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メッセージ - 士師記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:めいめいが自分の目に正しいと見える事を行う呪いの時代(士師記21:25):右クリックで保存

『そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。』(士師記21:25)

これは、士師記が荒んだ時代になってしまった原因を端的に表す言葉であり、私達もこの言葉のように、キリストという王を退け、自分の目に正しいと見える所を行って行くなら、士師記の暗黒時代へと邁進してしまう、という、シンプルで明瞭な法則でもある。

聖書は始めから、人には二通りの道がある事を示し、また、それぞれの道に歩んだ結果も示している。
その二つの道とはすなわち、いのちの道と、善悪判断の道である。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創世記2:16-17)
人類なら誰しも避けては通れない究極の二者択一がある。
それは、いのちの木を取るか、それとも善悪の知識の木を取るかである。
究極の二択とは「善か悪か」ではない。聖書が提示する究極の選択とは、「いのちか、善悪判断か」なのだ。

神は、善悪の知識の木から食べる事を禁じられた。神から離れた善悪判断の歩みは、いわば「神のようになる事」(創世記3:5,22)であり、サタンの道である。
サタンは神のようになろうとした結果、地に投げ落とされてしまった。(イザヤ14:14)
神から独立した善悪判断の道は、サタンの道であり、その行き着く先は破滅である。

士師記の時代のように、御言葉を離れ、おのおの自分の目に正しいと思える事を行う事は、まさにこの善悪判断の道であり、そのまま破滅へと向かう道であった。
荒野の40年の終わりの時、モーセは最後の説教において、めいめい正しいと思うように歩んではならない、と、警告し、むしろ主が定められた事を守り行うように命じたが(申命記12:8-11)、めいめいが正しいと思うようにふるまった人々は、荒野で40年放浪した末に、屍となって荒野に打ち捨てられてしまった。
また、士師記の時代も同様に、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった結果、あのような罪深く荒んだ時代へと落ち込んで行ってしまった。
まさにイザヤ書59章の状態である。

『それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。
それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。こうして公正は退けられ、正義は遠く離れて立っている。真理は広場でつまずき、正直は中にはいることもできない。
そこでは真理は失われ、悪から離れる者も、そのとりこになる。主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。』(イザヤ59:9-16)
こうして、人々が神の民の有り様から遠く離れてしまった様を悲しみ、御言葉から離れるならば、自ら苦々しい結果しかもたらさない事に懲り、どうしようもなくなった時に、主ご自身が働かれるのだ。

『わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。』(エゼキエル34:23-24)
そして主は、いよいよ、一人の羊飼い・ダビデを起こされる。士師記の次の書・ルツ記は、ダビデが生まれる事の予告で終わる。
人々の罪悪が増し加わり、人々の心に主を渇き求めた時、ダビデが生まれるのは、旧約と新約の間の沈黙の400年の後、ダビデの子孫でありまことの牧者であるキリストがお生まれになったのと同じである。

ダビデも、キリストも、ともにベツレヘムで生まれた。
ベツレヘム、それは「パンの家」という意味であり、このベツレヘムから離れた者は、ろくなことが起こらなかった。(士師記17章、19章)
しかし、このベツレヘムから離れずにいて、士師記の混迷の時代においても、着実に有力者として育っていった者があった。
その人については、次のルツ記にて見ていきたい。

今、私達も、おのおのが良かれと思う事を行っている混迷の時代を生きている。
その中において、「御言葉のパンの家」から離れず、しっかりと御言葉から養いを受け、有力者となっていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:礼拝の場を、女性を強奪する場に変えてしまう愚かさ(士師記21:16-24):右クリックで保存

『会衆の長老たちは言った、「ベニヤミンの女が絶えたので、かの残りの者どもに妻をめとらせるにはどうしたらよいでしょうか」。彼らはまた言った、「イスラエルから一つの部族が消えうせないためにベニヤミンのうちの残りの者どもに、あとつぎがなければならない。しかし、われわれの娘を彼らの妻に与えることはできない。イスラエルの人々が『ベニヤミンに妻を与える者はのろわれる』と言って誓ったからである」。』(士師記21:16-18)

彼らは、主が定められたイスラエル12部族の一つを絶滅の危機へと追い込み、浅はかに誓ってしまった自分達の誓いの故に、その生き残りに助けの手をのべる事も出来ない状況に陥ってしまった。

人が立てた浅はかな取り決めによって、どうにもならない状況へと誰かを追い込んでしまう、あるいは、自分自身が追い込まれてしまうような事は、確かにある。
自分の勝手によって、どうにもならない状況に陥ってしまった時こそ、自分のやり方を捨て、主に伺うべきである。
しかし、それでも自分で編み出した苦肉の策を押し通すなら、さらに罪悪を増し加えてしまう事になる。

アブラハムも、子がなかなか生まれなかった時、妻が勧めた世の方法、苦肉の策に乗っかってしまい、その結果、苦々しい根を後々ずっと引きずる事になってしまった。
それに懲りた彼は、イサクの嫁となるべき女性が見つからないという時、世の方法に妥協する事なく、苦肉の策を考案する事もなく、ただ主の御心に適った方法、それも、世の常識で見るなら不可能に近いような方法を選択して、見事、ぴったりの女性・リベカの元へと導びかれた。

ひるがえって、士師記の時代の指導者達といえば、主に伺う姿勢も、御言葉に聞いて実行しようという思いも、一切無かった。
そのため、この悩ましい問題に直面した時、彼らは自分達で編み出した、こじつけ的な苦肉の策を採用し、さらに罪深い行いを重ねてしまう。

『それで彼らは言った、「年々シロに主の祭がある」。シロはベテルの北にあって、ベテルからシケムにのぼる大路の東、レバナの南にある。そして彼らはベニヤミンの人々に命じて言った、「あなたがたは行って、ぶどう畑に待ち伏せして、うかがいなさい。もしシロの娘たちが踊りを踊りに出てきたならば、ぶどう畑から出て、シロの娘たちのうちから、めいめい自分の妻をとって、ベニヤミンの地に連れて行きなさい。』(士師記21:19-21)
彼らがベニヤミン人の嫁を得るために利用したのは、なんと、主の祭りだった。

「主の祭り」に人々が行くのは、主の定めどおりに礼拝するためであり、祭りの中で女性達が踊るのも、主の恵みに感謝し、喜びを表現するためのはずだ。
日本では、踊りをするために祭りに来る人は多いが、イスラエルでは、祭りの主人公である「主」を喜ぶ故に、踊るものだが、当時のイスラエルの長老たちは「そうだ、主の祭の時に、娘たちが踊りに来る」などと、いらぬ事を思い立ち、主の祭りを強奪の場にしてしまう。
人の都合、人の思い立ちによって、礼拝が軽んじられ、強盗どもの巣にされてしまう。
それはキリストの時代にもあったし、また現代においても、自分の気に入った女性を探すために礼拝という場に来る人は、いる。

