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メッセージ - ルツ記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:永遠に続く王族への嫁入り(ルツ記4:14-22):右クリックで保存

いよいよ今回でルツ記も最後である。

ナオミは最初、満ち足りて出て行ったが、神の国で信仰によって忍耐するべき所から逃げて、世にパンを求めて行った者たちは皆、死に絶え、ナオミは全て失って、そして神の国へと戻った。その時の彼女は、自分を「ナオミ(心地よい)」とは呼ばず、「マラ(苦い)」と呼んで下さい、と皆に言った。
しかし今や、彼女は皆に祝福され、決して色褪せる事の無い真の「ナオミ」へと造り変えられた。
パンやお金、夫や息子などで満ち足りるという「心地良さ(ナオミ)」は、いつマラになってもおかしくはない。
しかし、全能の主を信じる信仰によって、「マラ」は決して色褪せない「ナオミ」へと造り変えられるのだ。

『そのとき、女たちはナオミに言った、「主はほむべきかな、主はあなたを見捨てずに、きょう、あなたにひとりの近親をお授けになりました。どうぞ、その子の名がイスラエルのうちに高く揚げられますように。彼はあなたのいのちを新たにし、あなたの老年を養う者となるでしょう。あなたを愛するあなたの嫁、七人のむすこにもまさる彼女が彼を産んだのですから」。』(ルツ記4:14-15)
女達はナオミに、ルツは「七人の息子にも勝る」と称した。
信仰によって生み出した霊的な息子・娘は、肉による子が何人いるにも勝るのである。

『そこでナオミはその子をとり、ふところに置いて、養い育てた。近所の女たちは「ナオミに男の子が生れた」と言って、彼に名をつけ、その名をオベデと呼んだ。彼はダビデの父であるエッサイの父となった。』(ルツ記4:16-17)
申命記25章6節によるなら、この子の名は、子を残さずして死んだ男の名を絶やさないために「マフロン」となる所だが、女たちはなぜか、その子を「オベデ」と呼んだ。
ルツの亡夫「マフロン」の名には、「大きな欠点」「病弱」という意味があり(ちなみにオルパの夫キルヨンは「浪費する」「消え失せる」の意味)、「オベデ」の名には「仕える」「僕」という意味がある。
女たちは、「彼はあなたのいのちを新たにし、あなたの老年を養う者となるでしょう。」という事で、「僕」と呼んだのかもしれないが、それらの名は、実に象徴的である。

世の人は、罪という病の故に、欠点があったり、弱かったりして、人を養う責任を果たす事はできない。
しかし、信仰によって生み出した「信仰による子」は、「しもべ」となって、その責任を完全に果たす事が出来る。すなわち、ルツの子オベデは、ナオミの老後を養う者となり、その子孫から「主のしもべダビデ」が生まれ、そしてさらに、その28代後には、生ける神のしもべ・キリストがお生まれになった。
このキリストこそ、罪の借金を全て肩代わりし、私達の人生の責任を完全に負ってくださるのである。

『さてペレヅの子孫は次のとおりである。ペレヅからヘヅロンが生れ、ヘヅロンからラムが生れ、ラムからアミナダブが生れ、アミナダブからナションが生れ、ナションからサルモンが生れ、サルモンからボアズが生れ、ボアズからオベデが生れ、オベデからエッサイが生れ、エッサイからダビデが生れた。』(ルツ記4:18-22)
こうして、一介の貧しい未亡人ナオミとルツは、彼女達の「祝福の言葉」と「信仰」と「誠実」によって、聖書の中で最も重要な家系であるダビデの家系、すなわち、イエス・キリストの家系へと組み入れられた。
ここに記されている家系には、もはやエリメレクも、マフヨンもキルヨンも、一切記されていない。
法律の登記上は、その名が記されていたのかもしれないが、永遠の書物には、そのような肉に属する名はなく、天に属する新しい名が記されるのだ。

『もろもろの国はあなたの義を見、もろもろの王は皆あなたの栄えを見る。そして、あなたは主の口が定められる/新しい名をもってとなえられる。また、あなたは主の手にある麗しい冠となり、あなたの神の手にある王の冠となる。
あなたはもはや「捨てられた者」と言われず、あなたの地はもはや「荒れた者」と言われず、あなたは「わが喜びは彼女にある」ととなえられ、あなたの地は「配偶ある者」ととなえられる。主はあなたを喜ばれ、あなたの地は配偶を得るからである。若い者が処女をめとるように/あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように/あなたの神はあなたを喜ばれる。』(イザヤ62:2-5)

ルツ記は、死と悲しみの内に始まったが、いのちの喜びに終わる。
途絶えてしまいそうだった家は、永遠に続く王族の家系へと組み入れられた。
福音とは、そういうものである。
以前の古い生き方は過ぎ去り、以前の不完全な夫から、完全な夫・イエスキリストへと組み入れられ、彼に養われ、全てが新しく完全にされ、もはや死も、貧しさも、不足も、病も、悲しみも、憂いも、涙も、完全に拭い去られるのだ。

ナオミやルツのように、信仰によって以前のものを過ぎ去らせ、完全な夫・キリストの元に養われ、永遠の王族の家系に組み込まれ、全てが新しく造り変えられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:買い戻されたルツとエリメレクの家(ルツ記4:9-13):右クリックで保存

