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メッセージ - 士師記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:いつまでも罰せられない事につけあがるサムソン(士師記16:1-9):右クリックで保存

『サムソンはガザへ行って、そこでひとりの遊女を見、その女のところにはいった。』(士師記16:1)

ガザは、ペリシテの領地の南端にある町である。
前回の所で、主は、彼の罪深い素行に見合わないほどの救いを与えて下さった、にもかかわらず、彼はまだ懲りずにペリシテの地に女を求めに行っている。

パウロは言う。
『あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。
不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。』(1コリント6:15-20)

サムソンは、幾度も主の霊が激しく降っているというのに、その与えられた力を、神の栄光をあらわすために用いず、かえって、そのからだを取って異邦の遊女と交わり、主と、その聖なる霊とに、罪を行っている。
それでもなお、彼からその力は取り上げられない。

『「サムソンがここにきた」と、ガザの人々に告げるものがあったので、ガザの人々はその所を取り囲み、夜通し町の門で待ち伏せし、「われわれは朝まで待って彼を殺そう」と言って、夜通し静かにしていた。』(士師記16:2)
サムソンはもはやペリシテ人の間では有名なお尋ね者であり、長髪でガタイが大きい彼は、とても目立つはずなのだが、それでも堂々と、女を買うためにペリシテの領地に来て、堂々と遊女と遊んでいる。
彼の慢心のつけ上がりさ加減は、ますます大きくなっている事がわかる。

『サムソンは夜中まで寝たが、夜中に起きて、町の門のとびらと二つの門柱に手をかけて、貫の木もろともに引き抜き、肩に載せて、ヘブロンの向かいにある山の頂に運んで行った。』(士師記16:3)
ガザからヘブロンまでは六十キロ以上はある。
町の門を素手でひっこ抜いただけでも驚きだが、それを六十キロ以上も担いで運ぶのは、相当の怪力である。
きっと待ちぶせしていたペリシテ人は、そんなサムソンを見て、とてもかなわないと、戦う気も失せてしまったのだろう。

世の人は、これを見て痛快に思うし、男の中の男だ、と思う人もいる。彼が為した事どもは、絵画や映画でも、好んで取り上げられる面白いストーリーである。
しかし、御言葉の見地に立つならば、彼はとんでもない事を続けており、主の憐れみによって、かろうじて首の皮一枚で命がつながっているものである事がわかるはずだ。
それでもなお、彼から力が取り上げられないのは、彼が、ナジル人としての誓願の「頭にかみそりを当てない」というきまりを、かろうじて守っているからである。
しかし、いつまでも罰せられない事に慢心し、図に乗り続けていると、自分がどんなにとんでもない事をしているか、どんなに主を悲しませているのかという感覚がマヒして行き、どんどん自分を滅びへと導いて行ってしまうのだ。

『この後、サムソンはソレクの谷にいるデリラという女を愛した。ペリシテびとの君たちはその女のところにきて言った、「あなたはサムソンを説きすすめて、彼の大力はどこにあるのか、またわれわれはどうすれば彼に勝って、彼を縛り苦しめることができるかを見つけなさい。そうすればわれわれはおのおの銀千百枚ずつをあなたにさしあげましょう」。』(士師記16:4-5)
彼を決定的な滅びへ突き落とすのが、この女性・デリラである。
彼女の名前の意味は「上品な」「思わせぶり」であり、彼女はもしかしたら高級娼婦だったのかもしれない。
彼女は大金を積まれ、サムソンを色仕掛けで陥れる機会を狙う。

『そこでデリラはサムソンに言った、「あなたの大力はどこにあるのか、またどうすればあなたを縛って苦しめることができるか、どうぞわたしに聞かせてください」。サムソンは女に言った、「人々がもし、かわいたことのない七本の新しい弓弦をもってわたしを縛るなら、わたしは弱くなってほかの人のようになるでしょう」。』(士師記16:6)
普通なら、「どうすればあなたを縛って苦しめることができるか」などという質問に、おかしい、何か陰謀がありそうだ、と思うはずであろう。
しかし、女の色気に目が眩んでいるためか、それとも、知っていてわざと楽しんでいるためか、彼は彼女に追求せず、どうでもいい事を言って、答えをかわす。

『そこでペリシテびとの君たちが、かわいたことのない七本の新しい弓弦を女に持ってきたので、女はそれをもってサムソンを縛った。女はかねて奥のへやに人を忍ばせておいて、サムソンに言った、「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」。しかしサムソンはその弓弦を、あたかも亜麻糸が火にあって断たれるように断ち切った。こうして彼の力の秘密は知れなかった。』(士師記16:8-9)
彼女は実際に、彼を縛った。いかに愛している女性とはいえ、こうすれば自分は弱くなる、と言った、その方法をして来るような女性を、どう思うであろうか。
それでも彼は、彼女との付き合いを続けてしまう。よほど自信があったのであろう。
しかしその慢心が、20年の間守られてきた彼を滅びへと突き落とす事になる。

私達は、いつまでも罰せられない事に慢心し、図に乗り続けて罪を犯し続けてはならない。
その慢心が私達自身も、滅びへと導くからだ。

礼拝説教メッセージ音声:ろばのあご骨(士師記15:9-20):右クリックで保存

『そこでペリシテびとは上ってきて、ユダに陣を取り、レヒを攻めたので、ユダの人々は言った、「あなたがたはどうしてわれわれのところに攻めのぼってきたのですか」。彼らは言った、「われわれはサムソンを縛り、彼がわれわれにしたように、彼にするために上ってきたのです」。』(士師記15:9-10)

最初は、サムソンとペリシテ女との個人的な結婚騒動だったが、事は大きくなり、部族的な抗争にまで発展した。

『そこでユダの人々三千人がエタムの岩の裂け目に下って行って、サムソンに言った、「ペリシテびとはわれわれの支配者であることをあなたは知らないのですか。あなたはどうしてわれわれにこんな事をしたのですか」。サムソンは彼らに言った、「彼らがわたしにしたように、わたしは彼らにしたのです」。』(士師記15:11)
サムソンの言い分も、ペリシテ人の言い分も、相手がやったから自分も同じようにしてやるのだ、というものである。
今でも世界中で行われている抗争は、大体そのようなものであるが、そもそも今回の事は、サムソンが律法に反する事をしなければ起こらなかったものだ。
彼が両親の戒めに聞き従い、異邦の女をめとろうとしなければ、そして、一度苦い経験をしたのだから、それに懲りて、女の所に戻らなかったなら、このような事にはならなかったはずだ。

