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メッセージ - 士師記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主から離れ、ミデヤン人に荒らされた日々(士師記6:1-10):右クリックで保存

デボラやバラク達の活躍によって、イスラエルには四十年の平和が訪れたのだが、その世代が過ぎた時、イスラエルはまたしても悪い状態へ逆戻りしてしまった。
『イスラエルの人々はまた主の前に悪をおこなったので、主は彼らを七年の間ミデアンびとの手にわたされた。』(士師記6:1)
彼らは主に対して、どんな悪を行ったのか。
それは、主を捨ててエモリ人の神々を恐れ敬う事によってであった。(士師記6:10)

私達も、まことの神である主以外の”何か”を恐れ敬うなら、偶像礼拝状態にある。
偶像礼拝とは、何も神社仏閣などで礼拝する事に限らず、まことの神である主を差し置いて、それ以外の何か(権威ある人やイデオロギー、お金や地位など)を、主よりも恐れ敬うなら、それが、偶像礼拝である。
そのような場合、主は、その人に苦しい所を通らせ、主に助けを呼び求めるように仕向けられる。
今回、主がイスラエルを立ち返らせるように用いられたのは、ミデヤン人だった。

『ミデアンびとの手はイスラエルに勝った。イスラエルの人々はミデアンびとのゆえに、山にある岩屋と、ほら穴と要害とを自分たちのために造った。イスラエルびとが種をまいた時には、いつもミデアンびと、アマレクびとおよび東方の民が上ってきてイスラエルびとを襲い、イスラエルびとに向かって陣を取り、地の産物を荒してガザの附近にまで及び、イスラエルのうちに命をつなぐべき物を残さず、羊も牛もろばも残さなかった。』(士師記6:2-4)
イスラエル人がせっかく種を蒔いて育てた産物も、ちょうどそれが実る時にミデヤン人が入り込んで来て、奪って行ってしまう。
それを阻止しようにも、イスラエルは主によって弱くされ、敵は強くされているので、ただ奪われて行くのを指をくわえて見ている他ない。

『彼らが家畜と天幕を携えて、いなごのように多く上ってきたからである。すなわち彼らとそのらくだは無数であって、彼らは国を荒すためにはいってきたのであった。』(士師記6:5)
ミデヤン人達はわざわざイスラエルの国を荒す目的で、長期滞在できるよう、家畜を引き連れ、天幕を携え、大軍のらくだで乗りつけて来たのだ。
大軍の不良集団が、ただ荒らすために、宿泊道具や弁当持参で学校にバイクで乗り寄せ、ガラスを割ったり、備品を壊したりするようなものであり、イスラエルはただ震えおののき、弁当を食べるにもこっそり便所で食べるしかないような有り様である。
そんな状態が、七年も続いた。

『こうしてイスラエルはミデアンびとのために非常に衰え、イスラエルの人々は主に呼ばわった。』(士師記6:6)
彼らは七年目にして、ようやく主に助けを求めた。
そんな彼らに、主はそうなった理由を教えている。
『主はひとりの預言者をイスラエルの人々につかわして彼らに言われた、「イスラエルの神、主はこう言われる、『わたしはかつてあなたがたをエジプトから導き上り、あなたがたを奴隷の家から携え出し、エジプトびとの手およびすべてあなたがたをしえたげる者の手から救い出し、あなたがたの前から彼らを追い払って、その国をあなたがたに与えた。そしてあなたがたに言った、「わたしはあなたがたの神、主である。あなたがたが住んでいる国のアモリびとの神々を恐れてはならない」と。しかし、あなたがたはわたしの言葉に従わなかった』。』(士師記6:8-9)

なぜ、そのような虐げられる状態が続いたのか。それは、彼らが主を軽んじて、別のものを尊んだからにほかならない。
私達の主も、私達を、悪魔やサタンという”エジプト”から導き上り、罪と死の奴隷状態から贖い出し、虐げる者の手から救い出し、分捕りとして、良き領地が与えられた。
そんな主を裏切るなら、私達もイスラエルのようになってしまう。

しかし主は、自分の愚かさに気づいた民をただ懲らしめ続けるようなお方ではない。
救いを求めるなら、しっかりと救いを送って下さる。

士師記は、この、裏切りと災い、立ち返りと救いの繰り返しだった。
皆さんの人生は、あと何度、そのサイクルを繰り返すだろうか。
これから後は、もはや主から決して離れる事無く、平安と勝利の人生をただ送る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:信仰の戦いに参加せよ(士師記5:19-31):右クリックで保存

この箇所では、デボラ達は、今回の戦いの様子について歌っている。
『もろもろの王たちはきて戦った。その時カナンの王たちは、/メギドの水のほとりのタアナクで戦った。彼らは一片の銀をも獲なかった。もろもろの星は天より戦い、/その軌道をはなれてシセラと戦った。キションの川は彼らを押し流した、/激しく流れる川、キションの川。わが魂よ、勇ましく進め。その時、軍馬ははせ駆けり、/馬のひずめは地を踏みならした。』(士師記5:19-15a)

この戦いの時、星々が軌道を離れてシセラと戦い、普段は水の無い川に水が溢れ、彼らを押し流した、とある通り、天が、地が、神の民の敵であるシセラに敵対して戦ったのだ。
人は、軍馬を頼もしいと思うものであるが、その軍馬の力も、そして鉄の戦車も、主の御前に無用の長物と化した。
主が味方となり、天を、地を動かしてまで、殺傷力の高い兵器を持つ敵と戦って下さる。
何と頼もしい事であろうか!
だから彼らは「わが魂よ、勇ましく進め」と叫ばずにはいられなかったのだ。
私達も、主が共に戦って下さる闘いに、どうして参加しないであろうか。