『ボアズは長老たちとすべての民に言った、「あなたがたは、きょう、わたしがエリメレクのすべての物およびキリオンとマロンのすべての物をナオミの手から買いとった事の証人です。またわたしはマロンの妻であったモアブの女ルツをも買って、わたしの妻としました。これはあの死んだ者の名を起してその嗣業を伝え、死んだ者の名がその一族から、またその郷里の門から断絶しないようにするためです。きょうあなたがたは、その証人です」。』(ルツ記4:9-10)

こうしてボアズは、神と人との前に正当な手続きをし、エリメレクの家のもの全てを贖い、ルツを正式に妻としてめとった。

ボアズよりも近い買い戻しの権利のある人は、自分の相続を失ってしまう危険性があったため、辞退したが、ボアズは自分の相続や財を失うような危険は顧みずに行った。
私達の主であり、買い戻しの権利のある方、家を絶やさぬ責任のある方イエスも、神の子としての相続権を全て投げ出し、私達・信じる者を贖い、花嫁として引き入れて下さった。
ボアズが、死んだ者の名を絶やさないために、ルツを引き入れてくれたように、イエス様も、罪の中に身を持ち崩して死んでしまったような私達を、買い戻し、花嫁として引き入れて下さった。
神は、大事なひとり子を投げ打ってでも助けられた程に、世を愛された。
その主の愛と贖いは、なんと尊く、なんと深いだろうか。

『すると門にいたすべての民と長老たちは言った、「わたしたちは証人です。どうぞ、主があなたの家にはいる女を、イスラエルの家をたてたラケルとレアのふたりのようにされますよう。どうぞ、あなたがエフラタで富を得、ベツレヘムで名を揚げられますように。どうぞ、主がこの若い女によってあなたに賜わる子供により、あなたの家が、かのタマルがユダに産んだペレヅの家のようになりますように」。』(ルツ記4:11-12)
ボアズは、人々から祝福の内に送り出された。
普通の人なら躊躇するような贖いのわざを行うために、公の門前で、為すべき手順をしっかり踏んで行ったからだ。

人々は、ルツに対しては「イスラエルの家をたてたラケルとレアのふたりのように」という祝福を、ボアズに対しては「エフラタで富を得、ベツレヘムで名を揚げ」るようにという祝福をし、そして、新しくスタートするボアズとルツの家庭には、「タマルがユダに産んだペレヅの家のように」という祝福を与えた。
このように、祝福の内に人々に送り出されたこの一家は、その祝福された通りに力を増し、栄え、そして後には王族の家系へと、なって行く。
自分の事を顧みず、御言葉に従い、愛と憐れみわざを惜しまず行うなら、神と人とに愛され、さらに祝福されて行くのだ。

ボアズよりも近かった、かの親類は、確かに自分の畑を失うようなリスクも無く、財産も損なわずに、その後を生きたかもしれない。
しかし彼は、ボアズに与えられたような祝福を逃したばかりでなく、永遠の書物にはついに名が記されないままであったが、ボアズのほうは、自分の相続地を失う事も無く、むしろ永遠の書物に名が記され、新約聖書でも1章から、ルツと共にその名が記される栄誉にあずかった。
世のものを得ようとするなら、それを失い、主の御言葉に従うゆえに、世のものを失うなら、永遠の内に、それを得るのだ。
『自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。 』(マタイ16:25-26)

『こうしてボアズはルツをめとって妻とし、彼女のところにはいった。主は彼女をみごもらせられたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。』(ルツ記4:13)
主は、神の民に真実を尽くし御翼の陰に避けどころを求めて来たルツに報い、そんなルツを保護し購ったボアズに、報いて下さった。
主は全て、神の民に真実を尽くし、主を避け処に求めて来る人や、そんな彼らを保護する人に、報いられないわけが無いのだ。

礼拝説教メッセージ音声:買い戻しの手続きを正当に行うボアズ(ルツ記4:1-8):右クリックで保存

ボアズはルツの願いを叶える手続きをするために、町の門の所へ行った。

当時、町の門の所は、重要な取引や裁判などが行われる場所である。
『ボアズは町の門のところへ上っていって、そこにすわった。すると、さきにボアズが言った親戚の人が通り過ぎようとしたので、ボアズはその人に言った、「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください」。彼はきてすわった。ボアズはまた町の長老十人を招いて言った、「ここにおすわりください」。』(ルツ記4:1-2)
日本語の聖書では「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください」と訳されているが、原文は、「そこの君、こちらに来て、そこに座りなさい」というように、目上の人が目下の人に指示するような感じである。
だから、ボアズはその親戚より目上で、しかも彼は町の長老10人を呼んで座らせる程の有力者だったようだ。

『彼らがすわった時、ボアズは親戚の人に言った、「モアブの地から帰ってきたナオミは、われわれの親族エリメレクの地所を売ろうとしています。それでわたしはその事をあなたに知らせて、ここに座っている人々と、民の長老たちの前で、それを買いなさいと、あなたに言おうと思いました。もし、あなたが、それを贖おうと思われるならば、贖って下さい。しかし、あなたがそれを贖わないならば、わたしにそう言って知らせてください。それを贖う人は、あなたの他にはなく、わたしはあなたの次ですから」。』(ルツ記4:2-4)
ボアズは人々の前で、堂々と手順を踏んだ。
有力者たる人のたしなみは、正当な手順を踏みつつ、人々の前で堂々と物事を行う人である。

