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メッセージ - 1サムエル記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:サウルを殺せる二度目のチャンスの時(1サムエル記26:1-12):右クリックで保存

『そのころジフびとがギベアにおるサウルのもとにきて言った、「ダビデは荒野の前にあるハキラの山に隠れているではありませんか」。サウルは立って、ジフの荒野でダビデを捜すために、イスラエルのうちから選んだ三千人をひき連れて、ジフの荒野に下った。』(1サムエル記26:1-2)

ジフ人は、以前もサウルに「ダビデはここにいる」と告げ口し、サウルは「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれたのです。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。」と言って喜んだ。(23:21)

サウルは一度、主によって、自分のいのちがダビデの手に渡された、というのに、ダビデに憐れみをかけられ命拾いした。
彼はダビデの真実な対応に心打たれ、それに引き換え、自分はずっと悪で返して来た事に号泣し、もうダビデを追わないと、神と人との前で誓ったはずだ。
だから、ジフ人に再び「ダビデはここにいる」と言われた時、もう自分は彼を追わないと断るのが筋のはずなのに、サウルはまたしても、いとも簡単に、その誓いを翻してしまう。

ダビデは、ジフ人にされた事を全て主へ持って行って「彼らは神をおのが前に置くことをしません。」と訴えた。(詩篇54編)
せっかく、ダビデを付け狙うという「罪」をやめたサウルに、再び、いらぬ情欲を燃え立てるよう、そそのかしたジフ人達は、自分の前に神を置くことなどしない者達なのだ。
ダビデはそんな彼らに宣言している。
『見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。神はわたしのあだに災をもって報いられるでしょう。あなたのまことをもって彼らを滅ぼしてください。わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです。あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。』(詩篇54:4-7)

ダビデは、相手が自分を陥れるような事をした時、その相手に自分の手で仕返ししたりせず、相手と自分との間に主を置いて、その相手の事は主に委ねた。
これが聖なる国民、天に属する王族の者のたしなみである。

『サウルは荒野の前の道のかたわらにあるハキラの山に陣を取った。ダビデは荒野にとどまっていたが、サウルが自分のあとを追って荒野にきたのを見て、斥候を出し、サウルが確かにきたのを知った。』(1サムエル記26:3-4)
当時はレーダーも携帯電話も無く、情報は人づてに聞くか、自分の目と足で得るしか無い時代である。
それなのに、ダビデはいつも、サウルの動向を事前にキャッチした。
彼は神から愛され、人から愛され、その両者から守られていたからだ。なぜなら彼が為す事は、いつも「真理」に叶っていたからだ。

『そしてダビデは立って、サウルが陣を取っている所へ行って、サウルとその軍の長、ネルの子アブネルの寝ている場所を見た。サウルは陣所のうちに寝ていて、民はその周囲に宿営していた。』(1サムエル記26:5)
この陣営は三千人の精鋭の兵達であり、彼らはこぞって、自分を狙っている。
近寄るだけでも危険な筈なのに、ダビデはその陣営を見ると、なんと、もっと近寄って行った。
彼にはきっと、主にあって自分には害は無い、という確信があったのだろう。

『ダビデは、ヘテびとアヒメレク、およびゼルヤの子で、ヨアブの兄弟であるアビシャイに言った、「だれがわたしと共にサウルの陣に下って行くか」。アビシャイは言った、「わたしが一緒に下って行きます」。』(1サムエル記26:6)
ダビデが信頼を置いている側近が、二人いた。
その一人は、ヘテ人アヒメレク。
ヘテ人といえば、カナンの末裔で、ヨシュア記では聖絶の対象の民族であるはずだが、きっと彼も、ラハブのようにイスラエルの神・主に回心したのだろう。
サウルは間違った熱心ゆえに、イスラエルの中に住む異邦人を殺そうとしたため(2サムエル記21:2)、彼も、サウルから逃げてきたのかもしれない。
アヒメレクは、異邦人と言えど、優秀な人材だったのだろうし、ダビデも、主に立ち返った異邦人を差別する事なく、側近として用いていたのだろう。
もう一人は、ダビデの血縁・ゼルヤの子アビシャイで、彼は後に、勇士たちの長となり、槍を振るって三百人を倒すほどの、槍の達人である。(2サムエル記23:18)

『こうしてダビデとアビシャイとが夜、民のところへ行ってみると、サウルは陣所のうちに身を横たえて寝ており、そのやりは枕もとに地に突きさしてあった。そしてアブネルと民らとはその周囲に寝ていた。アビシャイはダビデに言った、「神はきょう敵をあなたの手に渡されました。どうぞわたしに、彼のやりをもってひと突きで彼を地に刺しとおさせてください。ふたたび突くには及びません」。』(1サムエル記26:7-8)
またしても、サウルをいとも簡単に殺せる機会が訪れた。
サウルは前回の警告を無視し、またもダビデのいのちを狙って来た、からには、ダビデは彼に手にかけても、誰も文句を言わなかっただろう。
あるいは、自分は手を汚さず、部下アビシャイに全てを任せる事もできただろう。アビシャイなら音も立てずに殺す事は出来ただろうし、彼も、自信をもって申し出ている。

『しかしダビデはアビシャイに言った、「彼を殺してはならない。主が油を注がれた者に向かって、手をのべ、罪を得ない者があろうか」。ダビデはまた言った、「主は生きておられる。主が彼を撃たれるであろう。あるいは彼の死ぬ日が来るであろう。あるいは戦いに下って行って滅びるであろう。主が油を注がれた者に向かって、わたしが手をのべることを主は禁じられる。しかし今、そのまくらもとにあるやりと水のびんを取りなさい。そしてわれわれは去ろう」。』(1サムエル記26:9-11)
ダビデは、アビシャイにサウルを殺させるとしても、それは「わたしが手をのべること」とした。
自分が行動していなくとも、上の立場である自分が黙認した事は、自分がしたのと同じなのだ。
彼は以前サウルと洞窟で相対した時や、ナバルとの一件で、既に学んだのだ。
自分が仕返しする事は、ただ悪への道であり、この主が油注がれた王については、主に任せる事が一番である事を。

『こうしてダビデはサウルの枕もとから、やりと水のびんを取って彼らは去ったが、だれもそれを見ず、だれも知らず、また、だれも目をさまさず、みな眠っていた。主が彼らを深く眠らされたからである。』(1サムエル記26:12)
主は、彼らを深く眠らせている。
ことごとく主が自分に味方しておられるからには、自分のしている道は正しかった、主はやがてサウルを打たれ、自分は必ず守られるだろう、と、確信したのだ。

主は、サウルはをいつでも打つことは出来たが、憐れみ深いのが主である。
ダビデはサウルを逃す事によって、言ってみれば主の憐れみに「加担」したのだ。
私達もダビデのように、自分で復讐する事なく、全て主に任せ、主の事業に「加担」し、ますます主に用いられ引き上げられて行く者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:素晴らしい夫の元へと導かれる女性の性質(1サムエル記25:36-44):右クリックで保存

『こうしてアビガイルはナバルのもとにきたが、見よ、彼はその家で、王の酒宴のような酒宴を開いていた。ナバルは心に楽しみ、ひじょうに酔っていたので、アビガイルは明くる朝まで事の大小を問わず何をも彼に告げなかった。』(1サムエル記25:36)


ナバルは、アビガイルが彼の愚かさを身代わりに引き受け、ダビデに執り成していたその時、王のような宴会をしていた。
彼は、与えられてた富や素晴らしい人材、赦され続けて来た赦しを、極度のぜいたくで浪費していた。
人は、どんなに富んでいても、神の前で富まなくてはどうしようもない。

ぜいたくを極めたソロモンは言っている。
『人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。』(伝道者2:24-26)
ソロモン王は、統治の前半は与えられた知恵と富を神と人とのために用いたが、後半は主を忘れ、自分の欲望を満足させる事に、富と権力を用いた。

神の国の事柄が見えなくなった彼は、世における最高の良い楽しみは「飲み食い」にしか見い出せない、全てがむなしい、という価値観になってしまった。
彼は26節で言っている。罪人が一生懸命働いて富を積み立てても、それは実は御心に適った人に渡すために蓄えているものだ、と。
ナバルに、まさに、それが実現してしまう。