『主の使は言った、『メロズをのろえ、/激しくその民をのろえ、/彼らはきて主を助けず、/主を助けて勇士を攻めなかったからである』。』(士師記5:23)
このメロズという地は、この闘いにおいてとても重要な地だったのだろう。
しかし、この町の名は、聖書の後にも先にも、ここにしか出てこない。

この箇所から分かる事は、メロズの住人はこの時、主が天と地を動かし、奇跡的な事を起こしてまで戦われたというのに、闘いに参加して主を助ける事をしなかった、という事だ。
それ故、この町は主の使いに呪われ、町は枯れ果て、歴史の闇に葬られて行ったのだろう。
ちょうどイエス様が、何の実りももたらさないいちじくの木を呪って枯らされたように。
兄弟姉妹が戦いに出、そして主ご自身もありありと働いておられるのに、それを目の当たりにしながら、自分自身は手足を動かさず、ただ他人に働かせ、分捕りにだけ与ろうとするような者は、枯らされてしまうのだ。

『ケニびとヘベルの妻ヤエルは、/女のうちの最も恵まれた者、/天幕に住む女のうち最も恵まれた者である。シセラが水を求めると、ヤエルは乳を与えた。すなわち貴重な鉢に凝乳を盛ってささげた。』(士師記5:24-25)
この戦いの最たる功労者は、ヤエルという女性である。
彼女の夫は、イスラエルの敵であるシセラと親しくしている者であったのに、彼の妻は、ここぞという時に勇気を奮い立たせ、主に与する行動を取り、見事、敵将を討ち取った。
恐れを克服し、また家族の意図に反してでも、主の真実を貫き通す人は、男であれ女であれ、栄誉を受けるのだ。

『ヤエルはくぎに手をかけ、/右手に重い槌をとって、/シセラを打ち、その頭を砕き、/粉々にして、そのこめかみを打ち貫いた。シセラはヤエルの足もとにかがんで倒れ伏し、/その足もとにかがんで倒れ、/そのかがんだ所に倒れて死んだ。』(士師記5:26-15a)
ここの表現からすると、シセラは、こめかみを打ち貫かれてもなお起き上がり、そこを再び彼女に打たれて、ついには彼女の足元に倒れ伏したようである。
いずれにせよ、戦いにおいて女の手によって討ち取られてしまう事は、当時、相当の恥辱であった。(士師記9:54)

『シセラの母は窓からながめ、/格子窓から叫んで言った、/『どうして彼の車の来るのがおそいのか、/どうして彼の車の歩みがはかどらないのか』。その侍女たちの賢い者は答え、/母またみずからおのれに答えて言った、『彼らは獲物を得て、/それを分けているのではないか、/人ごとにひとり、ふたりのおなごを取り、/シセラの獲物は色染めの衣、/縫い取りした色染めの衣の獲物であろう。すなわち縫い取りした色染めの衣二つを、/獲物としてそのくびにまとうであろう』。』(士師記5:28-30)
ここでは、敵であるシセラの母の立場から、歌われている。
シセラ達が中々戦いから帰ってこない理由は、分捕りに忙しいから、それも、シセラが受け取る分捕りの分は、色染めの衣であるという。
実際にその通り、彼が身にまとっていた衣は、彼自身の血によって染められた。
それも、ヤエルという女の手によって。
「すなわち縫い取りした色染めの衣二つを、/獲物としてそのくびにまとうであろう」と歌われた通り、彼は二度、鉄の杭によって縫いとられ、彼の衣は彼自身の血によって、色染めされた。

『主よ、あなたの敵はみなこのように滅び、/あなたを愛する者を/太陽の勢いよく上るようにしてください」。こうして後、国は四十年のあいだ太平であった。』(士師記5:31)
今回の戦いに参加した人、しなかった人もいたが、とにかく信仰ある人達が戦いに出て、勝利した事よって、四十年という平和が与えられた。
懲らしめを受けたなら、その懲らしめの原因である不信仰に戻る事なく、生涯の終わりまで主に仕え通し、平和な一生を全うする皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:戦いの呼びかけに応じた部族、応じなかった部族(士師記5:9-18):右クリックで保存

『起きよ、起きよ、デボラ。起きよ、起きよ、歌をうたえ。立てよ、バラク、とりこを捕えよ、/アビノアムの子よ。』(士師記5:12)
ダビデはよく「わが魂よ、主をほめたたえよ」と、自分の魂に向かって呼ばわって賛美する心を奮い立たせたが、デボラとバラクも同じように、戦いにおいて自分を奮い立たせた。
そして彼らは、今回彼らと共に戦いに出た部族を、賞賛している。

『その時、残った者は尊い者のように下って行き、/主の民は勇士のように下って行った。彼らはエフライムから出て谷に進み、/兄弟ベニヤミンはあなたの民のうちにある。マキルからはつかさたちが下って行き、/ゼブルンからは指揮を執るものが下って行った。イッサカルの君たちはデボラと共におり、/イッサカルはバラクと同じく、/直ちにそのあとについて谷に突進した。』(士師記5:13-15a)
ここに登場する部族、すなわちエフライム、ベニヤミン、マナセの半部族(マキル)、ゼブルンは、バラク達の呼びかけに応じ、戦いに馳せ参じた。
特に、イッサカル族の長たちはデボラと共にいて、その部隊はバラクのすぐ後に続き、谷へと突進して行ったようである。
しかし、そうでなかった部族も、いくつかいた。

