと同盟を結んだ故に、災いが起こってしまう事が預言されている。

『ユダの王ヨシャパテは、つつがなくエルサレムの自分の家に帰った。そのとき、先見者ハナニの子エヒウが出てヨシャパテを迎えて言った、「あなたは悪人を助け、主を憎む者を愛してよいのですか。それゆえ怒りが主の前から出て、あなたの上に臨みます。しかしあなたには、なお良い事もあります。あなたはアシラ像を国の中から除き、心を傾けて神を求められました」。』(2歴代誌19:1-3)
ヨシャパテは、預言者から警告を受けた後、イスラエルの主だった人々を集め、彼らには主を恐れ敬うよう、主の道を歩むように指導した。
しかしその内に、モアブ人・アンモン人の連合軍が大軍をもってヨシャパテの国に攻め寄せて来た。(同20章)
そこでヨシャパテ王は、全国に断食を布告し、ただ主に助けを求め祈る集会をした。

その時、主の霊が一人の人に臨み、主の言葉が告げられた。
すなわち、この戦いは、ヨシャパテ達の戦いではなく、主が戦って下さる、だから恐る事は無い、と。
ヨシャパテは主をほめ讃え、苦しみの中に始まった集会は、喜びの集会となった。

戦いの日、彼らは兵士を先頭に配置せず、賛美の聖歌隊を先頭に配置した。
彼らが主と敵との前で賛美の声を上げはじめると、主は伏兵を遣わし、敵を同士討ちさせるようにして下さり、こうしてイスラエルはただ賛美を捧げている内に、敵は全滅してしまった。
彼らが分捕りをするために出ていくと、あまりにも多くの分捕りがあったために、それだけで3日もかかったという。
こうしてヨシャパテ王は、いよいよ栄えて行った様が、第二歴代誌20章に記されている。

しかし彼は、そのように名声と富が増し加わった時、再び過ちを犯してしまう。
『そのころエドムには王がなく、代官が王であった。ヨシャパテはタルシシの船を造って、金を獲るためにオフルに行かせようとしたが、その船はエジオン・ゲベルで難破したため、ついに行かなかった。そこでアハブの子アハジヤはヨシャパテに「わたしの家来をあなたの家来と一緒に船で行かせなさい」と言ったが、ヨシャパテは承知しなかった。ヨシャパテはその先祖と共に眠って、父ダビデの町に先祖と共に葬られ、その子ヨラムが代って王となった。』(1列王記22:47-50)
ヨシャパテは船団を造って、富をさらに増し加えようとしたのだが、頓挫した。
それは、彼は悪しき者と結託してしまったためであった。

『この後ユダの王ヨシャパテはイスラエルの王アハジヤと相結んだ。アハジヤは悪を行った。ヨシャパテはタルシシへ行く船を造るためにアハジヤと相結び、エジオン・ゲベルで一緒に船数隻を造った。その時マレシャのドダワの子エリエゼルはヨシャパテに向かって預言し、「あなたはアハジヤと相結んだので、主はあなたの造った物をこわされます」と言ったが、その船は難破して、タルシシへ行くことができなかった。』(2歴代誌20:35-37)
つまりヨシャパテは、富をさらに得たいがために、主の目に忌み嫌われる者であるアハズヤと結託してしまったのだ。
彼はアハブ王と結託し、散々な目に遭ったというのに、同じ過ちを犯してしまった。

私達は、世に出て行って、主の目に悪を行っているような人達とも一緒になって生きざるを得ないし、一緒に仕事をしなくてはならないものだが、ここで注意すべきは、私達・神の民は、世に媚びるために、または世の栄華や富を得るために、神の国の価値観を捨て去って、世に対して媚びたり卑屈になったりしてはならない事だ。
私達は、邪悪な者達もいる世に出て行って、ビジネスしたり、福音を伝えたりする事によって、はびこっている死をキリストのいのちでどんどん飲み込んで行くべきではあるけれど、ヨシャパテがアハブの言いなりになってしまったように、邪悪な者のいいなりになって、彼らの欲望満足のために汚れた事に利用されたりしてはならないのだ。

私達・「教会」や「兄弟姉妹の集い」は、きよく保ち続けるべきである。
『あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)

ヨシャパテは、アハズヤというパン種を、自分の王国の中にに混入させてしまったために、彼が構築していた船団は、主にあって破壊されてしまった。
彼はこの出来事に懲りたのだろう、彼はアハズヤから「わたしの家来をあなたの家来と一緒に船で行かせなさい」と言われた時、承知しなかった。(1列王記22:49)

『アハブの子アハジヤはユダの王ヨシャパテの第十七年にサマリヤでイスラエルの王となり、二年イスラエルを治めた。彼は主の目の前に悪を行い、その父の道と、その母の道、およびかのイスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤラベアムの道に歩み、バアルに仕えて、それを拝み、イスラエルの神、主を怒らせた。すべて彼の父がしたとおりであった。』(1列王記22:51-53)
アハブとイゼベルの間の子、アハズヤが王として統治した期間は、たった2年だった。
彼はその短い統治の間、父と母の道に歩み、バアル礼拝をし、主を怒らせた、と記されている。

彼の父・アハブの時代、エリヤやミカヤ、その他の預言者達から、あれだけ主に立ち返るように、と、多くのしるしをもって示されて来たというのに、それでも彼はバアルを拝み、主に忌み嫌われる事を積極的に行った。
それで彼は、せっかく主から与えられた恵みの猶予を全く無駄使いしてしまい、彼の王国と人生は早々と閉じられてしまう事になる。
どのようにして彼は死ぬのか、また、彼が神からどのような警告を受けたのか、それらの話は、第二列王記へと引き継がれる。

このように「第一列王記」は、全く今までの「列王記のパターン」通りに終わり、第二列王記もまた、そのパターン通りに始まる。
列王記のパターン、それは、イスラエルの王達それぞれの治世の記録であり、何年統治したか、その王は、主に従った「良い王」であったか、主に従わない「悪い王」であったかという評価が、淡々と記されている。
その王が主に聞き従う「良い王」であるなら、祝福され、栄える。
しかし、王が主に従わないなら、その時代は呪われ、衰退する。
この決して揺るがされなかったパターンは、まさに私達の人生に全く当てはまる。
私達がこの書を読む時、自分自身の人生で、何をしたら祝福され、何をしたら呪われるのか、それをよく読み解いて行くべきである。

イスラエル最悪の王として確定してしまったアハブの死(1列王記22:29-40)
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『こうしてイスラエルの王とユダの王ヨシャパテはラモテ・ギレアデに上っていった。』(1列王記22:29)
アハブは、真に主が語られたミカヤの預言を退け、彼おかかえの、自分に都合のいい言葉を言ってくれる”預言者達”にそそのかされ、戦いに進み出た。
しかし彼は、預言者達の”都合のいい預言の言葉”だけでは心配だったようで、自分の身の安全のため、さらに防護策を取る。

『イスラエルの王はヨシャパテに言った、「わたしは姿を変えて、戦いに行きます。あなたは王の服を着けなさい」。イスラエルの王は姿を変えて戦いに行った。』(1列王記22:29-30)
なんとアハブは、敵の標的になる事から逃れるために、ヨシャパテひとりに王服を着させ、自分は王でないかのように変装して戦いに臨もうとしたのだ。

そもそもヨシャパテは、この戦いに加わっても何のメリットも無い。
それなのにアハブは、厚顔無恥にも、善意で助けに来てくれたヨシャパテひとりにリスクを負わせ、自分だけが安全になろうとしたのだ。
『悪しき者は物を借りて返すことをしない。しかし正しい人は寛大で、施し与える。主に祝福された者は国を継ぎ、主にのろわれた者は断ち滅ぼされる。』(詩篇37:21-22)

アハブは、おかかえの預言者達から、この戦いは必ず勝つと言われていたのだから、別にそんな、姑息な防護策を取らなくても良かったであろうに。
結局、彼はおかかえの預言者の言葉さえ信じていなかったという事だ。
彼の頭の中は、いつも自分がしたい事でいっぱいで、今回も、「戦いに勝ってその土地を取り戻し名誉を回復したい」という、思いつき的な願望が先走り、彼のこの願望に「そうだそうだ」と言ってくれる人を沢山はべらせたかったがために、”預言者”を400人も抱え込んだのだ。
彼にとっての預言者とは、自分のしたい事を主の名によって賛同してくれるための取り巻きに過ぎなかったのだ。

『さて、スリヤの王は、その戦車長三十二人に命じて言った、「あなたがたは、小さい者とも大きい者とも戦わないで、ただイスラエルの王とだけ戦いなさい」。』(1列王記22:31)
シリヤの王のこの命令は、ヨシャパテにはますますピンチ、アハブにはますます有利、と思われるかもしれないが、結果的に、その真逆であった事が後になると分かる。

『戦車長らはヨシャパテを見たとき、これはきっとイスラエルの王だと思ったので、身をめぐらして、これと戦おうとすると、ヨシャパテは呼ばわった。戦車長らは彼がイスラエルの王でないのを見たので、彼を追うことをやめて引き返した。』(1列王記22:32-33)
ヨシャパテが「呼ばわる」と、シリヤの戦車隊は、彼がイスラエルの王アハブではないと知った。そして彼に何も害を加えないまま引き返した。
一体どうして、そうなるのか。
それは、第二歴代誌の平行箇所、18章31節を見ると分かる。
すなわちヨシャパテは、主エホバに叫び求め、すると主が彼を助け、戦車隊を彼から離れさせるようにしたのだ。