ユダ族は、士師の時代の初期はまだ健全な信仰を保っていたのに、「自分よかれ」の時代が長びくにつれ、彼らの信仰も地に落ちてしまった。
もし初期のユダ族だったなら、カレブやオテニエルにならって、自ら進んで敵地に攻めこんで行ったであろうし、あるいはサムソンと力を合わせてペリシテに戦いを仕掛けていたであろう。
それなのに彼らは、今はペリシテ人が自分達の支配者だ、なぜ彼らの機嫌を損ねたのか、と、サムソンを責めている。
彼らのやり取りには、主への言及は一切無く、信仰が地に落ちてしまったのが分かる。
ともかく、ユダ族はサムソンには手を出さない事を合意の上で、サムソンは強固に縛られた状態でペリシテ人の元へと連れて行かれた。

『サムソンがレヒにきたとき、ペリシテびとは声をあげて、彼に近づいた。その時、主の霊が激しく彼に臨んだので、彼の腕にかかっていた綱は火に焼けた亜麻のようになって、そのなわめが手から解けて落ちた。彼はろばの新しいあご骨一つを見つけたので、手を伸べて取り、それをもって一千人を打ち殺した。』(士師記15:14-15)
実に、すさまじい力である。それは「主の霊が激しく彼に臨んだ」ためだ。
主は確かに、一人が一千人の敵を追い払う事が出来る、と言われたが、しかしそれは御言葉を固く守って右にも左にも逸れず、異邦の者と結婚しない事が条件だった。(ヨシュア記23:6-11)
それにもかかわらず、彼がそのように出来たのは、ただ主の一方的なイスラエルに対する憐れみによる。

『そしてサムソンは言った、/「ろばのあご骨をもって山また山を築き、/ろばのあご骨をもって一千人を打ち殺した」。彼は言い終ると、その手からあご骨を投げすてた。これがためにその所は「あご骨の丘」と呼ばれた。』(士師記15:16-17)
「ろば」のヘブライ語「ハモル」には、「ひと山」の意味もあり、この個所は「ハモルのあご骨でハモルを築いた」と、韻を踏んだ詩のようになっている。
ちなみに、ろばは、聖書の他の個所を見ると、イエス様をエルサレムへ運ぶ事ために選ばれたり、また、気違いの預言者バラムを滅びから救ったりと、主のしもべのような形で用いられている。

『時に彼はひどくかわきを覚えたので、主に呼ばわって言った、「あなたはしもべの手をもって、この大きな救を施されたのに、わたしは今、かわいて死に、割礼をうけないものの手に陥ろうとしています」。そこで神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれたので、そこから水が流れ出た。サムソンがそれを飲むと彼の霊はもとにかえって元気づいた。それでその名を「呼ばわった者の泉」と呼んだ。これは今日までレヒにある。』(士師記15:18-19)
彼が主に呼び求めた記述は、ここが、初めてである。

普段、主を全く呼び求めていなかった者が、危機に陥った時、思い出したかのように主に助けを求めると、主は答えて下さって助け、潤いを与えて下さった。
私達にも、身に覚えが無いだろうか。
普段から主を軽んじ、何度も主を裏切り、行いにおいても心においても、憐れみを受けるに相応しくない者なのに、わずかばかりの信仰をもって主を呼び求めると、主は応えて下さり、助けて下さり、潤いを与えて下さった。
死んで、骨となり果てたろば(主のしもべ)のようであっても、主はそのあごを大きく用い、強力な敵を討ち取らせて下さった。
全くもって、主は憐れみ深いお方であり、私達はただ、その御前にひれ伏すしか無いのだ。

礼拝説教メッセージ音声:壮大で手間暇のかかるいたずら(士師記15:1-8):右クリックで保存

サムソンは、ペリシテ人の女がらみで散々な目に遭ったというのに、それでも懲りず、自分をだました女の所に贈り物を持って戻って行った。

それが発端で、彼は再び、苦々しい経験へと入っていく。
『日がたって後、麦刈の時にサムソンは子やぎを携えて妻をおとずれ、「へやにはいって、妻に会いましょう」と言ったが、妻の父ははいることを許さなかった。そして父は言った、「あなたが確かに彼女をきらったに相違ないと思ったので、わたしは彼女をあなたの客であった者にやりました。彼女の妹は彼女よりもきれいではありませんか。どうぞ、彼女の代りに妹をめとってください」。サムソンは彼らに言った、「今度はわたしがペリシテびとに害を加えても、彼らのことでは、わたしに罪がない」。』(士師記15:1-3)

ペリシテ人の女をめとる事がそもそも罪であり、災いの元であるのに、彼はその事に目を向けず、自分の思い通りに行かない事で怒り、次のような事をする。
『そこでサムソンは行って、きつね三百匹を捕え、たいまつをとり、尾と尾をあわせて、その二つの尾の間に一つのたいまつを結びつけ、たいまつに火をつけて、そのきつねをペリシテびとのまだ刈らない麦の中に放し入れ、そのたばね積んだものと、まだ刈らないものとを焼き、オリブ畑をも焼いた。』(士師記15:4-5)

三百という数字と、たいまつという言葉から、ギデオンの三百人の勇士を思い起こさせるが、ギデオンのそれと比べれば、なんと稚拙ないたずらまがいの事を彼はしているだろうか。
ようは、ペリシテ人の畑に火を放つだけの話なのだが、その準備のために、狐を三百匹も野で捕らえ、それぞれのしっぽを合わせてたいまつを縛り、火をつけて畑に解き放つ、という、非常に手間暇のかかる「仕返し」を行った。
何メートルもの巨大な落とし穴を一日がかりで掘るような”盛大ないたずら”は、せいぜい血気盛んな若い時分しかしようとは思わないものだが、このような盛大で下らない事を、手間暇を厭わずやってのける所に、彼の幼稚さと、怒りの執念深さが垣間見られる。

