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メッセージ - 1サムエル記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:立てた約束を簡単に破ってしまう人の性質(1サムエル記19:1-10):右クリックで保存

『サウルはその子ヨナタンおよびすべての家来たちにダビデを殺すようにと言った。しかしサウルの子ヨナタンは深くダビデを愛していた。』(1サムエル記19:1)
サウルは今まで、ダビデを殺したいという思いを内密にしていたが、おおっぴらにするようになった。
このままダビデを生かし、彼の活躍をゆるしていたら、サウル家の存続にかかわる、と、息子ヨナタンや家来たちに煽ったのだろう。
サウルには、主がダビデを通してイスラエルを御旨を為そうとしておられる事より、自分の王座、自分の名声が保たれる事のほうが大事だったのだ。

ヨナタンは、ダビデを主にある信仰の兄弟として愛していたので、父をなだめるための和解の行動に出る。
『ヨナタンは父サウルにダビデのことをほめて言った、「王よ、どうか家来ダビデに対して罪を犯さないでください。彼は、あなたに罪を犯さず、また彼のしたことは、あなたのためになることでした。』(1サムエル記19:4)
ヨナタンは、何の罪も犯していないダビデを殺すという「罪」を犯さないで下さい、と、サウルの霊的自尊心を突いた。
このような、霊的自尊心を突く言葉は、「どうかダビデを殺さないで」という嘆願を何十回するより、あるいは「どうしてそんな事するのか」、と責めなじる言葉よりも、はるかに効果がある。

『彼は命をかけて、あのペリシテびとを殺し、主はイスラエルの人々に大いなる勝利を与えられたのです。あなたはそれを見て喜ばれました。それであるのに、どうしてゆえなくダビデを殺し、罪なき者の血を流して罪を犯そうとされるのですか」。』(1サムエル記19:5)
続いて、ダビデがイスラエルに対して為した明白な良き実績と、そしてサウルがそれを喜んだ、という事実を思い出させた。
そう、ダビデは命がけで戦ったのだ。千人隊の長になった時も、千人の部下の誰より先陣を切って敵陣へ切り込んでいったから、多くの「年上の部下」も喜んで彼についていったのだ。

実に素晴らしい「執り成し」である。

『サウルはヨナタンの言葉を聞きいれた。そしてサウルは誓った、「主は生きておられる。わたしは決して彼を殺さない」。ヨナタンはダビデを呼んでこれらのことをみなダビデに告げた。そしてヨナタンがダビデをサウルのもとに連れてきたので、ダビデは、もとのようにサウルの前にいた。』(1サムエル記19:6-7)
こうしてヨナタンは、サウルから、「ダビデを決して殺さない」という誓いを引き出し、和解のつとめは大成功に終わった。
それなのにサウルは、主(エホバ)の名によって自分で立てた誓いを、早速破ってしまう。

『ところがまた戦争がおこって、ダビデは出てペリシテびとと戦い、大いに彼らを殺したので、彼らはその前から逃げ去った。さてサウルが家にいて手にやりを持ってすわっていた時、主から来る悪霊がサウルに臨んだので、ダビデは琴をひいていたが、サウルはそのやりをもってダビデを壁に刺し通そうとした。しかし彼はサウルの前に身をかわしたので、やりは壁につきささった。そしてダビデは逃げ去った。』(1サムエル記19:8-10)
せっかくヨナタンが建て上げた尊い和解のわざを、サウルはいとも簡単にひっくり返してしまった。
神と人との前で誓った誓いを、いともあっさり破ってしまう。めちゃくちゃだ、と思うかもしれないが、悪霊に憑かれている者の行動は、そのように、支離滅裂なものである。
主に属する人は、和解のつとめを無し、いのちを建て上げるが、サタンに属する者はそれを破壊し、尊いものを踏みにじるのが、仕事である。
『聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。』(マタイ7:6)

サウルは、どのタイミングで、主からの悪い霊が入ったか。それは、ダビデがペリシテとの戦いで、大活躍したタイミングだ。
つまり、サウルに再び「嫉妬」「恐れ」「怒り」が沸き起こり、それを「エサ」として悪霊がおびき寄せられ、その侵入をゆるしてしまったのだろう。
私達も、心に空隙を残したまま悪霊の好むエサを取り扱わずにいるなら、もっとたちの悪いもの七つが連れて来られ、以前よりもさらに悪い状態になってしまう。(マタイ12:45)

ダビデははっきりとサウルの元にはいれないと認識し、これ以来、ダビデのサウルからの逃亡生活が始まる。
私達もサウルのようにならないように、悪霊の好む汚れた性質は放置しておかず、それをイエスキリストの名によって支配して追い出し、追い出されて出来たその空隙は、御言葉と感謝と賛美で満たしていきたい。

礼拝説教メッセージ音声:ダビデを鍛える事に用いられたサウル(1サムエル記18:17-30):右クリックで保存

『その時サウルはダビデに言った、「わたしの長女メラブを、あなたに妻として与えよう。ただ、あなたはわたしのために勇ましく、主の戦いを戦いなさい」。サウルは「自分の手で彼を殺さないで、ペリシテびとの手で殺そう」と思ったからである。』(1サムエル記18:17)
サウルとしては、ダビデに「王の娘と結婚できる」という「褒美」をちらつかせて戦争に出させ、戦っている内に戦死させようと、目論んだのだろう。
サウルから二度も槍を投げつけられ、妬みの目で見られていたダビデには、彼のこの表面上きれいな言葉に、かなりの胡散臭さを感じたであろう。
しかし「王」という最高権威から言われる事については、どうしようもない。

『ダビデはサウルに言った、「わたしは何者なのでしょう。わたしの親族、わたしの父の一族はイスラエルのうちで何者なのでしょう。そのわたしが、どうして王のむこになることができましょう」。』(1サムエル記18:18)
ダビデには、知恵があった。そして、自分という立場をわきまえていた。
彼は「主が油を注がれた王」が、いかに尊いものかを、サウル本人よりもわきまえており、後に彼は自分を付け狙うサウルを、いとも簡単に殺せるチャンスが2度訪れるのだが、2度とも、主に油注がれた王を殺す事は出来ないと、決して手を降さなかった。

『しかしサウルの娘メラブは、ダビデにとつぐべき時になって、メホラびとアデリエルに妻として与えられた。』(1サムエル記18:19)
サウルは、ダビデが中々罠にかかってくれないので、あきらめて、娘を他の男に嫁がせたのかもしれない。
このようにサウルは、ダビデに勧めた事を土壇場でキャンセルしておきながら、すぐにまた別の企みをする。