『ルベンの氏族は大いに思案した。なぜ、あなたは、おりの間にとどまって、/羊の群れに笛吹くのを聞いているのか。ルベンの氏族は大いに思案した。』(士師記5:15b-16)
ルベン族は、戦いの呼びかけがあったのに、自分の所に留まって思案し、自分達が飼っている羊の群れの中で、羊飼いが吹く笛を聞きながら思い巡らしていたようである。
戦うべき時なのに戦わず、どうでもいい事をしながら、ただ思いを堂々巡りさせて思案いるような者には、恥しか記録されない。

『ギレアデはヨルダンの向こうにとどまっていた。なぜ、ダンは舟のかたわらにとどまったか。アセルは浜べに座し、/その波止場のかたわらにとどまっていた。』(士師記5:17)
ギルアデは、ヨルダン川の東側の地、ガド族、マナセの半部族の地で、彼らはヨルダン川の東側に留まっていた。
どうやらルベン、ガド、マナセの半部族、すなわち、モーセから真っ先に割り当てを受けたヨルダンの東側の部族達は、今回の戦いには関せずだったようである。
また、ダン族は船に、アセル族は海辺に、それぞれの生活の場から出てこなかったようである。

『ゼブルンは命をすてて、死を恐れぬ民である。野の高い所におるナフタリもまたそうであった。』(士師記5:18)
今回の戦いで最も賞賛された部族は、3章10節でも名が上がっている、このゼブルン族とナフタリ族である。
彼らは、命を顧みず戦いに出たため、その栄誉が賞賛された。

このように、戦いへの呼びかけがあった時に、戦いに出た者と出なかった者、思案して何もしなかった者、そして、命をかけて戦った者もおり、それぞれに相応しい栄誉が与えられ、また、ある部族には恥が与えられた。
私達も生ける限り、信仰の戦いからは免れられない。
戦いを前にする時、ルベン族のように思案して思い煩ってしまう者もいるが、ペテロは勧めている。

『神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。』(1ペテロ5:7-9)
私達の戦いは、主イエスにあって必ず勝利できるものであり、また大きな報いがあるものである。
『あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。』(同5:10-11)

礼拝説教メッセージ音声:デボラとバラクの歌(士師記5:1-8):右クリックで保存

士師記5章には、デボラとバラクが主にあって勝利した時に歌った歌が、記されている。
この歌は、誰かの軍功を称えるものではなく、主を称えるものである。
実際、この歌の歌い出しの2節から5節までの間に「主(エホバ)」の名が、六回も登場している。

戦いの主は「主(エホバ)」であり、勝利の栄誉も主にある。
モーセも、主が紅海においてエジプトから救って下さった時、喜びと賛美の歌を歌ってそれを記し、後の世代に主の栄光を語り継がせたのと同じように、彼らも、主が敵から救って下さった事を喜び、主の偉大なわざをほめ称え賛美した。
全てのキリスト者も、やがては、過去・現在・未来の主にある全聖徒と共に、勝利の賛美を歌うのである。
その勝利の歌とは、私達の主イエス・キリストが罪と死、サタンという究極の敵に圧倒的に勝利して下さったゆえに、歌われるものである。(黙示録15章)

『「イスラエルの指導者たちは先に立ち、/民は喜び勇んで進み出た。主をさんびせよ。もろもろの王よ聞け、/もろもろの君よ、耳を傾けよ。わたしは主に向かって歌おう、/わたしはイスラエルの神、主をほめたたえよう。』(士師記5:2-3)
彼らは、まずは諸々の王達、君主達に、呼ばわっている。主をほめたたえる賛美を聞け、それに耳を傾けよ、と。

『主よ、あなたがセイルを出、/エドムの地から進まれたとき、/地は震い、天はしたたり、/雲は水をしたたらせた。もろもろの山は主の前に揺り動き、/シナイの主、すなわちイスラエルの神、主の前に/揺り動いた。』(士師記5:4)
この戦いの勝利の鍵は、天から滴る「水」であった。
モーセの時代、出エジプトの時も、「水」が救いの鍵であり、ノアの時代も、水によって、全て邪悪な者共は、滅ぼし尽された。
私達・キリスト者も、水が新生の鍵である。
水のバプテスマによって、私達の内にある罪や世に属していた古きものは、全て水の中、すなわち死へと明け渡され、そしてキリストと共に復活する事によって、全てが新しく造り変えられるのだ。

『アナテの子シャムガルのとき、/ヤエルの時には隊商は絶え、/旅人はわき道をとおった。イスラエルには農民が絶え、/かれらは絶え果てたが、/デボラよ、ついにあなたは立ちあがり、/立ってイスラエルの母となった。人々が新しい神々を選んだとき、/戦いは門に及んだ。イスラエルの四万人のうちに、/盾あるいは槍の見られたことがあったか。』(士師記5:6-8)
ここでは、主に対して不従順であった時のイスラエルが、いかに惨めであったかが歌われている。