シリヤの戦車隊が、王服をまとったヨシャパテ王に迫った時、この者がイスラエルの王アハブではないと判断した材料は、彼がとっさに「主エホバを呼び求めた」事だった。
きっとシリヤの間では、アハブは主エホバを求めるような者ではない、と、有名だったのだろう。
ともかくヨシャパテはこうして、主に助けを呼び求めた事により、また、あらかじめシリヤ王が発していた命令のおかげで、危ない所で命が救われた。
人の目に「これは状況が悪化した」と思える事でも、実はそれは、主が状況を好転させるために為された、という事もあるのだ。

ヨシャパテはこの度、悪しき者同士の、欲深い領土争いに足を突っ込んでしまって、とんだとばっちりを受けたが、主は、そのような罠に陥ってしまった主の民を悪人同士の争いの中から引き上げ、救い出す事がお出来になるお方である。
この戦いには、ヨシャパテの南ユダの兵士達も混ざっており、悪しき者と善き者とが混在状態ではあったものの、シリヤ王があの命令を下してくれたおかげで、ヨシャパテ側の兵士達から犠牲者が多く出る事からも守られたのだ。
どんなに、善き人に対不利な戦局が展開されようとも、主はその人を助け出される事が可能であり、そして、悪しき者がいかに二重三重の防護策を講じようとも、その者が主の裁きから免れられる事は無い。

『しかし、ひとりの人が何心なく弓をひいて、イスラエルの王の胸当と草摺の間を射たので、彼はその戦車の御者に言った、「わたしは傷を受けた。戦車をめぐらして、わたしを戦場から運び出せ」。その日戦いは激しくなった。王は戦車の中にささえられて立ち、スリヤびとにむかっていたが、ついに、夕暮になって死んだ。傷の血は戦車の底に流れた。日の没するころ、軍勢の中に呼ばわる声がした、「めいめいその町へ、めいめいその国へ帰れ」。王は死んで、サマリヤへ携え行かれた。人々は王をサマリヤに葬った。
またその戦車をサマリヤの池で洗ったが、犬がその血をなめた。また遊女がそこで身を洗った。主が言われた言葉のとおりである。』(1列王記22:34-38)

ついにアハブ王は死に、彼は、悪人が受けるべき報いを得た。
誰かが何気なく放った矢が、見事、戦車で激しく動いているアハブの、それも胸当てと草摺の間にヒットし、彼を死に至らしめたのだ。
結局、主には全ての事がお出来になるのだ。
アハブとしては、姑息な手を使ってでも万全を期して臨んだのであろうが、そのような小賢しい知恵や努力も、主の「為す」と定められた災いを防ぐ事は出来ない。
もし人が、主の定められた審判を免れたいのであるなら、ただ、悔い改めて主に立ち返るだけで良いのであって、一切の小賢しい手段は、必要無い。

アハブに対する災いの預言は、あらかじめ3人の預言者達によって預言されていた。
最初、預言者のともがらの一人からは、アハブは主が滅ぼそうと定めた人を勝手に放免させた故に、アハブの命はその者の命の代るとなる、と言われていた。(20:42)
次に、アハブがナボテという罪なき人を謀殺し、その地所を手に入れようと出て行った時、エリヤから次のように言われた。
『あなたが主の目の前に悪を行うことに身をゆだねたゆえ、わたしはあなたに災を下し、あなたを全く滅ぼし、アハブに属する男は、イスラエルにいてつながれた者も、自由な者もことごとく断ち、またあなたの家をネバテの子ヤラベアムの家のようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにするでしょう。これはあなたがわたしを怒らせた怒りのゆえ、またイスラエルに罪を犯させたゆえです。』(21:20-22)
そして最後に、戦いに出る直前、ミカヤからの預言の警告も無視し、むしろ、ミカヤを獄屋に閉じ込め、そして戦いに出てしまった。

このように、3度も災いの預言が下されておきながらも、なお自分の好む道に突き進んで行ったが故に、彼は滅びるしかなかったのだ。
もし誰かが、「この先は崖だから進んで行くな」と言われても、その助言を無視し飛び出して行くなら、身分の大小・老若男女も関係なく、必ず崖から落ちてしまうように、誰であっても、主が「してはならない」と言われた事を無視し続けて突き進むなら、必ず災いと滅びへ至ってしまうのだ。

『アハブのそのほかの事績と、彼がしたすべての事と、その建てた象牙の家と、その建てたすべての町は、イスラエルの王の歴代志の書にしるされているではないか。こうしてアハブはその先祖と共に眠って、その子アハジヤが代って王となった。』(1列王記22:39-40)
彼は、象牙という高価な材料を使って、家を建てていたが、イスラエルは、そんなにリッチだっただろうか?
否、アハブの主を怒らせる数々の行い故に、三年半もの間、天が閉ざされ、人々は飢えていた。
そのような状況でも、アハブの妻イゼベルは合計850人もの異教の預言者達を飼っていたのだ。
民はどれ程、苦しんでいただろう。
また、イスラエルの軍隊がシリヤとの戦争に召集された時、イスラエルの人々は「やぎの二つの小さい群れのよう」であったのに対し、シリヤ人はその地に満ちていた、と言われている程、イスラエルの軍隊は、貧弱であった。

それでも主は、いつでも、アハブに良い事をして下さった。しかしアハブは、主に対していつでも仇でしか返さなかった。
そこで主は、アハブの悪政の元で苦しむイスラエルを救うために、アハブを滅びへと引き渡されたのだ。
それ故、アハブはイスラエル最悪の王と呼ばれ、永遠にその名を晒してしまったのである。

天の議会に連ならなかった偽預言者たち(1列王記22:15-28)
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ミカヤを呼びに行った使者は、彼に「預言者たちは一致して王に良い事を言いました。どうぞ、あなたも、彼らのひとりの言葉のようにして、良い事を言ってください。」と言ったが、ミカヤは「主は生きておられます。主がわたしに言われる事を申しましょう。」と言った。
『彼が王の所へ行くと、王は彼に言った、「ミカヤよ、われわれはラモテ・ギレアデに戦いに行くべきでしょうか、あるいは控えるべきでしょうか」。彼は王に言った、「上っていって勝利を得なさい。主はそれを王の手にわたされるでしょう」。』(1列王記22:15)

アハブは、戦いに行くべきか、控えるべきかを聞いてきたのに対し、ミカヤは、他の預言者達と同様、「行きなさい」言った。
しかし、どうもそれは真剣味に欠けたような、むしろ蔑みを含んだ口調や表情で言ったものと思われる。
なぜならアハブは、ミカヤに次のように答えるからだ。
『幾たびあなたを誓わせたら、あなたは主の名をもって、ただ真実のみをわたしに告げるでしょうか。』(1列王記22:16)

アハブは、ミカヤに言った。あなたは主の名をもって、ただ真実のみを告げよ、と。
それでミカヤは、彼の望む通り、主の御名をもって真実を告げた。
『彼は言った、「わたしはイスラエルが皆、牧者のない羊のように、山に散っているのを見ました。すると主は『これらの者は飼主がいない。彼らをそれぞれ安らかに、その家に帰らせよ』と言われました」。』(1列王記22:17)

ミカヤは、主から見せられた。
イスラエルは、牧者がいない羊のように迷わされ、散らされている有様を。
主は、神の民が散らされている様を見て、深くうめき、憐れまれる主である。

『イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。』(マタイ9:35-36)
ここの「深くあわれまれた」のギリシア語は「スプランキニゾマイ」、原意は「はらわたがちぎれる思い」で、心の痛みを伴って「ああ、かわいそうに!」と叫ぶ時の思いである。
主は、人々が羊飼いがいないような有様で弱り果てて倒れている様を、そのような思いでご覧になられる。

しかしアハブには、そんな主のうめきは届かなかったようだ。
『イスラエルの王はヨシャパテに言った、「彼がわたしについて良い事を預言せず、ただ悪い事だけを預言すると、あなたに告げたではありませんか」。』(1列王記22:18)
彼は、自分がイスラエルの良き羊飼いである、とでも思い込んでいたのかもしれない。
しかし、主のイスラエルに対する評価は「羊飼いがいない」であり、アハブは、自分を差し置いて羊飼いがいないなどと言うのは、心外だ、と思ったかもしれない。

さらにミカヤは、主から示された事を詳しく告げる。
『ミカヤは言った、「それゆえ主の言葉を聞きなさい。わたしは主がその玉座にすわり、天の万軍がそのかたわらに、右左に立っているのを見たが、主は『だれがアハブをいざなってラモテ・ギレアデに上らせ、彼を倒れさせるであろうか』と言われました。するとひとりはこの事を言い、ひとりはほかの事を言いました。その時一つの霊が進み出て、主の前に立ち、『わたしが彼をいざないましょう』と言いました。
主は『どのような方法でするのか』と言われたので、彼は『わたしが出て行って、偽りを言う霊となって、すべての預言者の口に宿りましょう』と言いました。そこで主は『おまえは彼をいざなって、それを成し遂げるであろう。出て行って、そうしなさい』と言われました。それで主は偽りを言う霊をあなたのすべての預言者の口に入れ、また主はあなたの身に起る災を告げられたのです」。』(1列王記22:19-23)

ミカヤは、天における会議の情景を見せられた。
そう、天では会議が開かれ、そこには御使達いが参加し、時にはサタンさえも参加して、彼ら全員は主が御心を実行するために用いられるのだ。(ヨブ記1-2章)