『朝になってナバルの酔いがさめたとき、その妻が彼にこれらの事を告げると、彼の心はそのうちに死んで、彼は石のようになった。十日ばかりして主がナバルを撃たれたので彼は死んだ。』(1サムエル記25:37-38)
ナバルはそれまで、普段から行状が悪いのを直さず、ほしいままに突き進んでは、周囲にとばっちりを負わせ、悲しませ続ける事が、今まで許されていたが、主はその「周囲」の悲しみ・叫びをも、聞いておられる。
主からの憐れみ・赦しの時を、浪費し尽くしてしまう時、突然の滅びが訪れるのだ。(詩篇73編)

人から、神から、同じ事を注意され続けても、いつまでも許されると思って突き進んでいてはならない。
やがて、その刈り取りをする事になるからだ。
ナバルにとって、ダビデの使者が遣わされた時が、最後のチャンスだったが、彼は普段どおり愚かな対応をしてしまい、結局、主に打たれることとなってしまった。

『ダビデはナバルが死んだと聞いて言った、「主はほむべきかな。主はわたしがナバルの手から受けた侮辱に報いて、しもべが悪をおこなわないようにされた。主はナバルの悪行をそのこうべに報いられたのだ」。』(1サムエル記25:39)
ダビデはこの経験を通して、確信した。主は、悪を行う者に必ず報いて下さるという事を。
そして、自分の手で悪者に仕返しをする事は、悪の道であり、何の益ももたらさない事を。
善を行ない続ける事が、もしかしたらとても無駄であるかのように、自信が揺らいでいたが、それはやはり正しかった、その道を進んで良いのだ、その先には大きな報いがあるのだと、自信を取り戻した。
それで彼は、確信をもって詩篇37編を記したのだろう。
『主の前にもだし、耐え忍びて主を待ち望め。おのが道を歩んで栄える者のゆえに、悪いはかりごとを遂げる人のゆえに、心を悩ますな。怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。』(詩篇37:7-11)

『ダビデはアビガイルを妻にめとろうと、人をつかわして彼女に申し込んだ。ダビデのしもべたちはカルメルにいるアビガイルの所にきて、彼女に言った、「ダビデはあなたを妻にめとろうと、われわれをあなたの所へつかわしたのです」。』(1サムエル記25:39)

ダビデは、アビガイルとたった一度しか会っていなかったのに、夫ナバルが死んだと聞いて、早速結婚を申し込んだ。
たった一度のあの会話で、彼女が素晴らしい信仰者である事を悟ったのだ。
彼女は、主の御名と柔和な言葉によってダビデの荒んでいた心を慰め、弱っている信仰を奮い立たせ、罪を犯す事から、彼を守ってくれた。
彼女を伴侶として共に歩むなら、信仰にあって共に助け合い、罪や悪に走りそうな時、助けてくれてくれるだろう、と踏んだのだ。

愚かで行状の悪い夫が死に、はるかに優れた男・ダビデにプロポーズされたアビガイルは、どうしたか。
『アビガイルは立ち、地にひれ伏し拝して言った、「はしためは、わが君のしもべたちの足を洗うつかえめです」。アビガイルは急いで立ち、ろばに乗って、五人の侍女たちを連れ、ダビデの使者たちに従って行き、ダビデの妻となった。』(1サムエル記25:41-42)
彼女は、素晴らしい男性から告白されたとたん、傲慢がそそり立つような女性ではなく、彼女が真っ先に起こしたリアクションは、地にひれ伏し拝する事、真っ先に言った言葉は「はしためは、わが君のしもべたちの足を洗うつかえめです」だった。

妻が夫に仕える。それは、結婚生活において主の御前に正しい事であり(エペソ5:22-24)、そのようにする家庭には、権威の正しい秩序が形成され、健全な家庭となる。
ダビデの先の妻・アヒノアムの子・アムノンも、後の妻・マアカの子・アブシャロムも、共に問題を起こしたが、アビガイルの子・キルアブについては、特に問題を起こした事は記されていない。
サウルの娘・ミカルは、自分の価値観を押し付ける目でダビデを見下ろし、それに則さない夫に嫌味を言う性質だったためだろうか、生涯、子が無かった。

アビガイルは、ナバルという愚かな夫の妻だった時から、既に、いつも主の御名を呼び、主にあって正しく仕えていた。
だからこそ彼女は、ダビデとばったり会った時、主エホバの御名を七度も用いて彼をなだめる事が出来たのであり、いざ、彼女がダビデに迎えられた時、「はしためは、わが君のしもべたちの足を洗うつかえめ」になるつもりだと告白したのだ。
『妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば、たとい御言に従わない夫であっても、あなたがたのうやうやしく清い行いを見て、その妻の無言の行いによって、救に入れられるようになるであろう。あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。』(1ペテロ3:1-4)

アビガイルは既に「成熟した妻」として整えられていた。
だから主は、彼女をさらに優れた夫・ダビデの元へと、しかも、イスラエルの王となる「途上」の、ダビデにとって重要な時期に、妻として送られたのだ。
私達も、普段、愚かなナバルに仕えるような日々を通らされているかもしれない。
しかし、アビガイルのように、主にあって忠実にその時期を過ごし、学ぶべき事をしっかり学び、誠実を養い、御前に不要な性質を取り除くなら、主はちょうど良い時期に引き上げて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:アビガイルの信仰と執り成し(1サムエル記25:25-35):右クリックで保存

アビガイルのダビデに執り成した内容から分かる事は、彼女は、卓越した信仰の持ち主だ、という事である。

なぜなら、24節から31節の彼女の言葉には、「主(エホバ)」の御名が七もあり、また彼女は、ダビデがこれから主によって王とされ、その後ダビデが受ける祝福をかなり正確に言い当てるからだ。

『わが君よ、どうぞ、このよこしまな人ナバルのことを気にかけないでください。あの人はその名のとおりです。名はナバルで、愚かな者です。あなたのはしためであるわたしは、わが君なるあなたがつかわされた若者たちを見なかったのです。』(1サムエル記25:25)
彼女は決して、自分の夫・ナバルの悪口を言って、ダビデの機嫌を取ろう、としているのではない。
夫婦は一体であり、彼女は、夫がした事は「自分がした」事として、執り成しているのだ。
事実、彼女は「このとがをわたしだけに負わせてください。」と言い(24節)、「どうぞ”はしためのとが”を許してください。」(28節)と願っている。

「わが君よ、どうぞ、このよこしまな人ナバル(であり自分)のことを気にかけないでください。」
自分達の側が犯した罪咎を、どうぞ気にかけないで下さい・・・随分都合の良い要求のように見えるが、ダビデ自身も、同じような「都合のいい」事を主に求めている。
『主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを/思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。わたしの若き時の罪と、とがとを/思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。』(詩篇25:6-7)
私達も、まことのダビデである主イエス様に、「主よ、わたしの罪咎を思い出さないでください」「あなたの恵み、あなたのいつくしみに従って、わたしを思い出してください。」と、実に都合の良い祈りが出来る事は、本当に幸いである。

『それゆえ今、わが君よ、主は生きておられます。またあなたは生きておられます。主は、あなたがきて血を流し、また手ずから、あだを報いるのをとどめられました。どうぞ今、あなたの敵、およびわが君に害を加えようとする者は、ナバルのごとくになりますように。』(1サムエル記25:26)
彼女は聡明である。
ダビデが自分から人の血を流す事を「主(エホバ)は」「既にとどめた」、と、言葉において既成事実化しており、同時に、ナバルに災いが降る事、そして、ダビデの敵もナバルのようになると、「既に成った」事としている。
主にあって信仰深く歩もうと、常に気をつけているダビデとしては、この言葉は、飲まざるをえないだろう。

『どうぞ、はしためのとがを許してください。主は必ずわが君のために確かな家を造られるでしょう。わが君が主のいくさを戦い、またこの世に生きながらえられる間、あなたのうちに悪いことが見いだされないからです。』(1サムエル記25:28)
驚くことに彼女は、預言者ナタンに先んじて、「主は必ずわが君のために確かな家を造られる」と、ダビデの将来を正しく予見している。(2サムエル記7章)
彼女がこの事を言ったのは、決して「おだて」でなく、根拠がある。それは、ダビデが「主のいくさを戦」っている事だ。