「隊商は絶え、/旅人はわき道をとおった。」とある通り、その時のイスラエルは、商人も、旅人も、寄り付かなかった。
海外旅行をする際、治安が悪く無秩序な国に対しては、国が渡航制限をかけるものだが、当時のイスラエルもまさにそのような感じで、旅人や商人は寄り付きたくないほど無秩序状態で治安が悪く、「底辺国」に成り下がっていたのだ。
いかに主の目が注がれた乳と蜜の流れる地といえども、主の御言葉に聞き従う事を止めるなら、主は怒りを発し、天は硬く閉ざされ、獣や敵が横行し、災いにつぐ災が降りかかり、わずか二十年で「底辺国」へと、成り下がってしまうのである。

私達キリスト者も、気をつけなくてはならない。
主を信じて救われた当初は、喜びながら主とともに歩み、祝福された生活を送った経験があったとしても、主を礼拝する事から離れ去った途端に、寄ってたかって災に遭い、色々な敵に財産や時間、エネルギーが奪われ、ついには底辺生活を送るはめになってしまう、というような事は、私達キリスト者にも、大いにありうる事なのだ。
私達は、そのような事が無いよう、日々、御言葉に従って歩むべきだ。
そうするなら、この士師記のような事態に陥る事はなく、いつも平安で満ち足りた日々を送る事が出来るからだ。

そして、たとえこの士師記のような状況に陥ってしまったとしても、速やかに主に立ち返るなら、主は憐れんで下さり、救って下さる。
救われたのであれば、デボラやバラクがしたように、主を誉め讃える賛美を、周囲に、そして後世に対して語り継いで行くべきである。

礼拝説教メッセージ音声:強い者ではなく弱い者を用いて栄光をあらわす主(士師記4:17-24):右クリックで保存

鉄の戦車の部隊は全滅し、一人逃げた将軍シセラは、ケニ人ヘベルの妻ヤエルの天幕に入った。(士師記4:17)
このケニ人ヘベルは、モーセのしゅうとホバブの子孫である。(11節)
本来ならイスラエルの民と友好関係にあるはずのヘベルだが、どういうわけか彼は、イスラエルの敵・ハゾルの王であるヤビンと親しくしていたのだ。

逃げて来たシセラを出迎えたヘベルの妻・ヤエルは、彼を丁寧にもてなした。
『ヤエルは出てきてシセラを迎え、彼に言った、「おはいりください。主よ、どうぞうちへおはいりください。恐れるにはおよびません」。シセラが天幕にはいったので、ヤエルは毛布をもって彼をおおった。シセラはヤエルに言った、「どうぞ、わたしに水を少し飲ませてください。のどがかわきましたから」。ヤエルは乳の皮袋を開いて彼に飲ませ、また彼をおおった。シセラはまたヤエルに言った、「天幕の入口に立っていてください。もし人がきて、あなたに『だれか、ここにおりますか』と問うならば『おりません』と答えてください」。』(士師記4:18-19)

シセラは激しい戦闘と、また敗北のショックとで、相当疲れていただろう。
そこは親しくしている人の天幕で、そこにいるのは、一人の女のみである。少なくとも、この天幕の中は、彼にとって安心できる領域であるが、『しかし彼が疲れて熟睡したとき、ヘベルの妻ヤエルは天幕のくぎを取り、手に槌を携えて彼に忍び寄り、こめかみにくぎを打ち込んで地に刺し通したので、彼は息絶えて死んだ。』(士師記4:20-21)
このようにして、デボラが預言していた事が成就し、今回の戦いの栄誉は、一人の女の手へと渡った。

ヘベルの妻ヤエルはなぜ、主人と仲良くしているシセラを殺したのか。
もしかしたら彼女は、イスラエルの敵と自分の主人が仲睦まじくしているのを、普段から快く思っていなかったのかもしれない。それでこの時、このような行動に出たのかもしれない。

主はしばしば、誰も見向きもしないような小さき者の手によって、誰も立ち向かえないような強大な者を討ち取らせる事がある。
ギデオンも、ダビデも、そして乙女マリヤも、元々は誰も見向きもしないような小さき者だった所を、大きな事に用いられた。

シセラは、鉄の戦車という殺傷力の高い兵器で向かってきたが、神は、一人の女の、しかも天幕の杭という日常生活の道具によって、神の民の敵を打ち伏した。
デボラの前の士師・シャムガルは、牛のむちという日常生活の道具を用いてペリシテ人六百人を殺したし、ダビデも、鎧や剣などの武器は用いず、使い慣れた羊飼いの道具でゴリヤテという巨人を打ち伏した。
ギデオンも、からつぼとたいまつとラッパだけで、敵軍に同士討ちさせ、イスラエルを大勝利へと導いた。
神は、神の御前に誰も誇る事がないように、人の力をはずかしめするため、あえてそのような事をされるのだ。

『人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。』(1コリント1:26-29)
『主は馬の力を喜ばれず、人の足をよみせられない。主はおのれを恐れる者と/そのいつくしみを望む者とをよみせられる。』(詩篇147:10-11)

『バラクがシセラを追ってきたとき、ヤエルは彼を出迎えて言った、「おいでなさい。あなたが求めている人をお見せしましょう」。彼がヤエルの天幕にはいって見ると、シセラはこめかみにくぎを打たれて倒れて死んでいた。こうしてその日、神はカナンの王ヤビンをイスラエルの人々の前に撃ち敗られた。そしてイスラエルの人々の手はますますカナンびとの王ヤビンの上に重くなって、ついにカナンの王ヤビンを滅ぼすに至った。』(士師記4:22-24)