『もしその父あるいは兄弟がきて、われわれに訴えるならば、われわれは彼らに、『われわれのために彼らをゆるしてください。戦争のときにわれわれは、彼らおのおのに妻をとってやらなかったし、またあなたがたも彼らに与えなかったからです。もし与えたならば、あなたがたは罪を犯したことになるからでした』と言いましょう」。』(士師記21:22)

自分達は、もう誓ってしまった。ベニヤミン人に、自分の娘を嫁にやる事はしない、と。
しかし、意図的に嫁にやる、という形ではなく、「奪われた」という形を取るなら、自分達は誓いを破った事にはならない。
だから、その方法で行こう、という事なのだ。
それは、強引なこじつけである事には変わりない。

『ベニヤミンの人々はそのように行い、踊っている者どものうちから自分たちの数にしたがって妻を取り、それを連れて領地に帰り、町々を建てなおして、そこに住んだ。こうしてイスラエルの人々は、その時そこを去って、おのおのその部族および氏族に帰った。すなわちそこを立って、おのおのその嗣業の地に帰った。』(士師記21:23-24)
こうしてベニヤミンの血は絶えることなく、なんとか保たれた。
私達は、ここから知るべきである。
人の都合を、主の御言葉よりも優先させてしまうなら、尊ぶべき主の祭りさえも、強奪の場に変えてしまう程に、愚かで堕落した者になってしまう事を。
確かに、私達の愚かさの故に行き詰ってしまう事はあるだろう。
しかしそのような時こそ、アブラハムのように主に求め、主に信頼し、そうして主から最善のものが備えられる皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:暴走して何もかも破壊した後に残ったもの(士師記21:1-15):右クリックで保存

『かつてイスラエルの人々はミヅパで、「われわれのうちひとりもその娘をベニヤミンびとの妻として与える者があってはならない」と言って誓ったので、民はベテルに行って、そこで夕暮まで神の前に座し、声をあげて激しく泣いて、言った、「イスラエルの神、主よ、どうしてイスラエルにこのような事が起って、今日イスラエルに一つの部族が欠けるようになったのですか」。』(士師記21:1-3)

彼らは、どうしてイスラエルにこのような事が起ったのですか、と主に叫んだが、全て、自分達で引き起こした事ではなかっただろうか。

ベニヤミン族の悪行について興奮し、議論を飛ばし、彼らの罪に報復するまでは自分らは決して帰らない、と、戦いを仕掛けたのも自分達であるし、2度の敗北の末にやっと勝利した時には、当該の町以外にも攻め入り、女子供や家畜さえも虐殺し、自分の娘は、ベニヤミンには一切嫁がせない、と誓ったのも、自分達ではなかったか。
そのために、ベニヤミンは女子供は全員殺されてしまい、男たち600人ほどだけしか生き残りがなくなってしまった時に、はじめて後悔したのだ。

私達もよく、そのような過ちを犯しやすい。
怒るべき物事が起きたとき、御心を伺う事も、御言葉に聞く事さえしないで、自らを奮い立たせたり、人間同士で議論し意見を述べ合ったりして激昂し、暴走し、後に自分のしてしまった破壊の跡を見て「主よ、なぜこのような事が起きたのですか」と言ってのけるような事を。

『翌日、民は早く起きて、そこに祭壇を築き、燔祭と酬恩祭をささげた。』(士師記21:4)
この事は一見、信仰深いように見えても、実は、律法違反である。
申命記12章によると、主に捧げ物を捧げるのは、ただ主が選ばれた場所でのみ許されており、それ以外の場所に祭壇を築いていけにえを捧げる事は反逆に等しい行為である。
実際、ヨシュアの時代に、ルベン、ガド、マナセの半部族が、自前の場所に祭壇を築いた故に、全イスラエルを巻き込む戦争に発展しかねない事態にまで陥った事は、記憶に新しいはずだ。
彼らは一見、熱心に神に仕えている「つもり」でいて、実は御心にそぐわない事ばかりしているのだ。
このように、御心を外した「ひとりよがりの熱心」は、神にも人にも迷惑な害悪でしかない。

『そしてイスラエルの人々は言った、「イスラエルのすべての部族のうちで集会に上って、主のもとに行かなかった者はだれか」。これは彼らがミヅパにのぼって、主のもとに行かない者のことについて大いなる誓いを立てて、「その人は必ず殺されなければならない」と言ったからである。彼らはまた言った、「イスラエルの部族のうちで、ミヅパにのぼって主のもとに行かなかったのはどの部族か」。ところがヤベシ・ギレアデからはひとりも陣営にきて集会に臨んだ者がなかった。』(士師記21:5-8)

彼らは、今度は自分達が立てていたもう一つの誓い、すなわち、自分達と共に集まらなかった者は必ず殺されなければならない、という誓いを持ち出して、その者を探し出す事に取り掛かる。
彼らは主の御名を用いてはいるが、それは、主を敬っているからではない。
彼らは主の御旨よりも、自分達の意見を優先しており、自分の思い通りに行かせる道具として、主の御名を用いているに過ぎない。
あたかも、暴走族のリーダーが、自分の召集に集わなかった者をリンチする心情に似ているが、彼らは暴走族よりもひどいことに、町ごと殺してしまうのだ。

『そこで会衆は勇士一万二千人をかしこにつかわし、これに命じて言った、「ヤベシ・ギレアデに行って、その住民を、女、子供もろともつるぎをもって撃て。そしてこのようにしなければならない。すなわち男および男と寝た女はことごとく滅ぼさなければならない」。こうして彼らはヤベシ・ギレアデの住民のうちで四百人の若い処女を獲た。これはまだ男と寝たことがなく、男を知らない者である。彼らはこれをカナンの地にあるシロの陣営に連れてきた。』(士師記21:10-12)

彼らはつい先日、ベニヤミン族ごと虐殺してしまったのに、今度は、ヤベシ・ギレアデの住人を殺戮して、若い処女たちを奪って来てしまう。
もはやイスラエルは、兄弟同士で殺しあう事を何とも思わなくなってしまったようである。
彼らは、自分の立てた誓いの結果、不都合が生じた場合、自分が悔い改めるのではなく、その不都合分を補填するために、町ごと殺して、そこから若い処女たちを得たのだ。
彼らは自分達の立てた誓いのゆえに、イスラエルの一部族を虐殺し、一つの町を虐殺して若い処女たちを奪った。
もう、何が何やらである。

