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メッセージ - 2サムエル記カテゴリのエントリ

メフィボシェテに対するダビデの対応(2サムエル記19:24-30)
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ダビデ王のエルサレム帰還に伴い、色々な人々の思惑が交錯する中、真っ先にダビデを迎えに出たのは、サウル家に属するシムイやツィバだった。

しかし、彼らが誰より先にダビデを迎えに来たのは、ダビデの勝利と無事を喜んで、という事ではなく、下心を持っての事だった。
そして、彼らの次にダビデを迎えに来たのは、サウルの子、ヨナタンの子、メフィボシェテだった。

『サウルの子メピボセテは下ってきて王を迎えた。彼は王が去った日から安らかに帰る日まで、その足を飾らず、そのひげを整えず、またその着物を洗わなかった。』(2サムエル記19:24)
メフィボシェテは、いつとも知る事の出来ないダビデ達の帰還まで、その足を飾らず(七十人訳による補足:爪も切らず)、ひげも整えず、着物も洗わず、ダビデが苦難を受けている期間、自分自身も、身を悩ませていた。
という事は、彼の爪は、それなりに伸びていただろうし、ひげも、長期間整えていなかった有様であったろうし、着物もそれなりに汚れていた事だろう。
シムイやツィバは、美辞麗句と言葉で下心を隠して来たが、メフィボシェテは、その有様からして、ダビデを心から心配し、帰る日を待ち望んでいた事を、偽りようが無い。

ダビデがアブシャロムに追われエルサレムから落ちのびて行った時、メフィボシェテのしもべであるツィバは、メフィボシェテに与えられているダビデの恵みを横取りしようとしたのか、ダビデが落ちのびて行った事をあたかも喜んでいるかのような、偽りの報告をした。
ダビデはそれを真に受け、真実を確認しない内に「見よ、メピボセテのものはことごとくあなた(ツィバ)のものです」と約束してしまった。(2サムエル記16:1-4)

それ以降、ダビデはずっとメフィボシェテについて、良くない印象を抱き続けて来たのだろう。メフィボシェテが会いに来た時、ダビデの最初の対応は、そっけなかった。
『「メピボセテよ、あなたはどうしてわたしと共に行かなかったのか。」彼は答えた、「わが主、王よ、わたしの家来がわたしを欺いたのです。しもべは彼に、『わたしのために、ろばにくらを置け。わたしはそれに乗って王と共に行く』と言ったのです。しもべは足なえだからです。ところが彼はしもべのことをわが主、王の前に、あしざまに言ったのです。しかし、わが主、王は神の使のようでいらせられます。それで、あなたの良いと思われることをしてください。』(2サムエル記19:25-27)

ダビデは、彼の伸びた爪、乱雑になったひげ、長期間洗わなかった服を見て、彼の言った事こそ真相だった、と知っただったろう。

『わたしの父の全家はわが主、王の前にはみな死んだ人にすぎないのに、あなたはしもべを、あなたの食卓で食事をする人々のうちに置かれました。わたしになんの権利があって、重ねて王に訴えることができましょう」。』(2サムエル記19:28)
メフィボシェテは、自分のひげや服を見てください、などとアピールする事は一切無かった。
ダビデがそれまで自分に尽くしてくれた真実だけでも十分です、どうして尚、何かを訴える事が出来ましょうか、と、一切の判断をダビデにゆだねている。

『王は彼に言った、「あなたはどうしてなおも自分のことを言うのですか。わたしは決めました(原語:既に言っている)。あなたとヂバとはその土地を分けなさい」。』(2サムエル記19:29)

ツィバは、メフィボシェテよりも一足早く、十五人の息子と二十人のしもべを従えてダビデ達に会いに来ており(17節)、ダビデは既にツィバに約束してしまった。メフィボシェテのものは、ツィバのものだ、と。
事の真相をダビデが知ってから、それを取り消しができなかったのは、もう既に、その方面で諸々の手続きが進んでしまっていたのかもしれない。
足が不自由で、機敏に動けない事を良いことに、ツィバはメフィボシェテを貶め、騙し取るような事をしたが、それでもメフィボシェテは、一切の文句も無しに言う。
『わが主、王が安らかに家に帰られたのですから、彼にそれをみな取らせてください。』(2サムエル記19:30)

ダビデのエルサレム帰還に際し、色々な人々の思惑が交錯する中、一番真実にダビデを思い、待っていたのは、このメフィボシェテだろう。
彼は、彼のしもべの讒言と、ダビデの早まった決断のゆえに、本来自分のものだったものを、半分取られてしまったが、ダビデは彼を憐れみ、守り続けた。(21:7)

人は不完全である。
偽りを見抜けなかったり、偽りの言葉を鵜呑みにして早まった決断をし、尊いものを卑しい者に騙し取られたり、本当に憐れむべき真実な人をぞんざいに扱ってしまったりもする。
体が不自由であったり、言葉達者でなかったり、世渡り上手でない人が、健康体な人や、言葉達者な人や、世渡り上手な人に、出し抜かれてしまう事が多々あるのが、この世である。

人は不完全で判断を誤ってしまう事もあるが、主イエスは全てをご存知であり、全ての偽りを見抜き、そのさばきは真実である。
良い事で報われない人は、必ず報われ、悪を事で報いを受けていない者でも、やがて、相当のさばきをされるお方である。
メフィボシェテはこの時、報われなかったかのように見えても、彼の子孫は、ベニヤミン族の中で栄えて行った。(2サムエル記9:12、1歴代誌8:34-40)
「柔和な人者は幸いである、その人は地を受け継ぐ」の御言葉の通りである。

ゲラの子シムイに対するダビデの対応(2サムエル記19:16-23)
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ダビデ達が、逃亡先のマハナイムから、首都エルサレムへと帰還するにあたり、彼らを真っ先に迎えに来たのは、意外な人物であった。


『バホリムのベニヤミンびと、ゲラの子シメイは、急いでユダの人々と共に下ってきて、ダビデ王を迎えた。一千人のベニヤミンびとが彼と共にいた。』(2サムエル記19:16-17)
覚えているだろうか。ゲラの子シメイは、ダビデ達が悲しみの内に都落ちしている所に現れ、一行にさかんに呪いの言葉を吐きつつ、石を投げ続けた彼である。
彼は、千人のベニヤミン人を連れて来た、という事は、サウル家の中でも、かなりの力があったのだろう。

その彼は、今、真っ先にダビデの前に現れて、さかんに命乞いをしている。
『どうぞわが君が、罪をわたしに帰しられないように。またわが君、王のエルサレムを出られた日に、しもべがおこなった悪い事を思い出されないように。どうぞ王がそれを心に留められないように。しもべは自分が罪を犯したことを知っています。それゆえ、見よ、わたしはきょう、ヨセフの全家のまっ先に下ってきて、わが主、王を迎えるのです。』(2サムエル記19:18-20)

かつてシムイがダビデを呪い石を投げつけていた時、ダビデは言った。
『彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない。』(16:11-12)
ダビデは、泣きっ面の所に蜂が来たようなこの状況においても、主は必ず省みて善を報いて下さる、と信仰告白をした。
今、まさに彼が信じた通りに成っている。

私達も、主によって低くされている時は、忍耐しつつ御前でへりくだり、主は必ず最善を為して下さる、という期待と信仰を持ち続けるなら、主は丁度良い時に引き上げて下さり、呪った者を目の前に連れて来させ、ひれ伏させて下さるのだ。
『わたしは、あなたのわざを知っている。見よ、わたしは、あなたの前に、だれも閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、わたしの言葉を守り、わたしの名を否まなかったからである。見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとにきて平伏するようにし、そして、わたしがあなたを愛していることを、彼らに知らせよう。
忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。』(黙示録3:8-10)