こうしてイスラエルは救われた。それはひとえに、イスラエルが主を呼び求めたからである。
救いは、人の力や知恵、経験によるものではなく、主による。
主は、呼び求める民には救いを与えられる。
それも、強い者ではなく最も弱い者を用い、殺傷力高い兵器を用いずに日常生活を用いて、力強き者を打ち破るのだ。

礼拝説教メッセージ音声:敵の自慢の兵器は逆に弱点に変えて下さる主(士師記4:11-16):右クリックで保存

イスラエルを二十年も虐げて来たシセラは、バラクが反旗を翻すためにタボル山に集まった事を聞くと、自慢の戦車部隊を引き連れ、キション川に集まった。(士師記4:12-13)
キション川は、普段は水が流れない水無川で、当時の馬で牽かせる戦車は、そのような平地では遺憾なく力を発揮する。
それ対し、バラク率いるイスラエル軍は、二十年も激しく虐げられていたので、十分な装備が無い歩兵の集団であっただろう。
そんな彼らが、平地に下りてきて戦車と戦うのは、自殺行為に等しいように見えるが、このキション川が戦場とされたのは、主がデボラを通してあらかじめ言われていた通りである。(7節)

『デボラはバラクに言った、「さあ、立ちあがりなさい。きょうは主がシセラをあなたの手にわたされる日です。主はあなたに先立って出られるではありませんか」。そこでバラクは一万人を従えてタボル山から下った。』(士師記4:14)
こうして戦端の幕が切って落とされた。
人の目から見れば、のこのこと戦車のえじきになりに行くかのような、愚かな戦いにも見えるが、イスラエルは圧勝する。
それはなぜか。
『主はつるぎをもってシセラとすべての戦車および軍勢をことごとくバラクの前に撃ち敗られたので、シセラは戦車から飛びおり、徒歩で逃げ去った。バラクは戦車と軍勢とを追撃してハロセテ・ゴイムまで行った。シセラの軍勢はことごとくつるぎにたおれて、残ったものはひとりもなかった。』(士師記4:15-16)
ここに記されている通り、主がシセラを打ち破られたから、バラクは勝利したのだ。
なぜ主はイスラエルのために戦われたか。それは、イスラエルが主に向かって呼ばわったからに他ならない。

この戦いは、一体どのように展開されて行ったのか。それは、五章にヒントが隠されている。
『主よ、あなたがセイルを出、/エドムの地から進まれたとき、/地は震い、天はしたたり、/雲は水をしたたらせた。』(士師記5:4)
この戦いの時、主は地を震わせ、また、天から雨が降ったようだ。それも、ただの雨ではない。
『もろもろの星は天より戦い、/その軌道をはなれてシセラと戦った。キションの川は彼らを押し流した、/激しく流れる川、キションの川。わが魂よ、勇ましく進め。』(士師記5:20-21)
なんと、星が、天が、川が、神の民の敵であるシセラに対し、敵対したのだ。
どうやら、星が軌道を離れる程の大雨が起こり、普段水が流れていないキション川にあふれる水が流れたようだ。
戦車の独壇場だと思っていた戦場は、泥地と化し、戦車は逆に、戦いの足を引っ張る無用の長物と化したのだ。
だからシセラは、自慢の戦車から飛び降りて、徒歩で逃げ去ったのだ。
出エジプト記でも、主が紅海を割られた時、エジプト軍はイスラエルを追って紅海の中に入って行ったが、主が車輪を外し、前にも進めず後にも引けずに、エジプト軍は紅海の水の中に閉じ込められてしまったが、それと同じような事が起きたのだ。
主は、敵が最も誇りとするものを逆に利用し、弱点とされる。
それも、人が思いもよらない方法で。

『海のなかに大路を設け、大いなる水の中に道をつくり、戦車および馬、軍勢および兵士を出てこさせ、これを倒して起きることができないようにし、絶え滅ぼして、灯心の消えうせるようにされる/主はこう言われる、「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえのことを考えてはならない。見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起る、あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。』(イザヤ43:16-19)

主は、主に呼ばわる者には、全く新しい事をされる。
いかに人の目には行き止まりのように将来が見えなくとも、主はそこに、道を備えて下さるのだ。
そして主は川なき荒野に川を流れさせ、私達を潤し、敵は押し流させて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:第四の士師・女預言者デボラとバラク(士師記4:1-10):右クリックで保存

『エホデが死んだ後、イスラエルの人々がまた主の前に悪をおこなったので、主は、ハゾルで世を治めていたカナンの王ヤビンの手に彼らを売りわたされた。ヤビンの軍勢の長はハロセテ・ゴイムに住んでいたシセラであった。彼は鉄の戦車九百両をもち、二十年の間イスラエルの人々を激しくしえたげたので、イスラエルの人々は主に向かって呼ばわった。』(士師記4:1-3)

士師エフデが死んだ後、イスラエルはまたも懲りずに悪を行い、主はイスラエルを敵の手に「売り渡された」。
それも、鉄の戦車九百両を擁する強力な軍をもって、二十年も、激しく虐げられていた。
毎回の事であるが、主がそのようにイスラエルを敵の手に渡すのは、イスラエルを懲らしめ、こんなに酷い目に遭うくらいなら、主を捨てるのではなかった、と後悔させ、主とともに歩む幸いな生活へと立ち返らせるためである。

