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メッセージ - 士師記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主のさばき、ギデオンのさばき(士師記8:18-21):右クリックで保存

ギデオンはイスラエル内部からさばきを始めた。

主の戦いに一切加わらず、それどころかパンの一つさえ助けない者達をまず打ち、その次に、ミデヤンの王達に対するさばきを行った。
世がさばかれる時も、さばきはまず神の家から始まり(1ペテロ4:17)、次に、世に対するさばきが行われるのだ。

『そしてギデオンはゼバとザルムンナに言った、「あなたがたがタボルで殺したのは、どんな人々であったか」。彼らは答えた、「彼らはあなたに似てみな王子のように見えました」。ギデオンは言った、「彼らはわたしの兄弟、わたしの母の子たちだ。主は生きておられる。もしあなたがたが彼らを生かしておいたならば、わたしはあなたがたを殺さないのだが」。』(士師記8:18-19)

まだミデヤン人達が勢いづいて、のさばっていた時、彼らは暴走族のように破壊するだけでは飽きたらず、タボルにおいて多くのイスラエル人を殺していたのだ。
なお、24節を見ると、イスラエルを虐げていた者達の中には、イシュマエル人も混じっていた事も分かる。
イシュマエル、それはイスラエルの父祖・アブラハムが肉の力によって産んだ子であるが、アブラハムに神様から約束されていた子・イサクが生まれたその時から、イシュマエルによるイサクへの攻撃は始まっており、この21世紀の現代でも、イシュマエルの子孫(アラブ民族)によるイサクの子孫(イスラエル民族)への迫害は、なお続けられている。

神に属する民は、確かに、世に属する者達によって迫害される。そして今なお、それが続けられている。
しかし主は、そのままで終わらせる事は無い。
『兄弟たちよ。あなたがたは、イサクのように、約束の子である。しかし、その当時、肉によって生れた者が、霊によって生れた者を迫害したように、今でも同様である。しかし、聖書はなんと言っているか。「女奴隷とその子とを追い出せ。女奴隷の子は、自由の女の子と共に相続をしてはならない」とある。だから、兄弟たちよ。わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由の女の子なのである。』(ガラテヤ4:28-30)

ギデオンは、神の民を剣にかけて血を流したその報いを、そのまま王達に返した。
『そして長子エテルに言った、「立って、彼らを殺しなさい」。しかしその若者はなお年が若かったので、恐れてつるぎを抜かなかった。そこでゼバとザルムンナは言った、「あなた自身が立って、わたしたちを撃ってください。人によってそれぞれ力も違いますから」。ギデオンは立ちあがってゼバとザルムンナを殺し、彼らのらくだの首に掛けてあった月形の飾りを取った。』(士師記8:20-21)

主イエスは、剣を抜く者は、剣で滅ぼされる、と言われたが(マタイ26:52)、その言葉通り、ミデヤンの王達は、同じ剣によって滅ぼされた。
私達は、世の剣(武力や言葉など、神に由来しない有形無形のあらゆる武器)が向かって来る時には、同じ”世の剣”によって返すべきではない。同じ剣によって滅ぼされてしまうからだ。
世の剣が向かって来た時には、むしろ、真理の御言葉の剣で相対するべきだ。
私達が、真理の御言葉の剣を立てるなら、あとは、主が全てして下さるからだ。
『からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。』(マタイ10:28)

ギデオンが全て悪を行った者に報復したように、世の終わりの時、主ご自身が全て神の民を迫害した者達に報復される。
その時、義人アベルの時以来、全て迫害され殺されて来た聖徒達の血は、血を流した者達へと返ってくるのだ。
『第二の者が、その鉢を海に傾けた。すると、海は死人の血のようになって、その中の生き物がみな死んでしまった。第三の者がその鉢を川と水の源とに傾けた。すると、みな血になった。それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませになりましたが、それは当然のことであります」。
わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」。 』(黙示録16:3-7)

現代を生きる私達は、聖徒として相応しく御言葉を伝え、迫害されている聖徒のために祈るべきである。
御言葉は、敵に対しては剣であり、聖徒達に対しては、いのちの養いのパンだからだ。

礼拝説教メッセージ音声:おくびょう者、恩知らずな者、信じない者の受ける分(士師記8:10-17):右クリックで保存

『さてゼバとザルムンナは軍勢おおよそ一万五千人を率いて、カルコルにいた。これは皆、東方の民の全軍のうち生き残ったもので、戦死した者は、つるぎを帯びているものが十二万人あった。ギデオンはノバとヨグベハの東の隊商の道を上って、敵軍の油断しているところを撃った。ゼバとザルムンナは逃げたが、ギデオンは追撃して、ミデアンのふたりの王ゼバとザルムンナを捕え、その軍勢をことごとく撃ち敗った。』(士師記8:10-12)


敵であるミデヤン人達十三万五千のうち、十分の九は既に討ち取られ、生き残った二人の王と、その手勢一万五千を、ギデオン達三百人が追撃した。
彼らには、「主が敵を渡してくださった」という確信があった。
それでギデオン達は疲れてはいても、また、仲間からの心ない仕打ちを受けても、なお信仰を奮い立たせ、そうして見事、二人の王を生け捕りにし、ゆうゆうと引き上げた。

主の戦いを戦っているギデオン達に食料を与えず、むしろ蔑みを返したスコテやペヌエルの人々は、まさか勝利するとは、思ってもいなかっただろう。
『こうしてヨアシの子ギデオンはヘレスの坂をとおって戦いから帰り、スコテの若者ひとりを捕えて、尋ねたところ、彼はスコテのつかさたち及び長老たち七十七人の名をギデオンのために書きしるした。ギデオンはスコテの人々のところへ行って言った、「あなたがたがかつて『ゼバとザルムンナはすでにあなたの手のうちにあるのか。われわれはどうしてあなたの疲れた人々にパンを与えねばならないのか』と言って、わたしをののしったそのゼバとザルムンナを見なさい」。
そして彼は、その町の長老たちを捕え、野のいばらと、おどろとを取り、それをもってスコテの人々を懲らし、またペヌエルのやぐらを打ちこわして町の人々を殺した。』(士師記8:13-17)