『サウルの娘ミカルはダビデを愛した。人々がそれをサウルに告げたとき、サウルはその事を喜んだ。サウルは「ミカルを彼に与えて、彼を欺く手だてとし、ペリシテびとの手で彼を殺そう」と思ったので、サウルはふたたびダビデに言った、「あなたを、きょう、わたしのむこにします」。そしてサウルは家来たちに命じた、「ひそかにダビデに言いなさい、『王はあなたが気に入り、王の家来たちも皆あなたを愛しています。それゆえ王のむこになりなさい』」。』(1サムエル記18:20-22)
サウルが娘の気持ちを喜んだのは、娘の幸せを思ってではなく、ダビデを殺す道具に使える、と思ったからだ。
彼は元から上の娘・下の娘の幸せを全く考えておらず、むしろ、妬ましいダビデが死ぬなら、娘が未亡人になってもかまわないのだ。

『そこでサウルの家来たちはこの言葉をダビデの耳に語ったので、ダビデは言った、「わたしのような貧しく、卑しい者が、王のむこになることは、あなたがたには、たやすいことと思われますか」。サウルの家来たちはサウルに、「ダビデはこう言った」と告げた。』(1サムエル記18:23-24)
サウルは、今度は直接ではなく、兵士たちの口を用いて、間接的にダビデに勧めたが、彼はまたも辞退した。そのような身分ではない、と。
どんな条件を要求をされるのか分かったものではないし、また、自分をわきまえていたからだ。
しかし、サウルの側から、結婚のための条件が提示される。

『サウルは言った、「あなたがたはダビデにこう言いなさい、『王はなにも結納を望まれない。ただペリシテびとの陽の皮一百を獲て、王のあだを討つことを望まれる』」。これはサウルが、ダビデをペリシテびとの手によって倒そうと思ったからである。』(1サムエル記18:23-25)
陽の皮は、ユダヤ人が割礼の時に切り取られるべき部分である。
それを百枚、それも期限つきでそれを獲よ、とダビデを急かす事によって、ダビデは屈強なペリシテ人の手で殺されるだろう、とサウルは思ったのかもしれない。

しかし前章を見て分かる通り、ダビデにとって、割礼なきペリシテ人に勝利する事は、主にあって当然すぎる事だった。
『サウルの家来たちが、この言葉をダビデに告げた時、ダビデは王のむこになることを良しとした。そして定めた日がまだこないうちに、ダビデは従者をつれて、立って行き、ペリシテびと二百人を殺して、その陽の皮を携え帰り、王のむこになるために、それをことごとく王にささげた。そこでサウルは娘ミカルを彼に妻として与えた。』(1サムエル記18:26
ここまであざやかに条件を達成されてしまっては、何も文句は言えない。
サウルは一度、既に約束を破っている。
そして今回は、サウル自ら兵たちに噂を流させ、公に意図を伝えたのだから、人目を恐るサウルとしては、自分が約束した事を果たさざるをえない。

『しかしサウルは見て、主がダビデと共におられること、またイスラエルのすべての人がダビデを愛するのを知った時、サウルは、ますますダビデを恐れた。こうしてサウルは絶えずダビデに敵した。さてペリシテびとの君たちが攻めてきたが、ダビデは、彼らが攻めてくるごとに、サウルのどの家来よりも多くのてがらを立てたので、その名はひじょうに尊敬された。』(1サムエル記18:28-30)
主は、主を愛する者を守り、その敵の企み通りにはなさらないのだ。

詩篇を読むと、サウルに関連した悩みがたくさん出てくるのが分かるが、その都度、ダビデは主に助けを求め、主から慰めを受け、主にあって奮い立ち、主から力を得ており、ダビデとしては、このサウルから学んだ事が非常に多い。
主は、サウルを用いてダビデを鍛えたのだ。
私達も、どうしてこんな人が目の前にいるのだろう、いなくなって欲しい、と思うような人がいるかもしれない。
しかしそのような時でも主に助けを求め、主を拠り所とするなら、主はやがてその人を高く挙げて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:罪を制さぬ者は悪霊に制せられる(1サムエル記18:1-16):右クリックで保存

『ダビデがサウルに語り終えた時、ヨナタンの心はダビデの心に結びつき、ヨナタンは自分の命のようにダビデを愛した。この日、サウルはダビデを召しかかえて、父の家に帰らせなかった。ヨナタンとダビデとは契約を結んだ。ヨナタンが自分の命のようにダビデを愛したからである。ヨナタンは自分が着ていた上着を脱いでダビデに与えた。また、そのいくさ衣、およびつるぎも弓も帯も、そのようにした。』(1サムエル記18:1-4)

主にある信仰者は、信仰者の、信仰ある行動に惹きつけられて互いに意気投合し、血の繋がった実の兄弟姉妹以上の親しさを覚えるものである。キリスト者とは、そういうものだ。
教会は「キリストのからだ」で、同じキリストのいのちを共有しており、一つが尊ばれれば共に喜び、一つが傷つけば共に痛む。故に、教会では互いを「兄弟」「姉妹」と呼び合うのだ。(1コリント12章)
ダビデの名は「愛されし者」だが、彼はヨナタンから愛されただけでなく、サウルの家来たちからも愛された。

『ダビデはどこでもサウルがつかわす所に出て行って、てがらを立てたので、サウルは彼を兵の隊長とした。それはすべての民の心にかない、またサウルの家来たちの心にもかなった。』(1サムエル記18:5)
ダビデはとても若いはずなのに、兵の隊長へと大抜擢された。
上司がかなり年下だと、うまく関係が築けなくなりやすいものだが、ダビデの場合、そうではなかった。
なぜなら彼は、戦いにおいて、いつも先頭に立って戦っていたからである。(13,16節)
彼が千人隊の長になっても、千人の部下より、誰よりも先んじて出て行き、いつも圧倒的な実績を収めていた。
だから誰もが認め、誰もが彼に安心してついて行けたのだ。

このように人々から愛され、人気者になると、妬む者も現れる。
彼を妬んだのは、イスラエルの王・サウルだった。
『人々が引き揚げてきた時、すなわちダビデが、かのペリシテびとを殺して帰った時、女たちはイスラエルの町々から出てきて、手鼓と祝い歌と三糸の琴をもって、歌いつ舞いつ、サウル王を迎えた。女たちは踊りながら互に歌いかわした、/「サウルは千を撃ち殺し、/ダビデは万を撃ち殺した」。サウルは、ひじょうに怒り、この言葉に気を悪くして言った、「ダビデには万と言い、わたしには千と言う。この上、彼に与えるものは、国のほかないではないか」。サウルは、この日からのちダビデをうかがった。』(1サムエル記18:6-9)