『そこで全会衆は人をつかわして、リンモンの岩におるベニヤミンの人々に平和を告げた。ベニヤミンの人々がその時、帰ってきたので、彼らはヤベシ・ギレアデの女のうちから生かしておいた女をこれに与えたが、なお足りなかった。こうして民は、主がイスラエルの部族のうちに欠陥をつくられたことのために、ベニヤミンをあわれんだ。』(士師記21:13-15)
彼らは、ベニヤミンのために女たちを得たつもりだったが、なお足りなかった。
そこで彼らはさらに、別の解決案を考案し、さらに良くない代償行為を積み重ねようとしている。

イエス様は言われた。
『また昔の人々に「いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。・・・あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。』(マタイ5:34-37)

結局、かろがろしく誓ったり、身勝手な口約束を乱発する事は、自分と他人をがんんじがらめにしてしまい、その結果色々な不都合が生じ、それを補填するために、さらに別の代償行為を乱発して、どんどんいびつな形になって行くという、負の連鎖が生まれてしまう。
だから、はいははい、いいえはいいえ、だけ言うべきで、それ以外は、悪から来るのだ。

自分の立てた誓いや、決まり事は、大勢を殺してでも尊守させ、それでいて、肝心の御言葉は実行しないというのは、パリサイ人の罠である。
『イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。・・・こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」』(マタイ15:3-9)
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:12-13)

私達は自分の頭で考案した方法を人に押し付けたり、また自分自身それによって縛られるのでなく、御心を求め、御言葉を守り行う者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:遂行されたベニヤミンに対する主の裁き(士師記20:29-48):右クリックで保存

重なる敗北の末、真剣に主の前に立とうと努力したイスラエルに、主は、勝利の約束を与えて下さった。

すぐに勝利が与えられなかった事は、実は恵みである。
もし、彼らがすぐに勝利していたとしたなら、真剣に主を呼び求める努力もせず、悔い改めも無いまま、さらに悪くなって行っただろう。

『そこでイスラエルはギベアの周囲に伏兵を置き、そしてイスラエルの人々は三日目にまたベニヤミンの人々のところに攻めのぼり、前のようにギベアに対して備えをした。』(士師記20:29-30)
伏兵と言えば、ヨシュア記を思い出す。
ヨシュアの時代も、エリコでの勝利に慢心し、主に伺いも立てずにアイの町を攻めて行った結果、敗北し、36人が打たれてしまったが、その時ヨシュアは対応が早かった。
彼はすぐにへりくだって主に伺い、自分達の中に聖絶のものがある事が示され、それを除き去った結果、すぐに主の守りが戻った。
その際、主は伏兵を用いて戦うように示され、ヨシュア達はその通りに戦って、勝利を得た。
今回の戦いでは、伏兵を置くように特に指示はされていないが、きっとイスラエルは信仰の先祖達の歴史をひもとき、彼らの信仰に倣ったのだろう。

『ベニヤミンの人々は出て、民を迎えたが、ついに町からおびき出されたので、彼らは前のように大路で民を撃ちはじめ、また野でイスラエルの人を三十人ばかり殺した。その大路は、一つはベテルに至り、一つはギベアに至るものであった。ベニヤミンの人々は言った、「彼らは初めのように、われわれの前に撃ち破られる」。しかしイスラエルの人々は言った、「われわれは逃げて、彼らを町から大路におびき出そう」。
そしてイスラエルの人々は皆その所から立ってバアル・タマルに備えをした。その間に待ち伏せていたイスラエルの人々がその所から、すなわちゲバの西から現れ出た。すなわちイスラエルの全軍のうちから精兵一万人がきて、ギベアを襲い、その戦いは激しかった。しかしベニヤミンの人々は災の自分たちに迫っているのを知らなかった。主がイスラエルの前にベニヤミンを撃ち敗られたので、イスラエルの人々は、その日ベニヤミンびと二万五千一百人を殺した。これらは皆つるぎを帯びている者であった。』(士師記20:31-35)

この戦いは、主(エホバ)が戦われた、と記されている。
主は侮られるような方ではない。いつまでも悪が罰せられないまま生き残って栄えるわけではない。
最初と、2回目の戦いでは、ベニヤミン族が勝利したが、それによって彼らがますます驕り高ぶり、その者達をいちどきに滅ぼすために、敢えて泳がされていたのだ。
『まことにあなたは彼らをなめらかな所に置き、彼らを滅びに陥らせられる。なんと彼らはまたたくまに滅ぼされ、恐れをもって全く一掃されたことであろう。』(詩篇73:18-19)

主は、ソドム以下の罪を犯すような者がいつまでも勝ち誇る事を、許されない。
その者の奢りが誰の目にも明確となり、「滅ぼされるに相応しい」というリミットに達したある時、滅びが適用されてしまうのだ。
ゆえに、悪者がますます栄えるのを見た時、その者の終わりが近づいていると思って良い。

『その時イスラエルの人々が向きを変えたので、ベニヤミンの人々は災が自分たちに迫ったのを見て、うろたえ、イスラエルの人々の前から身をめぐらして荒野の方に向かったが、戦いが彼らに追い迫り、町から出てきた者どもは、彼らを中にはさんで殺した。』(士師記20:41-42)
このようにして、主による、ベニヤミンへの正当な裁きが為された。
ソドムは、地獄の炎で焼きつくされたが、神の民と呼ばれる者の、主をも恐れぬ横暴さへのさばきは、神の民の剣と、火による。
『すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている”火の池”に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る”剣”によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。』(黙示録19:20-21)

『しかし六百人の者は身をめぐらして荒野の方、リンモンの岩まで逃げて、四か月の間リンモンの岩に住んだ。そこでイスラエルの人々はまた身をかえしてベニヤミンの人々を攻め、つるぎをもって人も獣もすべて見つけたものを撃ち殺し、また見つけたすべての町に火をかけた。』(士師記20:47)
イスラエルの民も、ベニヤミン族にも勝るとも劣らない野蛮さがある。
律法では、町ぐるみで偶像礼拝が行われていたなら、その町を聖絶し尽くすべき事は確かに記されているものの(申命記13章)、実際に罪が行われたギブアのみならず、周辺のベニヤミンの町々までも、見つけ次第、女子供や家畜さえ虐殺し、滅ぼし尽くしたのだ。
(もっとも、その律法に照らすなら、偶像礼拝はイスラエル全体ではびこっているわけであるから、イスラエルは誰も彼も、滅ぼし尽される対象となるはずだが)

兄弟姉妹が悪い事を犯した時、それを大上段に振りかざして、何をしても良いとばかりに仕返しするのは、横暴である。
当時のイスラエルは、その過度の横暴の故に、神が育まれたイスラエル12部族から、一つが欠けてしまう危機に陥った。

イスラエルは、御言葉が無い故に暴走し、自分達の罪という壁のあちこちにぶつかって、傷を受け、とても痛々しく悲しい所を通らされている。
主は、待っておられる。
彼らが自分達の罪に懲りて、主に立ち返る事を。
私達は、この士師記から戒めを得て、決して御言葉から離れる事なく、主の道を外さずに歩む者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:主に正しく向き合うまでの惨敗続き(士師記20:19-28):右クリックで保存