ギデオンは彼らにあらかじめ言っていた通りの事を、スコテやペヌエルの住人に実行した。
これを、やりすぎではないか、と思うかもしれない。
しかしスコテやペヌエルの住人は、ヨルダン川の西側でイスラエルの皆が力をあわせてミデヤン人と戦っているのに一切戦わず、逃げて行くミデヤン人達に、みすみす自分達の領土を通過させ、東側へと逃げて行く事を黙認し、かつ、休まないで追撃しているギデオン達を、さげすんだわけである。
それを、主の民イスラエルへの反逆と言わずして、何と言うだろう。
ミデヤン人のような横暴で脅し奪う者に対してはヘラヘラしてただされるがまま、その反面、自分達に良くしてくれる親や兄弟姉妹に対しては、やたら威張り散らして蔑むような、恩知らずやおくびょう者、信じない者が受ける分は、火と硫黄の燃えている池である。(黙示録21:8)

イエス様も、このような者達に対して言われた。
『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである。』
そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである。』 』(マタイ25:41-47)

主はやがて来られる。
そして、それぞれに相応しい報いを与えられるのだ。

『まちがってはいけない、神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。すなわち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は、霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。わたしたちは、善を行うことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。だから、機会のあるごとに、だれに対しても、とくに信仰の仲間に対して、善を行おうではないか。』(ガラテヤ6:7-10)

礼拝説教メッセージ音声:働き人の意気をくじく者達(士師記8:1-9):右クリックで保存

ギデオンは、近辺のミデヤン人の残党は他の部族に任せ、自分達は、逃げのびたミデアンの王・ゼバとザルムンナを追撃するために、ヨルダン川を渡り、東方へ急行した。

その時、ミデヤン人の首長オレブとゼエブを撃ち殺したエフライム人達が、ギデオンの所に来た。
『エフライムの人々はギデオンに向かい「あなたが、ミデアンびとと戦うために行かれたとき、われわれを呼ばれなかったが、どうしてそういうことをされたのですか」と言って激しく彼を責めた。』(士師記8:1)
ギデオン達は、敵を追撃している最中なのだが、エフライム族がわざわざヨルダン川を渡って、ギデオン達に面会を求めて来たのは、戦いに共に参加する為ではなく、「 なぜ自分達を先に呼ばなかったのか」と、どうでも良い事で激しくクレームするためだった。

そもそも、ギデオン達が角笛を吹いて戦いに召集したのは、主の霊に促されての事で(6:33-35)、戦いの呼びかけも、人選も、全て主に導かれての事だった。
そして、今回の戦いで主から選ばれたのは、三万二千人中、わずか三百人と、非常にシビアな選別だった。
だからこのような、誰を呼ぶ・呼ばない、という点で喧々諤々するために、わざわざ遠くまで足労するような性質の者達には、元から主の呼びかけが無かったのだろうし、たとえ呼ばれていたとしても、真っ先に人選から切り落とされ、ぶつぶつ不平を漏らして戦いの妨害さえしていた可能性が大いにある。
純粋に主のために働いている人の所に、名誉欲にかられた者が来て、どうでも良い事で難癖つけて疲れさせてしまうような事は、現代の教会でも大いにありうる事である。

そのような者達に、ギデオンは、実にうまく対応した。
『ギデオンは彼らに言った、「今わたしのした事は、あなたがたのした事と比べものになりましょうか。エフライムの拾い集めた取り残りのぶどうはアビエゼルの収穫したぶどうにもまさるではありませんか。神はミデアンの君オレブとゼエブをあなたがたの手にわたされました。わたしのなし得た事は、あなたがたのした事と比べものになりましょうか」。ギデオンがこの言葉を述べると、彼らの憤りは解けた。』(士師記8:2-3)

兄弟姉妹同士で争いごとをして、その間に敵を取り逃がしてしまうような、主の栄光にならない事を、ギデオンは選択しなかった。
主の働き人とは本来、主の栄光のために働くのであって、決して自分の満足や名誉のために働くのではない。確かに、ギデオンにも一言言いたい事はあっただろう。しかし、それを「主の故に」飲み込み、平和の内に速やかにこの問題を乗り越えて、すぐに、敵を追いかける任務へと戻った。
私達も、信仰が成長し切れていない弱い兄弟姉妹に対しては、霊的おとなとして、柔和な心で接するべきである。
『兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。』(ガラテヤ6:1)

このように平和の内に 乗り越えたギデオンだったが、追撃を続けて行く内に、さらに意気をくじかれる経験をする。
『ギデオンは自分に従っていた三百人と共にヨルダンに行ってこれを渡り、疲れながらもなお追撃したが、彼はスコテの人々に言った、「どうぞわたしに従っている民にパンを与えてください。彼らが疲れているのに、わたしはミデアンの王ゼバとザルムンナを追撃しているのですから」。スコテのつかさたちは言った、「ゼバとザルムンナは、すでにあなたの手のうちにあるのですか。われわれはどうしてあなたの軍勢にパンを与えねばならないのですか」。』(士師記8:4-)

ギデオンは決して難しい注文をしているわけではなかった。
イスラエルのため、主のために命を賭して共に戦ってくれ、というのではなく、ただ、疲れているこの三百人にパンを分けてほしい、というものだったが、彼らは助けようとは一切せずに、けちな蔑みの言葉しか返さなかった。
このように、兄弟姉妹が主のため、兄弟姉妹のために戦っているというのに、指一本たりとも、びた一文たりとも助けようとしないキリスト者も、残念ながら、いる。

『ギデオンは言った、「それならば主がわたしの手にゼバとザルムンナをわたされるとき、わたしは野のいばらと、おどろをもって、あなたがたの肉を打つであろう」。そしてギデオンはそこからペヌエルに上り、同じことをペヌエルの人々に述べると、彼らもスコテの人々が答えたように答えたので、ペヌエルの人々に言った、「わたしが安らかに帰ってきたとき、このやぐらを打ちこわすであろう」。』(士師記8:7-9)