『ゼルヤの子アビシャイは答えて言った、「シメイは主が油を注がれた者をのろったので、そのために殺されるべきではありませんか」。ダビデは言った、「あなたがたゼルヤの子たちよ、あなたがたとなにのかかわりがあって、あなたがたはきょうわたしに敵対するのか。きょう、イスラエルのうちで人を殺して良かろうか。わたしが、きょうイスラエルの王となったことを、どうして自分で知らないことがあろうか」。こうして王はシメイに、「あなたを殺さない」と言って、王は彼に誓った。』(2サムエル記19:21-23)
ダビデは、この者に復讐したい気持ちは、あったかもしれない。
しかし、彼は誰よりも先にダビデを迎えに出て来た、というのもまた、紛れも無い事実である。
そんな彼を、無下に殺してしまったとしたら、王国の民の間で「真っ先に迎えに来た人を殺した」と、衝撃が走ったであろう。
そうなると、先にせっかくアマサへ示した憐れみの抜擢も、無に帰してしまう。
上に立つ者は、自分の感覚だけで生きてはならず、臣下の心を萎えさせたり、躓いたりしないように気をつけて生きなくてはならないのだ。
それ故、上に立たされた人は、主に知恵を求める必要がある。

シメイはこの時、確かにダビデに赦された。
しかし彼のような者は、表に出ない所でどんな陰口を流すか分かったものではないし、いつ手のひらを返して裏切るか分からない。
彼は、とてつもなく無礼な事をダビデにしたが、絶妙のタイミングで絶妙の事をしたため、赦され、命は救われた。
しかし、王権がソロモンへ改まった時、彼はソロモンの言葉どおりに徹しなかった故に、殺される事になる。(1列王記2:36-46)

ダビデは、赦しと憐れみに満ちた王である。
人の中には、その赦しと憐れみを逆手に取って、うまくやりくりする人もいるかもしれない。
しかし、やがて時が改まる時、闇に隠れていた事は全て光の内に照らされ、心の内に秘めていた事も全て露わにされ、正当なさばきが執行される。
これは、王の王であるキリストが再臨される時にも、同じである。
『だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。』(13:40-43)

私達は、シメイのような世渡り上手さを身につけなくても良いし、そのような者が跳梁跋扈している様を憂わなくて良い。
私達はただ、普段より、心から主に従い、またダビデのような愛と憐れみ、赦しのわざを、自分のものとして歩んでいるなら、全て人の企みや心を見透かされる主が、正しく報いて下さり、引き上げて下さるからだ。

ダビデによる憐れみと赦しの采配(2サムエル記19:1-15)
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ダビデに反逆した彼の息子・アブシャロムは、ヨアブによって惨殺され、こうして戦いは決着がついた。

それは、戦いに出た戦士達には喜ばしい事だったが、ダビデにはそうではなかった。
『時にヨアブに告げる者があって、「見よ、王はアブサロムのために泣き悲しんでいる」と言った。こうしてその日の勝利はすべての民の悲しみとなった。それはその日、民が、「王はその子のために悲しんでいる」と人の言うのを聞いたからである。そして民はその日、戦いに逃げて恥じている民がひそかに、はいるように、ひそかに町にはいった。王は顔をおおった。そして王は大声に叫んで、「わが子アブサロムよ。アブサロム、わが子よ、わが子よ」と言った。』(2サムエル記19:1-4)

戦士たちは、せっかく命をかけて戦って勝利したのに、喜び迎え入れられないどころか、ダビデはこの度の敵であるアブシャロムの死のほうを、悲しんでいる。
人々には、ダビデのこの対応は、理解し難いものだっただろう。
そこでヨアブは諫言する。

『あなたは、きょう、あなたの命と、あなたのむすこ娘たちの命、およびあなたの妻たちの命と、めかけたちの命を救ったすべての家来の顔をはずかしめられました。それはあなたが自分を憎む者を愛し、自分を愛する者を憎まれるからです。あなたは、きょう、軍の長たちをも、しもべたちをも顧みないことを示されました。きょう、わたしは知りました。もし、アブサロムが生きていて、われわれが皆きょう死んでいたら、あなたの目にかなったでしょう。』(2サムエル記19:5-7)
ヨアブが言った事は、正論である。
戦士たちは、町で待機していたダビデや彼の妻、息子娘のために、危険な戦場で戦ったのに、そんな彼らの献身と努力を一切無視するかのような行為を、ダビデはしているのである。
むしろダビデには、敵であるアブシャロムの命ほうが、自分達の命よりも大切であるかのように見た人もいただろう。

ところで、ヨアブのこの正論よりも前に、忘れられている事が無いだろうか。

ダビデは戦う前から、息子アブシャロムをゆるやかに扱って欲しい、と、全員に願っていた。
アブシャロムは、自ら木に引っかかって宙吊りになってしまうという、ヨアブが生け捕りにしようと思えば、いくらでも出来た状況だったのに、彼は無防備なアブシャロムの心臓を槍で貫き、10人がかりでなぶりものにし、彼の死体を、ほら穴に投げ込み、その上に石くれの山を積み上げた。
敵を打ち取る事、クーデターを起こした謀反者に制裁を加える事、それはヨアブにとって「正義」だったかもしれないが、しかし明らかに命令違反であり、ダビデの意図を踏みにじる行為だ。

『今立って出て行って、しもべたちにねんごろに語ってください。わたしは主をさして誓います。もしあなたが出られないならば、今夜あなたと共にとどまる者はひとりもないでしょう。これはあなたが若い時から今までにこうむられたすべての災よりも、あなたにとって悪いでしょう」。』(2サムエル記19:7)
ヨアブは、自分が「してしまった事」に一切触れる事無く、悪びれる事も悔む事も無く、あたかも自分は完全に正しくてダビデが間違っており、自分は、部下全体の総意を伝えているかのような。
しかも、自分の言うとおりしないなら、あなたは今までにない非道い災いが降る、とまで、半ばおどすような発言もしている。

確かにダビデの対応は、部下の心を離れさせる行為であった。
しかしここで一つはっきりした事は、ヨアブは主君・ダビデを軽んじており、ダビデの命令を聞かないばかりか、自分が聞かなかった事について一切言及する事なく、むしろ半ば脅すような形で指示までしている。
『しもべは言葉だけで訓練することはできない、彼は聞いて知っても、心にとめないからである。・・・しもべをその幼い時からわがままに育てる人は、ついにはそれを自分のあとつぎにする。』(箴言29:19-21)

『そこで王は立って門のうちの座についた。人々はすべての民に、「見よ、王は門に座している」と告げたので、民はみな王の前にきた。』(2サムエル記19:8)
ダビデは、ヨアブが命令違反した事について、また、自分がした事について、全く悪びれない様子に対し、特に何かをした、という記述は無い。
ただヨアブの進言どおりを、無言でそのまま実行したが、ダビデはヨアブを、もう将軍の座から降ろそうという決心があった。

さて、クーデターを起こしたアブシャロムの側についていた大多数の人達は、アブシャロムのあっけない死の故に、混乱状態にあった。(2サムエル記19:8-10)
彼らは議論している。
ダビデは昔からイスラエルのために体を張って戦い、自分たちをペリシテから救ってくれていたではないか、それなのに、自分達は浅はかにも、若く美しくて勢いのあるアブシャロムへとなびいて、彼を王とし、そうしてダビデに反逆してしまった。
そのアブシャロムがあっけなく死んでしまった今、唯一イスラエルを導いてくれるべき王は、ダビデしかいない。しかし彼は、遠い地に逃れている。
また、ダビデはこれから自分達・アブシャロム側についた「反乱軍」に、どのように出るかも分からない。

ダビデは、そんな気まずい思いをして手をこまねいている彼らに、明快な方向性を示す。
『ダビデ王は祭司たちザドクとアビヤタルとに人をつかわして言った、「ユダの長老たちに言いなさい、『全イスラエルの言葉が王に達したのに、どうしてあなたがたは王をその家に導きかえる最後の者となるのですか。あなたがたはわたしの兄弟、わたしの骨肉です。それにどうして王を導きかえる最後の者となるのですか』。』(2サムエル記19:11-12)
ダビデはまず、自分の身内であるユダ族に言う。
あなたがたが何を議論しているか、自分は知っている、それなら早くわたしを迎えに来なさい、と。
そればかりではない。