『そこでイスラエルの人々は、朝起きて、ギベアに対し陣を取った。すなわちイスラエルの人々はベニヤミンと戦うために出て行って、ギベアで彼らに対して戦いの備えをしたが、ベニヤミンの人々はギベアから出てきて、その日イスラエルの人々のうち二万二千人を地に撃ち倒した。しかしイスラエルの民の人々は奮いたって初めの日に備えをした所にふたたび戦いの備えをした。』(士師記20:19-22)


ベニヤミン族と、残りのイスラエル11部族との戦いの火蓋が、いよいよ切って落とされた。
ベニヤミンは数では圧倒的不利であるし、大義も彼らの側には無く、神と人との前に悔い改めも無いまま、強情にも戦いに来たのに対して、イスラエルの側は、数では既に圧倒し、神に伺いを立てた所、「ユダが先に行け」という示しまで頂いた。
兵力においても、大義においても、霊性においても、イスラエル側のほうに分がある、と思いきや、初日の戦いでイスラエルは惨敗を喫してしまう。
一体どうした事だろう。

大義はこちら側にあるはずなのに、そして主に伺って導きまで頂いたというのに惨敗し、悪が栄えてしまうような時は、疑うべきだ。
自分達はほんとうに、主の御前に正しく立っていたかどうかを。

『そしてイスラエルの人々は上って行って主の前に夕暮まで泣き、主に尋ねた、「われわれは再びわれわれの兄弟であるベニヤミンの人々と戦いを交えるべきでしょうか」。主は言われた、「攻めのぼれ」。』(士師記20:23)
彼らはここに来て、はじめて「われわれは戦いを交えるべきでしょうか」と、質問をした。そう、イスラエルは元々、そんな根本的な質問さえ、していなかったのだ。
彼らは最初、神抜きの議論熱弁に激昂し、ベニヤミンを打ち滅ぼすまでは決して引くまい、と、堅く決意した後で、取って付けたかのように主に伺いを立て「誰が最初に行くべきか」と主に伺った。
彼らは自分の意見主義主張を御心よりも優先させたために、惨敗を喫したのだ。
その結果、彼らは少しだけ、霊的にまともになった。
その日の内に、ギブアから10kmほど北へ上って、夕暮れまで御前で泣き、その上で、主に伺うようになったのだ。

『そこでイスラエルの人々は、次の日またベニヤミンの人々の所に攻めよせたが、ベニヤミンは次の日またギベアから出て、これを迎え、ふたたびイスラエルの人々のうち一万八千人を地に撃ち倒した。これらは皆つるぎを帯びている者であった。』(士師記20:24-25)
今度は、主から「攻めのぼれ」という示しがあり、戦う事が御心であると明確に分かった。
しかし、今度もまた惨敗を喫してしまった。
まだ、彼らの主に対する態度が正しくなかったのである。

これまでの戦績を見ると、イスラエルは、40万の十分の一に相当する4万人が、既に殺されてしまった。それなのに相手は全く被害が出ていない。
イスラエルは、うろたえただろう。
こうして彼らは、さらに真剣になって、主の前に立つようになった。

『これがためにイスラエルのすべての人々すなわち全軍はベテルに上って行って泣き、その所で主の前に座して、その日夕暮まで断食し、燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。そしてイスラエルの人々は主に尋ね、・・・そして言った、「われわれはなおふたたび出て、われわれの兄弟であるベニヤミンの人々と戦うべきでしょうか。あるいはやめるべきでしょうか」。主は言われた、「のぼれ。わたしはあす彼らをあなたがたの手にわたすであろう」。(士師記20:26-28)
イスラエルは今までに無かった事を行っている。
それは、主の前に「座した(ヤーシャブ:座る、住む、留まる)」事、また、断食した事、そして、全焼のいけにえと、和解のいけにえとを捧げた事だ。

彼らはまず「主の前に座した。」
以前は主の御前に低くなる事無しに、主に伺うだけ伺って、示しが与えられたならそのまま出て行ったものだが、今回は、主の前に自らを低くし、主の御前にとどまったのだ。
また「断食」をし、御旨が示されるまでは、自分の好むことを主の前で止めたのだ。
そして「全焼のいけにえと、和解のいけにえを捧げた。」すなわち、全身全霊を捧げるための捧げ物と、神と和解するための捧げ物を主に捧げた。

主は、敢えて悪人を栄えさせ、神の民を災い続きにされる事がある。
それは、神の民が御前に正しく立つべき事を教えるためであり、また、主の真実と公平が、主のすばらしき御業が、誰の目にも明らかにさるためである。
『主はモーセに仰せられた。「パロのところに行け。わたしは彼とその家臣たちを強情にした。それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行なうためであり、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」』(出エジプト記10:1-2)

士師記の時代のイスラエルは、主の御前に正しくない態度を取り続けて来たために、惨敗続きとなった。
その結果、彼らは本気で主との正しい関係を持とうと努力するようになった。
そして彼らは、自ら高慢を捨て、自分の好む事を捨て去って、一心に主に求めるようになり、そして、主の前に犠牲を捧げた。
そうしてようやく、主から「わたしはあす彼らをあなたがたの手にわたすであろう」と、勝利の約束をいただけたのだ。

もし、こちら側に正義がある筈なのに、また、主に伺いを立てているつもりなのに、惨敗続きで、悪がただ栄えているとしたならば、まず、主との関係を吟味する必要がある。
主の前に高慢になっていなかったかどうか。
主に伺う事よりも、自分の好む事を優先して行っていなかったかどうか。
そして、主に捧げ物をする事を怠ってはいなかったか。
また、悔い改めるべきを、悔い改めず、主と和解していない状態のままではなかったか。

『そのころ神の契約の箱はそこにあって、アロンの子エレアザルの子であるピネハスが、それに仕えていた』(20:27-28)
ピネハスと言えば、イスラエルが荒野で40年さまよい歩いていた終盤の時期、イスラエルの中で不品行が生じた時に、主の怒りを自分の怒りとし、みだらな事をしていた男女を、槍で一刺しに貫き、神の怒りをなだめた、あの祭司である。(民数記25章)
彼は御前に忠実で、罪に対して決して妥協しなかったからこそ、いのちが祝福され、出エジプト記から士師記の時代に至るまで主の前に仕えていたのだ。
『「祭司アロンの子なるエレアザルの子ピネハスは自分のことのように、わたしの憤激をイスラエルの人々のうちに表わし、わたしの怒りをそのうちから取り去ったので、わたしは憤激して、イスラエルの人々を滅ぼすことをしなかった。このゆえにあなたは言いなさい、『わたしは平和の契約を彼に授ける。これは彼とその後の子孫に永遠の祭司職の契約となるであろう。彼はその神のために熱心であって、イスラエルの人々のために罪のあがないをしたからである』と」。』(民数記25:11-13)