『ペリシテびとは言った、「これはだれのしわざか」。人々は言った、「テムナびとの婿サムソンだ。そのしゅうとがサムソンの妻を取り返して、その客であった者に与えたからだ」。そこでペリシテびとは上ってきて彼女とその父の家を火で焼き払った。』(士師記15:6)
ペリシテ人はこのようにされても、サムソンに直接の仕返しが出来ないため、その矛先を、サムソンが愛した女性へと向けた。

ペリシテ人達は元々、彼女に、サムソンのなぞを聞き出さなければ、おまえも父の家も火で焼くぞ、と脅し、彼女はそれを恐れて夫を裏切ったのだが、結局、彼女はペリシテ人に言われた通りしても、自分も父の家も焼かれてしまった。
サムソンを裏切った彼女自身の身から出た錆、とも言えるかもしれないが、約束を守っても破っても結局焼き討ちにしてしまう所に、ペリシテ人の邪悪さがよく分かる。
サムソンはさらに怒った。
『サムソンは彼らに言った、「あなたがたがそんなことをするならば、わたしはあなたがたに仕返しせずにはおかない」。そしてサムソンは彼らを、さんざんに撃って大ぜい殺した。こうしてサムソンは下って行って、エタムの岩の裂け目に住んでいた。』(士師記15:7-8)
悪人は、悪人どうしで悪を重ね、互い食い合い、互いに滅びへと落ち込んで行くものである。

そもそも全ての発端は、サムソンだった。
彼が律法をしっかり守って、異邦の女をめとらず、父母の言う事を聞いていれば、そんな事はそもそも起きなかった。
そしてひと度苦い思いをして、それに懲りて、ペリシテの女の所に戻りさえしなければ、このようなことは無かった。
しかしその背後で、多くのペリシテ人がサムソンによって苦しめられ、結果、イスラエルは恩恵を受けており、神様の御旨はしっかりと進んでいる。

私達は、こんなややこしい形で用いられないために、最初から主に聞き従い、幸いを得ていくものでありたい。

礼拝説教メッセージ音声:サムソンの出した”なぞ”(士師記14:10-20):右クリックで保存

『そこで父が下って、女のもとに行ったので、サムソンはそこにふるまいを設けた。そうすることは花婿のならわしであったからである。人々はサムソンを見ると、三十人の客を連れてきて、同席させた。』(士師記14:10-11)

サムソンは、主の霊に満たされ獅子をほふり、危機から救い出されたにもかかわらず、ペリシテ人の女と結婚するという堕落の方向性は変えず、その女との結婚手続きに入ったばかりか、祝宴の席で、かの獅子との出来事をネタにして、なぞかけをする。
『サムソンは彼らに言った、「わたしはあなたがたに一つのなぞを出しましょう。あなたがたがもし七日のふるまいのうちにそれを解いて、わたしに告げることができたなら、わたしはあなたがたに亜麻の着物三十と、晴れ着三十をさしあげましょう。しかしあなたがたが、それをわたしに告げることができなければ、亜麻の着物三十と晴れ着三十をわたしにくれなければなりません」。彼らはサムソンに言った、「なぞを出しなさい。わたしたちはそれを聞きましょう」。』(士師記14:12-13)

サムソンも、ペリシテ人も、賭け事が好きだったようである。
サムソンがなぞなぞで賭るものは、亜麻の着物三十と晴れ着三十。
サムソン一人には高額であるが、勝てれば一獲千金できるような、また、ペリシテ人にしてみれば一見おいしく見えるような賭けである。
というより、彼は元々、亜麻の着物三十と晴れ着三十など持っていなかった。それなのに賭けたのは、このなぞは絶対に解けない、と思っていたのだろう。
『サムソンは彼らに言った、/「食らう者から食い物が出、/強い者から甘い物が出た」。彼らは三日のあいだなぞを解くことができなかった。』(士師記14:14)

確かに、獅子がいとも簡単にほふられて、そのほふられた獅子から蜜が取れるなど、人の心に思い浮かぶような事ではない。
まことにキリストも、人の心に思い浮かんだ事のない方法で、人に救いを与えられた。
預言者イザヤは言っている。
『彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。』(イザヤ53:7-8)

一体誰が思い浮かんだだろうか。
神の御子キリストを砕く事が父なる神様の御心であり、その従順と死によって死と悪魔に勝利し、彼を信じる信仰によって多くの人が救いを勝ち取る事が出来るなどと。
そのような”なぞ”は、誰にも解けるものではない。
キリストは、ユダの獅子であられるお方なのに、ほふられた小羊となって下さり、そしてほふられた小羊は、人類の誰も解くことのできなかった七つの封印を、一つづつ解いて行って下さるのだ。

三日経ってもサムソンのなぞが解けなかったペリシテ人は、姑息な手段を用いる。
『四日目になって、彼らはサムソンの妻に言った、「あなたの夫を説きすすめて、なぞをわたしたちに明かすようにしてください。そうしなければ、わたしたちは火をつけてあなたとあなたの父の家を焼いてしまいます。あなたはわたしたちの物を取るために、わたしたちを招いたのですか」。』(士師記14:15)
彼らは、晴れ着三十着を惜しむが故に、あるいは、欲しいがために、同族である彼女と、その父の家とを、火で焼いてしまう、というのだ。
それほど人の命を軽んじ、そして欲深いのが、ペリシテ人である。
そのような民族と結婚し、一つになろうとしていた事の愚かさに、サムソンは気づいて離れるべきだったが、残念ながら彼はその後もペリシテの女から離れようとはしない。