『またアマサに言いなさい、『あなたはわたしの骨肉ではありませんか。これから後あなたをヨアブに代えて、わたしの軍の長とします。もしそうしないときは、神が幾重にもわたしを罰してくださるように』」。』(2サムエル記19:13)
アマサは、ダビデとは遠い親類関係にあったが、ダビデの敵軍の長としてアブシャロムに任命された者である。(17:25)
つまり、ついさっきまで、ダビデの命を狙っていた側の将だ。
そんなアマサに、ダビデは言う。ヨアブを軍団長の座から降ろし、彼に代わってあなたを長としよう、と。
この、驚くような恵みの決定は、アブシャロムの側についていた人々を、どんなに安心させた事だろう。

アブシャロムは確かに人身操作術には長けていたかもしれない。
しかし、彼にくみした軍師アヒトペルが自殺してしまうようような、どこか心遣い無しな所があった。
それに引き換え、ダビデには、愛と憐れみ、赦しと温かみがあった。
『こうしてダビデはユダのすべての人の心を、ひとりのように自分に傾けさせたので、彼らは王に、「どうぞあなたも、すべての家来たちも帰ってきてください」と言いおくった。そこで王は帰ってきてヨルダンまで来ると、ユダの人々は王を迎えるためギルガルにきて、王にヨルダンを渡らせた。』(2サムエル記19:14-15)

アブシャロムの謀反によって、無秩序に陥ってしまったイスラエルを、ダビデは憐れみと赦しの采配によって和解をもたらし、平和の内に、秩序を回復させて行った。
この、愛と憐れみと赦しの采配は、まさしく、イエス・キリストの采配である。
私達も、ダビデが示したキリストの性質・愛と憐れみ、赦しを身に着けて行きたい。

永遠に帰って来なかった放蕩息子(2サムエル記18:19-33)
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戦いの結果は、ダビデ王が願った通りではなく、クーデターを起こした王子アブシャロムの死、という形で、決着がついた。

『ツァドクの子アヒマアツは言った。「私は王のところへ走って行って、主が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされたと知らせたいのですが。ヨアブは彼に言った。「きょう、あなたは知らせるのではない。ほかの日に知らせなさい。きょうは、知らせないがよい。王子が死んだのだから。ヨアブはクシュ人に言った。「行って、あなたの見たことを王に告げなさい。」クシュ人はヨアブに礼をして、走り去った。』(2サムエル記18:19-21)
アヒマアツは、この戦いの結果を「主が敵の手から王を救って王のために正しいさばきをされた」と評価したが、きっとそれがダビデの側についた人々の大勢の見方であろう。
なにしろ、謀反しクーデターを企てた者を、討ち取ったのだから。
アヒマアツは、その「戦勝の良き知らせ」を伝えようと意気込むのだが、ヨアブはそれを引き止めた。

ヨアブは、ダビデのことを良く知っていた。
この度の結果は、ダビデにとっては良き知らせではない、と。そして、伝令の報告の仕方次第では、伝令が殺されかねない、とまで思ったのかもしれない。
だから彼は、無名のクシュ人に伝令の役割をさせたのだ。
しかしアヒマアツは、それでも自分も伝えに行きたい、と懇願し、ヨアブは根負けして、行く事を許した。

『ダビデは二つの門の間にすわっていた。見張りが城壁の門の屋根に上り、目を上げて見ていると、ただひとりで走って来る男がいた。見張りが王に大声で告げると、王は言った。「ただひとりなら、吉報だろう。」その者がしだいに近づいて来たとき、見張りは、もうひとりの男が走って来るのを見た。見張りは門衛に叫んで言った。「ひとりで走って来る男がいます。」すると王は言った。「それも吉報を持って来ているのだ。」
見張りは言った。「先に走っているのは、どうやらツァドクの子アヒマアツのように見えます。」王は言った。「あれは良い男だ。良い知らせを持って来るだろう。」』(2サムエル記18:24-27)
ダビデは知らせが届く前から、しきりに「良い知らせ」にこだわっている。
伝令が一人で来たなら「それは吉報」だ、一人ではなく二人だと分かっても「それも吉報」だと、また、あの男は良い男だから「良い知らせ」だ、と。

ダビデにとっての「良い知らせ」とは、息子アブシャロムが無事である事。
その「吉報」が来るのを、ダビデは、今か今かと切望していたのだろう。
あたかも、放蕩息子の父が、息子が出て行った道をはるか望み見、いつ帰って来るだろうかと、待ち望んでいるかのように。(ルカ15章)

『アヒマアツは大声で王に「ごきげんはいかがでしょうか。」と言って、地にひれ伏して、王に礼をした。彼は言った。「あなたの神、主がほめたたえられますように。主は、王さまに手向かった者どもを、引き渡してくださいました。」王が、「若者アブシャロムは無事か。」と聞くと、アヒマアツは答えた。「ヨアブが王の家来のこのしもべを遣わすとき、私は、何か大騒ぎの起こるのを見ましたが、何があったのか知りません。」王は言った。「わきへ退いて、そこに立っていなさい。」そこで彼はわきに退いて立っていた。』(2サムエル記18:28-30)
アヒマアツは、「戦いには勝った」という面だけの「良い知らせ」は伝えたものの、肝心の所を濁した。
言ってみれば、報告する上で「美味しい所取り」をして、ダビデに自分に対する「良い印象」を残したわけである。

ダビデ王は、自分に手向かって来た敵が打ち伏された報告については、目もくれなかった。あたかも、当たり前であるかのように。
彼は今までの経験から、主に対してやましい所が無く、自分主により頼んでおり、そして相手が主に従順していないなら、たとえどんなに不利な戦いでも、主は必ず勝利を下さる、と確信していたのだ。
彼のやましさは、とうの昔に主に告白し、悔い改め、主に”取り扱われ済み”だ。

しかし、アブシャロム達は、明らかに主の前で悪い事をしており、主に守られる分は無い。
だから、ダビデは自分達がいかに圧倒的不利であろうとも、この戦いに勝つ事は、それ程驚く事ではなかったのかもしれない。
それを信じた上で、ダビデは、部下たちにアブシャロムを手柔らかに扱うよう指示したのだろう。
つまり、ダビデにとっての真っ先の関心事項は、戦勝ではなく、アブシャロムが無事かどうか、という事だったのだ。
アブシャロムがこのまま御言葉に逆らうような事をしていたら、主からの懲罰が追いついてしまう事は明らかだ、そうならない内に、何とか救われて欲しい、と。

『するとクシュ人がはいって来て言った。「王さまにお知らせいたします。主は、きょう、あなたに立ち向かうすべての者の手から、あなたを救って、あなたのために正しいさばきをされました。」王はクシュ人に言った。「若者アブシャロムは無事か。」クシュ人は答えた。「王さまの敵、あなたに立ち向かって害を加えようとする者はすべて、あの若者のようになりますように。」』(2サムエル記18:31)
クシュ人の伝令は、言ってしまった。
アブシャロムを「王の敵」とし、その「敵」は、主が裁いて下さった、と。
そしてあたかも、ダビデの子アブシャロムが、呪われるべき者の代表格であるかのように、王を害する者は、あの若者のようになりますように、と言った。

『すると王は身震いして、門の屋上に上り、そこで泣いた。彼は泣きながら、こう言い続けた。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」』(2サムエル記18:33)
この王の反応は、人々には理解しがたいものだったかもしれない。実際、アヒマアツも、この度の事はダビデに良い知らせだと思って、最初は伝えたくてうずうずしていた。
王はなぜ、そのような反応をするのか?
確かに息子が死んだ事は悲しい事かもしれないけれど、それ以上に、自分の命の危機は去って、再び王国に平和が戻るのだから、そこまで悲しむのはやりすぎでは、と、人々は思ったかもしれない。