ダビデがゴリヤテやペリシテ人と戦い、ケイラを救ったのも、「主の戦い」には違いないが、彼は、霊においても「主の戦い」を戦っている。
彼が油注がれた王・サウルを、いつでも殺してしまえる「誘惑」と戦ったのも、「主の戦い」であり、その、常人ではとても勝利できないような誘惑に、彼は勝利した。

私達も常時、ダビデのように、信仰において「主の戦い」を戦っている。
罪や穢れ、悪と戦う時、また、私達の内に込み上げてくる怒りや恐れ、不安に対し「主にあって」戦う時、それは主の戦いである。
『怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。』(箴言16:32)

ダビデはサウルに対する恐れと戦い、部下達を養わなくてはならない不安と戦い、逃亡生活中であってもケイラを救うために戦い、ナバルの羊飼いに良くしてやるという「信仰の戦い」もして来た。
そして今回、恩を仇で返したナバルへの「怒り」という、ダビデの内なる敵に負けそうになったが、主は助け手としてアビガイルを送り、助けて下さった。

『たとい人が立ってあなたを追い、あなたの命を求めても、わが君の命は、生きている者の束にたばねられて、あなたの神、主のもとに守られるでしょう。しかし主はあなたの敵の命を、石投げの中から投げるように、投げ捨てられるでしょう。』(1サムエル記25:29)
彼女のこの言葉は、どれほどダビデにとって慰めとなっただろう。
彼はこの時、一国の王から追われている身だ。
いかに主から油を注がれた、と言っても、現実は、右も左も見えず将来も全く見えない。
第三者が見れば、いつ命を落とされるか、いつのたれ死んでしまうか分からない状況である。
主を信頼してずっと善を行って来たはずなのに、恩を仇で返され、怒り、落胆し、剣で報いようとして向かう途中、という、荒み切った心のダビデに、この言葉は、どれほど慰めとなったただろう。

『そして主があなたについて語られたすべての良いことをわが君に行い、あなたをイスラエルのつかさに任じられる時、あなたが、ゆえなく血を流し、またわが君がみずからあだを報いたと言うことで、それがあなたのつまずきとなり、またわが君の心の責めとなることのないようにしてください。主がわが君を良くせられる時、このはしためを思いだしてください」。』(1サムエル記25:30-31)
アビガイルは、将来、あなたは必ず王になるから、今、主が約束されているそのキャリアに汚点を残す事が無いようにして下さい、そして、王となった暁には、わたしを思い出して下さい、と願った。
彼女は、まだ見ていない事を、信仰によって、見ていた。
目の前のダビデは、一介の逃亡者である。しかしダビデは主の戦いを今戦っており、彼はやがてイスラエルの王となるべき器である事を。

イエス様と共に十字架につけられた強盗も、その信仰を持っていた。
彼の目の前にいたイエス様は、十字架につけられ、人々から罵られ、あと数時間もすれば、死んでしまうような死刑囚であったのに、彼はイエス様の中に、生死を超越した永遠の王の性質を見たのだ。
だから彼は「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と願ったのだ。(ルカ23:42)

事実、彼はその日、イエス様と共にパラダイスに行って、永遠に共に生きるようになった。
アビガイルも、ナバルが死んだ後、ダビデに結婚を申し込まれ、後には王妃となり、ダビデと共に王宮で暮らす事となった。
目に見える所によらず、信仰によって永遠の王・キリストを見、彼に「わたしを思い出して下さい」と申し出るなら、私達もパラダイスへ行き、キリストの花嫁となり、永遠の御住まいで共に生きるのだ。

アビガイルが、この素晴らしい執り成しを終えると、ダビデは真っ先に、主を誉めたたえた。
『ダビデはアビガイルに言った、「きょう、あなたをつかわして、わたしを迎えさせられたイスラエルの神、主はほむべきかな。あなたの知恵はほむべきかな。またあなたはほむべきかな。あなたは、きょう、わたしがきて血を流し、手ずからあだを報いることをとどめられたのです。』(1サムエル記25:32-33)
この言葉の中に、バラーフ(祝福、膝をつく)という言葉が、三度使われている。
ダビデは、主にひざをつき、アビガイルの知恵に、そしてアビガイル自身を祝福した。

『わたしがあなたを害することをとどめられたイスラエルの神、主はまことに生きておられる。もしあなたが急いでわたしに会いにこなかったならば、あすの朝までには、ナバルのところに、ひとりの男も残らなかったでしょう」。』(1サムエル記25:34)
ダビデの優れた所は、ひとたび彼自身が誓った事でも、それが主に対して罪を犯すような内容であったと気づいたら、すぐさまそれを取り降ろした所だ。
身勝手な誓いを連発し、最功労者であり息子のヨナタンさえ殺そうとしたサウルとは、大違いである。

『ダビデはアビガイルが携えてきた物をその手から受けて、彼女に言った、「あなたは無事にのぼって、家に帰りなさい。わたしはあなたの声を聞きいれ、あなたの願いを許します」。』(1サムエル記25:35)
ダビデはアビガイルに、無事に(シャロームの内に)帰りなさいと、平安の内に帰した。
信仰の友・ヨナタンとも会えず、荒んでいたダビデにとって、この素晴らしい信仰の女性・アビガイルとの邂逅は、大きな慰めとなっただろう。
信仰者は、素晴らしい信仰者と新しく出会う時、慰めを受け、そこから新たないのちの繋がりが生まれて来るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:ナバル家を代表して執り成すアビガイル(1サムエル記25:14-24):右クリックで保存

ナバルとダビデの使者とのやりとりを見ていた若者がいた。

彼はナバルの無礼な対応を見て、明らかに、これから自分たちに災いが降りかかる事を知った。
それで彼はナバルの妻・アビガイルに相談する。

『ダビデが荒野から使者をつかわして、主人にあいさつをしたのに、主人はその使者たちをののしられました。しかし、あの人々はわれわれに大へんよくしてくれて、われわれは少しも害を受けず、またわれわれが野にいた時、彼らと共にいた間は、何ひとつ失ったことはありませんでした。われわれが羊を飼って彼らと共にいる間、彼らは夜も昼もわれわれのかきとなってくれました。』(1サムエル記25:14-16)
この、ナバルに仕えている若者も、ダビデの事を認めている。
ダビデ達は、サウルに追われていて大変であるにもかかわらず、自分達に良くしてくれ、自分達を守ってくれていた事を。

『それで、あなたは今それを知って、自分のすることを考えてください。主人とその一家に災が起きるからです。しかも主人はよこしまな人で、話しかけることもできません」。』(1サムエル記25:17)
この、名も無き若者のほうが、ナバルよりも賢い。
自分達の主人ナバルが、誰に一体何をしたか。そのため、どんな事がこれから起ころうとしているのかを、悟っている。

社長がどうしようもなく愚かなのに、その会社が良い業績を上げているとするなら、愚かな社長をフォローしている有能な部下たちがいるのだろう、と、推測できる。
同じように、ナバルは今までずっとこんな愚行をして改めていないのに、事業が立ちまわっているのであるなら、ナバルが愚行を犯す都度、有能な彼の周りがフォローしてくれていたのだろう、と、推測できる。
しかし、物事には限度がある。
今回、ナバルがしてしまった事については、ナバルのしもべ達には何のフォローもしようがないし、また、ナバルに何を言っても聞かない事は、既に分かっていた。
だから彼は、ナバルの妻・アビガイルに申し出たのだ。

『その時、アビガイルは急いでパン二百、ぶどう酒の皮袋二つ、調理した羊五頭、いり麦五セア、ほしぶどう百ふさ、ほしいちじくのかたまり二百を取って、ろばにのせ、若者たちに言った、「わたしのさきに進みなさい。わたしはあなたがたのうしろに、ついて行きます」。しかし彼女は夫ナバルには告げなかった。アビガイルが、ろばに乗って山陰を下ってきた時、ダビデと従者たちは彼女の方に向かって降りてきたので、彼女はその人々に出会った。』(1サムエル記25:18-20)
彼女の、ダビデをなだめるための行動は、素早かった。
贈り物として彼女が用意したものは、ダビデ達六百人に対しては、少ないかのように見える。
きっと、ナバルには内緒で準備したために、用意できるものは限られてはいても、精一杯整えたのだろう。