サウルが、ダビデを見る目が変わってしまったきっかけは、女性たちの、ダビデを褒めたたえる歌だった。
サウルは身長が高く、美男子だったので、ペリシテとの戦いで勝利する度に、女性達からの声援も、たくさん受けた事だろう。
しかしこの度、サウルよりもダビデのほうに、より大きな評価が集まっているという事で、彼を憎んだ。
妬み、怒り、独占欲、そうした悪い心を、取り扱わないまま放置しているなら、悪魔サタンにエサを蒔いて「来てください」と言っているようなものである。

『次の日、神から来る悪霊がサウルにはげしく臨んで、サウルが家の中で「狂いわめいた(ナーバー:預言した)」ので、ダビデは、いつものように、手で琴をひいた。その時、サウルの手にやりがあったので、サウルは「ダビデを壁に刺し通そう」と思って、そのやりをふり上げた。しかしダビデは二度身をかわしてサウルを避けた。』(1サムエル記18:10-11)
サウルは、悪い霊が激しく望んで「預言した」。ここで分かるように、預言すれば何でも良いというものではない。
預言できる人が、必ずしも、霊的に正しいとは限らないため、その、預言をさせている霊を確かめるべきだ。
御霊の実には、妬みや嫉妬、怒り、独占欲、殺意なぞ、無い。もし、皆さんの周りに霊的な人、預言の人、奇跡をする人がいて、ガラテヤ5:19-21でリストアップされているような、死に属する行動を取るなら、すみやかに離れたほうが良い。

戸口で待ち伏せている罪を治める事をせず、放置しているなら、さらに悪い事になり、さらに罪を犯す事になってしまう。
『日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。』(創世記4:3-7)

カインもサウルも、自分より下の者が、神様から愛され認められる事で、妬みを起こし、殺人の行動を取った。
主はなぜアベルを認め、またダビデを認めたのか。
それは、彼らが主を愛し、主に優れたものを捧げたからであって、彼らは別に誰かに認められたいとか、昇進したいとかいう下心は、一切なかった。

ダビデはますます手柄を立て、ますます人々から愛され、その事は、サウルをますます恐れた。
妬み、嫉妬、殺意、恐れ。それは皆、ガラテヤ5:19-21に記されている、肉の実である。

私達は、罪が戸口で慕っていると感じた時、それを主イエスの名によって、とりこにし、治めるべきだ。
それをしないなら、殺意が芽生え、それを放置する、あるいは殺意を思い巡らしていくなら、実際に、殺しをするのである。
『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは、願い求めないからで、願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。』(ヤコブ4:1-3)

私達は決して肉の欲望を満足させず、御霊にあって歩み、御霊の実である愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を豊かに結ばせる者でありたい。(ガラテヤ5:22-23)

礼拝説教メッセージ音声:ゴリヤテを討ち取ったダビデ(1サムエル記17:48-58):右クリックで保存

『そのペリシテびとが立ち上がり、近づいてきてダビデに立ち向かったので、ダビデは急ぎ戦線に走り出て、ペリシテびとに立ち向かった。』(1サムエル記17:48)

ダビデとゴリヤテの、一騎打ちの火蓋が切って落とされた。
と言っても、体格差は倍以上、ダビデは装備らしきものを一切身に付けていない少年である。
人々には、一騎打ちというより、一方的な殺戮ゲームとして見えただろうし、ペリシテ人たちもゴリヤテに便乗して野次っていただろう。
しかし、戦いは一瞬で片がついた。

『ダビデは手を袋に入れて、その中から一つの石を取り、石投げで投げて、ペリシテびとの額を撃ったので、石はその額に突き入り、うつむきに地に倒れた。』(1サムエル記17:49)ダビデは最初の一投目でゴリヤテの急所、こめかみに石をめり込ませ、ゴリヤテは倒れた。
野次っていたペリシテ人達は、一瞬何が起こったのか分からず、凍りついただろう。

『こうしてダビデは石投げと石をもってペリシテびとに勝ち、ペリシテびとを撃って、これを殺した。ダビデの手につるぎがなかったので、ダビデは走りよってペリシテびとの上に乗り、そのつるぎを取って、さやから抜きはなし、それをもって彼を殺し、その首をはねた。』(1サムエル記17:50-51)
人の目には、ゴリヤテの一方的な殺戮ゲームに見えたかもしれないが、全く逆だった。
ダビデは、群衆が状況を把握する間も与えず、ゴリヤテにとどめを刺した。

私達も、状況が少し改善したのに満足して、それで手を休めてはならない。
私達の内の、滅ぼし尽くすべき性質は徹底的に根絶し、やり遂げるべき事は最後までやり遂げなくては、後々、やっかいな事になってしまう。

『ペリシテの人々は、その勇士が死んだのを見て逃げた。イスラエルとユダの人々は立ちあがり、ときをあげて、ペリシテびとを追撃し、ガテおよびエクロンの門にまで及んだ。そのためペリシテびとの負傷者は、シャライムからガテおよびエクロンに行く道の上に倒れた。イスラエルの人々はペリシテびとの追撃を終えて帰り、その陣営を略奪した。ダビデは、あのペリシテびとの首を取ってエルサレムへ持って行ったが、その武器は自分の天幕に置いた。』(1サムエル記17:51-54)
イスラエル人達は、ゴリヤテの言う通りにペリシテ人を奴隷としたのではなく、ダビデが宣言した通りに、ペリシテの軍勢を撃ち殺した。
ダビデは戦いの前、『きょう、主は、おまえをわたしの手にわたされるであろう。わたしは、おまえを撃って、首をはね、ペリシテびとの軍勢の死かばねを、きょう、空の鳥、地の野獣のえじきにし、イスラエルに、神がおられることを全地に知らせよう。』(46節)と言っていたが、まったくその通りになり、こうして全集団は、イスラエルに神がおられるという事を思い知った。

イエス様も、福音書で何度も言っている。
「あなたが信じたとおりになれ」と。

『サウルはダビデがあのペリシテびとに向かって出ていくのを見て、軍の長アブネルに言った、「アブネルよ、この若者はだれの子か」。アブネルは言った、「王よ、あなたのいのちにかけて誓います。わたしは知らないのです」。王は言った、「この若者がだれの子か、尋ねてみよ」。』(1サムエル記17:55-56)
サウルは前章で、二度も、ダビデの父・エッサイに人を遣わしているのに、ダビデが誰の子かを忘れている。
しかも「この若者は」と聞いていた所を見ると、ダビデの名前すら、忘れていたのかもしれない。