きっとダビデは、今までアブシャロムが何かしても放置する事を重ねたため、彼がこんなにも、呪われるような事をしてしまう子へとならせてしまった、という自責の念があったのだろう。
アブシャロムはせっかく「父の平和」という良い名前がつけられたのに、子育てにおいて彼に間違えた対応をし続けてしまった故に、名前とは全くそぐわない子となってしまい、最終的に、彼は自身の罪の故に滅びが追いついて死んでしまった。

またアブシャロムの死は、そればかりの事ではなかった。
これでダビデの子は3人死んでしまったわけだが、彼らの死は、大本を辿って行くと、ダビデ自身が犯した姦淫と殺人の罪へとたどり着くのだ。

ダビデは、自分の息子に王座を奪われ、命を狙われ、自分の妾を公然と寝取られた。
それだけでも苦しいのに、それに積み重ねて、息子が父に復讐したいがために、律法では死罪に当たるような悪どい事を父にし続けて来て、そして、その罪の刈り取りは、息子自身が刈り取らなくてはならなくなり、そしてついに滅びが追いついて、死んでしまう。
これら一連の全ての原因は、結局、ダビデ自身に行き着くのだ。

ダビデが犯したあの罪の故に、そして、ダビデが放置して来たあれらの事どもの故に、既に3人の子がダビデの前で死んで行き、ただ、ダビデだけは生き残っている。
「ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに」とダビデが叫んだのには、それだけの理由があるのだ。
ダビデは自分の罪を認めた故、死ぬ事は免れたものの、むしろ死んだほうが良かったと思う程の苦痛と悲しみを背負って生きなくてはならなかったのだ。

イエス様のたとえ話の放蕩息子は、悔い改めて父の元に帰って来てハッピーエンドとなったが、ダビデの放蕩息子は、永遠に帰って来なかった。
アブシャロムは”放蕩先”で、神と父とに反逆する事を改めなかった故に、呪いが追いついてしまい、滅んでしまった。

父なる神は、罪人がその罪の内に滅んでいく事を、全く望んでおられない。
『悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。』(エゼキエル18:30-32)

神は、いかに人間が反逆しようとも、それであっても立ち返って、救われる事を望まれる。
たとえ、父の財産を散財し、ぼろぼろになって帰ってきたとしても、父は、遠くからその姿をみとめて走り寄り、口付けし、元の地位に戻して、宴会を開いて下さる。
一人の罪人が立ち返って悔い改めるなら、天では大きな喜びが沸き起こるが、罪人がずっと悔い改めず、呪いが追いついて滅んでしまうなら、ダビデが号泣したように、天では深い悲しみが起こるのだ。

『わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。』(2サムエル記18:33)
このダビデの嘆きは、悔い改めないまま、呪いに追いつかれ、滅んで行ってしまった人達に対する、父なる神様の嘆きでもある。
父なる神様は、こよなき愛で、人を愛された。それで父なる神様に対する反逆と罪の故に滅んでいく人を、滅びから救うために、ひとり子を世に遣わされた。
彼を身代わりにして死なせる事によって、人の罪を処罰し、彼を信じる人が、永遠のいのちを持つようになるために。

華々しかったアブシャロムの、実にあっけない、呪われた最後(2サムエル記18:9-18)
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アブシャロムは非常に美しく、頭も切れ、人々の人気を得、”華々しく”父ダビデ王にクーデターを起こしたが、その最後は、あまりにあっけなく、実に呪われた有様だった。

『さてアブサロムはダビデの家来たちに行き会った。その時アブサロムは騾馬に乗っていたが、騾馬は大きいかしの木の、茂った枝の下を通ったので、アブサロムの頭がそのかしの木にかかって、彼は天地の間につりさがった。騾馬は彼を捨てて過ぎて行った。』(2サムエル記18:9)
アブシャロムは髪の毛がとても豊富で、彼の美を誇るものであったが、その髪が災いした。
彼は彼の乗っていた動物によって木に吊るされ、ぶら下がったままの姿を、敵の面前に晒す事となった。

木に吊るされた者は「神に呪われた者」と記されている。(申命記21:23、ガラテヤ3:13)
それは、天と地の間に宙吊りにされる事により、天からも地からも見放された者、という意味らしい。
まさに、神がアブシャロムをその状態へと導いた、と言えるだろう。
なにしろ彼は、自分から呪われるべき事をしたからのだから。
『『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:16,20)

『ひとりの人がそれを見てヨアブに告げて言った、「わたしはアブサロムが、かしの木にかかっているのを見ました」。ヨアブはそれを告げた人に言った、「あなたはそれを見たというのか。それなら、どうしてあなたは彼をその所で、地に撃ち落さなかったのか。わたしはあなたに銀十シケルと帯一筋を与えたであろうに」。』(2サムエル記18:10-11)
ヨアブに報告をもたらした人は、ダビデの「アブシャロムを穏やかに扱うように」という命令を聞いていたので、当然ヨアブはあの状態のアブシャロムを穏やかに扱うものだろう、と思って報告したのであろうが、ヨアブはあたかも、アブシャロムは殺して然るべしであるかのように答え、しかも「どうしてあなたは殺さなかったのか」とまで言われてしまった。
かの報告した人には、王の命令を聞き従う心はあったが、ヨアブには王の命令を聞く心は無く、血を流すのに早かった。
それ故彼は、人から血を流される者となってしまう。

『そこで、ヨアブは「こうしてあなたと共にとどまってはおられない」と言って、手に三筋の投げやりを取り、あのかしの木にかかって、なお生きているアブサロムの心臓にこれを突き通した。ヨアブの武器を執る十人の若者たちは取り巻いて、アブサロムを撃ち殺した。・・・人々はアブサロムを取って、森の中の大きな穴に投げいれ、その上にひじょうに大きい石塚を積み上げた。そしてイスラエルはみなおのおのその天幕に逃げ帰った。』(2サムエル記18:14-17)
これが、かのアブシャロムの最後である。
彼は木にかけられ、槍で刺され、寄ってたかってなぶりものにされ、その死体は王の墓に丁重に葬られず、誰も通らないような密林のほら穴に投げ込まれ、そこを大きな石くれの山で塞がれてしまった。
いかに若く美しく、はかりごとに長け、華々しく、勢いがあろうとも、主が「これをしてはならない」と言われた事を率先してするような者の最後は、実に呪われたものなのだ。

『さてアブサロムは生きている間に、王の谷に自分のために一つの柱を建てた。それは彼が、「わたしは自分の名を伝える子がない」と思ったからである。彼はその柱に自分の名をつけた。その柱は今日までアブサロムの碑ととなえられている。』(2サムエル記18:18)
14章を見ると、彼には3人の息子がいたはずだった。
彼が畑に火を放ってまで父ダビデと会おうとしていた14章の時は、まだ、子供達は健在であったのだろう。
しかし、父ダビデに反逆をはじめて以降、その3人は、死んでしまったのだろう。
アブシャロムは神の国イスラエルで王を名乗ったからには、率先して父に逆らうという御言葉への反逆をするとしたなら、神が黙っていないのだ。
きっとアブシャロムがした事で神に呪われ、子のいのちまでも呪われてしまった事を、全イスラエルは聞いて、震えおののいただろう。