『さて、ダビデはさきにこう言った、「わたしはこの人が荒野で持っている物をみな守って、その人に属する物を何ひとつなくならないようにしたが、それは全くむだであった。彼はわたしのした親切に悪をもって報いた。もしわたしがあすの朝まで、ナバルに属するすべての者のうち、ひとりの男でも残しておくならば、神が幾重にもダビデを罰してくださるように」。』(1サムエル記25:21-22)
ナバルのダビデに対する無礼な対応を、怒る気持ちは、分からないでもない。
しかし、ナバルだけでなく彼に属する全ての人達を殺すのは、明らかにやり過ぎである。
それは「ダビデは」してはならない事である。

普通の人なら普通にして許されるような事でも、主に油注がれた者、すなわち、主から特別に任職された者には、許されない事もあるのだ。
多くの人の命を預かるパイロットは、飛行機を操縦している間、決して酒を飲まないのと同じように、多くの人々の魂を預かる主から任職された器の人は、怒りに酔って人々を殺すような事は、してはならない。
主は、主が用意された特別な器を訓練する。
そして、罪を犯させないように守り、助ける人を遣わしてくださる。

『アビガイルはダビデを見て、急いで、ろばを降り、ダビデの前で地にひれ伏し、その足もとに伏して言った、「わが君よ、このとがをわたしだけに負わせてください。しかしどうぞ、はしために、あなたの耳に語ることを許し、はしための言葉をお聞きください。』(1サムエル記25:23-22)
アビガイルのダビデに対する執り成しが始まる。
彼女がそれをしたのは、彼女の主人・ナバルのためであり、またナバルに仕える大勢の人々のためだった。

彼女はこの事を知らなかったし、また、もし彼女が最初に応対していたとするなら、絶対ナバルのような対応は取らなかった。
それでも彼女は「このとがをわたしだけに負わせてください。」と言った。
ダニエルも、彼自身は罪を犯していなかったのに、『”われわれは”罪を犯し、悪をおこない、よこしまなふるまいをなし、そむいて、あなたの戒めと、おきてを離れました。』と言ってイスラエルを執り成した。(ダニエル9:5)
イエス様も、罪無きお方であったのに、全人類に代わって罪とされ、身代わりとなって、十字架上で刑罰を受けて下さった。

アビガイルが、自分の属しているナバル家を救うために、ダビデをなだめる行動を起こしたように、私達も、私達が属している国、団体、会社のトップ達のために、主に執り成し、祈るべきである。
私達の国は、まことのダビデであるキリストに、数々の無礼を働いているため、そのままでは災いが来る事は、目に見えている。
日本では少数のキリスト者である私達が、主をなだめるために祈る祈りは、たかが知れているかもしれない。それでも、主をなだめ祈るべきだ。

『そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。』(1テモテ2:1-2)
私達は、取り成し祈る事によって、敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごす事が出来るが、もしそれをしないなら、私達が属している国や集団、会社などが犯してきた罪や愚かさの報いを、一緒に受けてしまう。
そうならないためにも、私達は破れ口に立ち、執り成し祈るべきなのだ。
『これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。』(1テモテ2:3-4)

礼拝説教メッセージ音声:サウルには忍耐できてもナバルには忍耐できなかったダビデ(1サムエル記25:1-13):右クリックで保存

殺意をもって追って来たサウルに、憐れみによって見事勝利したダビデだったが、今回、ダビデは俗的な一般人のように戻ってしまう一面を見る。


『マオンに、ひとりの人があって、カルメルにその所有があり、ひじょうに裕福で、羊三千頭、やぎ一千頭を持っていた。彼はカルメルで羊の毛を切っていた。その人の名はナバルといい、妻の名はアビガイルといった。アビガイルは賢くて美しかったが、その夫は剛情で、粗暴であった。彼はカレブびとであった。』(1サムエル記25:2-3)
ナバルの名の意味は「愚か」、また「カレブ」は「犬」の意味があり、七十人訳聖書は「彼は犬のような男であった」と訳されている。

ナバルはカルメルの事業家で裕福となり、優秀な人材にも恵まれているのに、頑迷で、行状の悪さを改めず、身内の人々からも「よこしまな者(17,25節)」と呼ばれていた。
その素行の悪さにもかかわらず、彼が今まで守られて来たのは、ひとえに、彼の周りの優秀な人達が、彼の素行の悪さカバーしていたためだろう。
このナバルに、ダビデはかつて、良くしてやった事があった。

『ダビデは荒野にいて、ナバルがその羊の毛を切っていることを聞いたので、十人の若者をつかわし、その若者たちに言った、「カルメルに上って行ってナバルの所へ行き、わたしの名をもって彼にあいさつし、彼にこう言いなさい、『どうぞあなたに平安があるように。あなたの家に平安があるように。またあなたのすべての持ち物に平安があるように。』(1サムエル記25:4-6)
ダビデは「平安(シャローム)」という祝福の挨拶を三度も送っている。
ダビデは、彼がどのような人物であるか知っていたであろう。
そのような者に対しては、威圧的にならず、へりくだって平和の挨拶をする方が良いと、今までの経験で身に付けたのかもしれない。

イエス様は弟子達に言われた。
『その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。』(マタイ10:12-13)
結論を言うと、ダビデがナバルに発した「シャローム」は、ナバルにはとどまらず、ダビデに帰って来る事になる。

『わたしはあなたが羊の毛を切っておられることを聞きました。あなたの羊飼たちはわれわれと一緒にいたのですが、われわれは彼らを少しも害しませんでした。また彼らはカルメルにいる間に、何ひとつ失ったことはありません。あなたの若者たちに聞いてみられるならば、わかります。それゆえ、わたしの若者たちに、あなたの好意を示してください。われわれは祝の日にきたのです。どうぞ、あなたの手もとにあるものを、贈り物として、しもべどもとあなたの子ダビデにください』」。』(1サムエル記25:7-8)
この事から、ダビデ達がサウルから逃げていた時、彼らは山賊のように、無作為に人のものを奪って食を得ていたのではなく、正当な事をして、正当な報酬を得ていた事が分かる。
ダビデたちがナバルの羊飼い達に、そのように良い事をした事は、後にナバル達の羊飼い達も証言しているし、その事はナバルの耳にも届いていたはずだ。
そんな実績のある彼らが、羊の毛の刈り取り祝いの贈り物として食料を求めるのは、正当な事であるし、ダビデも至極丁重に申し出ている。
しかしナバルは、ダビデ達の「丁重」に対し、「粗野」で返して来た。

『ダビデの若者たちは行って、ダビデの名をもって、これらの言葉をナバルに語り、そして待っていた。ナバルはダビデの若者たちに答えて言った、「ダビデとはだれか。エッサイの子とはだれか。』(1サムエル記25:9-10)
ペリシテの王でさえ「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」という歌を知っている。ましてイスラエルの民である彼が、ダビデの活躍を知らないはずが無い。
彼はダビデの名声を聞いていながらにして、取るに足らない者として、見下したのだろう。

『このごろは、主人を捨てて逃げるしもべが多い。』(1サムエル記25:10)
確かに、ナバルのこんな性格なら、彼の周りから逃げだす奴隷は多いだろうが、一体なぜ、彼は唐突にそんな事を言い出したのか。
もしかすると彼は、ダビデを、サウルという主人から逃げだした、卑劣な逃亡奴隷と見做したのかもしれない。
なにが「ダビデは万を打った」だ、結局は主君を裏切ってみじめに逃げて食料を求めている逃亡奴隷ではないか、というように。
近視眼で、自分が上に立って威張り散らしたい者は、他人の名声を聞いても、些細な所をつまんで貶め、大した事ない奴、と、自他に言い聞かせるものなのだ。

『どうしてわたしのパンと水、またわたしの羊の毛を切る人々のためにほふった肉をとって、どこからきたのかわからない人々に与えることができようか」。』(1サムエル記25:11)
結局のところ、彼は、自分の持ち物を、少したりとも誰かにやりたくなかったのだろう。