さすがのギデオンも、このような者に対しては、怒りを燃やした。
スコテも、ペヌエルも、ヨルダン川の東側の町であり、デボラとバラクが戦いに呼びかけた時も、彼らは戦いに参加せずに、ただ思案して、どうでもいい事にうつつを抜かしていた。(詳細: http://voh.plala.jp/modules/d3blog/details.php?bid=2093 )

イスラエルのため、主のために戦いをしているのに、それに参加せず、指一本たりとも助けようとしないどころか、蔑みを与えるような者は、主を蔑む者であり、そのような者達へは、それ相応の報いが待っている。
私達は、そのような者ではなく、ギデオンと三百人勇士のように、主の働きを忠実に行う者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:主の剣、ギデオンの剣(士師記7:16-25):右クリックで保存

『そして彼は三百人を三組に分け、手に手にラッパと、からつぼとを取らせ、つぼの中にたいまつをともさせ、彼らに言った、「わたしを見て、わたしのするようにしなさい。わたしが敵陣のはずれに達したとき、あなたがたもわたしのするようにしなさい。わたしと共におる者がみなラッパを吹くと、あなたがたもまたすべての陣営の四方でラッパを吹き、『主のためだ、ギデオンのためだ』と言いなさい」。』(士師記7:16-18)

ギデオンと三百人の勇士たちは、剣などの武具を一切持たず、ラッパ(ショファー:角笛、コルネット)と、からつぼと、たいまつだけを携えて、戦いに臨んだ。
彼らは、ともしびを空つぼの中に隠し、光が外に漏れないようにして、敵陣近くまで潜入し、ギデオンの合図を待った。

『こうしてギデオンと、彼と共にいた百人の者が、中更の初めに敵陣のはずれに行ってみると、ちょうど番兵を交代した時であったので、彼らはラッパを吹き、手に携えていたつぼを打ち砕いた。すなわち三組の者がラッパを吹き、つぼを打ち砕き、左の手にはたいまつをとり、右の手にはラッパを持ってそれを吹き、「主のためのつるぎ、ギデオンのためのつるぎ」と叫んだ。』(士師記7:19-20)
ちょうど見張りが交代し、異常なしという引き継ぎを受けたばかりの所で、敵は油断していた。
そこに近くまで侵入していたギデオン達が「主のためのつるぎ、ギデオンのためのつるぎ」と叫び声を上げ、空つぼを割り、ラッパを吹き鳴らした。
敵が見上げてみると、今まで何も見えなかった所に、無数のたいまつの火が灯され、あちらこちらからつぼの割れる音や、叫び声、ラッパの音がモレの谷にこだまし、響き渡った
敵は激しく混乱し、同士討ちが起こった。主がそのようにされたからである。

この素晴らしい計略は、ギデオン自身が編み出したものではない。
彼が主の御言葉に従順した時、聖霊によって示されたものある。
主の御旨を成し遂げたいと願う働き人には、主が聖霊を送って下さり、なすべき知恵や、語るべき言葉を与えて下さる。それは、福音を伝える伝道者も、講壇で御言葉を語る説教者も、賛美をリードする人も同じである。主イエスに全てを委ねるのであれば、聖霊がその人を導き、人の知恵や力を遥かに超えた働きが為されるのだ。

ギデオンはまず、ともし火を空つぼに入れるよう指示した。
それと同じように、私達も、まことの光であられるキリストを、土の器である私達の内に住まわせて歩むべきである。
そして、主の促しがあった時には、私達の「固定概念」や「自我」という「空つぼ」は割ってしまい、内に秘めていた光なるキリストを解き放ち、御言葉のともしびを高々と掲げるべきである。
それをせず、私達という空つぼを生かしておき、御言葉のともし火を閉じ込めたままにして置くなら、ただ熱せられて辛くなるだけである。(エレミヤ20:9、マタイ5:15-16)
私達という「空つぼ」を割り、光なるキリストを高く掲げるなら、暗闇の勢力は粉々に砕かれ、逃げ惑い、自滅して行くのだ。

私達は土の器である。そして私達キリスト者は、その内に、キリストという無限の宝を秘めている。
『わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝える。わたしたち自身は、ただイエスのために働くあなたがたの僕にすぎない。「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。』(2コリント4:5-7)

ギデオン達は、武器を一切使わず、空つぼを割る事、ともし火を掲げる事、「主の剣、ギデオンの剣」という叫びと、ラッパを鳴り響かせる事によって、勝利のきっかけをもたらした。
私達の勝利の仕方も、同じである。
すなわち、私達という土の器を割り、内におられるキリストの光を放たたせ、御言葉のともし火、すなわち、主の剣を高々と掲げ、そして主への賛美を響かせる事によって、勝利するのだ。

礼拝説教メッセージ音声:敵陣をひっくり返す一かたまりの大麦のパン(士師記7:9-15):右クリックで保存

『その夜、主はギデオンに言われた、「立てよ、下っていって敵陣に攻め入れ。わたしはそれをあなたの手にわたす。』(士師記7:9)

三百人の精鋭に絞られたギデオン達に、いよいよ主から攻撃命令が下った。
しかし、彼にとって初めての戦闘であり、しかも相手は、十三万五千。それに対して三百人で立ち向かうという、前代未聞の戦いには、当然、恐れがあっただろう。
そこで主は、ギデオンを安心させるため、「もし恐れるならば」というオプションプランも用意された。

『もしあなたが下って行くことを恐れるならば、あなたのしもべプラと共に敵陣に下っていって、彼らの言うところを聞け。そうすればあなたの手が強くなって、敵陣に攻め下ることができるであろう」。ギデオンがしもべプラと共に下って、敵陣にある兵隊たちの前哨地点に行ってみると、ミデアンびと、アマレクびとおよびすべての東方の民はいなごのように数多く谷に沿って伏していた。そのらくだは海べの砂のように多くて数えきれなかった。』(士師記7:9-12)