『そこでサムソンの妻はサムソンの前に泣いて言った、「あなたはただわたしを憎むだけで、愛してくれません。あなたはわたしの国の人々になぞを出して、それをわたしに解き明かしませんでした」。サムソンは彼女に言った、「わたしは自分の父にも母にも解き明かさなかった。どうしてあなたに解き明かせよう」。彼女は七日のふるまいの間、彼の前に泣いていたが、七日目になって、サムソンはついに彼女に解き明かした。ひどく彼に迫ったからである。そこで彼女はなぞを自分の国の人々にあかした。』(士師記14:16-17)
男性は、女性のこのような怒涛の”泣き落とし攻撃”に弱いものである。
『賢い妻はその夫の冠である、恥をこうむらせる妻は/夫の骨に生じた腐れのようなものである。』(箴言12:4)
『雨の降る日に雨漏りの絶えないのと、争い好きな女とは同じだ。この女を制するのは風を制するのとおなじく、右の手に油をつかむのとおなじだ。』(箴言27:15)

『七日目になって、日の没する前に町の人々はサムソンに言った、/「蜜より甘いものに何があろう。ししより強いものに何があろう」。サムソンは彼らに言った、/「わたしの若い雌牛で耕さなかったなら、/わたしのなぞは解けなかった」。この時、主の霊が激しくサムソンに臨んだので、サムソンはアシケロンに下って行って、その町の者三十人を殺し、彼らからはぎ取って、かのなぞを解いた人々に、その晴れ着を与え、激しく怒って父の家に帰った。サムソンの妻は花婿付添人であった客の妻となった。』(士師記14:18-20)

このように、ペリシテ人の女との結婚をしようという試みは、苦々しい結果となるサムソンだが、彼は懲りておらず、また改めてもいない。
彼は、与えられた力と賜物を、イスラエルのため、あるいは主のために用いるではなく、相変わらず自分の欲望のために用いた。
それ故、彼はさらに苦々しい思いをして行くのだが、しかし、彼の意図していない所で、実は主の御胸が為されている。
彼が自分の好むようにしようとして、もがけばもがくほど、多くのペリシテ人は倒されて行き、その結果、イスラエルの益となっているのだ。

私達は、そのようなややこしい用いられ方ではなく、正当に御言葉に従って歩み、正当に祝福を受けるものでありたい。

礼拝説教メッセージ音声:死んだ獅子から蜜が出る(士師記14:5-9):右クリックで保存

サムソンは、異邦の女と結婚したいと言い出したり、それをたしなめる父母に従わなかったりと、色々と問題のある士師だったにもかかわらず、主は彼を士師として用いられた。それはまことに、主の憐れみである。

私達も神に選ばれ、キリストにあって召しだされた者であるというのに、サムソンに負けず劣らず、色々問題を起こす事もあるが、それにも関わらず、主の霊が取り上げられず、主の御用に用いられているのは、まことに主の憐れみである。

サムソンの特徴は、主の霊が激しく臨んだ時、尋常ならざる力を発揮する所である。
『かくてサムソンは父母と共にテムナに下って行った。彼がテムナのぶどう畑に着くと、一頭の若いししがほえたけって彼に向かってきた。時に主の霊が激しく彼に臨んだので、彼はあたかも子やぎを裂くようにそのししを裂いたが、手にはなんの武器も持っていなかった。しかしサムソンはそのしたことを父にも母にも告げなかった。』(士師記14:5-6)
ライオンが吼え猛りながら迫ってくる。普通の人は死ぬしか無い状況だが、彼に主の霊が激しく臨む時、あたかも子やぎを裂くように、素手で獅子を裂いた。

このような事が初めてなら、彼自身、驚いたであろうし、主に感謝して悪い行いを改めるべき所であろうが、彼はその直後、どうしたか。
『サムソンは下って行って女と話し合ったが、女はサムソンの心にかなった。』(士師記14:7)
せっかく主からの特別な賜物が与えられ、いのちの危機からも救い出されたというのに、彼は異邦の女から離れず、かえって、彼女をめとろうとするようになる。

『日がたって後、サムソンは彼女をめとろうとして帰ったが、道を転じて、かのししのしかばねを見ると、ししのからだに、はちの群れと、蜜があった。彼はそれをかきあつめ、手にとって歩きながら食べ、父母のもとに帰って、彼らに与えたので、彼らもそれを食べた。しかし、ししのからだからその蜜をかきあつめたことは彼らに告げなかった。』(士師記14:8-9)
獅子を手で引き裂いた事も尋常ではないが、その裂かれた獅子の体に、なんと、蜂が集まっていて、そこには沢山の蜜があった。
一体これらの出来事は、どう捉えて良いのだろうか。
御言葉の解き明かしは、御言葉から、である。

獅子は、聖書の他の箇所ではユダ族を、あるいは、ユダ族から出たキリストを意味している。
『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。』(黙示録5:5-7)

このユダ族の獅子、ダビデの若枝であるキリストは、人類の誰も解くことの出来ない七つの封印を解き、封じられていたなぞを一つ一つ解いて行く事が出来るお方である。
彼は勝利した。
何によってか? それはなんと「ほふられる事によって」である。(黙示録5章)

サムソンに向かってきた獅子は、本来、彼を食いつくすはずだった。
しかしサムソンによって、いとも簡単に引き裂かれてしまった。
人を食いつくすはずの獅子が、人によって、いとも簡単にほふられる。
私達の主・キリストも、本来なら、罪を犯した人間を裁き滅ぼすはずお方なのに、人のところに来た時、なんと、人によっていとも簡単に十字架でほふられてしまった。

そして、サムソンによってほふられた獅子の死体には、蜜蜂がそこを住み家とし、蜜を大量に集めている。
蜂たちは、花の所に行って蜜を集め、巣に戻って蜜を溜めて行くが、キリスト者もまた蜂のようなところがある。
それぞれ使わされている場所において、シャロンの花であるキリスト(雅歌2:1)から甘い御言葉の蜜を集め、十字架上でほふられた小羊キリストの御体(教会)に持ち帰り、共に御言葉の甘さを分かち合い、その麗しさを溜めて行く。
この、サムソンにほふられた獅子は、まさにキリストを現していないだろうか。

サムソンは、死んだ獅子から蜜をかき集めて食べ、父母にも分与した。
父母は、その蜜がどこから来たのかを知らなかったが、私達もキリストを信じたなら御言葉の蜜によって養われ、家族にもその甘さは伝わる。
家族の人は、なぜその人が甘い蜜を持っているのか、その由来を知らないが、本人はキリストが由来であると知っている。