彼がまだ主の御前につかえていた、という事は、これら一連の忌まわしい事件は、ヨシュアの死後、さほど経っていない時期に起きた事になる。
中々信じがたい事かもしれないが、いかに信仰者の子であっても、性的・モラル的に堕落してしまうのは、あっという間に起こりうるという事も、忘れてはならない。
だからこそモーセは、申命記で口を酸っぱくして命じたのだ。
生まれてきた子には律法を朗読し、守り行わせ、しっかり信仰を継承すべき事を。
私達もいつも霊的に目を覚まし、信仰が途絶えてしまわないように、気をつけていなくてはならない。

礼拝説教メッセージ音声:ベニヤミン族との決裂(士師記20:12-18):右クリックで保存

『イスラエルのもろもろの部族は人々をあまねくベニヤミンの部族のうちにつかわして言わせた、「あなたがたのうちに起ったこの事は、なんたる悪事でしょうか。それで今ギベアにいるあの悪い人々をわたしなさい。われわれは彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去りましょう。』(士師記20:12-13)

全イスラエルは、かの邪悪な事をしたベニヤミンの者達に報復しようと共に集ったが、いきなり戦いを仕掛ける事はせず、まずは話し合いで解決しようと、使者を遣わした。

主にある兄弟姉妹が、何か罪を犯したという事であるなら、いきなり制裁を加えたり、除名したりするのではなく、まずは事実関係を正確に知り、二人また三人で忠告するべき事が主から命じられている。(マタイ18:17-20)
二人でも三人でも、主の名の元に集まるなら、そこには主がおられ、彼らが地上で心を合わせて祈るなら、それは天においても繋がれ、あるいは解かれたりするという権威を、主は、教会にお与えになった。
私達教会は、その偉大な権威を正しく行使しなくてはならない。

『イスラエルのもろもろの部族は人々をあまねくベニヤミンの部族のうちにつかわして言わせた、「あなたがたのうちに起ったこの事は、なんたる悪事でしょうか。それで今ギベアにいるあの悪い人々をわたしなさい。われわれは彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去りましょう」。しかしベニヤミンの人々はその兄弟であるイスラエルの人々の言葉を聞きいれなかった。
かえってベニヤミンの人々は町々からギベアに集まり、出てイスラエルの人々と戦おうとした。その日、町々から集まったベニヤミンの人々はつるぎを帯びている者二万六千人あり、ほかにギベアの住民で集まった精兵が七百人あった。このすべての民のうちに左ききの精兵が七百人あって、いずれも一本の毛すじをねらって石を投げても、はずれることがなかった。イスラエルの人々の集まった者はベニヤミンを除いて、つるぎを帯びている者四十万人あり、いずれも軍人であった。』(士師記20:12-17)

ベニヤミン族は、ソドム以下の蛮行に及んだ者が、自部族の中から出てしまったというのに、それを自分達の中から除き去ろうとはせず、かえって、彼等をかばう行動に出て、徹底抗戦の構えを見せた。
他のイスラエル全体を敵に回して戦うには、数としては圧倒的不利だというのに、それでも彼等は心頑なになってしまった。
もはや意地の張り合いになってしまったのかもしれないが、いずれにせよ彼らは、自分達はソドム以下の蛮行をする者であっても命がけで守り、彼らの行動に同意します、と、公に表明してしまったようなものだ。
主は侮られるようなお方ではない。その報いは、非常に高くついてしまう。

『イスラエルの人々は立ちあがってベテルにのぼり、神に尋ねた、「われわれのうち、いずれがさきにのぼって、ベニヤミンの人々と戦いましょうか」。主は言われた、「ユダがさきに」。』(士師記20:18)
ここに来て、イスラエル側は主に伺いを立てている。
主に伺う事は「良い事」であるのに変わりはないが、問題なのは、そのタイミングである。
彼らは、自分達が何をするかを既に決定してしまった後で、後付けのように主に伺いを立てており、自分達の意志のほうが主の御心よりも優先させてしまっている。
普段は主に伺う事をせず、自分で何もかも計画し、立案し、決定してから、取ってつけたかのように主に祈る人は多いが、そのような人は、やがて大失敗するものだ。

ヨシュアは、強敵エリコを攻略する前は、主の軍の将から必勝法を伝授してもらった。
その内容は、人の知恵では実に愚かに見えるものだったのに、それでも彼らが御言葉に従順したら、あっさりと勝利できた。
しかし、その後のアイの攻略の時は、主に伺う事をしなかった。
彼らはその時、決して戦ってはならない状態、すなわち、聖絶のものを抱え持った状態であるのに、それに気づかず、人間の見た目や判断に従って戦いに出て行ってしまったため、惨敗してしまった。
そこでヨシュアは、すぐに主に伺いを立てた所、自分達の中に聖絶のものがある事を示され、それを取り除いた時、再び勝利できる状態に戻った。
私達も、主に伺う事をせしないで、自分達の「良かれ」で進んでいってしまうと、災いをもたらしてしまう事になる。

この後、イスラエルは散々な目に遭う事になる。
しかしそれは、彼らが真に主に立ち返るための主の懲らしめであり、訓練なのだ。
主に打ち叩かれて強制的に修正されるのではなく、細書から主の御旨を求め、御言葉から外れて災いの道へと遠回りする事なく、安全に主の道を歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:内戦へと突き進む高揚した集団心理(士師記20:1-11):右クリックで保存

前回の個所は、聖書の内容とはとても思えないほどの凶行が行われたが、その事がきっかけで、士師記時代の中では、かつて無かった事が始まる。

『そこでイスラエルの人々は、ダンからベエルシバまで、またギレアデの地からもみな出てきて、その会衆はひとりのようにミヅパで主のもとに集まった。』(士師記20:1)
ダンからベエルシバまで、とは、イスラエルの最北端から最南端まで、すなわち、イスラエルの全地域をあらわす言葉である。
それまでの士師記の時代は、全体を一つにまとめる王が無く、それぞれが良いと思う事を行い、てんでバラバラに動いていたため、イスラエルはまとまりが無く、霊的にも軍事的にも全く力を失ってしまい、モラルも地に堕ちて、ソドムよりも非道い堕落へと陥ってしまった。
ところが、この、最低最悪の出来事がきっかけとなり、全地域から「主のもとに」「ひとりの人のように」集まって、この問題を真剣に取り組もうという機運が起きた。

『民の首領たち、すなわちイスラエルのすべての部族の首領たちは、みずから神の民の集合に出た。つるぎを帯びている歩兵が四十万人あった。』(士師記20:2)
剣を帯びている男達が40万。この集団の故に、一日だけで、かなりの食料や物資、人員が、この近辺で動いただろう。
ミツパは一気にものものしい雰囲気となり、ベニヤミン族にも、その事が耳に入った。