主は、もし恐れるなら、プラという人物と一緒に敵陣へ下って行って、彼らの内で取り交わされている会話を聞くように命じられた。
この”視察”は、敵状を探るものではなく、主が為して下さった真理を見に行かせるための”霊的視察”である。
いなごの大軍のような敵の多さや海辺の砂のような数のらくだなどの”うわべ”を見る敵情視察なら、もはや絶望しか無い。
しかし、主が既に為して下さった”真実”を知るなら、その真理はその人を自由にする。

『ギデオンがそこへ行ったとき、ある人がその仲間に夢を語っていた。その人は言った、「わたしは夢を見た。大麦のパン一つがミデアンの陣中にころがってきて、天幕に達し、それを打ち倒し、くつがえしたので、天幕は倒れ伏した」。仲間は答えて言った、「それはイスラエルの人、ヨアシの子ギデオンのつるぎにちがいない。神はミデアンとすべての軍勢を彼の手にわたされるのだ」。』(士師記7:13-14)
主は、ギデオン自身に夢を見させる事によってではなく、敵が見た夢と、敵が解釈したその内容によってギデオンを力づける。
私達はなにかと、他人がどう評価したかによって力づけられる事も、多いものである。

敵が見たのは、実に面白い夢である。どうして大麦のパンがころがって来ると、天幕が倒れ、陣営が覆るのか。
また、敵は、大麦のパンはギデオンの剣に違いない、と言ったが、ギデオン達とその軍は、この夜、刀剣類は一切持たずに勝利する。
一体、ギデオンの剣なる大麦のパンとは、何だろう。

主が戦って下さるにあたって重要なものは、剣や槍などの装備や、人の力ではなく「ことば」であり、それも、真理に立った御言葉を宣言する事が、勝利の鍵である。
『ダビデはペリシテびとに言った、「おまえはつるぎと、やりと、投げやりを持って、わたしに向かってくるが、わたしは万軍の主の名、すなわち、おまえがいどんだ、イスラエルの軍の神の名によって、おまえに立ち向かう。・・・またこの全会衆も、主は救を施すのに、つるぎとやりを用いられないことを知るであろう。この戦いは主の戦いであって、主がわれわれの手におまえたちを渡されるからである」。』(1サムエル17:45-47)
生ける神の陣をなぶったゴリヤテは、武器と肉体の大きさと偶像の神々の名によって向かって来たが、ダビデは、イスラエルの神、万軍の主の御名によって立ち向かった。
彼は真理の「ことば」を宣言する事によって、力対力の戦いから、真理対不真実の戦いへと転換し、そして見事勝利した。

真理の御言葉は、神に信頼する者にとっては、いのちを養うパンであるが、神の敵に対して、悪魔に対して、そしてあらゆる不真実に対しては、滅びの剣なのだ。

イエス様が、少年が捧げた5つの大麦のパンと2匹の魚によって、大勢の人々を養ったように(ヨハネ6:9-13)、御言葉のパンはたとえわずかであっても、また捧げる人がいかに小さくても、主イエスを信頼し慕い求めて来る大勢の人を満腹させ、弟子たち全員をも満ちたらせる。
そして、御言葉は、暗闇の支配や権威、天上にいる諸々の悪霊を薙ぎ払い、刺し貫く「剣」である。(エペソ6:11-17)
ミデヤン人の陣営に転がってきた大麦のパンは、真理の御言葉であり、ギデオン達にとっては勝利の真理、敵にとっては敗北の真理なのだ。

『ギデオンは夢の物語とその解き明かしとを聞いたので、礼拝し、イスラエルの陣営に帰り、そして言った、「立てよ、主はミデアンの軍勢をあなたがたの手にわたされる」。』(士師記7:15)
この時以降、ギデオンはもはや恐れることも、主にしるしを求める事もなくなり、本当に「大勇士」として相応しく行動をするようになる。
主の御言葉がその人の内に入り、真理を理解すると、その人は本当に自由になり(ヨハネ8:32)、もはや外見や、目の前の「現実」に捕らわれなくなる。

主が真理を教えて下さり、人がそれを信じて行動する時、十三万五千の敵はわずか三百人の神の民に滅ぼされ、屈強な巨人戦士ゴリヤテは紅顔の少年に倒され、五つの大麦のパンと二匹の魚によって、何千人もの人を満腹させ養うのだ。

礼拝説教メッセージ音声:ギデオンの300人勇士の選別(士師記7:1-8):右クリックで保存

『さてエルバアルと呼ばれるギデオンおよび彼と共にいたすべての民は朝早く起き、ハロデの泉のほとりに陣を取った。ミデアンびとの陣は彼らの北の方にあり、モレの丘に沿って谷の中にあった。』(士師記7:1)
いよいよ、双方の陣営は、互いに5キロメートル程の距離に迫った。

ギデオン率いるイスラエルの軍は、三万二千人。対する敵の連合軍は、十三万五千人。敵は四倍ほどの兵力である。
数の上では実に不利であり、一人でも多くの人手が欲しいと思う所だが、主は、その逆である事を言われる。
『主はギデオンに言われた、「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。』(士師記7:2)

主はご存知だったのだ。
もしこのままの状況で勝ったなら、人は「自分達の力で勝った、自分達はすごい」と言って、傲慢になってしまう事を。

もし勝利しても、神様に感謝と栄光を帰さない傲慢さが残っているなら、「わたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない」と言われたように、主はもっと力を削ぎ、ただ主に求める以外に無い状況へ置かれる。
皆さんが今、何かの戦いに面しているとして、もし勝利が与えられたなら、真っ先に、主に栄光と感謝を帰する「自信」はあるだろうか。
主から幸いを受けた時、願っていたことが成就した時こそ、重要である。
念願の事が叶った時、祝杯を上げるのに忙しくて主を忘れ、そのまま主に戻らないとするなら、もっと悪い事になってしまう。事実、士師記の荒んだ時代はそうしてはじまった。
だから、主から幸いを得た暁には主に感謝し、主にしっかり繋がって生きるのだという確固とした信念をもっておくべきである。