物事には、手順がある。集団で物事を行う手順、契約を結ぶ手順、男女関係における手順など。
そうした手順を、正当に踏んで行うなら、誰にも非難されるところは無く、人々から祝福を受けつつ人生を送るのだが、為すべき手順を面倒くさがったり、ないがしろにするような人は、いつまでも人から認められなかったり、重要な事が任せられなかったりする。

『彼は言った、「わたしがあがないましょう」。そこでボアズは言った、「あなたがナオミの手からその地所を買う時には、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買って、死んだ者の名を起してその嗣業を伝えなければなりません」。その親戚の人は言った、「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます。あなたがわたしに代って、自分であがなってください。わたしはあがなうことができませんから」。』(ルツ記4:4-6)
その人は、ルツをも買い戻さなくてはならない、と聞いた途端、及び腰になった。なぜなら、「そんなことをすれば自分の嗣業(相続地)をそこないます」から。

買戻しの話とは、買戻す側にとっては、デメリットしか無いような話である。
なぜなら、落ちぶれてしまった親類(エリメレクやナオミ、ルツ)の畑を買い戻す時、ヨベルの年までの年数に従ったレートで買い戻すのだが、その畑は自分のものとはならない。
そして、死んでしまった人の妻をめとって、その最初に生まれた男子に、死んでしまった親類の名を継がせて、そしてその畑はその子のものとなり、自分のものとはならない。
だから、もし男子が一人しか生まれないなら、自分の相続地をそこなう事になりかねないのだ。

『むかしイスラエルでは、物をあがなう事と、権利の譲渡について、万事を決定する時のならわしはこうであった。すなわち、その人は、自分のくつを脱いで、相手の人に渡した。これがイスラエルでの証明の方法であった。そこで親戚の人がボアズにむかい「あなたが自分であがないなさい」と言って、そのくつを脱いだ』(7-8節)
くつを脱いで相手に渡す。それは実に象徴的な行為である。
主は、アブラハムやヨシュアに「あなたの足の裏で踏む所は、ことごとく与えた」と言ったが、靴を脱いで相手に渡す事は、その土地を踏み歩く権利を、相手に渡した事であり、当時のイスラエルにおいては、買戻しの権利を譲渡する事の正式な証明方法である。
だから、妻とすべき女性をめとる事を嫌がって「くつを脱がされた者の家」(申命記25:10)と烙印を押される事は、イスラエルの土地を踏み歩く権利を脱がされた者として、かなりの恥辱となるのだ。

人が頼ろうとする「世のもの」、すなわち、世の富や会社組織、家族や親類、そして最愛の伴侶さえ、その人の身を完全に保証するは、出来ない。
そのものに、富が無かったり、能力が無かったり、あるいは、その人を無責任にも手放してしまったり、裏切ったり、そして、亡くなってしまったりする可能性が、いつもつきまとうからだ。
しかし、まことのボアズである主イエス様は、そのような事が決して無い。

この御方の御衣の内に匿われ、決して途絶えることのない助けを手に入れる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:為すべき分を果たしたら、落ち着いて信頼する(ルツ記3:12-18):右クリックで保存

ルツはナオミに言われた通り、身を洗い整えてボアズの所へ行き、そして、買い戻しを行使して下さい、と、律法を盾にしてボアズに願い出た。

次は、ボアズが彼女に応える番だ。
私達も、主の御前に心身を整えて進み出て、あなたは私を購って下さるお方です、と、御言葉を盾にして申し出るなら、次は主がその後の手続きを為して下さる番となる。

『たしかにわたしは近い親戚ではありますが、わたしよりも、もっと近い親戚があります。今夜はここにとどまりなさい。朝になって、もしその人が、あなたのために親戚の義務をつくすならば、よろしい、その人にさせなさい。しかし主は生きておられます。その人が、あなたのために親戚の義務をつくすことを好まないならば、わたしはあなたのために親戚の義務をつくしましょう。朝までここにおやすみなさい」。』(ルツ記3:12-13)
ボアズは、彼よりも近しい親類を差し置くのは、道理に適っていない、だからまずは、その人に伺いを立ててから、と言った。
士師記は不誠実と混沌に満ちていたのに引き換え、ルツ記の人物達は、なんと道理と誠実に満ちているだろうか。
主は、そのような彼らには誠実と真理をもって応えてくださるが、不誠実な者に対しては、不誠実でもって答えられる。
こうしてこの件は一旦、ルツやナオミ、ボアズ達の制御外の事となる。

『ルツは朝まで彼の足のところに寝たが、だれかれの見分け難いころに起きあがった。それはボアズが「この女の打ち場にきたことが人に知られてはならない」と言ったからである。そしてボアズは言った、「あなたの着る外套を持ってきて、それを広げなさい」。彼女がそれを広げると、ボアズは大麦六オメルをはかって彼女に負わせた。』(ルツ記3:14-15)
ボアズはもしかしたら、ルツがこうして来た事はナオミの仕業だと感づいたのかもしれない。
いずれにせよボアズは、ルツのために便宜を図る。
彼女が朝早くから働いていたように見せるために、そしてまた、しゅうとナオミの所に手ぶらで帰らせないために、大麦六オメルを持たせてやった。
私達の主も同じように、主の前に進み出て訴えたなら、そのまま手ぶらで帰らせる事なく、また、人々の蔑みにならないように、便宜を計って下さるのだ。