サウルが悪い霊に悩まされる度に、ダビデの竪琴で癒やされていた、というのに、その癒してくれた人の名前も忘れてしまう。
このような、感謝するべき事はすぐ忘れ、それでいて人を攻撃する材料はすぐ見つけるような者は、同じ過ちを何度も繰り返し、災いが絶えない。

この出来事で、イスラエルの子供たちに、自分もダビデに続けと石投げのコントロールを鍛えるブームが起こったかどうかは、分からないが、石投げのコントロールなどを鍛えるより、神に愛される品性をこそ、鍛えるべきなのだ。
『からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。』(1テモテ4:8)
ダビデは、羊飼いとしての日常の内に、御言葉に聞き従う事と、主に信頼する信仰が培われた。
だから、まだ誰からも見向きもされない時期から、主に目を留められ、油注がれ、羊達をライオンや熊から守り、そして、弱冠にしてイスラエルをゴリヤテから守ったのだ。
私達もダビデのように、日々、遣わされている仕事場や家庭、その先々で、主と主のことばに忠実に仕え、守るべき羊達を守るべきだ。

礼拝説教メッセージ音声:ダビデ対ゴリヤテの戦いから、万軍の主対偶像の神へのシフト(1サムエル記17:41-47):右クリックで保存

イスラエルの陣は、四十日も、無割礼の大男ゴリヤテになぶられっぱなしだったが、ようやく、ゴリヤテの前に立つ者が現れた。

その者は、屈強な戦士の出立ちではなく、羊飼いのなりをした紅顔の少年・ダビデだった。
彼は、剣や鎧など武具は一切帯びず、ただ羊飼いの道具である杖と石投げをもって、ゴリヤテの前に立った。
ゴリヤテとしては、一騎打ちの相手がようやく来たか、と思いきや、現れた相手がこのような出立ちだったので、かなり拍子抜けだったろう。
『そのペリシテびとは進んできてダビデに近づいた。そのたてを執る者が彼の前にいた。ペリシテびとは見まわしてダビデを見、これを侮った。まだ若くて血色がよく、姿が美しかったからである。』(1サムエル記17:41-42)

世間は、さげすみの口が達者な人ほど、人々の注目を集めたり、世をうまく渡り合って行けるような所もあるが、蔑みや糾弾、罵りは、サタンに属するものである。
神の国の事柄は、言葉巧みさによらず、蔑みや罵倒の巧みさにもよらず、真理によって勝利するものである。
『ペリシテびとはダビデに言った、「つえを持って、向かってくるが、わたしは犬なのか」。ペリシテびとは、また神々の名によってダビデをのろった。ペリシテびとはダビデに言った、「さあ、向かってこい。おまえの肉を、空の鳥、野の獣のえじきにしてくれよう」。』(1サムエル記17:43-44)

彼が宣言したペリシテの神々は、何物であるか。
頭が魚、体が人間の偶像・ダゴンで、イスラエルの神の箱を前に、頭と胴体を切り離されてしまった、あの、無能な偶像の神である。(5章)
ゴリヤテはそのダゴンの名によって、イスラエルの万軍の主を信頼するダビデを呪った。ここだけを見ても、真理の立場ではもはやダビデの勝利は確定しているではないか。
世の戦いは、剣や槍の巧みさ、装備の良さによって勝利するものだが、霊的な戦いは、背後におられる主にあって、勝利するものだ。

『ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。・・・またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。』(1サムエル記17:45-47)
ダビデはこの戦いを「神の戦い」とし、イスラエルの万軍の主と、ダゴンとの戦いとして宣言した。
キリスト者の、世とサタンに対する戦いも、同じである。
キリスト者は、肉体の鍛錬で強くなって戦うものではなく、勝利の主であるキリストに、ただ乗っかって、キリストが為して下さった勝利のおこぼれに与かるものである。
キリスト者は、「キリストのふんどしで相撲を取る者」虎の威を借る狐ならぬ「キリストの威を借る者」なのだ。

厳しい現実という「ゴリヤテ」が私達に対し迫って来る時、信仰を込めた御言葉をその現実というゴリヤテに当てはまるなら、その戦いは、私達対ゴリヤテから、主キリスト対ゴリヤテの戦いへとシフトする。
私達に、病や痛みという現実が迫り来るなら、「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」というイザヤ53章の御言葉によって、病を、キリストの十字架へ乗せるのである。
主を知らないままに犯してしまった罪の責苦が来るなら、次の御言葉を宣言し、その責める者を、逆に責めるのだ。
『だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。』(ローマ8:33-34)

『だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。』(ローマ8:35-38)
この世界は、呪いと悲しみに満ちているが、全被造物は、神の子達が御言葉を信仰をもって宣言する事によって、死をいのちで飲み込み、呪いを祝福に塗り替える事を、切に待ち望んでいる。(ローマ8:19-23)

いかなる死も、呪いも、その他、サタンに属するあらゆるものも、私達の主イエス・キリストが十字架上で処罰し、釘付けにし、さらしものにしたのだ。
皆さんの前には、どんなゴリヤテが立っているだろうか。
ゴリヤテの拠り所とする神・ダゴンは、主によって頭と胴体が切り離されたのと同じように、悪魔に属する者が拠り所とするあらゆる力、知恵、装備、悪賢い方法、そして死、呪いは、私達の主イエス・キリストが処罰し、釘付けにし、さらしものにされた。
私達もダビデのように信仰をもって宣言し、その通りに行動する時、ゴリヤテの頭と胴体が実際に切り離されたように、悪魔サタンに属するものは踏みにじられ、粉々に砕かれるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:サウルの剣を不採用し、川の石を採用したダビデ(1サムエル記17:31-40):右クリックで保存

ダビデは「この生ける神の陣をなぶる割礼なき者は何者なのか」「この者を殺してイスラエルの恥をすすぐ人には、どうされるのか」などと、色々な人に聞いて回ったので、イスラエルの陣営の中でかなり目立ったのだろう、サウルに告げる者があったので、サウルはダビデを呼び寄せた。(1サムエル記17:31)

『ダビデはサウルに言った「だれも彼のゆえに気を落してはなりません。しもべが行ってあのペリシテびとと戦いましょう」。サウルはダビデに言った、「行って、あのペリシテびとと戦うことはできない。あなたは年少だが、彼は若い時からの軍人だからです」。』(1サムエル記17:32)