『それゆえ、民の耳に触れ示して、『だれでも恐れおののく者は帰れ』と言いなさい」。こうしてギデオンは彼らを試みたので、民のうち帰った者は二万二千人あり、残った者は一万人であった。』(士師記7:3)
主は、戦うべき人々を、選別される。その上で、恐れおののく者は真っ先に切り捨てられて行く。
信仰の戦いにおいて、最も邪魔するものは、この、気後れしている者、恐れている者、おくびょう者である。
事実、イスラエルが荒野で40年も回り道をしてしまった原因は、わずか十名の斥候の「恐れ」が発端だった。(民数記13-14章)

このようにして、イスラエルの手勢は一万になってしまった。
彼我の人数比は、一対十三。数ではもはや圧倒的不利であるが、主は、さらに人数を絞られる。
『主はまたギデオンに言われた、「民はまだ多い。彼らを導いて水ぎわに下りなさい。わたしはそこで、あなたのために彼らを試みよう。わたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行くべきだ』と言う者は、あなたと共に行くべきである。またわたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行ってはならない』と言う者は、だれも行ってはならない」。』(士師記7:4)

信仰の戦いにおいては、主が「共に行くべきだ」という人と「共に行ってはならない」という人とに分かれる。
それは、どのような基準で選別されるか。
『そこでギデオンが民を導いて水ぎわに下ると、主は彼に言われた、「すべて犬のなめるように舌をもって水をなめる者はそれを別にしておきなさい。またすべてひざを折り、かがんで水を飲む者もそうしなさい」。そして手を口にあてて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみなひざを折り、かがんで水を飲んだ。主はギデオンに言われた、「わたしは水をなめた三百人の者をもって、あなたがたを救い、ミデアンびとをあなたの手にわたそう。残りの民はおのおのその家に帰らせなさい」。』(士師記7:5-7)

手で水をすくってなめるだけの人は選別されたが、膝をつき、かがんで水を飲んだ人は、選別から外された。
既に、敵がもうすぐそこに迫っているような状況で、膝をついて水をがぶ飲みする者は、臨戦態勢が整っていない、という事だ。
例えば、チームで宣教旅行に行った際、せっかく見知らぬ地に来たのだから、ご当地の有名処でグルメを飲み食いしたいと思っている人は、チームから外され、そうしたものには目をくれず、むしろ当地の人々の救いのために祈ったり、御言葉で心備えしたりする人が、選別に残るようなものである。
霊的な戦いにおいては、人数は関係無い。むしろ、その軍団の霊的純粋さが重要だ。それは、教会の働き人についても、ミニストリーのチームについても、同じである。

『そこで彼はかの三百人を留めおき、残りのイスラエルびとの手から、つぼとラッパを取り、民をおのおのその天幕に帰らせた。時にミデアンびとの陣は下の谷の中にあった。』(士師記7:8)
選別に合格したのは、わずか三百人だった。
三百人が、十三万五千に戦いを仕掛ける。もはや、お話にならない。
これで勝つとしたなら、もはや人間のわざではなく、100%主のわざだとしか言いようが無い。
こうして、主の戦いの条件が整えられた。

主が御業を働かせられる条件が整うまでに、人は、多くのものを主に明け渡し、手放して行かなくてはならない。
人が自分の方法を、あるいは自分の何かを、自分のものとして握り締めている限り、主は「あなたの力はまだ多すぎる」と言われ、どんどん手放す事を要求される。
私達は、主に促されるままに手放して行くたびに、心細さを感じるかもしれないが、しかし、手放せば手放して行く程、主の圧倒的な力が働く素地が整えられていくのだ。それが、十字架の死と復活の原理である。
十字架、それは、全てを明け渡し手放す究極形態で、人には絶望に見えるが、十字架の上で全てを明け渡す時、神様から復活の圧倒的ないのちのパワーが湧き起こり、人間の力では決してあり得ないような神様の力が働く事のできる素地が整うのだ。

礼拝説教メッセージ音声:臆病であっても御胸を為す人は、勇士となって行く(士師記6:33-40):右クリックで保存

神の民の敵は連合し、大軍をなして攻めて来た。その数は、およそ十三万五千人。
その時、主の霊がギデオンに臨み、彼がラッパを吹き鳴らすと、彼の家の者・アビエゼル人が集まり、さらに母体の部族であるマナセ族が、続いて、イスラエル北方に領地を得ているアシェル、ゼブルン、ナフタリの部族の中からも、次々とギデオンの元に集まった。(士師記6:33-35)

おびただしい数の敵を前に、ギデオンは、およそ三万三千人の集団を率いる長として、立った。
彼はついこの間まで、敵を恐れる故に、酒槽の中で隠れて麦を打っていたような者、あたかも、不良たちを避けてトイレの個室に隠れて弁当を食べていたような状況だった。
それが今、多くの人々が彼に命を預け、戦おうとしている。
今まで、家の中で最も小さき者として過ごして来た彼にとっては、かつて無いような経験である。

主の霊に導かれて、人々を召集したものの、ふと我に返った時、彼には恐れが来たのであろう。
それは無理もない事である。
『ギデオンは神に言った、「あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルを救おうとされるならば、わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。これによってわたしは、あなたがかつて言われたように、わたしの手によってイスラエルをお救いになることを知るでしょう」。すなわちそのようになった。彼が翌朝早く起きて、羊の毛をかき寄せ、その毛から露を絞ると、鉢に満ちるほどの水が出た。
ギデオンは神に言った、「わたしをお怒りにならないように願います。わたしにもう一度だけ言わせてください。どうぞ、もう一度だけ羊の毛をもってためさせてください。どうぞ、羊の毛だけをかわかして、地にはことごとく露があるようにしてください」。神はその夜、そうされた。すなわち羊の毛だけかわいて、地にはすべて露があった。』(士師記6:36-40)

ギデオンは主に二度しるしを求めたが、このしるしの中に、キリストが隠れている。
キリストは、世の罪を取り除くまことの小羊として世に降りて来られた。
最初のしるしでは、羊の毛だけに露が降り、それ以外の全地は乾いていたが、同じように、かつては世において唯一キリストにのみ、父のひとり子としての栄光があり、めぐみとまことが彼には充満していた。(ヨハネ1:14)