『彼女は町に帰り、しゅうとめのところへ行くと、しゅうとめは言った、「娘よ、どうでしたか」。そこでルツはその人が彼女にしたことをことごとく告げて、言った、「あのかたはわたしに向かって、から手で、しゅうとめのところへ帰ってはならないと言って、この大麦六オメルをわたしにくださいました」。しゅうとめは言った、「娘よ、この事がどうなるかわかるまで「お待ちなさい(ヤーシャブ)」。あの人は、きょう、その事を決定しなければ落ち着かないでしょう」。』(ルツ記3:15-18)
ヤーシャブには「住む、とどまる、座る」という意味がある。
今や、ナオミの言うとおりに従順したルツが為すべき事は、落ち着いて静かに座す事であり、あとはボアズが動いて手続きをして下るのを、待つのみとなった。

私達も、従順の行動をした後、ただ落ち着いて信頼するなら(イザヤ30:15)、あとは主が動いて下さり、全ての手続きをして下さるのだ。
『主に信頼して善を行え。そうすればあなたはこの国に住んで、安きを得る。主によって喜びをなせ。主はあなたの心の願いをかなえられる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにし、あなたの正しいことを真昼のように明らかにされる。』(詩篇37:3-6)

今、皆さんは、報いられるべき事が報いられていない事が、あるだろうか。
悪しき者に不当に蹂躙されているだろうか。
皆さんもルツのように、主に依り頼んで助けを求めて行くなら、主はその人の義を光のように明らかにし、そのさばきを真昼のように明らかにされるのである。

礼拝説教メッセージ音声:ルツの大胆な行動の根拠(ルツ記3:6-11):右クリックで保存

ルツは、義理の母に言われた通り、身を洗って油を塗り、晴れ着をまとって、そうしてボアズの所へ行った。

ルツはこれから、ボアズに重大な訴えをしに行く。
このまま夫もなく何の実りも結ばないまま枯れていってしまう自分と、自分の家・エリメレクの家とを、買い戻して下さい、と。

重要な訴えをしに行くのなら、まず、外側を整えるべきである。
エステルも、雅歌の女もその身を飾って、王であり夫である方の前に進み出た。
私達も、キリストという、王であり夫であり、家を絶やさぬ責任のある方の前に進み出る時は、身なりを整える心持ちが必要である。

『夜中になって、その人は驚き(原意:震えて)、起きかえって見ると、ひとりの女が足のところに寝ていたので、「あなたはだれですか」と言うと、彼女は答えた。「わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは「最も近い親戚(ゴエル)」です」。』(ルツ記3:8-9)
ルツは、心を尽くし、思いを尽くし、全てを賭けてボアズに訴えた。
自分はあなたのはしためである、あなたの衣の裾でわたしを覆って下さい、あなたはゴエル、すなわち、わたしの家を絶やさぬ責任のあるお方です、と。

私達はルツが、何と大胆な事をしたものだろう、と思うかもしれない。
彼女は最初、ボアズから恵みをいただいた時、こんなイスラエルからは蔑まれているモアブ人である自分に、どうしてそんなに見合わぬ恵みを下さるのですか、と、驚いた。
そんな彼女が、どうしてこんなにも大胆にボアズの前に進み出られたのだろう。
それは、彼女がボアズと結ばれる事は、律法に適っているから、むしろ律法によるなら、ルツが結婚しなくてはならない相手は、ゴエル以外には無いからだ。

『ボアズは言った、「娘よ、どうぞ、主があなたを祝福されるように。あなたは貧富にかかわらず若い人に従い行くことはせず、あなたが最後に示したこの親切は、さきに示した親切にまさっています。それで、娘よ、あなたは恐れるにおよびません。あなたが求めることは皆、あなたのためにいたしましょう。わたしの町の人々は皆、あなたがりっぱな女であることを知っているからです。』(ルツ記3:10)
ボアズは、彼女の行動を褒め、祝福した。
なぜなら、彼女が示したこの”親切”は、さきに示した”親切”に勝っているからだと言う。

先に示した親切とは、ルツがナオミの夫エリメレクが死んで以来、ナオミのために世話をし、見ず知らずの国イスラエルへと入って行き、イスラエルの神・主を頼りにして来た事だ。
そして後に示した親切とは、そのエリメレクの家を買い戻すために、好き勝手な相手を見つけて結婚する道を捨て、その身を捧げて、ゴエルであるボアズの所に来た事だ。
彼女とボアズとは、かなり歳が離れていただろう。
どうせ結婚するなら、年齡に見合った、若い人と結婚したい所であろうが、彼女は若い人の所に行く事をせず、ナオミのため、エリメレクの家ため、そして、神の律法に従うために、ボアズの所へ来た。だからボアズはその”親切”を褒めたのだ。

私達も、律法、御言葉に適っている願いを持って主の御前に進み出るなら、主は叶えてくださる。
私達の罪深さや不完全さを見るに、そんな大それた恵みをいただくには相応しくない、と思えるかもしれない。
しかし主は言っている。
わたしが贖い主である、わたしの所に来なさい、と。
『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。――主の御告げ。――あなたを贖う者(ゴエル)はイスラエルの聖なる者。』(イザヤ41:13-14)
『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖った(ゴエル)のだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。』(イザヤ43:1)