エレミヤ書にも、偽預言者に対する警告の中に、天の議会についての言及がある。
『万軍の主はこう言われる、「あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、主の口から出たのでない、自分の心の黙示を語るのである。彼らは主の言葉を軽んじる者に向かって絶えず、『あなたがたは平安を得る』と言い、また自分の強情な心にしたがって歩むすべての人に向かって、『あなたがたに災はこない』と言う」。』(エレミヤ23:16-17)
ここはまさに、アハブと、アハブを取り巻く預言者達にそのまま当てはまる事である。

『彼らのうちだれか主の議会に立って、その言葉を見聞きした者があろうか。だれか耳を傾けてその言葉を聞いた者があろうか。見よ、主の暴風がくる。憤りと、つむじ風が出て、悪人のこうべをうつ。主の怒りは、み心に思い定められたことを/なし遂げられるまで退くことはない。末の日にあなたがたはそれを明らかに悟る。
預言者たちはわたしがつかわさなかったのに、彼らは走った。わたしが、彼らに告げなかったのに、彼らは預言した。もし彼らがわたしの議会に立ったのであれば、わたしの民にわが言葉を告げ示して、その悪い道と悪い行いから、離れさせたであろうに。』(エレミヤ23:18-22)
ここも、今回のアハブと偽預言者の事が、そして、天の議会についての言及が記されている。
ミカヤは、主の議会でやり取り為された内容を主に示され、災いが来る事を預言した。しかし、主の議会に連なりもしなかった他の預言者達は、ただ、アハブ王の耳に心地良い事ばかりを告げた。

驚く事に、ミカヤが見た天の議会の議題は、アハブを倒れさせるために如何にすれば良いか、という事であり、主はその内容を、全部アハブに公開している。
一体、作戦会議で、会議の内容を敵に明かす者はいるだろうか。
しかし主は、その内容を堂々とミカヤを通して公開したのだ。
しかしアハブも、その取り巻きの預言者達も、このミカヤに与えられた内容を、「失礼な戯言」として受け取った。

『するとケナアナの子ゼデキヤは近寄って、ミカヤのほおを打って言った、「どのようにして主の霊がわたしを離れて、あなたに語りましたか」。ミカヤは言った、「あなたが奥の間にはいって身を隠すその日に、わかるでしょう」。』(1列王記22:24-25)
真理を伝える預言者は、迫害を受けるものである。
しかし、偽預言者は、自分が発した言葉に責任を持たず、都合が悪くなるとすぐ逃げるものである。

ゼデキヤは、鉄の角まで作って預言しアピールした事とは全く逆の事をミカヤが言ったので、彼を殴った。
もしゼデキヤが、主の言葉をそのまま伝えるなら、反する事を言われたとしも、ゼデキヤが侮辱されたのではないから、何も殴る必要は無いはずである。実際、ミカヤは憤慨しなかった。
結局、ゼデキヤがミカヤを殴った行為は、彼は、主から受けた事を語ったのではなく、ゼデキヤ自身から出たアイデアをアピールしていたのだという事を表している。

『イスラエルの王は言った、「ミカヤを捕え、町のつかさアモンと、王の子ヨアシの所へ引いて帰って、言いなさい、『王がこう言います、この者を獄屋に入れ、わずかのパンと水をもって彼を養い、わたしが勝利を得て帰ってくるのを待て』」。ミカヤは言った、「もしあなたが勝利を得て帰ってこられるならば、主がわたしによって語られなかったのです」。また彼は言った、「あなたがた、すべての民よ、聞きなさい」。』(1列王記22:26-28)
こうしてミカヤは、わずかな食料でかろうじて生かされる形で、幽閉されることとなってしまう。
しかし、ミカヤが正しかったと証明される日は、それ程遠くない。

今、この時代、偽預言者や反キリストが世に出てきており、できれば、聖徒をも惑わそうと狙っている事を、私達は知るべきである。(1ヨハネ2:18)
反キリストの霊の見分け方は、父と御子を否定する者(1ヨハネ2:22)、人となって来られたキリストを告白しない霊だ。(1ヨハネ4:1-4、2ヨハネ2:7)
私達はこの終わりの時代、忍耐と、あかしのことばによって、それらに勝利するのだ。
忍耐し、主のあかしを保つなら、この世にどのような試練の時代が来ようとも、その人は主に守られ、偽預言者達は、思い知らされるのだ。
『見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(黙示録3:8-10)

偽預言者と真の預言者の違いと特徴(1列王記22:10-14)
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『さてイスラエルの王およびユダの王ヨシャパテは王の服を着て、サマリヤの門の入口の広場に、おのおのその王座にすわり、預言者たちは皆その前で預言していた。ケナアナの子ゼデキヤは鉄の角を造って言った、「主はこう仰せられます、『あなたはこれらの角をもってスリヤびとを突いて彼らを滅ぼしなさい』」。預言者たちは皆そのように預言して言った、「ラモテ・ギレアデに上っていって勝利を得なさい。主はそれを王の手にわたされるでしょう」。』(1列王記22:10-12)
アハブが召し出した400人ほどの預言者達は、皆が皆、主エホバの名をかたって、勝利の預言をした。
しかもゼデキヤという預言者は、鉄の角までこしらえて、勝利のパフォーマンスをした。
アハブはさぞかし気分が良かっただろうが、その実はどうだったか。
アハブがこの戦いに行った結果、アハブは戦いに負け、そして命を落とす事になる。

彼らは、主エホバの御名を用い、勝利の「預言」してはいるが、それは真実ではない。
このような預言は「偽預言」というが、なぜ偽預言者が現れるのか。
そして偽預言には、どんな特徴があるのか。

偽預言の特徴は、やたら「平安」を乱発し、耳ざわりの良い、人受けし易い言葉を多様する事だ。
『万軍の主はこう言われる、「あなたがたに預言する預言者の言葉を聞いてはならない。彼らはあなたがたに、むなしい望みをいだかせ、主の口から出たのでない、自分の心の黙示を語るのである。彼らは主の言葉を軽んじる者に向かって絶えず、『あなたがたは平安を得る』と言い、また自分の強情な心にしたがって歩むすべての人に向かって、『あなたがたに災はこない』と言う」。』(エレミヤ23:16)

偽預言者の目的は、自分の思いついた言葉に、主の御名を付けることによって権威付けし、自分に注目を集めさせ、自分が利益を得る事である。
アハブの所にいた400人は、アハブから利益を得たいがために、大勢で彼に取り巻き、耳障りの良い事を言って、彼を気分良くさせ、そうしてアハブから食い扶持を得ているのだ。
だから偽預言者は、ゼデキヤのように鉄の角を造ったり、剣で傷つけ合いながら踊り狂ったり、そういった派手なパフォーマンスをよくするのだ。

それはちょうど、ホステスに大金をつぎ込む男性と、ホステスとの関係に、良く似ている。
偽預言を囲う側は「自分を持ち上げてもらいたい」「心地良い言葉をもらいたい」という心がある故に、また、偽預言者の側は、お金や食を得たいが為に、需要供給関係が成り立ち、相ともに集まるのだが、そこには、真実も主を敬う心も何も無い。
まさに、パウロがテモテに警告している通りである。
『人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。』(2テモテ4:3-4)

私達は、知るべきである。
聖書の預言は、耳に心地良い預言よりも、耳に痛い預言のほうが圧倒的に多い事を。
また、預言者たる者は、人受けするよりも煙たがられる事のほうが多く、もてはやされる事よりも、迫害される事のほうが多い事を。
そして預言者達は、世の富や栄誉には一切見向きせず、ただ、主の御心が正しく成就する事を望み、たとえ自分が語る事によって、不利益が被ろうとも、たとえ殺されてしまう事になろうとも、それでも、主の真実を語らざるを得ない、のである。

『さてミカヤを呼びにいった使者は彼に言った、「預言者たちは”一致して(一つの口で)”王に良い事を言いました。どうぞ、あなたも、彼らのひとりの言葉のようにして、良い事を言ってください」。』(1列王記22:13)
ようするに、彼ら「預言者の取り巻き」の第一目的は、神の言葉を正しく取り次ぐ事ではなく、アハブ王の喜ぶ言葉を言って気分を良くしてあげる事だ。
現代の預言者に相当する牧師達・教師達は、気をつけるべきである。
人受けする言葉やパフォーマンスを駆使して人の気を引こうとしたり、人に媚びても神を恐れないような者に堕する事が無いように。

この時、彼らは”一致して(一つの口で)”王に良い事を言っているが、実はこれは、主の許された事であった。
主はなぜ、このような事が許可されたのか。
それは今まで長らく見てきた通り、アハブは、主から何度警告されても聞かず、正しい道に立ち返らず、呪われるべき悪しき行いを改めない事を続けた故に、彼の心の赴くまま、滅びに行かせるためだ。
そして、アハブによって多大な”とばっちり”を被っている大勢のイスラエルの民をアハブから救うためである。

主は、主の警告を何度も無視する人、一向に悔い改めずに我が道を行くのが好きな人は、ついに、彼をその好きな道に行かせるようにし、そのまま滅びへ通じる道を行くに任せる。
『なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。』(ローマ1:21-25)
預言者ミカヤは、アハブの「預言者の取り巻き」達とは、一線を画していた。
『ミカヤは言った、「主(エホバ)は生きておられます。主(エホバ)がわたしに言われる事を申しましょう」。』(1列王記22:14)
彼はただ、「主エホバがわたしに言われる事」のみを言うと宣言した。
この姿勢こそ、正しい預言者の姿勢である。

彼は、たとえアハブが気に食わない事であっても、真実を語った。それ故、彼はアハブから嫌われてしまった。
しかし、私達も彼と同じ姿勢を貫くべきである。
パウロも勧めている。
『神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。』(2テモテ4:1-5)