第二のしるしでは羊の毛だけが乾き、それ以外の全地は潤っていたが、同じように、キリストは十字架上で「わたしは渇く」と言われた。
彼は富んでおられたのに、貧しくなられ、祝福されていたのに呪われ、いのちの君であられたのに十字架上で死なれた。
それは、キリストが貧しくなる事によって、彼を信じる人々が彼の代わりに富む者とされるため、また、彼が全人類の呪いを彼が一手に引き受け、全て彼を信じる者が祝福を受けるため、そして、死ぬべき私達の死を、彼が全て身代わりに背負って、死に、彼の身代わりの死によって、私達が永遠に生きるようになるためである。
彼が世の罪を取り除くまことの小羊としてほふられた時、彼の内にあった全ての知恵と力と栄光と富と、いのちの属するあらゆる良きものは、全ての人々へと解き放たれ、潤されたのだ。

ギデオンは何度もしるしを求め、主もまた、彼が安心するまで、何度もしるしを行った。
主は、見ないで信ずる者はさいわいである、と言われたが(ヨハネ20:29)、信仰によって歩みだしたばかりの人が、全く未経験の領域へと歩みだそうとする時、あるいは、今自分が乗っているこのレールは、果たして御心に沿っている道なのだろうかと、疑問が沸き起こる時、大いに、主に求め、聞くべきである。
主に聞きもしないで、勝手にゴールを変えてしまったり、あるいは、自分は相応しくないからと途中で降りてしまうのは、自分自身に滅びを招いてしまう事だ。
ヨナは主からの召命があったのに、逆方向へと向かってしまった故に、彼が乗った船全体に災いが及び、彼自身は、魚に飲み込まれてしまった。
また、モーセに連れられて出エジプトした民は、主に示された事を守らず、途中でエジプトを懐かしんで逆方向へ戻ろうとしたため、荒野で滅んでしまった。

ギデオンは確かに何度もしるしを求めたが、しるしが与えられておきながら御旨に背いた事は、一度も無かった。
どんなに怖くても、彼はちゃんと御旨を実行した。
そのような素養があったからこそ、主は彼を召しだされたのかもしれない。
私達も、いかに恐れても、臆病であっても、いかに落胆しても、それでもなお主の御胸を守り行って行くなら、どんどん勇士へとつくり変えられて行くのである。

礼拝説教メッセージ音声:小さな信仰の行いを偉大な事へ転換して下さる主(士師記6:25-32):右クリックで保存

主は臆病なギデオンを、徐々に勇士へと造り変えて下さるが、そのために主は、彼に最初のチャレンジを与えられた。
それは、父の家にある偶像の祭壇を打ち壊し、主への礼拝を回復させる事だった。
『その夜、主はギデオンに言われた、「あなたの父の雄牛と七歳の第二の雄牛とを取り、あなたの父のもっているバアルの祭壇を打ちこわし、そのかたわらにあるアシラ像を切り倒し、あなたの神、主のために、このとりでの頂に、石を並べて祭壇を築き、第二の雄牛を取り、あなたが切り倒したアシラの木をもって燔祭をささげなさい」。』(士師記6:25-26)
私達も、破綻してしまった人生を回復させるために、まずしなくてはならない事は、神でないものに頼る事を止め、私達の中の、神抜きでやりくりして来たそのパターンを打ち壊し、向き直って、神である主を礼拝する生活を取り戻す所からである。

『ギデオンはしもべ十人を連れて、主が言われたとおりにおこなった。ただし彼は父の家族のもの、および町の人々を恐れたので、昼それを行うことができず、夜それを行った。』(士師記6:27)
彼は、この主から与えられた最初のチャレンジに、恐れがあった。
しかし、いかに恐れながらでも、人目をはばかって夜に行ったにしても、彼が主の御言葉を実践した事には、変わりはなかった。

主は、このような、恐れながらのやっとの従順をも、喜んで受け取って下さる。
ギデオンの氏族はマナセのうちで最も弱い分団で、彼自身も、父の家では最も小さい者である、と、彼は告白したが、主は、その最も小さな者の、ほんの小さな信仰の行いを受け取り、それを用いて、とても大きな事を動かして下さる。
実際ダビデも、元々は父の家で最も小さな者で、兄弟の数にすら数えられていなかったが、そんな小さな彼の信仰を主は受け取られ、どんな大人も立ち向かえなかった巨人ゴリアテを、見事彼が討ち取ったものだ。

『町の人々が朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は打ちこわされ、そのかたわらのアシラ像は切り倒され、新たに築いた祭壇の上に、第二の雄牛がささげられてあった。そこで彼らは互に「これはだれのしわざか」と言って問い尋ねたすえ、「これはヨアシの子ギデオンのしわざだ」と言った。町の人々はヨアシに言った、「あなたのむすこを引き出して殺しなさい。彼はバアルの祭壇を打ちこわしそのかたわらにあったアシラ像を切り倒したのです」。』(士師記6:28-30)
町の人々の反応から、当時のイスラエルの信仰が、いかに失墜していたかがわかる。
人々は、まことの神である主を捨て、平然とバアルやアシラを崇拝しており、その像が壊されたという事でギデオンを殺せ、というのだ。
ギデオンが恐れながらこの事を行ったのも、無理は無い。
しかし、彼一人のこの行動が、彼の周りに変化をもたらし、まずは彼の父から、その変化が現れた。
父ヨアシュは、自分の偶像が壊されたのであるから、人々がギデオンを責める以前に、真っ先にギデオンを処罰するはずの所だが、それをせず、かえって養護している。

「あなた達はバアルのために熱心に(tereevoon) 弁護するのか?本当に彼(バアル)を守る(tosheeoon) のか?もし彼が神であるなら、彼自身に、自分の祭壇が壊された事について争わせるがよかろう。」(士師記6:31 TSKより)
この言葉は、とても断固たるものである。
ギデオンの父は、気づいたのだ。自分が今までより頼んできたこの偶像には、自分の息子の、それも、最も臆病な息子にさえ簡単に切り倒されてしまう程、力が無く、その偶像の木材が、まことの主へのいけにえを燃やす燃料にされても、何も出来なかった事を。