サウルは、紅顔の少年が、自分も相手もわきまえず、根拠の無い全能感に駆られた大ごとを言っている、くらいに思ったかもしれない。
しかしダビデには、根拠があったのだ。
『しかしダビデはサウルに言った、「しもべは父の羊を飼っていたのですが、しし、あるいはくまがきて、群れの小羊を取った時、わたしはそのあとを追って、これを撃ち、小羊をその口から救いだしました。その獣がわたしにとびかかってきた時は、ひげをつかまえて、それを撃ち殺しました。』(1サムエル記17:34-35)

なんと少年ダビデは、ライオンや熊を撃ち殺した、というのだ。
大きな口をたたく少年が、また一つ、大きなほらを吹いた、と、何となく思ったりしていないだろうか。
いや、実際にライオンや熊を殺したのだ。
彼は油注がれた時、主の霊が激しく降り、サムソンのように、主の守りと力が与えられたのだろう。
彼をサウルに推した者も言っている。彼には主が共におられ、勇士で、戦士であり、体格も良かった、と。(16:18)

『しもべはすでに、ししと、くまを殺しました。この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだのですから、あの獣の一頭のようになるでしょう」。ダビデはまた言った、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主は、またわたしを、このペリシテびとの手から救い出されるでしょう」。サウルはダビデに言った、「行きなさい。どうぞ主があなたと共におられるように」。』(1サムエル記17:36-37)
彼が羊飼いの仕事、すなわち誰も見向きもせず、数にも数えられない下っ端の仕事をしている時、こんな汚くつまらない下っ端仕事を、と、ばかにしたりせず、しっかり羊を見張り、時には、命の危険を賭してライオンや熊と戦って羊を守り、戦士として、そしてイスラエルという囲いの羊飼いとして、鍛えられていったのだ。

彼は、「ししのつめ、くまのつめからわたしを救い出された主」と言っている。
自分には、獅子や熊を殺す力があるぞ、ではなく、自分をその獣から救い、羊を救い出させて下さったのは、主であると、はっきり認知している。

そして彼は、ゴリヤテを必ず打ち負かせるという、確たる自信を持っていた。
その根拠は、あの者は、生ける神の軍に戦いを挑んだ、すなわち、生ける神にケンカをふっかけたのだから、戦って下さるのは主であり、ゴリヤテにはもう勝ち目は無い、というものだ。
サウルや周りの大人達は、この少年は、「自分と相手の力量差」もわきまえず、ただ全能感に駆られて、大風呂敷を広げている、と思ったかもしれない。
しかし実は、ダビデこそ誰よりもわきまえていたのだ。「自分達の内にいます主と、相手との力量差」を。そしてサウル達のほうこそ、わきまえていなかったのだ。

『そしてサウルは自分のいくさ衣をダビデに着せ、青銅のかぶとを、その頭にかぶらせ、また、うろことじのよろいを身にまとわせた。ダビデは、いくさ衣の上に、つるぎを帯びて行こうとしたが、できなかった。それに慣れていなかったからである。そこでダビデはサウルに言った、「わたしはこれらのものを着けていくことはできません。慣れていないからです」。』(1サムエル記17:38-39)
サウルは常識的に、この戦いは剣や鎧を用いるものだと思って、彼によろいとかぶと、剣を帯びさせた。
しかしダビデは、それが慣れていないものだと分かると、それが王のものであろうと、躊躇なく脱ぎ捨て、自分に馴染んだものを取り出した。

神の国の戦いは、世の手段や常識に従わせようとすると、合わないのだ。そして、是全身動き出来なくなるものである。
このように、世の常識や手段を守らなくては、という思いに縛られて、身動き出来なくなっている神の国の働き人が、いかに多いだろうか。

『ダビデはそれらを脱ぎすて、手につえをとり、谷間からなめらかな石五個を選びとって自分の持っている羊飼の袋に入れ、手に石投げを執って、あのペリシテびとに近づいた。』(1サムエル記17:40)
ダビデは、サウルの鎧や剣は不採用し、採用したのは、川から取ってきた、なめらかな石だった。
主に用いられるものとは、川のなめらかな石のように、水の中に浸しこまれ、流れの中で、でこぼこが取れたものである。(イザヤ40:3-5)
私達も、御言葉の水の中に浸しこまれ(バプテスマされ)、山のように高ぶっている所は低くされ、谷のように卑屈になっている所も埋められ、そうして整えられてこそ、神に用いられる「生ける石」となるのである。

礼拝説教メッセージ音声:聖なる憤り(1サムエル記17:17-30):右クリックで保存

『ダビデは荷物をおろして、荷物を守る者にあずけ、戦列の方へ走って、兄たちの所へ行き、彼らの安否を尋ねた。兄たちと語っている時、ペリシテびとの戦列から、ガテのペリシテびとで、名をゴリアテという、あの戦いをいどむ者が上ってきて、前と同じ言葉を言ったので、ダビデはそれを聞いた。イスラエルのすべての人は、その人を見て、避けて逃げ、ひじょうに恐れた。』(1サムエル記17:22-24)


ダビデは、かのペリシテ人を見、その言葉を聞いた。
イスラエルの男子たちはゴリヤテを見ると上から下まで恐れ、四十日もなぶられっぱなしであったが、ダビデは違った。
彼がゴリヤテを見、その言葉を聞いた時、沸き起こってきたものは恐れではなく、憤りであった。

聖なる憤りというものがある。
祭司ピネハスは、悔い改めの集会をして罪を嘆くべき時、異邦の女を連れ込んでみだらな事をしていた者を、槍で刺し通し、主の憤りを自分のものとした。(民数記25章)
そしてイエス様も、神の宮で不法がはびこっているのを見た時、聖なる憤りに満たされ、それをしている者達を追い出した。

『イスラエルの人々はまた言った、「あなたがたは、あの上ってきた人を見たか。確かにイスラエルにいどむために上ってきたのだ。彼を殺す人は、王が大いなる富を与えて富ませ、その娘を与え、その父の家にはイスラエルのうちで税を免れさせるであろう」。
ダビデはかたわらに立っている人々に言った、「このペリシテびとを殺し、イスラエルの恥をすすぐ人には、どうされるのですか。この割礼なきペリシテびとは何者なので、生ける神の軍をいどむのか」。民は前と同じように、「彼を殺す人にはこうされるであろう」と答えた。』(1サムエル記17:25-27)

サウル達は、ゴリヤテの外見と言葉を恐れ、四十日も右往左往していたが、ダビデは、ゴリヤテの外見は一切言及せず、彼を「割礼なき者」とし、自分たちを「生ける神の陣」として、「真理の立場」を表明した。
私達も、偽りや割礼無き世のものが、大げさな成りをして迫って来て、真理にモノ申して来る時、「真理」である御言葉を、信仰を混ぜ込んで宣言すべきである。
私達神の民が、真理を宣言するか、それとも偽りの言葉に従うか。それによって、現実世界も霊的世界も動くのだ。