また、ペテロとヨハネも、指導者達・権威ある人達を前に、同じ姿勢を取った。
『そこで、ふたりを呼び入れて、イエスの名によって語ることも説くことも、いっさい相成らぬと言いわたした。ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。』(使徒4:18-21

この終わりの時代、クリスチャン達の中から、健全な教えから離れ、互いに気持ち良くする事を言ったり、言ってもらったりしながら、真理からますます逸れていく人々が、多く出てくる事は言われている。
そのような仲間に加わる事がないように、むしろ、真理の御言葉をまっすぐに語り、きよい器として主に用いられて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

真実を伝える預言者を憎んで、耳障りの良い事を言ってくれる人達を大勢囲ったアハブ(1列王記22:1-9)
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1列王記の最終章は、イスラエル最悪の王、アハブの死で終わる。

『スリヤとイスラエルの間に戦争がなくて三年を経た。しかし三年目にユダの王ヨシャパテがイスラエルの王の所へ下っていったので、イスラエルの王はその家来たちに言った、「あなたがたは、ラモテ・ギレアデがわれわれの所有であることを知っていますか。しかもなおわれわれはスリヤの王の手からそれを取らずに黙っているのです」。』(1列王記22:1-3)
20章では、シリヤが圧倒的な大軍を率いて攻めて来た事が二度あったにもかかわらず、二度とも、主の一方的な憐れみ故に勝利できた。
それなのにアハブは、主に感謝せず、主に聞き従おうともせず、勝手にシリヤと契約を結んで、みすみす王を逃してしまった経緯がある。(1列王記20:34)

それ以来、シリヤはイスラエルに攻めてくる事はしなかったものの、シリヤは、イスラエルに返還すると約束していた町々を、約束どおり返していなかった。
アハブはシリヤと「契約」を結んだのだから、本来、外交的に使者を遣わして申し出るのが筋であるはずだが、いきなり「奪い返す」という暴力的な手段に訴えようとしている。
それも、ヨシャパテ王が、友好的な関係を結ぼうとして来たタイミングで。

『彼はヨシャパテに言った、「ラモテ・ギレアデで戦うためにわたしと一緒に行かれませんか」。ヨシャパテはイスラエルの王に言った、「わたしはあなたと一つです。わたしの民はあなたの民と一つです。わたしの馬はあなたの馬と一つです」。ヨシャパテはまたイスラエルの王に言った、「まず、主の言葉を伺いなさい」。』(1列王記22:4-5)
アハブはまたしても、主にも伺わないまま、戦いに出ようとした。
ヨシャパテが友好的な態度で来た、という、たったそれだけで、自分でシリヤと結んだ契約を破棄し、ヨシャパテと一緒にシリヤに戦い挑もう、としたのだ。
全く行き当たりばったりで、思慮に欠けている。

そこでヨシャパテは、まず「主(エホバ)」に伺って下さい、とアドバイスする。
ヨシャパテが南ユダ王国の良い王として数えられているのは、主に聞くたしなみがあったからである。
彼は良い王ではあったが、この時、アハブに「わたしとあなたは一つです」と言ってしまい、そしてアハブと一緒になって、この欲望と偽りの争いごとに加担した故、その報いを受ける事になってしまう。(2歴代誌19-20章)

主は、悪い交わりとは関わりを持ってはならない、と戒められる。
『不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(2コリント6:14-18)

主は、私達の内に住まわれる。
それ故、もし私達の内に汚れたものがあるとするなら、聖であられる主は、共にいてくださらない。
だから、汚れた行いや汚れた交友関係からは出ていくべきであり、もし既に出ているのであれば、悪者同士が裏切りあったり騙しあったり、争いあったりする中へと入っていってはならない。
ヨシャパテ王は自ら入って行ってしまった故に、災いをその身に招いてしまう事になるが、その時、主に依り頼み、主に助けを求めた故に彼は助かり、勝利し、彼の治世は栄える事となった。(2歴代誌20章)

『そこでイスラエルの王は預言者四百人ばかりを集めて、彼らに言った、「わたしはラモテ・ギレアデに戦いに行くべきでしょうか、あるいは控えるべきでしょうか」。彼らは言った、「上っていきなさい。主(アドン:ご主人)はそれを王の手にわたされるでしょう」。』(1列王記22:6)
アハブには、400人ほどの預言者がいた。
エリヤは、バアルの預言者400人と、アシェラの預言者450人と戦ったが、アハブは、預言者をたくさん集めるのが好きなようである。
しかし、預言者は、頭数が多ければ良いというものではない事はエリヤの時に証明されたはずだ。

神の国の運営は、多数決の原理ではない。
60%の預言者がイエスで、40%がノーなら、60%で行こう、というようなものでは決して無い。
主はただ、100%間違いの無い、真実な御言葉によって示されるものであるからだ。
船頭多くして船山に登る、ということわざもある通り、不完全な人間による指導の声が多いのは、逆に、害悪でしかない。

パウロは言う。
『神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。』(2テモテ4:1-4)
アハブはまさに、「健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれて」いる状態だ。

これらの大勢の預言者達は、「”主”は敵を王の手に渡される」と口をそろえて言っているが、この”主”は、エホバではなく、アドン(主人)である。
「主よ、主よ、」と連発する人が、その品性や結ぶ実において、あまりにキリストから離れているようであるなら、その人の「主」が一体どなたで、どのようなお方であるのか、確認した方が良い。
ヨシャパテ王は、400人皆が皆こぞってアハブに都合の良い事を告げるのを見て、何か非常に胡散臭いものを感じたのだろう。

『ヨシャパテは言った、「ここには、われわれの問うべき主(エホバ)の預言者がほかにいませんか」。イスラエルの王はヨシャパテに言った、「われわれが主(エホバ)に問うことのできる人が、まだひとりいます。イムラの子ミカヤです。彼はわたしについて良い事を預言せず、ただ悪い事だけを預言するので、わたしは彼を憎んでいます」。ヨシャパテは言った、「王よ、そう言わないでください」。』(1列王記22:7-8)
アハブは、主エホバの御心を伺うことのできる預言者が、いる、と答えた。
いたのに、その預言者はそこには呼ばず、彼以外の、しかも主エホバの御心を伺う事をしない400人を連れてきて、こぞってアハブに都合の良い事を言わせ続けていた。
アハブはその預言者を憎んでいるとヨシャパテに言ったが、その憎んでいる理由は、彼はアハブに良い事を預言せず、悪いことばかり預言するからだ、と言った。
自分が気に入る・気に入らないの基準で、主の言葉を伝える人を受け入れたり拒否したりする。
そのような人は、アハブの道、滅んでしまう人の道を歩んでいるのだ。

『そこでイスラエルの王は役人(サリィス:宦官)を呼んで、「急いでイムラの子ミカヤを連れてきなさい」と言った。』(1列王記22:9)
イスラエルの民の中に、宦官はいてはならないはずである。(申命記23:1)
しかしイゼベルは、宦官を囲っていた。そしてイゼベルは、その宦官に突き落とされ、殺される事となる。(2列王記9:33)

このように、イスラエルの大勢の人達は、アハブ王の悪しき慣習の報いと”とばっちり”を被っていた。
それで主は、もはやアハブに憐れみを投げかけるのはもう止めて、アハブの悪政で苦しめられている大勢の人達を救うために、アハブに災いを定められたのだ。

アハブは次々と教師を寄せ集め、空想へとそれて行き、その身を滅ぼすに至ってしまう。
私達は、無益な空想話ではなく、永遠に存続する真理の御言葉に心を留め、御言葉を伝える人の教えや戒めを真摯に受け止めつつ、歩むべきである。
たとえそれが、自分の耳に良くても痛くても、また、自分に都合が良くても悪くても。

御言葉が正しく語られる健全な交わりの中で、健やかに成長していく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

悪い事をした記憶は無いのに、災いの絶えないという人がチェックすべき項目(1列王記21:17-29)
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アハブは再びエリヤと会合する。

『そのとき、主の言葉がテシベびとエリヤに臨んだ、「立って、下って行き、サマリヤにいるイスラエルの王アハブに会いなさい。彼はナボテのぶどう畑を取ろうとしてそこへ下っている。あなたは彼に言わなければならない、『主はこう仰せられる、あなたは殺したのか、また取ったのか』と。また彼に言いなさい、『主はこう仰せられる、犬がナボテの血をなめた場所で、犬があなたの血をなめるであろう』」。』(1列王記21:17-19)
エリヤが主から呼ばれ、アハブと会うように言われたのは、アハブとイゼベルが共謀して義人ナボテを殺し、彼のぶどう畑を取り上げるために出かけるタイミングであった。
アハブはそれまで、主から、その身に見合わないほどの憐れみが与えられていたにもかかわらず、主に立ち返らず、また、警告を受けてもなお潔白な人の血を流し、その血塗られた地所を手に入れようとして出たその時、彼に与えられていた「主の憐れみの分量」は尽きてしまったのである。

『アハブはエリヤに言った、「わが敵よ、ついに、わたしを見つけたのか」。』(1列王記21:20a)
アハブ王はエリヤを見た時、会いたくない者に出くわしてしまったかのように、「敵」と評した。
しかしエリヤは別に、アハブに不当に危害を加えようとした訳ではなかった。
エリヤはただ、主の前で悪を行なってきたアハブに、何度も何度も警告して来ただけであったが、アハブは、言われても言われても聞かず、その故に諸々の天的な災難がアハブに起きて来ただけなのだ。
アハブはそんなエリヤを煙たがり、口うるさい男、不思議な奇跡を起こしてまでして自分を悩ます者、と、勝手な評価を下していたのだ。