『そこでその日、「自分の祭壇が打ちこわされたのだから、バアルみずからその人と言い争うべきです」と言ったので、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。』(士師記6:32)
こうしてギデオンはその出来事の内容が通り名となり、その名が広められる所では、バアルなどの偶像には力なし、と広がっただろう。
私達も、まことの神以外に頼りにしている何か、すなわち、全くもって力の無い偶像を取り除け、それは、主を礼拝するための燃料とし、主に捧げるべきである。
全て、人々を偶像礼拝へと導いたサタンや悪霊ども、偽預言者たちは、やがて、永遠に燃やされる火の燃料とされる。(黙示録20:10)

私達もギデオンのように、最初は恐れながらでも良い。
信仰は、からし種ほどのわずかなものであっても、主の御言葉を従順し行うなら、主はそのわずかな信仰を用いて、山のような障壁を、海の中へと動かす元として下さるのだ。
『もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。』(マタイ17:20)

礼拝説教メッセージ音声:未来の私達をご覧になって今の私達をケアして下さる主(士師記6:17-24):右クリックで保存

ギデオンは主に弱気な受け答えを繰り返したが、彼は今度は、しるしを見せて下さい、と求めた。
『ギデオンはまた主に言った、「わたしがもしあなたの前に恵みを得ていますならば、どうぞ、わたしと語るのがあなたであるというしるしを見せてください。どうぞ、わたしが供え物を携えてあなたのもとにもどってきて、あなたの前に供えるまで、ここを去らないでください」。主は言われた、「わたしはあなたがもどって来るまで待ちましょう」。』(士師記6:17-18)

私達がこの時の彼を見るに、本当に臆病で弱々しく、また、疑い深い信仰であるのを見て、本当に士師として大丈夫だろうか、と、思うかもしれない。
しかし主は、そんな彼を叱る事なく、飽きる事なく、弱い彼の信仰に応じて、一つ一つの要望に答えて下さった。
なぜなら主は、彼がそんな風に臆病に成長してしまった生い立ちをご存知であり、そして、彼がこれから主にあって造り替えられて行く後の、大胆な勇士としての未来をもご存知だから、主は、忍耐深く現在の彼をケアし、その成長を見守っておられるのだ。
それは私達についても、同様である。
永遠であり全能なる主は、私達が生まれてから現在に至るまでの成り立ちを全てご存知であり、また、主の栄光の器として造り替えられて行く将来の私達をも、ご覧になっておられるのだ。

『そこでギデオンは自分の家に行って、やぎの子を整え、一エパの粉で種入れぬパンをつくり、肉をかごに入れ、あつものをつぼに盛り、テレビンの木の下におる彼のもとに持ってきて、それを供えた。神の使は彼に言った、「肉と種入れぬパンをとって、この岩の上に置き、それにあつものを注ぎなさい」。彼はそのようにした。すると主の使が手にもっていたつえの先を出して、肉と種入れぬパンに触れると、岩から火が燃えあがって、肉と種入れぬパンとを焼きつくした。そして主の使は去って見えなくなった。』(士師記6:19-21)
彼は、彼なりの主への供え物を整えて、主の指示通りに行った所、主は火によってその捧げ物を受け入れられ、そうしてご自身が主である事を示された。

主は要望通り、しるしによってご自身を示されたというのに、彼はなお叫んだ。
『ギデオンはその人が主の使であったことをさとって言った、「ああ主なる神よ、どうなることでしょう。わたしは顔をあわせて主の使を見たのですから」。』(士師記6:22)
自分が何気なく主に訴えて望んだ事が、実際に実現してみると、まさかこんな事になるとは思っていなかった、えらい事になった、これからどうしよう、と、ショックを受けてしまう人もいる。
特に、弱い信仰の人はそうで、自分で何を願っているかも、またそれが実現したらどうなるかも、分かっていないのだ。

しかし、そんなギデオンにも、主は、励まして下さる。
『主は彼に言われた、「安心せよ、恐れるな。あなたは死ぬことはない」。そこでギデオンは主のために祭壇をそこに築いて、それを「主は平安」と名づけた。これは今日までアビエゼルびとのオフラにある。』(士師記6:23-24)
本当に主は恵みと憐れみに富まれたお方である。
ギデオンはこの一連のやりとりを通して、主は平安の主であり、自分を面倒みて下さると定めたからには、主はとことんまで平和に導いて下さる事を学び、少しだけ前進した。

イエス様も、弟子たちに対してそうだった。
イエス様が十字架から復活された日の弟子たちの状況は、ギデオンが主に呼び出された時と似ている。
『その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。』(ヨハネ20:19-20)

ギデオンは、ミデヤン人を恐れ隠れていた所に主が現れたが、弟子たちも、ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた時、主が現れて「平安あれ」と声をかけてくださった。
主はギデオンに「あなたの捧げ物は受け入れた」というしるしを見せて下さったように、主イエス様も、十字架上で打たれた手と脇腹を私達に見せて下さり、あなたの罪の刑罰は、もうわたしが負った、あなたはもう神に受け入れられている、というしるしを見せて下さる。

主がギデオンを、イスラエルを救う者として遣わしたように、主イエス様も、私達を平和の使者として世に遣わして下さる。
『イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。』(ヨハネ20:21-23)
主は私達を遣わすにあたり、必要な権能を教会に与えて下さった。その権能は、ハデスの門さえ打ち勝てない権能である。(マタイ16:15-19)

『十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。』(ヨハネ20:24-25)
トマスも、ギデオンのように見なければ信じない信仰の持ち主だった。
ただしトマスの場合はギデオンと違い、3年半ほど主のそばで行動を共にし、弟子としての働きをしていたというのに、まだ、見なければ信じない頑固な信仰者だった。
主は、そんな彼をも扱って下さる。