聖書は、旧約も新約も全てキリストを現し、彼の栄光で満ちている。
『それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。』(ルカ24:44)
日々、十字架のキリストの元に巣作りし、聖徒と共に御言葉の蜜を集め、歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:イスラエルには女が一人もいないというのか(士師記14:1-4):右クリックで保存

生まれる前から士師として選ばれていたサムソンは大人になり、士師として活躍できる年齢になった。
今までの士師は、主から与えられた力や知恵、統率力などを用いて、正攻法で戦ったものだったが、サムソンの場合の活動の始まりは、少々ややこしかった。
『サムソンはテムナに下って行き、ペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見た。彼は帰ってきて父母に言った、「わたしはペリシテびとの娘で、テムナに住むひとりの女を見ました。彼女をめとってわたしの妻にしてください」。』(士師記14:1-2)
彼はあろうことか、神の民の敵の、ペリシテ人の女を見初め、それと結婚したいと申し出たのだ。

信仰の無い女と結婚する事は、神の国の家系にあっては、ご法度である。
聖書では、信仰なき女との結婚が、家族や国を破滅へと導いた記事が沢山あり、また、人類全体さえ破滅へと導いた記事さえある。(創世記6章)
信仰なき異邦の女との結婚が、いかに災いであるかをよく知っていたアブラハムは、自分の子はを決してカナン人の女からめとらせてはならない、と、固く誓わせたし、エズラも、異邦の女と結婚し始めたイスラエルに対して、断固とした対応を取った。

『父母は言った、「あなたが行って、割礼をうけないペリシテびとのうちから妻を迎えようとするのは、身内の娘たちのうちに、あるいはわたしたちのすべての民のうちに女がないためなのですか」。しかしサムソンは父に言った、「彼女をわたしにめとってください。彼女はわたしの心にかないますから」。』(士師記14:3)
イスラエルには、信仰者の女がたくさんいるであろうに、それを全部無視して、異邦の女を妻にしたいなどとは、全イスラエルの女性への冒涜であり、それは、女性の男性に対しても同じである。
サムソンの父も母も当然、彼を戒めたが、サムソンは父母の戒めも聞かなかった。

この3節の、「彼女はわたしの心にかないますから」は、直訳すると「彼女は私の目に喜びですから」となる。
私達も、「目に喜び」となるものに惹き寄せられて、いらぬ災いを招いてしまいやすい。
神の民が、神の目に適う事を捨てて、自分の「目」に好む事を選ぶ時、生み出されるものは呪いであり、滅びである。
エバは「目」に良いと映った禁断の実を食べて、人類全体を呪いへと導いてしまったし(創世記3章)、ノアの洪水の元凶も、神の子達が人の女の美しいのを「見て」、好き勝手に妻をめとった事が原因だった。(創世記6章)

『父母はこの事が主から出たものであることを知らなかった。サムソンはペリシテびとを攻めようと、おりをうかがっていたからである。そのころペリシテびとはイスラエルを治めていた。』(士師記14:4)
このように記されているが、果たして主は、イスラエルに益をもたらすために、敢えてサムソンに異邦の女を惹き寄せさせたのだろうか。
そうではないと思われる。なぜなら、次のように書いてあるからだ。
『だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。』(ヤコブ1:13-16)

主は、人が情欲に突っ走って、両親や兄弟姉妹が戒めても聞かないような場合、敢えてそのまま好きな道を行かせ、ひどい目に遭わせて戒められる。
主のすごい所は、単に戒めるだけに終わらず、そのような人の愚かささえ用いて、益と為し、それをきっかけとして、イスラエルに救いを与えられる所だ。
この後、サムソンはその女性の故にカナン人と敵対する事となり、サムソン本人としては、自分の身に振りかかる「女性問題」を対処しているつもりが、実はそれによって多くのカナン人を滅ぼし、イスラエルに益をもたらす事になる。
そういう意味で、サムソンと異邦の女との結婚は、まさに「主から出たもの」なのだ。

サムソンは正当に妻をめとって、その力を用いて正当に戦えば良いものを、自分の肉欲を満足させる方向で、自分の力を用いる。
しかし主は、その出来事をもって、「サムソンの懲らしめ」ばかりでなく、「イスラエルの救い」も、両立させてしまわれる。

『世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。』(1ヨハネ2:15-17)
私達は、サムソンのような懲らしめや災いに遭う事は避け、最初から御胸に従順し、主と共に心地よく歩む者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:その名は、不思議(士師記13:15-25):右クリックで保存

『マノアは主の使に言った、「どうぞ、わたしたちに、あなたを引き留めさせ、あなたのために子やぎを備えさせてください」。主の使はマノアに言った、「あなたがわたしを引き留めても、わたしはあなたの食物をたべません。しかしあなたが燔祭を備えようとなさるのであれば、主にそれをささげなさい」。マノアは彼が主の使であるのを知らなかったからである。マノアは主の使に言った、「あなたの名はなんといいますか。あなたの言われたことが事実となったとき、わたしたちはあなたをあがめましょう」。』(士師記13:15-17)


イスラエルは長い間、民族レベルで主から離れていたため、主がどのようなお方か、また、主と向かう時の正しい流儀知らなかったのだろう。
マノアは、御使いを、何か霊的なレベルの高いな人であるかのように思って、ごちそうで接待しようとしたが、御使いは、人の飲み食いするものを食べたりはしない。ただ、人の主への捧げ物や祈りを受け取って、それを主の元へと運んでいく。(黙示録8:3-4)

主から使わされている者は、人であれ、天使であれ、自分が伏し拝まれる事を好まない。
使徒ヨハネは自分に啓示を伝えてくれた御使いにひれ伏したが、御使いは言った。「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい。」(黙示録19:10)
また、使徒パウロもペテロも同様に、自分が拝まれる対象である事を拒否し、主のみを礼拝するよう勧めた。(使徒14:15、10:26)

『主の使は彼に言った、「わたしの名は不思議です。どうしてあなたはそれをたずねるのですか」。』(士師記13:18)