『彼は言った、「見つけました。あなたが主の目の前に悪を行うことに身をゆだねたゆえ、』(1列王記21:20b)
原文的には、「あなたは、主の目に悪と見られるわざへと、あなた自身を売り渡したゆえ、あなたを見つけました。」となる。

悪のわざへと、自分自身を売り渡す・・・そう、彼はまさに自分自身を、そしてイスラエルの王権とを、イゼベルへと売り渡していた。
彼はイゼベルのアドバイスに従い、卑怯な手を用いてでも得られる「恩恵」に預かるために、彼女に言われるまま実行し続けて来たのだ。

私達も、サタン由来の悪しき意図のほうが御言葉よりも「得」だと思い、その体を売り渡し続けるなら、アハブと同じようなさばきを受ける者となってしまう。
アハブは、イゼベルを拒絶して、主に悔い改める機会は何度もあったのに、彼は結局、不当な利益を得たいがために、イゼベルに自分自身を売り渡してしまったのだ。
エリヤはそれで、主の言葉を伝えに行った。

『あなたが主の目の前に悪を行うことに身をゆだねたゆえ、わたしはあなたに災を下し、あなたを全く滅ぼし、アハブに属する男は、イスラエルにいてつながれた者も、自由な者もことごとく断ち、またあなたの家をネバテの子ヤラベアムの家のようにし、アヒヤの子バアシャの家のようにするでしょう。これはあなたがわたしを怒らせた怒りのゆえ、またイスラエルに罪を犯させたゆえです。
イゼベルについて、主はまた言われました、『犬がエズレルの地域でイゼベルを食うであろう』と。アハブに属する者は、町で死ぬ者を犬が食い、野で死ぬ者を空の鳥が食うでしょう」。』(1列王記21:20b-24)
いよいよアハブに対し、彼の一族郎党は、ヤロブアムやバシャの家同様、皆殺しにされてしまう宣告が下された。
アハブは、預言者に対してもイゼベルに対しても、神に対しても悪魔に対しても、全部「イエス」と言って肯定するような、どっちつかずの態度を続けていた故に、結局、あっちに迷惑をかけ、こっちに迷惑をかけ、主の裁きを先延ばしにし、そうして多くの人々に長時間迷惑をかけた末に、イゼベルに加担して、ようやく滅びの裁きが確定してしまった。

本来なら、もっと前にその宣告が降されても不思議ではなかった。
彼がイゼベルに従った罪ゆえ、全イスラエルに3年半のききんを呼んだ時、彼は立ち返らなかった。
エリヤを通して大いなるしるしが起きた時も、シリヤが攻めて来て到底勝ち目が無かったというのにそれでも主の憐れみによって勝利した時も、アハブは主に立ち返らなかった。
主は本当に憐れみ深く、忍耐深い。
しかし、それら全ての主に良くしていただいた事をことごとく無視し、なお、主の目に悪を行なったのだ。

『アハブのように主の目の前に悪を行うことに身をゆだねた者はなかった。その妻イゼベルが彼をそそのかしたのである。』(1列王記21:25)
アハブの心は、イゼベルよりは悪くなかったかもしれない。自分から進んで悪を行う性質ではなかったかもしれない。
なにしろ、ナボテに語りかけた言い方には、やさしい気配りがみられる。
けれども彼は、イゼベルに選択権や裁量を明け渡した故に、イゼベルの悪の報いはアハブが刈り取る事になってしまった。
「悪を行うことに身を委ねる」、それこそ災いな性質である。

『彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われたアモリびとがしたように偶像に従って、はなはだ憎むべき事を行った。』(1列王記21:26)
偶像礼拝を導入するアイデアが思いついたのは、アハブではなくイゼベルだったかもしれない。それでも結局、アハブの罪になってしまう。

歴代の王で、アハブより悪辣な者は、他に幾らでもいたかもしれない。
また、アハブには、民草を気遣う心遣いや、敵をゆるす寛容さも見られた。
しかし、どんなに心遣いや寛容さを為した記憶が、本人自身に沢山あったとしても、また、悪い事を実行した記憶は自身に無いとしても、悪い者に選択権を渡し続け、悪しき意図に同意し続けるなら、その悪辣な者の受けるべき報いは、自分自身に受け、その評判は「最悪」となってしまうのだ。

たとえ、心の中で「自分は悪くない」と思っていたとしても、自分のハンコを、悪用する人に委ねてしまうなら、そのハンコを用いて引き起こされたあらゆる不利な契約や負債は、委ねた本人の責となってしまうのは、この世の常である。
もし「なんで自分は悪い事をした記憶は無いのに、むしろ善良な心を貫いているのに、こんなにも人生、災い続きなのだろう」と感じるなら、自分の人生のハンコを、すなわち、本来自分が持つべき裁量権や選択権を「何者か」に委ねていないかをチェックすべきである。

もしかすると、その「何者か」は、何度も同じ過ちを犯す伴侶かもしれないし、もしかすると、それが「常識」と思っていた程に、無意識に浸透している事柄かもしれない。
たとえ本人自身の記憶に、悪い契約をした、という記憶が無かったとしても、「その者」にハンコを渡し、彼に取引や契約ごとを委ねるなら、悪いわざの報いを受ける事となってしまう。どんなに本人の心や体に、悪い事をした記憶が無いとしても。

『アハブはこれらの言葉を聞いた時、衣を裂き、荒布を身にまとい、食を断ち、荒布に伏し、打ちしおれて歩いた。』(1列王記21:27)
アハブは、エリヤが気に食わない事を言ったから彼を殺せと部下に命じるような事はせず、すぐに自らを低くする姿勢、悲しみを表す姿勢を取った。
彼は、エリヤの言葉を本気で受け止めたのだ。
そして主は、彼が食を断って打ちしおれて歩いた、その、わずかな悔いる行いを見逃さなかった。

『この時、主の言葉がテシベびとエリヤに臨んだ、「アハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているゆえ、わたしは彼の世には災を下さない。その子の世に災をその家に下すであろう」。』(1列王記21:28-29)
ああ、主は何と憐れみ深いお方だろう。
ほんのわずかでも、悔いる姿勢を見せただけで、アハブの生きている時にその災いを見るのを免れた。
実際、アハブ一族にそのさばきが行われたのは、アハブの孫の代だった。
結局、アハブのように、誰に対してもイエスしか言わず、ノーを言わない、その「どっちつかず」の性質の持ち主は、長い間周囲の人々に迷惑をかけ続け、最後には「あの人、なんとなく優しくて、特段悪い事はしなかったけれど、結局、最低だったね。」と評価されてしまうのだ。

私達の中から、アハブのような性質を取り除くべきである。
そして主に対してはいつも熱い思いで仕え、たとえ罪を犯したとしても、ダビデのようにすぐに、悔い改める心を持ち、いつも主に直接伺い、何をしても栄える皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

世の価値観と神の価値観が相対する時(1列王記21:1-16)
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なぜアハブはイスラエル最悪の王と評されるのか。
その主な原因は、誰に対しても「イエス」と答えるけれど「ノー」を言えない、どっちつかずの性質ゆえであるが、そればかりでない。
彼は主から、見合わないほどの憐れみと助けを、何度も頂いておきながら、その時その時で「ラッキー」で終わらせ、学ぶ所が無く、主に恩を報いようとも、誠実に歩んで行こうともしない「恩知らず」であり、それでいて、主から叱責と警告をもらったら不機嫌になってふさぎ込む。
そのように、恩知らずでいい所どりの信仰、行き当たりばったりの信仰の彼であるが、その性質は21章において、ますますはっきりする。

『さてエズレルびとナボテはエズレルにぶどう畑をもっていたが、サマリヤの王アハブの宮殿のかたわらにあったので、アハブはナボテに言った、「あなたのぶどう畑はわたしの家の近くにあるので、わたしに譲って青物畑にさせてください。その代り、わたしはそれよりも良いぶどう畑をあなたにあげましょう。もしお望みならば、その価を金でさしあげましょう」。ナボテはアハブに言った、「わたしは先祖の嗣業をあなたに譲ることを断じて(主エホバにあって)いたしません」。』(1列王記21:1-3)
アハブは一見、何の変哲もない不動産売買を持ちかけているようである。
しかもアハブは、ナボテという平民に、好条件と気遣いを示したのに、それをナボテは断った。

ナボテのほうが不親切で偏屈者に見えるが、実は、御言葉に照らすなら、アハブのほうが悪く、ナボテのほうが正しい。
世の中の常識では、Aのほうが良くてBのほうが悪い、と見える事柄でも、実は神の国においては、Aのほうが悪くBのほうが正しかった、というような事は多々ある。
今回もまた、そうである。

御言葉には、次のように書いてある。
『地は永代には売ってはならない。地はわたしのものだからである。あなたがたはわたしと共にいる寄留者、また旅びとである。』(レビ記25:23)
『君たる者はその民の嗣業を取って、その財産を継がせないようにしてはならない。彼はただ、自分の財産のうちから、その子らにその嗣業を、与えなければならない。これはわが民のひとりでも、その財産を失わないためである。』(エゼキエル46:18)
ナボテは、主エホバの御名によって、アハブの申し出を拒否した。
彼は主エホバへの熱心ゆえに、主に対し悪を行なってばかりいるアハブが気に食わなかったという事も、あったかもしれない。
ともかく、御言葉に照らすなら、ナボテのほうが御言葉に適う事をしたのであり、アハブは違った事を行なったのは事実である。