『八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。』(ヨハネ20:26-29)
このようにして、トマスもようやく、見ないで信じる者へと造り替えられて行った。

主は、一人一人に必要な養いを、それぞれにカスタムメイドで与えて下さるのだ。
主に養われ、主の似姿へとますます造り替えられ、有用な働き人として大胆に遣わされていく皆さんでありますように。
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:ギデオンの召命 - 弱い者を大勇士へ(士師記6:11-16):右クリックで保存

主は、主から離れたイスラエルを、凶暴な者の手へと渡し、荒らされ放題の状況へと追い込んだが、叫び求める彼らを助けるために、主は、ギデオンを士師として召しだされた。
ギデオンの名前の意味は「打ち倒す人」「切り倒す人」で、とても勇ましい印象を受けるが、主に呼び出された当初の彼は、とてもそんな者ではなく、臆病で弱々しかった。

『さて主の使がきて、アビエゼルびとヨアシに属するオフラにあるテレビンの木の下に座した。時にヨアシの子ギデオンはミデアンびとの目を避けるために酒ぶねの中で麦を打っていたが、主の使は彼に現れて言った、「大勇士よ、主はあなたと共におられます。」』(士師記6:11-12)
ギデオンが初めて主から声がかけられた時、彼は、酒槽の中で隠れて、麦を打っていた。
あたかも、不良たちに弁当が奪われる事を避けるために、トイレの個室に隠れて食べていたような状況である。
そんな彼の所に突如、主の使いが現れ、「大勇士よ」「主はあなたと共におられます」と、声をかけられたのだ。

敵を恐れて逃げ隠れしている人に「大勇士よ」と呼びかけるのは、滑稽に見えるかもしれないが、主はよく好き好んで、最も弱い者を召し出し、大いなる事を任せられる。
モーセも当初、自分は口下手だから、誰か他の人を使わして下さい、と願ったし、エレミヤも最初、自分は若くてどう語っていいか分からない、と恐れた。
しかし主は、彼らを徐々に鍛え、整えて行かれた。ギデオンも、そうだった。

『ギデオンは言った、「ああ、君よ、主がわたしたちと共におられるならば、どうしてこれらの事がわたしたちに臨んだのでしょう。わたしたちの先祖が『主はわれわれをエジプトから導き上られたではないか』といって、わたしたちに告げたそのすべての不思議なみわざはどこにありますか。今、主はわたしたちを捨てて、ミデアンびとの手にわたされました」。』(士師記6:13)
ギデオンは、主が共にいますなら、なぜこんな事が起こるのでしょう、と、この世代の惨めな状況について吐露した。

主がおられるなら、なぜこのような災いが起こるのか。それは私達もよく思う。
しかし、主に愛されている人であればあるほど、その人が悪い行いをするなら、主は矯正するために、懲らしめるものだ。
もし人が主を捨て去り、他の神々へと走っても、何の懲らしめも受けず放って置かれるとするなら、それこそ主に愛されていない証拠である。
『主は愛する者を訓練し、/受けいれるすべての子を、/むち打たれるのである」。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。』(ヘブル12:6-8)

『主はふり向いて彼に言われた、「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか」。』(士師記6:14)
主は、ギデオンの質問した内容には一切答えず、ただ真理のみを、すなわち、ただ彼が立つべき立ち位置のみを、示された。

主は、人間の不信仰な質問や、マイナス思考的なつぶやきに対しては、一切受け答えをしない。
主はヨブの膨大な質問責めのようなつぶやきには一切応えず、ただ、神の圧倒的な力強さだけを示したし、イエス様もベテスダの池に三十八年臥せっていた病人の心情吐露に一切応えず、ただ「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」と言われた。(ヨハネ5:8)
またイエス様は、何か奇跡を見せてみよ、というヘロデの浅はかな質問責めに対しては、一切何もお答えにならなかった。(ルカ23:8-11)

私達も、尊い信仰を侮蔑するような質問や、不信仰な考え、マイナス思考的なつぶやきに対して、まともに応えてはならない。
彼らの土俵に降りて来る必要はなく、かえって彼らを真理の土俵へと引きずり出して来るべきで、不信仰なマイナス思考の言葉は、真理の御言葉によって、上書き保存して行くべきだ。

敵を恐れ、逃げ隠れして麦打ちをしていたギデオンに対し、イスラエル人をミデヤン人から救え、と、突拍子もない命令をして来た御使いに、彼は嘆息しながら自分の状況を訴えた。
『「ああ主よ、わたしはどうしてイスラエルを救うことができましょうか。わたしの氏族はマナセのうちで最も弱いものです。わたしはまたわたしの父の家族のうちで最も小さいものです。」主は言われた、「しかし、わたしがあなたと共におるから、ひとりを撃つようにミデアンびとを撃つことができるでしょう」。』(士師記6:15-16)

主はギデオンに「わたしがあなたと共にいる」と言われた。主は確かに生きておられ、私達とともにおられる主、インマヌエルなる主である。
また主は、モーセとイスラエル民族に、「わたしはある(存在する)」と言われた。

不真実で、はかない私達が、自分自身をどう評価するかは、問題ではない。
在りて在られる「わたし」なる主が、どう評価されるか。そちらのほうが、真実である。
私達も、ギデオンのように、自分は大勇士とは到底いえない状況であっても、主がどのように評価しておられるかが重要であり、そちらが真実である。

私達キリスト者は、イエス・キリストにあって、どのような立ち位置を獲得しているか。
「信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」(ヨハネ5:24)
「信じる者は決して渇くことがない。その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(7:38)
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(2コリント8:9)
「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。」(1ペテロ2:9)
「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(ピリピ4:19)

たとえ私達が、そのように「感じない」としても、私達の「感じ」が真理ではなく、御言葉に記されて事が真理である。
私達は、自分の「感じ方」「考え方」は御言葉の前に降ろし、御言葉に記されている事のほうを受け入れるなら、御言葉の圧倒的な力が私達に働き、不可能は可能へと、不真実は真実へと、弱者は勇者へと、主が塗り替えて下さるのである。

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