『もし、わがままで、手に負えない子があって、父の言葉にも、母の言葉にも従わず、父母がこれを懲らしてもきかない時は、その父母はこれを捕えて、その町の門に行き、町の長老たちの前に出し、町の長老たちに言わなければならない、『わたしたちのこの子はわがままで、手に負えません。わたしたちの言葉に従わず、身持ちが悪く、大酒飲みです』。そのとき、町の人は皆、彼を石で撃ち殺し、あなたがたのうちから悪を除き去らなければならない。そうすれば、イスラエルは皆聞いて恐れるであろう。』(申命記21:18-21)
ここの「身持ちが悪い(ザラェル)」の原意は、ぶらぶらする、放浪ぐせがある、おお喰らい、役立たず、の意味があり、また、「大酒飲み(サバァ)」の原意は、がぶがぶ飲む、酔っぱらい、の意味がある。
子がわがままで手に負えず、親の言葉に従わず、あれもこれも自分のものにしようと貪欲で、懲らしても聞かない、という事なら、長老達にこのように報告してから、石て撃ち殺しなさい、そうして、これを聞く人全てが恐るようにしなさい、と、律法に記されている。

私達は、祝福を受けるためにも、父母を敬うべきである。
『子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。』(エペソ6:1-3)
従うべき権威には順序があって、ここに記されている通り、「主にあって」両親に従うべきである。
もし父母が、主と主の御言葉に反する事を押し付けて来るなら、敬いの心は持ちつつ、諭すべきである。
「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(マタイ10:37)
そうした以外の事であれば、両親に服従すべきであり、それをするなら、主が約束しておられる通りに幸福になり、地上で長く生きる事ができるからだ。

私達はアブシャロムとは真逆の、祝福の王道を歩んでいきたい。

勝っても負けても悲しみしか無い戦い(2サムエル記18:1-8)
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主がダビデを助ける人々をちょうど良い時に遣わして下さったお陰で、ダビデは、物資面でも、人においても、物事においても、必要な助けを得て、迫ってくるアブシャロムに対し態勢を整える事が出来た。

『さてダビデは自分と共にいる民を調べて、その上に千人の長、百人の長を立てた。そしてダビデは民をつかわし、三分の一をヨアブの手に、三分の一をゼルヤの子ヨアブの兄弟アビシャイの手に、三分の一をガテびとイッタイの手にあずけた。』(2サムエル記18:1-2)
ヨアブとアビシャイは、かねてから軍団長として活躍していたが、ダビデはさらに、ガテ人イッタイも軍団長として採用した。
ガテ人イッタイがダビデを慕ってエルサレムに来た時、その次の日にダビデは都落ちしてエルサレムを出て行ったにもかかわらず、ダビデについて行くという誠実を示した。

『こうして王は民に言った、「わたしもまた必ずあなたがたと一緒に出ます」。しかし民は言った、「あなたは出てはなりません。それはわれわれがどんなに逃げても、彼らはわれわれに心をとめず、われわれの半ばが死んでも、われわれに心をとめないからです。しかしあなたはわれわれの一万に等しいのです。それゆえあなたは町の中からわれわれを助けてくださる方がよろしい」。王は彼らに言った、「あなたがたの最も良いと思うことをわたしはしましょう」。』(2サムエル記18:2b-4)
ダビデはかつて、皆が戦いに出ている間、彼だけは王宮に残り、夕暮れ時に目覚めて、女性が体を洗っている姿に欲情を燃やし、彼女が人妻であるにも関わらず姦淫し、その夫を殺すという罪を犯したが、もう、その時のダビデとは違っていた。
ダビデは元々、戦いの時は、人々の先頭に立って戦いに出ていたものだが、そのダビデに戻っている。
ダビデは今回、いのちをかけて戦いに出る彼らと、一緒に行きたかったのだが、人々はそれを許さなかった。
なにしろ今回の戦いは、相手が狙うのは領土や金銀ではなく、ダビデただ一人の命であり、ダビデさえ死ねばアブシャロムのクーデターが成功するのだから。

『王はヨアブ、アビシャイおよびイッタイに命じて、「わたしのため、若者アブサロムをおだやかに扱うように」と言った。王がアブサロムの事についてすべての長たちに命じている時、民は皆聞いていた。』(2サムエル記18:5)
ダビデはもしかすると、アブシャロムがアムノンを殺して逃亡して以来、ずっとアブシャロムを気にかけ、心配していたのかもしれない。

そもそも、ダビデがアブシャロムに命を狙われるようになったのは、彼の身から出た錆的な所が大きい。
ダビデは、姦淫と殺人という「いのち」に対する罪を犯した故に、彼の身から生まれた「いのち」達から間接的に反撃を受け、自分の身内を性的に辱めたり、殺したり、クーデターを起こされたりしたのだ。
つまり、ダビデが犯した「いのち」を冒涜した罪の報いの道具として、自分の子が用いられてしまったのだ。
そして、もし「子」が、親であるダビデに対して反逆したり、性的にしてはならぬ事をしたりするなら、その刈り取りは当然、それを為した「子」が受けなければならない。

父・ダビデとしては、自分の子から実際的に命を狙われたり、また、子が犯してしまう罪のゆえに、子がその滅びの刈り取りをしなければならない事とに、心が引き裂かれる思いだっただろう。
だからダビデは、戦いに出て行く人々に、アブシャロムを穏やかに扱って欲しい、と懇願するのだが、しかし人々からすれば、アブシャロムは王に反逆した敵であり、一刻も早く倒したい相手だった。
ダビデにとっては、勝っても負けても痛みを伴う、実に複雑な状況である。

こうして戦端は切って落とされたが、主はダビデに有利に働かれた。
『民はイスラエルに向かって野に出て行き、エフライムの森で戦ったが、イスラエルの民はその所でダビデの家来たちの前に敗れた。その日その所に戦死者が多く、二万に及んだ。そして戦いはあまねくその地のおもてに広がった。この日、森の滅ぼした者は、つるぎの滅ぼした者よりも多かった。』(2サムエル記18:6-8)
ダビデの軍の剣によって滅んだ者よりも、森によって滅ぼされた者が多く出た、という事は、主がダビデに味方し、アブシャロムに敵対された、という事に他ならない。

ダビデとしては、勝っても負けても心痛い戦いだっただろう。
しかし主は、人の思いを遥かに超えた最善が何であるかをご存知であり、ただ、神の正しい義のみを遂行される。

次から次へと助けが遣わされたダビデの性質(2サムエル記17:15-29)
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『そこでホシャイは祭司たち、ザドクとアビヤタルとに言った、「アヒトペルはアブサロムとイスラエルの長老たちのためにこういう計りごとをした。またわたしはこういう計りごとをした。それゆえ、あなたがたはすみやかに人をつかわしてダビデに告げ、『今夜、荒野の渡し場に宿らないで、必ず渡って行きなさい。さもないと王および共にいる民はみな、滅ぼされるでしょう』と言いなさい」。』(2サムエル記17:15-16)
ホシャイは速やかにダビデに報告するために、メッセンジャーを遣わした。
アブシャロムが、いつまたアヒトフェルの助言を採用してしまうか、分からないからだ。

このダビデへの二人の伝令は、アブシャロムに属する若者に見られていまい、追われる事となってしまう。
『彼らふたりは急いで去り、バホリムの、あるひとりの人の家にきた。その人の庭に井戸があって、彼らはその中に下ったので、女はおおいを取ってきて井戸の口の上にひろげ、麦をその上にまき散らした。それゆえその事は何も知れなかった。アブサロムのしもべたちはその女の家にきて言った、「アヒマアズとヨナタンはどこにいますか」。女は彼らに言った、「あの人々は小川を渡って行きました」。彼らは尋ねたが見当らなかったのでエルサレムに帰った。』(2サムエル記17:18-20)
ダビデ達を助ける人は、ここでも現れた。
ダビデは以前から、行く先々で恵みと憐れみのわざを人々にする事を常として来たため、いざという時に彼を助けてくれる人が沢山いるのだ。

例えば、ダビデがサウル王に追われていた時代、ナバルの羊飼い達と共に過ごした時でも、ダビデ達はナバルの羊飼い達のため盾となり、持ち物がなくならないように気を遣ってやった。
ナバルは、そんなダビデの恩を、仇で返したが、主はナバルを打たれ、そして夫のナバルに代わってダビデに恩を返したアビガイルは、ダビデの嫁となり後には王妃となる幸いにあずかった。
主を頼りとしている人達に良い事で返すなら、その人には良い報いが返って来るが、仇で返すなら、それ相当の報いがその人に帰ってくるのだ。
『あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。』(マタイ10:40-42)