今回主が用いられた敵は、イスラエルの北方、カナンの、ハゾルの王ヤビンである。
実は、これと同名の王がヨシュア記にも登場する。

ヨシュアの時代のハゾルの王ヤビンは、カナン地方の王達に使者を遣わし、浜辺の砂のように非常に多くの歩兵や馬、戦車を率いて、ヨシュアの軍に立ち向かった。(ヨシュア記11:1-4)
当時のハゾルは、周辺の王国の首都で(ヨシュア記11:10)、ヤビンは、それらの国々をまとめる代表的な王だったが、主はヨシュアに言われた。
「彼らのゆえに恐れてはならない。あすの今ごろ、わたしは彼らを皆イスラエルに渡して、ことごとく殺させるであろう。あなたは彼らの馬の足の筋を切り、戦車を火で焼かなければならない。」(ヨシュア記11:6)
ヨシュアは命じられた通りに出て行き、圧勝し、多くの戦車を火で焼き、ハゾルの町は滅ぼして火で焼いた。(同9-11節)

百年以上経ったこの士師の時代、それと同名の町・同名の王が、なぜか、よみがえっている。
きっと、昔ヨシュアに叩き尽くされたカナン人の生き残りが復讐心に燃え、イスラエルが霊的な怠慢に陥っている間に力をつけ、滅ぼされたハゾルの町を復興し、鉄の戦車も九百両造り上げ、そして、昔滅ぼされた王の名を掲げ、リベンジを狙ったのだろう。

私達も同じ過ちに陥らないよう、気をつけるべきだ。
私達がずっと前に、主にあって滅ぼし尽くしたと思っていた邪悪な性質や悪習慣などが、信仰の怠慢を続けた結果、いつのまにかよみがえっていて、力をつけ、やがては鉄の戦車九百両のように強力になってしまい、手が付けられなくなってしまう、というような事は、大いにありうる。
私達の肉の内には、御霊にあって常に制圧し続けなくてはならない「罪の性質」があって、御霊によって歩む事を怠っていると、すぐにそれは芽生えて来るからだ。
だから私達は、いつも、霊的な怠慢に陥らないよう気をつけていなければならない。

『そのころラピドテの妻、女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。彼女はエフライムの山地のラマとベテルの間にあるデボラのしゅろの木の下に座し、イスラエルの人々は彼女のもとに上ってきて、さばきをうけた。』(士師記4:4-5)
イスラエル四番目の士師(さばきつかさ)は、デボラという女預言者である。
彼女は、エフデのように戦闘によってではなく、神の御言葉を伝える事によって、イスラエルをさばいていた。

『デボラは人をつかわして、ナフタリのケデシからアビノアムの子バラクを招いて言った、「イスラエルの神、主はあなたに、こう命じられるではありませんか、『ナフタリの部族とゼブルンの部族から一万人を率い、行って、タボル山に陣をしけ。わたしはヤビンの軍勢の長シセラとその戦車と軍隊とをキション川に引き寄せて、あなたに出あわせ、彼をあなたの手にわたすであろう』」。』(士師記4:6-7)
デボラがバラクに「主はこう命じられておられましたよね」と、問いかけ口調で話している所を見ると、彼は、彼女と会う前から既に主から戦うようにと示されていたのかもしれない。

御言葉が示されたのであれば、そのまま服従する、というのが正しい対応であるが、彼はそうではなかった。
『バラクは彼女に言った、「あなたがもし一緒に行ってくだされば、わたしは行きます。しかし、一緒に行ってくださらないならば、行きません」。』(士師記4:8)

逆に言えば、この女預言者デボラが一緒に行ってくれないなら、「行って戦え」という主の御言葉には従いません、という事である。
彼はこの時、目に見えない主の約束より、目に見える女預言者のほうを頼っていたわけである。
その結果、彼本人が獲得するはずだった栄誉は、取り上げられてしまう。

『デボラは言った、「必ずあなたと一緒に行きます。しかしあなたは今行く道では誉を得ないでしょう。主はシセラを女の手にわたされるからです」。デボラは立ってバラクと一緒にケデシに行った。バラクはゼブルンとナフタリをケデシに呼び集め、一万人を従えて上った。デボラも彼と共に上った。』(士師記4:9-10)
彼は、主よりも女預言者のほうに頼りを置いた結果、彼に与えられる筈の栄誉は、女の手に渡されてしまったのだ。

私達は、人を見て自分の出入りを判断する者ではなく、ただ主の御言葉に信頼して行くものでありたい。

礼拝説教メッセージ音声:第二の士師エフデ、第三の士師シャムガル(士師記3:12-31):右クリックで保存

『イスラエルの人々はまた主の前に悪をおこなった。すなわち彼らが主の前に悪をおこなったので、主はモアブの王エグロンを強めて、イスラエルに敵対させられた。エグロンはアンモンおよびアマレクの人々を集め、きてイスラエルを撃ち、しゅろの町を占領した。こうしてイスラエルの人々は十八年の間モアブの王エグロンに仕えた。しかしイスラエルの人々が主に呼ばわったとき、主は彼らのために、ひとりの救助者を起された。すなわちベニヤミンびと、ゲラの子、左ききのエホデである。』(士師記3:12-15)


前回は、最初の士師(さばきつかさ)、ユダ族のオテニエルの活躍を見たが、彼がイスラエルを救う前、イスラエルは主に対する反逆の故に、八年間、異邦人に蹂躙される生活を送り、彼が現れてからは、四十年の平和が訪れた。
しかし彼が死んだ後、イスラエルはすぐにまた主の前に悪を行い、今度は、十八年という期間異邦人に蹂躙された。
逆に言えば、十八年もの長い間、イスラエルは主に叫び求めなかった、という事であろう。