『ダビデの若者たちは、そこを去り、帰ってきて、彼にこのすべての事を告げた。そこでダビデは従者たちに言った、「おのおの、つるぎを帯びなさい」。彼らはおのおのつるぎを帯び、ダビデもまたつるぎを帯びた。そしておおよそ四百人がダビデに従って上っていき、二百人は荷物のところにとどまった。』(1サムエル記25:12)
ダビデは普通人のように怒り、罵倒した無礼者に対して、剣で報いようと、部下たちに戦いの用意をさせた。
前回、あんな見事に、柔和な性質をサウルに対してあらわしたダビデだったが、この、つまらない粗野な者の一言で、ただの普通の人に戻ってしまっている。
善を仇で返されたばかりでなく、罵倒までされたのである。怒るのはもっともだが、ナバルだけでなく、罪も無い一族郎党までも、怒りに任せて皆殺しに行くとするなら、まるで、サウルと一緒ではないか。

ダビデは、主が油を注がれた上の権威に対しての従順は、この上なく素晴らしかった。
しかし、下位の、粗野な、面識のない者の、あさってな大風呂敷と、無礼な罵倒に対しては、忍耐と憐れみを示す事は全く頭によぎらず、あたかも下等な犬畜生を殺しに行くかのように、剣を皆に持たせ、出て行った。

粗野な無礼者に、剣で報いる。
それは、この時代は普通に行われていたかもしれないが、ダビデの場合、彼はこれから神の国・イスラエルの王となっていく者である。
神の国の王としての器のものが、それでは、神の国が困るのだ。
私達も、神の国の、王のような祭司である(1ペテロ2:9)。それでいては、困るのだ。

主は、そのダビデの「弱さ」を扱ったのではなかろうか。
そんなダビデを、その性質から救うため、そして王として整えるために、主は一人の助け手、アビガイルという女性を彼に送り、罪を犯させないよう守られる。

私達の中にも、この時のダビデのような性質が、あるのではなかろうか。
貴人に対しては、忍耐もするし、柔和にもなるけれど、見知らぬ粗暴な者から、いきなり無礼極まるあしらいをされたら、人とも思わず犬畜生のように虐殺してやりたい、というような性質が。
あるいは私達に、ナバルのような性質もあるのではなかろうか。
まことのダビデであるイエス様が、人生のあの時この時に盾となり、城壁となって守って下さり、事業を成功させて裕福にもさせて下さったのに、そんなイエス様をないがしろにし、恩を仇で帰したりするような。

私達は、それをこそ主に扱って頂くべきである。
そして、そんな弱い私達にも、アビガイルのような、罪を犯させないよう執り成してくれる助け手を送ってくれるよう、祈るべきである。

礼拝説教メッセージ音声:悪者の口は血を求め、正しい人の口は人を救う(1サムエル記24:8-22):右クリックで保存

無防備のサウルに手をかける事なく、そのまま行かせたダビデは、サウルについていった。

『ダビデもまた、そのあとから立ち、ほら穴を出て、サウルのうしろから呼ばわって、「わが君、王よ」と言った。サウルがうしろをふり向いた時、ダビデは地にひれ伏して拝した。』(1サムエル記24:8)
ダビデのサウルとの対話は、サウルから罵倒されつつ槍を投げつけられて、逃げて以来であろう。
それ以来、ダビデは長い間サウルから命を狙われ続けてきたが、そんなサウルへの最初の言葉は、「わが君、王よ」であり、王への尊敬と礼節を込めたものであった。

ダビデはサウルに、「どうしてあなたはわたしを狙うのですか」とは言わず、『どうして、あなたは「ダビデがあなたを害しようとしている」という「人々の言葉」を聞かれるのですか。』と言った。(1サムエル記24:9)
つまりダビデは、サウルの心にある「ダビデは自分を害そうとしている」という思いは、サウル自身から出たものではなく、サウルではない別者の言葉である事、そしてサウルは、その”偽り”を信じこまされており、自分は全くサウルを責める気は無いと表明している。

実際ダビデの言う通り、サウルは、サウル由来でない別者の言葉を信じ込んでおり、それに従ってダビデを害そうとしているのだ。
サウル由来でない別者の言葉・・・それは、サタンの言葉である。
サタンは偽りの父であり、人の心に偽りを吹きこませ、「サウル、ダビデはお前の王座を狙っているぞ」「今ダビデを殺しておかないと、一族もろとも殺されてしまうぞ」などと、サウルの心に語りかけていたのだ。
常に何かに狙われているような感じがする人、誰も彼も信じられないような、根拠なき恐れに脅えている人は、大体、暗闇から語りかけられる「別者」の言葉を頭に吹き込まれ、それに従って行動してしまうのだ。

ダビデはサウルを責めず、サウルの内に聞こえてくる偽りの声こそ真の敵であり、サウル自身を本来的な真理に気付かせ、立ち返らせようとしたのだ。
なんという配慮であろうか。
まさにキリストの十字架上の執り成し「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」を思い出す。

『わが父よ、ごらんなさい。あなたの上着のすそは、わたしの手にあります。わたしがあなたの上着のすそを切り、しかも、あなたを殺さなかったことによって、あなたは、わたしの手に悪も、とがもないことを見て知られるでしょう。あなたはわたしの命を取ろうと、ねらっておられますが、わたしはあなたに対して罪をおかしたことはないのです。』(1サムエル記24:11)
サウルの上着のすそは刃物で切り取っても、サウルの命には刃を向けなかった。
その行いによって、ダビデは、サウルのいのちを狙うつもりなぞ一切無い事を示した。
さらにダビデは、サウルに、彼自身のおるべき立ち位置を思い起こさせている。

『イスラエルの王は、だれを追って出てこられたのですか。あなたは、だれを追っておられるのですか。死んだ犬を追っておられるのです。一匹の蚤を追っておられるのです。』(1サムエル記24:14)
ダビデはサウルを「イスラエルの王」と呼んだ。
イスラエルの「王」であるなら、もっと他にするべき事はあるでしょう、こんな無害な「死んだ犬」のような者を追う事に、時間とエネルギーを使うよりは、困っている人のためにさばきをしてやるとか、実際の敵であるペリシテ人への防護を強化するなど。

悪霊に憑かれている人を、健全に立ち返らせるためには、「主イエスの名によって悪霊よ出て行け」と声を張り上げるよも、もっと効果的な方法がある。
それは、本人に真理を思い起こさせ、真理における自分の立ち位置に気付かせ、それを口で告白させる事だ。
ダビデはサウルに、彼は「神の国・イスラエルの王」である事を思い起こさせた。私達も、主イエスを信じる信仰によって、神の子であり、王族の祭司であり、聖なる国民であるという真理の立ち位置に立つ時、卑屈だった心、汚れた思い、罪の悩みは霧散するのである。

『ダビデがこれらの言葉をサウルに語り終ったとき、サウルは言った、「わが子ダビデよ、これは、あなたの声であるか」。そしてサウルは声をあげて泣いた。』(1サムエル記24:16)
ダビデの言葉によって、サウルは「人の心」を取り戻した。
『悪しき者の言葉は、人の血を流そうとうかがう、正しい人の口は人を救う。』(箴言12:6)
『正しいくちびるは王に喜ばれる、彼は正しい事を言う者を愛する。王の怒りは死の使者である、知恵ある人はこれをなだめる。』(箴言16:13)

『サウルはまたダビデに言った、「あなたはわたしよりも正しい。わたしがあなたに悪を報いたのに、あなたはわたしに善を報いる。きょう、あなたはいかに良くわたしをあつかったかを明らかにしました。すなわち主がわたしをあなたの手にわたされたのに、あなたはわたしを殺さなかったのです。人は敵に会ったとき、敵を無事に去らせるでしょうか。あなたが、きょう、わたしにした事のゆえに、どうぞ主があなたに良い報いを与えられるように。』(1サムエル記24:17-19)
ダビデはまことに、イエス様のご性質を表している。
人はイエス様に対して悪をはかり、ののしり、十字架につけたのに、イエス様はののしられてもののしり返さず、悪で返す事なく、赦し、執り成し、十字架の死に至るまでも従順を貫き通し、全てのさばきを全能者に委ねられた。