神の陣とは、いかなるものか。
それは聖なるもの、聖なるお方が歩まれる場所であり、きよく保たなければならない所である。。
『あなたの神、主があなたを救い、敵をあなたにわたそうと、陣営の中を歩まれるからである。ゆえに陣営は聖なる所として保たなければならない。主があなたのうちにきたない物のあるのを見て、離れ去られることのないためである。』(申命記23:14)

敬虔なイスラエル人は、子供が幼い時から、律法教育を施しているので、ダビデも「生ける神の陣」はきよく保たなければならないと、教えられていただろう。
それなのに、大人達はそれを信じておらず、主が歩まれる聖なる陣営を、無割礼の者に四十日も好き放題言わせていた事についても、憤りを覚えた事だろう。

『上の兄エリアブはダビデが人々と語るのを聞いて、ダビデに向かい怒りを発して言った、「なんのために下ってきたのか。野にいるわずかの羊はだれに託したのか。あなたのわがままと悪い心はわかっている。戦いを見るために下ってきたのだ」。』(1サムエル記17:28-30)
今度は、長男エリアブが、年の離れた末っ子・ダビデを、責めて来た。
年長者の身内が、信仰をくじくような事を言って来る時、結構、折れやすかったりする。
自分達は、あのゴリヤテを四十日もどうする事も出来なかったのだ、野次馬根性丸出しで出て来たばかりのお前が、割礼無き者だとか、生ける神の陣だとか、信仰を語るな、おまえはひっこんで羊でも飼っていろ、と。

しかしダビデは、それにも動じなかった。
生ける神の陣がなぶられたまま置かれる事は、たとえ長男に戒められたとしても、放っておけなかったのだ。
『ダビデは言った、「わたしが今、何をしたというのですか。ただひと言いっただけではありませんか」。またふり向いて、ほかの人に前のように語ったところ、民はまた同じように答えた。』(1サムエル記17:29-30)

聖なるお方が宿るべき所を、割礼無き世の者が大上段にふるまって、不当に汚しているのを見る時、私達も大いに憤るべきだ。
教会は、主が宿られる所である。キリストの体だからだ。
聖徒の交わりも、主が宿られるものである。二人でも三人でもキリストの名の元に集まるなら、そこに主がおられるからだ。
賛美も、主が宿られるものである。イスラエルの神は、賛美を住まいとされるからだ。
そして、私達・キリスト者の体も、聖なるものである。私達のからだは聖霊の宮であって、もはや自分自身のものではないからだ。
これらが無割礼の者によって踏みにじられる時、私達もダビデのように聖なる憤りをもって、真理を宣言し、主イエス・キリストの名によって対決すべきである。

礼拝説教メッセージ音声:強者になぶりものにされる人の性質(1サムエル記17:1-16):右クリックで保存

『さてペリシテびとは、軍を集めて戦おうとし、ユダに属するソコに集まって、ソコとアゼカの間にあるエペス・ダミムに陣取った。サウルとイスラエルの人々は集まってエラの谷に陣取り、ペリシテびとに対して戦列をしいた。ペリシテびとは向こうの山の上に立ち、イスラエルはこちらの山の上に立った。その間に谷があった。』(1サムエル記17:1)


この17章には、イスラエルの羊飼いの少年・ダビデが、ペリシテの巨人戦士・ゴリヤテを討ち取った、あの有名な戦いが記録されている。
『時に、ペリシテびとの陣から、ガテのゴリアテという名の、戦いをいどむ者が出てきた。身のたけは六キュビト半。頭には青銅のかぶとを頂き、身には、うろことじのよろいを着ていた。そのよろいは青銅で重さ五千シケル。また足には青銅のすね当を着け、肩には青銅の投げやりを背負っていた。手に持っているやりの柄は、機の巻棒のようであり、やりの穂の鉄は六百シケルであった。彼の前には、盾を執る者が進んだ。』(1サムエル記17:4-7)
彼の背の高さは286cmもあり、150cmの女性2人が肩車したくらいの背丈になるだろう。
身に帯びている鎧の重さは、57キロ、中高校生一人分を身にまとっているようなものである。

彼は、ガテ出身と記されている。
ゴリヤテのような巨人の一族「アナクの子孫」は、ヨシュアの時代、イスラエルの戦士達によってほぼ根絶されたのだが、ガテの他、ペリシテの領地には若干、生き残りを残してしまった事が記されている。(ヨシュア記11:22)

この、アナクの子孫はかつて、イスラエルにとって罠となった。
ヨシュアの一世代前のイスラエルは、アナク人の大きさや、装備のすごさを見て、恐れをなした。しかし主は、必ず勝利できるという事を、様々のしるしをもって示された。
それなのにイスラエルはそれを信じず、かえって、信仰によって進み出ようというヨシュアやカレブ、モーセやアロンを、石で撃ち殺そうと言い出した。
それ故、彼らは荒野で四十年の生活を強いられ、不信仰の世代は誰一人、約束の地に入る事ができなかった。(民数記13章、申命記1章)

『あのペリシテびとは四十日の間、朝夕出てきて、彼らの前に立った。』(1サムエル記17:16)
サウルの時代も過去同様、アナク人を恐れるという「罠」に陥り、四十という日々の間、信仰者ダビデが来るまで、屈辱の日々を送らされる事になる。

『ゴリアテは立ってイスラエルの戦列に向かって叫んだ、「なにゆえ戦列をつくって出てきたのか。わたしはペリシテびと、おまえたちはサウルの家来ではないか。おまえたちから、ひとりを選んで、わたしのところへ下ってこさせよ。もしその人が戦ってわたしを殺すことができたら、われわれはおまえたちの家来となる。しかしわたしが勝ってその人を殺したら、おまえたちは、われわれの家来になって仕えなければならない」。』(1サムエル記17:8-9)
彼の言葉には、当然の事ながら、神である主の事は、一切無い。
ただ大上段から、一方的に、彼か勝手に決めたルールを押しつけているだけである。

『またこのペリシテびとは言った、「わたしは、きょうイスラエルの戦列にいどむ。ひとりを出して、わたしと戦わせよ」。サウルとイスラエルのすべての人は、ペリシテびとのこの言葉を聞いて驚き、ひじょうに恐れた。』(1サムエル記17:10-11)
このような、神である主を敬う事が一切無い、世の、力強き者の言葉を鵜呑みにするなら、意気消沈し、ただなぶりものにされる日々を送るのみである。