『イスラエルの人々は言った、「どうして、この悪事が起ったのか、われわれに話してください」。』(士師記20:3)
集まった人々に促されて、レビ人は話し出すのだが、自分に都合の悪い事は伏せ、相手に対しては都合悪く言う。
『殺された女の夫であるレビびとは答えて言った、「わたしは、めかけと一緒にベニヤミンに属するギベアへ行って宿りましたが、ギベアの人々は立ってわたしを攻め、夜の間に、わたしのおる家を取り囲んで、わたしを殺そうと企て、ついにわたしのめかけをはずかしめて、死なせました。それでわたしはめかけを捕えて断ち切り、それをイスラエルの嗣業のすべての地方にあまねく送りました。彼らがイスラエルにおいて憎むべきみだらなことを行ったからです。』(士師記20:4-6)
ベニヤミン族はもともと、彼を殺そうと企てたというより、性的に暴行しようとしたのであり、彼は自分がレイプされるのを避けるために、彼のめかけを彼らに突き放した事が、抜け落ちている。
それで彼女は朝まで暴行され、彼は彼女の死体をバラバラにし、それを全地に送って、これからどうするかを、全イスラエルに促したのである。

『イスラエルの人々よ、あなたがたは皆自分の意見と考えをここに述べてください。』(士師記20:7)
何か事件が起きた時は、本来、レビ人の祭司が、律法に基づいて主の道にそったさばきをすべきであり(申命記17:8)、律法から神の喜ばれる事・忌み嫌われる事の何たるかを、民に教えるのがレビ人務めであるのだが(申命記33:8-11)、彼は律法を持ち出す事も無く、主の御旨を示す事も無く、ただ、人の意見と考えを扇情的に求めている。
そうして人々は、神も律法も抜きにした、直情的な意見を叫び出す。

『民は皆ひとりのように立って言った、「われわれはだれも自分の天幕に行きません。まただれも自分の家に帰りません。われわれが今ギベアに対してしようとする事はこれです。われわれはくじを引いて、ギベアに攻めのぼりましょう。すなわちイスラエルのすべての部族から百人について十人、千人について百人、万人について千人を選んで、民の糧食をとらせ、民はベニヤミンのギベアに行って、ベニヤミンびとがイスラエルにおいておこなったすべてのみだらな事に対して、報復しましょう」。』(士師記20:8-10)
40万の群衆が、剣をかかげ、みだらな者達を討伐するぞ!と、気勢をあげて叫んでいる。そのただ中にいたなら、自分たちは官軍として、何でもやれる気になって奮い立っただろう。
しかし、まことの神の御心を除外し、自らを奮い立たせる事は、日本の戦前の軍国主義と同様、破壊欲や占有欲を正当化させる狂言に過ぎず、かのベニヤミン族と、なんら変わる所は無い。

『こうしてイスラエルの人々は皆集まり、一致結束して町を攻めようとした。』(士師記20:11)
このようにして、イスラエルは、国を上げての内戦状態へと進んで行く。
イスラエルはこれより、痛い所を通らされるが、主は、その向こう側を見ておられる。

礼拝説教メッセージ音声:ソドム以下に成り下がってしまったイスラエル(士師記19:22-30):右クリックで保存

かのレビ人達は、宿が与えられ、ほっと一息ついたのもつかの間、とんでもない事に陥る。
『彼らが楽しく過ごしていた時、町の人々の悪い者どもがその家を取り囲み、戸を打ちたたいて、家のあるじである老人に言った、「あなたの家にきた人を出しなさい。われわれはその者を知るであろう」。』(士師記19:22)
「知る」とは、性的関係を結ぶ、という事である。
そう、この町の男達は、旅客として訪れたレビ人の男性と、性行為がしたいために、暴力的に取り囲んでいるのだ。
もう、旅人をもてなすとか、神の奉仕者・レビ人を大事にするとかいったレベルの事ではなく、相手が旅人であろうが、レビ人であろうが、同性であろうが、とにかくただ性的に犯したいという、獣以下の本能で動いているのだ。
ここに、ソドムやゴモラと全く同じ事が、展開されている。
ソドムといえば、創世記19章で記されている通り、生きたまま地獄の炎が降ってきて神に直接裁かれた、不品行の象徴のような罪深い町であるが、それと全く同じ状況が、神の民イスラエルの中で起きてしまっている。

『しかし家のあるじは彼らのところに出ていって言った、「いいえ、兄弟たちよ、どうぞ、そんな悪いことをしないでください。この人はすでにわたしの家にはいったのだから、そんなつまらない事をしないでください。ここに処女であるわたしの娘と、この人のめかけがいます。今それを出しますから、それをはずかしめ、あなたがたの好きなようにしなさい。しかしこの人にはそのようなつまらない事をしないでください」。』(士師記19:23-24)
この町の者達の要求も、この老人の対応も、創世記19章で記されているロトとソドムの住人の対応に似てはいるが、違う点がいくつかある。

ロトの時は、客人を守るために、処女である自分の二人の娘を渡そうともちかけたが、今回この老人は、自分の娘だけでなく、客人のめかけも差し出そうと提案している。
それだけでも非道い話だが、レビ人は自分の身を守ろうと、次の事をする。
『しかし人々が聞きいれなかったので、その人は自分のめかけをとって彼らのところに出した。彼らはその女を犯して朝まで終夜はずかしめ、日ののぼるころになって放し帰らせた。朝になって女は自分の主人を宿してくれた人の家の戸口にきて倒れ伏し、夜のあけるまでに及んだ。』(士師記19:25-26)
ここでロトの時と決定的に違う事は、ロトの時は御使いによって助けられたが、今回は、助けはどこにも無く、レビ人は無情にも自分のめかけを暴漢どもへ投げやり、暴漢どもは彼女を朝になるまで好き放題に暴行した。

ロトは、信仰者アブラハムによって執り成し祈られていが、この時代、執り成し祈る者は誰もいなかった。
普通のストーリーなら、こういうピンチの時はヒーローが現れて必ず救ってくれる事を期待するが、御言葉を守る事も、執り成しの祈りも無い時代には、残念ながら救いのヒーローは現れず、ただ蹂躙され、やられてしまうだけなのだ。

もう一つ、ロトの時と違う事といえば、ソドムは天から火が降って来て裁かれたが、イスラエルはすぐには裁かれない事だ。
人は思う。なぜこのような事が神の民の中で起こるのか、と。
なぜこうなるまで、主は放って置かれたのかと。