『アハブはエズレルびとナボテが言った言葉を聞いて、悲しみ、かつ怒って家にはいった。ナボテが「わたしは先祖の嗣業をあなたに譲りません」と言ったからである。アハブは床に伏し、顔をそむけて食事をしなかった。』(1列王記21:3-4)
アハブはナボテを王に逆らった科でいきなり死刑にする事はせず、悲しみ怒って、ふて寝した。
もしナボテが、超独裁国に生まれていたなら、すぐに殺され、財産没収されていた事だろうが、それに比べるならアハブは、まだましなようにも見える。
そこをもってしても、なぜ彼は「最悪な王」と評されているのか。
その疑問を持ち、なぜなのかを考え、御言葉から調べる習慣こそ、私達が霊的成長する上で非常に大事である。

『妻イゼベルは彼の所にきて、言った、「あなたは何をそんなに悲しんで、食事をなさらないのですか」。彼は彼女に言った、「わたしはエズレルびとナボテに『あなたのぶどう畑を金で譲ってください。もし望むならば、その代りに、ほかのぶどう畑をあげよう』と言ったが、彼は答えて『わたしはぶどう畑を譲りません』と言ったからだ」。妻イゼベルは彼に言った、「あなたが今イスラエルを治めているのですか。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがエズレルびとナボテのぶどう畑をあなたにあげます」。
彼女はアハブの名で手紙を書き、彼の印をおして、ナボテと同じように、その町に住んでいる長老たちと身分の尊い人々に、その手紙を送った。彼女はその手紙に書きしるした、「断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせ、またふたりのよこしまな者を彼の前にすわらせ、そして彼を訴えて、『あなたは神と王とをのろった』と言わせなさい。こうして彼を引き出し、石で撃ち殺しなさい」。』(1列王記21:5-9)

権威のある者が、気に食わない無実の人に濡衣を着せ、抹殺し、その財産を取り上げる事は、確かに邪悪であるが、この世では珍しくはないように思えるかもしれない。
しかし十戒に書いてある。
偶像礼拝してはならない、主の御名をみだりに唱えてはならない、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、隣人について偽証してはならない、隣人のものを欲しがってはならない、と。
イゼベルの行おうとする事は、それら全てを破る事であるが、アハブは自分が欲しいものを手に入れられるなら、手段が邪悪であっても、御言葉に背いていても、目をつぶろう、と、権威の実印を彼女にわたしてしまう。

本来、神の民であるなら、御言葉に反する事を勧められた来た時には、「御言葉にこう書いてある」と言って、きっぱり退けるべきだが、アハブは、イゼベルという女をなすがままにした。
『あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。』(黙示録2:20-22)
私達は、神の民を惑わすイゼベルを、なすがままにさせたり、ましてや、大切な実印を邪悪な者に明け渡してはならない。
イゼベルがアハブの印鑑を用いて成した事は、世の中では珍しくなくても、神の国では邪悪な事だった。

『その町の人々、すなわち、その町に住んでいる長老たちおよび身分の尊い人々は、イゼベルが言いつかわしたようにした。彼女が彼らに送った手紙に書きしるされていたように、彼らは断食を布告して、ナボテを民のうちの高い所にすわらせた。そしてふたりのよこしまな者がはいってきて、その前にすわり、そのよこしまな者たちが民の前でナボテを訴えて、「ナボテは神と王とをのろった」と言った。そこで人々は彼を町の外に引き出し、石で撃ち殺した。』(1列王記21:11-13)
彼らは、二人以上の証人の証言とか(申命記17:6)、断食を布告するとか、一見聖書的な事を言ってはいるが、結局、彼らがした事は偽証であり、殺人である。
彼らは、二人のよこしまな者を連れてきて、偽りの証言をさせ、ナボテを死刑にしたが、それも明らかに律法に反している事である。

彼らはなまじ御言葉を知っている故に、知らないで犯す罪より、重い。
申命記19章に書いてある。偽りの証人を立てて相手を陥れる事が発覚した場合、手には手、歯には歯、いのちにはいのちで返さなくてはならない、と。
そして彼らは、それに従って裁かれてしまう事になる

アハブは思うかもしれない。
自分は邪悪な心は持っていませんでした、むしろナボテに親切にしました、自分は善良です、と。
しかし、この世の契約ごとにおいても、もし第三者に印鑑を託したなら、彼がその印鑑を用いて為した事、イコール本人の意思決定と見做され、責任がつきまとうのと同じように、アハブがイゼベルに印を渡して委託したのなら、イゼベルがした事は、アハブ本人自身がした事となる。
これは、私達についても全く同じであり、もし私達が、主を知らない者にアドバイスされた通り実行したり、その者に自分の支配権や行動権を託したりするなら、その者の邪悪な価値観に基いて受けるべきさばきを負ってしまう。

こうして、ナボテという義人は、殺された。
義人の血が流されるなら、その血はその土地から主に向かって叫ぶ。
そしてその土地は、血を流した者に対して「不作」を返し、その者は、働いても種を蒔いても実りが無く、呪われた者となってしまう。(創世記4章)
無実ゆえに流されてきた血は、決して虚しく消える事は無い。
その血は主の御前で叫ぶ。主はその人達のたましいに安息を与えられ、そして主の時が来た時、血を流した者達は必ず、その血を飲まされる事となる。(黙示録6:9-11,16:6)

『イゼベルはナボテが石で撃ち殺されたのを聞くとすぐ、アハブに言った、「立って、あのエズレルびとナボテが、あなたに金で譲ることを拒んだぶどう畑を取りなさい。ナボテは生きていません。死んだのです」。アハブはナボテの死んだのを聞くとすぐ、立って、エズレルびとナボテのぶどう畑を取るために、そこへ下っていった。』(1列王記21:15)
こうしてアハブとイゼベルは、せっかく主の憐れみが示されて、悔い改めるべき時期が与えられていたのに、それを無視し、あたかも主がいないかのように、何をしても許されるかのようにふるまい、しまいには、偽証をして無実の血を流し、その持ち物を奪った。
このような、主を敬わない態度を取り続ける者には、やがて滅びが追いついてしまう。

私達は、この世の常識や慣習と神の国の真理との間で、板挟みになる事はある。
しかしその都度、私達御言葉に従う道を選択し、歩んで行くべきである。

主に聞かず、「おだて」に乗って、ほいほいと契約を進めてしまったアハブ(1列王記20:31-43)
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主に対し罪ばかり犯してきたイスラエルは、主から保護されるような要素は一切無かったというのに、ただ、主の一方的な憐れみによって、勝てる要素の全く無い戦いに二度も勝利した。
アハブは、主に感謝しても、しきれない筈であり、その後はただ主に聞き従って、何事も主に相談して歩めば良いはずだった。
しかし彼は、自分勝手な道を歩み続けてしまう。

『家来たちは彼に言った、「イスラエルの家の王たちはあわれみ深い王であると聞いています。それでわれわれの腰に荒布をつけ、くびになわをかけて、イスラエルの王の所へ行かせてください。たぶん彼はあなたの命を助けるでしょう」。そこで彼らは荒布を腰にまき、なわをくびにかけてイスラエルの王の所へ行って言った、「あなたのしもべベネハダデが『どうぞ、わたしの命を助けてください』と申しています」。アハブは言った、「彼はまだ生きているのですか。彼はわたしの兄弟です」。』(1列王記20:31-32)
アハブは、「憐れみ深い王」という言葉と、ベン・ハダデの徹底的に低くなった態度に、気を良くしたのかもしれない。
それで彼は、決定的ミスを犯してしまう。

『その人々はこれを吉兆としてすみやかに彼の言葉をうけ、「そうです。ベネハダデはあなたの兄弟です」と言ったので、彼は言った、「行って彼をつれてきなさい」。
それでベネハダデは彼の所に出てきたので、彼はこれを自分の車に乗せた。ベネハダデは彼に言った、「わたしの父が、あなたの父上から取った町々は返します。またわたしの父がサマリヤに造ったように、あなたはダマスコに、あなたのために市場を設けなさい」。アハブは言った、「わたしはこの契約をもってあなたを帰らせましょう」。こうしてアハブは彼と契約を結び、彼を帰らせた。』(1列王記20:33)

アハブは相手を「兄弟」呼ばわりし、その者を連れて来て、自分の戦車に同乗させ、契約を結び、自由にしてしまった。
しかし相手は、そんな事は決してしてはならない相手だったのだ。

今まで悪どい事を繰り返しして来た者が、痛い目にあって、表面上へりくだって来たとしても、すぐさま気を許したり、こちらの懐を見せたりしてはならない。
イエス様が言われた戒め、すなわち、もし兄弟姉妹が一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたに来るなら赦してやりなさい、と言ったのは「兄弟姉妹間の事」であり、なおかつ、相手が「悔い改めます」と言って来た場合の事である。(ルカ17:3-4)
ベン・ハダデは兄弟ではないし、自分が悪かった事を認める言葉も、もう立ち向かう事はしませんという言葉も、一切言っていない。

実際、ベン・ハダデは解き放たれた後、イスラエルに町々を返さなかったし、再び戦争状態となった。
ベン・ハダデは後に、イスラエルを包囲して兵糧攻めにし、その時、イスラエル内は、母達が自分の子を煮て食べる程の飢餓状態に陥ってしまった。(2列王記6:24-25)
ダマスコの市場を解放するとか、契約とか、全くのうそ八百である。
彼は、恩を仇で返す事に何の躊躇もない、主の目に「滅ぼされるべき者」だったのだ。