私達は、目の前に立ちはだかる諸々の「敵」、すなわち、「現実」や「世情」などといった「ゴリヤテ」の巨大さや、力強そうな有り様を見て、恐れ、その者の突きつけてくる言葉を鵜呑みにして、意気消沈してないだろうか。
この、主を知らぬ無割礼の者が勝手に発信して来る諸々の事どもに、なぶりものにされていないだろうか。

ゴリヤテは「お前達はサウルの奴隷ではないか」と言っているが、本来、イスラエルの陣の戦士たちは、万軍の主が味方する無敵の戦士たちであるはずである。
なのに、皆、ゴリヤテの言葉を「ああそうだ」と信じて、神のしもべではなく、サウルのしもべであると鵜呑みにしてしまっている。

ゴリヤテがイスラエルの民を「サウルのしもべ」とレッテルを張ってきたように、世に流れている無割礼の流行(アイオーン)は、現実社会やメディアを通じて、レッテルを張ってくる。
「おまえ達は何々会社の奴隷ではないか、社会システムの奴隷ではないか、おまえは、あれにもこれにも勝利して、こうならないなら、お前たちの未来は無い」などと。

これらの、万軍の主への言及が一切無い、無割礼の言葉が、私達に「奴隷」である事を押し付けてくる時、私達は、真理の御言葉を、信仰を混ぜて宣言し、対抗すべきである。
自分は今、キリストと共に生かされ、共によみがえらされ、共に天上で座につかされた者達である、もはや今、私はキリストにあって、世の流行や、ゴリヤテの投げてくる言葉とは、一切関わりの無い者である、と。

『あなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世の「ならわし(流行:アイオーン)」に従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである―― キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。』(エペソ2:1-6)

ひるがえって、このゴリヤテを倒したダビデは、どんな人であったか。
『さて、ダビデはユダのベツレヘムにいたエフラタびとエッサイという名の人の子で、この人に八人の子があったが、サウルの世には年が進んで、すでに年老いていた。エッサイの子らのうち、上の三人はサウルに従って戦争に出た。その戦いに出た三人の子の名は、長子をエリアブといい、次をアビナダブといい、第三をシャンマと言った。ダビデは末の子であって、兄三人はサウルにしたがった。ダビデはサウルの所から行ったりきたりして、ベツレヘムで父の羊を飼っていた。』(1サムエル記17:12-15)

イスラエルが兵役につく事が出来るのは、20歳以上なので(民数記1:3)、その下にさらに兄が4人いた、という事は、ダビデは少なくとも15歳より下だっただろう。
ゴリヤテは、ダビデの体重より重い鎧を身につけていたのだろうし、体のサイズは、ダビデの何倍はあっただろう。
フライ級(49kg程)とヘビー級(90kg程)が戦うより、遥かに差がある戦いだ。

ダビデは羊を飼っていたが、羊飼いは、下っ端仕事の筆頭で、イエス様の時代も羊飼いは住民登録にも呼ばれなかったほどだ。
ダビデも、サムエルの食卓に招かれなかった程軽んじられていた。
ゴリヤテと見比べるに、いかに差があっただろう。
しかしすぐ後、そのダビデが、ゴリヤテを討ち取るのだ。
いかにつまらない存在として、世から見放されていたとしても、勝利の主が共におられるなら、イスラエルの誰もが恐れたゴリヤテさえ、たやすく倒されるのである。

主は弱いものを、あえて用いられる。
それはただ、主が栄光をお受けになり、人間的な強さを頼りとする人をはずかしめるためだ。
『兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。』(1コリント1:26-31)

主は、弱いものを用いられる。キリスト教会ではよく聞く、聞こえのいい言葉だ。
しかし主に信頼せず「現実」というゴリヤテを見て、意気消沈する人は、「ただの弱い人」終わりであり、サウルと家来達のように40という数字の間、なぶりものにされ、虐げられるのみである。
しかし、ヨシュアやダビデのように、万軍の主を頼みとするなら、主が戦って下さり、勝利するのだ。

礼拝説教メッセージ音声:音楽と霊の世界との関係(1サムエル記16:14-23):右クリックで保存

サウルは、人目を恐れる性質を取り扱わず、野放しにしたため、自分の王位が奪われそうであるならば、サムエルさえ殺しかねないような邪悪な性質を培ってしまった。

私達も、罪が戸口で慕っている時、それを主にあって取り扱わないなら、もっとに悪い事になってしまう。

『さて主の霊はサウルを離れ、主から来る悪霊が彼を悩ました。』(1サムエル記16:14)
主が悪い霊を送られる、という事は、ある。
イスラエル最悪の王・アハブは、主から送られた偽りを言う霊によって戦いに出させ、それによって、彼は滅んだ。(1列王記22章)

主から悪い霊が送られる者に共通する事は、神から遣わされた預言者を何度も退け、自分の好む事を言ってくれる人を周りにはべらし、それにうつつを抜かして、健全な御言葉に耳を傾けない事だ。
『彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。』(2テモテ2:10-12)

主に良くしていただいたのに、健全な御言葉を受け入れず、思いを無防備に放置して置くなら、もっと性質の悪い霊どもが入ってしまい、その人の状態は前よりも一層悪くなってしまうのだ。(マタイ12:45)
だから、主に清めていただいて、心に、あるいは時間にゆとりが出来た時、その「隙間」は健全な御言葉や賛美で満たしておくべきだ。
さもないと、変な霊がふらっと入って来て、以前の状態どころか、もっと悪い状態へと陥ってしまうのだ。

『サウルの家来たちは彼に言った、「ごらんなさい。神から来る悪霊があなたを悩ましているのです。どうぞ、われわれの主君が、あなたの前に仕えている家来たちに命じて、じょうずに琴をひく者ひとりを捜させてください。神から来る悪霊があなたに臨む時、彼が手で琴をひくならば、あなたは良くなられるでしょう」。そこでサウルは家来たちに言った、「じょうずに琴をひく者を捜して、わたしのもとに連れてきなさい」。』(1サムエル記16:15-17)
霊の世界と、音楽とは、非常に密接な関係があるようだ。
サウルが最初に主の霊が激しく降った時、預言者達の一団が色々な楽器を奏でつつ預言していたし、エリシャも預言をする時、立琴をひく者を連れてこさせた事があった。(2列王記3:15)

『ダビデはサウルのもとにきて、彼に仕えた。サウルはひじょうにこれを愛して、その武器を執る者とした。またサウルは人をつかわしてエッサイに言った、「ダビデをわたしに仕えさせてください。彼はわたしの心にかないました」。』(1サムエル記16:21-22)
こうして、主の導きよって、主に油注がれたダビデと、主の霊が去ったサウルとが、一緒になった。
ダビデはこれより、サウルの元で活躍し、サウルに取って代わる王となって行く。