主に早く叫んで助けを求めれば良いものを、自分はまだ頑張れると思ったのか、主に助けを求めるという事を中々しない「変な忍耐強さ」の人がいる。
そのような人は、苦しむ期間は長い。

ようやく彼らが主に叫び求めた所、主は、ベニヤミン族で左ききのエフデをさばきつかさとし、イスラエルに助けを使わして下さった。
エフデは、モアブの王にみつぎをささげる時、王に秘密の話があると言って近づき、王とふたりきりになった所で、忍ばせていた剣で刺し貫き、殺害する事に成功した。
彼は無事に敵地から戻るや、イスラエルを蜂起させ、モアブに攻め寄せて一万人の屈強なモアブ人を打ち取るという大成果を上げた。

エフデがこのように用いられたのは、主によるものであり(15節)、そもそも、モアブの王を強くさせてイスラエルを悩まし、彼らが主に叫び求めるようにしたのも、主による。(12節)
そしてエフデが無事帰還し、敵をイスラエルの手に渡されたのも、ひとえに、主によるものであった。(28節)

『こうしてモアブはその日イスラエルの手に服し、国は八十年のあいだ太平であった。』(士師記3:30)
八十年もの平和の期間、それは、士師記の時代の中で最も長い平和の期間である。
それだけの間、イスラエルは主に従順だったのであろう。

『エホデの後、アナテの子シャムガルが起り、牛のむちをもってペリシテびと六百人を殺した。この人もまたイスラエルを救った。』(士師記3:31)
31節には、第三のさばきつかさ・アナテの子シャムガルについての、短い記述がある。
彼がどこの部族で、彼が現れるまでにイスラエルは何年、不従順の期間を過ごし、その後、何年平和であったのかは記されていないが、彼は剣などの武器を使わず、牛のむちという日常生活の道具を用いて、六百人ものペリシテ人を殺したからには、主は、ものすごい戦闘力を彼に与えたのだろう。

このように主は、次から次へと不従順に陥るイスラエルに、次から次へと救いを送って下さった。
本来なら、とうの昔に滅ぼされてしかるべき所を、彼らが立ち返る度に、主は何度も、彼らを憐れんで下さった。
仏の顔は三度まで、であろうが、主は人の罪に従ってあしらう事をせず、不義によって報いられない。
天が地よりもはるかに高いように、主は、主を恐れる人に対して豊かな憐れみによって赦して下さるのだ。(詩篇103:10-11)
本当に驚くばかりの恵みである。

礼拝説教メッセージ音声:敢えて内なる敵が残されている理由(士師記3:1-11):右クリックで保存

『すべてカナンのもろもろの戦争を知らないイスラエルの人々を試みるために、主が残しておかれた国民は次のとおりである。・・・すなわちペリシテびとの五人の君たちと、すべてのカナンびとと、シドンびとおよびレバノン山に住んで、バアル・ヘルモン山からハマテの入口までを占めていたヒビびとなどであって、これらをもってイスラエルを試み、主がモーセによって先祖たちに命じられた命令に、彼らが従うかどうかを知ろうとされたのである。』(士師記3:1-4)


主が敢えて先住民を残しておられたのは、彼らを試みるためであり(士師記2:20-23)、また、戦うすべを教え、戦いの中において主に求め、主に頼る生き方を身につけさせるためであった。
現代を生きる私達も、戦いの必要がある。
日本は、前の戦争から70年ほど経ち、平和な日々を享受しているかのように見えるが、今、差し迫って、武器や兵器によらない戦いが必要である。
その戦いとは、私達の内に潜む、罪や愚かさに対する戦いである。

『しかるにイスラエルの人々はカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのうちに住んで、彼らの娘を妻にめとり、また自分たちの娘を彼らのむすこに与えて、彼らの神々に仕えた。そこで主はイスラエルに対して激しく怒り、彼らをメソポタミヤの王クシャン・リシャタイムの手に売りわたされたので、イスラエルの人々は八年の間、クシャン・リシャタイムに仕えた。』(士師記3:5-8)

イスラエルは、滅ぼすべき罪深い者達と結婚して、一つに交じり合ってしまい、まことの神を捨てて他の神々に仕えた。
その結果、主の怒りを買い、主の守りはイスラエルから離れて、罪深き王へと売り渡され奴隷となってしまった。

私達も、滅ぼすべき罪を放置し続け、しかも、それと一つに交じるのであるなら、罪と死の法則の奴隷となってしまい、ただ災いしか来ない。
しかし、主は憐れみ深いお方である。
自業自得の災いの中にあっても、主に呼び求めるなら、主は救いを送って下さる。

『しかし、イスラエルの人々が主に呼ばわったとき、主はイスラエルの人々のために、ひとりの救助者を起して彼らを救われた。すなわちカレブの弟、ケナズの子オテニエルである。主の霊がオテニエルに臨んだので、彼はイスラエルをさばいた。彼が戦いに出ると、主はメソポタミヤの王クシャン・リシャタイムをその手にわたされたので、オテニエルの手はクシャン・リシャタイムに勝ち、国は四十年のあいだ太平であった。ケナズの子オテニエルはついに死んだ。』(士師記3:9-11)