契約において、買い物において、人間関係において、よく失敗してしまう人の性質は、アハブのように、主に相談しないで、「おだて」に乗せられたなら、ほいほいと契約ごとを進めてしまう人だ。
このように、口八丁手八丁を駆使して、守りもしない約束を連発し、憐れみを受けてもそれを覚えておらず、平気で約束をひっくり返して牙をむくような者は、いつの時代でも存在する。
洞察力のある人でなければ、見抜く事は難しい。
だからこそ私達は、何事も主に伺うべきであって、即答すべきではない。
特に、重要な決断をする時や、大きな買い物をする時、大きな契約をする時などは。

それに対し、当時の南ユダ王国の王・ヨシャパテは、いつも主に伺うたしなみがあった。
アハブはその後、ベン・ハダデに戦いを仕掛けようとして、ヨシャパテ王に一緒に行くように持ちかけた時、ヨシャパテは「まず、主のことばを伺ってみてください。」と勧めた。(1列王記22:5)


『さて預言者のともがらのひとりが主の言葉に従ってその仲間に言った、「どうぞ、わたしを撃ってください」。しかしその人は撃つことを拒んだので、彼はその人に言った、「あなたは主の言葉に聞き従わないゆえ、わたしを離れて行くとすぐ、ししがあなたを殺すでしょう」。その人が彼のそばを離れて行くとすぐ、ししが彼に会って彼を殺した。』(1列王記20:35-36)
「ともがら」を打つ事には、誰でも気が引けるし、憐れみを示したくもなる。
しかし、たとえ相手がともがらであっても、ベン・ハダデであっても、あるいは、自分のかわいい子であったとしても、打たなくてはならない場合がある。
特に、「主が」打てと言われる場合は。
その主の言葉に従わず、「下手な憐れみ」を示してしまうなら、やがて相手は「しし」に変わり、こちらを食い殺しにかかって来るからだ。

『彼はまたほかの人に会って言った、「どうぞ、わたしを撃ってください」。するとその人は彼を撃ち、撃って傷つけた。こうしてその預言者は行って、道のかたわらで王を待ち、目にほうたいを当てて姿を変えていた。』(1列王記20:37-38)
彼は、自分自身に傷を負わせてでも、主の命令ゆえに、王の前に出て主の言葉を伝えなくてはならない事情があった。

『王が通り過ぎる時、王に呼ばわって言った、「しもべはいくさの中に出て行きましたが、ある軍人が、ひとりの人をわたしの所につれてきて言いました、『この人を守っていなさい。もし彼がいなくなれば、あなたの命を彼の命に代えるか、または銀一タラントを払わなければならない』。ところが、しもべはあちらこちらと忙しくしていたので、ついに彼はいなくなりました」。イスラエルの王は彼に言った、「あなたはそのとおりにさばかれなければならない。あなたが自分でそれを定めたのです」。
そこで彼が急いで目のほうたいを取り除いたので、イスラエルの王はそれが預言者のひとりであることを知った。彼は王に言った、「主はこう仰せられる、『わたしが滅ぼそうと定めた人を、あなたは自分の手から放して行かせたので、あなたの命は彼の命に代り、あなたの民は彼の民に代るであろう』と」。』(1列王記20:39-42)
主の御心は、ベン・ハダデおよびアラム(シリヤ)を、滅ぼす事だった、というのに、アハブは彼を手放し、行かせてしまった。

主から、滅ぼし尽くすように、と定められたもの、例えば、自分自身の悪い習慣や、手くせ、悪いつきあいなど、それらを手放さなず、むしろそれらを自由に解き放ち、再契約してしまうようなら、今度は、自分自身が主に滅ぼされる対象となってしまう。
サウル王もそうだった。
主から「滅ぼし尽くしなさい」と言われていたアマレクを滅ぼし尽くさず、一部を惜しんでしまった故に、彼は王位から退けられてしまった。
それでサウル王も、アハブ王も、一致した運命を辿る。
すなわち、自分が滅ぼし尽くさなかったその相手から、逆に滅ぼされてしまう、という運命だ。

『イスラエルの王は悲しみ、かつ怒って自分の家におもむき、サマリヤに帰った。』(1列王記20:43)
アハブの、主からの言葉に対する対応は、不機嫌になって、激しく怒り、自分の所に帰る、というものだった。
これは、滅びが確定してしまう者の性質である。

イスラエルで最も偉大な王・ダビデの場合は、預言者から罪が指摘された時、「わたしは罪を犯した」と言ってすみやかに悔い改め、主に赦しを乞うた。(2サムエル12章、詩篇51篇)
主はそれで、ダビデから死を免れさせて下さり、彼は死なかった。

イスラエルで最も偉大な王と最悪な王との違いは、罪を犯す・犯さないの違いではなく、神の人から罪を指摘された時、自分の非を認めて悔い改めたか、それとも、怒ってそっぽ向いたかの違いであり、その違いが、私達を偉大にもするし、最悪にもする。
聞き従う事こそ、何にも勝るいけにえである。
そして背く事は、占いの罪であり、強情は、偶像礼拝の罪である。(1サムエル記15:22-23)
主の言葉を聞いて、不機嫌になるなど、とんでもない事だ。

人は罪を犯す。間違いも犯す。何が正しい事であり、どの道を行けば良いのか分からないものである。
だからこそ、主に聞く必要があるのだ。
ダビデのように、主を愛し、いつも主に伺い、罪を指摘されたらすぐ悔い改める、この偉大な王としての性質を身につけ、偉大になっていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主の憐れみを受けたときに学ばなくてはならない事(1列王記20:22-30)
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イスラエルは本来、主から助けられるには全く値しないような、主に対して不誠実続きだったにもかかわらず、一方的に主からの恵みを受け、到底勝ち目の無いシリヤとの戦いは、勝利へと導かれた。

『時に、かの預言者がイスラエルの王のもとにきて言った、「行って、力を養い、なすべき事をよく考えなさい。来年の春にはスリヤの王が、あなたのところに攻め上ってくるからです」。』(1列王記20:22)
戦いは終わりではない、これからは主にあって何をなすべきか、主にあってどのような心構えでいるべきか、よく考えなさい、と、預言者は言う。
私達も、主に良くして頂いたなら、よく考えるべきである。
今後、自分は主に対しどのように在るべきか。主と共に、いかに歩んで行くべきかを。

いつも主の御前にどうあるべきかを、わきまえ知るために、知恵が必要である。
また、悪魔の攻撃は日々迫り来るものであり、誘惑との戦いも、ひっきりなしに来る。それに立ち向かうためにも、知恵が必要である。
知恵はいかにして見つけるべきだろうか。

知恵は、主を恐れる事から始まる。(箴言9:10)
私達には、主に対する「恐れ敬い」は、あるだろうか?
もし今、目の前に、総理大臣が来たとしたら、普段よりは身と心を引き締めるかもしれない。しかし主は、総理大臣よりもはるかに上に座しておられるお方である。
主を前にして礼拝する時、相応しい畏れ敬いは、あるだろうか?
もし、知恵を頂きたいのであれば、主に対する恐れ敬い、尊敬を、その態度で示すべきだ。

アハブは、「力を養い、なすべき事をよく考えなさい。」と言われたからには、一連の起きた出来事をよく思い返し、主は自分に何を望んでおられるのかを求めつつ、次の年の戦いに備えるべきだった。
主を待ち望む者こそ、新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができるからだ。(イザヤ40:31)

『スリヤの王の家来たちは王に言った、「彼らの神々は山の神ですから彼らがわれわれよりも強かったのです。もしわれわれが平地で戦うならば、必ず彼らよりも強いでしょう。それでこうしなさい。王たちをおのおのその地位から退かせ、総督を置いてそれに代らせなさい。またあなたが失った軍勢に等しい軍勢を集め、馬は馬、戦車は戦車をもって補いなさい。こうしてわれわれが平地で戦うならば必ず彼らよりも強いでしょう」。彼はその言葉を聞きいれて、そのようにした。』(1列王記20:23-25)
シリヤは、自分たちが敗北した戦いを分析し、作戦を練りなおした。これは肉弾戦ではなく、背後にいる神が、勝敗の鍵を握っている、と。
しかし彼らは、イスラエルの神である主を、あたかも、数多ある神々のうちの一つであるかのように見た。
彼らの着眼点は非常に良いのだが、イスラエルの神に対する認識が誤っていた。

彼らは、思っていた。
地方地方には、固有の影響力を持つ神々がいて、それぞれ、得意分野・不得意分野がある、と。
現代日本人も、多くはそう思っているかもしれないが、あいにく、イスラエルの神である主は、「沢山ある神々のうちの一つ」ではない。
全地・全宇宙を創られた全能なる神であり、人の空想の産物である「神々」を、むなしいものとされるお方である。(詩篇97:9)

『春になって、ベネハダデはスリヤびとを集めて、イスラエルと戦うために、アペクに上ってきた。イスラエルの人々は召集され、糧食を受けて彼らを迎え撃つために出かけた。イスラエルの人々はやぎの二つの小さい群れのように彼らの前に陣取ったが、スリヤびとはその地に満ちていた。』(1列王記20:26-27)
再び戦いが起きるが、やはりイスラエルは、数では勝ち目はなさそうである。
しかし、主の言葉は、あらかじめあった。

アハブは、主をわきまえ知る時間が1年与えられていた。
その間、アハブはどんな心備えをしていたのかは書かれていない。もしかすると、全くしていなかったかもしれない。
しかし、この度の戦いも、ただ主ご自身が一方的に働かれる。