マノアは御使いに、あなたをあがめたいから名前を教えて欲しい、と聞いたが、それに対し主の使いは、自分の名を「不思議」と言った。
そう、私達があがめるべきは、御使いや誰か人間ではない。主の不思議なわざ、くすしいわざである。
詩篇には「主の不思議なわざをほめたたえます」「主のくすしいわざをほめたたえます」と、至る所に散りばめられているように、私達も、主の不思議なわざ、くすしいわざをこそ、誉め称えるべきなのだ。

子が生まれるには、もう望み得ないようなマノア夫婦の間に、ひとりのみどりごが与えられる。そしてその子は、暗闇に満ちた時代のイスラエルを、救うという。
それはまさしく、キリストの型である。
『苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。・・・ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。』(イザヤ9:1-6)

キリストは、その名を、「不思議な助言者(ワンダフル・カウンセラー)」ととなえられる。
士師の時代、ひとりのみどりごがイスラエルを救うという預言が、御使いによって、不妊の女マノアの妻に与えられた。
同じように、この暗闇に満ちた全世界に、ひとりのみどりごが与えられるという約束が、子を産むなど決して望み得ない一人の処女マリヤに、御使いを通して与えられた。
まさにサムソンの生まれる様は、キリストの生まれる様によく似ている。

聖書には至る所に類似性があり、それらは全て、キリストを示している。
律法も、預言書も、詩篇も、キリストのご性質、キリストの品性を示しているのだ。
『「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。』(ルカ24:44-47)

不思議な助言者・キリストに聞き従い、キリストのみを伏し拝み、キリストを至る所に宣べ伝え、暗闇に満ちたこの世界に、キリストの光を届ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:母の胎にいる時から任命された士師(士師記13:1-14):右クリックで保存

先の12章では、4人の士師たちが、現れては消えて行ったが、この4人の統治した中で最長が10年と、かなり短い統治期間となって来ており、イスラエルの混迷はどんどん深くなっている事がわかる。


『イスラエルの人々がまた主の前に悪を行ったので、主は彼らを四十年の間ペリシテびとの手にわたされた。』(士師記13:1)
士師記では、このパターンは既に何度も繰り返されているが、40年という被虐期間は、過去最長である。
そして、いつものパターンなら、イスラエルは悔い改めて主に叫び、それで主が助けを送られるものであるだが、今回は、イスラエルが悔い改めたという記述は、無い。
40年経っても、全然主に立ち返らなかったのだ。
それだけ、イスラエルの霊的状態は地に落ちているのだが、今回、主のただ一方的な憐れみの故に、イスラエルに士師が使わされる。
それは、士師記の中では最後の士師・サムソンである。

『ここにダンびとの氏族の者で、名をマノアというゾラの人があった。その妻はうまずめで、子を産んだことがなかった。主の使がその女に現れて言った、「あなたはうまずめで、子を産んだことがありません。しかし、あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。
それであなたは気をつけて、ぶどう酒または濃い酒を飲んではなりません。またすべて汚れたものを食べてはなりません。あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。その頭にかみそりをあててはなりません。その子は生れた時から神にささげられたナジルびとです。彼はペリシテびとの手からイスラエルを救い始めるでしょう」。』(士師記13:2-5)

士師サムソンは、生まれる以前から主に選ばれたナジル人であった。(ナーザル:「聖別する」「分離する」の意)
ナジル人については民数記6章で学んでいるが、彼らは特別な誓願により世俗から分離され、神のものとして聖別された特別な人で、ぶどうの実によるものは摂ってはならず、頭にかみそりを当ててはならない等の、様々な規定がある。
自ら誓願をかけて一定期間ナジル人となる人もいれば、今回のように、生まれる前から一方的に捧げられている人もいる。(他にはサムエル、バプテスマのヨハネ等)

『そこでその女はきて夫に言った、「神の人がわたしのところにきました。その顔かたちは神の使の顔かたちのようで、たいそう恐ろしゅうございました。わたしはその人が、どこからきたのか尋ねませんでしたが、その人もわたしに名を告げませんでした。しかしその人はわたしに『あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。それであなたはぶどう酒または濃い酒を飲んではなりません。またすべて汚れたものを食べてはなりません。その子は生れた時から死ぬ日まで神にささげられたナジルびとです』と申しました」。』(士師記13:6-7)
彼女が神の人から言われた事の中で、夫に伝えていなかった事が一つあった。
それは、「その頭にかみそりをあててはなりません。」(15節)という事である。
この士師は、彼女が伝えこぼした「頭にかみそりを当てる事」において、将来失敗してしまう。
私達は、主から御言葉を受けた時、それを取りこぼす事なく、軽んじる事なく、心してそれを覚えて、その通り実行するように気をつけるべきだ。

『そこでマノアは主に願い求めて言った、「ああ、主よ、どうぞ、あなたがさきにつかわされた神の人をもう一度わたしたちに臨ませて、わたしたちがその生れる子になすべきことを教えさせてください」。神がマノアの願いを聞かれたので、神の使は女が畑に座していた時、ふたたび彼女に臨んだ。しかし夫マノアは一緒にいなかった。女は急ぎ走って行って夫に言った、「さきごろ、わたしに臨まれた人がまたわたしに現れました」。』(士師記13:8-10)
マノアは主に求め、それは聞き入れられたが、主の使いは二度、妻の所に現れた。
それは、乙女マリヤの時と同じように、子を身ごもる女性のほうに、特別な指示を主が与えるためだろう。

『マノアは立って妻のあとについて行き、その人のもとに行って言った・・・「あなたの言われたことが事実となったとき、その子の育て方およびこれになすべき事はなんでしょうか」。主の使はマノアに言った、「わたしがさきに女に言ったことは皆、守らせなければなりません。すなわちぶどうの木から産するものはすべて食べてはなりません。またぶどう酒と濃い酒を飲んではなりません。またすべて汚れたものを食べてはなりません。わたしが彼女に命じたことは皆、守らせなければなりません」。』(士師記13:11-14)
主の命令は、「わたしがさきに女に言ったことは皆、守らせなければなりません。」だった。
私達も子育てについては、主からあらかじめ命じられている通りの事、すなわち、御言葉によって育てるべきである。