1章でも見た通り、オテニエルは、敵が巨体である事を恐れずに、信仰によって戦い出て、真っ先に勝利し、カレブの娘アクサを妻として得たばかりか、妻アクサに求めさせて、泉をも勝ち取った。
彼は、天の御国の良きものを信仰によって激しく奪い取ろうとする精神だったからこそ、士師の第一号となる栄誉を得たのだ。
彼が生きてイスラエルをさばいていた時代は平穏だったが、彼も死ぬと、また人々は元通り、不信仰に戻ってしまう。

国が国力を落とすのは、何も、外敵が武力で攻めて来る事に限らない。
家庭や会社、学校において、子供や同僚、生徒の罪や愚かさに、正面から向き合わないまま野放しにさせているなら、やがてそこは衰退してしまう。
ましてや、教会や、キリスト者の家庭なら、なおさらである。
使徒パウロは言う。
『わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。』(ローマ7:22-2)

あの、使徒パウロでさえ、自分の肢体には、自分とは別物なる法則、すなわち、罪の法則があり、それが、自分をとりこにしていると告白している。
つまり、この肢体に刺さる「罪の根」は、イエス様を信じた時点でも、またバプテスマを受けた時点でも、取り除かれずに残されたままなのである。
それは、士師記の時代と同様、私達がキリストを信じる信仰によって、自分の内にある罪と戦い、主に対する従順を貫き通すかどうかを、主が試しておられるためなのかもしれない。
また、私達が日々信仰において戦ってその術を学び、後に救われていく信仰の子供たちにも、戦うすべを伝授させて行くためなのかもしれない。

パウロは、自分の中に住む罪の法則のせめぎあいの故に、為したい善が出来ない自分を「何とみじめな人間であろうか」と嘆いたが、そのすぐ後、感謝の賛美を主に捧げている。(ローマ7:18-25)
なぜなら、人には出来なかった罪や肉への勝利を、御子キリストが勝利し、キリストにある人は、その葛藤から解放された事を、パウロは知ったからである。
『こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。』(ローマ8:1-3)

勝利の鍵は、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の法則に、乗る事である。
あたかも、飛行機に乗って、重力の法則を打ち負かして飛行して行くかのように、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則に乗るならば、罪と死の法則を打ち負かして、死をいのちへと飲み込んで行くのである。
そこには自分の資質や能力、努力など、一切関係無い。
ただ、キリストが為して下さった法則に、乗っかるだけなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:悔い改めなしに助けられるなら(士師記2:16-23):右クリックで保存

『その時、主はさばきづかさを起して、彼らをかすめ奪う者の手から救い出された。しかし彼らはそのさばきづかさにも従わず、かえってほかの神々を慕ってそれと姦淫を行い、それにひざまずき、先祖たちが主の命令に従って歩んだ道を、いちはやく離れ去って、そのようには行わなかった。
主が彼らのためにさばきづかさを起されたとき、そのさばきづかさの在世中、主はさばきづかさと共におられて、彼らを敵の手から救い出された。これは彼らが自分をしえたげ悩ました者のゆえに、うめき悲しんだので、主が彼らをあわれまれたからである。しかしさばきづかさが死ぬと、彼らはそむいて、先祖たちにまさって悪を行い、ほかの神々に従ってそれに仕え、それにひざまずいてそのおこないをやめず、かたくなな道を離れなかった。』(士師記2:16-19)

イスラエルの民が、苦しんだ時(15,18節)、主はそれをあわれみ、さばきつかさを送る事によって、助けられた。
しかしここには「悔い改めたため」という言葉はなく、ただ単に、彼らが「苦しんだ」から、主が一方的にあわれみ、助けを送られたのである。
人が、自らの罪ゆえに苦しみを受けるのは当然の事であるが、その苦しんでいる姿が可愛そうだからと、本人が悔い改める事をしないうちに助けてしまうのは、すぐにまた以前の罪深い状態に戻ってしまいやすいものである。

士師記の時代は、悔いる事はあっても、改める事が、実に乏しい時代だった。
だから、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の通り、すぐにまた罪深い状態に元に戻ってしまい、再び主の怒りを買って、災いが送られ、それで人が苦しむと、主は憐れみの手を差し伸べて、さばきつかさ送られ、、、という循環の繰り返しであり、司式はそのサイクルが何回も何回も続いた。

さばきつかさやヨシュアといった「人間指導者」が生きている間は、平安な時代となるが、しかしその指導者が死ぬと、また以前の罪深い時代に戻る。
その原因は、彼らは主ご自身につながるのではなく、人間指導者につながっていたためである。
私達は、そうであってはらなない。

私達は何につながるべきか。
ヨハネは言っている。
『わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。』(1ヨハネ 1:3)

ヨハネは、世の始まる前からおられたお方・御子イエス・キリストと親密な関係を持ち、この御方の素晴らしさを見、じっくりと味わった。
それで、皆をこの素晴らしい交わりへと、すなわち、御父および御子イエス・キリストとの交わりへと預からせたいがために、この手紙を書き、また自らは各地を巡って伝道し、迫害に遭ったりしたのだ。
私達も、このイエス・キリストとの直接的で親密な交わりに入り、このお方をじっくりと味わい、体験すべきである。
そうするなら、ますます主イエス・キリストにすがって生きるようになり、もはや、この素晴らしいお方を手放すなどはとんでもないと思うようになり、以前の罪深い生き方に戻る意欲も、どんどんなくなっていくのだ。

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