『今わたしは、あなたがかならず王となることを知りました。またイスラエルの王国が、あなたの手によって堅く立つことを知りました。それゆえ、あなたはわたしのあとに、わたしの子孫を断たず、またわたしの父の家から、わたしの名を滅ぼし去らないと、いま主をさして、わたしに誓ってください」。』(1サムエル記24:20-21)
サウルは、今まで心の中で何となく思っていた事が、確信となった。
すなわち、ダビデこそ王の器であり、やがてダビデこそイスラエルの王座につき、イスラエルを正当に建て上げていくという事を。
サウルはその事を「確信」したために、ダビデが王となった際に、自分の子孫を断つ事はしないでほしい、と願ったのだ。

『そこでダビデはサウルに、そのように誓った。そしてサウルは家に帰り、ダビデとその従者たちは要害にのぼって行った。』(1サムエル記24:22)
こうしてダビデはサウルと和解したのだが、サウルと一緒に宮殿へ帰ることは、しなかった。
昨日まで主の嫌われる事に埋没していた人が、悔い改めの言葉を発し、和解したからと言って、両手放しに彼を信頼して身を委ねるのは、早計である。
その前に、彼が日々悔い改めにふさわしい実を結ばようと努力し、その「実」を積み立てるかどうかを、見極める必要があり、彼がしっかり主にあって自制できるようになるまで、しっかり見届けるべきだ。
次章以降のサウルを見ると、残念ながら彼は、悔い改めに相応しい実を結ばせず、以前の悪い状態へと戻ってしまう事になる。

いずれにせよ、サウルに一時的に人の心が戻ったのは、ダビデの愛の行動ゆえである。
私達もダビデのように、与えられた権威に対して、愛と真実をもって接し、多くの人を悪から立ち直らせる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:無防備なサウルに手をかけなかったダビデ(1サムエル記24:1-7):右クリックで保存

前回、サウルはあと一歩の所までダビデに追い迫ったが、ペリシテのために追う事を中断せざるを得なくなり、そうしてダビデは一命をとりとめた。

しかしペリシテ人の件が一段落つくと、サウルはまたもダビデを追いはじめた。

『サウルがペリシテびとを追うことをやめて帰ってきたとき、人々は彼に告げて言った、「ダビデはエンゲデの野にいます」。そこでサウルは、全イスラエルから選んだ三千の人を率い、ダビデとその従者たちとを捜すため、「やぎの岩」の前へ出かけた。』(1サムエル記24:1)
サウルの元にいる兵は、精鋭3000、対するダビデと一緒にいる兵は、雑多なはみ出し者たち600人。
明らかにダビデ達が不利であり、ダビデの危機である。

それでダビデ達は、サウル達を避け、洞穴の一つに隠れ入っていた。
エンゲディという場所は、死海湖岸の洞窟が多い地帯で、死海文書が発見されたクムラン洞窟もある。
ダビデは、洞窟で隠れていた時の心境を、詩篇57編と詩篇142編とに記している。

『聖歌隊の指揮者によって、「滅ぼすな」というしらべにあわせてうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが洞にはいってサウルの手をのがれたときによんだもの
神よ、わたしをあわれんでください。わたしをあわれんでください。わたしの魂はあなたに寄り頼みます。滅びのあらしの過ぎ去るまでは/あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。わたしはいと高き神に呼ばわります。わたしのためにすべての事をなしとげられる神に/呼ばわります。』(詩篇57:1-2)
洞窟の中で隠れていたダビデは、決して積極的な心境ではなく、恐れおののいていおり、主の御翼の影に宿りたい一心を、主に吐露していた。
主はそんなダビデに、唐突に、立場逆転のチャンスを与えられた。

『途中、羊のおりの所にきたが、そこに、ほら穴があり、サウルは足をおおうために、その中にはいった。その時、ダビデとその従者たちは、ほら穴の奥にいた。』(1サムエル記24:3)
口語訳では「足をおおう」と直訳しているが、それが「用を足す」「安楽する」「落ち着く」などの意味がある。
いずれにしても彼は、洞窟内で一人、非常に無防備な状態となり、ダビデ達がいとも簡単に命を取れる状況となったのだ。

主がサウルを自分の手に渡して下さった・・・ダビデも思ったであろうし、部下たちもそう思い、すすめた。
『ダビデの従者たちは彼に言った、「主があなたに告げて、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは自分の良いと思うことを彼にすることができる』と言われた日がきたのです」。そこでダビデは立って、ひそかに、サウルの上着のすそを切った。しかし後になって、ダビデはサウルの上着のすそを切ったことに、心の責めを感じた。』(1サムエル記24:4-5)

無防備なサウルを前に、ダビデの心には、嵐があった。
主は確かに、彼を自分の手に渡してくれた。しかし、サウルに手をかけようとすると、どうしてもできなかった。
ダビデは、無防備状態のサウルのすそを、ひそかに切ったのだが、その事で、ダビデは心の責めを感じた。
部下たちは、一体何をやっているのだ、と、じれったく思っただろう。

『ダビデは従者たちに言った、「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない」。ダビデはこれらの言葉をもって従者たちを差し止め、サウルを撃つことを許さなかった。サウルは立って、ほら穴を去り、道を進んだ。』(1サムエル記24:6-7)
ダビデは決して、部下たちを前に、善人ぶってそうしたのではない。
さっさとサウルを殺して、部下たち共々、逃げ隠れの生活から脱却しようと思えば簡単にできる状況なのに、サウルをみすみす逃がすなど、デメリット以外に思い浮かばない。
それは、主を知らず、生まれつきの行動原理で歩んでいる人には、決して理解できない行動だ。

ダビデは心底、サウルを殺すなど、出来なかったのだ。「主が油を注がれた」「わが君」に、手をかけるなど。
ダビデはサウルを愛していた、というよりも、「サウルに油を注がれた主」を愛していた。だからサウルは、ダビデにとって、主が任命された「上司」であり、主に油注がれた聖なる者である。
いかに、狂ったような素行をしているサウルと言えど、そんなサウルに刃を向けるというのは、主に対して刃を向けるような心境だったのだろう。
だから彼は、すそを切っただけでも、心の責めを感じたのだ。

ダビデは今後、主に油注がれたサウルを、わざとのがした事によって、サウルから命を奪われてしまうのだろうか。
いや、ダビデは主のゆえにこの事をした以上、主が、ダビデの命が奪われる事を許さない。
主を主を重んじる者は、主から重んじられるのだ。
私達も、主が立てて下さった権威に従い、どんなに小さな事でも、主に対してするように、心からするべきである。
そうするなら、主はちょうど良い時に引き上げて下さるからだ。

『だれに対しても悪をもって悪に報いず、すべての人に対して善を図りなさい。あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。
むしろ、「もしあなたの敵が飢えるなら、彼に食わせ、かわくなら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃えさかる炭火を積むことになるのである」。悪に負けてはいけない。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。』(ローマ12:17-21)

礼拝説教メッセージ音声:見知らぬ者にも売られたダビデと、彼を守られる主(1サムエル記23:19-29):右クリックで保存

主はダビデを、あらゆる災いから守り、彼が心萎えた時にはヨナタンを遣わして慰めてくださった。

しかし、彼に敵する者もまたいた。
『その時ジフびとはギベアにいるサウルのもとに上って行き、そして言った、「ダビデは、荒野の南にあるハキラの丘の上のホレシの要害に隠れて、われわれと共にいるではありませんか。それゆえ王よ、あなたが下って行こうという望みのとおり、いま下ってきてください。われわれは彼を王の手に渡します」。』(1サムエル記23:19-20)

ダビデはジフ人を元々知らないし、ジフ人もダビデに何か恨みがあったわけでもなかっただろう。
それなのにダビデを密告したのは、彼らはダビデを差し出す事によって、時の権力者・サウルに気に入られ、地位なり富なりを得たかったのだろう。
ダビデはこの時の心境と祈りを、詩篇54編に記している。
『聖歌隊の指揮者によって琴をもってうたわせたダビデのマスキールの歌。これはジフびとがサウルにきて、「ダビデはわれらのうちに隠れている」と言った時によんだもの
神よ、み名によってわたしを救い、み力によってわたしをさばいてください。神よ、わたしの祈をきき、わが口の言葉に耳を傾けてください。「高ぶる者(ズーア:見知らぬ者、異邦人)」がわたしに逆らって起り、あらぶる者がわたしのいのちを求めています。彼らは神をおのが前に置くことをしません。』(詩篇54:1-3)