このように御使いが二度現れ、生まれてくる子は、確かに将来、イスラエル人を敵の虐げから救う者であると宣言された。
聖書は実に、不妊の女、生まれるはずのない女に、奇跡的に子を生まれさせ、その子に特別な役割を与えられる記述が多い。(サラ、ハンナ、エリザベツ、そして乙女マリヤ)
それは、救いは人の力によるのではなく主によるものであると示し、おごり高ぶる者を退け、卑しくされている人を高く引き上げ、力ある方が、貧しい者に大いなる事をして下さったと、多くの人々が誉め称えるためである。(ルカ1:46-55)

礼拝説教メッセージ音声:短命な士師達(士師記12:1-15):右クリックで保存

イスラエルはせっかくアンモン人という敵に勝ったのに、内に棲む敵の故に、多くの犠牲者を出してしまう。
その内なる敵とは、名誉欲や嫉妬、自己義という、肉の内に潜む罪である。

『エフライムの人々は集まってザポンに行き、エフタに言った、「なぜあなたは進んで行ってアンモンの人々と戦いながら、われわれを招いて一緒に行かせませんでしたか。われわれはあなたの家に火をつけてあなたを一緒に焼いてしまいます」。』(士師記12:1)
エフライム族は、自分達はヤコブから右手の祝福を受けた者だという奢りがあったのかもしれない。(創世記48:14)

彼らは、ギデオンの時代にも、彼ら抜きで闘いにギデオンが勝利した事後、この闘いになぜ自分たちを誘わなかったのか、と言って迫った。
現代でも、「なぜ自分をその大事な会議に誘わなかったのか」などと言って、平和に物事が進んでいる所に余計な波風を立て、ややこしくしてしまうような者がいるが、高ぶった者は、何でもしゃしゃり出てずにはおれず、その者自身を滅びに招き、そればかりでなく、その集団全体に災いを招いてしまう。
『高ぶりは滅びにさきだち、誇る心は倒れにさきだつ。 』(箴言16:18)と記されている通りである。

おおよそ、同国民同士の争いや殺し合いの原因は、嫉妬である。
カインが弟を殺したのも、嫉妬が原因だった。
『あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。』(ヤコブ4:1-3)

ギデオンの時は、平和の内にエフライム族をあしらって、争いを回避し、敵をさらに追撃しに行ってイスラエルに平和を取り戻した。(士師記8章)
しかし今回、エフタは、相手の低レベルな土俵に降りてきてしまい、平和を失ってしまう。
『エフタは彼らに言った、「かつてわたしとわたしの民がアンモンの人々と大いに争ったとき、あなたがたを呼んだが、あなたがたはわたしを彼らの手から救ってくれませんでした。あなたがたが救ってくれないのを見たから、わたしは命がけでアンモンの人々のところへ攻めて行きますと、主は彼らをわたしの手にわたされたのです。どうしてあなたがたは、きょう、わたしのところに上ってきて、わたしと戦おうとするのですか」。』(士師記12:2-3)
これは正論かもしれない。しかし、いかにこちらが正論を持っていると言えども、相手の低次元な言葉のふっかけに真正面から返して感情的になってしまうなら、話はさらにややこしくなってしまう。

『そこでエフタはギレアデの人々をことごとく集めてエフライムと戦い、ギレアデの人々はエフライムを撃ち破った。これはエフライムが「ギレアデびとよ、あなたがたはエフライムとマナセのうちにいるエフライムの落人だ」と言ったからである。』(士師記12:4)
エフライム族は、エフタやギレアデ人を「落人」だと言って、ばかにしている。
このような低レベルな者である。きっと、エフタが遊女の子である事や、全く関係の無い所で、人格攻撃をしただろう。
エフタは怒りの火がついてしまい、こうして、イスラエル部族内で戦争状態になってしまった。

普通、敵に勝利したなら、平和が取り戻されるはずが、勝利したが故に、無駄な争いが味方同士で勃発してしまう。
『乳をかき回すと凝乳ができる。鼻をねじると血が出る。怒りをかき回すと争いが起こる。』(箴言30:33)と記されている通りである。
プライドが強く、何でもかんでも、しゃしゃり出ずにはおれない者が、その集団を内部から争いへと導いてしまうものだ。
私達は、そのような者達を、賢くあしらわなくてはならない。
賢いあしらいとは、ギデオンのように、相手の土俵に乗らず、柔和に対応する事だ。
『怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。』(箴言14:29-30)

『そしてギレアデびとはエフライムに渡るヨルダンの渡し場を押えたので、エフライムの落人が「渡らせてください」と言うとき、ギレアデの人々は「あなたはエフライムびとですか」と問い、そ の人がもし「そうではありません」と言うならば、またその人に「では『シボレテ』と言ってごらんなさい」と言い、その人がそれを正しく発音することができないで「セボレテ」と言うときは、その人を捕えて、ヨルダンの渡し場で殺した。その時エフライムびとの倒れたものは四万二千人であった。』(士師記12:5-6)
この「シボレテ」は、「流れ」「洪水」などの意味があり、頭文字は「シ」とも「セ、スィ」とも発音される言葉である。
ギルアデ人は、戦いに負けて逃げようとしているエフライム人を、出国させず、ヨルダン川の渡し場で四万人以上を殺した。
それもまた、明らかにやり過ぎである。そのような怒りを燃やして憐れみを閉ざす者は、命を短くしてしまう。

『エフタは六年の間イスラエルをさばいた。ギレアデびとエフタはついに死んで、ギレアデの自分の町に葬られた。』(士師記12:7)
六年という統治。未だかつて無い短さである。
柔和な者は地を相続する。
しかしその逆の、激しく怒る者は、統治の権が奪われ、いのちを短くしてしまうのだ。
エフタには、やくざ者を統率する程の力があり、頭も良く、御言葉を良く知っていたが、自分の正論を築き上げてその道に突っ走ってしまう彼の性質が元で、大切な娘を失ってしまい、さらにはイスラエルを混乱状態へと導いてしまい、そして、自分の統治といのちを短くしてしまった。