そうであるからには、私達はその主のご好意にあずかって、御前に進み出るべきであり、それこそ主の目に真実な行動である。
むしろ、「自分は相応しくない」などと言って御前から遠ざかる事こそ、神の御子キリストがいのちを投げ出してまでを成し遂げて下さったその尊い「買い戻し」を、ないがしろにする事である。

私達はただ、「あなたは買い戻しの権利のある方です」と言いつつ、大胆に、恵みの御座に近づいて、おりにかなった助けを受けるのみである。

礼拝説教メッセージ音声:真の落ち着き所へ入るための整え(ルツ記3:1-5):右クリックで保存

『時にしゅうとめナオミは彼女に言った、「娘よ、わたしはあなたの”落ち着き所(原意:家庭、憩いの場所、休みの場所)”を求めて、あなたをしあわせにすべきではないでしょうか。』(ルツ記3:1)

女性にとって落ち着き所、憩いの場所は、男性の左腕の下(雅歌2:6)、脇腹の所(創世記2:21-22)である。
当時、女性の落ち着き所である男性へと導く事は、親や、霊的指導者など、信仰的にしっかりしている人に任せるのが通例だった。

現代のいわゆる”婚活”は、いかに自分好みの、いかに条件の良い相手を見つけ、そのような人との結婚へといかに持っていくかという、自分主体な駆け引き的なものがあるが、”神の国の婚活”は、その真逆である。
神の国の婚活は、イサクの結婚のように、自分の意図や駆け引きは一切なく、霊的指導者や親に一任し、そして何より、主の御心を求めて行うものである。(創世記24章)
自分の好みや、目の慕わしさに従って結婚相手を選ぶとしたら、聖書では、大体良くない結末となってしまうからだ。(創世記6章、士師記14:3)
だから、自分よりも霊的見地が優れた親や指導者がいるなら、その指示を仰いだほうが良い。

『あなたが一緒に働いた女たちの主人ボアズはわたしたちの親戚ではありませんか。彼は今夜、打ち場で大麦をあおぎ分けます。それであなたは身を洗って油をぬり、晴れ着をまとって打ち場に下って行きなさい。ただ、あなたはその人が飲み食いを終るまで、その人に知られてはなりません。そしてその人が寝る時、その寝る場所を見定め、はいって行って、その足の所をまくって、そこに寝なさい。彼はあなたのすべきことを知らせるでしょう」。』(ルツ記3:2-4)
独身の女性が、男性の寝ている所をまくって、そこに入って寝る。
それは神の民である私達が聞くなら、眉をひそめるような事と思われるが、どういう事だろうか。

ナオミが指示したのは「足の所をまくってそこに寝なさい」「そうすれば、後に為すべき事を彼から教えてもらえる」であり、決して体で誘惑しなさい、というような事ではなかった。
ナオミは知っていたのだ。ボアズは分別を失うような男性ではない、むしろ、律法にかなった事を求めたルツに、その後彼女が為すべき事を、きっと教えてくれるだろう、と。
そして律法においては、ルツが、買い戻しの権利のある男性・以外の所へ行くほうが、不真実なのだ。

クリスチャンである私達には、積極的に飛び込んでいくべき「買い戻しの権利のある御方」がいる。それは、キリストである。
私達も、キリストが寝ている所に、すなわち、十字架の死の眠りについているキリストへと寄り添い、彼の死と一体化するべきだ。
そうするなら、キリストの復活と共に、私達も復活するのだ。(ローマ6:5)

ルツはナオミから「身を洗って」「油をぬり」、「晴れ着をまとって」、買い戻しの権利のある人・ボアズの所へ行くようにと指示したが、私達も、キリストという真の買い戻しの権利のあるお方の御前に出るために、「身を洗って」「油をぬり」、「晴れ着をまとって」行くべきである。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26)
私達は御言葉の水によって心と霊とを洗い清め、そして聖霊の油を塗り、キリストが与えて下さった贖いの衣、すなわち、キリストの裂かれた体を身にまとって、キリストの元へと行くのだ。
ヤコブが父イサクから祝福を受ける時、兄のふりをして、動物の毛衣をまとったように、また、エステルが王の元へ行く時、王妃の衣装を身にまとったように。
身に何もまとわないで、そのまま行くとしたら、外の暗闇に放り出されてしまう。(マタイ22:11-13)

『ルツはしゅうとめに言った、「あなたのおっしゃることを皆いたしましょう」』(ルツ記3:5)
ルツは、霊的指導者であるナオミの言う事に従った。
それで彼女は、ますます幸いを得ていく。

礼拝説教メッセージ音声:買い戻しの権利のあるお方(ルツ記2:19-23):右クリックで保存

ナオミは、ルツが持ってきた23リットルという分量の大麦と、彼女が持って来た炒り麦とを見て、驚いた。

このようなものは、誰の助けも借りずに得られるものではない。
『しゅうとめは彼女に言った、「あなたは、きょう、どこで穂を拾いましたか。どこで働きましたか。あなたをそのように顧みてくださったかたに、どうか祝福があるように」。そこで彼女は自分がだれの所で働いたかを、しゅうとめに告げて、「わたしが、きょう働いたのはボアズという名の人の所です」と言った。ナオミは嫁に言った、「生きている者をも、死んだ者をも、顧みて、いつくしみを賜わる主が、どうぞその人を祝福されますように」。』(ルツ記2:19-20)