『神から出る悪霊がサウルに臨む時、ダビデは琴をとり、手でそれをひくと、サウルは気が静まり、良くなって、悪霊は彼を離れた。』(1サムエル記16:23)
主を敬う人が奏でるメロディや、賛美は、悪しき霊を退けさせる。
神は、賛美を住まいとされるからだ。(詩篇22:3)

音楽は、霊的な事柄と密接に関わっているゆえに、悪しき事柄にも作用しやすい。
サタンは元々、天使ルシファー、すなわち、音楽を奏でる天使だったが、自分の美しさに酔いしれて高慢になり、堕落してしまった。(エゼキエル28:12-19)
だから、特に、賛美や音楽の奉仕をする人は、高慢にならぬよう、また、主の栄光をいつも思うよう、気をつけるべきである。

黙示録を見ると、天国は、賛美で満ちている所である事が分かる。
私達は、サウルの罠に陥る事なく、心を空白にする事なく、いつも健全な御言葉に耳を傾け、時間や心に隙間が出来たなら、そこを賛美や御言葉で満たし、悪しき者が入り込む余地が、どこにもないようにしたい。
『そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。』(エペソ5:15-19)

礼拝説教メッセージ音声:油注がれる少年ダビデ(1サムエル記16:1-13):右クリックで保存

主も、サムエルも、サウル王のどうしても主に従わない性質を悲しんだ。
主の御声に従って歩むよう民に指導すべき王であるはずが、自ら率先して、御声に背く事を止めなかったからだ。
『さて主はサムエルに言われた、「わたしがすでにサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けたのに、あなたはいつまで彼のために悲しむのか。角に油を満たし、それをもって行きなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである」。』(1サムエル記16:1)
このベツレヘム人エッサイ、彼の名はルツ記の最後に記されている系図に出てくる。
エッサイの父は、ルツが産んでナオミの胸に抱かれたオベデ、つまりエッサイは、ボアズとルツ夫婦の孫である。

イザヤは、次のように預言している。
『エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。』(イザヤ11:1-2)
このエッサイの根から、全人類にとって重要な子孫が出てくるのだ。

主がサムエルに言ったのは、わたしは既にサウルを捨て、王位から退けた、それなのにあなたはいつまで悲しむのか、という事だった。
主が、「もうその者については気にするな」と言われたなら、いつまでもその者に目を留めて、悲しんでいてはならず、むしろ新しく歩み出し、よりいのちの働きをすべきであり、より御胸に適った歩みをする人を任命し育てあげて行くべきなのだ。

『サムエルは言った、「どうしてわたしは行くことができましょう。サウルがそれを聞けば、わたしを殺すでしょう」。主は言われた、「一頭の子牛を引いていって、『主に犠牲をささげるためにきました』と言いなさい。』(1サムエル記16:2)
なんと、サウルは、彼に油を注いだ預言者サムエルを、殺すかもしれない、と言うのだ。
そして主もそれを否定せず、そうならないように、これこれの事をしなさい、と指示された。
そう、サウルは殺しかねないのだ。

サウルは以前、イスラエルを救った最大功績者・息子のヨナタンを殺そうとしたし、またその後、イスラエルに勝利をもたらしたダビデをも殺そうとするし、猜疑心に駆られ主の祭司八十五人をも殺させる。
戸の外で罪が待ちぶせして恋い慕っている時、私達はそれを支配しないと、とんでもない事になってしまうのだ。
それをしなかったサウルは、子であろうと、自分に油注いだ預言者であろうと、主の祭司八十五人であろうと、殺すことに躊躇しない性質へとなって行ってしまった。

『そしてエッサイを犠牲の場所に呼びなさい。その時わたしはあなたのすることを示します。わたしがあなたに告げる人に油を注がなければならない」。』(1サムエル記16:3)
この時、主は、「エッサイの子」とは言っていても、本人の名は、まだ明かさない。
それはサムエルに、そして、この書を読む全ての人に、以下に続く重要な事を悟らせるためである。

『彼らがきた時、サムエルはエリアブを見て、「自分の前にいるこの人こそ、主が油をそそがれる人だ」と思った。しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。』(1サムエル記16:6)
王とすべきものを、背の高さとか美しさ等の、外見で判断しようとするなら、あのサムエルでさえ、誤ってしまう。
この事を伝えるために、主は敢えて、誰に王としての油を注ぐべきか、明かさなかったのだ。

「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。」
まさに主の選びは、表向きや顔かたちではない。
サウルはイスラエル一の美男子で、人受けする者であり、人の目には麗しいものだったが、心は主から離れていた。
イエス様は、人の見栄えのするような姿形ではなかったのである。(イザヤ53:2)

『そこでエッサイはアビナダブを呼んでサムエルの前を通らせた。サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。エッサイはシャンマを通らせたが、サムエルは言った、「主が選ばれたのはこの人でもない」。エッサイは七人の子にサムエルの前を通らせたが、サムエルはエッサイに言った、「主が選ばれたのはこの人たちではない」。
サムエルはエッサイに言った、「あなたのむすこたちは皆ここにいますか」。彼は言った、「まだ末の子が残っていますが羊を飼っています」。サムエルはエッサイに言った、「人をやって彼を連れてきなさい。彼がここに来るまで、われわれは食卓につきません」。』(1サムエル記16:8-11)

エッサイとしては、サムエルと食卓につくに相応しく思える七人を連れてきていたが、八番目の末っ子はまさか入用になる事はないだろう、と思っていたのかもしれない。
彼は同席させず、羊の番をさせていた。

『そこで人をやって彼をつれてきた。彼は血色のよい、目のきれいな、姿の美しい人であった。主は言われた、「立ってこれに油をそそげ。これがその人である」。サムエルは油の角をとって、その兄弟たちの中で、彼に油をそそいだ。この日からのち、主の霊は、はげしくダビデの上に臨んだ。そしてサムエルは立ってラマへ行った。』(1サムエル記16:12-13)
この、油を注がれた少年・ダビデこそ、それだったのである。
兄弟たちの中ではあたかも捨てられたかのような、一番つまらないと思えるような存在を、主にとっては、入用だったのである。

ダビデ。その名は「最愛」という意味である。
主に愛でられし者。
彼は、聖書のもっとも重要な人物の一人であり、新約聖書では、アブラハムについで名を連ねるほどの重要人物である。
このダビデから、イスラエルの代々の王族が出て、そして人類全体の救い主、イエスキリストが、このダビデの子孫からお生まれになるのだ。

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