『彼らが去った後、人々は井戸から上り、行ってダビデ王に告げた。すなわち彼らはダビデに言った、「立って、すみやかに川を渡りなさい。アヒトペルがあなたがたに対してこういう計りごとをしたからです」。そこでダビデは立って、共にいるすべての民と一緒にヨルダンを渡った。夜明けには、ヨルダンを渡らない者はひとりもなかった。』(2サムエル記17:21-22)
ダビデに伝える二人の伝令は、こうして無事、ダビデの所に情報を届ける事が出来、こうしてダビデ達は、一人も損なわれる事なく無事にヨルダンを渡る事が出来た。
悪しき者は主の民に色々と企み、次から次へと攻勢をかけてくるが、主は、主に信頼して御言葉に歩む人には、人を通じ、あるいは自然現象を通じ、時には、自然を超越した現象を起こしてでも働かれ、守られるのだ。

『アヒトペルは、自分の計りごとが行われないのを見て、ろばにくらを置き、立って自分の町に行き、その家に帰った。そして家の人に遺言してみずからくびれて死に、その父の墓に葬られた。』(2サムエル記17:23)
アヒトペルは、「神の御告げ」のような計りごとをめぐらす人だったが、その計りごとは、自分のいのちをながらえさせる事が出来なかった。
彼が自ら首をくくった理由は「自分のはかりごとが行われないのを見て」だった「自分の思い通りに行かないなら、死んだほうがましだ」という理由で自殺をするなら、ダビデは一体何度、自殺するような場面があっただろう。

イスカリオテのユダも、アヒトペルのように首をっくくって死んだが、彼も、イエス様が自分の思い通りに行かないから、というのが、裏切りの発端だった。
自分の思いや計りごとを、あくまで執着するなら、自分で自分の首を締めてしまうものだ。
しかしキリスト者は、自分の計りごとを降ろし、主の前に服従させ、そうして、誰にも出来ないような勝利を勝ち取れる人々である。
『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。』(2コリント10:5-6)

ダビデには、さらに助ける人が現れる。
『ダビデがマハナイムにきた時、アンモンの人々のうちのラバのナハシの子ショビと、ロ・デバルのアンミエルの子マキル、およびロゲリムのギレアデびとバルジライは、寝床と鉢、土器、小麦、大麦、粉、いり麦、豆、レンズ豆、蜜、凝乳、羊、乾酪をダビデおよび共にいる民が食べるために持ってきた。それは彼らが、「民は荒野で飢え疲れかわいている」と思ったからである。』(2サムエル記17:27-29)

ダビデを助けた一人目は、ナハシの子ショビである。
ナハシは生前、ダビデと親しい交流があったアモン人の王であったが、その子・ハヌンは、ダビデの恩に仇で返した。(10章)
しかしショビは、ダビデの恩に恩で報いた。
ショビとハヌン。同じナハシという親から生まれたのに、一方はダビデに恩を返し、一方はダビデを辱めた。それと同じように、同じ肉の親から生まれても、一方はキリストに恩を返し、他方はキリストを辱める、という事は、あるのだ。

ダビデを助けた二人目のマキルは、サウル家のヨナタンの子・メフィボシェテを養った人である。(9章)
きっと彼は、メフィボシェテに憐れみをかけ、王の食卓で彼を養ってくれたダビデに対し、恩を報いたのだろう。
また、バルジライは19章で詳しく記されているが、彼は非常に裕福で、ダビデ達がマハナイムにとどまっている間、彼らを養った。
それでダビデが幸いを得た時、彼を祝福し、豊かに報いる。(19章)

ダビデは行く先々で、人々に平和に接し、憐れみをほどこした。
悪い事をしていないのに命を付け狙われてる事があっても、悪で返す事をせず、善で返して来た実績がある。
だからダビデは、神と人とに愛され、彼を助ける人が後を絶たなかったのだ。
『柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。・・・あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。・・・平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。・・・・義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。』(マタイ5:5-10)
このように、ダビデを助ける人達が、次から次へと現れたおかげで、アブシャロム達がヨルダンを渡って来る頃には、ダビデ達は物資面でも充実し、戦いの準備もしっかり整える事が出来た。

それに引き換え、アブシャロムに従っている人は、アブシャロムの美しさや魅力、勢いの良さ、頭の良さを見て一緒になる人が多かった。
つまり、彼と一緒にいる事のほうが今後都合が良いといった「損得勘定」で彼に従う人が多かった。
もしアヒトペルが、アブシャロムを愛し慕っていたとするなら、自分の計りごとが一度採用されなかったからと言って、早急に自殺してしまうような事は、しなかっただろう。

地を相続する人とは、外見や口先の言葉が美しい人ではなく、柔和な人である。
いざという時に憐れみを受けられる人は、普段から憐れみ深い人である。
神の子と呼ばれる人は、神のお告げのような計りごとを語る人ではなく、平和をつくる人である。
天国を相続する人とは、時代のトレンドに合わせて主人や主張を変える者ではなく、迫害されても、なお義を貫く人である。

人の知恵と賢さをむなしくされる主(2サムエル記17:1-14)
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アヒトペルは、アブシャロムにダビデのめかけ達と公然と寝るよう助言し、ダビデを大いに侮ってアブシャロムに味方する者たちの士気を大いに上げたが、彼は間髪を入れずに、次の助言をする。
『「わたしに一万二千の人を選び出させてください。わたしは立って、今夜ダビデのあとを追い、彼が疲れて手が弱くなっているところを襲って、彼をあわてさせましょう。そして彼と共にいる民がみな逃げるとき、わたしは王ひとりを撃ち取り、すべての民を花嫁がその夫のもとに帰るようにあなたに帰らせましょう。あなたが求めておられるのはただひとりの命だけですから、民はみな穏やかになるでしょう」。この言葉はアブサロムとイスラエルのすべての長老の心にかなった。』(2サムエル記17:1-4)

つまり、ダビデは今、とても意気消沈し疲れているから、この機を逃さずに急襲しましょう、今ならやすやすと攻め落とせるでしょうから、と。
これは実際、「良い計りごと」だった。(14節)
ダビデ達は実際、心も体も疲れていたし民を連れていて無防備状態である。この機に攻め込まれたなら、ひとたまりもないだろう。
しかし、全ての人のいのちを司る主は、ダビデを守る事が御心であった。
なぜなら、ダビデは主を敬い主に依り頼んでいたのに対し、アヒトペルとアブシャロムは、主と御言葉とを、軽んじていたからだ。

主は、知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを、むなしいものにされる。(1コリント1:19)
アヒトペルがせっかく”良い計りごと”をしたのに、アブシャロムは、余計な提案をする。それも、どれ程余計だったかというと、彼の生死を分けてしまう程の。

『そこでアブサロムは言った、「アルキびとホシャイをも呼びよせなさい。われわれは彼の言うことを聞きましょう」。』(2サムエル記17:5)
アブシャロムは、ホシャイにも伺おうと言って彼を呼び出すのだが、ホシャイはダビデから遣わされたスパイである。
アブシャロムの提案は、ダビデ達にとって有利な、そして自分達にとって不利な事だった。

『ホシャイがアブサロムのもとにきた時、アブサロムは彼に言った、「アヒトペルはこのように言った。われわれは彼の言葉のように行うべきか。いけないのであれば、言いなさい」。』(2サムエル記17:6)
ホシャイはアヒトペルの計りごとを聞いて慄いただろう。
もし彼の計りごとが速やかに遂行されるなら、今、無防備なダビデ達は、ひとたまりもないだろう、と。
そこでホシャイは、ダビデ達にとって有利で、なおかつ、聞く人全てを納得させるような計りごとを立てる。