ナオミは一見、何も人の役に立てない一老婦人に見えるかもしれない。
しかし彼女は、ルツ記中、最も偉大なものを多くの人々に惜しみなく与えた事に、気づいているだろうか。
その偉大なものとは「祝福」である。
実際ルツもボアズも、貧しく弱々しい時のナオミが祝福したその祝福の言葉通りになっている。

ナオミは、1章8-9節で、嫁達に「主があなたがたに恵みを賜わり、あなたがたが、それぞれ夫の家で平和な暮らしができるように主がしてくださいますように。」と祝福した通りに、ルツはその後、ボアズという素晴らしい夫を得て、平和な暮らしができるようになった。
またナオミは、今回の箇所でもボアズを2度祝福したが、ボアズはその子孫からダビデ王が生まれ、王族の家系となり、さらに後には、キリストという偉大な王さえ生まれ出た。

ナオミが祝福した、その言葉どおりに嫁もボアズも祝福され、その祝福の恩恵の内にナオミは後生を過ごした。
いかに何も出来ないかのように見えても、また何も持っていないかのように見えても、そのくちびるから祝福の言葉を惜しみなく出すなら、その言葉どおりにその人自身が祝福されるのだ。
私達もぜひ、祝福の挨拶を自分のものとしたいものである。

『ナオミはまた彼女に言った、「その人はわたしたちの縁者で、最も近い親戚(原文:ゴエル)のひとりです」。モアブの女ルツは言った、「その人はまたわたしに『あなたはわたしのところの刈入れが全部終るまで、わたしのしもべたちのそばについていなさい』と言いました」。』(ルツ記2:20b-21)
このゴエルというヘブライ語は、「買い戻しの権利のある親類」「家を絶やさぬ責任のある人」とも訳す事が出来る言葉である。
律法では、身代を持ち崩してしまった人、落ちぶれてしまった人などを救うために、近親者が「買い戻しの権利のある親類」「家を絶やさぬ責任のある人」となって、救わなければならない事が定められている。(レビ記25:23-34)

この、「買い戻し(あるいは「贖い」)」というキーワードは、ルツ記だけでなく、聖書全体を通じて非常に重要なキーワードであり、現代を生きる私達一人ひとりにも関わってくる、重要な言葉である。
現代の私達をも「買い戻して」くださるお方がおられる。
『あなたを造られた者はあなたの夫であって、その名は万軍の主。あなたを”あがなわれる者(ゴエル)”は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる。・・・あふれる憤りをもって、しばしわが顔を隠したけれども、とこしえのいつくしみをもって、あなたをあわれむ」とあなたを”あがなわれる(ゴエル)”主は言われる。』(イザヤ54:5,8)

主が律法で、買い戻しを律法で制定されたように、主は、全世界すべての人々の買い戻しをも、ご自身で定められた。
全世界すべての人々は、一体何から買い戻されなくてはならないのか。
それは、全人類重くのしかかっている「罪」と「死」という負債からである。
主は一体、何を代価として買い戻しをされるのか。
それは、神の御子・キリストの尊い命によって、すなわち、彼の十字架上の身代わりの死によって、である。

主キリストこそ、まことに私達を「あがなわれる者」であり、私達の家を絶やさぬ責任のある方、買い戻しの権利のある方である。

礼拝説教メッセージ音声:恵みの深みへと立ち入らせてくれるボアズ(ルツ記2:14-18):右クリックで保存

ルツはボアズに謙虚な返事をし、その好意にあずかりたいと求めて来たため、ボアズはさらにねんごろに(親密に)、彼女を食事に招く。

『「ここへきて、パンを食べ、あなたの食べる物を酢に浸しなさい」。彼女が刈る人々のかたわらにすわったので、ボアズは焼麦を彼女に与えた。彼女は飽きるほど食べて残した。』(ルツ記2:14)

パンに酢を浸して渡す行為は、特別な親しみ・親愛の情を示す表現である。
イエス様は最後の晩餐の席で、裏切り者は誰かと弟子達に問われた時、それは自分がパン切れを浸して渡す人だと言ってから、イスカリオテのユダにパンを渡した。
状況的に、ユダが裏切り者だと示しているのは明白なはずなのに、弟子達はなぜか「祭りに必要な物を買いなさい」とか、「貧しい人に何か施すように」とか、ユダに言われたのだと思った。(ヨハネ13章)
きっとその時のイエス様の所作は、裏切り者を示す行為だとは到底思えない程、ユダへの親愛の情に満ちていたからであろう。

ボアズはルツに、パンだけでなく、炒り麦もたくさん与えた。
その量は食べきれない程だったため、彼女はその残りをナオミのために取っておいた。
私達もルツのように、まことのボアズである主の御前に、謙虚でいるなら、主は更にねんごろに語りかけ、食事を共にし(黙示録3:20)、家族も養えるようにと、押入れ揺すり入れして与えてくださるのだ。

『そして彼女がまた穂を拾おうと立ちあがったとき、ボアズは若者たちに命じて言った、「彼女には束の間でも穂を拾わせなさい。とがめてはならない。また彼女のために束からわざと抜き落しておいて拾わせなさい。しかってはならない」。』(ルツ記2:15-16)
穂束が積まれている所は、落ち穂がたくさん落ちているが、他人にはあまり立ち入らせたくない領域である。
しかしボアズは、彼女をそこへ立ち入らせる事をゆるしたばかりでなく、わざと穂を落として、彼女が拾えるようにしてやった。