ジフ人たちは、ダビデを利用してサウルから地位なり富なりを引き出そうとした事に対し、ダビデは、どこから助けを引き出そうとしたか。
『見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです。神はわたしのあだに災をもって報いられるでしょう。あなたのまことをもって彼らを滅ぼしてください。わたしは喜んであなたにいけにえをささげます。主よ、わたしはみ名に感謝します。これはよい事だからです。あなたはすべての悩みからわたしを救い、わたしの目に敵の敗北を見させられたからです。』(詩篇54:4-7)
私達もダビデのように、見知らぬ者の「ネタ」にされ、不利な状況へと追いやられてしまう事があるかもしれない。
そのような時、私達もダビデのように、主に祈り求めるべきである。
自分を陥れようとした者達は、主の手に明け渡し、自分自身は、主に喜びと感謝のいけにえを捧げるのだ。

『サウルは言った、「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれたのです。どうぞ主(エホバ)があなたがたを祝福されるように。』(1サムエル記23:21)
主エホバの祭司を虐殺させたサウルは、そのあさましい者達を、主エホバの名によって祝福している。
「あなたがたはわたしに同情を寄せてくれた」という理由で。

サウルは前章では、みんなが自分に謀反を企んでいて、誰も自分の事を思ってくれない、と、被害妄想極まる事を言っていたが、もはや、サウルを心底好き好んで関わり、心から彼に同情してくれる人は、いなくなっていたのだろう。
彼の周りに集まって来るのは、彼にへつらって、地位を得ようとするような浅ましい人達だけしか、集まって来なくなってしまっていたのだろう。

『あなたがたは行って、なお確かめてください。彼のよく行く所とだれがそこで彼を見たかを見きわめてください。人の語るところによると、彼はひじょうに悪賢いそうだ。それで、あなたがたは彼が隠れる隠れ場所をみな見きわめ、確かな知らせをもってわたしの所に帰ってきなさい。その時わたしはあなたがたと共に行きます。もし彼がこの地にいるならば、わたしはユダの氏族をあまねく尋ねて彼を捜しだします」。』(1サムエル記23:22-23)
サウルはダビデを「ひじょうに悪賢い」と言った。
おそらく、ダビデがなかなかサウルの思い通りに行動してくれないから、そう言ったのであろうが、ダビデは悪賢さによってサウルから逃れていたのではなく、主が、ことごとくダビデを助けて下さったからであり、そしてサウルのやる事なす事がうまく行かないのは、彼が御心に反する事ばかり行っているため、主に敵対されているからだ。

『そしてサウルとその従者たちはきて彼を捜した。人々がこれをダビデに告げたので、ダビデはマオンの荒野にある岩の所へ下って行った。サウルはこれを聞いて、マオンの荒野にきてダビデを追った。』(1サムエル記23:25)
サウルは今や、ダビデを助ける者であるなら、たとえ祭司であっても、その一族を虐殺するような者である。
ダビデを助ける事には、いのちの危険が伴うのに、それでも、ダビデにサウルが来た事を知らせてくれる「人々」がいた。

サウルは圧倒的権威を持ち、金銀も持っていたのに、彼の元には心から慕って来る人はいなくなり、ただ、サウルに気に入られて権威や金銀を得ようとする人しか来ない。
他方、ダビデには権威も金銀も無いのに、またダビデに味方するなら危険しか無いというのに、彼を慕い、彼を助ける人達が、自然と集まって来た。
主を恐れる人は、主に助けられ、また良き人々からも助けられる。
しかし、主を軽んじる者からは良き人々は逃げていき、その者を利用しようとたくらむ人々だけが集まって来る。
そして、その者がいかに主を恐れる人を憎み、いのちを狙おうとも、主は思い通りにはさせないのだ。

ダビデはイエス様のご性質をよく表している。
イエス様も、世の権威を求め世を愛する者達からは、疎まれ、売られ、あざけられた。
しかし、彼を慕い求める者は、世のものでない御国の幸いを得るのだ。

『サウルは山のこちら側を行き、ダビデとその従者たちとは山のむこう側を行った。そしてダビデは急いでサウルからのがれようとした。サウルとその従者たちが、ダビデとその従者たちを囲んで捕えようとしたからである。』(1サムエル記23:26)
ダビデとサウルは、山ひとつしか隔てが無い程までに、肉薄した。
ダビデ、危機一髪であるが、またもや彼は助かる。

『その時、サウルの所に、ひとりの使者がきて言った、「ペリシテびとが国を侵しています。急いできてください」。そこでサウルはダビデを追うことをやめて帰り、行ってペリシテびとに当った。それで人々は、その所を「のがれの岩」と名づけた。ダビデはそこから上ってエンゲデの要害にいた。』(1サムエル記23:27-29)
ダビデは、実に良いタイミングで救われた。

この「のがれの岩」となって下さったのは、主である。
主はタイミングよくペリシテ人を送って下さり、ダビデが助かるように使者を送って下さったのだ。

主は、全能なるお方である。
そこまでベストのタイミングでダビデを助けられた主は、すぐにでもダビデに平和を与え、王座につかせる事は簡単に出来るが、主があえてそうされないのは、この時期、ダビデを特別に王としての「高等教育」を受けさせておられるからだ。
主は、その愛する者には、このような高等な教育を与えて下さり、守り、敵の前で宴を設けてくださるのだ。

『あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。
あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいけないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。』(1ペテロ1:5-9)

礼拝説教メッセージ音声:滅びを積み立てるサウルと王の整えを積み立てるダビデ(1サムエル記23:6-18):右クリックで保存

『アヒメレクの子アビヤタルは、ケイラにいるダビデのもとにのがれてきた時、手にエポデをもって下ってきた。』(1サムエル記23:6)

祭司皆殺しを命じたサウルからは、祭司はいなくなり、その唯一の生き残り・アビヤタルがダビデの元に逃げてきたので、彼は祭司を得た。
以後、アビヤタルがダビデの専属的な祭司となる。

『さてダビデのケイラにきたことがサウルに聞えたので、サウルは言った、「神はわたしの手に彼をわたされた。彼は門と貫の木のある町にはいって、自分で身を閉じこめたからである」。そこでサウルはすべての民を戦いに呼び集めて、ケイラに下り、ダビデとその従者を攻め囲もうとした。』(1サムエル記23:7-8)
色々と的外れなサウルである。
そもそも、神はサウルを王から退け、ダビデに油を注がれたのに、サウルは「神は」「わたしの手に彼(ダビデ)をわたされた。」と喜んでいる。

サウルがもし自分を国王と名乗るなら、ケイラが襲われた時、その町を救うべきは、彼のはずだったのではないか。
しかしその町を救ったのは、国王から追われているダビデだった。
それなのに、サウルはそれを聞いて、国敵ペリシテは放置して、国を救ったほうのダビデを追い、しかも、自国の町であるケイラを襲ってまで、ダビデを滅ぼそうとしているのだ。
『イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。』(マタイ12:25)

サウルはなぜこんなにも、的を外してばかりいるのだろう。
ギリシア語で「的外れ」はハマルティア、それは「罪」と訳される言葉であるが、御言葉こそ「的」であり、サウルのように、真の「的」である御言葉を退け、自分の好む事をごり押しばかりしているなら、このような的外れの数々を演じてしまうのだ。
的外れから来る報酬は死であり(ローマ6:23)、サウルはやがて、その報酬を受け取ってしまう事になる。それはどんな人にも当てはまる事だ。

私達も、サウルのように、真に憎むべき敵・サタンを怒らず、怒りの矛先は主にある兄弟姉妹に向けたりしていないだろうか。
滅ぼすべき「自分の罪」に御言葉の矛先を向けず、主にある兄弟姉妹を、言葉の剣で切り裂いたりしていないだろうか。
神の国のために貢献したダビデを妬んで追い回したサウルに主が敵対したように、主に貢献し活躍している人を妬んで貶めるなら、その人は主から敵対される。

『ダビデはサウルが自分に害を加えようとしているのを知って、祭司アビヤタルに言った、「エポデを持ってきてください」。』(1サムエル記23:9)
エポデに結び付けられている「さばきの胸当て」には、御心を求める道具「ウリムとトンミム」がある。(出エジプト記28:30)
ダビデは祭司を得て、早速、御心を伺った。