『ホシャイはアブサロムに言った、「このたびアヒトペルが授けた計りごとは良くありません」。ホシャイはまた言った、「ごぞんじのように、あなたの父とその従者たちとは勇士です。その上彼らは、野で子を奪われた熊のように、ひどく怒っています。また、あなたの父はいくさびとですから、民と共に宿らないでしょう。彼は今でも穴の中か、どこかほかの所にかくれています。』(2サムエル記17:7-9a)
ホシャイは、アヒトペルとは真逆の解釈を展開する。
すなわち、ダビデは疲れて意気消沈しているのではなく、アブシャロム達が自分達をはずかしめた事によって、子を奪われた熊のように怒り心頭である、そして、戦いに熟練したダビデなら、きっとアブシャロム達の虚を突いて、少なからぬ被害が出るだろう、と。

『もし民のうちの幾人かが手始めに倒れるならば、それを聞く者はだれでも、『アブサロムに従う民のうちに戦死者があった』と言うでしょう。そうすれば、ししの心のような心のある勇ましい人であっても、恐れて消え去ってしまうでしょう。それはイスラエルのすべての人が、あなたの父の勇士であること、また彼と共にいる者が、勇ましい人々であることを知っているからです。』(2サムエル記17:9-10)
続いてフシャイは、アブシャロムの内にあるわずかな心配を、巧妙に突く。
アブシャロムは、策略家であったかもしれないが、戦いには熟練していない。
いかに今はおとなしいダビデとは言え、子はどこかしら、父の怒りに対する恐れを持っているものである。

『ところでわたしの計りごとは、イスラエルをダンからベエルシバまで、海べの砂のように多くあなたのもとに集めて、あなたみずから戦いに臨むことです。こうしてわれわれは彼の見つかる場所で彼を襲い、つゆが地におりるように彼の上に下る。そして彼および彼と共にいるすべての人をひとりも残さないでしょう。もし彼がいずれかの町に退くならば、全イスラエルはその町になわをかけ、われわれはそれを谷に引き倒して、そこに一つの小石も見られないようにするでしょう」。』(2サムエル記17:11-13)
いかに戦いに長けたダビデとは言え、圧倒的多数での物量作戦に出るなら、ひとたまりもないだろう、と。
しかも、アブシャロム自らが陣頭指揮を取って、大軍を率い勝利する。それはアブシャロム自身のプライドをくすぐる作戦でもある。

『アブサロムとイスラエルの人々はみな、「アルキびとホシャイの計りごとは、アヒトペルの計りごとよりもよい」と言った。それは主がアブサロムに災を下そうとして、アヒトペルの良い計りごとを破ることを定められたからである。』(2サムエル記17:14)
そう、本当なら、ホシャイよりもアヒトペルの計りごとのほうが、良かったのだ。
しかし、アヒトペルの計りごとを虚しいものにしたのは、主である。

「主が」アブサロムに災を下そうとして、アヒトペルの良い計りごとを破ることを定められた・・・。
久しぶりに、主ご自身が働かれた記述を見た。
主のわざはそれまで、人間の罪やはかりごとによって、表に出られない状態だった。
人が自分の力、自分のはかりごとを巡らしてそれを通そうとしている内は、主の力は働かれない。
『主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。』(2コリント12:9-10)

主は、ダビデのたった一言の祈り、「主よ、どうぞアヒトペルの計略を愚かなものにしてください(15:31)」に応え、動き出された。
自分の力や計りごとを全て主の前に投げ出し、主に祈る事こそ、主の力を引き出す鍵である。

アブシャロムの華々しいリベンジ(2サムエル記16:15-23)
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『さてアブサロムとすべての民、イスラエルの人々はエルサレムにきた。アヒトペルもアブサロムと共にいた。』(2サムエル記16:15)
ダビデが去ったエルサレムの都に、アブシャロムが新しい王として入城した。
アブシャロムの所には、アヒトペルもいる。彼は天才的な助言をするため、ダビデにとっては脅威だ。
それでダビデは、アヒトペルの助言を無効化するため、彼の友であり相談役のホシャイを、アブシャロムに接近させる。

『ダビデの友であるアルキびとホシャイがアブサロムのもとにきた時、ホシャイはアブサロムに「王万歳、王万歳」と言った。アブサロムはホシャイに言った、「これはあなたがその友に示す真実なのか。あなたはどうしてあなたの友と一緒に行かなかったのか」。
ホシャイはアブサロムに言った、「いいえ、主とこの民とイスラエルのすべての人々が選んだ者にわたしは属し、かつその人と一緒におります。かつまたわたしはだれに仕えるべきですか。その子の前に仕えるべきではありませんか。あなたの父の前に仕えたように、わたしはあなたの前に仕えます」。』(2サムエル記16:16-19)

アブシャロムは最初、疑っていた。しかしホシャイは、知恵深く答え、彼はわずかな言葉でアブシャロムの信用を勝ち得た。
『そこでアブサロムはアヒトペルに言った、「あなたがたは、われわれがどうしたらよいのか、計りごとを述べなさい。』(2サムエル記16:20)
もしダビデだったなら、人にではなく、真っ先に主に伺うために神の宮に入って行っただろう。
しかしアブシャロムは、エルサレムにある神の箱も、主の祭司も、全く見向きせず、人のはかりごとに真っ先に聞いた。

前にも見た通り、アヒトペルはバテ・シェバの祖父、ウリヤの義理の祖父である。(23:34、11:3)
彼はダビデに対する憎しみもあったろう。なにしろ、孫娘を不倫の対象とされ、孫の一家を破壊されたのだから。
そこでアヒトペルは、性的な面でダビデを辱める行動を助言する。

『アヒトペルはアブサロムに言った、「あなたの父が家を守るために残された、めかけたちの所にはいりなさい。そうすればイスラエルは皆あなたが父上に憎まれることを聞くでしょう。そしてあなたと一緒にいる者の手は強くなるでしょう」。こうして彼らがアブサロムのために屋上に天幕を張ったので、アブサロムは全イスラエルの目の前で父のめかけたちの所にはいった。』(2サムエル記16:21-22)
こうしてダビデのめかけ達は、公然と陵辱されてしまった。
まさしく、ナタンが預言していた通りである。
『あなたがわたしを軽んじてヘテびとウリヤの妻をとり、自分の妻としたので、つるぎはいつまでもあなたの家を離れないであろう』。主はこう仰せられる、『見よ、わたしはあなたの家からあなたの上に災を起すであろう。わたしはあなたの目の前であなたの妻たちを取って、隣びとに与えるであろう。その人はこの太陽の前で妻たちと一緒に寝るであろう。あなたはひそかにそれをしたが、わたしは全イスラエルの前と、太陽の前にこの事をするのである』」。』(12:10-12)

ダビデは今、まさに剣に追われており、そして、ダビデが罪を犯す発端となった、あの屋上で、今度は彼自身が性的な報復をおおっぴらな形で受ける事になってしまった。
主は、悔い改めたダビデの罪を見過ごしにし、死なないようにしては下さった。
しかし、犯した罪の報いは受けなくてはならないものであり、ダビデは今まさにそれを受けているわけである。

アブシャロムに組していた人々は、気勢を上げただろう。
特に、性的な冗談や嘲りは、世的な事柄に興味を持っている人々を、大いに盛り上がらせるものだ。

『そのころアヒトペルが授ける計りごとは人が神のみ告げを伺うようであった。アヒトペルの計りごとは皆ダビデにもアブサロムにも共にそのように思われた。』(2サムエル記16:23)
アヒトペルは、確かに天才的な計りごとをしたかもしれないが、あいにく彼は、神ではない。
彼の助言は、大いに人受けし、アブシャロムも、周りも盛り上がったかもしれない。
しかしあいにく、彼がした助言の内容は、律法に照らすなら、死に値する事だった。
『その父の妻と寝る者は、その父をはずかしめる者である。彼らはふたりとも必ず殺されなければならない。その血は彼らに帰するであろう。』(レビ20:11)