逆に見れば、主は、そこまで神の民を”特別扱い”されているのだ。
主は、ソドムの罪悪がある点まで達した時、天から火を降し、滅ぼした。しかし、神の民イスラエルについては、特別扱いされる。
主は彼らが義に立ち返ることを願い、悔い改めるまで待たれ、さばきを先々まで先伸ばしにされるのだ。
しかし、人々は、その主の憐れみを悪用し、いつまでも赦されると思って、さらに悪をし放題してしまった。
神は侮られるようなお方ではない。必ず自分のした事の報いはその身に受ける事になる。

『彼女の主人は朝起きて家の戸を開き、出て旅立とうとすると、そのめかけである女が家の戸口に、手を敷居にかけて倒れていた。彼は女に向かって、「起きよ、行こう」と言ったけれども、なんの答もなかった。そこでその人は女をろばに乗せ、立って自分の家におもむいたが、その家に着いたとき、刀を執り、めかけを捕えて、そのからだを十二切れに断ち切り、それをイスラエルの全領域にあまねく送った。』(士師記19:27-29)
彼女を襲った暴漢も非道いが、このレビ人も、そうとう非道い。
レビ人は、彼女を暴漢どもにつきだしておきながら、彼女が襲われている間、彼自身はそのまま安全な所で睡眠したのだ。
そして起きあがると、彼女をその町に残したまま、自分だけ、旅立つつもりでいたのだ。
彼が旅立とうとして、扉を開けると、そこに彼女が倒れていたのを見たが、安否を気遣う事もなく、そのまま「起きよ、行こう」と言う。
ここまで見ると、このレビ人が彼女をわざわざ父の家に迎えに行ったのは、彼女の人格を愛していたからではなく、性的な快楽の”道具”として有用だったから取り戻しに行っただけだったのかもしれない。

そして、動かなくなった彼女を家に持ち帰ると、なんとその死体をバラバラに解体して、それぞれの部位を、イスラエル各地に送ったのだ。
少しでも共に過ごした女性の死体を、自分の手でバラバラに解体して、各地に送りつける。
現在日本も、死体をバラバラにしてしまう事件を聞く事には、ある程度の耐性がついてしまっているくらいに、異様な時代ではあるが、神に仕えるはずのレビ人がそのようにするというのは、深刻なまでに異常な事態である。
レビ人は、神の専任の働き人として身を清く保ち、汚れた行いからはほど遠い存在であるはずなのに、そのレビ人が率先して堕落し、汚れに身を投じてしまっている。
これら一連の状況を見るに、ソドムやゴモラのほうが、まだましに思えて来てしまう。

『それを見たものはみな言った、「イスラエルの人々がエジプトの地から上ってきた日から今日まで、このような事は起ったこともなく、また見たこともない。この事をよく考え、協議して言うことを決めよ」。』(士師記19:30)
この事によって、悔い改めの祈りが沸き起こったとか、神に立ち返ろうという運動が起こったとかは一切無く、「この事をよく考え、協議して言うことを決めよ」と、神抜きに言っている点が、いかにも士師記らしい。
しかし少なくとも、神の国と言われるイスラエルにおいて、このような事が起こった事については、イスラエル中に衝撃が巻き起こった。
堕落の究極の象徴とも言えるソドムよりも、さらに非道い状況へと落ちいってしまった事に対して、問題意識が本気に芽生えて来たのだ。
大きな前進とも言えるが、やはり、神に立ち返る事なく、互いや自分の意見や考えによって解決しようとしている内は、問題の解決は決して無い。
事態はもっと混乱していくばかりである。

今回の箇所は、聖書の中でも、トップレベルと言える程に非道い内容が記されている。
なぜこのような事が、聖書に記されているのか。
それは、神の民といえども、御言葉から離れて好き勝手を続けるなら、ソドムよりも非道いモラル低下へと陥る可能性が、十分にあると、私達は決して忘れてはならないからだ。

執り成しの祈りが無い所に、御言葉の戒めが無い所には、救いは無く、それを続けるなら、神の民といえどソドム以下になってしまうのだ。
私達はこの個所から戒めを受け、いつも主を意識する事を怠らず、霊的に目を覚まし、アブラハムのようにこの時代を執り成して祈り、神の裁きからこの時代を救う者でありますように!

礼拝説教メッセージ音声:寄留者によってもてなされた寄留者(士師記19:16-21):右クリックで保存

レビ人の旅人は、近くにある異邦人の町に滞在する事を避け、わざわざ遠くのギブアまで来たというのに、あいにく、彼らをもてなそうとする人は誰もいなかった。
ようやく彼らに声をかけたのは、この町の者ではなかった。
『時にひとりの老人が夕暮に畑の仕事から帰ってきた。この人はエフライムの山地の者で、ギベアに寄留していたのである。ただしこの所の人々はベニヤミンびとであった。彼は目をあげて、町の広場に旅人のおるのを見た。老人は言った、「あなたはどこへ行かれるのですか。どこからおいでになりましたか」。』(士師記19:16-17)
律法では、同族の人が困っている時には助けてやるべきことが命じられているのに、ベニヤミン族はそれをしなかった。
旅人をもてなす事は、パレスチナでは、何も律法を持っていない民であっても、当然のごとく行う事であり、それをしない事は品格を疑われるものであった
つまり彼らは、神の国の美徳どころか、世の美徳も全くもって意に介さなかったようである。
御言葉なしに生きていると、世の人よりも、モラルが低下してしまうのだ。

『その人は言った、「われわれはユダのベツレヘムから、エフライムの山地の奥へ行くものです。わたしはあそこの者で、ユダのベツレヘムへ行き、今わたしの家(原文:主(エホバ)の家に帰るところですが、だれもわたしを家に泊めてくれる者がありません。』(士師記19:16-18)
主(エホバ)の家は当時、エフライム山地の近くのシロにあった。
彼らはもしかしたら、自分の家に帰る途中、シロに寄ろうとしていたのかもしれない。

『われわれには、ろばのわらも飼葉もあり、またわたしと、はしためと、しもべと共にいる若者との食物も酒もあって、何も欠けているものはありません」。老人は言った、「安心しなさい。あなたの必要なものはなんでも備えましょう。ただ広場で夜を過ごしてはなりません」。そして彼を家に連れていって、ろばに飼葉を与えた。彼らは足を洗って飲み食いした。』(士師記19:19-21)
彼らは、主に仕えるレビ人であり、また、彼ら自身が食料や飼料も持っていたため、宿を貸すだけでも十分だったのに、誰もそれをしなかった。
しかし彼らは、寄留の人の家に寄留する形で、ようやく一息つくことが出来た。

この地上においては、私達は旅人であり、寄留者である。
神の国であるべき場が神の品性を捨てる時、神の国の中では”寄留者”と呼ばれるような人こそ、神の人をもてなすようである。

主イエス様は言っている。
『そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。」
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか。」すると、王は答えて言うであろう、「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」』(マタイ25:34-40)

主は全てを見ておられる。
世が創造される以前から用意されている御国(マタイ25:34)を受け継ぐ事ができるのは、主にある兄弟姉妹をよくもてなす人、小さな事に忠実な人である。