まことのボアズである私達の主も、謙虚でいる人には、さらに恵みが落ちている領域へと入らせて下さる。
そして、天の御蔵に入っている諸々の良きもを、わざと抜き取って、私達のために落として下さるのだ。
なぜこんなにも、恵みを下さるのだろうか。

ボアズ自身、異邦人としての苦労を、沢山味わってきただろう。
彼は、ルツの境遇の労苦をよく知っていたため、母のために頑張って働いている彼女のために、進んで便宜を計ってやりたかったのだろう。

ボアズがルツのそばに来て、ねんごろに語りかけ、良くしてくれたように、私達の主も、人となって私達の所に降りて来られ、人の弱さを知り、理解しておられる。
『この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。』(ヘブル4:15-16)
主はボアズのように、恵みの御座へと大胆に入ってきていいよ、そして時にかなった助けを受けに来なさい、と、招いて下さるのだ。

『こうして彼女は夕暮まで畑で落ち穂を拾った。そして拾った穂を打つと、大麦は一エパほどあった。彼女はそれを携えて町にはいり、しゅうとめにその拾ったものを見せ、かつ食べ飽きて、残して持ちかえったものを取り出して与えた。』(ルツ記2:17-18)
大麦1エパは、23リットルである。ナオミは驚いただろう。
ナオミは、自分は何もかも失って、何も残っていない、と思ったかもしれない。
しかし彼女が異邦の地で生み出した信仰の娘は、7人の息子にも勝るものなのである。

礼拝説教メッセージ音声:落ち穂を拾うルツと、ルツを拾うボアズ(ルツ記2:5-13):右クリックで保存

ボアズとルツの出会いは、はからずも、意図せずして始まった。

ルツが落ち穂を拾うために畑に入ったのは、傷心のナオミを支え養いたかったからだったが、その畑に入った事が、彼女自身の人生を大きく動かし、そればかりでなくイスラエルを、ひいては、世界史を大きく動かす事となった。

『ボアズは刈る人たちを監督しているしもべに言った、「これはだれの娘ですか」。刈る人たちを監督しているしもべは答えた、「あれはモアブの女で、モアブの地からナオミと一緒に帰ってきたのですが、彼女は『どうぞ、わたしに、刈る人たちのあとについて、束のあいだで、落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。そして彼女は朝早くきて、今まで働いて、少しのあいだも休みませんでした」。』(ルツ記2:5-7)
ルツはその畑で落ち穂を拾い始める時、偽らず、自分はモアブの娘で、ナオミと一緒に帰ってきた事を自己紹介したのだろう。
彼女を見ていた人も、彼女は朝から立ち働いている事を、ボアズに証言した。
ボアズは、親戚のナオミと一緒に来たモアブの女が、ナオミに真実を尽くした事は、あらかじめ聞いており、その彼女が実際目の前で、朝から休まず働いて来たのを見て、声をかける。

『ボアズはルツに言った、「娘よ、お聞きなさい。ほかの畑に穂を拾いに行ってはいけません。またここを去ってはなりません。わたしのところで働く女たちを離れないで、ここにいなさい。人々が刈りとっている畑に目をとめて、そのあとについて行きなさい。わたしは若者たちに命じて、あなたのじゃまをしないようにと、言っておいたではありませんか。あなたがかわく時には水がめのところへ行って、若者たちのくんだのを飲みなさい」。』(ルツ記2:8-9)
落ち穂拾いと言えば、ミレーの絵画の中で、婦人たちが何か畑仕事をしている、のどかな田園風景を思い出すが、あまりのどかなものではない。
「じゃまをしないように」と命じなくてはならない程、人から意地悪をされやすく、また、いじめの対象にされやすい行為である。(22節)
ボアズは、そんな彼女の成り立ちを全て心に留め、じゃまされたり、いじめられたりしないよう、便宜を図ってやり、しかも、若者たちの汲んだ水を自由に飲んで良い、とまで言ってくれた。

私達の毎日も、落ち穂を拾いに出かけて行くような日々であり、いじめられたり、邪魔されたりしながらでも、将来の自分や家族を養うために、恥ずかしさを忍びつつ、落ちている恵みを拾って行くようなものである。
しかし、全てを支配しておられる主は見ておられ、全能者の御翼の影に助けを求めて入る人に対しては、まことのボアズの所へと引き合わせて下さり、恵みの落ち穂が豊かに落ちている畑へと導かれ、そして周りの者達には「じゃましてはならない」と、きつく命じて下さるのだ。
ルツは落ち穂を拾っていた時にボアズに声をかけられたが、同じように私達も、主の恵みを拾っている内に、主によって拾われるのである。

『彼女は地に伏して拝し、彼に言った、「どうしてあなたは、わたしのような外国人を顧みて、親切にしてくださるのですか」。』(ルツ記2:10)
彼女は別に、好き好んでモアブで生まれたくて生まれたわけでなかったが、自分は生まれながらにして恵みを受けるには相応しくない者とわきまえていた。
私達も、別に好き好んで、こんな罪や災いの性質を持って生まれたかった訳ではない。
しかし、主はそんな私達にも、一方的な恵みを注がせて下さったという感謝を、いつまでも忘れてはならない。
クリスチャンの親切さにいつまでもぶらさがり、恵みを施してくれて当然とばかりに、あれもこれも要求し続ける者はいるが、そのような、いつまでも悔い改めの実を結ばない者は、やがて切り落とされ、火の中に投げ込まれてしまう。私達はクリスチャンだから大丈夫だ、などと、心の中で思っていてはならない。神は、こんな石ころからでもアブラハムの子孫をお造りになる事ができるからだ。(マタイ3:7-10)