アヒトペルは「父の寝床にのぼる」という、主の前に死にあたる罪を、躊躇なくアブシャロムに勧め、そしてアブシャロムも、躊躇なくそれを行った。
結果的に、アヒトペルは後に自殺し、アブシャロムは木に吊るされた状態で殺されてしまう事になる。
アブシャロムの致命的な欠点は、神にではなく、神のような計りごとをする「人」に頼った事だった。

アブシャロムは若く美しく、人々の心を掴むカリスマ性もあり、性的な嘲りをして、彼の周囲は大いに盛り上がったかも知れない。人目には実に格好良く映ったろう。
対してダビデは、もはや若くなく、相手が攻めてくると、みっともなく逃げ、泣きながら落ち延びて行っている。実に、格好悪い。

しかし忘れてはならない。
アブシャロムは、主を敬う心はこれっぽっちも無いのに対し、ダビデは主にへの従順があり、嘲りや罵りさえ、主の故に甘んじて受けている。
そのような場合、全能の主が味方するのは、明らかにダビデの方だ、という事を。

いざという時に露わにされる人間の本質(2サムエル記16:1-14)
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ダビデというイスラエルの王が、この度、王座を追われ、都落ちして行く事によって、ダビデを取り巻いていた人々の色々な人間模様が浮き彫りにされて行く。

『ダビデが山の頂を過ぎて、すこし行った時、メピボセテのしもべヂバは、くらを置いた二頭のろばを引き、その上にパン二百個、干ぶどう百ふさ、夏のくだもの一百、ぶどう酒一袋を載せてきてダビデを迎えた。王はヂバに言った、「あなたはどうしてこれらのものを持ってきたのですか」。ヂバは答えた、「ろばは王の家族が乗るため、パンと夏のくだものは若者たちが食べるため、ぶどう酒は荒野で弱った者が飲むためです」。』(2サムエル記16:1-2)
ダビデにこれらの差し入れを持ってきたヂバという男は、9章にも登場した。
彼は元々、サウル家のしもべであり、ダビデからは、足が不自由なヨナタンの子メピボセテに仕えるようにされた者である。

『王は言った、「あなたの主人の子はどこにおるのですか」。ヂバは王に言った、「エルサレムにとどまっています。彼は、『イスラエルの家はきょう、わたしの父の国をわたしに返すであろう』と思ったのです」。王はヂバに言った、「見よ、メピボセテのものはことごとくあなたのものです」。ヂバは言った、「わたしは敬意を表します。わが主、王よ、あなたの前にいつまでも恵みを得させてください」。』(2サムエル記16:3-4)
ダビデ王はこの時、ヂバから言われた事を鵜呑みにして「メピボセテのものはことごとくあなたのもの」と定めたが、実はこの時ヂバのほうが偽りを言っていて、メピボセテのほうがダビデに対し真実だった事が、後に分かる。
ヂバは、後にダビデが勢力回復する事を踏んで、この危急の事態を利用し、のし上がろうとしたのだろう。

もう一人、都落ちしているダビデに、事を起こした者が、サウル王家の中にいた。

『ダビデ王がバホリムにきた時、サウルの家の一族の者がひとりそこから出てきた。その名をシメイといい、ゲラの子である。彼は出てきながら絶えずのろった。そして彼はダビデとダビデ王のもろもろの家来に向かって石を投げた。その時、民と勇士たちはみな王の左右にいた。
シメイはのろう時にこう言った、「血を流す人よ、よこしまな人よ、立ち去れ、立ち去れ。あなたが代って王となったサウルの家の血をすべて主があなたに報いられたのだ。主は王国をあなたの子アブサロムの手に渡された。見よ、あなたは血を流す人だから、災に会うのだ」。』(2サムエル記16:5-8)
ダビデはサウル家のシメイによって、「血を流す人」呼ばわりされ、主の御名によって呪われたが、ダビデのほうは、サウル王家の人の血は一人も流さなかったし、それどころかサウル王家から受けて来た悪に対し、いつも善で報いて来た実績がある。
だから「サウル家の血の報い」を受けるいわれは、ダビデのほうには一切無いはずである。

『時にゼルヤの子アビシャイは王に言った、「この死んだ犬がどうしてわが主、王をのろってよかろうか。わたしに、行って彼の首を取らせてください」。しかし王は言った、「ゼルヤの子たちよ、あなたがたと、なんのかかわりがあるのか。彼がのろうのは、主が彼に、『ダビデをのろえ』と言われたからであるならば、だれが、『あなたはどうしてこういうことをするのか』と言ってよいであろうか」。
ダビデはまたアビシャイと自分のすべての家来とに言った、「わたしの身から出たわが子がわたしの命を求めている。今、このベニヤミンびととしてはなおさらだ。彼を許してのろわせておきなさい。主が彼に命じられたのだ。』(2サムエル記16:9-11)

ダビデは今、自分が都を追われ、みじめに呪われながら落ちのびているこの状況は、「主が」そのようになされた、と言った。
きっとダビデは、「あなたは血を流す人だから、災に会うのだ」という言葉に、心を突かれたのだろう。
ダビデはサウル家の血は流しはしなかったものの、忠実で罪なき部下・ウリヤの血を流した事の故に、今、剣に追われている真っ最中なのだから。

実際、この時、ダビデはそれまで誰からも言われなかった事を、言われている。
すなわち、「あなたは血を流す人だから、災に会うのだ」と。
ダビデは、呪いの言葉と石を投げつけられるによって、今まさにウリヤの血の報いを「主から」受けている、そしてシメイは、その代弁者としてたまたま用いられているに過ぎない、と取ったのだろう。

私達も時に、過去に犯した悪事の報いを、主からの公平なるさばきによって、全く別の方面から受ける事があるかもしれない。
もちろん、悪魔サタンからの、ただ聖徒を貶めるだけの攻撃には毅然と立ち向かうべきである。
しかし、「主が」敢えて低くし、「主の御前に心当たりのある」事ゆえに懲らしめを受けているとするなら、私達もダビデのように謙虚にへりくだって、主からの懲らしめを受けるべきである。
その低くされている時期は、悲しいかもしれないが、その忍耐には望みがある。
ダビデは言っている。
『主はわたしの悩みを顧みてくださるかもしれない。また主はきょう彼ののろいにかえて、わたしに善を報いてくださるかも知れない。』(2サムエル記16:12)

主は、主から来る懲らしめを甘んじて受ける聖徒を、いつまでもそのまま放っておくようなお方ではない。
主はやがて助け、その屈辱的な状況の中にあっても恥を見させる事は無い。やがては主ご自身が立ち上がり、弁護者となって正しいさばきをして下さるのだ。
『わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、恥とつばきとを避けるために、顔をかくさなかった。しかし主なる神はわたしを助けられる。それゆえ、わたしは恥じることがなかった。それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。わたしは決してはずかしめられないことを知る。
わたしを義とする者が近くおられる。だれがわたしと争うだろうか、われわれは共に立とう。わたしのあだはだれか、わたしの所へ近くこさせよ。見よ、主なる神はわたしを助けられる。だれがわたしを罪に定めるだろうか。見よ、彼らは皆衣のようにふるび、しみのために食いつくされる。』(イザヤ50:6-9)

私達が一時期、低くされ、敵が高くされているその時、私達の本質と、周囲の人々の本質が、露わにされる。
ある人は状況を利用して自分だけがのし上がろうとしたり、あるいは普段はおとなしく何も発言しなかった人が突然立ち上がって呪いや石を投げかけて来たりする事もある。
あるいは、本当に大切にすべき友が明らかにされたりもする。
人は、主から高められる事も、低くされる事もあるが、逆風の時も順風の時も、そのどちらの状況であっても祝福される人とは、いつでも主に信頼する人だ。

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