エフタの後、さらに、三人の士師が現れては消える。
『彼の後にベツレヘムのイブザンがイスラエルをさばいた。彼に三十人のむすこがあった。また三十人の娘があったが、それを自分の氏族以外の者にとつがせ、むすこたちのためには三十人の娘をほかからめとった。彼は七年の間イスラエルをさばいた。イブザンはついに死んで、ベツレヘムに葬られた。彼の後にゼブルンびとエロンがイスラエルをさばいた。彼は十年の間イスラエルをさばいた。ゼブルンびとエロンはついに死んで、ゼブルンの地のアヤロンに葬られた。
彼の後にピラトンびとヒレルの子アブドンがイスラエルをさばいた。彼に四十人のむすこ及び三十人の孫があり、七十頭のろばに乗った。彼は八年の間イスラエルをさばいた。ピラトンびとヒレルの子アブドンはついに死んで、エフライムの地のアマレクびとの山地にあるピラトンに葬られた。』(士師記12:8-15)

彼らが何をした、とは記されていないが、いずれも子が多い。おそらく、政略結婚などで多くの妻を持ったのだろう。
ギデオンの時にも学んだが、妻が多い事も、災いの元である。
この士師記12章には4人の士師達が現れては消えていくが、その中で最も統治が長かったのは(と言ってもわずか10年だが)、子の数が一切記されていないエロンだった。

このように、自分のよかれを押し通す時代、士師記の時代が進めば進む程、混迷もまた深まっていく。
自分の”よかれ”は速やかに十字架の元に下ろし、主の御言葉に聞き従う人は、いのちを長くし、何をしても栄える。私達は、そうあるべきである。
『これはあなたが子や孫と共に、あなたの生きながらえる日の間、つねにあなたの神、主を恐れて、わたしが命じるもろもろの定めと、命令とを守らせるため、またあなたが長く命を保つことのできるためである。それゆえ、イスラエルよ、聞いて、それを守り行え。そうすれば、あなたはさいわいを得、あなたの先祖の神、主があなたに言われたように、乳と蜜の流れる国で、あなたの数は大いに増すであろう。』(申命記6:2-3)

礼拝説教メッセージ音声:間違った誓願(士師記11:29-40):右クリックで保存

『エフタは主に誓願を立てて言った、「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」。』(士師記11:30-31)

エフタは、余計な誓願を立ててしまった。
前回の箇所で、エフタは信仰を混ぜた真理のことばの宣言によって、真理の面では勝利は既に確定している。
だから、あとは審判者であられる主に任せておけば、そのまま難なく主が勝利を与えて下さるはずだ。
ちょうどダビデが、ゴリアテとの対決の前に、信仰を混ぜた真理のことばによって主の戦いと宣言し、そのまま実際に難なく勝利したように。

彼は恐らく、自分の覚悟の表明のために「わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」と、誓願を立てたのであろうが、人間を燔祭(全焼のいけにえ)としてささげるような事は、律法のどこにも書いていない。
むしろ、『あなたがたのうちに、自分のむすこ、娘を火に焼いてささげる者があってはならない。』(申命記18:10) と書いてある。
もしかしたら、イスラエルが18年の間色々な神々に仕えている内に、人間を捧げる事が、何か困難かつ高尚な捧げものであるかのような価値観が、彼の信仰に混じってしまったのかもしれない。

『エフタはアンモンの人々のところに進んで行って、彼らと戦ったが、主は彼らをエフタの手にわたされたので、アロエルからミンニテの附近まで、二十の町を撃ち敗り、アベル・ケラミムに至るまで、非常に多くの人を殺した。こうしてアンモンの人々はイスラエルの人々の前に攻め伏せられた。』(士師記11:32-33)
アモン人との戦いの勝利は、わずか2節で、実にあっけなく完結している。この」勝負は、エフタの真理の御言葉の宣言によって、既についていたからだ。
聖書はむしろ、エフタのその後の行動や心理描写のほうに、紙面を割いている。
エフタは、アンモン人という”外敵”に苦しめられる事は無かったが、自分の口から出たことば、自分の誓った内容によって、苦しめられる。
目に見える外敵よりも、むしろ、自分達の内にある思い込みや不信仰という”内なる敵”こそ、やっかいなのだ。

『やがてエフタはミヅパに帰り、自分の家に来ると、彼の娘が鼓をもち、舞い踊って彼を出迎えた。彼女はエフタのひとり子で、ほかに男子も女子もなかった。エフタは彼女を見ると、衣を裂いて言った、「ああ、娘よ、あなたは全くわたしを打ちのめした。わたしを悩ますものとなった。わたしが主に誓ったのだから改めることはできないのだ」。娘は言った、「父よ、あなたは主に誓われたのですから、主があなたのために、あなたの敵アンモンの人々に報復された今、あなたが言われたとおりにわたしにしてください」。』(士師記11:34-36)
よりによって彼を出迎えたのは、最愛の、ひとり娘だった。
彼が主に誓った言葉によると、最愛の娘を全焼のいけにえとして捧げなくてはならなくなってしまった。
最愛の娘を全焼のいけにえとして捧げれば、主は喜ぶのだろうか?
否、子供を全焼のいけにえとして捧げるなど、主が命じることではなく、定めたことでもなく、主が思いもしなかったことである。(エレミヤ19:5)

主は全能なるお方だから、最愛の娘でない人物を迎えに出した事ができたであろうし、エフタも躊躇なくその者を捧げたであろう。
しかしもしそうであったなら、人間を主に全焼のいけにえとして捧げればエフタのように大活躍が出来、何でも願い事が叶う、といった、誤った価値観が広まってしまっただろう。

誰か他の人間を捧げる事よりも、もっと大事な事がある。まずは自分自身がへりくだり、砕かれたたましいとなって、主の前に霊とまことの礼拝を捧げる事である。
『あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげても/あなたは喜ばれないでしょう。神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。』(詩篇51:16-17)
『「わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもって/そのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。』 (ミカ6:6-8)

イエス様も言っている。
『『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。』(マタイ9:13)
イエス様は、どんな金持ちの多額の献金よりも、わずか2レプタを捧げたやもめにこそ目を留められた。
私達は、何をいくら捧げるかという事より、まずは自分を下ろし、へりくだった心をもって、霊とまことによる礼拝をこそ主に捧げるべきだ。

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