『ボアズは答えて彼女に言った、「あなたの夫が死んでこのかた、あなたがしゅうとめにつくしたこと、また自分の父母と生れた国を離れて、かつて知らなかった民のところにきたことは皆わたしに聞えました。どうぞ、主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」。』(ルツ記2:11-12)
ボアズはすっかり聞いている。彼女が父母を離れ、偶像崇拝の国を離れて来た事を。
また、新しく入った神の家族に対し真実を尽くし、イスラエルの神を自分の神とした事を。

新しい家へと嫁ぐ条件は、まず、父母を離れる事であるが、私達も、神の国へと嫁いで行くために、古き父母を離れなくてはならない。
すなわち、今まで過ごして来た世から離れ、サタンに属する罪深い性質を、捨て去る決心をしなくてはならない。
『イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。』(ルカ18:29)
報いは、死んだ後に天国でようやく受けるものではなく、この世にあって、幾倍も受けるものである。
私達は、世とサタンから離れているだろうか。新しい神の家族に対し、真実を尽くしているだろうか。
主はすっかり見ておられ、聞いておられる。そして真実を尽くした人には、豊かに報いられるようにと祝福して下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:ボアズの家の成り立ち(ルツ記2:1-4):右クリックで保存

『さてナオミには、夫エリメレクの一族で、非常に裕福なひとりの親戚があって、その名をボアズといった。』(ルツ記2:1)

このボアズが、後にルツをめとり、ダビデの王族の家系を生み出して行くのだが、今回は彼の成り立ちを見ていきたい。

ボアズの父は、サルモン(名の意味は「平和を好む」)。母は、カナン人の元遊女・ラハブである。
ラハブはカナンに生まれ、悪しき価値観・悪しき習慣の中、遊女としてそれまでの人生を過ごして来た。
彼女はイスラエルのどの女性より、御言葉の知識は少ないはずであるし、子育てをするにしても、御言葉に従って正しくできる自信は無かったであろう。
士師記の荒んだ社会情勢の中、それでもこの一家は着実に栄え、ボアズは立派な信仰者、町の有力者として育って行った秘訣は、何だろうか。
それはやはり、主から多くを赦されたため、人一倍、多く主を愛したからではないだろうか。(ルカ7:41-48)

彼女は他のどのイスラエル人女性よりも律法を知らなかったし、そのような「たしなみ」を、身につけてこなかった。
しかし彼女は、こんなに罪深く汚れた自分が、こんなにも素晴らしい恵みに預かり、きよく秩序ある生活へと入れられたために、誰よりもその恵みに感動し、実感し、主に従って歩みたいと心底願う気持ちが誰よりもあったからこそ、下手なイスラエル人女性より、遥かに優れた子育てが出来たのだろう。
御言葉の知識も、たしなみも大切だが、主を愛する心のほうが、何より大事である。

『その時ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。』(ルツ記2:4)ボアズは、雇い入れている従業員との間で「主が共におられるように」「主が祝福して下さるように」という、祝福の挨拶を交わしている。
という事は、家庭の中で、この祝福の挨拶が日常的に取り交わされて、育っていたのだろう。

家庭内、あるいは従業員の間で、祝福の挨拶を取り交わす事は、有力者となる重要なコツの一つである。
逆に、文句や呪いの言葉を取り交わす事は、廃れてしまう原因となってしまう。
「人は自分の言葉の結ぶ実によって、満ち足り、そのくちびるの産物によって自ら飽きる」からだ。(箴言18:20)

ボアズの母・ラハブは、在留異国人であった故、弱い立場の人には「憐れみのわざ」をするようにと、息子によく教えた事だろう。
実際ボアズは、在留異国人ルツに、喜んで恵みを落としている。
在留異国人や、孤児、やもめを憐れむのは、主のわざである。
「主のわざ」を「自分のわざ」とし、「主の思い」を「自分の思い」とする人は、主から祝福を受けないはずが無い。
その人が、さらにそのわざを為せるようにと、主がさらに増し加え、押入れ揺すり入れして与えられるからである。

士師記に登場する人達の荒んだ有り様に比べ、ルツ記に出てくる人々は、なんと幸いな人達だろうか。
イエス様は山上で言われた。
『こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。』(マタイ5:3-9)

『モアブの女ルツはナオミに言った、「どうぞ、わたしを畑に行かせてください。だれか親切な人が見当るならば、わたしはその方のあとについて落ち穂を拾います」。ナオミが彼女に「娘よ、行きなさい」と言ったので、ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。』(ルツ記2:2-3)
この、ルツとボアズの「はからずも(意図せず)」の邂逅は、将来、ナオミやルツにとって救いとなり、またイスラエルにとって、いや、全世界にとって救いの元となる。
その事はこの時、誰も知る由もない。
主は、人の「はからずも」を用い、人々の救いを紡ぎ出して行かれるのだ。

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