『そしてダビデは言った、「イスラエルの神、主よ、しもべはサウルがケイラにきて、わたしのために、この町を滅ぼそうとしていることを確かに聞きました。ケイラの人々はわたしを彼の手に渡すでしょうか。しもべの聞いたように、サウルは下ってくるでしょうか。イスラエルの神、主よ、どうぞ、しもべに告げてください」。主は言われた、「彼は下って来る」。ダビデは言った、「ケイラの人々はわたしと従者たちをサウルの手にわたすでしょうか」。主は言われた、「彼らはあなたがたを渡すであろう」。
そこでダビデとその六百人ほどの従者たちは立って、ケイラを去り、いずこともなくさまよった。ダビデのケイラから逃げ去ったことがサウルに聞えたので、サウルは戦いに出ることをやめた。』(1サムエル記23:10-13)

主のこたえは、サウルは来る、その時、ケイラの住人はダビデを引き渡す、であった。
それら二つの事は、ダビデがすぐに逃れた事によって、実際は起こらなかったが、主はご存知だった。
ダビデがケイラにいる限り、サウルはケイラごとダビデを滅ぼそうという心がある事、そして、サウルが全部隊を率いてケイラに攻め込んだら、ケイラの住民は、恩人であるダビデを引き渡してしまう「弱さ」がある事を。

主は、人が罪を犯してしまう弱い存在である事を、罪を犯す前から、既にご存知である。
イエス様も、ペテロが三度主を否む前から、既にご存知だった。そのため、ペテロの信仰がなくならないようあらかじめ祈り、立ち直ったら兄弟たちを力づけるようアドバイスを下さっていた。(ルカ22:32)
主は、私達の弱さを先回りして執り成しておられ、また、弱さ故に罪を犯した後も、フォローして下さるお方だ。(ヨハネ21章)

『ダビデは荒野にある要害におり、またジフの荒野の山地におった。サウルは日々に彼を尋ね求めたが、神は彼をその手に渡されなかった。』(1サムエル記23:14)
主はダビデを、あらゆる災いから守って下さった。
主は、主に依り頼む者を守り、助け、必要を備えて下さるばかりでなく、弱っている心をも力づけて下さる。

『さてダビデはサウルが自分の命を求めて出てきたので恐れた。その時ダビデはジフの荒野のホレシにいたが、サウルの子ヨナタンは立って、ホレシにいるダビデのもとに行き、神によって彼を力づけた。そしてヨナタンは彼に言った、「恐れるにはおよびません。父サウルの手はあなたに届かないでしょう。あなたはイスラエルの王となり、わたしはあなたの次となるでしょう。このことは父サウルも知っています」。こうして彼らふたりは主の前で契約を結び、ダビデはホレシにとどまり、ヨナタンは家に帰った。』(1サムエル記23:15-18)
恐れていたダビデは、ヨナタンの訪問と力づけによって、どれほど慰めを得ただろう。

サウルは、国家権力を駆使してもダビデに接触できなかったのに、ヨナタンは、いとも簡単に接触できた。
主がダビデのため、またヨナタンのために導いてくださったからだ。
主には、そこまで出来るのなら、どうして主はすぐにでもサウルを消し去って、即座にダビデを高めてくださらないのだろうか。

主は、全ての人の心に隠されているものが「実を結ぶ」のを待っておられる。(マタイ13:36-43)
人々の意思決定と行動によって、心の内が露わにされ、実を結び、その結んだ実に応じて、主は報いを与えられるのだ。

サウルはこの時点であっても、御言葉に立ち返って悔い改め、救いを得る事も出来たであろうが、彼はあくまで、我が道を行く事を選び続け、滅びの火の燃料を積み上げて行った。
ダビデはこの時点、主に従う事を放棄して、邪悪な行動に出る事も出来たであろうが、彼はあくまで御旨に従う事を選び通し、そうして王としての整えを積み上げて行った。
ヨナタンは、ダビデを力づけたいと願い、主はそれをよしとして、あらゆる都合をつけてダビデに引き会わせ、ヨナタンを通して、ダビデを慰めて下さった。
主は、全て人の自由意志を尊重され、ダビデやヨナタンのように、御旨に叶う事をする人を助け、サウルのように、御旨に適わない事をあくまでする者を、退けられるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:みんなの常識的な意見が主の導きと相対する時(1サムエル記23:1-5):右クリックで保存

逃亡中のダビデ達の所に、一つの知らせが届いた。

『「ペリシテびとがケイラを攻めて、打ち場の穀物をかすめています」。そこでダビデは主に問うて言った、「わたしが行って、このペリシテびとを撃ちましょうか」。主はダビデに言われた、「行ってペリシテびとを撃ち、ケイラを救いなさい」。』(1サムエル記23:1)

ダビデ一行は、サウル王の軍隊から追われている状況だ。
ケイラを助けるのは、もっとゆとりのある人に任せる事ができるだろうし、何より、それはサウル王の仕事であろう。
にも関わらず、「わたしが行くべきでしょうか」と主に尋ねるのが、ダビデのダビデたる所以である。
彼はゴリヤテの時も、生ける神の陣がなぶられる事を許しておけなかったし、羊の一頭でも、ライオンに持っていかれるのを許しておけなかった。
彼は、キリストのように、一人の魂でも、滅んで行く事を許していられない性格だったのだ。

主の御心は、「行け」だった。
ダビデは早速、部下達に伝達しただろう。これから我々はケイラを救いに行く、だから準備せよ、と。
『しかしダビデの従者たちは彼に言った、「われわれは、ユダのここにおってさえ、恐れているのに、ましてケイラへ行って、ペリシテびとの軍に当ることができましょうか」。』(1サムエル記23:3)
常識的に考えるなら、彼らの言う事のほうが、もっともである。
今、自分たちはそんな場合ではない、むしろ、自分たちの身を案じるべきだ、と。

私達も信仰生活を送る上で、このようなジレンマに陥る事がある。
主の御心は「行け」なのに、常識や世の人は「行くな」と言い、そのはざまに揺れる事が。
せっかく、なけなしの信仰を奮い立たせて実行しようとしたのに、周りが早速「NO」をつきつけてくる事が。

人目を気にするサウルなら、迷わず、主の御旨を退け、人の意見を採用していただろう。
しかし、ダビデは違った。
彼は、もう一度、主に伺った。
『ダビデが重ねて主に問うたところ、主は彼に答えて言われた、「立って、ケイラへ下りなさい。わたしはペリシテびとをあなたの手に渡します」。』(1サムエル記23:4)

主の意見は、同じであった。
しかも今度は、より明確に、勝利の約束まで与えて下さった。
主は、一度導きを与えたなら、もう二度とは言わないようなお方ではなく、不安だったらもう一度問うて良いのだ。
ギデオンも、最初はそうだった。
しかし、何度も尋ね、何度もgoサインをいただき、しるしまで頂いておきながら、結局、行かないような者は、主はそのうち御顔を背けてしまう。
出エジプトの民やバラム、そしてサウルがそうだった。

『ダビデとその従者たちはケイラへ行って、ペリシテびとと戦い、彼らの家畜を奪いとり、彼らを多く撃ち殺した。こうしてダビデはケイラの住民を救った。』(1サムエル記23:5)
戦果は、大勝利だった。
彼らの集いは既に六百人に増えていたので、一日を過ごすだけで、かなりの食料が必要であろう。しかし、この戦いをしたお陰で、必要を満たす事が出来た。

ダビデは、「主に伺う」事をいつもしており、苦境にある聖徒たちや兄弟姉妹のためには、自分の考慮をせず、ただ助け出さずにおれない性質である。
彼のように、自分の心配をする以前に、主に伺い、主の御旨どおり行動する人は、いつも大勝利し、またいつも必要が満たされるのだ。

自分には今、あの兄弟姉妹、あの教会を助ける余裕など無い、というような時でも、主は「行け」「助けよ」と言われる事がある。
そのような時こそ、行くべきである。
主は、救う力も必要な資力も与えて下さり、行って、勝利し、救ったなら、全以前よりも富む者とされ、関わった全ての人達が主の栄光を見るのだ。

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