『その時神の人がきて、イスラエルの王に言った、「主はこう仰せられる、『スリヤびとが、主は山の神であって、谷の神ではないと言っているから、わたしはこのすべての大軍をあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを知るようになるであろう』」。』(1列王記20:28)
神の人からのこの情報は、イスラエルは別に知っていなくても、勝負の決定には関係無かったかもしれない。
しかし、この情報は、主がどんなお方であり、人はどのように神と関係して行くべきかを知るためには非常に重要な事柄である。
すなわち、神は、山の神や海の神など、人間が限定できるようなお方ではなく、全地を治め、全ての神々を見下ろし無とされる主であり、敵が陣営の中で思い巡らすはかりごとさえ、全て知っておられるお方であるという事、そして、主を見くびる者には主は災いをもって報いられるお方である事だ。

申命記で、モーセは、似た事を言っている。
『あなたの神、主があなたの前から彼らを追い払われた後に、あなたは心のなかで『わたしが正しいから主はわたしをこの地に導き入れてこれを獲させられた』と言ってはならない。この国々の民が悪いから、主はこれをあなたの前から追い払われるのである。あなたが行ってその地を獲るのは、あなたが正しいからではなく、またあなたの心がまっすぐだからでもない。この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前から追い払われるのである。これは主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた言葉を行われるためである。
それであなたは、あなたの神、主があなたにこの良い地を与えてこれを得させられるのは、あなたが正しいからではないことを知らなければならない。あなたは強情な民である。』(申命記9:4-6)

主はなぜ、勝ち目のない敵をイスラエルに渡され、勝利をもたらされるのか。
それは「敵が悪いため」である。
何度も繰り返して言われている事は「あの者達が悪いから」「あなたが正しいからではない」という事であり、もし、イスラエルが勝利した場合は、「自分が正しいから」「自分の知恵や力のおかげだ」などと、思ってもみてはならない。
主はむしろ、あなたがたは頑なだ、主の前に強情だ、と言われる。
ただ、この国々の民が悪いから、あなたの神、主は彼らをあなたの前からあの者共を追い払われるのである、と。

モーセの時代も、アハブの時代も、主の御前にイスラエルは、何の益も見いだせなかった。
むしろイスラエルは頑なで、主を煩わせる者達であったが、主はそんな彼らさえ、主の御名を置き、彼らの手を用いて勝利をもたらされるのだ。
だから、もし勝利がもたらされるとしたら、自分には何の誇りも無く、ただ主に栄光を捧げ、これからは主にのみ聞き従いつつ、歩むだけである。

『彼らは七日の間、互にむかいあって陣取り、七日目になって戦いを交えたが、イスラエルの人々は一日にスリヤびとの歩兵十万人を殺した。そのほかの者はアペクの町に逃げこんだが、城壁がくずれて、その残った二万七千人の上に倒れた。ベネハダデは逃げて町に入り、奥の間にはいった。』(1列王記20:29-30)
こうして、やぎの群れのようだったイスラエルは、十万もの相手を打ち破った。
さらには、城壁が崩れて二万七千人を打ったのは、まさに主ご自身だ。
主はこの度も、大勝利を与えて下さった。

これで、イスラエルはわきまえ知るべきだった。
自分はただ、主により頼んでいれば良いのだ、と。

しかしアハブは、残念ながら、主を知ろうという意欲がなかった。

私達は、何にもまして、知恵を得ることを求めるべきである
『それを忘れることなく、またわが口の言葉にそむいてはならない、知恵を得よ、悟りを得よ。知恵を捨てるな、それはあなたを守る。それを愛せよ、それはあなたを保つ。』(箴言4:5-6)
『あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。』(ヤコブ1:5-8)

とがめる事なく豊かに知恵を与えて下さる主に、求め、豊かに与えられ、主の栄光と共に歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

無謀・無策のイスラエルに助けの手を延べられた主(1列王記20:13-21)
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イスラエル最悪の王・アハブは、シリヤという敵に「いいえ」を言えず、部下にも「いいえ」を言えず、確固とした信念なしに、ただ全部にハイハイと答えて行った結果、その煮え切らない態度は、イスラエルという国を、無謀な戦争へと導いてしまった。
試験日を忘れていた生徒が、何の対策もしないまま突然試験に臨まれてしまったように、この圧倒的不利な戦争は、勝つ算段も知恵も何もないまま突然訪れてしまった。
しかし主は、一方的に彼らに助けの手を差し伸べられる。

『この時ひとりの預言者がイスラエルの王アハブのもとにきて言った、「主はこう仰せられる、『あなたはこの大軍を見たか。わたしはきょう、これをあなたの手にわたす。あなたは、わたしが主であることを、知るようになるであろう』」。』(1列王記20:13)
主は何故に、霊的怠慢と背信続きの彼らに、こんなにも憐れみをかけられるのか。
それは「あなたは、わたしが主であることを、知るようになる」ためである。
ただ、主こそ力強い神であり、憐れみ深く恵みに富んでおられる、という事を彼らにありありと示し、主に立ち返るためだ。

『アハブは言った、「だれにさせましょうか」。彼は言った、「主はこう仰せられる、『地方の代官の家来たちにさせよ』」。アハブは言った、「だれが戦いを始めましょうか」。彼は答えた、「あなたです」。そこでアハブは地方の代官の家来たちを調べたところ二百三十二人あった。次にすべての民、すなわちイスラエルのすべての人を調べたところ七千人あった。』(1列王記20:14-15)
主が示される勝利の鍵は、『地方の代官の家来たち』である。
それは、NKJVでは「By the young leaders of the provinces.」、リビングバイブルでは「外人部隊」と訳されている。
つまり、イスラエルの民の誰かではなく、外部の者達が、勝利の鍵となる。

神の声に久しく聞かず、あれだけ大きなしるしが示されてもなお立ち返らないようなイスラエル。
彼らによっては勝利はもたらされない。むしろ主は、そんなイスラエルの力は敢えて用いられず、外部の者達を用いて勝利がもたらされる。
これは、主は全ての事が可能であり、決してあなどってはならないお方である事を、彼らに示されるためかもしれない。

『地方の代官の家来たち』の数は、二百三十二人であった。それと共に、イスラエルの兵は七千人。
それに対し、相手は、十万以上はいたと推測できる。(29節)
人の目には到底勝ち目の無い、しかし、主からは勝利の約束のある戦いが、こうして始まる。

『彼らは昼ごろ出ていったが、ベネハダデは仮小屋で、味方の三十二人の王たちと共に酒を飲んで酔っていた。地方の代官の家来たちが先に出ていった。ベネハダデは斥候をつかわしたが、彼らは「サマリヤから人々が出てきた」と報告したので、彼は言った、「和解のために出てきたのであっても、生どりにせよ。また戦いのために出てきたのであっても、生どりにせよ」。』(1列王記20:16-18)
完全にイスラエルを見下げた態度である。
しかしイスラエルには、主の御言葉による後ろ盾がある。

『地方の代官の家来たちと、それに従う軍勢が町から出ていって、おのおのその相手を撃ち殺したので、スリヤびとは逃げた。イスラエルはこれを追ったが、スリヤの王ベネハダデは馬に乗り、騎兵を従えてのがれた。イスラエルの王は出ていって、馬と戦車をぶんどり、また大いにスリヤびとを撃ち殺した。』(1列王記20:19-21)
まさに、ギデオンの時のような奇跡が起きた。
なぜ、こんな最低な王・アハブの時代に、そんな奇跡が起きたのか?

いかに、アハブのような者であったとしても、主の言葉どおりに守り行うなら、主のお言葉どおり、なるのだ。
これは、誰でもそうである。

ただ、彼がこの時、主の御言葉通りに行なったのは、彼は主に悔い改めて立ち返ったからではなく、御声に聞き従おうと決心したからでもなく、今までどおり、誰にでもハイハイと言ってその場をくぐり抜けやり過ごして来た、彼の「行動パターンの一環」として、であったようだ。
なぜなら、後の彼の言動からは、この出来事から何かを学んだようなふしが見受けられず、敵に対し再び「ハイ」を言ってしまうからだ。

どういう時にハイを言うべきか、あるいはノーを言うべきか、その判別が分からない、という人がいるが、分からないなら、主に伺えば良いのである。
すなわち、聖書を開いて、御言葉には何と書いてあるのかを調べ、それが分からないなら、祈って主と相談し、祈り方も分からないなら、預言者のような、信仰の先輩に聞くのである。
あるいは、全て真実な事、尊ぶべき事、正しい事、純真な事、愛すべき事、誉れある事、また徳といわれるもの、称賛に値するものにこそ心を留め、それに即する方面を選択し、その通り行動するのが、聖書的である。
『何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい。』(ピリピ4:6-7)

もし私達が主の言葉どおりにして助かった時、祝福された時は、それをただ「ラッキー」で終わりにしてはならない。
その場合はしっかり主に感謝し、主に従順する事がどんなに幸いであり、従わない事がどんなにに呪いであるか、しっかりと心に留めて「学習」し、以後は主に従って歩む努力をすべきだ。
日本人は、場の空気を積極的に読んで、他人の心を害さないよう気を遣う事にかけては、世界一だが、それと同じ要領で、聖なる空気を積極的に読み、主の御心を害さないよう「聖なる気遣い」するよう心掛けるなら、誰よりも早く霊において長けた者となれるはずである。

今回、アハブは、預言者の言葉に従った故に、大勝利がもたらされた。
もし彼がそこから学び、その後は積極的に御声を求めて従って行けば、もっと良い王として歴史に名を残したであろう。
しかし彼は、そうではなかった。
アハブのようではなく、積極的に主の御声を求め、従い、祝福され、その祝福の法則をどんどん学んで体得して行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

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