王となられた主から誉められた人達は、自分がそれをしたのに、それを覚えていない程「当然に」その行動を行っており、また、永遠の呪いに定められる人も、自分たちがいつ主を軽んじたのかを知らないほど「当然に」その行動を行っている。
この、主に喜ばれる事を、当然のごとくに、無意識のうちにしてしまう性質は、主を意識し、天の御国を意識して過ごす日々の積み重ねによって、培われる。
私達は、いつもどこでも主がおられる事を意識し、無意識に主を喜ばせる特性を日々積み上げたい。

礼拝説教メッセージ音声:姦淫の裏切り女を引き戻すレビ人(士師記19:1-15):右クリックで保存

前章までの所では、イスラエルではいかに偶像礼拝が蔓延しているかを見た。

しかしこの19章以降、イスラエルの堕落はもっと深刻な事態になっている様を見る事になる。

『そのころ、イスラエルに王がなかった』(士師記19:1a)
イスラエルは本来、神である主こそが唯一の王であるはずなのに、そうではなく、ある者はあの神を、別の者はこの神を、別の者はあの人この人を、それぞれ好き勝手に王としている時代であった。

『エフライムの山地の奥にひとりのレビびとが寄留していた。彼はユダのベツレヘムからひとりの女を迎えて、めかけとしていたが、そのめかけは怒って、彼のところを去り、ユダのベツレヘムの父の家に帰って、そこに四か月ばかり過ごした。』(士師記19:1b-2)
前回は、ベツレヘム出身のレビ人が、エフライム山地のミカの家に行った。
今回は、エフライム山地のレビ人が、ベツレヘム出身の女性を「めかけ」としてめとっている。
ルツ記を見ても、ベツレヘム出身のエリメレク一家がモアブへと出て行ったように、このベツレヘムという地からは、出て行く人は多かったかもしれないが、この地はダビデ王の故郷であり、イエス・キリストの生まれた場所でもある。
ベツレヘム(パンの家)という地は、そこに留まる信仰者は、幸いを受けるが、そこから出て行く人には碌な事が起こらない。
このレビ人の「めかけ」の女性も同じである。

彼女は「怒って」彼のところを去ったとあるが、「怒る」と訳された後のヘブライ語「ザーナー」は、「姦淫を犯す」という意味である。
KJVでは、「his concubine played the whore against him」と記されており、明確に、彼女が姦淫を犯したためにこのレビ人の所を去ったと記されている。
律法に照らすなら、夫のある身でありながら姦淫の罪を犯した女は死刑であり(レビ記20:10)、もしこのレビ人が祭司であるなら、女は火で焼かれなければならない。(レビ記21:9)
しかしこのレビ人は、彼女を平和の内に連れ戻そうとした。

これを読む時、預言者ホセアを思い出す。
主はホセアに「姦淫の女をめとれ」と命じ、そして彼はその通りに実行したのだが、その女は夫に子を産んで愛されていながら、姦淫するために出て行ってしまった。
そこで主は、彼女を呼び戻せ、と言われる。
『主はわたしに言われた、「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。そこでわたしは銀十五シケルと大麦一ホメル半とをもって彼女を買い取った。わたしは彼女に言った、「あなたは長くわたしの所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。わたしもまた、あなたにそうしよう」と。』(ホセア3:1-3)

本来なら死刑のはずの、姦淫の裏切り女にやさしく声をかけ、銀で買い戻し、「もう他の所に行くな、いつまでもわたしの所にとどまれ」と言う。
それはまさしく、イエス様と私達の関係と同じではなかろうか。
かのレビ人も、ねんごろに裏切り女に声をかけ、よりを戻そうとした。しかし残念ながら、このレビ人は、彼女を命がけで守ろうという気概は、さらさら無かった。(後述)
それに引き換え、私達の主イエス様は、平気で裏切った私達のために命を投げ出し、私達が受けるべき罪の刑罰を身代わりに受けくださり、そしてねんごろに声をかけ、主の元へと引き寄せて下さった。

『そこで夫は彼女をなだめて連れ帰ろうと、しもべと二頭のろばを従え、立って彼女のあとを追って行った。彼が女の父の家に着いた時、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた。娘の父であるしゅうとが引き留めたので、彼は三日共におり、みな飲み食いしてそこに宿った。四日目に彼らは朝はやく起き、彼が立ち去ろうとしたので、娘の父は婿に言った、「少し食事をして元気をつけ、それから出かけなさい」。』(士師記19:3-5)
彼女の父はこのレビ人によほど好意を寄せたのだろう、何日も彼を引き止めて歓待した。
創世記でも学んだように、パレスチナ地方では、旅人を篤くもてなす事が美徳とされている。

しかし、何日も歓待が続くので、彼らは、実に悪いタイミングで出立してしまう。
『その人がついにめかけおよびしもべと共に去ろうとして立ちあがったとき、娘の父であるしゅうとは彼に言った、「日も暮れようとしている。どうぞもう一晩泊まりなさい。日は傾いた。ここに宿って楽しく過ごしなさい。そしてあしたの朝はやく起きて出立し、家に帰りなさい」。しかし、その人は泊まることを好まないので、立って去り、エブスすなわちエルサレムの向かいに着いた。くらをおいた二頭のろばと彼のめかけも一緒であった。』(士師記19:9-10)
あまりにずるずると引き止めてしまう事も、引き止められてしまう事も、共に良くない。
アブラハムのしもべは、わずか1日歓待を受けただけで、翌日に早速出立したが(創世記24章)、それはやはり賢かったのだ。

『彼らがエブスに近づいたとき、日はすでに没したので、しもべは主人に言った、「さあ、われわれは道を転じてエブスびとのこの町にはいって、そこに宿りましょう」。主人は彼に言った、「われわれは道を転じて、イスラエルの人々の町でない外国人の町に、はいってはならない。ギベアまで行こう」。
『彼はまたしもべに言った、「さあ、われわれはギベアかラマか、そのうちの一つに着いてそこに宿ろう」。彼らは進んで行ったが、ベニヤミンに属するギベアの近くで日が暮れたので、ギベアへ行って宿ろうと、そこに道を転じ、町にはいって、その広場に座した。だれも彼らを家に迎えて泊めてくれる者がなかったからである。』(士師記19:11-15)

ギベアはベニヤミン族の領地であり、イスラエルの初代王・サウル王の故郷であるが、どうも様子がおかしい事に、この町の住人は誰一人として、家に迎えようとはしない。
不信仰の異邦人の町に留まるよりは、イスラエル人の町に留まる、という判断は正しいはずなのに、実は、この判断は、後に災いの元となってしまう。
人から御言葉から離れ、おのおの、自分のよかれで動くような時代は、何が安全で確実であるのかも、分からない時代になってしまうのだ。

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